日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:アドルフ・ヒトラー

独裁者アドルフ・ヒトラー・・・彼には唯一心を許した正式な妻がいました。
その名はエヴァ・ブラウン・・・ヒトラーより23歳年下の女性です。
しかし、その存在はドイツ国民に知らされることはありませんでした。
秘密の関係を続けたエヴァとヒトラー・・・二人が結婚式を挙げたのは、共に命を絶つ前日でした。
独裁者アドルフ・ヒトラーが愛した一人の女性・・・エヴァ・ブラウン。
幼いころから自由奔放、政治には関心がなく、ハリウッド女優になることを夢見ていました。
やがてヒトラーと恋人となると、エヴァはヒトラーが用意した豪華な山荘で暮らしました。
ファッションを楽しみ、大好きな動物を飼い、気ままに過ごす日々・・・
第二次世界大戦が勃発し、ドイツ国内が戦火に包まれる中でも、身の危険や貧困からは無縁の暮らしでした。
ヒトラーをはじめ、ナチスドイツの高官と他愛もない会話で周囲を和ませたエヴァ・・・
多くの召使に囲まれ、山荘の女主人と称しました。
しかし、その裏では家族との確執を抱えていました。
ヒトラーの過激な言動に反発し、別れを勧める父・・・
ナチスドイツの反ユダヤ政策に反対する姉・・・
そしてヒトラーには常に何人もの女性の影が付きまといました。
その一方でエヴァの存在は極秘・・・山荘という鳥かごに閉じ込められていました。
しかし、ナチスドイツが滅びる2か月前・・・
エヴァは自ら鳥かごを出てヒトラーがいる戦火のベルリンに向かいました。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが出会ったのは1929年。
17歳のエヴァは、ミュンヘンにある写真館で働いていました。
そこへ店主に連れられて一人の男がやってきました。

「おかしな口ひげを生やし、大きなフェルトの帽子をかぶった中年紳士が入ってきたの
 私の足を見つめていて、あまりいい気がしなかったわ」

「君は、あの方が誰だかわからないのか?」

「さあ・・・」

この男こそ、アドルフ・ヒトラー。
当時40歳、急激に勢力を伸ばしていたナチ党の党首・・・すでにメディアを賑わす有名人でした。
エヴァにとっては、この中年男の初対面の印象はよくありませんでした。
しかし、後にエヴァとヒトラーは恋人同士になします。
どうして惹かれていったのでしょうか?

エヴァ・ブラウンは、1912年、ドイツ・ミュンヘンの中流家庭で誕生します。
エヴァは三姉妹の次女で、教員だった父のフリードリヒと母フランツィスカの元、娘たちは厳しく教育されました。
学校の成績は優秀でしたが、いたずら好きの問題児・・・教師たちに手を焼かせる生徒でした。
エヴァは思春期を迎えると、父の監視は益々厳しくなります。
父は娘たちの手紙すべてに目を通します。
門限を設けて夜10時には床につくように・・・。
1928年、16歳になるとカトリック修道会の女学院に入学させ、模範的な淑女に育てようとしました。
しかし、この頃エヴァが夢中になったのは恋愛小説と映画。
特に学芸会では演劇に熱心に取り組みます。
いつしか、ハリウッド女優として成功することを夢見るようになっていました。

教師の父親が一番重要視していたのは、娘たちに一流の専門教育を受けさせること・・・。
しかし、エヴァ達娘は、反抗的でした。
17歳になったエヴァは、近所の写真館で働き始めます。
これが、彼女の運命を大きく変えることとなります。

この頃ドイツは、第1次世界大戦で敗戦し荒廃していました。
戦争を再び起こさないように軍備を制限され、戦後賠償で経済はどん底・・・町には失業者が溢れていました。
そんな時、経済復興と失業問題の解決を掲げ、支持を集めたのがヒトラー率いるナチ党でした。
エヴァが働く写真館の店主は、熱烈なナチ党員・・・ヒトラーの専属写真家も務めていたため、店はヒトラーの写真で埋め尽くされていました。
ヒトラーと出会った夜、エヴァは父に聞いてみました。

