日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:アイゼンハワー

史上最も壮大にして複雑な軍事作戦・・・
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始!!
第二次世界大戦で、連合軍に勝利の道をもたらしました。
しかし、一歩間違えば、大惨事となる危険な賭け・・・万全の準備が必要でした。
ノルマンディー上陸を成功に導いたのは、ある大掛かりな嘘でした。
連合国は、欺瞞作戦フォーティテュード作戦を展開し、決行の時期と上陸の地点について偽の情報を流し、ヒトラーを出し抜いたのです。

イギリスの諜報機関が架空の部隊を作り上げ、その情報をスパイたちがドイツに流しました。
この作戦で活躍したのが、スペイン人の二重スパイ・・・コードネームはガルボです。
ガルボの活躍なしには、成功はありませんでした。
連合軍は、どうしてドイツの諜報機関を欺くことができたのでしょうか?
見事にヒトラーの裏をかいた謀略の立役者は、いかなる人物だったのでしょうか?

1944年6月・・・連合軍のフランス上陸は、失敗の許されない危険な賭けでした。
フランスをナチスドイツから解放すべく、イギリス・アメリカ・カナダ軍の将兵13万人以上が、ノルマンディーに殺到しました。
この作戦を成功に導いたのは何だったのでしょうか?
連合軍は、少なくとも数の上でははるかに劣る兵力で、4年にわたって敵の配下にあった地域に乗り込んでいきました。
イギリスからの距離・・・わずか160キロとはいえ、ノルマンディー地方の上陸には様々な困難が予想されました。
イギリス海峡は波が荒いことで有名・・・完璧な兵力で、船酔いもなく到着することが必須条件でした。
1942年8月19日、連合軍はディエップの戦いで、上陸作戦に失敗・・・負傷兵1800人を失っていました。
敗因は、ドイツ軍による港の防御が予想以上に堅かったことでした。
この失敗を踏まえて、今度は港から離れた場所に狙いを定めます。
ドイツ軍は、連合軍は次も港を狙ってくると思っていました。
連合軍は、港を避けます。
アメリカの参戦以来、連合軍はフランス上陸への新たな機会をうかがっていました。
1943年連合国首脳は相次いで会談し、年末のテヘラン会談では、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソビエトのスターリンが顔をあわせます。
この時、ノルマンディー地域への上陸を目指すオーバーロール作戦が、具体化しました。
しかし、フランスへの上陸を見越して準備を進めていたのは、連合国側だけではありませんでした。

ヒトラーは、1940年にイギリスとの航空戦に敗れ、ソ連との戦いにもてこずっていました。
連合軍のフランス上陸は、もはや避けられないと感じていました。
問題は連合軍が、どこを、いつ、攻めて来るのか??でした。
ドイツははるかに戦闘経験豊かな部隊が、連合軍を待ち構えていました。
ヒトラーは、連合軍は必ず主要な港を攻めてくると考えていました。
中でも、自分がかつてイギリス侵攻への足掛かりにしようとしたパ・ド・カレーは最も近く、その距離は、50キロ足らずでした。
空軍が、燃料を保ちながら最大限に闘うためには、近い距離が必須でした。
もちろん、連合軍もパ・ド・カレーが一番でした。
しかし、連合軍は、最短距離のパ・ド・カレーではなく、ノルマンディーに・・・。
敵の不意を突き、時間を稼ごうとしたのです。
上陸作戦は、往々にして最初の数時間が勝敗を決します。

初日の課題は、最初の陣地となる橋頭堡を築くことでした。
しかし、橋頭堡は格好の標的になります。
連合軍は、巨大な港の建築を試みました。
この港から、兵士や物資を海岸に送ることができるのです。
しかし、連合軍の行く手には、大西洋の壁という強大な障壁がありました。
1941年、ヒトラーは、第三帝国の威信をかけた難攻不落の砦を作っていたのです。
ノルウェー北部からフランススペイン国境まで、およそ4300キロにわたり、8000を超える防御陣地、鉄条網、機関銃座や火炎放射台、対戦車砲、通信傍受施設を供えます。
しかし、防御施設の大半は作りかけで、人員、物資・・・不足していました。

1943年末、ヒトラーは、ロンメル元帥を大西洋の壁の補強に当たらせます。
進んでいない補強・・・ロンメルは全力でその強化に努め、改善します。
ロンメルは、フランスとオランダの海岸に、12の要塞を築きました。
中でも力を入れたのが、パ・ド・カレーの防御です。
ドイツ軍は、連合軍がパ・ド・カレーを狙ってくるとわかっていました。
人員や物資をこの地域に集中させ、防御を固めようとします。
そのことが災いして、それ以外は手薄なままでした。

1944年初頭、フランスにはドイツ軍150万人が駐留し、連合軍の侵攻への備えをはじめていました。
作戦の成功は、ドイツ軍の不意を突けるか??というところにかかっていました。
ヒトラーは、戦線が西になることは確信していたものの、パ・ド・カレーと思い込んでいました。
イギリスは、その思い込みを長引かせて、ノルマンディーから頭を外させなければなりません。
イギリスは、偽の情報を流して欺瞞作戦に力を入れます。
1942年には、北アフリカ戦線で効果をあげています。
イギリスの首相・チャーチルは、上陸作戦をドイツに悟られないために、軍の幹部たちに情報戦を指示します。

ロンドンでは、欺瞞作戦に特化した”ロンドン諜報司令部”が設置されました。
チャーチル自らがトップを選びます。
頭脳明晰で入隊まで金融機関で活躍していたイギリス陸軍ジョン・べヴァン中佐です。
作戦全体の管理を行いました。
彼は、欺瞞作戦の全貌を把握していました。
チャーチルはこの助言を頼りにし、そのオフィスを内閣戦時執務室の近くに置きました。
べヴァンは、国内での諜報活動が専門のMI6と、国土安全保障を担当するMI5の統括も任されます。
こうして、コードネーム・フォーティテュード(不屈の精神)作戦が始動・・・
作戦に関わる全ての人々にとって、膨大な挑戦の始まりでした。
フォーティテュード作戦は、二段構えの大掛かりなものでした。
ひとつは、フォーティテュード・ノース・・・
スカンジナビア侵攻をほのめかし、そこにいるドイツ軍をくぎ付けにし、西部戦線に加わるのを防ぎます。
そしてフォーティテュード・サウス・・・
連合軍がいつどこに上陸するのかを悟られないように、敵をかく乱します。
イギリス南東部に連合軍の部隊が集結していると情報を流すと、ヒトラーはパ・ド・カレーを目指していると思うはず・・・
この情報のために、本物の部隊を投入するわけにもいかないので、連合軍はアメリカ軍第一軍集団という架空の部隊を作り上げます。
当時の地図のケント州一帯には、架空の師団の配備位置が記されています。
どうやって信憑性を持たせたのでしょうか?
ヒトラーの注意をひくような、実在の人物を司令官にします。
連合軍総司令官アイゼンハワーが指名したのは、アメリカ陸軍のパットン将軍でした。
パットンなら申し分ありませんでした。
パットンの名前を聞いたドイツ軍は、「あのパットンが率いるのだから、連合軍の精鋭部隊に違いない!!」と考えたのです。

