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THEナンバー2・天下人を支えた「おかか様」~北政所おね~です。

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1615年大坂夏の陣、栄華を誇った豊臣家は大坂城落城と共に運命を断ちました。
おねは、京都で大坂の空を見上げて
「なんとも申し上げるべき言葉もありません」
と言ったと言われています。

豊臣家に嫁いで54年、この言葉にはどんな思いがあったのでしょう?

名もない足軽からスタートして、知恵と愛嬌で天下の階段を駆け上ったNo,1秀吉。その日本一の出世物語の相方が、No,2北政所おね。

尾張弁丸出しの夫に物申し、数多くの戦国武将を育てた天下を支える母。
しかし、秀吉亡き後は、徳川に加担した悪女とされてきました。その真実は、一体どこに・・・?

天下一の出世男を支えたおね、本人も、足軽から一国一城の主の妻となりました。
その秀吉とおねとの結婚は、当時としては珍しく、恋愛結婚でした。

1561年同じ長屋のひょうきんな男と結婚。その式は、土間に蓆をひいただけの質素なものでした。
秀吉は、織田の家臣として、快進撃を支えていました。

おねは14歳・織田家家臣の足軽の娘として生まれ、引衆・浅野長勝の養女となっていました。
当時の秀吉は、25歳。小者・武家の雑役に使われていて、身分的にもつり合いがとれていたようです。

あけすけで明るい夫婦だったようで、おねは、頭のよい人で、裏方を任せる良き伴侶だったようです。

1566年美濃の斉藤を攻めあぐねていたとき・・・墨俣の一夜城を築いてその勝利への突破口を開きます。
また、夜襲をかけ、念願の近江制覇。

秀吉は、おねに、戦のことを意気揚々としゃべるのが好きでした。
そして、それを楽しそうに聞くおね。あけっぴろげで気さくなその人柄は、偉くなっても変わることがなかったといわれます。

1573年小谷城攻め。
秀吉は、先陣を切って大活躍。その功績に、近江12万石を拝領します。
そして、この琵琶湖のほとりに長浜城を築いたのです。

この長浜城、砦や山城ではなく、政治と商業を司る中枢としての機能としての城になっています。
新しい城下町という町づくりに着手。

広々とした道路、掘割、水路・・・。整然とした町並みを作りました。
その町の区画には、職人や商人たちを移住させ、年貢を減免する措置をとりました。
また、戦に欠かせない、鉄砲集団の育成に力を入れ・・・。
最先端の、町づくりをしました。

しかし、城主秀吉は、すぐに戦地へ・・・。

1577年毛利征伐のため、中国遠征に。
12万石の領国経営はおねに任されました。
辣腕経営者のおね、秀吉の戦国一の懐刀だったのです。

2人は常に手紙でやり取りをしていました。秀吉は常におねに判断を仰いでいたようで、秀吉にとっての知恵袋でした。

また、おねは人材の育成にも着手します。
少しでも見どころのある人間を引き取りました。

尾張では・・・福島正則・加藤清正
長浜では・・・石田三成・増田長盛

などです。

采配を振るって、飯を食わせて、教養を付ける。
みなには、「おふくろさま」と、慕われていました。


秀吉。その戦い方は、知恵のある参謀を使っての調略が主でした。武力によって戦うのは、いたずらに兵を失うだけだったからです。

三木城の干殺しでは、2年にわたって兵糧攻め、高松城では水攻め。向かうところ敵なしの秀吉でしたが、時代は激変。

1582年本能寺の変。
明智光秀の謀反により、信長自害。
秀吉は、わずか6日で取って返し、山崎の戦いであっという間に明智を蹴散らし、天下取りレースに名乗りを挙げました。

その後3年、調略と武力で
1585年見事関白に就任。

自らの権力の象徴として豪華絢爛の大坂城を築城。
おねはこの時から北政所となるのです。

大坂城を築城したものの、秀吉は九州の島津征伐のために兵を出します。
2人を繋ぐのは手紙でした。この手紙、単なるラブレターではなく、政治のホットライン。重要な機密が書かれていました。

例えば・・・。
1587年島津義久が秀吉に降伏。
その時のおねへの書状には・・・。
①島津義久の人質は15歳の娘。
①重臣も十人ほど人質に。
①弟・義弘の人質は15歳の長男
①8歳になる息子も人質とする。

などと書かれています。

「人質」戦略を使い出す秀吉。
この人質の監督管理がおねの役割でした。


京都・聚楽第の周りには、大名屋敷が何十件と次々に出来、「人質」が送り込まれます。
秀忠も12歳の時に「人質」としてやってきます。

秀忠も、北政所が世話をしていました。
以来秀忠は、上洛するたびに、おねを訪ね、折々には贈答の挨拶、お歳暮などを送っていたといいます。
「おかか様」として、情を結ぶのです。

当時の人質の重要性として・・・。
人質とはいえお客様。子供が大きくなると城主になって、天下人を支えられる人に・・・豊臣家を慕うようになるように育てたのです。

つまり、人質とは、教養をつけ、裏切らないように育てる。だから、戦術や礼儀作法まで教えたのです。

黒田長政は、関ヶ原の時、調略して東軍に寝返るように工作をしますが、この時の京での人脈・仲間意識を利用して交渉し、寝返らせるのです。

つまり、おねの役割は大きいのです。
秀忠も、徳川と豊臣が仲良くなれるようにと、育てたのです。
おねがいなければ、秀吉は天下が取れなかったのでは?


