日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:お伊勢参り

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どうして人は旅に出るのか??そのルーツは江戸時代にありました。

江戸時代、みんなが旅に出るようになったのは・・・信仰によるものでした。
しかし、お金がかかり、庶民が容易く行けるものではありませんでした。
富士信仰に関しては・・・”富士講”(地域のサークル)があり、お金を積み立て、順番に行ったのです。
江戸には富士講の数が多く・・・八百八講とも言われていました。
もう戻って来れないかもしれない・・・家財道具一式を処分しての旅でした。
そんな危険を承知で旅に出かける。。。

関所を通るときには、寺の通行証が入り、手形は”関所通行手形”は関所の数だけ必要で・・・
それ以外に常時携帯する”往来手形”という身分を証明するもの・・・もし亡くなった時には、その土地の風習で埋葬してもらう・・・なんてことまで書かれていました。

難関は関所!!
そこは、幕府が防衛と人の往来を制限するために全国各地に作られていました。
関所破りには磔の重罪でした。
その仕組みは・・・??
最大の関所箱根。
門は、京口御門と江戸口御門があり・・・どちらも暮れ六つ(午後6時ごろ)には閉門しました。
明け六つ(午前6時ごろ)までは通れませんでした。
大番所で詮議されます。

厳しく調べられたのは・・・””入り鉄砲に出女”。
諸国の大名が謀反を起こさないように、妻子を人質として江戸に住まわせていました。

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その為、江戸から出る女性は徹底的に調べられ・・・手形が下りるのも厳しく・・・本人確認として体系やほくろの位置まで書かれていました。
一つでも違った場合は関所を通れませんでした。

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人見女が女性を調べ・・・
特に大名家の女性は、髪形が違うため、髪を結い直していないか??まで、調べられたのです。







関所として難関だったのが川。
東海道の場合最難関は”越すに越されぬ大井川”です。

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幕府は江戸防衛のために、西国から敵が侵入しないように、大井川には橋・渡し船禁止でした。
渡るためには、人を雇って乗せてもらうのが一般的でした。

増水して4尺5寸(136cm)となれば、川留めになりました。
記録によると、1か月ぐらい川留めになった例もあります。

それでも多くの人が旅に出ました。

お伊勢参り、ブームになると半年で500万人の人が行ったといいます。
裕福になって空前の旅ブームがやってきました。
その要因は、旅をする環境が整ったことが挙げられます。

①街道・インフラの整備
全国統治のために街道を整備します。
迅速に情報をやり取りするためです。
五街道・・・東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道が特に整えられました。
公けの人のためのものでしたが・・・人々も旅がしやすくなりました。
一里塚もでき、道を測るためだけではなく、駕籠や馬の料金にも使われました。
並木道は、夏の日差し、冬の暴風から人々を守り・・・有事の際には切り倒して防衛されるようにしました。
常夜灯が一晩中つけられて、夜の旅の道しるべとなりました。

②旅グッズの進歩
小袖に手を通し、尻端折り、荷物は振り分け肩にかけます。
大打道具、印籠、携帯用の蝋燭立て・・・携帯用枕・・・

いろいろなグッズを持っていたのです。
旅を快適にしてくれました。

③宿泊施設の充実
その種類は・・・
本陣・・・参勤交代などのVIP用で地元の有力者の家。
各藩の料理人がお皿まで・・・全てを用意して食事を賄いました。
持参した風呂桶でお風呂も用意します。

旅籠・・・一般的な庶民の泊まる宿。
1泊2食付が原則で、4000円程度でした。

木賃宿・・・旅人が食事を自炊する宿で、燃料に使う薪代だけで泊まれました。

しかし、当時は相部屋になることも多く、トラブルがたくさんありました。

護摩の灰(旅人を装った盗人)による盗難。
そんなトラブルを防ぐために、画期的な仕組みが・・・東講(旅行代理店)です。
身元を東講に登録すると・・・
鑑札が配布され、指定の旅籠に泊まることができました。
つまり、身元の分からない人と同室になることがなかったのです。
東講は、入会した人に販売した東講商人鑑・・・ガイドブックを用意し、旅人は指定の宿を見てそこに泊まったのです。