パットンは、かつてダンケルクからの撤退作戦で拠点となったドーバー城の地下に司令部を置きました。
ドーバー城に司令部を置くことで、連合軍の目標はパ・ド・カレーだと思わせます。
実際の司令部は、ポーツマスにありました。
上陸作戦の実行を決めてから、連合国は並行してフォーティテュード作戦を具体化させてきました。
1943年11月の極秘文書から、当時すでに作戦の詳細が検討されていたことがわかります。
第一段階は、架空の軍隊の装備を整えることでした。
ロンドン諜報司令部は、相当な費用を投じ、航空機や船舶などの木製のダミーを作らせます。
何百という艀や上陸用舟艇が作られました。
航空機が偽物の滑走路に・・・
しかし、問題が・・・戦時中、木材は高価だったので、費用が膨大なものに・・・!!
おまけに木製のダミーは重く、移動する部隊としては不向きでした。
低コスト、軽量で敵を威圧するためには・・・??
アメリカ軍の士官が、秀逸なアイデアにたどり着きました。
ニューヨークの感謝祭パレードののバルーンを思い出したのです。
ゴムなら軽くて丈夫、様々な形に作ることができます。
1944年の3月以降、アメリカのタイヤメーカーが中心となって、ダミーの戦車づくりを始めました。
空気で膨らませるゴム製の戦車が何百と作られ、イギリスに送り込まれたのです。
イギリス南東部の沿岸部に255台のゴム製の戦車が置かれました。
こうしてダミーの航空機や戦車が設置されていきました。
あとは、ドイツ軍の偵察飛行を待つだけでした。

その効果は抜群でした!!

ロンドンの映画スタッフも参加します。
ドーバー近郊に、燃料貯蔵庫を造れ!!
手に入るものを・・・ガラクタをかき集めて・・・ダミーを作ります。
タンカー、石油ポンプ・・・連合軍は、設備に至るまで細かく作り上げました。
国王ジョージ6世も現地を視察します。
連合国は、総力を挙げて一芝居を撃ちます。
あらゆる産業が協力します。
当時、イギリス南東部には数千人の兵しかいませんでしたが、それを100万人規模に見せる必要があったのです。
ドーバーには多くの人や車が行き交うようになりました。
アメリカ軍第一軍集団司令部の標識が立ち、地元の人々もそれを信じていました。
しかも、ドイツの諜報員が見ることを見越して、新聞社を巻き込んだプロパガンダが展開されます。
新聞には架空の記事が・・・!!

無線通信は傍受される可能性がありましたが、それを逆手に取ります。
ドーバーの無線室から、軍の動向を知らせるメッセージを大量に送ります。
ここに大規模な部隊がいるとドイツ軍に思わせるために・・・!!
こうして、実在しない部隊に命が吹き込まれていきました。
架空の師団に割り当てる徽章まで・・・!!

しかし、ドイツ側が気付かなければ意味がない・・・
どれだけ把握していたのでしょうか?
ドイツには、架空の師団の配置を正確に伝わっていました。
1944年当時、ドイツ軍によるイギリス本土の偵察飛行はほぼ不可能でした。
当時、イギリス上空を飛ぶドイツ軍機は、連合軍にことごとく撃ち落されていて、写真を持ち帰ることができませんでした。
そこで、あえてドイツ軍機を誘い込み、イギリス南部に集中させている様子をわざと撮影させます。
ドイツ軍は1944年1月~3月まで、一度もイギリスの偵察飛行を行いませんでした。
4月~5月にかけては成功しています。
そこには、ハッキリとダミーの上陸用舟艇が映っています。

架空の部隊、架空の無線通信、偵察機の誘導・・・しかし、数回の偵察飛行をしただけで、ドイツ軍が詳しく情報を入手することができたのか・・・??

そこにはスパイの存在が・・・
イギリスには2つの諜報機関MI5と、MI6があります。
国土安全保障を目的とするMI5の戦時中の方針は明確でした。
敵国のスパイは、協力させたうえで本土に帰らせ、それを拒むものは処刑しました。
潜入したドイツのスパイは、たちまちあぶり出され・・・ドイツ国防軍の諜報機関アプヴェーアは、イギリスで確かな情報源を一人も確保することができませんでした。

二重スパイ・・・ウソにウソを重ね・・・イギリスは、目標を達成するためには大掛かりに展開します。
しかし、ドイツにはそんな発想はありませんでした。
二重スパイを使って、偽の情報を流します。
ドイツが其れに騙されていることをどうやって確認したのか・・・??
イギリスは、1941年以降・・・ドイツの暗号エニグマの解読に成功していたのです。
暗号解読によって手に入れた情報は、最高機密とされました。
エニグマの解読・・・それによって、ドイツ軍司令部の通信内容を把握することができました。
暗号解読の拠点だったブレッジリーパーク・・・1944年には、難解の暗号も、8時間程度で解読可能でした。
相手の反応をリアルタイムで把握し、敵のスパイも把握していたのです。

一方、ドイツ国防軍諜報機関アプヴェーアは、自分たちのスパイ網に自信を持っていました。
イギリス各地にスパイを配置させ、通信傍受で得た情報の裏付けをとっていました。
ところが、ネットワークを統括していた人物こそが・・・二重スパイ、フアン・プジョルです。
フォーティテュード作戦に欠かせない人物でした。
ドイツの分析結果を裏付けるような情報を提供するのが彼の役目でした。
しかし、どうしてスペイン人のプジョルがイギリスの作戦に加わることになったのでしょうか?

バルセロナ出身のプジョルは、スペイン内戦を経験し、独裁者フランコやファシストを憎悪していました。
第二次世界大戦が激化する中、連合軍のスパイになることを決意します。
ヨーロッパの文明が、ヒトラーによって破壊されてしまう・・・!!
しかし、イギリスは門前払いします。
敵の諜報機関の回し者かもしれない・・・!!
プジョルは大胆なプランを考えます。
イギリスの関心をひくために、ドイツのスパイとして働くことにしました。
ドイツ側の信頼を得ることで、イギリスの興味をひきたかったのです。
1941年、プジョルはマドリードでドイツ軍のスパイにスカウトされます。
こうして中立国スペインで、ドイツのスパイとして活動し、連絡係のキューレンタールとも信頼を得ていきます。
プジョルは、ドイツにイギリスの入国許可証を持っていると嘘をつきます。
当時、ドイツはイギリスにスパイを潜入させるのに大変苦労していました。
この機会に飛びつき、プジョルに秘密の連絡手段を教えます。
報酬も与えます。
41年の夏・・・プジョルはロンドンに渡ったと思わせながら、実際にはポルトガルのリスボンに到着。
スパイの多かったこの町で、活動を始めました。
彼はイギリスに行ったこともありませんでした。
リスボンの図書館で時刻表を見て到着・・・あたかもイギリスにいるようにしてやり取りを始めます。
ドイツ側にはアラリックというコードネームで呼ばれたプジョルは、巧妙にウソをつきました。
そもそも、ドイツに有利な情報を渡すつもりはなかったため、様々な話をでっち上げ、永遠と描写させたのです。

