日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:鳥羽伏見の戦い

1867年10月14日、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。
大政奉還です。
これにより、およそ260年続いた江戸幕府が終焉・・・
その後、新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで激突!!
朝敵とされた慶喜は、謹慎の身となります。
遠くフランスでこの報せを聞いた男がいました。
後に銀行や鉄道会社など様々な企業の設立の携わる日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一です。
渋沢にとって慶喜は、一橋家当主の頃から仕えてきた主君でした。
水戸徳川家に生まれ、最後の将軍として激動の人生を送ってきた慶喜は、その第二の人生をどう過ごしたのでしょうか?

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政治についての発言をしなかった慶喜が、自宅に招き入れ、やがて自らの人生を語った人物が・・・渋沢栄一です。
渋沢は、慶喜が最も信頼した人物であり、明治維新以降の慶喜の最大の理解者でした。

江戸が東京に変わり、明治へと改元された2か月後の1868年11月。
将軍慶喜の名代としてパリ万国博博覧会に派遣され、そのまま留学していた慶喜の弟・徳川昭武とこれに随行していた渋沢栄一たちが、ヨーロッパ各国を歴訪後帰国しました。
しかし、日本は混乱の中・・・
いまだ、新政府軍と旧幕府軍との内戦が、東北地方を中心に続いていました。
渋沢がすぐさま向かったのが駿府・・・主君であった徳川慶喜がいたからです。

恭順の意を示し、水戸で謹慎していた慶喜は、1868年7月、50人ほどの従者を連れて、駿府にある徳川家の菩提寺・宝台院にうつっていたのです。
その暮らしぶりに渋沢は驚きます。
6畳ほどの薄暗い部屋で・・・座布団も引かずにひどく汚れた畳の上にじかにお座りに・・・
将軍時代とは雲泥の差でした。
大政奉還後、官位を剥奪され、徳川宗家の所領は、かつての1/10ほどの駿河府中藩(のちの静岡藩)の70万石
に削られ、一大名に格下げ・・・
当主は、田安徳川家から養子に入った6歳の家達でした。
慶喜は、その家族の一員・・・養父として宗家の席に置かれることとなり、家達の家禄の中から分けてもらったお金で暮らしていました。

慶喜が、渋沢に対してこの時大政奉還をはじめとした政治的発言を拒んだ理由は・・・??
戊辰戦争のさ中、慶喜の動向次第で事態が大きく変わると考えた新政府側が、慶喜を監視していました。
自らを律し、質素な生活に身を置く慶喜。。。
そんな慶喜をそばで支えたいと、家族を連れて駿府に移り住んだ渋沢。
そして、フランスで学んだ経営学を活かし、日本初の株式会社「商法会所」を設立。
駿河府中藩の財政を任されるとともに、徳川家の金銭面のやりくりに奔走するのです。

1869年9月・・・慶喜の謹慎が突然解かれます。
そこには、新政府の思惑がありました。
1869年5月、箱館五稜郭に立てこもっていた榎本武揚率いる旧幕府軍がついに降伏・・・戊辰戦争がようやく終結します。
こうして内戦を終わらせた新政府軍でしたが、新たな問題が浮上します。
全国での政治、外国との交渉・・・新しい政府を支えるだけの人材が圧倒的に不足していました。
旧幕臣たちは、主君である慶喜への忠誠心がまだあったのです。
行政を円滑に進めるため、旧幕府側の実務に長けた人物を取り込みたいと考えていた新政府は、彼らのかつての主君である慶喜を蔑ろにしたままでは協力を得られないと考え、慶喜の謹慎を解いたのです。
この時、新政府が欲した旧幕府側の有望な人材の一人が、経済に通じていた渋沢栄一でした。

「慶喜公に対して、朝廷の政府に仕官することは、二君に仕える要で心苦しい限りでした」

しかし、渋沢が新政府への出仕を断わると、慶喜が有能な人材を隠匿していると疑われると説得されたため、民部省租税正として新政府に加わることに・・・。
一方、謹慎が解かれた慶喜は、江戸時代に代官が暮らしていた屋敷にうつり、東京から呼び寄せた正室・美賀子と、2人の側室と共に暮らし始めました。
その後、2人の側室との間に10男11女が授かりますが、慶喜の子育ては独特でした。

庶民の家に里子に出しました。
それは、里子に出す方が元気に育つと思ったからです。
どんな環境に置かれても逞しく育ってほしい・・・激動の半生から得た教訓でした。
こうして謹慎が解けた慶喜は、代わらず政治的な言動は避け、基本的には静岡でひっそりと暮らすのです。

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そんな中、新しい時代の波が慶喜に・・・
1871年7月、これまでの藩を廃止し、新たに県を置く廃藩置県が強行されたのです。
県知事という新たな役職には、新政府から役人が派遣されることとなり、静岡藩を治めていた家達は、華族の地位と家禄を保障され、東京に住むこととなったのです。

静岡に残された慶喜の生活費は、徳川宗家・家達からの送金によって賄われました。
ただし、毎月決まって送金されたわけではなく、数カ月おきに2千円(現在の価値・4千万円)ほどが為替で送金されたといいます。
それでも相当数の従者を抱えていた慶喜家の家計は逼迫・・・これを助けたのが渋沢でした。
慶喜の持ち金を、株に投資して増やすなどしたといいます。

1872年、慶喜は従四位に叙されました。
名誉を回復しつつあった慶喜・・・
1880年、将軍時代と同じ正二位に、さらに東京徳川宗家からの送金も、毎月千円と増え、暮らしも安定していきます。
そんな中、慶喜は周囲の者たちから東京にのぼり帝に叙位のお礼に参られてはいかがか・・・と進言されます。
しかし、慶喜は
「朝敵となった私が、帝にお目にかかるなど恐れ多いこと」
そう言って、明治天皇との謁見をかたくなに拒み、静岡でひっそりと暮らし続けるのです。

そして、見つけた生きる道が・・・趣味人。
最初に没頭したのが油絵です。
西洋の絵葉書を見ながら、風景画を描いていたといいます。
その後、釣りや弓術、狩猟など、慶喜の趣味は多岐にわたりました。
好奇心が強く、新しいものに目がなかった慶喜は、当時1台300円もする自転車をわざわざ東京から取り寄せ、運動のためにと市中を走っていたとか・・・。
その姿を見た人々は、慶喜を”けいきさま”とよんで親しんだといいます。
どうして慶喜は趣味に生きる道を選んだのでしょうか??
ひとつは、趣味に没頭している方が新政府からあらぬ疑いをかけられない・・・
もうひとつは、助かった命・・・趣味に没頭できる今の状況をありがたいと実感していたのです。

命あることの喜びをかみしめながら、趣味に没頭していった慶喜・・・
将軍時代に味わうことのなかった平穏な日々が過ぎていき・・・49歳になった慶喜に、更なる嬉しい知らせが届きます。
将軍時代より上の従一位に叙せられたのです。
しかし、名誉回復が実現していく中で、度重なる不幸にも見舞われました。
1893年1月26日、母・吉子重篤・・・慶喜は、急いで上京するも、間に合いませんでした。
9月には長女鏡子が20歳の若さでこの世を去り、翌年には妻・美賀子が帰らぬ人となりました。

ビリヤード、蓄音機、珈琲・・・

家族を失った悲しみを癒してくれた趣味の中で、慶喜が最ものめりこんだのが写真でした。
慶喜は、旧幕臣で写真師だった徳田孝吉を自宅に呼び、本格的な撮影技術を学ぶのです。
当時、まだフィルムはなく、板ガラスを取りつけ30分以内に撮影・・・現像処理も30分以内に行わなければならず、度々失敗していたとか・・・
しかし、自ら薬品を買ってきて配合し、現像するほど熱中しました。

「難しいからやめられないのだ」

写真三昧の生活を送る慶喜・・・

その様子を見ていた渋沢は後にこう語っています。

「写真を研究しては、徹夜されることもしばしばで、にわかに上達され、静岡の風光明媚な場所はおおむね慶喜公のレンズに収められました。
人物の撮影も深く極められ、取られた写真を良く一族の方に分け与えておられました。
慶喜が残した写真からは、穏やかさと優しさが伝わってきます。

東京・北区にある渋沢資料館・・・ここに、渋沢栄一が25年もの歳月をかけ作り上げたものが保管されています。
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が日本のために果たした役割を克明に記した「徳川慶喜公伝」です。
渋沢は、常々こう言っていました。

「徳川慶喜公の御伝記の完全なものを、私が終生の事業として作り上げたい
 この御伝記編纂が、私に対する天の使命である」

その強い思いには理由がありました。

幕末、武蔵国の血洗村(現・深谷市)の豪農の家に生まれた渋沢は、当時の血気盛んな若者同様に尊王攘夷思想に傾倒。
江戸に出ると、幕府の腐敗をどうにかせねばという思いを強くし、1863年討幕のクーデターを企てる者の失敗。
幕府に追われることを恐れ、京都に逃げます。
そこで、縁あって渋沢を武士として救ってくれたのが当時、御所を警護する禁裏御守衛総督の慶喜でした。
その時のことを晩年こう振り返っています。