旅に関する本もたくさん出版され、名所なども紹介されました。
花より団子で名物を食べるのが好きだった”東海道中膝栗毛”の弥次さん喜多さん。

この旅行本も、”東海道中膝栗毛”も、旅ブームを加速させます。
そしてもう一つ・・・東海道五十三次も・・・旅ブームを推していきます。
江戸時代、一生に一度行きたいのがお伊勢参り。
多い時には半年で当時の人口の1/6に当たる500万人の人が訪れています。
その人気の背後には、信仰心だけではなく・・・。
お伊勢参りの後の色町での夜遊びが楽しみだったのです。
伊勢の古市は、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大遊郭のひとつだったのです。

旅行の途中にも・・・飯盛女がおり、客の食事の世話・雑務をする使用人兼売春婦で今のお金で4000円、と、格段に安く、旅籠も繁盛しました。


明治、大正、昭和・・・旅行で行く人は少なく、第二次世界大戦後は海外渡航は規制されていました。
1959年東京オリンピックが決まると・・・
政府は国際交流のために海外渡航の解禁をします。

ウイスキーが一般的でなかった時代、壽屋(現サントリー)は、トリスの売り上げを伸ばすために・・・
「トリスを飲んでHawaiiへ行こう」
懸賞を付けてその目玉を「ハワイ旅行」とし・・・ハワイは海外旅行の代名詞となっていきます。

観光目的の海外渡航は1人年1回、外貨持ち出し金額は1人500ドルと制限つきの自由化へ!!
1964年4月1日初のハワイ付き団体ツアーが!!
サラリーマンの月給が2万円の時代に、ハワイ旅行は一人36万円でした。

1970年ジャンボジェット機就航!!
旅費がリーズナブルとなり、海外旅行ブームが到来するのです。



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感想(14件)

三重県松阪市の城下町です。

松阪と言えば・・・牛肉の産地。。。

式年遷宮を迎えた伊勢神宮の近く。。。

伊勢国に栄えた松阪商人の城下町。。。

そこは、信長イズムの継承者・蒲生氏郷の城下町でした。


松阪城は守りの城。。。

この城を築いたのは蒲生氏郷。

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豊臣秀吉時代に会津若松城主にまで上り詰めた蒲生氏郷は、会津入国の2年前・・・

1588年に松坂城を築きました。

かつては連結式山荘五階建ての城が建っていました。


金箔瓦が使用されている絢爛豪華な城でした。

蒲生氏郷は、1556年近江日野に生まれました。

13歳で天下布武を掲げる織田信長の元へ人質に・・・

小姓として目をかけてもらった氏郷は、後に家臣となるのでした。


信長の作った岐阜・安土は楽市楽座・・・

これを実践したのが松坂でした。

信長の戦手腕を見習っただけでなく、経済に特化した斬新な町づくりも見習った。。。そこが松阪でした。

近江から商人を招き、城下で楽市を開き、松阪を商業都市として発展させていきます。

2年ほどしかいなかったものの、現在でも城下町では毎年蒲生氏郷を称えて武者行列が行われています。

今もなお松阪の人々に愛されているのです。


御城番屋敷では、江戸時代の武士の組屋敷が現在も住居として使用されています。

中町には和菓子屋・柳屋奉善さんが。。。

天正3年創業のこの古い和菓子屋さんには蒲生氏郷ゆかりのお菓子が。。。

初代は近江で・・・蒲生氏郷と共に松阪にやってきました。


”老伴(おいのとも)”というお菓子は、創業以来変わらないお菓子で。。。

最中ですが・・・裏返すと赤い羊羹が。。。

後に”利休七哲”と呼ばれる氏郷が考案したお茶会用のお菓子で、信長の思想がつまったお菓子です。

初代の命じて作らせたものです。


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この時代、京都でも2,3軒しか羊羹を作っていませんでした。