プジョルは自分の身を護るために、イギリス国内に大勢の情報源を確保したように装います。
数か月のうちにプジョルのネットワークはイギリス全土に広がります。
情報が偽物だとバレてもその情報源のせいにして、難を逃れることができます。
イギリスMI5も動き始めます。
彼等はアラリック・・・プジョルの暗号の内容をすべて解読していました。
情報はマドリードのキューレンタール少佐を通じて、ベルリンに送られていました。
アラリックとは何者なのか・・・??どうして本土にスパイ網を巡らすことができたのか??
奇妙だったのは、彼の情報の殆どが全くデタラメだったこと・・・。
イギリスの諜報機関は、リバプールにいたスパイが送った情報を入手しました。
輸送船団がマルタ島を目指して出発したという情報・・・そんな事実はありませんでした。
その情報を受けたドイツは、迎え討とうと空軍と海軍から数多くの航空機を動員したのです。
ベルリンにこれほどまでの影響力を持つスパイ網を持つ人間がMI5の目を逃れて展開している・・・それを取り仕切っているのはアラリック・・・

アラリックとフアン・プジョルが重なり出しました。
1942年4月・・・MI5の諜報員が、プジョルに接触・・・
プジョルはドイツのスパイとして1年間活動していたと証言。
それは、イギリス側に認めてもらうためだったと告白します。
ついにプジョルは二重スパイとしてイギリスに採用され、コードネームはガルボ!!
1942年、プジョルはイギリスにわたりました。
偽の情報を流し続けてきたことを当局に認めます。
各地にいるはずのスパイは、全部架空の人物だと明かしたのです。
つまり、プジョルのイギリスでの組織自体も存在しませんでした。
偽のスパイ網は拡大し、1944年には27人にもなっていました。
ドイツが偽の情報を信じなければ、フォーティテュード作戦は失敗する・・・!!
全てはプジョルと架空のスパイたちにかかっていました。
プジョルは報告をロンドンから諜報機関アプヴェーアのマドリード支部に送ります。
支部長のキューレンタールは、そのままベルリンに転送します。

イギリスはエニグマの解読に成功していたので、プジョルが送った全ての情報がベルリンに転送されていることも解っていました。
ドイツ側がプジョルを高く評価していることも解っていました。
ヒトラーは、イギリスが南部に兵力を集中させていると確信するようになります。
1942年4月~44年8月まで、プジョルは毎日のように大量の情報をドイツ側に送っています。
中継係のキューレンタールは、プジョルを少しも疑わなかったのでしょうか??
彼を採用した自分に傷をつける・・・時間がたつにつれて、プジョルを切り捨てることができなくなってきていました。

ドイツ国防軍のアプヴェーアは、完全にヒトラーに従っていたわけではなく、北アフリカや南イタリアへの連合軍上陸を予想できなかったアプヴェーアに、ヒトラーは不信感を募らせ、強硬手段に出ます。
1944年2月、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリス長官を、故意に情報を改ざんしたとして更迭しました。
1920年代初頭に創設されたアプヴェーアは、ナチス傘下ではなく、国防軍の諜報機関です。
カナリス長官は愛国者でしたがナチスには反発していました。
レジスタンスに肩入れし、強く批判していたのです。
カナリスが更迭されたあとも、任務は続行されます。
キューレンタールはユダヤ系であり、ヒトラーが政権を握ると同時に、ベルリンを離れていました。
彼は、プジョルの情報を嘘だとしても見逃していたのでしょうか?
連合軍は、敵の諜報機関から思いがけない恩恵を受けていたのでしょうか?

プジョルは、架空のスパイ網を駆使し、ドイツ側に偽の情報を流し続けます。
上陸作戦を控えた5月・・・なぜかヒトラーはノルマンディーを強く警戒します。
しかし、ロンメルは不可能だと・・・ほとんどの部隊をパ・ド・カレーに集中させていたのです。

上陸作戦決行前夜・・・イギリスはまたもや名案を思い付きます。
上陸直前にドイツに本物の情報を伝えたのです。
朝の4時ごろ・・・プジョルは暗号化した情報をマドリードに送り、ベルリンに転送されます。
連合軍がノルマンディーに上陸・・・という情報です。
まだ海岸に部隊は到着していませんでしたが・・・

ドイツ軍のプジョルに対する信頼は劇的に高まります。
プジョルが見事に連合国の動向を読んだことを称賛し、情報が遅れたのは技術的な問題のせいだと思ったのです。
ついに6月6日・・・遂に連合軍はノルマンディーに上陸!!
しかし、プジョルの任務はまだ終わっていません。
パ・ド・カレーの装甲師団が、ノルマンディーに行くことを防がなければなりませんでした。
ここからがフォーティテュード作戦の山場・最大の快挙でした。
彼等は、ノルマンディー攻撃は陽動作戦にすぎず、本当の狙いはパ・ド・カレーだとヒトラーに思い込ませたのです。
ドイツをだまし続けます。
桟橋を組み立て、陣地を守るための物資を降ろすために時間稼ぎが必要でした。
プジョルの本当の任務はここからでした。
ドイツに情報を送ります。
イギリス南部で部隊の動きが活発化している・・・
第二の上陸作戦の目標はパ・ド・カレーだ!!

ドイツはまたもや偽の情報に惑わされ・・・連合軍は時間を稼ぐことができました。
ノルマンディーへの上陸が成功し、足がかりができ、大規模な追撃が可能となりました。
これが戦争の流れを変え、退局を余儀なくされたドイツ軍はこの後勝機を見出すことができませんでした。
偽の情報を掴まされたドイツは、プジョルを問いただします。

「パ・ド・カレーへの攻撃などなかったではないか?」
「ノルマンディーの攻撃が予想以上の成果をあげたので、連合軍はパ・ド・カレーへの攻撃を取りやめたのだ」

ドイツ軍は納得します。
壮大な謀略作戦は成功をおさめました。
皮肉にも、ヒトラーは1944年7月、プジョルの功績をたたえ、鉄十字章を授与しました。
4か月後、イギリスからも大英帝国勲章を授かったプジョルは、敵対する2つの国から勲章を授与されたことになります。
第二次世界大戦が終わり、冷戦の時代になると、イギリスの諜報機関はフォーティテュード作戦を覆い隠してしまいます。
この作戦について多くが語られなかった背景には、人道的な理由もあります。
連合軍はパ・ド・カレーへの上陸に信憑性を持たせるために、一帯を爆撃・・・
何百というフランス市民が命を失いました。

非人道的な行為もやむ終えないと考えていました。
どんな犠牲を払っても目的を果たさなければ・・・!!
フランスのレジスタンス組織も犠牲になりました。
ドイツの諜報員が潜入していることを知ったイギリスが事前に通告しませんでした。
レジスタンスメンバーも騙され・・・フォーティテュード作戦の全体図を知っていたのは、イギリスとアメリカの諜報機関のみでした。
イギリスとアメリカが保管されている文書が全て公開されるためにはあと10年・・・もしくはあと35年必要です。
作戦の真相はまだ闇の中です。
第二次世界大戦が終わって70年以上たった今も、秘密は秘密のままなのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

史上最大の決断 「ノルマンディー上陸作戦」を成功に導いた賢慮のリー [ 野中郁次郎 ]

価格:2,376円
(2019/9/27 20:32時点)
感想(0件)

2019 フランス ノルマンディー上陸作戦75周年 金貨(フェアマインド) 1/4オンス プルーフ 箱とクリアケース付き 新品未使用

価格:174,050円
(2019/9/27 20:33時点)
感想(0件)

ニクソン回顧録 第1部 栄光の日々

中古価格
¥6,785から
(2016/11/7 05:39時点)



