明治維新の立役者の一人・西郷隆盛・・・
西郷が新しい国づくりのために邁進出来たのは、ある一人の男の存在があったからでした。
薩摩藩11代藩主・島津斉彬です。
斉彬が亡くなった際に、西郷は後を追って死のうとしたと言われています。
西郷がそこまで惚れ込んだ島津斉彬とは・・・??

1809年・・・薩摩藩10代藩主・斉興の嫡男として江戸の薩摩藩邸で生まれました。
母は、正室の弥姫・・・教養が深く、教育熱心な人で、乳母をおかずに自らの手で斉彬を育てました。
6歳の頃から中国の書物を越えに出して読むことや、絵画、和歌などを母に厳しく教えこまれた斉彬は、やがてこう呼ばれるようになります。
”二つビンタ”・・・ビンタとは、薩摩弁で頭の事・・・斉彬は、まるで頭が二つあるかのようにいくつものことを同時に処理できたというのです。
その噂を聞いた幕府の重役たちは、
「薩摩のような外様ではなく、譜代大名であったなら幕府の老中となって活躍できたろうに・・・」
と、残念がったといいます。

斉彬は趣味も多彩、体格にも恵まれ、威風堂々としたものでした。
藩主になるべくして生まれた男・・・しかし、40歳を過ぎても藩主には慣れませんでした。
それは、父・斉興がなかなか家督を譲らなかったからです。
というのも、斉興は19歳で藩主になったのですが、実権は父・重豪が握っており、斉興が名実ともに藩主になれたのは、重豪が亡くなってからのことでした。
斉興は43歳、斉彬は25歳になっていました。
ようやく藩の実験を握った斉興でしたが、待っていたのは深刻な財政難でした。
原因は、重豪でした。
重豪は、オランダ語を話し、歴代のオランダ商館長とも交流を深めるなど西洋の学問である蘭学や文化にひどく傾倒・・・蘭癖と呼ばれるほどでした。
それは、薩摩藩の置かれた環境が強く影響しています。
薩摩藩は、現在の鹿児島県、宮崎県、沖縄県にひろくありました。
しかも、沖縄は、名目上琉球国王が支配する・・・藩の中に外国があり、貿易をしていました。
海外からの物資や情報、文化が薩摩藩に流入していました。
蘭癖大名と呼ばれた重豪は、オランダや中国などの知識を吸収、画期的な開化政策を打ち出す一方で、金に糸目をつけずに新しいものや珍しいものを収集します。
さらに、藩校である造士館や天文館などを建設、藩の財政を圧迫していきました。
一時は500万両・・・今のお金で5000億円もの借金をしていました。
その莫大な借金を再建することが急務でした。
そこで斉興は、幕府の鎖国政策を無視し、琉球王国を隠れ蓑にした密貿易・・・抜け荷の拡大などで財政の立て直しを図っていくのです。

努力の甲斐あり、10年後には50万両もの備蓄ができるほどに持ち直します。
その功績を花道に、斉興は嫡男・斉彬に家督を譲っても良かったのですが、そうはしませんでした。
その原因もまた、重豪にありました
斉彬は幼い頃、重豪にとてもかわいがられていました。
重豪が斉彬に与えた影響は、大きかったといいます。

斉彬は重豪の蘭癖を継承・・・多くの蘭学者たちを優遇し、洋書の翻訳をさせたり、自らオランダ文字で日記をつけたり蘭学に熱中・・・
曽祖父と同じ蘭癖と称されるようになるのです。
蘭癖は、藩の財政を揺るがすもの・・・そう考えていた父・斉興は、
「斉彬が藩主になったらまた藩の財政が悪化してしまう!!」
そう恐れたため、斉彬が30代半ばを過ぎてもなお、家督を譲らなかったのです。


nariakira父に疎まれるほどだった斉彬の蘭癖・・・
その証拠が、尚古集成館に残っています。

銀板写真・・・日本人が銀板写真に写っているのは、この島津斉彬だけです。
その外に、地球儀なども残っています。

19世紀半ば、イギリスやフランスなどの西欧列強が東アジアに進出・・・
アヘン戦争では東アジア最強と目されていた中国の清がイギリスに負け、開国を余儀なくされてしまいます。
琉球にも、フランス船やイギリス船が度々来航・・・
軍事力をちらつかせながら、通商を迫ってきました。