一橋徳川家の仕官したことで、私は命拾いしました
危うかった自分を救ってくれた慶喜公に対し、どうして強い恩義を感じずにいられますでしょうか

慶喜への恩を少しでも返したい・・・そう思っていた渋沢は、1893年、幕臣時代からの旧友である福地源一郎の協力を得て、慶喜の伝記編纂を企画します。
しかし・・・

「世間に知られるのは好ましくない」by慶喜

慶喜本人に拒絶されてしまいます。
それでも渋沢は、諦めずに慶喜を説得。

「慶喜公の存命中は、絶対に公表いたしません
 しかし、伝記編纂は今から始めておかないと、失われてしまう史料もあります
 ですから、直ちに作業を開始いたします
 さもないと、真相が明らかにならぬまま、後世に誤った事実が伝えられる恐れがあります」

流石の慶喜公も折れ、死後、相当期間を置いてから出版するのなら・・・と承諾してもらいました。
しかしまた問題が・・・福地が代議士となり多忙になったことで作業は滞ってしまいます。
その後、福地は病で亡くなり、編纂作業は暗礁に乗り上げてしまうのです。
しかし、その間に、慶喜の状況もまた大きく変わっていました。

1897年11月、長く中央から距離を置いていた慶喜が東京に移り住むことを決めます。
この時、60歳・・・
どうして慶喜は東京移住を決めたのでしょうか??

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渋沢が残した伝記にいくつかの理由がありました。

①明治天皇の・・・朝恩に浴することの謝意を表するため参朝を実現すること
  還暦を機に、慶喜は東京に出て明治天皇に今までの感謝の気持ちを伝えたいという気持ちに変わった
②子女たちが結婚などで東京に住むようになり心寂しく思っていたこと
  この時、最後まで静岡の家に残っていた九男と十男までもが東京の学習院に編入・・・
  その為、慶喜は深い寂しさを覚え、子供たちのいる東京に行ってもいいと思うようになっていました
③60歳を迎え、病気に冒された時の医療看護の便を考えての事
  慶喜は数年前から健康面での不安を感じていたこともあって、医療や看護の整った東京に引っ越したのです。

渋沢は、慶喜が住居を移した東京巣鴨に良く訪ねて行ったとか。
慶喜を飛鳥山の自宅で開いた茶席に招いたり、自分が設立に加わった洲崎養魚場や製紙工場の見学に誘うなど、2人の関係をより深めていきました。
その一方で、慶喜に爵位が授与されるよう時の総理大臣・桂太郎に働きかけるなど、慶喜の更なる名誉回復に尽力。。。
願いが叶うまでそう長い時間はかかりませんでした。 

徳川慶喜が東京にうつってから間もなくの事・・・1898年3月2日

「朝敵となった私がお目にかかることは恐れ多い」

と言って、静岡時代、かたくなに拒んでいた明治天皇との謁見が実現します。
酒を酌み交わし語り合った時の帝とかつての将軍・・・大政奉還から30年の時が経っていました。
この謁見ののち、天皇は維新の元勲・伊藤博文にこういったといいます。

「伊藤、今日でやっと今までの罪滅ぼしが出来たよ
 慶喜の天下を取ってしまったが、今日は酒盛りをしたら、もうお互いに浮世のことで仕方がないといって帰った」

慶喜にとっても、この謁見は大きな意味を持っていました。
明治天皇に謁見したことで、慶喜の朝敵の汚名が完全に消されたのです。

1902年6月、特例として天皇から慶喜に対して爵位としては最高位の公爵が授与され、華族に列せられました。
渋沢栄一が、総理大臣の桂太郎や明治政府の元老・伊藤博文、山県有朋らを訪問し、嘆願していたことが受爵につながったのです。
しかし、その一方で、こんな見方もあります。
実はこの時、同じ特例としてもう一人爵位を授かった人物がいます。
幕末、慶喜の江戸幕府を追い詰めた討幕派のリーダー・西郷隆盛の嫡男・西郷寅太郎です。
西郷も西南戦争で朝敵とされていました。
西郷の復権は、薩摩派の人々にとって政治的な課題でした。
慶喜への公爵授与、西郷隆盛の長男への侯爵授与・・・二人の爵位の授与は、慶喜と西郷隆盛の朝敵の汚名を消し去るための政治ショーの側面がありました。

明治政府が抱えていた課題の一つが、維新の功労者でありながら政府に反旗を翻す西南戦争を起こしたことで朝敵となって死んだ西郷隆盛の名誉回復でした。
これを実現するため、西郷の嫡男へ爵位を与えたい明治政府は、慶喜にも爵位を与えることで朝敵にも爵位を授与する大義名分を作ったのです。
理由はさておき、公爵となった慶喜は、さらに貴族院の終身議員として議席を与えられるなど、完全なる名誉回復を果たしました。
慶喜は徳川宗家の家達から全面的に支援してもらっていましたが、経済的に自立できるようになりました。

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慶喜が、名誉を完全に回復したことで変わったことが他にもあります。
交流範囲の広がりです。
能楽、囲碁、写真という趣味を通じて、華族社会の中で新たなネットワークを構築していきます。
特に、当時華族の中で流行していた写真を通じ、強いつながりができました。
東京千代田区にある日本カメラ博物館にそのつながりを示す貴重な資料が保管されています。

1902年~1908年まで発行されていた「華影」
これには徳川慶喜の写真が掲載されています。
写真は芸術という機運が盛り上がってきた中で、華族の写真愛好家たちが結成した”華栄会”によって刊行されたものです。
慶喜も会員の一人でした。
写真集は、公にすることを目的とせず、限られた人たちの間で回覧・・・
写真家の小川一真や洋画家の黒田清輝による批評と採点が加えられることで技術向上を図り、慶喜も家族たちと優劣を競いながら、写真を楽しんだといいます。

名誉を回復したことで、頑なだった慶喜の口もほぐれていきます。
1907年、渋沢は、頓挫していた慶喜の伝記編纂を再スタートさせます。
慶喜を中心とした歴史を語る会”昔夢会”を発足。
慶喜に直接語ってもらうことにしました。
慶喜は、編纂員たちの質問に答えるだけでなく、粗稿に目を通し、修正すべき点があれば付箋に意見を付けて返すなど、積極的に伝記の編纂に協力しました。
どうして協力的になったのでしょうか?

それもまた、慶喜を取り巻く環境の変化が大きく関係しています。
この頃、旧幕府を擁護する本が次々と出されました。
慶喜は、大政奉還が近代天皇制国家の発展につながったというゆるぎない自信を持てるようになったのです。
名誉回復が叶い、世間的な慶喜への評価も変わってきたことで、自らの過去と向き合う精神的余裕と自信が生まれたのです。
そうして開かれた第1回昔夢会は、慶喜の伝記編纂場だった渋沢の歌舞伎町の事務所で行われました。
慶喜は、幼い頃の思い出から、とつとつと語り始めます。
時代を追って話は進み、やがて渋沢が知りたかった政権を返上すると決めた時の事へ・・・
慶喜は、江戸幕府を終わらせることにしたのは、幕府を守ろうとする佐幕派と、倒し、天皇を中心とする討幕派が争う国が乱れていたのをなんとか終息したかったからといいます。
そして、大政奉還を決めたことを京都・二条城で諸藩の代表者に告げた際には、

「未曽有の御英断、誠に感服に堪えず」

と、称賛する者たちがいる一方で、不満を持った者も多くいたこと。
江戸から入れ代わり立ち代わり老中たちが現れては責められたことを振り返りました。
こうして、自らが堅い口をつぐんでいたことで、偏っていた歴史の断片を慶喜は少しづつ修正していきました。

東京・文京区春日・・・かつてここに徳川慶喜の終の棲家がりました。
その敷地、およそ3000坪・・・。
巣鴨から小石川小日向第六天町邸に移った慶喜は、1910年12月10日・・・七男・慶久に家督を譲ると、74歳で二度目の隠居生活に入ります。
3年後の1913年9月9日・・・この小石川邸で、第26回昔夢会が開かれました。
その2か月後、九男の誠に男爵が授与されたお礼を述べるため、風邪気味だったにもかかわらず皇居に参上した慶喜は、無理がたたったためか、肺炎にかかってしまいます。
そしてそのまま・・・11月22日、回復することなく、波乱に満ちた77年の生涯に幕を下ろしたのです。

慶喜の電気が完成したのは、それから4年後・・・1917年「徳川慶喜公伝」
74歳になっていた渋沢は、実に25年を費やした伝記を手に、慶喜が眠る東京谷中の墓地に報告に行きました。

徳川慶喜は、その最期・・・病床で苦しい中、医師にこういったといいます。

「衰弱は覚えますが、苦しみは去りました」

この苦しみとは、鳥羽伏見の戦いで張られた”賊軍のレッテル”に対するものだったのではといわれています。
長くまとわりついていたその苦しみが、公爵や勲章の授与などによって回復され、去っていったのだと・・・。
最後まで慶喜に仕え、働いた渋沢栄一は、完成させた徳川慶喜公伝の中で、慶喜のことをこう讃えています。

”侮辱されても 国のために命をもって顧みざる 偉大なる精神の持ち主”

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「謎の将軍 徳川慶喜」

幕末、その男は様々な姿で写真に納まりました。
ある時は紋付・羽織袴で、銃と刀を両脇に勇ましい武士の姿・・・
ある時は高貴な衣冠の装束・・・伝統を重んじる公家のよう・・・
またある時は、フランス式の軍服に身を包み革新的なリーダーを気取る・・・

江戸時代最後の将軍・徳川慶喜・・・いったい慶喜とはどのような人物だったのでしょうか?