「アドルフ・ヒトラーってどんな人?」

「ヒトラー?
 あいつは自分が万能だと思い上がっている青二才だ!!」

父親はもちろん心配していました。
なぜなら、当時のナチ党は、極めて暴力的で殺人を犯すこともありました。
しかし、エヴァは、父への反抗としてヒトラーに近づきました。
一方、ヒトラーは、エヴァを気に入りました。

「彼女は私を和ませるんだ」

ヒトラーは、周りを側近や気の置けない人で固める傾向にありました。
そういった狭い交友関係の中で女性も選んでしまうのです。
その後、ヒトラーは写真館を訪れるたびにエヴァへプレゼントを持ってくるようになりました。

「エヴァさん・・・オペラに招待してもよろしいですかな?」

23歳年上の男からの紳士的な誘いに魅了されていったエヴァ・・・
出会いから2年がたったころには姉にこう打ち明けています。

「絶対にあなたもヒトラーに会うべき!
 会えばあの人のイメージも変わるから・・・!!」

ヒトラーの女性に対するマナーには、うっとりとするものがありました。
夢中になってしまったのは、エヴァからでした。
しかし、この頃のヒトラーには特別に親密な女性がいました。
姪のゲリ・ラウバル(23歳)です。
ヒトラーの姉の娘で、エヴァより4歳年上でした。
ヒトラーとゲリは、2年の同居生活を送り、叔父と姪を超えた深い関係だったといいます。

「私は姪のゲリを愛している
 だが、結婚は出来ない」

タイプとしては、エヴァとおなじように非常に快活で行動的な女性でした。
そんな中、ヒトラーとエヴァが急速に近づく事件が起こります。
1931年ゲリが自ら命を絶ちました。
一説ではヒトラーの束縛が原因ともいわれています。
ヒトラーは憔悴しきっていました。
ゲリを失ってしまったショックがあまりにも大きかったのです。
それを見たエヴァは・・・

「ヒトラーにとってあの女は、きっと特別な人だったのね」

この直後、エヴァは思いがけない行動に出ます。
髪型や風貌、話し方まで自分をゲリそっくりに真似たのです。
いつしか二人は恋人同士になりました。
エヴァ19歳、ヒトラー42歳の時でした。

自ら望んでヒトラーの恋人となったエヴァ・ブラウン・・・しかし、わずか2年の間に2度も自殺を企てます。
何が原因だったのでしょうか?
エヴァがヒトラーと出会って3年後、1932年7月、ヒトラー率いるナチ党は、ドイツ国会選挙で第1党に躍進します。
ますます政治活動に力を入れるヒトラー・・・
エヴァをミュンヘンに残し、ドイツ中を飛び回ります。
以前より会う時間は減っても二人の関係は続いていました。
当時ヒトラーは、側近にこう漏らしています。

「私はミュンヘンにいる一人の娘を愛している」

しかし、エヴァの存在は、限られた一部の人だけの秘密でした。
それは、ヒトラーの結婚に対する考えからでした。

「私には既に花嫁がいる
 私はドイツと結婚したのだ!」

独身であることで、女性の支持が得られるという考え方がヒトラーにはありました。
結局最後まで、ヒトラーはエヴァと言う存在を国民の目からひた隠しにしました。
ヒトラーにとっては、女性よりも政治の方が大事だったのです。

この時、エヴァ・ブラウンは20歳・・・ミュンヘンの実家でヒトラーからの連絡を待つだけの生活でした。
そんな中、ある事件を引き起こします。
エヴァは、ヒトラーに別れの手紙を投函・・・そして・・・銃弾は首をかすめ、一命をとりとめました。
知らせを聞いたヒトラーは、すぐに病院へ駆けつけました。
そして医師にこうただしました。
 
「彼女は本気で自殺しようとしていたのか・・・??」

「彼女は心臓を狙っていましたが、なんとか助けられました」

エヴァは、ヒトラーとの関係が終わるのではないかと深く絶望していました。
これからは、この娘を気にかけてやらなければ・・・
2度とこんなことが起きてはならない・・・
ヒトラーは、いつでも連絡が取れるようエヴァの部屋に電話を設置しました。
自殺未遂の翌年・・・1933年1月にヒトラーは首相に就任。
一層政局に謀殺されていきます。
21歳の誕生日を迎えたエヴァの元には、ヒトラーから指輪やネックレス、ブレスレットが届きました。
しかし、肝心のヒトラー本人は現れませんでした。

