日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:おね

京都市東山区にある高台寺・・・死者の霊魂を祀ると言われる霊屋には、二体の座像が安置されています。
右が豊臣秀吉、そしてその隣にあるのが、秀吉の正室・・・北政所・おねです。
秀吉の正室・おねがいなければ、秀吉は天下をとれなかった・・・??

おねが生れたのは、一節には1548年といわれています。
父・杉原定利は、母・朝日のところ(木下)に婿養子となっていたために、おねも木下の人間として育てられました。
秀吉と結婚したのは14歳の時、でも、それまでが大変でした。
おねの親族・肥後国日出藩木下家家老が編纂した資料には・・・野合とあります。
野合とは、正式な手続きを経ずに男女が密かに関係を結ぶことです。
当時は、政略結婚など、親が相手を決めるのが常でしたが、その中で、おねと秀吉は恋愛で結ばれた仲でした。
更に問題だったのが、秀吉の身分・・・
おねの家は名字を持つれっきとした家系でしたが、藤吉郎と名乗っていた秀吉は、名字もない農民あがりだったのです。
尾張の織田信長のもと、戦の戦闘で戦う歩兵で足軽衆をしていました。
そんな身分の低い秀吉との結婚に、母・朝日は猛烈に反対します。
それでもあきらめきれないおねに救いの手をさしのべたのは・・・母・朝日の妹・七曲でした。
夫である浅野長勝におねを養女にしてもらい藤吉郎と結婚させました。
二人の結婚式は清州城下にある足軽長屋で行われました。
とても質素なものだったと言われています。
この時、秀吉25歳、おね14歳、親の反対を押し切ってまでの結婚・・・とても仲が良かったといいます。
おねと結婚したので、木下と名乗ることができるようになった秀吉・・・。
名字を持てる身分になった事は、秀吉にとって大きな出来事でした。
それを機に・・・足軽から天下人へと上り詰めます。

内助の功①長浜城を取り仕切る
1573年、浅井長政との小谷城の戦いで勝利に貢献した秀吉は、浅井の領地だった北近江三郡13万石を与えられ、国持ち大名となります。
そし1574年に築いたのが長浜城です。
その翌年・・・結婚して14年、おねも長浜城に入りますが、夫婦の時間などありませんでした。

この頃、木下から羽柴に名前を変えた秀吉は、主君信長から中国方面軍司令官に抜擢され、中国地方を支配する毛利氏の討伐に任命されます。
播磨の姫路城を足掛かりに西に向かうことに・・・!!
不在の間、長浜城をおねに任せた秀吉・・・
「長浜城下に町人を招くため、町人の年貢諸役を免除したところ、近隣の在所から長浜に、続々と人が流入したため、年貢を申し付けた
 しかし、「それ様」が、断りを入れてきたため、今まで通り年貢を免除することにする
 「それ様」が願ってこのようになった事を、よくよく言い聞かせてほしい」

「それ様」=おねです。
尾根の意見を聞き入れて、願いを取り下げたと文書に書かれているのです。
秀吉とおねは共同経営者だったのです。

内助の功②信長との付き合い
秀吉の主君信長がおねにあてた手紙です。
そこには、安土城を建築中だった信長の元に、おねが見事な土産をもっていった事へのお礼が書かれていました。
主君へのこうした気配りも忘れませんでした。
一方で、おねは次々と側室を迎える秀吉のことを、信長に相談していたようで・・・
「はげねずみのような秀吉が、あなた以上の妻を迎えるのは難しいのだから、朗らかな気持ちで堂々としなさい」
そして、この手紙を秀吉に立ちに見せるように言うのでした。
おねが主君信長から厚い信頼を得ていた証拠でした。

1581年、信長が京都御馬揃えを行った年・・・
家臣たちは次々と金銀や唐物をもって信長の元へ挨拶に行きました。
しかし、秀吉は小袖200枚を送ったのです。
動きやすい小袖は、当時、侍女たちの普段着でした。
特に、信長は家臣に褒美として与えるほど愛用していました。
そのため、秀吉からの気の利いた贈り物に大変喜んだといいます。
その小袖・・・おねと長浜の女性たちが力を合わせて縫い上げたものでした。
おねの内助の功もあって、主君信長との深い絆ができた秀吉・・・

1582年6月2日、信長は家臣・明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺で自害しました。
秀吉不在の長浜城を守っていたおねにも危険が迫っていました。
長浜城に光秀方が攻め入ってきたのです。
おねはすぐに側室や女中たちを引き連れて城を脱出!!
標高750mほどの高地にある大吉寺に逃げ込み、事なきを得ました。
おねは、夫秀吉の留守をしっかりと守り通したのです。
そして本能寺の変からわずか11日後・・・羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、主君信長の仇を討った秀吉は、天下人へと邁進・・・おねの仕事も増えていきました。