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当時の人々は、ミステリアスな慶喜のことを”二心殿”と呼びました。
海外列強が日本に押し寄せ、攘夷の風が吹き荒れた動乱の時代、英邁の誉れ高かった慶喜は将軍候補として期待され、政治の表舞台に登場しました。
しかし、力強く開国を唱えたと思ったら、攘夷と意見を翻す・・・
国の行く末を決める会議を暴言を吐いてぶち壊す・・・!!
二心殿の言動は、しばしば周りを混乱させました。
そんな慶喜に迫られた最大の選択・・・それは、将軍になるべきか、ならざるべきか・・・!!

当時すでに幕府は弱体化し、朝廷や雄藩に振り回されるばかりでした。
将軍となって、この舵取りを担うことは果たして得策なのか・・・??
慶喜はどうして将軍となり、自ら幕府に終止符を打ったのか・・・??

茨城県水戸市・・・徳川御三家の一つ水戸家の城下町だったこの地に、慶喜が書いた書”楽水”が残されています。
七郎麻呂と呼ばれていた頃の書です。
”楽水”とは、中国の孔子の言葉です。
論語の中で「知者は水を楽しむ」という一節があり、知識が豊かな人は水のように変幻時代に形を変える・・・書いた本人は意識していなかったかもしれませんが、慶喜の変幻自在ともいえる政治手法を6歳の段階で暗示しています。

慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭と皇族出身の登美宮吉子との間に生れました。
徳川と皇族、二つの血筋を受け継いだ子供でした。
しかし、7男だったため、藩主となる道はほとんど閉ざされていました。
通常では、他の大名家に養子に出されるところでしたが、父・斉昭はその才能に期待し、水戸に置いていました。
そんな中、幕府からある意向が伝えられます。
慶喜を、御三卿・一橋家の養子に欲しいというのです。
家康の子供たちで作られた御三家に対し、御三卿とは八代将軍吉宗が子供や孫に作らせた3つの家・・・将軍に跡継ぎがいないときに宗家を絶やさないためでした。
1847年、慶喜は10歳で一橋家の当主となります。
しかし、一橋家には城もなく、家臣も幕府からの出向で賄われていました。
独立した大名ではなく、あくまで将軍家の家族・・・政治的実権を持たない存在でした。

慶喜の運命が大きく変わったのが6年後・・・
1853年、ペリー来航し、強大な軍事力を背景に、日本に開国と通商を迫りました。
この時の将軍・徳川家定は、ひどく内気で病弱・・・緊急事態に適切な判断は出来ないとみられていました。
その為、この国難を担う次期将軍の必要性が叫ばれました。
幕閣や譜代大名の多くは、家定の従兄弟で、血統的にも近い紀州藩主・徳川慶福を押しました。
しかし、慶福はこの時10歳に満たず、政治手腕に疑問がありました。
一方、越前藩の松平春嶽、薩摩藩の島津斉彬ら有力大名は、当時17歳となっていた慶喜の擁立に動きました。
しかし、水戸徳川家出身の慶喜は、宗家の血縁とは遠く、正当性が弱かったのです。
しかも、父・斉昭は、幕府の政治に対して強硬意見を繰り返し、幕閣や大奥とも折り合いが悪い・・・慶喜が将軍になればうるさく口を挟むのではないかと警戒されました。
不利な状況の中で、どうやって慶喜を将軍候補として推していったのでしょうか?

尾張徳川家に残っている「慶喜公御言行私記」・・・
慶喜を推す大名たちは、慶喜の日々の行動を記した文書を配り、支持を集めました。
これを書いたのは、慶喜の側近・平岡円四郎と考えられています。
平岡は、慶喜が一橋家に入ったときに、推薦され家臣となった人物です。
慶喜が最も信用した側近でした。
書かれたエピソードには、慶喜を将軍につけたいという平岡の強い思いが感じ取れます。

その人柄を知らしめると共に、東照宮・神孫という・・・慶喜こそ将軍に相応しいというイメージを広げていきます。
慶喜自身はどう思っていたのでしょうか??
当時、父・斉昭に宛てた手紙によると・・・

”天下を取ることほど気骨の折れることはありません
 天下を取った後仕損じるよりは、天下を取らない方が大いに勝るのではないでしょうか”

しかし、そんな思いとは裏腹に、慶喜を推す勢力と慶福を推す勢力の対立は一層深まっていきました。

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大老・井伊直弼が就任すると、事態は大きく動きます。
将軍家の血筋を重んじた井伊は、慶福の就任を強く後押しします。
さらに、将軍・家定の希望もあり、跡継ぎは慶福に・・・後の14代将軍・家茂です。
次期将軍候補から外れた慶喜・・・しかし、この構想を通じて慶喜に対する期待はますます高まっていくのです。

将軍継嗣問題のあと、幕府の危機が深まる中で慶喜は政治の表舞台に登場することになります。
1858年、幕府は列強の圧力に屈し、アメリカはじめ5か国と・・・安政五カ国条約締結。
新たに4つの港を順番に開き自由に交易することを認めました。
開国に舵を切ったのです。
しかし、これに激怒したのが孝明天皇でした。
外国嫌いの天皇は、勅許をえることなく結ばれた条約を決して認めようとはしませんでした。
そうした中、天皇を尊び、外敵を排除しようとする尊王攘夷の動きが高まり、一部の志士が過激な行動に出ます。
1860年3月3日、江戸城桜田門外で、井伊直弼暗殺。
将軍のおひざ元で大老が襲撃されるという前代未聞の事件・・・幕府の弱体化が白日の下にさらされました。
これを機に、英邁の誉れ高い慶喜に幕府の立て直しが期待されたのです。
その結果、薩摩藩などの後押しによって、慶喜は将軍・家茂を補佐する将軍後見職に就任することになりました。
しかし、前途多難!!
当時、京都では強硬な攘夷を唱える長州藩が公家たちと結びついていました。
長州藩の武力に力を得た朝廷は、将軍・家茂に条約の破棄、攘夷の実行を約束させようと考え、三条実美を孝明天皇の勅使として江戸に派遣しました。
勅使を受け入れ、攘夷を実行すべきか?
このまま開国路線を続けるべきか??
幕府で議論が紛糾する中、慶喜は語りました。

「世界ではすでに多くの国が交流している
 独り日本のみ鎖国のしきたりを守るべきではない
 むしろ、自ら進んで外国と交わりを結ぶべきだ」by慶喜

朝廷にもはっきりと意見が言えるリーダーかと思われました。
しかし、その2週間後・・・改めて開国の覚悟を聞かれると

「しばらく明言はやめて、老中たちが開国というのを待とう」by慶喜

すっかり弱気な発言に、慶喜の本心はどこにあったのでしょうか?
そこには、母が皇族出身ということが考えられます。
慶喜は、徳川家よりも朝廷の方に比重がかかっていた人物だったのでは??
縁の深い、血縁的にも深い人である・・・
一方で、慶喜はクレバーなので、もう攘夷が出来ない、開国は避けられないと思っていました。
心の中では開国すべきと思いながら、天皇の願いを蔑ろにはできない・・・
結局、幕府は攘夷の実行を約束してしまいます。
朝廷の圧力に屈し、列強の脅威にもさらされるという八方ふさがりの状況でした。

そんな幕府にとって、起死回生のチャンスとなったのは・・・
1863年、八月十八日の政権です。
長州藩の過激な動向に目を見張らせていた会津藩と薩摩藩が、御所の門を藩兵で固め、長州藩とそれに組する公家たちを京都から追放したのです。
むやみに攘夷を主張し、外交を妨害してきた長州藩はいない・・・
朝廷を説得する好機でした。
ここで動いたのが、薩摩藩で国父として実権を握る島津久光でした。
久光は、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体の実現を目指します。
久光の建議で、慶喜を含む有力諸侯が参与というポストに任命され、朝廷との話し合いがもたれました。
参与たちは、このまま開国を続ける考えを示し、話しはまとまりかけました。
しかし・・・またもや慶喜が混乱を巻き起こします。
既に開いていた箱館、横浜、長崎の3つの港のうち、横浜を閉鎖し、朝廷が要求する攘夷の一歩を踏み出すことを主張したのです。
それだけではなく、その後開かれた宴席で、慶喜は先に酔いました。
そして、朝廷の実力者・中川宮に向かって、目の前の島津久光らを罵倒したのです。