アメリカ大統領選挙・・・世界が注目する大統領選挙・・・
その熾烈な戦いに3度挑み、挫折と栄光を味わったのは、第37代アメリカ大統領、リチャード・ニクソン。

1960年のアメリカ合衆国大統領選挙・・・勝ったのは、ジョン・F・ケネディ。
世論調査では圧倒的に不利でしたが、僅かの差で逆転勝利したのです。
このケネディに、屈辱的な敗北をしたのが、リチャード・ニクソンです。
一時政界から姿を消すほど追いつめられていましたが、1968年大統領選挙へ・・・!!
今度は僅差で勝利、次の選挙では、歴史的大勝利で再選を果たします。
が、スキャンダルによって辞任・・・任期中に辞任した唯一の大統領という汚名を残しました。

大統領となったニクソンは、衝撃的な外交を行います。
日本への沖縄返還、ソビエトとは核兵器制限交渉、中国との関係改善・・・
一方、人間性には厳しい目が向けられます。
マスコミに対する暴言、大統領執務室の通話を秘密裏に録音、権力を乱用、捜査を妨害・・・

1971年7月15日、ニクソンが行ったテレビ演説が、世界に衝撃を与えました。
「周恩来総理は、中国政府を代表してニクソン大統領が1972年の5月までの適当な時期に中国を訪れるよう招待しました。
 私ニクソンは、この招請を喜んで受け入れました。」byニクソン
当時、激しく対立していたアメリカと中国・・・
その両国が手を取るのは、考えられない・・・世界を揺るがした事件でした。
知らずに慌てた日本は、日中国交回復に乗り出します。

世界の度肝を抜いたニクソンは、元々陰気野郎と言われるほどの内気な少年でした。
そんな彼が、どうして大統領となったのでしょうか?
1913年1月9日、ニクソンは、5人兄弟の次男として、カリフォルニア州に生まれました。
学校から帰ると、両親の営む雑貨店の手伝いに負われ、友達と遊ぶ暇もありませんでした。
そんな関係に拍車をかけたのが、父・フランクです。
絶対に自分の意見を譲らず、息子のニクソンであってもやり込めました。
時には手を挙げることも・・・
いつしかニクソンは、無口な少年となっていました。
そして・・・つかられたあだ名が陰気野郎!!

日ごろ物静かなニクソンが多弁となるとき・・・それは、討論の授業でした。
周到な準備をし、当日の授業では完膚なきまでに相手を論破!!
もう一つ、若い頃のニクソンに影響を与えたのは・・・
弟が結核性の脳炎で死去・・・さらに兄も結核に侵され、長い闘病生活の末に亡くなりました。
母親は・・・
「その時からリチャードは一人で三人分の人生を生き、両親の失った分を補おうと前にもまして努力しようとしているように思えた。」と言っています。
ひたすら勉強し、大学を優秀な成績で卒業!!
1934年・・・21歳の時に、弁護士を目指し、デューク大学法科大学院へ進学!!
そして、同級生たちとの議論のうちに、政治に興味を持つようになります。

卒業後ニクソンは、地元の弁護士事務所に・・・瞬く間に看板弁護士となります。
結婚をし、順風満帆に見えましたが・・・
1941年、28歳の時に太平洋戦争勃発!!
ニクソンは自ら軍に志願!!
最前線である東南アジアの激戦地へと赴きます。
太平洋戦争が始まった時、若い男性は志願するのが当然だと思われていました。
政治的野心があるならなおさらです。
従軍しなければ、自分には愛国心があると選挙で訴えることができません。

終戦後・・・地元・カリフォルニアの共和党本部からお呼びがかかります。
弁護士としての実績、軍に志願した経歴が評価されたのです。
1946年33歳の時に、下院議員選挙に出馬。
しかし、相手は当選五回の民主党・ボアヒース。
無名の新人が勝てるはずがありませんでした。
ニクソンは、相手のことを完璧なまでに調べ上げます。
勝つためのキーワード・・・それは、反共・・・反共産主義でした。
米ソ冷戦真っただ中のこの時代、共産主義に対しての反発、風当たりが強かったのです。
ニクソンは、相手候補がかつて共産主義に傾倒していたことを見つけ、攻撃します。
国民の反共感情を巧みに煽ります。
ニクソンは、敵を明確にするのに長けていて、自分の敵をみんなの敵だと納得させました。
共産主義を文字かな恐怖として利用したのです。
結果は、ニクソンの圧勝!!
下院議員となったニクソンは、反共を武器に、その地位を高めていきます。
政界の重鎮の一人がソビエトのスパイであることを突き止めて自白に追い込みます。
反共の闘士として全米にその名を知られるようになっていきます。

そして、上院議員選挙に当選!!
大統領選に臨むアイゼンハワー大統領から副大統領候補に指名されます。
しかし、思わぬ危機が・・・支持者からの不正献金疑惑が浮上!!
副大統領になるどころか、政治生命が危ぶまれる事態に・・・!!
そこで、思い切った行動に出ます。
当時、新しいメディアだったテレビを利用します。
「国民の皆さんに、副大統領候補としてお話があります。
 私たちのワシントンの家は、4万1千ドルですが、2万ドルの借金があります。」
家族や親族を含めた家計の実態を公表し、不正献金を受けたことがないと・・・
そして、一つだけ例外があるといいます。
「テキサスの支援者から1匹のコッカースパニエルを贈られました。
 黒と白のまだら模様の犬なので、娘がチェッカーズと名付けました。
 子供は犬が大好きです。
 チェッカーズだけは、誰が何と言おうと、手放すつもりはありません。」と。

後に、「チェッカーズスピーチ」と言われるこの演説は、人々の心を揺さぶりました。
そしてニクソンは、大統領選挙に勝ったアイゼンハワーの元、副大統領となります。
その後、アジア太平洋地域を外遊し、多くの国々の指導者と意見を交わしました。
その中でニクソンが実感したのが、中国の脅威でした。
「アジア・太平洋に於いて、重要な新しい底知れぬ要素は、共産主義中国であった。
 人々は、中共は後進国で、未開発だからアジアでは脅威になり得ないと言っていた時期に、私はその影響力はすでに、この地域全体に広がっていると直接得た情報を報告できた。」

中国にどう対処するか??
ニクソンにとって生涯にわたる重要なテーマとなりました。
1960年47歳で副大統領としての実績を掲げ、大統領選に立候補。
相手は、民主党のジョン・F・ケネディ。
事前の世論調査では、ニクソンがリードしていましたが・・・
この時初めて行われた大統領によるテレビ討論で情勢が覆ります。
ニクソンは、遊説中に膝を痛め、2週間の入院をしたばかり・・・
テレビでは弱々しく映ってしまいます。
反して若々しくて精悍なケネディ・・・。
新聞は、ケネディ上院議員が討論を制した!!
複数の州知事がケネディ指示にまわると報じました。
結局・・・勝ったのはケネディ・・・大統領選まれにみる接戦でした。

テレビ討論会で重要なのは・・・「7-38-55」のルールです。
人間は、人の好き嫌いを一瞬で判断します。
そのうち55%は視覚情報・・・見た目です。
聴覚情報・・・話しぶりは38%、言語情報・・・話の内容は7%ということです。
視覚情報・・・ここで、圧倒的にケネディが勝ったのです。
髭を剃らずにメイクをし、汗でドーランが落ち、醜く映ってしまったニクソン。。。
そして、ケネディの黒のスーツとニクソンのグレーのスーツ・・・。
白黒テレビの当時、黒はコントラストがはっきりしていて、力強い印象。
グレーは背景と同化してしまい、弱々しく映ってしまったのです。