内助の功③妻外交
1583年、秀吉が天下人となることを決定づけた織田家家臣・柴田勝家との賤ケ岳の戦い。
秀吉よりも決め手になったのは前田利家が戦線離脱したことでした。
おねと前田利家の正室・まつが親しく、そこには、妻のホットラインがあった・・・??
おねは、柴田郡の状況を聞いたり、利家の戦線離脱を説得したりしていたようです。
夫たちが表向きには出来ない交渉を、妻外交で担っていました。

結婚から24年がたった1585年7月・・・遂に秀吉は関白に上り詰めます。
史上初の武家関白の誕生です。
その裏にも、おねの妻外交があった・・・??
関白になれるのは、公家の五摂家だけでした。
そこで、秀吉は近衛家の猶氏(家督相続を前提としない養子)となったのですが、そこには、おねが天皇家や公家衆などにお酒やタイなどの献上品を折につけ贈り、立ち働いていました。
この頃から、秀吉は豊臣と名を改め、おねも北政所となりました。

関白となった秀吉は天下統一に向け躍進!!
各地で次々と人質を取っていきます。
家族を人質に取って、動きを制限したり、反発を防ごうと考えていました。
それを大々的にやった最初が、秀吉でした。
長く秀吉と対抗していた伊達政宗もその一人・・・。
配下となるにあたって、その臣従の証として政宗に正室を人質に出すよう命じます。
そんな政宗の元に、尾根の手紙が届きます。

”人質として上洛する政宗殿の奥方の安全を保証する”

おねは、大勢の人質の監督も任されていました。
人質を蔑ろにすれば、恨みを買い、有事の際にはそれが豊臣家に災いをもたらす火種になるかもしれない・・・
そう考えたおねは、人質を丁重に扱い、世話を焼いていました。

秀吉とおねには子供ができなかったと言われています。
しかし、江戸に書かれた「爛柯堂棋話」によると・・・

秀吉とおねは、結婚してすぐに子供を授かった
しかし、秀吉は足軽衆・・・
二人の暮らしは貧しく、子供ができるとさらに苦しくなる・・・
子おろしの灸を据えた
そうしたことが3回もあった・・・

この話の信憑性はわかりませんが・・・。
そこでおねは、忙しい秀吉に代わって、何人もの養子、養女を迎えはじめます。
秀吉はおねにその子供たちのことを任せ、豊臣家の未来を担う人材を育てさせます。
しかし、状況が一変!!
1588年、秀吉の側室・茶々が懐妊。
秀吉は、出産場所として淀城を建設。
そこに住むようになった茶々は淀の方と呼ばれるようになります。
翌年・・・秀吉の待望の嫡男・鶴松が生れます。
跡継ぎとなる男の子を産んだ側室・淀の方と、正室だが子供のいないおね・・・
そんな二人の間には確執があったとされていますが・・・??
二人の間には確執はありませんでした。
淀の方は、鶴松を生んだ時点で二人目の正室となりました。
当時、関白になると正室は一人ではありませんでした。
淀の方は、男児を出産したことで、正室に格上げされたのです。
正室の役割には、子供を産むことと、家を守ることがあります。
おねは家を守ることに長けており、確執なく、正室の役割分担をして二人で秀吉を支えていました。

1590年、関東の北条氏に勝利した秀吉は、遂に天下統一を成し遂げます。
しかし、年が明けると次々と秀吉に不幸が襲います。

1591年1月、実弟秀長が死去
     8月、嫡男鶴松が死去

この時55歳、もう子には恵まれないであろうと思った秀吉とおねは、家督を継ぐ者を選ぶことに・・・。
候補は二人・・・秀吉の姉の子・秀次、おねの兄の子・秀秋でした。
秀吉の数少ない身内の秀次は、四国攻めの副大将として活躍し、重要地である近江八幡43万石の大名に。
秀秋は3歳で秀吉の養子となり、6歳で丹波亀山10万石の大名になるなど、溺愛されて育ちました。
どちらを跡継ぎにする・・・??
秀吉が選んだのは、自分の血縁である秀次でした。

養子に迎えると、自分は太閤に・・・秀次を関白の座につけました。
ところがその2年後・・・淀殿が秀頼を生むのです。
1593年、淀の方が男の子を出産・・・拾・・・後の秀頼です。
子供は無理と思っていた秀吉は大喜び!!
秀頼を正統な後継者として育てたいと考えるようになります。
そこで運命が大きく変わったのが秀次と秀秋・・・
1594年、秀秋を小早川家へ養子に出します。
1595年、秀次は・・・謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれます。
さらに、秀次の正室、側室、子供達・・・総勢39人を殺害!!
この時のおねの心情や行動について書かれた資料は残されていません。

こうして秀頼が名実共に秀吉の後継者となりました。
しかし、秀吉が病に倒れます。
おねは、必死で病気平癒の祈祷を行います。
しかし・・・その願い届かず・・・1598年8月18日、この世を去ります。