「この者たちは、天下の代愚物、天下の大奸物であります
 何故この者たちを信用されるか?
 後見職である自分と一緒にしないでほしい」by慶喜

久光たちは怒り、結局、参与会議は解散となりました。
この騒動をきっかけに、久光は慶喜に強い不信感を抱くようになります。

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”一橋卿の御心底 大いに六ヶ敷”

ころころと考えを変える慶喜・・・人々はそんな彼を皮肉を込めて”二心殿”と呼びました。

参与会議の解散後、慶喜は驚きの行動に出ました。
将軍後見職を一方的に辞退し、新設された”禁裏御守衛総督摂海防禦指揮”に就任しました。
禁裏とは、天皇の暮らす御所、摂海とは大坂湾・・・その警備を担う役職でした。
このポストは、聖慮・・・つまり、将軍ではなく天皇の意向に基づいて任命されました。
京都にとどまり、朝廷への接近を強める慶喜・・・江戸の幕閣はその行動を疑い、将軍・家茂の命で何度も江戸に呼び戻そうとしました。
しかし、慶喜は断ります。
将軍の命令を拒否して、京都に残る・・・
体感的に、自分は天皇、朝廷上層部と引っ付いた方がいいだろうと感じていました。

京都で慶喜は獅子奮迅の活躍を見せます。
1864年7月、前年に京都を追放された長州藩が兵を引き連れ上洛しました。
退去の呼びかけにも応じず、戦闘が始まりました。
禁裏御守衛総督・一橋慶喜は、自ら先頭に立って薩摩、会津の軍事支援のもと、長州を退けることに成功しました。
この活躍で慶喜は孝明天皇の厚い信頼を得ることになります。
そして、天皇の意を受けて、長州への処罰の実行を主張しました。
そこで、幕府は長州藩を朝敵と見なし、諸藩からなる征討軍を送ります(第1次長州征討)。
この時、参謀を務めた薩摩藩の西郷隆盛は、長州と取引し、家老3人を自害させるなどの条件で事態を収束させます。

微笑む慶喜: 写真で読み解く晩年の慶喜

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しかし、長州への甘い処分に、一部の幕臣や会津藩は納得しませんでした。
その不満を抑えきれず、1866年第2次長州征討。
これに、今度は薩摩が反発!!
薩摩は出兵を拒否し、長州と密かに通じるようになります。
国を二分するかもしれない内戦の事態でした。
この局面をどう打開すればいいのか・・・??
悩む慶喜に、急報が届きます。
1866年7月20日、将軍・家茂死去。
もはや、難局を乗り越えられるのは慶喜しかいない・・・!!
老中たちは、慶喜に将軍になることを要請します。

迷う慶喜・・・!!

将軍就任の要請に、慶喜はどう答えたのでしょうか?
慶喜が朝廷に送った手紙の写しが残っています。

”徳川宗家の相続につきましては、国家の大事には代えがたく、承知いたします
 ただ、将軍職に関しましては、私は薄力非才、失態の恐れもあり、お断りいたしたく申し上げます”

将軍職を断わり、徳川宗家の相続だけを引き受ける・・・誰も想像できない選択でした。
徳川宗家を相続することが、自動的に将軍職を継ぐことだと・・・家康以来そうなってきました。
それが初めて実は違うんだと、別のものなんだと示されたのです。

それだけではありません。
徳川宗家を継ぐにあたり、慶喜は自らの思い通りに幕政改革をするという条件を取り付けます。
前代未聞の将軍空位という中、慶喜は幕府の立て直しを進めます。
フランスに習った軍制改革を導入、旗本御家人から石高に応じて人や資金を出させ、新たな歩兵部隊を編成、フランス式の軍事教練を受けさせました。
慶喜のもとで幕府軍は着実に強化されていきました。

長州藩の木戸孝允は、後にこう語っています。

「いまや、江戸幕府の政治体制は一新され、その軍事力は目を見張るものがある
 一橋の大胆にして思慮深い計略は、決して侮るべきではない
 実に、家康の再生を見るようだ」

その一方、慶喜は幕府の精鋭軍を率いて長州との戦争に自ら出陣することを表明。
長く続いた戦いに決着をつけようとしました。
しかし・・・ここで、慶喜はまたもや心変わりをしてしまいます。
先発した幕府軍が敗北を喫したという報告を聞くと、急遽出陣を中止・・・
そして、周囲の十分な同意を得ることなく長州と和解し、休戦に持ち込みました。
突然の休戦に、共に長州征討を推進してきた会津藩や幕臣は納得できず、怒りをあらわにしました。
慶喜は孤立を深めていきます。

頭がいいので、変わり身が早い・・・先が読めてしまう・・・
しかし、人の心はもう一つ読めないところがるのです。

そうした中、1866年12月5日、慶喜はあれほど固辞していた将軍に・・・第15代将軍に就任。
この時30歳。
何故このタイミングで受諾したのか??
諸説あります。
①最初から将軍になるつもりで自分に味方する勢力を見極めていたのか?
②孝明天皇の願いを断わり切れなかった?
いずれにせよ、慶喜は第15代将軍として日本のかじ取りをする覚悟を決めたのです。

将軍宣下のわずか20日後・・・孝明天皇が突然この世を去りました(12月25日)。
常に後ろ盾になってくれた天皇の死・・・しかし、それは攘夷という天皇の願いから解放されるということを意味していました。
慶喜は、ようやく開国という本来の考えのために動き出します。
当時、通商条約で定められた港のうち、兵庫だけが開港されていませんでした。
孝明天皇が京都に近い兵庫の開港を断固拒否していたためです。
慶喜は、国際条約を守り、兵庫開港を実現することは日本の将来の為と信じました。

慶喜は、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津久光など有力諸侯とこの問題を協議しました。
この時、諸侯たちも兵庫開港に反対ではありませんでした。
貿易の利益で藩が潤うことを期待していたからです。
しかし、まだ大勢いた攘夷論者を恐れ、積極的に賛成する者はいませんでした。
慶喜は違いました。
夜を徹して熱弁を振るい、遂に諸侯たちを説得しました。
そして、朝廷に強く働きかけて、
1867年5月、兵庫開港の勅許がおります。
慶喜の決断によって、安政の条約締結以降揺れていた日本の開国への道は決定的となりました。

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慶喜のすごいところは、攘夷主義者がものすごく多いことを知っていました。
しかし、あえてそれを無視して、この機会に一気に開国体制に持って行こうと決断して、それを実行したのです。
慶喜の、幕末史におけるもっとも重要な役割の一つです。

政局の主導権を握りつつあった慶喜に対して、薩摩藩や長州藩は畏れ、警戒しました。
そして、倒幕のクーデター計画を練ります。
ところが、慶喜が先手を打ちます。
1867年10月、大政奉還です。
幕府に委任されてきた政権を天皇に返納する・・・
慶喜は、264年続いた幕府を終わらせたのです。
それでも、新たな政府が出来れば、慶喜は要職に就くことが見込まれました。
慶喜の名声は依然高く、本人もそれを確信していたと言われています。
ところが、薩摩・長州は許しませんでした。
王政復古のクーデターを断行し、天皇を頂点とする新政府を樹立、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争では旧幕府軍を賊軍として征討。
慶喜を新政府から徹底的に排除しました。
慶喜は、死罪は免れたものの、全ての官位を奪われ、謹慎を命じられます。
最後の将軍・・・激動の幕末は終わりました。

明治になり、謹慎をとかれた慶喜は、静岡や東京で長い隠居生活を送りました。
溢れる才能・・・写真や油彩画など様々な趣味に傾けました。
前半生とは正反対の悠々自適の日々・・・
名誉回復を計られ、明治35年に最高の爵位・公爵に叙せられました。
自らを追いやった西郷たちよりも長生きし、大正2年、77歳でこの世を去りました。

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江戸幕府15歳将軍・徳川慶喜・・・在任期間はわずか1年足らずで、歴代で最も短かったものの260年に及んだ江戸時代最後の将軍です。

1837年9月29日・・・
江戸・水戸藩上屋敷でひとりの男の子が生まれました。
後の慶喜です。
父親は、水戸徳川家九代当主斉昭、母親は有栖川宮家の吉子でした。
父・斉昭の教育方針により、慶喜は生後7か月で水戸にうつされ、これ以後、天皇を尊ぶ尊王学など英才教育を受けて育ちます。
そんな慶喜に、斉昭は大きな期待を寄せ、こう語ったといいます。