2年後再起を図るニクソンは、1962年、49歳でカリフォルニア州知事選に立候補!!
しかし・・・惨敗!!
記者会見の席で、マスコミへの不満をぶちまけます。
ニクソンは、政界から姿を消しました。。。


ケネディに負けた8年後・・・奇跡の復活を遂げて大統領となります。
そして中国訪問を発表、世界に衝撃を与えます。
かつて反共の闘士と言われたニクソンが、どうして中国との関係改善を試みたのでしょうか??
政界を去ったニクソンは、一介の弁護士に戻っていました。
ケネディ大統領が暗殺され・・・副大統領のジョンソンが第36代大統領に・・・!!
ベトナム戦争への本格的な軍事介入が・・・
中国やソビエトが支援する北ベトナムとアメリカが支援する南ベトナムが争ったベトナム戦争。。。
アメリカは、当初は戦争への介入を評価していました。
しかし、戦争が長期化するにつれ、アメリカの犠牲者が増大、莫大な費用がかさんで国内経済も疲弊していきます。
さらにアメリカの爆撃に国際社会から批判が・・・!!
こうしてアメリカ国内でも反戦ムードが高まっていきます。
ニクソンはこれを機に立ち上がります。
1968年55歳で大統領選に出馬。
公約に掲げたのはベトナムからの「名誉ある撤退」です。
ニクソンは、接戦を制します。
1969年、56歳で第37代アメリカ大統領に就任しました。

大統領となったニクソンが力を入れたのは、中国との関係改善でした。
副大統領時代から共産主義・中国の影響が東アジアに広がることを危惧していたニクソンは、友好関係を築こうとします。
「この世界は、中国が変化しない限り安全で張り得ない。
 長期的観点から、中国を孤立させることは許されない。」
中国を、アメリカが引っ張る国際社会に連れて来て、その中でうまくやり取りをし、中国を抑えながら、東アジアの国際情勢の安定を図っていたのです。

そこには再選の思惑もありました。
当時、アメリカ国民にとって、中国は不気味な国でした。
その中国の脅威を取り去れば、絶大な支持を得ることができる・・・!!

扱いにくいソビエトより・・・中国が政治家としての腕の見せ所だったのです。
国民にアピールできるチャンスでした。
しかし、国交もなく、対立してきた中国との関係改善は容易ではありません。
ニクソンは、あらゆる手を繰り出していきます。

沖縄を日本に変換したとき、核兵器なしで変換したのもそのためと言われています。
日本だけでなく、中国との関係を意識していたのです。
沖縄に核兵器を配備しないことで、中国に安心感を与えようとしました。
安全保障上の利益を尊重するというシグナルを、中国に対し送ったのです。

また、ソビエトとの核兵器制限交渉に乗り出し、緊張緩和をしたのも、中国との関係改善を見越したものと思われます。
当時、ソビエトと中国は、共産主義をめぐる路線の違いから激しく対立。
もしアメリカとソビエトが手を組めば、中国は孤立してしまう・・・という不安感に付け込もうとしたのです。
この中国とソビエト・・・どちらも上手くやっていくことを狙ったのです。

カンザスシティでニクソンが演説しています。
五極・・・アメリカ、欧州、ソ連、日本、中国、五極の競争の時代になると・・・!!

そして、世界を揺るがしたテレビ放送・・・
「周恩来総理は、中国政府を代表してニクソン大統領が1972年の5月までの適当な時期に中国を訪れるよう招待しました。
 私ニクソンは、この招請を喜んで受け入れました。」
1972年世界中が注目する中、中国を訪問。
米中両国は、敵対関係に終止符を打ち、国交正常化を目指すこととなりました。

1972年ニクソンは、3度目となる大統領選に挑みます。
圧倒的な大差で再選!!
しかし、任期の途中で辞任した唯一の大統領という汚名を残すこととなります。
どうして辞任に・・・??
大統領選のさなか、ニクソンと対立する民主党本部に何者かが侵入!!
ウォーターゲート事件と呼ばれるこの事件・・・
はじめはコソ泥の仕業と思われていましたが・・・犯人の一人が「ホワイトハウスもこのことを知っている」と自供。
ニクソンの関与を疑ったワシントンポストの記者が執拗に真相を追います。
その結果、盗聴容疑者が選挙資金を得ていたことが明らかに・・・
この首謀者は、ニクソンの側近で、ニクソンはかかわっていなかったとされています。
しかし・・・疑惑の目が向けられます。
ニクソンは記者会見に臨みます。
「今日、私は困難な決断を下しました。
 政府内の近しい仲間の辞職を受理したのです。
 またFBIや検察官、大陪審に全面的に協力するよう、政府と再選委員会の全員に命じました。」
ニクソンへの疑いは、晴れたかに見えました。
しかし、関係者への追求が続く中・・・ニクソンが捜査を妨害しようとしていたことが発覚!!
さらに事件とは直接問題ではない事が、クローズアップされていきます。
大統領執務室での会話記録がすべてテープに録音されていたことが判りました。
この録音は、将来自分の功績を誇る図書館を作るためにとってあったという。
ニクソンはテープの提出を拒否!!
「テープ提出の腱で、大統領の会話の機密性が脅かされています。
 機密保持の原則を犯す決議には断固反対です。」
さらに権力を乱用!!
検察官の解任を命じ、司法長官を辞任に追い込みます。
こうした一連の報道に人々の怒りが爆発!!

任期半ばの1974年・・・
「物事を途中で投げ出すのは嫌いです。
 任期を終えずに去るのは、耐え難い苦痛です。
 しかし、大統領として国益を最優先すべきです。
 
 よって私は、明日の正午に大統領を辞任します。」

翌朝・・・
「別れの挨拶の準備に心を集中しようとしたが、その間、何度も心をよぎったのは、あんなに高い所にいたのにどうしてこんな低い所に落ちることになるのかという思いだった。」

そして、別れの挨拶・・・

「私の人生から永遠に光が消えてしまった。
 みなさん、一人一人に言いたい。
 諸君の事は忘れない。」

ホワイトハウスを後にして、大統領専用機に乗り込むニクソン・・・
最後にお決まりのポーズを見せました。

辞任から3年・・・ニクソンはウォーターゲート事件に対して重い口を開きました。
「私は友人を失望させました。
 私は国を失望させました。
 政治のシステムをダメにし、政府で仕事を夢見る若者に、全て腐敗していると思わせ失望させました。
 私はこの重荷を、一生背負っていかなければなりません。」

1979年米中間に、正式に国交が樹立しました。
当時のカーター大統領は、鄧小平を招き、晩餐会を開くことに・・・
その晩餐会に、ニクソンが現れました。
中国側の強い希望でした。
1980年レーガン大統領に親書を送りました。
「私個人に関して、どんな公職に就くことも求めてはいません。
 しかしながら、あなたが必要と思われるなら、私が特に詳しい領域について、喜んでアドバイスいたします。」
外交政策の指南役を申し出たのでした。