秀吉の遺言で、五大老のツートップ、徳川家康と前田利家が豊臣家を任されます。
家康は伏見城で執務を、利家は大坂城で秀頼の補佐をする・・・。
妻たちにも遺言しています。
大坂城のおねは伏見城に・・・伏見城にいた淀の方は江戸城に移るように言い残しました。
遺言通り、淀の方と秀頼は、秀吉が亡くなった翌年、大坂城の本丸に移ります。
ここでは、前田利家が補佐を任されていましたが・・・1599年前田利家死去。
利家が亡くなったことで、家康が天下取りに動き出します。
するとおねが驚きの行動に・・・
自分のいる大坂城西ノ丸に家康を招き入れ、さらに、夫・秀吉の遺言に従わず、伏見城ではなく京都の屋敷に・・・。その理由は・・・??
強大な権力をふるい始めた家康に対抗してきていたのが、秀吉の側近で五奉行のひとり石田三成でした。
ところが三成は、反三成派の武将たちから襲撃を受け、責任を取らされて近江・佐和山城で蟄居させられていました。
すると家康は、三成の兄・石田正澄の屋敷に入り、政務をはじめました。
家康は、前田利家がいなくなった後、秀頼の補佐もしなければならないので、大坂に本拠地を置く必要性があり、石田正澄邸に入りました。
しかしおねは、政務を執る場所は大坂城内だと考えて、豊臣政権の政治は大坂城で行うべきと、家康を大坂城に入れました。
おねが家康を大坂城に入れたのは、豊臣家のことを思っての事・・・。
秀吉の遺言に反して京都の屋敷に移り住んだのにも理由がありました。
秀吉の亡骸が、京都の豊国神社に埋葬されていたからです。
京都の屋敷に移り住んだおねは、秀吉の月命日には欠かさず参っていたと言われています。

亡き夫の弔い・・・後継者の育成・教育・・・後家役割と、当時は言っていました。
菩提を弔うのはおね、秀頼の教育は淀の方だったのでしょう。
しかし、おねが家康を大坂城に入れたことで、家康はますます立場を強くしていき、勢力を拡大させていきます。

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
徳川家康率いる7万の東軍と、石田三成率いる8万の西軍が激突します。
秀吉恩顧の者たちが、東西に分かれて闘いました。
天下分け目の戦いで、東軍の勝利を決定づけさせたのは、秀吉とおねが養子にして可愛がっていた小早川秀秋の裏切りでした。
秀頼の誕生後、小早川家に養子に入った秀秋は、家督を継ぎ、筑前名島を治める大名になっていました。
豊臣家から追われたとはいえ、一族だった秀秋は西軍として参戦!!
戦の途中、東軍に寝返り西軍を攻撃!!
これによって東軍が勢いづいて勝利したのです。
この裏切りは、家康の調略によるものですが・・・
秀秋に裏切りをせかす手紙が残っています。

東軍の浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に宛てたものです。
そこには、
”政所様の世話になってきた二人(浅野・黒田)はおねを手助けする為に東軍についた”と書かれていました。
足軽出身だった秀吉には、代々仕えてきた武将がいませんでした。
そこでおねは、秀吉を支える武将にすべく、加藤清正・福島正則など若い家臣たちの面倒をよく見ていました。
黒田官兵衛の息子・長政も、世話になっていました。
秀吉・おね夫妻に我が子のように育てられました。
おねの親族の浅野も、おねに恩がありました
秀次事件の際に、秀次の弁護をしたことで秀吉の怒りを買ったのをおねが助けていたのです。
そんな二人は、同じくおねに恩のある秀秋に対し、東軍に着くと返事をしてほしいとせっついたというのですが・・・

おねは、本当に東軍に味方していたのでしょうか?
この手紙は、黒田・浅野が小早川秀秋を説得する為に、おねをダシに使ったのでは・・・??と思われます。
おねは、家康方についていたわけではなく、名前を利用されただけでした。
関ケ原の戦いのとき・・・おねはどのような状況だったのでしょうか?
おねは、これといった政治的な動きはしていません。
おねの兄・木下家定は中立、
その長男・勝俊は東軍として参加するも任務放棄
次男利房は西軍、三男延俊は東軍、四男俊定は西軍。
五男秀秋は・・・??西軍から東軍に寝返りました。
おねの親族は、てんでばらばらの動きをしていました。
もし、家康に加担していたならば、東軍につくように諭したはず・・・
おねが家康方に立っていたわけではなかったのです。
動きようがなかったのです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任じられます。
おねには高台院の院号が下賜され・・・2年後、家康の援助を受け秀吉の菩提寺となる高台寺を建立。
家康の遺品を底に収め、菩提を弔うことに・・・
静かに暮らそうと思っていました。