「天晴な名将となるか さもなくば 手に余るようになる」

1847年、慶喜が10歳の時、大きな転機が訪れます。
一橋家から養子の申し出が来たのです。
東寺の一橋家は、11代将軍家斉、12代将軍家慶を輩出した最も将軍職に近い家柄で、慶喜は将軍後見職などの幕府要職を歴任することになり、26歳の時朝廷の対応に当たるため京都に赴き、幕府の代表として幕末混乱期の政局に手腕を発揮しました。

14代将軍・家茂が亡くなると・・・
1866年12月5日、京都にいた慶喜がそのまま15代将軍となります。
就任当時の幕府は、度重なる政策の失敗で、指導力を失い、存続の危機に瀕していました。
弱体化した幕府を強化するため、慶喜がまず行ったのが、軍事改革です。
特に海軍力に力を入れ、国内最大級となる開陽丸など、海外から軍艦を購入し配備しました。
さらに、暗礁に乗り上げていた外交問題にも着手します。
兵庫の開港を求める欧米列強に対し、朝廷は京都に近いという理由から強く反対し続けていましたが・・・慶喜は朝廷を説得して将軍就任わずか半年で開港の勅許を得ます。
各国の大使はそんな慶喜の手腕を高く評価しました。

就任から次々と成果を上げていく慶喜でしたが、この後、わずか半年ほどの間に3度の大きな決断を迫られることになります。
最初の決断は、将軍就任からおよど10か月後の1867年10月14日、大政奉還です。
当時、国内には、幕府政治に疑問を抱き、武力で討幕を目指す(武力討幕)者がいました。
最も積極的だったのが、薩摩藩です。
下級武士名から、反の実権を握っていた大久保利通や西郷隆盛は同じ討幕派の長州藩と手を結び、イギリスから武器を購入するなどして倒幕に向けての準備を着々と進めていました。
一方、同じ討幕でも平和的に政権を移そうと考えていたのが山内容堂率いる土佐藩です。
彼等が掲げたのが、大政奉還論でした。
①幕府は政権を朝廷に返上
②議会を設置
  徳川慶喜も諸侯の一員として参画
といった武力に頼らない討幕を目指したのです。
そんな中、1867年6月22日、京都で土佐の後藤象二郎・坂本龍馬と、薩摩の大久保・西郷らとの間で話し合いがもたれます。
強硬姿勢を崩さない薩摩に対し、挙兵を思いとどまらせようとする土佐・・・
話し合いは、平行線のまま終わるかに見えました。
しかし、一転、大政奉還で合意に至ったのです。
薩摩藩は、どうして態度を変えたのでしょうか?

10月3日、慶喜に土佐藩から大政奉還の建白書が出されます。
しかし、その裏で、薩摩の大久保らも動いていました。
あくまでも武力討伐にこだわる彼等は、公家の岩倉具視と組み、朝廷から慶喜討伐の密書を出してもらう用画策。
すると、10月14日、朝廷は、薩長の藩主に慶喜の討伐を命ずるという「討幕の密勅」を出したのです。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を討て!!
待ちに待ったこの日に、薩摩藩の指揮は一気に上がりました。
しかし、同じ日・・・慶喜は、周囲の予想を裏切り、自らあっさりと大政奉還をしてしまうのです。

「このままに持ち堪えんとすれば無理ばかり多くなり、罪責はますます増加
 遂には奪わるるにも至るべきは必然と見切り申候」

慶喜の中では、幕藩体制の維持は不可能と考えていました。
内乱や外国の介入を阻止するために、大政奉還が一番いい方法だと考えたのです。
朝廷はずっと政治を担っていなかったので、慶喜に頼ざらるをを得ないとも考えていました。

大政奉還からわずか2か月後の12月9日・・・慶喜は、再び大きな決断に迫られます。
武力討伐の中止を余儀なくされた大久保らは、新しい体制となってもなお慶喜が主導権を握るのではと脅威を感じていました。
そこで、古い政治体制をすべて打ち壊すしかないとして・・・
12月9日明け方・・・西郷の指揮のもと、薩摩藩を中心とする兵が、御所の門を完全封鎖し、明治天皇が臨席する中で討幕派主導のクーデターが起きます。
世にいう王政復古のクーデターです。
徳川幕府の廃絶と、新政府の樹立が宣言され、政権運営は新たに創設された三職(総裁・参与・議定)によって行われることが決定しました。
総裁は、今の総理大臣に当たり、議会を統括する役職で、有栖川宮熾仁親王が就任。
議定は上院議員で、皇族や公家、藩主から。
参与は下院議員で、下級の公家や藩士から選ばれました。
しかし、この新政府メンバーに、慶喜の名はありませんでした。

王政復古のクーデターが決行されたその日の夕方、京都御所で新政府による初めての会議が行われました。
議題は、慶喜の処遇です。
この時、新政府内は、旧幕府の徹底排除を求める討幕派と、旧幕府との融合を主張する公議政体派に分裂し、会議は紛糾します。
慶喜に対して最も厳しい条件を突き付けたのは、討幕派の大久保らでした。

「慶喜公からは、内大臣の官位を剥奪し、徳川家の領地800万石を没収し、それを新政府の資金に当てましょう。」

これにたいし、公議政体派の山内容堂が反対の意を唱えます。

「大政奉還という大英断を下した慶喜公こそ、新政府に必要な人物!!
 相応の役職に、迎え入れるべきだ!!」

領地没収に関しても、徳川家だけというのは不公平だと反論し、話し合いは夜中まで続きました。
しかし、最終的には、討幕派が押し切り、慶喜の官位剥奪、領地没収が決定してしまいました。
政権を返上し、諸侯の一人となった慶喜でしたが、元将軍であり、徳川家の当主としての求心力は健在・・・!!
さらに、反幕府派の中からも、大政奉還を好意的にとらえる勢力が現れ始めます。
多くの公卿たちも同調し始めたことで、慶喜を擁護する勢力が勢いを増していきます。
そんな中、旧幕府を支持する会津藩と桑名藩が、御所に向けて出兵!!
討幕派を一掃すべしという声をあげました。

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王政復古から3日後の12月12日・・・
慶喜は、家臣たちの暴発を避けるために、会津、桑名の軍勢を引き連れて京都から大阪城に移ります。
経済的にも軍事的にも重要な大坂を抑えることで、新政府にプレッシャーを与えようと考えたのです。
この選択が、自分自身の運命を大きく帰ることとも知らずに・・・!!

翌日、倒幕派の大久保と岩倉との間で、慶喜の処遇について話し合いがもたれ・・・
岩倉は、二つの案を提示します。
①強硬案・・・薩長の軍事力を背景に、このまま強硬路線を貫くというもの
②妥協案・・・慶喜が、官位剥奪と領地没収を飲むなら、議定職への就任を認めるというもの
強硬な姿勢を貫く大久保らは、新政府内で孤立しつつあり、妥協案で合意するしかありませんでした。
その後の合議の末、慶喜は

①内大臣を辞して”前内大臣”と称す
②領地没収の撤回
③議定職就任

慶喜の思惑通り、新政府に迎え入れられることとなりました。

王政復古のクーデターのおよそ1か月後・・・慶喜は最後の決断を迫られます。
大久保や西郷ら討幕派の勢いは、この頃風前の灯となっていました。
同盟を組む長州藩でさえも、薩摩の行動は理解しがたいと離れて行ってしまったからです。
孤立を深めていく中で、大久保は覚悟を決めます。
「もはや、薩摩一国となっても一戦交えるまでだ!!」
そんな中、慶喜の議定職就任が決定した翌日の1867年12月25日・・・
旧幕府から市中取り締まりを命じられていた庄内藩が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が勃発します。
薩摩浪士たちが江戸で、強盗や放火を繰り返し、幕府を挑発していたことに対する報復でした。
藩邸を襲われた薩摩は、一気に戦闘態勢に!!
一方、焼討事件を知らされた大坂城でも、会津・桑名の藩士たちが武力行使を訴えます。
慶喜が、暴発を抑えようと必死になるものの・・・
薩摩を倒すべきという声が上がり、機運の高まりはもはや慶喜にも抑えられなくなっていました。


「いかようにも勝手にせよ・・・」

慶喜は、薩摩討伐を決意し、署名します。
五か条の「討薩の表」には、こう記されていました。

”王政復古以来、朝廷のふるまいは、薩摩藩の陰謀によるものである
 薩摩の引き渡しを求める”

あくまで薩摩藩を相手に戦うことが目的でした。

1868年1月2日・・・江戸から脱走した薩摩藩士の捕縛を命じられていた開陽丸の艦長・榎本武揚は、4隻の軍艦と共に大坂湾にいました。
すると、脱走した藩士を乗せた薩摩藩の艦船3隻を発見し、ここに戦いの火ぶたが切られます。
日本初の洋式海戦の勃発(阿波沖の海戦)です。
旧幕府軍・開陽の圧倒的な勝利の前に、薩摩の2隻は敗走・・・1隻は逃げきれずに自沈しました。
旧幕府軍は、海上戦で圧勝・・・慶喜が行ってきた軍事力強化がここで実を結んだのです。
海上戦が始まったこの日、陸上では、旧幕府軍が”討薩の表”を朝廷に提出するため大坂城から京を目指し北上していました。
二手に分かれた軍勢は、3日、鳥羽と伏見に到着します。
一方、薩長両藩も、鳥羽と伏見に布陣し・・・旧幕府軍を待ち伏せていました。