「彼が殊勝になったところで、私に何の関係があるの??
 彼に会えない日が増えるだけだわ」

翌年ヒトラーは、ナチ党の党首・首相・大統領と全ての権限を持つ総統に就任し、独裁色を強めていきます。
武力を背景に、反対勢力を排除していきます。
しかし、エヴァは、ヒトラーの政治には関心を示さず、生涯ナチ党に入りませんでした。
そんなエヴァにとっての最大の関心ごとは、ヒトラーの周りの女性たちでした。
絶大な人気を誇るヒトラーの周りには、有名女優や歌手、映画監督などが集まりました。
青年時代は画家志望だったヒトラーは、芸術的才能を持つ女性たちと積極的に触れ合います。
それに対して、エヴァの存在はあくまで秘密にされ、公の行事に参加する事さえ許されませんでした。
エヴァは、ヒトラーに寄ってくる女性たちに、激しい嫉妬心を抱いていたといいます。
ヒトラーは、多くの著名な女性と出会っては、彼女たちの機嫌を取るため贈り物までしていました。
しかし、エヴァは、自分がとても難しい立場にいることも自覚していて、すべてを受け入れるしかありませんでした。

エヴァの23歳の日記には・・・ヒトラーと自分の関係が・・・その時々の気持ちが書かれています。

「昨日は思いがけなく彼が来て、うっとりとするような夜になったわ」

それから2週間後には・・・

「彼はもう、14日間も来ていない
 私は彼がなぜ怒っているのかわからない」

さらに12日後には・・・

「今は政治的にいろんなことが起きているから彼が私に興味を示さないのは当然のことよ
 ただ静かに待っていればいいのよ」

この日記が書かれた1935年3月16日、ヒトラーは第1次世界大戦後に禁止されていたドイツの再軍備を宣言しました。

エヴァの日記に書かれているのは、ありふれた日常ばかり・・・
国がひっくり返って、世界が崩壊するかもしれない中で、エヴァがはヒトラーが自分のために時間があるかどうかという観点からしか見ていませんでした。

翌月のエヴァの日記には・・・

「愛なんてものは彼の計画から外されてしまったんだわ」

そしてエヴァは再び事件を起こします。
自宅で大量の睡眠薬を飲み、2度目の自殺を図ったのです。

「親愛なる神様、今日中に彼と話すことができるようにお力をお貸しください
 明日では遅いのです
 私は35錠飲むことに決めました」

しかし、姉がすぐに発見して手当てをしたため、命はとりとめました。
この時姉は、エヴァの自殺の原因を両親に知られるのを恐れ、日記の一部を破りとりました。
エヴァの日記は後になくなりますが、姉が破った4か月分だけが偶然残りました。
再び自殺を図ったエヴァに対し、ヒトラーは驚くとともに心打たれたといいます。
ヒトラーは、自分に絶対的な忠誠心を誓った仲間に非常に温情をかけるような面があります。
自分の命をかけてまで、自分に忠誠を示してくれたというのが、ヒトラーの気持ちを動かしました。
2度目の自殺未遂から3か月後、ヒトラーは公式行事にエヴァも参加することを許しました。

1935年秋、ニュルンベルク党大会・・・ヒトラーのもとに10万もの人が集まるのをエヴァは初めて目の当たりにしました。
この党大会中にヒトラーはある重要な法案を可決しました。
ニュルンベルク法と呼ばれるユダヤ人の市民権を奪う人種差別法です。
エヴァは日記にこうつづっています。

「地球でもっとも偉大な人の恋人の私」

エヴァ・ブラウン23歳の秋のことでした。

エヴァとヒトラーが出会って6年が経った1935年、父・フリードリヒはヒトラーに手紙を送ろうとしました。
恋人とはいえ、秘密で結婚もしようとしないというエヴァとの中途半端な関係を心配したからです。
「子供達は結婚して初めて両親のもとから離れるもの」
これ以上付き合うなら、エヴァと結婚してほしいと遠回しに迫っています。
この手紙はヒトラーに届けられる前に、エヴァに見つかり破り捨てられてしまいます。
しかし、父が手紙の写しを持っていたため、どんな内容だったのかわかっています。