しかし、時代がそうはさせてくれませんでした。
京都でなく夫・秀吉の菩提を弔っていたおね・・・しかし、徳川家康が動きます。
豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の釣鐘に物言いがついたのです。
問題となったのは、「国家安康」の四文字です。
家康が分断されて呪っているというのですが・・・
その真の目的は、これを機に豊臣と戦をすること。
秀頼と淀の方はこれに乗せられてしまいます。
全国から浪人と集め、戦の用意を始めたのです。
豊臣と徳川は臨戦態勢に・・・大坂の陣勃発目前!!
そしておねが動きます。
大坂へ向かうことにしたのです。
この時67歳・・・どうしておねは、危険な大坂に向かうことにしたのでしょうか?
淀の方を説得しようとしたのでは・・・??といわれています。
徳川方に屈服するようにと・・・!!
豊臣家の存続を願っていたおねの行動でした。
豊臣家を守りたいという思いがあったのです。
徳川の邪魔が入り、大坂にはたどり着けず・・・京都を出ることさえできませんでした。
1614年11月19日、大坂冬の陣勃発!!
二度にわたる戦いの末、追いつめられた秀頼と淀の方は大坂城で自害。
ここに豊臣家は滅亡しました。
その時おねは・・・守護を命じられていた甥の木下利房と共にいました。
しかし、守護とは名ばかりで、淀の方と連絡を取らないように監視されていたのです。
焼け落ちていく大坂城・・・紅蓮の炎と立ち上る煙は京の町からも見えたといいます。
おねもまた見ていたのかもしれません。
必死に守ってきた豊臣家の最期を。
伊達政宗に送ったおねの手紙には・・・大坂のことは何とも申し上げる言葉もありません。

足軽だった秀吉と築き上げてきた豊臣家、言葉にならないほどつらかったということでしょうか?
最後まで慕われ、暑い信頼を寄せられていたおねは、乱世の中、細やかな気遣いと確かな判断力で夫を支え、深い愛情を家臣たちに注ぎ、育て・・・おねは、戦国一の偉大なる妻であり、母でした。

おね終焉の地とされる圓徳院・・・亡くなるまで19年間をここで過ごしたといいます。
1623年おねは甥木下利房の次男である利次を養子に迎えます。
そしてその翌年、波乱の人生を77歳で閉じるのでした。
亡骸は、圓徳院の近くの高台寺に・・・秀吉と共に祀られています。
死後も秀吉の妻として寄り添うように・・・。

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前回・・・官兵衛は如水となって引退し、関白・秀次の相談役になっていました。

しかし・・・三成に逆心・謀反の疑いをかけられる秀次・・・!!

鹿狩りと称して同心の者と山中で落ち合い、謀反のたくらみをしていると・・・!!

秀吉は、お拾いの行く手を阻むものをすべて・・・排除しようとしていました。

kan2












三成に対抗するため武装する秀次・・・それは自ら逆心・・・謀反と言っているようなものでした。

「太閤殿下と秀次公は、叔父・甥の御仲、ここで争っては天下は乱世に後戻り。
 天下のために伏見へ行かれませ。
 それが天下を治める関白殿下のお役目にございます。」by官兵衛。

「天下のため・・・関白の役目と申すか・・・。」by秀次

しかし・・・高野山にて蟄居を申し渡されてしまう秀次。。。
申し開きの場も与えてもらえません。

「ただ・・・拾の先行きをお考えください。」by茶々

蟄居で済まそうと思っていた秀吉・・・自分の感じた老いと茶々のこの一言で・・・
切腹が申し渡されたのはそれから7日の後でした。
高野山・青巌寺にて・・・

「無念じゃ・・・」by秀次。

秀次公の一族は、ことごとく成敗・・・
わずか6歳の嫡男仙千代を始め、拾君の許婚であった姫君、側室・・・39名が一族郎党が容赦なく・・・
三条河原は血に染まったのでした。

正気の沙汰とは思えません。。。
秀次には正室・側室併せて20人を超える妻妾を持っていました。
そこには四男・二女も・・・。


とりあえず、なんもしなくってビクビクして終わってしまった秀次ですが・・・
殺生関白なんて言われ、悪名を着せられましたが、その真の姿は学問や芸術に深い関心を抱いた、文人関白。

小田原攻めにおける後北条家の滅亡によって、庇護者を失った関東一の大学である足利学校の蔵書を京都に移して保護したりもしています。
大将としても活躍し、近江八幡を商人の町として活発化させたのは秀次以外の誰でもありません。
 
後半の豊臣政権は太閤秀吉と関白秀次の二元体制であったことに間違いありませんが、最終的には太閤殿下が決めていたことには変わりないでしょう。
この秀次事件で、天下人としてかなりおかしい秀吉が強調されポイントなんですが・・・
ああ・・・軽~く善助の報告で三条河原が終わりました。
ま、あまりにも悲惨な光景なので、これはこれで良かったのかも???

歳は隠せません・・・
おねしょをしてしまう殿下・・・
誰にも言わないと・・・淡々と処理する茶々・・・
これはこれで、どちらが上位に立っているか、立ち位置が変わったことを意味するのには良かったかも。。。
そう、もう、茶々の天下は始まっている・・・??