そして、最大のライバル淀殿が出現します。
2人の間には様々な噂がありますが。。。2人の真実はどこにあるのでしょう?

1589年鶴松の誕生。ここから確執が生まれるのです。

「二人かかさま体制」の誕生です。
家を守る女性と子供を育てる女性、役割分担が生かされました。

1590年小田原城攻めの時、秀吉は北政所に頼んでいます。
「長い戦になるので淀の者を呼び寄せとうござる」
京を離れられない北政所に代わりに陣中における妻の代わりを淀殿に託したのです。

翌年、そんな3人に悲劇が・・・。
1591年鶴松病没。

跡継ぎをあきらめた秀吉は、甥の秀次に関白職を譲ります。
自らは、朝鮮征伐の指揮官として九州にわたります。
朝鮮での戦いに邁進する日々・・・。
そんな中、思いがけない懐妊の知らせが。。。
秀頼の誕生です。

何としても秀頼に跡を!!
秀吉に暗い野心が灯りました。

自ら位を譲った秀次を高野山に追放。
1595年自害に追い込みます。

豊臣家の将来は?

1598年秀吉が62歳で亡くなります。
北政所にとっては、2人で作ってきた豊臣政権。秀吉の死によって、私は私の道を行こうかしら・・・。と、思ったのかもしれません。豊臣さえ残れば・・・天下一でなくても良いのでは?

淀殿の力が大きくなって・・・おまけに育てた子供たちが反目しだしました。
尾張は武断派、近江は文治派に割れてしまうのです。
朝鮮戦争を戦った尾張派。他国に攻めていって負けたということは、恩賞がありません。その不平不満も、死んでしまった秀吉には文句が言えません。矛先は、石田三成ら近江派に向けられたのです。

しかし、近江派は、朝鮮戦争の用意をしたり、準備をしたり、みんなが帰れるように、兵を退くための用意もしました。「中途半端に戦ったくせに・・・」

この近江派が、淀殿と秀頼方になるのです。

俺たちは排除される・・・追いやられたくない。。。尾張派は、北政所のところに泣きつきに行きました。
相談に乗る北政所。当時五大老筆頭だった家康を頼るように言います。

北政所は、大坂城を淀殿と秀頼に託し、京でひっそりと暮らします。
自分の役割は、夫の菩提を弔うこと・・・。

晩年に建立した高台寺には、御膳・スリッパ・杖、ゆかりの道具や衣装が数多く残されています。
しかし、時代は静かな生活を脅かします。

天下をめぐる争いが・・・。虎視眈々と家康が狙っていました。
秀吉と北政所が育てた小早川秀秋・福島正則・加藤清正は、にわかに権力を振るい始めた石田三成に反発していました。

家康はこれを利用して、内部から切り崩しにかかります。
東軍につくか、西軍につくか・・・。水面下で激しい攻防が繰り広げられました。

北政所のところにも、次々相談にやってきました。その中に、小早川秀秋の姿もありました。
豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった! 天下に愛された女・おねの生き様に秘められた真実
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周りの武士は、北政所を味方につければ「使い道」がある。北政所には逆らえない。。。
そこを突いたのが、策士・黒田長政でした。

いち早く徳川に味方した黒田長政。黒田長政も、北政所が家康に動きかけているのを察知して、小早川に揺さぶりをかけます。

「徳川方につくことを早々に決断されよ
 われわれ北政所様に恩義がある者は、それこそがお心に従うことだとわきまえよ」

東軍につくように勧めます。

1600年関ヶ原の戦いの火ぶたが切って落とされました。
しばらくは互角に見えましたが、小早川の1万5千の軍が東軍へ寝返ります。

これを機に、西軍は総崩れ。わずか1日にして幕を閉じたのです。
このことからも、北政所が天下を大きく左右したと言えるでしょう。

この戦いに豊臣が負けた一番の要因は、尾張閥・近江閥が一致団結していれば・・・。
奥の秩序が保たれていれば・・・。ということに尽きるのではないでしょうか?

事実、北政所は、石田三成に追い出されたような節がありました。

秀吉と最後まで相思相愛だったおね。秀吉の死後は、抜け殻のようになって、思い出に生きたようです。

秀吉辞世の句はあまりにも有名です。

「つゆとおち
  つゆときえにし
    わがみかな
 なにわの事も
    ゆめのまたゆめ」

1615年大坂城落城の折、豊臣家も滅んでしまいました。

たったひとこと

「大坂のことは
  なんとも申し上げる
    言葉もございません」

高台寺霊屋には仲良く二人の木造が並んでいます。
日本一のおかか様はいま、夫婦ゆっくり暮らしているのです。


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