1989年中国で天安門事件・・・
民主化を求める学生を、中国政府が武力で排除!!
これに対し、アメリカ国内で中国を批判する声が高まります。
この時、ニクソンはこう指摘したと言われています。
「中国を国際社会から孤立させることになれば、改革開放の動きは頓挫し、古い体制が力を取り戻すことになるだろう。」

1991年ソビエト連邦崩壊。
民主化への支援が不十分だ歳、同じ共和党のジョージ・ブッシュ大統領を批判!!
その後、民主党のクリントン政権が誕生した際には、唐の壁を越えてアドバイスを送りました。
最後までアメリカの外交を気にかかけていたニクソン・・・
1994年ニクソンは心臓発作で倒れ、そのまま亡くなります。81歳でした。

ニクソンの葬儀には、5人の大統領経験者が参列。
クリントン大統領が弔辞を述べました。

「彼は間違いも犯しました。
 成し遂げたことと同じくそれも彼の人生の一部です。
 彼は何度もこう言いました。
 ”人はゴールを見失ったり、登るべき新しい山がないと魂が死んでしまう”と。
 彼の人生は終わりました。
 今後、ニクソン大統領は、その業績によって判断されますように。」

現在、ニクソンの生家は、アメリカ政府の運営するニクソン大統領図書館となっています。 
今・・・ニクソンへの関心が集まる中、年間10万人がここを訪れると言います。

「人は負けても終わったわけではない。
 人はやめたときに終わるのだ。」byリチャード・ニクソン

 

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

大統領の陰謀―ニクソンを追いつめた300日 (文春文庫)

中古価格
¥1から
(2016/11/7 05:40時点)

ディープ・スロート 大統領を葬った男

中古価格
¥198から
(2016/11/7 05:40時点)

日本を決定した百年―附・思出す侭 (中公文庫)

新品価格
¥802から
(2015/12/7 05:41時点)

東京にある三井本館・・・この建物には、GHQの外交局が置かれていました。
昭和26年、日本の戦後交渉が行われました。
対日講和特使J・F・ダレスと総理大臣吉田茂・・・敗戦から6年・・・独立を念願する日本に対し、ダレスは条件を出してきました。

前年に始まった朝鮮戦争・・・東西冷戦が強まる中、アメリカは日本を自由主義陣営に組み込むべく、再軍備を求めてきたのです。
30万の軍隊を・・・。

戦後日本は、アメリカの要求に応じ、非軍事化を推し進めてきていました。
しかし、とうのアメリカが方向転換してきたのです。
拒めば独立は遠のく・・・?
吉田の苦渋の決断とは・・・??
戦後日本の出発点となったサンフランシスコ講和への道は・・・??

昭和22年3月17、日本外国特派員協会で世界を驚かす会見が開かれました。
記者たちに語り掛けたのは・・・連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー。

「日本の民主化は進み、懸案の非軍事化も順調である。
 1年以内に占領を終わらせたい。」

yosida
GHQによる占領から1年6か月、アメリカが要求していた非軍事化と民主化・・・戦争放棄をうたった日本国憲法にかかわったのは吉田茂。
「負けっぷりをよくしようではないか」
敗戦で焼け野原になってしまった日本・・・戦争孤児があふれ、その日食べるものにも困る・・・そんな日本。。。
一刻も早く独立し、戦後復興に邁進しなければ!!と、考えていました。
そんな吉田にとって、マッカーサーの発言は願ってもないことでした。


しかし・・・戦後急速にアメリカと対立関係になってきていたソ連が強硬に反対!!
盛り上がった講和の空気はしぼんでいきました。
そして、ヨーロッパで広がっていく東西冷戦。。。
ソ連によって東欧諸国は共産主義に組み込まれ、アメリカを盟主とする自由主義が激しく対立していました。
遠のいた講和の雰囲気が変わったのは昭和24年11月アメリカ国務省が「講和草案を準備している」との情報が入ったのです。
深刻化する冷戦化!!講和を実現し、日本を確実に自由主義勢力に引き入れたい!!と、思っていたのです。
占領開始から4年・・・日本では独立の機運が高まりますが、吉田は慎重でした。

吉田の気がかりは。。。アメリカ国防総省の反対でした。
大陸では中華人民共和国成立!!
独立すれば、日本にアメリカの基地を置くことができないかもしれない!!と思っていたからです。
このまま国防総省が反対すれば、講和は一向に始まらない!!
吉田は最も信頼する大蔵大臣・池田隼人を密使としてアメリカに送ります。

昭和25年4月25日、GHQから経済視察ということで渡米の許可が下ります。
池田が面会したのは・・・GHQ経済顧問のジョセフ・ドッジ。
ドッジは国防総省にも顔が効きました。
「講和条約を結んだ後も、アメリカは軍を日本に駐留させる必要があるだろうか?
 もしアメリカからその希望を言い出しにくいなら、日本政府から提案してもよい。」
吉田は国防総省が望んでいるアメリカ軍の日本駐留を日本から申し出ることで、事態の解決を謀ろうとしました。
劇的な効果・・・!!これがアメリカを動かします!!
いよいよ対日講和が・・・!!

daresu














対日講和に本腰を入れ始めたアメリカ・・・
その特使に任ぜられたのが、J・F・ダレス・・・共産主義勢力に対する強硬派で知られていました。
昭和25年6月21日、ダレスが予備調査のために来日。
記者団に対し、「自由の世界・囚われの世界がある。」と、反共主義者をアピールします。
ダレスは、日本に基地の提供だけではなく、再軍備をも求める意向を示します。
吉田はどう対処したのでしょうか?

「再軍備は断った・・・日本はとても再軍備できる状態ではなかったからだ。。。
 日本は貧乏のどん底だった。
 戦前の過ちは、軍備の重さが引き起こしたのだから。」

独立国が自衛のための軍隊を持つことは当然だと考えていたダレスは・・・吉田の回答に困惑しましたが・・・過去の過ちを知り、経済だけでも回復させようと思っていた吉田にとっては再軍備の負担は大きすぎました。
平行線のまま・・・

昭和25年6月25日、朝鮮戦争勃発!!

38度線を越えて南下した朝鮮軍を国連軍が迎え撃ち、泥沼化していきます。
冷戦の始まりでした。
アジアの共産主義勢力の台頭をまざまざと見せつけられたダレスは、国防総省を説得!!
反共への目覚めが生まれてきたこのときに、交渉を進め、自由主義化するべきだ!!と。
ダレスに対して国防総省は、有事の際に日本の軍隊がアメリカ軍と行動を共にすることを要求。
どの程度の軍隊が想定されていたのでしょうか??
ソ連の脅威に対し、10個師団の軍隊が・・・1個師団=3万2500。。。3万×10個師団=30万人以上の軍隊を要求されていました。
現在の自衛隊は22万・・・国防総省の要求は苛烈なものでした。
昭和25年11月24日、アメリカ政府は、対日講和7原則を発表!!
日本が国際連合に加盟することを念頭に、すべての戦争当事国は日本への賠償請求権を放棄すべきと明記されました。
吉田が望んでいた寛大な講和に沿うものでした。
日本の安全保障は・・・アメリカとの間に”継続的かつ強力的な責任”と、暗にアメリカの駐留継続が書かれていました。
そして、正式に講和交渉が始まろうとしていました。
いろいろな案を想定していた吉田茂。

①国連安全保障案
すべてを国連軍にゆだねる。

②北太平洋軍事制限案
北太平洋地域の平和及び安全の強化のための提案で、そこには日本列島と朝鮮半島を非武装地帯とするというものでした。
再軍備拒否への強い思いがそこにはありました。

③日米二国間条約案
アメリカ軍を継続して駐留させるというもの。

昭和26年1月25日、ダレスが再び日本の地を踏みました。
29日・・・三井本館の1室で、第1回の交渉が行われました。
会談は冒頭から激しい応酬となりました。
「一刻も早く独立を!!」
「自由主義陣営の強化にどのような貢献をするのか?」
「再軍備すれば、自主経済が不能になる。
 対外的にも、再軍備には杞憂がある。」
「再軍備しないというのは、日本が何もしないことのいいわけか・・・??」

マッカーサーも交えることに・・・マッカーサーは、再軍備は日本経済の足かせになると吉田を支持します。
しかし、頑として主張を曲げないダレス・・・。
追い詰められていく吉田!!