秀吉に呼び出される官兵衛・・・

kan3












拾に災いをなすものは全て排除しようとする秀吉。
不安を抑えきれない秀吉に・・・
官兵衛も、秀吉の老いを感じずにはいられませんでした。
秀次側が次々と処分される中・・・再び軍師として仕えてくれれば許す。。。と言われ・・・復帰する官兵衛。

「お主には、長政とは別に禄を与える。」

自分が治めていた播磨を・・・しかもたかが1970石で・・・
安堵する秀吉・・・しかし、蹴落とそうとしていた三成は苦々しく思うのでした。

そして・・・たかが2000石足らずで仕える官兵衛に、周りのめは冷ややかでした。

殿下の天命が迫っている・・・
誰も殿下をお止めすることができないのなら・・・最後まで見届ける。
それが、殿下を太閤にまで押し上げた自分の責任だと。。。
ま、若い三成には出来ないことでしょうね・・・これは。。。

明の国書が遂にもたらされました。
しかし、秀吉の和睦条件とは全くかけ離れたのでした。
またもや兵を出そうと言い出す秀吉・・・狂ってます。。。
あ・・・それは秀次事件で立証済みか・・・。

「何としても朝鮮を手に入れるのじゃ・・・!!」by秀吉。

秀吉の面目のための戦いなので、士気は低い・・・
という弱気な長政に、戦うことを薦める強気ないと。。。??
これって二人の亀裂の伏線なんだろうか・・・??


軍師として朝鮮に出向くという官兵衛に、子供のように喜ぶ秀吉。
今回の秀吉は、まさに落ちゆく巨星。。。
老いていく秀吉・・・竹中直人さんお見事です。。。

1596年12月お拾改め秀頼誕生!!
秀頼・・・この人も・・・生まれながらにしての関白ですね。

これで豊臣家は安泰??
いえいえ、秀次を処刑した時点で豊臣家を支える人は皆無。。。
なので、屋台骨はボロボロです。。。
そう、このあと3年で秀吉はなくなってしまうので、きっと自分の寿命も解っていたのでしょう。

徳川家康はこの時55歳。
まだまだ生きるわけですが、彼もまた、この若くて聡明な秀頼への嫉妬心、恐怖、自分の老いとの戦いで大坂の陣を引き起こすのですから、ま、みなさん天下人はこんなふうなんでしょう。


黒田家は、朝鮮へと出陣する時期が来ました。
熊之助、元服して朝鮮に渡りたいらしいです。。。

kan5















yuuki

この熊之助、泣かせたら子役一番の今井悠貴くんです。
大きくなりましたね。
個人的にはこちらの悠貴くんがぴか一です。


そんな子供たちの複雑な気持ちのなか・・・
黒田軍を始め、14万の軍勢で出兵していきました。
第二次朝鮮出兵です。





みんなそれぞれの最期を迎えようとしていました。

ここにも・・・

kan4












小早川隆景です。

後を継ぐのは・・・あの有名な、小早川秀秋。

kan1












この父に?なことをしでかす彼です。
って言っても、血は豊臣。
そう、この人も、秀頼誕生によって運命が変わってしまった人です。

秀頼が誕生するまでは、可愛がられていました。。。
秀次に次ぐ豊臣家の後継者と思われていたにもかかわらず・・・
秀頼の誕生で、秀吉と官兵衛によって、小早川家に養子に入りました。
まあ・・・小早川家に実子のなかったことが、隆景にとっても不幸中の幸いだったのかもしれません。
やっぱり誰でも血統で継がせたいものね・・・。

そして・・・隆景もまた、秀秋のことを官兵衛に託すのでした。

空気の読めない官兵衛に、ひとこと忠告をして・・・
中国大返しを思い出しながら・・・
「あのころが・・・あのころは・・・楽しゅうございましたな。。。」by官兵衛。
あ~~~、それはそうだろうな。。。
一番脂の乗り切った、楽しい時だったでしょう。

毛利を支えてきた小早川隆景も、その生涯を閉じたのでした。

そして・・・熊之助は、吉太夫と共に・・・朝鮮の船にもぐりこんでいました。

熊之助の事は、資料がないのでよくわかりませんが、朝鮮に渡ったのは本当のようです。。。

そう・・・嵐が待っている次回なのです。
振り回される相手が変わりそうですよ!!

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前回官兵衛は、遂に、家康との対面を果たしました。

そして・・・殿下が次に天下を取るのは官兵衛だと思っているということも・・・!!