1868年1月3日、午後5時・・・4日間に及ぶ戦いが始まります。
鳥羽で旧幕府軍が隊列を組み強行突破を仕掛けると、新政府軍の銃砲が一斉に火を噴きました。
不意を突かれた旧幕府軍は大混乱に陥り、容赦なく浴びせられる銃弾に、歩兵は次々と倒れていきました。
鳥羽から聞こえた銃声を合図に、伏見でも戦闘が始まりましたが、戦況はこちらも同様新政府軍が優勢となりました。
新政府軍の方は、指揮官たちの巧みな戦術のもと、着実に作戦を遂行していたのですが、一方の旧幕府軍は、精鋭部隊のほとんどが江戸にいて、各部隊の命令系統はバラバラ・・・
兵の中には農民もいるなど、寄せ集めの軍隊だったのです。
翌4日になっても、旧幕府軍の劣勢は変わらず、後退を余儀なくされていきます。

鳥羽伏見の戦いのおよそ3か月前・・・
討幕派が集まって、密議が重ねられていました。
岩倉具視が中心となって、幕府軍と武力衝突が起きた際の、戦局を有利に運ぶためにはどうすればいいか??作戦が練られていました。
彼等が、切り札としたのは”錦の御旗”でした。
鎌倉時代に、朝敵を退治する戦で使われた朝廷の軍隊を象徴する旗で、その後は使われなくなり文献にしか残っていなかったのですが・・・
岩倉は、これを復活させ利用しようと提案したのです。
大久保は、早速、錦の布を買いに行かせ、それを長州藩士に渡し、西陣織の職人によって極秘裏に作成されました。

鳥羽伏見の戦いが始まって3日目・・・
新政府軍が掲げた”錦の御旗”が前線に翻りました。
これにより、慶喜は天皇に歯向かう朝敵となってしまったのです。
御旗の効果は絶大でした。
朝敵となることを恐れた諸藩は、次々と新政府側に寝返っていきました。
慶喜は、前線で戦う兵士の士気を高めるため、大坂城でこう演説します。

「たとえ、千騎が一騎馬になろうとも、決して退くな!!
 大坂が破れても江戸がある!!
 屈してはならぬ!!」by慶喜

しかし、その舌の根も乾かぬうちに、慶喜はわずかの供を連れて大坂城を脱出・・・
この日、城で慶喜に拝謁した軍艦奉行の浅野氏祐は、直筆として1枚の紙を渡されたといいます。
そこには、慶喜と共に帰還する者の名と共に、戦場に残す者たちの名があり、それは、主戦論を強硬に唱えていた重臣たちでした。
慶喜は、なんと彼等に戦の責任を取らせることにして、大坂城から逃げたのです。
兵を鼓舞したすぐ後に、どうして大坂城を脱出したのでしょうか?

「これ以上、大坂城に滞在すると、ますます過激論者を刺激してしまう
 自分さえいなくなれば、激論も沈静するであろう
 私は江戸に戻って恭順の姿勢を貫き、朝命に従うつもりだ」

鳥羽伏見の戦いを早期に集結させるために江戸にもどると説明しています。
しかし、実際は、錦の御旗が出て、自分が朝敵になった事が大きかったのです。

1868年1月6日、午後9時・・・慶喜は、わずかな供を連れて大坂城の裏門から抜け出しました。
その際、慶喜はお小姓を装い、城門の衛兵の目をくらましたと言われています。
そして、八軒屋の船着場から、小舟で川を下り、沖に向かったのですが・・・
闇夜でもあり、大坂から離れた西宮周辺に停泊していた徳川家の軍艦を見つけることはできませんでした。
そこで、アメリカ大使に依頼し、夜が明けるまで軍艦に乗船させてもらうことにしました。
翌朝、慶喜一行は、開陽に乗り込んだのですが・・・館長の榎本武明が、大坂城に行っていて船にいなかったため、乗組員たちに出航は無理だと言われてしまいます。
しかし、慶喜は、半ば強引に説き伏せ、江戸に向かわせました。

大坂城脱出から5日ご・・・開陽は、品川港に到着・・・
江戸にもどった慶喜は、恭順の姿勢を示すために、もう一度戦を仕掛けようという声をかたくなに拒否しました。
そして、自ら徳川の霊廟である上野の寛永寺に入り、謹慎のみとなることで政治の表舞台から去っていきました。
その後、謹慎場所を水戸へと移し、
1868年7月19日、戊辰戦争による治安悪化を理由に駿府へと向かいます。
謹慎場所は、徳川家ゆかりの宝台院でした。
この時、慶喜の元を尋ねた旧幕臣の渋沢栄一は、将軍の時とあまりにもかけ離れたその暮らしぶりに涙したといいます。
1869年9月28日、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争の終結を受け、慶喜の謹慎はようやく解かれます。
この時、32歳でした。

この後、一市民として、狩猟や釣りなどから洋画や刺しゅう、自転車を買ったり、カメラを使ったり・・・様々な趣味に没頭しました。
1913年11月22日、慶喜は76年に及ぶ波乱に人生を終えました。
歴代の将軍が眠る寛永寺でも、増上寺でもなく、自らが購入した谷中墓地で静かに眠りについたのです。
一市民として・・・!!


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NHK英雄たちの選択 江戸無血開城の深層

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いよいよドキドキの江戸無血開城です!!

1868年4月、西郷吉之助率いる新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜を大将とする旧幕府軍を打ち破りました。
吉之助は家臣たちを残して逃げ出した慶喜を追い、5万の大軍と共に江戸へと向かいます。
江戸総攻撃の日は、3月15日と決まりました。

ということで、前回、幾島と再会した吉之助は、なんと篤姫に会いに大奥へ!!
これじゃあ、山岡鉄舟の説得も、勝海舟との会談も、必要なしよね??

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吉之助が懐かしいだとか、篤姫が「頭を下げねばならぬのは私の方じゃ・・・
 西郷、頼みを聞いてくれ。」
その頼みとは・・・??慶喜の助命嘆願ではなく・・・
「慶喜殿の首ひとつで、この戦を終わらせてくれ・・・!!」でした。

思考回路停止だよ・・・全く・・・。
長州征討に当たっては、当主に責任を負わせたら家臣が黙っていない!!ということで、家老の首3つで勘弁してもらったんです。
そして、白旗を揚げて当主の助命嘆願をした会津は許してもらえず、吉之助たちが松平容保の首を!!と言ったもんだから、あそこまで戦争になったわけです。
だって、松平容保は、会津戦争の頃はもう当主ではなかったし、戦争をしたくなかったのに・・・
つまり、殿の首ひとつで勘弁してほしいなんて、当時の人は言わないんです!!
慶喜の命は、家臣の命すべてよりきっと重かったはず・・・。
そんな赤穂浪士的な感じだったんですよ・・・それなのに・・・
徳川家存続をあんなに望んでいた篤姫の口からこんな事を言わせるなんて・・・最低だよ・・・。

実際の篤姫&和宮は、吉之助や新政府軍に手紙を書いて江戸を守るために頑張ります。
そこんところ、お忘れなく!!
実際に会うなんて、恐れ多い・・・!!
そして、この手紙に西郷は涙したとも・・・

自分も自害する覚悟だと頭を下げる篤姫。
嘘かくなよな・・・
「どうか・・・徳川家だけは救ってほしい・・・」by篤姫
って、その慶喜の首が徳川家なんだよ!!

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・・・それなのに、慶喜の首案件はあっさり却下!!
完膚なきまでに叩くんだそうだ!!

嘘ばっかりの内容に、もう・・・見たくなくなっちゃった・・・。

そんな聞き入れてくれない西郷に、「私も命をかけて戦うのみです!!」という篤姫ですが、どんなにして戦うのか??そんなこんなは全くしてくれません。
幾島のゲホゲホ血を吐くのも、必要ないわい!!
憐れみを誘ってんのか??と思っちゃう。
血を吐いても頑張るって”言うこと”が頑張るんじゃなくって、頑張っているところ・・・例えば、〇〇に文を書いたとかそういうのを見たいんだと!!

「よ・・・西郷どん!!」by海舟
なんの緊張感もなく会談が始まったの・・・??

don















西郷どんに江戸を戦で火の海にするのは止めてほしいとサラっという勝さん。
いや・・・勝さんも火の海にしても慶喜を守ろうとしたんじゃん・・・。
条件も、山岡鉄舟で根回し済みなんじゃないの??
スラスラと降伏条件を話し出す勝さん・・・
それって交渉じゃないよね・・・??
話の分かる勝さんで、慶喜の心も、吉之助の心も汲んだ話し方だわ・・・
この時点で勝海舟は緊張な感じで吉之助と対峙すると思っていたのに、どうしてこう負け犬な感じに仕上がっちゃったんだろ・・・??
もっと、交渉バトルしてほしいのに~~!!