2月2日・・・
「ただもぞ無だけでは、平和は得られません。
 我々は皆、家に住み、財産を持っています。
 警戒もせず、泥棒に家を荒らされるような人は、まったく同情に値しません。」
改めて強調された、ダレスの再軍備要求!!
それは、もはや無視出来ないものでした。
一刻も早く占領状態から脱したい!!
国民の期待も高まります!!

2月3日・・・
職員たちに・・・近いうちに5万人に近い保安隊を組織するという案をアメリカ側に提示することを相談します。
保安隊とは、自衛隊の前身です。
メモは英語にされ、ダレスのもとへ・・・。
その2日後の2月5日・・・
「対日講和7原則にのっとって講和作業を進展させる」と返事がありました。

2月7日ダレスと最後の会談に臨んだ吉田。
二国間で安全保障に関する新しい条約を結ぶ前提で講和をすることを確認します。
再軍備に関しては、アジアで反対論が出てくることを考慮し、当面公にしないことで一致します。
講和への道筋ができてきました。

2月11日、交渉を終えたダレスが日本を離れました。
アメリカには帰らず、オーストラリアやフィリピンの説得に回ります。
ヨーロッパにも回り、賠償金を求めないように熱心に説得します。
半年後の8月31日・・・吉田茂は、講和会議のために、サンフランシスコに向けて旅立ちました。
オペラハウスで行われ・・・参加国は、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアなどの共産国を含めた52か国。
代表権問題を抱える中国や戦時下の韓国は招かれませんでした。
当初はソ連の妨害が考えられましたが、ダレスの根回しで順調に進みます。
自由主義陣営の48か国が日本との講和につくことになりました。
9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印!!
ここに、長きにわたる占領が終わり、国家としての日本の独立が認められたのです。

6時間後・・・吉田はサンフランシスコ郊外に向かっていました。
第六兵団駐屯地・・・。日米安全保障条約の調印に臨むために!!
その際、吉田は池田隼人ら一員には誰にも署名させませんでした。
アメリカ軍の駐留継続と引き換えに、安全保障をアメリカにゆだねるという条約・・・
その責任を吉田一人で背負ったのです。

ダレスはその後、アイゼンハワー政権の国務長官になり、冷戦下のアメリカ外交をリードしていきますが・・・
がんを患い、昭和34年5月に死去。
昭和42年10月・・・吉田茂は89歳でこの世を去りました。
あの昭和の選択は、私たちに何をもたらし、何を問いかけているのでしょうか??

後の世代がこの不平等を平等に近づけてくれ!!という思いから、一人で署名したのかもしれません。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

政治 ブログランキングへ

NHK VIDEO 負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田 茂~ Blu-ray BOX

新品価格
¥12,350から
(2015/12/7 05:42時点)


回想十年

新品価格
¥1,620から
(2015/12/7 05:42時点)




國破れてマッカーサー (中公文庫)

新品価格
¥1,350から
(2014/1/24 15:20時点)


人生の目標に向かって・・・信念に従って・・・!!
自ら信じる美学にこだわり続け、幾多の栄光と挫折を味わいながら俺流を貫き通した男・・・マッカーサーです。

終戦後の日本に現れたマッカーサー元帥・・・連合国軍最高司令官です。
桁外れのリーダーシップで政策を推し進めます。
若いころから常にトップのエリート軍人でした。

独特のスタイルと破天荒な男!!
奇抜なファッションと個性。。。

カリスマであり、英雄にはもう一つの顔がありました。

厚木基地での有名な写真。。。

ma






















トレードマークは帽子、サングラス、コーンパイプです。
自らデザインした帽子で、クシャッとつぶれています。

「私の記憶に残る一番古い思いでは、兵営のラッパの音だ。」
1880年1月26日・・・ダグラス・マッカーサー誕生。
アメリカ南部のアーカンソン州の兵舎で生まれました。

裕福な家庭に育った母は、いつも身だしなみに気を付けていました。

「名家に恥じぬよう立ち振る舞いに気を付けなければいけません。」

父・アーサーは、南北戦争で活躍し、英雄と言われたエリート軍人でした。

「常に勇気を持ち、男らしくあれ。」

13歳の時・・・
父を超える偉大な軍人になることを決めました。

ニューヨーク州ウエストポイントにある陸軍士官学校。
アメリカでもっとも古い歴史ある士官学校・・・エリート養成学校に1899年19歳で入学しました。
軍人になるための第1歩を踏み出しました。
やんちゃで目立つマッカーサー。

しかし成績優秀で、密かに猛勉強もしていました。

首席で士官学校を卒業します。
成績は・・・ほとんど満点でした。
得点率98%という驚異的な成績でした。

その後は、エリートが配属される工兵隊に所属し、その前途は洋々たるものでした。
しかし・・・29歳のころ。。。
陸軍参謀総長への就任が有力視されていた父が、大統領と対立し失脚・・・!!
3年後帰らぬ人となってしまいました。

遺言には・・・「陸軍による葬式を拒否する!!」
と、書かれていました。

32歳の時・・・マッカーサーにとっての英雄だった父の死。。。

「世界はその夜変わってしまった。
 私の心のいてでは癒されることはなかった・・・」

父の無念を晴らしたい!!
自分自身が何が何でも頂点に立つ!!と思うようになります。

1917年第1次世界大戦に参戦・・・
37歳のマッカーサーは、指揮官としてフランス戦線へ・・・!!
長いマフラーをなびかせた奇抜なファッションで最も派手な指揮官として有名になりました。

あえて目立ち、古いタイプの指揮官を意識していました。
司令官で部隊のイメージが決まると考えていました。

そして行動も破天荒!!
銃弾が飛び交う中でもヘルメットなし!!

戦闘になると最前線に飛び出し、危険を顧みない勇猛な戦い方でした。
戦場では・・・”銃弾もマッカーサーを避けて通るのだ!!”と伝説となりました。
戦場の指揮官としての資質があったのです。
尊敬を得、効果的に指揮することが出来ます。

指揮した部隊は次々と戦線を突破し、勝利に貢献したのです。
15の勲章を授与され、英雄とされました。

1930年・・・50歳の時に最年少で陸軍参謀総長に就任。
父の果たせなかった夢を実現したのです。

しかし・・・世界大恐慌で、アメリカは深刻な不況にあえいでいました。
フランクリン・ローズベルト大統領は・・・
軍の予算を半分にすることを要求!!
これに猛反発したマッカーサーは・・・
「次の戦争で負けて 兵士が死に際に
 呪いの言葉をはくときには
 あなたの名前を口にするでしょう」

マッカーサーはその後も度々大統領と対立し、陸軍参謀総長を解任されてしまいました。
しかし・・・新天地を求めて・・・
1935年アメリカの植民地だったフィリピン軍の顧問に就任。
フィリピン軍の創設に関わることになります。

軍事顧問を足がかりに行政長官を狙うようになります。
いずれは政界へ。。。!!