官兵衛に12万石しか与えなかったのは、天下を取る可能性があったから・・・
野心があったからだ・・・!!
ということを官兵衛に話す家康。。。
これも家康の策略??
まさにキツネとタヌキの化かし合いですね。

で・・・なんと茶々は御懐妊。

kan1












跡継ぎを生むための城を・・・淀城の建設が急がれるのでした。


kan4












おねに挨拶に来る茶々・・・
こちらも火花バチバチです。

国許で茶々の懐妊を聞いた官兵衛は。。。
なんだか思案中。
家督を長政に譲るらしいの。。。

「わしは隠居し・・・長政に家督を譲ろうと思う。
 天下が近づくにつれ、殿下は疑り深くおなりになった。。。
 そしてこのたびの茶々様のご懐妊。。。
 守るものが出来ると人は一層疑り深くなる。
 今の殿下はお子に災いなすものを取り除くためならどんなことでもする。

 わしが次の天下人などというのは今のところお伽衆相手の戯言であろう。
 それがいつ芽吹くか分からぬ。。。

 黒田が生き残るには、わしが隠居し、その疑いの芽を摘み取っておくしかないのだ・・・!!」
 
そうね・・・スターリン然り・・・ヒトラー然り・・・権力を手に入れた者はみんなそうなっていっちゃうのよ。。。
それだけ人を蹴落として成り上がったからなのでしょうね。。。

そして・・・家臣たちはみな、長政を支えていってくれるという。。。
そうね・・・秀吉に、こんな家臣が居れば良かったんだけどね。。。
やっぱり元々の家臣がいない上に、家臣を育てる前に出世してしまったもんだから・・・
ここにはあんまり出てこないけれど、秀長しかいなかったからなあ・・・

そう言えば、秀長もそうだけれど、秀次もどこいったの・・・??
既に高野山??ってそれはまだね・・・。


隠居することに逆切れする秀吉。。。
でも、隠居は許してくれませんよ。
だって、北条攻めにも必要だし、朝鮮出兵にも必要だから。

駄々をこねるかのように許してくれない殿下。。。
蹴落としたい三成は、隠居を許さないことにちょっと不満気。
う~ん、三成、ちょっとヤキモチやいてます。

そして官兵衛が隠居願を出したことは家康の耳にも・・・
関白にあらぬ疑いをかけられる前に隠居を願い出たことを見抜く家康。

そんな秀吉は頂点に立ちつつありました。
もう、恐いもんなんてないわよ。
あ~、もう、色ボケしちゃってます、秀吉。。。
戦いが終わって安心しきった感じ。
おまけに淀城の普請を催促する茶々。


そんな中・・・事件が起きます。
城門に落首が・・・

「大仏の功徳もあれや 槍かたな
      くぎかすがひは  子宝恵む」

「ささ絶えて 茶々生ひ茂る 内野原
      今日はけいせい  香をきそひける」

どちらも殿下をからかったものでした。

自分のことよりも、茶々をからかったことに怒り心頭・・・!!
門番17名が拷問の末、死罪。疑わしきも手当たり次第罰せられ、その数100名以上。

もう・・・おねの手にも負えなくなってきちゃいました。
「天下人の座は・・・人を狂わせるのか・・・」byおね

おねは官兵衛に書状を・・・!!

「おね様は長政の命をお救いいただいた黒田の恩人・・・。」
恩人のためならば行かねばなるまい・・・と判断するも。。。
言いようによっては・・・諌めて自分の首も危ない・・・??

しかし、主君を諌めるのは家臣の務め・・・と、京に上る官兵衛ですが・・・

淀城ができたことに喜ぶ秀吉に、ニコリともせず。。。

kan3












「よろしくありませぬ。
 咎人が誰だか分らぬゆえ、疑わしきものをまとめて殺す等、言語道断。

 殿下はこれまで人を殺さずに、味方に取り込むことで信長公の死からわずか数年で天下を手になさいました。
 されど、このたびの一件で、人々の心は殿下から離れてしまいました。

 茶々様の御子を皆が待ち望むような世にせねば、豊臣家の先行きは危のうござる・・・!!」

自分(殿下)が死んだ後も、秀頼が治められるような盤石な世の中にしておかなければ、豊臣家の未来はない!!と、啖呵を切っちゃいました。

「だからこそわしは、官兵衛を手放せんのじゃ・・・!!」by秀吉。

苦言を呈してくれることに喜びを感じているんだろうか??
ま、それが良い家臣なんですけどね

三成は???よくわかんない~~~
と、秀吉は、前祝いとばかりに庶民に金をばらまくことになりました。
この時配られたのは、金・6000枚、銀・2万5000枚と言われています。
そうね・・・昔の秀吉だったら、庶民の事は一番よくわかっているから、とっても金払いが良かったですよね。
いい例が中国大返しでした。
そんな気持ち、天下人になってからは忘れちゃっていたのね。

そして・・・家督を長政に譲ることは許したものの・・・
隠居は認めず、黒田の当主としてではなく、官兵衛自身はひとり秀吉につかえることに・・・。

そしてついに・・・1589年5月27日。
お棄誕生・・・!!
あかちゃん、ちっちゃくってかわいい。。。

kan2












長政は・・・家督を継いで。。。
従五位下甲斐守の官位をもらいました。
おかか様もとっても満足気。

でも・・・おね様は予感がしているのでしょうか??
くぎを刺しましたが、ここに武断派誕生です。

そして、政治は後北条との戦いに入っていくのです。
う~ん、説得しにきたんだろう??家康。。。
この家康さん、何考えてるのかわかんないというか、あんま何にも考えてなさそう。。。ってか、やる気なさそう