「西郷どんが背負う新しい日本って何だい・・・??」by勝

なんて、フラットに聞く勝さんですが・・・
この時点で、西郷どんにはそんな新しい日本の構想なんてのはありませんよ・・・きっと。

「民を見捨てることは、おいはできもはん!!」by吉之助

と、前半、くどいほど民を思っていたことを、今頃思い出した西郷どんなのでした。
いや・・・民を救うためなら戦争しないからね・・・??

「わかりもした・・・明日の総攻撃は取りやめじゃ・・・!!」by吉之助

「ほんとにいいのかい・・・??」by勝

と、涙ぐむ勝海舟・・・。
西郷どんびいきの男・・・と、自ら西郷好き好き光線を発する勝海舟。
慶喜に会いに行けばいい・・・と、慶喜の首を狙っている男に言うという・・・最低の幕臣だ・・・。
今、自分が幕臣だから慶喜の命だけは・・・みたいなことを言ったのに、その舌の根も乾かないうちにそんなこと言う??
自分達のケンカは自分たちでけりをつけろと、サシで勝負しろって言い出しました。
まさに8933かヤンキーの様です。
泣くなよ~~~!!!
「江戸が焼けないで良かった。
 おかげで今年も上野の桜が見られる・・・。
 西郷どん、ありがとよ。
 こうなったら、上野におめえさんの銅像とやらでも建ててもらわねえと・・・!!」by勝

don3















はああ???なんじゃこの展開・・・!!??
銅像の未来予知・・・ありえへんわ・・・。
この一言、要る??蛇足ってもんでしょ??
で・・・これで終わり??無血開城!!??

こんな勝さん見たくない・・・。
本当に見たい勝さんはこちら

で・・・勝海舟の通り、慶喜に会う吉之助。
護衛もないのか??慶喜・・・??

don2
















この姿・・・もう心は決まっている格好ですが・・・。
「俺を殺しに来たんだろう・・・」と言い出します。
それ・・・死に装束ですよね??慶喜さん・・・??
で・・・早く殺せとか、なんだとか、おバカな話です。

どうして逃げたのか?と聞く吉之助に・・・「おれは・・・ロッシュ殿から逃げたのだ・・・」by慶喜

は??

フランス軍12万軍と、銃5万丁を援助するって言われたんだって・・・。
その代わり、勝利した暁には薩摩をよこせと言われたらしい。。。
薩摩からはイギリス軍も参戦し、日本の中でフランスとイギリスが戦って勝った方が乗っ取るから、乗っ取られないように逃げたのだと言い出しました。

あ~、さいですか・・・。

史実は、勝さんが手配して、イギリスに亡命でもする??って話でしたけど・・・??

吉之助は、慶喜が恐ろしかったらしい・・・
「ようやくわかりもした・・・徳川慶喜様ではなく、ヒー様こそがあなたなのでございもすな?」by吉之助

あ??何言っとんじゃ・・・言いたいことが全く理解できません。
おまけに、徳川に生まれたことが不幸だなんて恐れ多い事を言う始末・・・。
??ヒー様が本当の慶喜ってことは、品川宿で飲んで遊んでいるバカだってことを言いたいのか・・・??

「もう・・・よかでごわす
 徳川将軍としてのお覚悟、この牛男、しかと見せていただきもした。
 ヒー様、よくぞ逃げて日本をお守りいただきもした。」by吉之助

だから・・・何のこと??
”徳川将軍としての覚悟”って、どの部分??なんなの??全く解らないわ・・・
っていうか、脚本家先生の言いたいことが、こっちに全く伝わってこないのよ・・・。
ま、フランス精鋭部隊12万軍って言われた時点で「ウソこけ・・・」って思っちゃうから真実味全くなし!!

で・・・殺す、殺すって言ってた慶喜を殺さなかった西郷・・・
木戸が怒ってますが、当たり前でしょう。
史実ではイケイケどんどんの大久保ももう、戦争反対派だしな・・・。

江戸は江戸も徳川家も助かったと、勝と山岡に礼を言う慶喜。
「苦労を掛けたな・・・」by慶喜
「いや・・・一番苦労したのは私たちじゃござんせんよ・・・西郷です!!
 あの男がやってくれやした!!」by勝

やめて~~~!!

勝さん、そんなこと言わないよ・・・
で、何やったって言うんだよ、西郷吉之助!!
敵だろ??なに敵の事褒めてんねん!!天晴なこと、いつしたんだよ!!

1868年4月11日、江戸城明け渡しの日・・・。

城明け渡しでは・・・
またもや篤姫&幾島にあって・・・慶喜の命をとらなかったことを、「西郷さん・・・相変わらず本当に人がよろしいわ・・・」と、幾島に言わす・・・この展開・・・最悪。
「そなたが勝ったのです。そなたの決めたことには逆らえません。」by篤姫
いやいや・・・そんなこと言いません。
徳川の家を守ってくれたことに感謝する篤姫。

「西郷・・・礼を言います。」だって・・・。
徳川が260年かけた書物を差し出す篤姫。
こんだけしかないんか??と言いたくなるしょぼい量です。
西郷の作る国が見たくなった・・・と、ホンワカな3人ですが・・・こんな笑って応対できひんやろ・・・??

もう・・・なんでもええわ・・・。

どこにもいない西郷を、「先生、先生」と探すみんな・・・吉之助は・・・
二宮尊徳の書を胸に寝ていました。
あ・・・キンチョー感ないわ・・・。
で・・・放っていくなよ、みんな・・・。

こうして後の世に言う江戸無血開城は終わったのです。
う~ん・・・全く違うから江戸無血開城って言わないで・・・

しかし、新たな騒乱が起きようとしていました。
上野寛永寺には、彰義隊が・・・やりたくない戦いが始まりました。
って・・・やりたかったんだろ??新政府軍!!
え~!!
会津や米沢、庄内、仙台が徹底抗戦だって。
榎本武揚も軍艦で脱走!!
って・・・会津は、さっきも書いたけど、恭順の意を示してたんだよ・・・
でも、振り上げたこぶしを慶喜に振り下ろすつもりが慶喜が隠居しちゃったから会津に振り下ろしたかったんでしょ??
やりたかったのは、新政府軍の方じゃないの・・・!!
どうしてそうなるかな・・・!!??

そして、そして、いきなり大村益次郎登場。
いきなりだよ・・・「以後お見知りおきを・・・」って、そんないきなり出てきて戦略言い出しても説得力なし!!

「そうか・・・あの大村が出てきたか」by勝

この一言で、大物感を出すという作戦かっ??
「せっかく江戸で血を流させずに済んだってのによ・・・
 お前さん、これからも戦い続ける気かい??」by勝

なんで西郷と酒酌み交わしてんねん・・・??

「死んじゃいけねえよ・・・西郷どん、西郷どん、龍馬が言った新しい国を作ってくれ」by勝

・・・

きっと、勝さんはそんな人じゃない・・・。

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なんだか恐ろしい・・・今回の副題は、「慶喜の首」です。
慶喜の首には、どれだけの家臣の首がかかってるのか?と思うと、口にするのも恐ろしいわ~~!!

よくわかんないけど、歴史的には鳥羽伏見の戦いかな??

京の守りとして天子様に仕える新政府軍・・・
都を追われた旧幕府軍は、大坂城から御所に向けて進軍開始・・・。
1868年1月3日の鳥羽伏見の戦い!!

「こいでよか・・・」by吉之助

??何がこれでいいって言うんだ・・・。

兵力で勝る旧幕府軍に劣勢の新政府軍!!

「退くな~~!!退いてはいかん!!」by吉之助

と、前回の戦の鬼が続いているようです。

おゆうが作った偽の錦の御旗・・・これは史実かも知れんことをやっているからだけど・・・今できたの??
戦って傷つく兵士たちを見てショックの信吾!!
そこへ、錦の御旗登場!!

錦の御旗で形勢逆転!!と言っても、勢いづく吉之助ばっかり!!
普通、錦の御旗が出てくると、幕府軍が焦るシーンが絶対あるんですけどね・・・。
形勢逆転もわからんわ・・・。

戦いをやめさせようとして信吾撃たれる!!
首を押さえて・・・首を撃たれてたら即死なんじゃないの・・・??と、冷静に思ってしまうほど迫力なし!!

「信吾はんやおへんか・・・!!西郷さまの弟御です。助けておくれやす!!」byお虎

お虎はもういいよ・・・ゲンナリ・・・と思う反面、このキンチョーなシーンで、西郷どんの弟だから助けてほしいって・・・どうよ??
助からんとか、大事な人の弟だとか・・・私情満載な発言の中・・・私は知っている・・・。
信吾は第1話のOPに出ていたじゃない・・・。と。
ふ~ん・・・吉之助の弟だから助けるんだ・・・なんて思うとシラケちゃうわ・・・。

西郷どんは一応軍議中ですが、あんまり何を言っているのかもわからない・・・
と思っていたら、ケガしてる信吾のところに行ってやれなんて話・・・するか??武士が・・・!!
私情を挟むな!!と、戦いに突き進む西郷!!