幕府は薩摩藩に、琉球へ兵を派遣し、守りを固める様に命じますが・・・
斉興は少数の兵を短期間派遣しただけで、幕府には、指示通り兵を送ったと報告しました。
西欧列強が相手では、琉球を守るどころか薩摩藩自体も危ういと判断し、日本と西欧列強の差を縮めるべく、藩の軍事力を強化しようとしたのです。
その外に、武器の近代化、工業化を進めていきます。
ところが、父・斉興のやり方に、斉彬が・・・
「より近代化が必要!!」
しかし、藩の財政を第一に考える斉興は、これ以上の近代化は不要と一蹴・・・真っ向から対立していきます。

斉興が、藩主の座を譲らない理由は他にもありました。
朝廷から与えられる官位です。
薩摩藩士は、通常ならば四位どまりなのですが、斉興は、財政再建をした功績によって、その上の従三位を与えられるのではないかと期待していました。
その為、官位を受けるまでは財政を悪化させる恐れのある斉彬に藩主の座を譲る気などなかったのです。

30代半ばを過ぎても藩主になれない島津斉彬・・・
しかし、跡継ぎであることに変わりはなく、江戸の薩摩藩邸に詰めていました。
そんな中、父・斉興の行動が大きな波紋を呼びます。
参勤交代で江戸に滞在する時、留守中の薩摩のことは斉彬の弟の久光に任せることにしたのです。
斉彬の藩主就任を望む藩士の一部は弟の久光が藩主になるのでは??と勘繰ります。
しかも、それを陰で操るのが久光の母であり斉興の側室であるお遊羅の方だと考えるようになります。
そのさ中、斉彬の息子二人が病死・・・
斉彬の家臣達は、お遊羅の方の呪いではないかと噂をはじめます。
というのも、実際に呪符が見つかったからです。
しかし、これは、琉球にやってきた外国人を呪った父・斉興が作ったもの・・・??
全ては勘違いだったのですが、早合点した斉彬方の家臣達は、”このままでは、斉彬さまが呪い殺されてしまう!!”と、陰で操るお遊羅の方を暗殺しようと企てました。
ところが、これがお遊羅の方を寵愛する斉興の耳に入り、激怒!!
1849年、斉彬派を処罰します。
12人が切腹、38人が貼り付けや島流しの刑に処されるのです。
こうして、父との対立は深まっていくかに見えましたが・・・
このお家騒動が幕府の知る処となり、斉興は責任を取って、1851年隠居届を提出します。
斉彬は、ようやく11代藩主となるのです。
この時すでに43歳・・・!!

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薩摩藩士となった島津斉彬は、西洋列強に対抗するため、軍備の強化、近代化を推し進めていきます。
それは、鎖国体制の日本にあって、先駆的なものでした。

・洋式船の建造
当時、日本近海にやってきていた西欧列強の巨大な軍艦は、鉄製で蒸気によって動き、大砲を何本も装備していました。
たいして日本の船は、幕府によって”大船建造禁止令”が出ていたため、大きくても米を積む500石積の船しか作ることが出来ず、大砲も搭載できませんでした。
斉彬は、外圧に晒される今、日本も大型船を作る必要があると考えていました。
そんな中、浦賀に黒船が来航・・・幕閣たちも、ようやく西洋の軍艦の脅威に気付きます。
斉彬はこの機を逃しませんでした。
幕府に大型船建造の解禁を願い出て、これを認めさせたのです。
そしてすぐに、西洋風の大型船の製造に着手・・・
全長30m、砲16門を搭載する西洋式軍艦昇平丸を完成させたのです。
その後も、大型船の建造を続け、日本初の蒸気船も完成させています。

・鉄製大砲の鋳造
島津家の歴史を語る博物館・尚古集成館の敷地内にも、斉彬の近代化の痕跡が・・・!!
反射炉跡が残っています。
反射炉とは、燃料を燃やして発生した熱を、天井に反射させて炉の中を高温に保つことで金属を溶かす施設・・・
これを使って、斉彬は丈夫な大砲を作ろうとしたのです。
しかし、当時、こうした反射炉を作る知識は日本にはなく、完成までには大変な苦労がありました。
斉彬は、既に反射炉を作ることに成功していた佐賀藩から、オランダの書物を取り寄せ、それをもとに研究を開始します。
西洋式反射炉の建設に取り掛かります。
しかし、外国語の書物のみが頼りとあって、失敗を繰り返します。
そこで・・・耐火煉瓦は薩摩焼の技術を使って作り・・・何度も諦めかける家臣たちにこう声をかけます。