で、次回は難攻不落の城・小田原城です。
難攻不落の城、やっぱり軍師・官兵衛がいないと勝機はありませんよ。


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傷だらけの魂って誰の魂が???
そこがポイントな回ですね。
ってことは、やっぱり軍師的な戦よりも信条的な描写とかアットホームとかを描くんだ・・・。


1585年7月11日・・・秀吉は遂に関白となり、9月には姓を豊臣と改めました。
そう・・・豊臣秀吉の誕生です。

同じ年・・・官兵衛の父・職隆がこの世を去りました。

忙しく・・・また大阪に戻るという官兵衛・・・今は一人前となった長政に地元を託します。

大坂城では・・・
関白となった秀吉が、子飼いの武将たちに官位を与え、側近として用いていました。
あ~、なんか三成の白装束っぽくって違和感たっぷり・・・。


kan2

















各地の大名に、争いを止めることを命じます。

未だに殿下に従わないのは東国の徳川・北条、薩摩の島津。
この二つを攻略しなければ!!??

天魔にある黒田屋敷では、いつものメンバーが、九州征伐に向かうであろう殿下のことを噂していました。

四国平定に於いて黒田には恩賞のないこと・・・。
恩賞を断ったのは官兵衛であること。。。
官兵衛のことを快く思わない人間がいるのではないか??ということ。

そう、それは政をしきっていた石田三成でした。

kan5












そして・・・殿下は頭の切れる官兵衛を気味悪く・・・油断がならないと思い始めていました。


他にも・・・
茶々にご執心の秀吉に一言文句を言うおね。

kan3













でも・・・そうなのよね。
秀吉は高貴な女性が好きだから。。。
親方さまのめいですからね~
おまけに高嶺の花だったお市の娘ですから。。。

なのに相変わらずもつれない茶々。。。

kan4












秀吉には興味がなくても・・・お伽衆の道薫のことは気になるようで・・・

そして・・・道薫の・・・有岡城の話を聞きたいという。。。

何を思う茶々。。。
もしかすると、私たちが思うよりも茶々は男性的だったのかも知れませんね。

大坂城下にある南蛮寺に来た官兵衛。
そこは高山右近が高槻に設営したセミナリヨでした。

そこで流れていたのは・・・
だしが歌っていた讃美歌でした。

有岡城のこと・・・だしのことを思い出す官兵衛と右近・・・
すでにあれから6年の歳月が経っていました。

官兵衛の屋敷で働くことになった新吉・・・。
どこかで見たような・・・と、九郎右衛門。
下働きをしながら、妻と息子と官兵衛の屋敷で暮らしていました。

官兵衛の屋敷に道薫がやって来ました。
道薫に目通りを願ったのは、鉄砲組だった新吉。。。
有岡城で荒木村重に仕えていたのです。
そして妻は、だしの侍女でした。
なんと息子・又兵衛は・・・あの・・・村重とだしの子供だったのです。

「黒田さまのお屋敷で働いていれば、いつか・・・いつか・・・殿にお会いできるのではないかと・・・!!」

「それがしに子などおらぬ・・・」by道薫

しかし・・・一人で涙を流す道薫・・・いえ、村重がいました。


いよいよ茶々の前で有岡城の話をすることになった道薫。

その場所には、村重に裏切られた官兵衛、そして村重を裏切った右近も同席していました.。

妻や家臣を見捨て・・・何故ひとり生きながらえているのか??
それが知りたい茶々。。。

父を見捨て・・・母と義父を見捨て・・・生き恥をさらしている自分と似た化け物。
だからこそ、村重のことが気になるのでしょう。
そこには自分が非力であることの憤りもあるのでしょう。


あ~、右近がキリスト教に勧誘してますよ。
たくさんの人を殺し過ぎたからでしょうか?
ま・・・右近はもともと綺麗な心の持ち主だったように思うけど。
官兵衛はきっと、色んなことがあって悟ったからこその入信なのでしょうね。

村重の子・又兵衛は絵も上手。
そこには村重の似顔絵もありました。

子供心を思い・・・蟄居だった道薫に会いに行く官兵衛。。。
お沙汰は所払いとか。。。二度と大坂の地は踏めなくなった道薫。

大坂をたつ前に、官兵衛が会わせたかったのは・・・

kan1












又兵衛でした。

官兵衛の粋な計らいですね。

別れを惜しむように・・・道薫は、堺で茶の湯三昧を過ごし・・・翌年の1586年にその生涯を閉じるのでした。
そして又兵衛は、湯浅又兵衛となり、後世に名を残す絵師となるのです。

右近に・・・キリシタンへの入信を希望する官兵衛。
あ~、いきなり洗礼受けてます。
そんなことしていいのか??
光に許可は要らないの・・・??