1941年、61歳の時に太平洋戦争開戦。
ハワイの真珠湾を奇襲されたのです。
日本軍はその日のうちに、フィリピン上空へ・・・!!
この時、マッカーサーは大きな過ちを犯していました。

真珠湾攻撃の一報後、部下から出撃を提案されますが、承認せず・・・戦闘機や爆撃機はそのまま残っていました。そこを日本軍に狙われ・・・わずか数分で航空部隊の大半を失ったのでした。

開戦から3週間後、日本軍はマニラを占領、マッカーサーはコレヒドール島に撤退を余儀なくされました。
この時も、持久戦になることは考えずに、食料の備蓄はほとんどなく・・・深刻な食糧難へと陥るのでした。

前線の兵はマッカーサーのことを・・・
”ダグアウト・ダグ”・・・防空壕のダグと、揶揄しました。
第1次大戦の英雄が・・・!!

しかし・・・アメリカでは、日本軍と戦う英雄となっていました。
新聞やラジオは連日マッカーサーを称え、通りもできました。
そこには・・・??
マッカーサーには、報道発表という戦場もありました。
リーダーシップの他に、個人的野望も発揮していたのです。
日本軍に追い詰められ負ける中・・・
140回報道発表しています。

なかには、ありもしないでっち上げもありました。
”日本軍の輸送船を撃沈し、多数溺死させた”

激しさを増す日本軍の攻撃・・・
コレヒドール島陥落は、時間の問題でした。


1942年3月、大統領はマッカーサーにフィリピン脱出を命令します。
絶大な人気を誇るマッカーサーが、日本軍にとらえられたら・・・???
と、判断したのです。

マッカーサーは、大半の部下を戦場に残したまま、オーストラリア・メルボルンへと脱出します。
初めての負け戦でした。

オーストラリアについたマッカーサーは・・・

「 I shall Return 」

と、演説するのです。

軍から「I」を「We」に変えるように要望がありましたが、マッカーサーは「I」と表現しました。

常にマッカーサーが背後にいる!!
Shallという古い言葉をあえて使うことで、強い決意を表現しているのです。
20世紀最大のサウンドバイトです。

「マッカーサーを大統領へ!!」

太平洋戦争中に、ポスターが作られます。
1943年65歳の時・・・1通の手紙が届きました。
共和党の大統領候補に???

マッカーサーは表向きには無関心を装っていましたが・・・
部下に自分の人気を調べさせていました。


サングラスでミステリアスを醸し出し・・・コーンパイプでアメリカを表現します。
このスタイルには、大統領選挙の意欲が感じられるのです。
1944年黙認する形で大統領選挙へ・・・!!

しかし・・・最初の戦いに負けると・・・

「私は指名を切望しないし、その受託もしないだろう」

このまま選挙戦を続け、負けることはありえない・・・!!
この頃から、自分の見え方を意識するようになります。

1944年10月レイテ島を日本軍から奪還!!
約束を守り、再びフィリピンにやってきたマッカーサー・・・
しかし、船は浅瀬に座礁し・・・服がぬれることに・・・
激怒したマッカーサーでしたが、写真を見て・・・

ma3














水しぶきを上げ男らしい自分に気分を良くし、ポスターを作らせます。

”マッカーサーは戻った”

300万枚まかれたのでした。

1945年8月、65歳で太平洋戦争終結。

マッカーサーは、日本を統治する連合国軍最高司令官として厚木基地に到着!!
敵地にひとり、タラップに丸腰で立つマッカーサー。。。

カメラマンの前でコーンパイプをふかします。
部下の護身用の拳銃に・・・
「そんなものは外せ
 彼らが我々を殺そうと思ったら、拳銃など役に立たない
 それよりも、おそれを見せない堂々とした態度に勝るものはない」

その姿は、敗戦国・日本国民の目に焼き付けられたのでした。

一方マッカーサーは、日本を理解しようと猛勉強していました。
日本の歴史・・・天皇に敬意を払って民主化をすすめます。
その結果が、日本の力強い経済と発展への道を開いたのでした。

日本でのマッカーサーは、厚木基地に一目見ようと人が溢れかえり、1日に1000通の手紙が届いたほどでした。

この業績は、アメリカ国民にも伝えられていました。
1948年68歳で大統領選挙。
アメリカでの人気は絶大のマッカーサー。

日本にいながら、大統領選挙出馬を正式に受託します。
大統領になる夢を捨ててはいませんでした。

「ここ日本にいる限り、神秘性が保たれる」

と、日本にいながら選挙に挑んだのです。

しかし・・・1094票中11票と、惨敗でした。
そして・・・態度を一変させました。
「私は公職を求めることもないし、日本での任務を離れる予定もないと、繰り返し伝える必要があると思う」

1950年朝鮮戦争勃発!!
70歳となったマッカーサーは・・・再び戦場へ舞い戻りました。
しかし、中国の参戦を機に原爆投下をを主張したマッカーサーは、第3次世界大戦を怖れるトルーマン大統領と激しく対立します。
「マッカーサー大統領の解任は、我々の政策の遂行のために不可欠と判断した」
マッカーサー解任。。。52年にわたる軍人生活に終止符が打たれました。

その決定を下したのも、またもや大統領でした。
1951年4月、14年ぶりにアメリカに帰国します。

議会での演説で・・・

ma2












”老兵は決して死なず ただ消え去るのみ
 いまや自分の軍歴を閉じ 消え去るのみである
 神が与えてくれた才能に従って、
 任務を果たさんとした1人の老兵として”

マッカーサーは、表舞台から去ろうとしていました。
翌日ニューヨークで行われた帰国歓迎パレードでは・・・
大群衆が!!
沿道には750万人が・・・!!
自分がまだアメリカの英雄であると実感した瞬間でした。

翌年の大統領選挙では・・・
自ら出馬せずに大統領候補の応援に・・・!!
当選の暁には、副大統領と全軍総司令官代理の地位が・・・!!
最大の敵は、自分の部下だったアイゼンハワー。

マッカーサーと並ぶ英雄となっていました。

候補者争いに勝ったのは、アイゼンハワーでした。
アイゼンハワーは、孤高の人・マッカーサーと正反対の人物で。。。
軍人たちを褒め称えました。
「I」ではなく「We」で人々の心をつかんだのです。

「I」で自分を貫き通したマッカーサー。。。
その後、政治の表舞台に立つことはありませんでした。

1964年4月5日マッカーサー死去、享年84歳でした。
アメリカ全土で英雄の死が悼まれたのでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。


にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

東京裁判を批判したマッカーサー元帥の謎と真実―GHQの検閲下で報じられた「東京裁判は誤り」の真相

新品価格
¥1,890から
(2014/1/24 15:20時点)

昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,071から
(2014/1/24 15:20時点)

このページのトップヘ