「西欧人も人なり
 佐賀人も人なり
 薩摩人も同じく人なり
 退屈せずますます研究すべし」

藩士たちは奮起し、意地と努力で1857年反射炉を完成させます。
あわせて日本初の溶鉱炉も建設、鉄の大砲の鋳造に成功するのです。
斉彬は、他にもガラス工場や、蒸気機関研究所などを建設、そうした工場群を集成館と名付けました。
最盛期には、1200人もの人が働いていたといわれています。
2015年、集成館は歴史的価値のある工場群として世界遺産に登録。
独自の近代化を進めた斉彬の功績が、世界に認められたのです。

斉彬は幕府に対して日の丸を日本の船のしるしにするように提案します。
もともと、日本の船は帆が一つしかないなど、世界的にも特異な形であったため、外国船と間違われることはありませんでしたが、日本で洋式船を製造するとなると判断するのが難しいので、日本の船であると示す必要があると考えたのです。
日の丸は、古くから日本人が使っていたようですが、そのデザインは様々でした。
丸が三つ、五つも書いたデザインもあったのです。
この時、斉彬は白地に赤い丸ひとつを書いたサンプルを作成し、提案します。
幕府もそれを認め、1854年、日の丸を日本の船印に採用しました。

日本を守るために西洋式の軍艦や大砲を作るなど軍備の近代化を進める島津斉彬・・・
一方でこんな言葉を残しています。

「第一人和」

斉彬が一番大切に思っていたのは、人の和でした。
人の和は日本を守る城となる!!
人の和を生み出すためには、人々に豊かな暮らしを保証することだとも言っています。
斉彬は、軍備以外にも様々な産業を興しています。
国民の豊かな暮らしを目指し、近代化に取り組んだのです。

斉彬は、紡績、ガラス、出版、酒造りといった産業の育成にも力を入れました。
中でもガラスは、薩摩切子と呼ばれ、新しい工芸品を生み出します。
薩摩切子は、今でも日本を代表する工芸品で、高く評価されています。
斉彬は、外国に輸出することを考えていたようです。
薩摩焼に対しても、外国人の好みに代えろと指示し、あでやかなものとなっています。
そして、パリ万博で高い評価を得て、大量の薩摩焼が海を渡ることとなります。

島津家の別邸・仙厳園・・・桜島を望むこの美しい庭園にも斉彬が残した遺産があります。
日本初のガス灯の実験が行われました。
斉彬は、城下をガス灯で照らそうと考えていたといいます。
研究と実験を重ね、西欧の技術を習得し、次々と産業を立ち上げていった斉彬ですが・・・

「薩摩だけ強く豊になっても意味がない・・・」

そういって、持てる技術と知識を惜しみなく幕府や他の藩に教え、視察も喜んで受け入れたといいます。

斉彬は、日本が挙国一致体制で富国強兵策を・・・!!という考えでした。
それが、やがて明治政府によって実現され、斉彬の唱えた富国強兵を明治政府が展開していくこととなります。
斉彬が目指したもの・・・それは、まだ見ぬ維新という新しい日本の姿でした。

斉彬は、人材育成にも長けていました。
身分にとらわれず、優秀な若者を見出し、意見を求め、藩の政治に取り入りました。
斉彬はこう言っていました。

「付和雷同で意見を持たぬ者、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない
 偏屈な男こそ、国の宝である」

そう考える斉彬に取り立てられた若者たちの多くは、藩の中心人物に・・・そして、激動の時代、まさに非常事態に対応し、日本を背負う人物に大きく成長していきました。
西郷隆盛もその一人でした。
斉彬が、下級藩士だった西郷隆盛を初めて知ったのは、大量に届いた建白書によってでした。
当時、薩摩藩郡方書役助だった西郷が、農家や村を指導監督する中で、農民が思い年貢などに苦しみ困窮している状況を知ります。
そして、その改善策と共に、悪性を訴えた建白書を、斉彬に何度も提出・・・
斉彬はこれを高く評価し、そこで、藩主として江戸に赴く際に西郷を庭方役に抜擢し、江戸に連れていきます。
庭方役とは、何種の用事を藩邸の庭先で聞く役職のことです。
西郷を、諸藩との重要な連絡や情報収集に当たらせるなど、斉彬の信頼は厚いものでした。
この時、人脈や、政治的視野が広がり、西郷は明治維新の立役者となります。