と、思うけれども、この頃はまだそこまでいろんなしがらみがなかったのかしら??
この日から”シメオン”を名乗ることになるのです。

報告を聞いて・・・結構懐の広い光です。
右近を信頼し、それ以上に官兵衛を信頼してるからなのでしょう。


大坂城にやって来た小早川隆景と安国寺恵瓊。
金色の組み立て可能な茶室にびっくり!!

「組み立て・・!!??」by恵瓊

利休の侘び茶もいいが、わしはこちらの方が大好きと・・・利休とも違う道に進み始めたようです。

秀吉に九州攻めの支度を申し付けられる官兵衛。
しかし、ふたりの間には、やはり石田三成が。。。
恩賞をもらわなかった官兵衛に疑念を抱いているようです。

「某は、領地が欲しくて働いている訳ではございませぬ。」

「領地が要らぬと?
 ならば官兵衛、お主は何のために働いておるんじゃ??」

「殿下のもと・・・天下が静まることのみを望んでおりまする。」

「無欲な男ほど怖いものはないのう。」

九州攻めを前に、官兵衛と秀吉の間には綻びが生じようとしていました。。。

金ぴか金になってきた秀吉。。。
秀吉は大坂城や茶の湯・・・お金を豪勢に使っているように見えますが・・・
大坂城や朝鮮出兵も・・・アイデアはもともと信長様のものだとも言われています。

比較として・・・
実は大坂城よりも安土城の方が絢爛豪華というか・・・
お坊ちゃまの本当の道楽が入っていて、お金がかかっていたとも言われています。

苦労に苦労を重ねて、下剋上で這い上がり、けっこうケチ?いえいえ、お金の大切さをわかっていた秀吉。
そんな秀吉にとって、お金を・・・褒美を欲しがらない官兵衛は、不気味な存在だったのでしょうね。。。

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小早川秀秋・・・彼は、豊臣秀吉の正室・おねの甥で、幼い頃養子となりました。
10歳で丹波国亀山城10万石を与えられ・・・その後秀吉に実子・秀頼が生まれたので小早川隆景の養子に出され、その後継者となりました。

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出されたとはいえ、秀吉は秀秋をかわいがり、筑前国名島36万石の大名にしています。

慶長の役では、総大将として渡航。
しかし、この時戦略を巡って石田三成と対立し、軽挙に出てしまいました。
秀吉はこの事を怒り、秀秋を処罰しようとします。


が・・・家康がその場をとりなし秀秋を助けたのです。
そう・・・家康が恩を売ったのでした。

慶長5年7月、秀秋は西軍に属し、家康軍の武将・鳥居元忠らが守る山城国伏見城を攻撃します。
その一方で、秀秋は密使を送って家康側と通じ、伏見落城後は病気療養を理由にして、近江国高宮に陣を置いたのです。

9月14日、秀秋のもとに書状が届けられました。秀頼が15歳になるまで秀秋に関白職を委ねたい。。。
播磨国を加増するなどの条件を記した誓約書です。
三成と小西行長の連名で、秀秋に再度出馬を申し入れたのです。

拒否し続ければ、西軍に包囲されるかも???

秀秋はこの要請を承諾してしまいました。
再び家康と内通し、戦が始まれば東軍に寝返ると・・・内応していました。


9月15日、関ヶ原の決戦の火蓋が切られました。
東西両軍は攻防を重ねます。。。が・・・
正午近くになっても小早川軍は日和見を続け・・・行動を起こす気配が全くなし!!
そこで、西軍は狼煙をあげて秀秋に戦闘への参加を促します。

「あの小倅に謀られたか・・・??
 金吾の陣に向け、鉄砲を撃て!!」

と、命じました。
金吾???金吾とは、秀秋の通称で・・・「金吾中納言」から来た呼び名です。

その銃撃で秀秋は意を決し、正午過ぎ、小早川軍1万5000余りは東軍に寝返り、家康を勝利に導いたのです。

秀秋は戦功の恩賞として、備前岡山城主となったのです。
しかし、わずか1年でその生活も終わりを迎えることとなります。

諫言した家老・杉原紀伊守を殺すなどの乱行ぶりが伝えられ、さらに国政が乱れていきます。

家老の稲葉正成、平岡頼勝らも秀秋を見限って出て行ってしまいました。

若くして大封を与えられたプレッシャーから、関ケ原の合戦における自らの行動に対する悔恨からか、さまざまな要因も絡みノイローゼ気味に。。。

頼れるべき家臣もおらず、それも災いし。。。
関ケ原の合戦からわずか2年後、秀秋は21歳という若さで病死しました。

世間からは、裏切り者のレッテルを張られた哀れな最期でした。
なお・・・小早川家は子供が居なかったために断絶となっています。

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