出来たばかりの最先端の羊羹をわざわざ赤に染めました。

信長の好きな赤・・・


信長の赤好きは有名で、近江八幡名物・赤こんにゃく、安土城の屋根も赤・・・赤にこだわっていました。

そんな信長をもてなすために、最先端の羊羹をわざわざ赤に染めたのでしょう。

丸い赤・・・それは朝日、日の丸・・・日出づるところの・・・”日章旗”です。

戦国時代にはすでに使われていて・・・


戦国時代、武田信玄・・・織田信長・・・徳川家康・・・誰もが掲げていて・・・

「天下をしょって立つ者」であり、武家の頂点に立つ者・・・「源氏の象徴」でした。

この事から、日の丸に使われていた赤は、天下統一に繋がり・・・信長か好んでいたと言われています。

そのために羊羹も赤く染められたのです。


小津家は・・・松阪・江戸で紙問屋を開き、莫大な財を築いた豪商です。

全国の長者番付に載っており、万両箱があり・・・それぐらいのもうけはあったと言われています。

長者番付にはほかにも・・・越後屋(三井家)が・・・

彼等は松阪商人と呼ばれ、江戸時代近江商人に引けを取らないくらい名前が轟いていましたが・・・
その生みの親も蒲生氏郷だったのです。


松阪に一大商業都市を築くため、楽市を行うだけでなく・・・半日でいける伊勢神宮も。。。
参宮街道はもともと海側を通っていましたが、城下町の・・・町中を通したのです。

伊勢神宮の参拝者を城内に取り入れるようにしたのです。

これが成功し・・・街道には、各地から呼び寄せた商人たちも楽市をし・・・そこに伊勢参りの参拝者が立ち寄り。。。商人たちは潤って・・・松阪商人として繁栄を極めていくのです。


ここ松阪は、伊勢に向かう最終の宿場であり、最初の宿場となりました。

氏郷が亡くなり、お伊勢参りの一大ブームが来ます。

江戸時代の日本の人口は3000万人。。。

お伊勢参りの最盛期には・・・伊勢神宮参拝者は年間500万人だったと言われています。

松阪から伊勢神宮までは30㎞・・・氏郷が街道を整備したおかげで、買い物・宿・・・狙い通りの城下町となりました。

草鞋が飛ぶように売れ・・・数々の参拝者で賑わい、潤ったと言われています。

そこには・・・参拝犬もいました。

犬のお伊勢参りは、何度も記録にのこされています。

生まれた理由は、伊勢への参拝が・・・江戸時代には大変困難だったからだと言われています。

庶民にとっての憧れお伊勢参り。。。

体力に自信のなかった人々は、住所と伊勢参りをすることを記した紙を風呂敷に包み・・・

犬にお伊勢参りを託したのです。

帰りも頼んだそうです。


そう言えば、先日お伊勢さんにお参りに行った際に、犬のおみやげがたくさんありましたが、その為ですね。

人々も、自分たちは伊勢神宮の近くに住んでいることをありがたく思い、おもてなしをしたといいます。

このおもてなしのおかげで・・・快適なお伊勢参りでした。


伝統産業は・・・”松阪もめん”。

織物の里・松阪。。。

古より高度な技術を誇りっていました。

”神御衣祭”・・・神々の衣として伊勢神宮に奉納されていたからです。

そんな織物の里では・・・戦国時代に木綿が盛んとなり、縞模様の”松阪木綿”を生んだのでした。

これが松阪商人発展の礎と言われています。


三越・・・三井グループの祖・三井高利は、後に江戸や京都で店を出して大成功を収めるのですが。。。

この成功を支えたのが松阪木綿でした。

当時1反ずつ売っていた反物を・・・どれだけでも好きなだけ・・・という売り方で・・・おまけに現金掛け値なしで売ったのです。

この売り方ははじめてのことで・・・江戸で大ヒットさせます。


「松阪嶋」・・・縞ではなく、嶋なのは・・・

鎖国以前、東南アジアと交易をしていて・・・東南アジアのことを嶋と呼んでいました。

嶋わたりなので、”嶋”なのだそうです。


このストライプ模様・・・江戸で販売したところ、江戸庶民の心をつかみ・・・評判となり・・・

歌舞伎役者も縞模様を着ることを”松坂を着る”と言ったと言われています。


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松阪牛は・・・「和田金」が明治11年創業で元祖です。

文明開化のシンボルとなった牛鍋。

和田金はみそ味だった牛鍋を、現在の醤油味にした・・・すき焼き発祥の地と言われています。


蒲生氏郷が作った松阪の城下町、今に繋がる大商人を生み出した商人の町。。。おかげさまの精神がはぐくまれました。
今なお受け継がれるおもてなしの心で旅人を包んでくれる城下町でした。


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