やっと、錦の御旗でオロオロする慶喜登場!!
味方の兵を残して、僅か4日で大坂城を抜け出す慶喜・・・。
薩摩隼人たちはまたまたエイエイオー!!です。

しつこく信吾の元へ行け!!と言われるのを断って御所に向かう吉之助。
って・・・ほんと、信吾のところに行け行けって、話しに水差さないでよね・・・
それとも、信吾のところに行かないことが戦の鬼なの??
もっと、戦で鬼になってほしいわ・・・。

船で逃げている慶喜・・・その慶喜をバカにして狂ったように笑いだすフキ・・・。
「この船は・・・きっと沈みます!!
 罰が当たったんですよ・・・。
 慶喜さまにも、この私にも。
 もうすぐ海の藻屑とやら・・・ですね。

 天下の将軍様がこんな風に死んでいくのかと思ったら、なんだか可笑しくて・・・」byフキ

この後、何とか無事に江戸にたどり着きました。

う~ん・・・その場で成敗してやれよ・・・慶喜・・・。
江戸でも・・・ウナギを食べる慶喜・・・。
って・・・ウナギ必要か??

江戸にいることを勝つに怒られる慶喜。
その言葉が・・・
「まさか江戸前のウナギを食いたくて舞い戻ったと・・・。
 ウナギなんぞ、食ってる場合かい・・・!!」by勝

はい・・・この勝も、成敗でしょう。
幕臣の勝が、こんな言葉を使うなんて・・・ほんど・・・気になって身が入らないわ・・・。

「戦に負けたのも、徳川の名を血に貶めたのも、皆あんただ・・・!!
 あんたは、徳川の恥だよ・・・」by勝

勝は、最後まで慶喜を生かそうと頑張ったんだよ・・・
最後は江戸を火の海にしてまでも守ろうとしたのに・・・なんだよ、この演出・・・!!

「あなたは、西郷さまから逃げただけです。
 言っていたではありませんか。
 どこまで追ってくるんだって・・・。
 あなたは、西郷さまが恐ろしいから逃げたんです。
 謝ればいいではありませんか。
 あの方は、心根のお優しい方です。

 あなたが心から悔い改め謝れば、必ず許してくださいます!!」byフキ

??身の程知らずが~~~!!
慶喜、手打ちにしてください!!
普通はカッコいい言葉だから書き起こすんだけど・・・あまりにも開いた口が塞がらないアホな台詞に書き起こしちゃいました。
こんなこと、誰が言うか~~~!!
何で、下級武士に天下の将軍様が謝らんといかんねん!!
助けてくれた慶喜になんてこと言うねん・・・!!

だから・・・最初っからフキ・・・っていうか、お芳は新門辰五郎の娘のままで良かったんだよ・・・。
それなら、勝海舟と協力して逃げる算段のドラマができたのに~~~!!

「俺の前から失せやがれ!!」と、慶喜に言われ、
「いいんですね。私、本当に行っちゃいますよ!!」って・・・どれだけ自信過剰やねん!!
どこでも行けや~~~!!
と、その高飛車具合に、こっちが反吐が出るわ~~!!
おっと・・・下品で失礼・・・。
余りのひどさに我を忘れてしまいました。

やっぱり、当時の女性のリアルを書いてくれないとな・・・
こんな女いないわ・・・
と思っていたら、
「哀れだね・・・あんた・・・」by勝
??哀れって・・・フキに捨てられたことが??何が・・・??
取り乱してるところが・・・??
海舟・・・あんたも幕臣なら、敬語使いなさいよ~~~!!

信吾のいる治療場に、外国人がやってきました。
なんと医者だといいます。
「助けておくれやす!!お願いします!!」
と、優先的に信吾を手術。
この西洋の手術によって、多くの新政府軍の人々の命が救われたそうですが・・・
そんなこんな・・・本当はキンチョー感半端ないこの状況で必要か・・・??

なんと・・・京に医師を招き入れたのは、吉之助が信吾のために天子様に頼んだらしい・・・。
??なんだ・・・鬼になったんじゃなかったの??
公私混同も甚だしいな・・・。
こんな西郷・・・見たくないわ・・・。

多くの命を救いたい!!とか戦争始めたの自分じゃん・・・。
鬼が弟のためにそこまでしたとか・・・そんな話・・・ダメだろ・・・。
弟のためだからやっちゃダメなんじゃないの??って思う私は古いんだろうか??

関東を征伐する為に京を出発する西郷・・・って、征伐だって・・・悪モンなんだな・・・。
「西郷はん~~!!」と、信吾と一緒に来るお虎。
??歩けんの??信吾・・・そんな重症じゃないやんか・・・天子様にお願いするほどの・・・!!
って思っちゃったわ・・・。

でも・・・関東に行ったら、もう、所かまわず叫んだり、抱き着いたりするお虎は見なくって済むのね・・・良かった。

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慶喜は寛永寺で謹慎中。
そこへ一人でやってきた勝海舟・・・
「奴らはあんたのお首が欲しいんです!!」by勝
あちゃー・・・そんなこと、口にしていいんかい??

戦うべきだという勝に、このままでは日本は異国の物になってしまう!!と、戦うことを断念する慶喜。
ま、徳川を世界の笑いものにしたくないとかそれがなんだかはわからないけど、戦うべきだと言った勝に、もう戦わないと慶喜が言ったのは本当です。

「どんな沙汰でも甘んじて受けよう。」by慶喜

最後はカッコいいですね。慶喜!!
でも・・・よく考えたら、慶喜がフランスに薩摩を売り渡そうとしていたから戊辰戦争が始まったってことになってたんじゃないの??
それなら精神崩壊したフキのあやふや情報で、吉之助が兵を挙げたってことになるじゃないの??
こんなの・・・たくさんの人が死んでいるし・・・これからも死ぬのに本末転倒だ・・・。

慶喜にいきなり山岡鉄舟を引き合わせる勝・・・。
どこにいたんだよ・・・控えてるにせよ・・・。やっぱり「西郷どん」は、セキュリティーZEROなのですね・・・。
でも、私の大好きな藤本隆宏さんなので許す~~!!

一人で駿府に行く山岡・・・
ここら辺も、藤本さんの熱演も残念ながら一人で行けちゃうところがリアリティーなし!!
どうやって、どの信念で行ったのか・・・そこは書いてくれないのね・・・。

don3















交渉のために切腹しようとする山岡ですが・・・
「いまこの国で・・・酷い殺し合いをしている場合でしょうか?
 この命と引き換えに、我等が願い・・・天子様へお伝え願いとう存じます。」by山岡

「何故・・・あの慶喜公のためにそこまで・・・??」by吉之助って・・・馬鹿か??吉之助はバカなの??
将軍様だからだよ!!幕臣だったら守るだろ??
情に訴えて、情に絆され勝と会うことになった吉之助でした。

本当の交渉はこんなもんではありません。
もっと、現実的なものとなっています。
本当の交渉がどんなものだったのか??それはこちら「江戸城無血開城 勝海舟の知略」

お食事処でご飯を食べている嫌われ者の西郷たち・・・
磯田屋で女子たちと遊びたかったとか訳の分からんことをまた・・・と思っていたら・・・聞き覚えのある女性の声が・・・。
幾島でした。
Σ( ̄ロ ̄lll)ガーンお虎がいなくなったのに、新しい強敵登場!!
それにしても、この期に及んで女遊びをしたいんか??と、腹立たしい限りです。
女遊びは歴史には残せないけど、そこここでやってるじゃんよ~~~!!

幾島に導かれ・・・なんと、大奥に入ってしまう西郷どん。。

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そこには懐かしい天璋院がいました。

もう・・・江戸城無血開城されてるじゃん・・・!!

先日、「ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年」という映画を見ました。

内容は・・・花輪君家に何人かの子供たちがホームステイに来て、おじいちゃんと同じマルコという名前からまるちゃんに興味を持った少年がまる子の家に泊まるというお話しで・・・
おじいちゃんのマルコは亡くなったので、その思い出を探しに日本に来た・・・みたいな内容でした。
ちびまる子ちゃんということで、子供にもわかりやすい起承転結な作品となっていました。
お話しはすべて回収し、最後はどうなるか、わかりきっているのにクライマックスで泣いてしまいました。
よくできた作品でした。

歴史のお話も、見る側はどうなるか解っていてそれでも作品にする・・・それが、脚本家さんの腕の見せ所だと思います。
たくさんの人が死んできている「西郷どん」ですが、あまりにも内容が浅く・・・涙も出ません。

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西郷隆盛とは何者か1 西郷は実像以上に美化されている

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