1856年・・・時の将軍・・・第13代家定の婚礼が行われました。
花嫁は、島津斉彬の養女・篤姫です。
この結婚・・・斉彬が篤姫を政治利用したと言われていますが・・・その真相とは・・・??
当時、幕府内では将軍の後継問題が勃発していました。
家定は体が弱く、世継ぎが見込めなかったため、次期将軍の決定が急務となっていました。
候補の上がったのは、2人・・・
一人は紀州藩主・徳川慶福・・・慶福を推したのは、譜代大名・彦根藩主・井伊直弼で、南紀派と呼ばれていました。
もう一人は、一橋家当主・徳川(一橋)慶喜で、慶喜を押したのが、老中・阿部正弘ら一橋派でした。
斉彬は、この一橋派でした。
次期将軍を決めるのに大奥の意見が強く影響すると知っていた斉彬は、篤姫を将軍に嫁がせ、大奥に入れることで慶喜擁立を有利にしようと工作したのではないか?といわれています。
しかし・・・この縁談話は、家定が将軍になる3年も前に持ち上がったものでした。
将軍の世継ぎであった家定は、公家の娘を二度正室に迎えていましたが、共に死別・・・。
その為、幕府は次は武家から迎えたいと考えます。
そこで、候補に挙がったのが島津家でした。
というのも、良い前例がありました。
11代将軍・家斉が、正室に迎えたのが、茂姫・・・斉彬の曽祖父・重豪の娘でした。
その後、家斉は、将軍在位50年と歴代最長を記録し、正室、側室の間に53人もの子を設けました。
子供ができなかった家定も、島津家から妻を迎えれば死別せずに子宝に恵まれるのでは??と、考えたのです。

つまり。斉彬は、幕府からの要請を受け、篤姫を養女とし、将軍に嫁がせることにしただけで、将軍後継問題とは関係がなかったのです。
どうして斉彬は篤姫を政治利用したと思われたのでしょうか?
黒船の来航や、江戸の大地震などで婚礼が先延ばしになり、将軍継承問題が盛り上がるころに輿入れとなったため、送り込んだという誤解が生まれたのです。
嫁いで1年後・・・待望の世継ぎは出来ませんでした。
斉彬が動いたのはこの時・・・信頼していた西郷隆盛を江戸詰めとし、諸藩との連絡係にしました。
そして、次期将軍として慶喜の将軍擁立を画策。

1858年、南紀派の井伊直弼が大老に就任・・・
その権限によって、慶福が14代将軍となりました。
斉彬は再び動きます。
薩摩の兵を率いて京に向かうため、西郷にその準備を命じたのです。
その行動は、斉彬が朝廷を武力で動かし、慶喜を将軍にしようとしたのではないかとも考えられますが??

「西欧列強の脅威にさらされている今、国内で争っている場合ではない!!」

斉彬の行動には、常に日本の未来を見据えた大局的な視点があったのです。

それから間もなく、斉彬が病に倒れます。
死期が近いことを悟った斉彬は、弟の久光らを枕元に呼び遺言を伝えます。
自分の跡継ぎは、嫡男ではまだ幼いため、久光か、その長男の忠義のいずれかにするようにと・・・。

そして・・・1858年7月16日、島津斉彬死去・・・50歳で生涯を終えました。
明治という新しい時代を見ることなく・・・・・!!

日本の行く末を案じながら、その生涯を終えた島津斉彬・・・
しかし、その遺志は受け継がれ、日本を新しい時代へと導いて行きます。
島津家の家督は、弟の久光が辞退したため、その息子・忠義が相続しました。
久光は、後見役を務めました。
そして、久光は、斉彬の遺志を継ぎ、西郷たちと共に幕末から明治維新へかけての薩摩藩をけん引していきます。
彼等が目指したのは、順聖院様御深志(斉彬)の遺志の実現でした。
それは、幕府、朝廷、藩という枠を超えた挙国一致体制を築き、日本を西欧列強の植民地にされないような国にすることです。
斉彬の遺志と夢を実現するという共通の目的を持っていたからこそ、薩摩藩士たちは分裂せずに明治維新での重責を担っていくこととなるのです。
その一人、西郷隆盛は、新政府の中心人物として廃藩置県や警察制度の導入などに関わり、近代国家の礎を築きました。
そして、西郷同様下級武士から出世した大久保利通は、富国強兵を明治政府のスローガンとし、殖産興業政策を推進・・・富岡製糸場などの官営模範工場を日本各地に作り、近代産業の育成に尽力しました。

斉彬は、近代日本のプランナーだったのです。
日本を強く豊かな国にすることを夢見て、実現に向けて邁進し、様々な功績を残した幕末の名君・・・島津斉彬・・・

「維新の折、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである」by勝海舟

斉彬がいたからこそ、明治維新があった・・・そう言っても過言ではありません。

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