もちろん、エヴァは結婚したかったのです。
しかし、自分の立場を受け入れ、一度たりともヒトラーの邪魔をしようとはしませんでした。
常にヒトラーの言われたように動きました。
だから、あのような関係が長く続いたのです。
ミュンヘン近郊・・・自然に囲まれたオーバーザルツベルクの山荘・・・ここを気に入ったヒトラーは、山荘を買い取って改築しました。
改築が完成すると、エヴァ・ブラウンは実家から出て山荘で暮らすようになります。
この時、24歳・・・山荘には巨大な大広間をはじめ、30以上の部屋があり、最高級の木材などが使われていました。
人里離れた山荘は、関係を公にできない二人にとって絶好の隠れ家でした。
この山荘で、エヴァに仕えていた女性の証言が残っています。

「”ハッキリ言っておくわ”と初日に言われたの
 ”あれがヒトラーの部屋で、こっちがエヴァの部屋、利口ならば2人の関係はわかるわね
 あともうひとつ
 何を見ても、何が起こっても、絶対口外したり、書き留めたりしないこと
 エヴァの存在は極秘よ”とね
 だから、2人がどこまで進展しているのかは分からなかった」

エヴァとヒトラーは、人前では仲のいい友人として振る舞い、決して親密な態度は見せませんでした。
そんな2人が楽しみにしていたのが夜の映画鑑賞です。
その日何を見るか決めるのはエヴァ、特に好きだったのはハリウッド映画「風と共に去りぬ」でした。
エヴァは、主役のスカーレット・オハラを真似た衣装を着て、映画の一シーンを再現するほどお気に入りでした。

エヴァが山荘に移って3年が経った1939年、第2次世界大戦勃発。
9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。
戦争が始まると、山荘は総統大本営となりました。
ヒトラーは、ここで日夜作戦会議を開いて戦略を立てました。

戦争中でも、エヴァの暮らしにはほとんど変わりはありませんでした。
しかし・・・エヴァ自身にはある変化が起きていました。
ヒトラーが山荘を離れるとエヴァはそれを待っていたかのようにいそいそとパーティーの準備を始めるようになります。

「それまでおとなしくしていた彼女が一瞬で豹変した
 すぐに様々なお楽しみの準備が始まった
 はめを外し、まるで子供だった」

さらに、エヴァは家族も山荘に呼んで一緒に優雅な生活を送るようになりました。
そこには、ヒトラーをかつての青二才と嫌っていたフリードリヒの姿もありました。
この頃には、父もナチ党に入党しています。
いつしかエヴァは、自らを山荘の女主人と名乗るようになっていました。

開戦当初、ヒトラー率いるドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にはパリを占領するなどヨーロッパ中を震え上がらせました。
戦争を拡大する裏で、ナチスは数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ります。
こうしたユダヤ人迫害など、ヒトラーの政策を批判していたのは姉のルイゼでした。
山荘で公然とヒトラーを批判する姉に対して、エヴァはこう言いました。

「総統が、あなたを強制収容所送りにしても私は助けないわよ!」

第2次世界大戦末期の1945年4月30日・・・
ナチスドイツの総統官邸でエヴァはヒトラーと共に命を絶ちました。
一体どうして・・・??
1944年、ヒトラー率いるナチスに開戦当初の勢いはありませんでした。
6月には連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功。
ドイツ国内では市街地への空襲が激化!!
山荘にいたエヴァは、故郷ミュンヘンから立ち上る炎をじっと見つめていたといいます。
更に翌月には、ヒトラー自身に衝撃的な事件が起こります。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件・・・会議中、ヒトラーの傍に置かれていたカバンが爆発・・・戦争の敗北を悟った側近たちのクーデターでした。
この爆発で4人が命を落としたものの、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで済みました。
この時、エヴァのもとにヒトラーからあるものが届けられました。
爆発の衝撃でボロボロになった軍服です。
エヴァはヒトラーにこう返事を書きました。

「あなたの身に万一のことがあったら、私は生きていくことができません
 たとえ死んでもあなたについていくと誓ってまいりました
 あなたを愛することが私の全てです・・・あなたのエヴァ」

1944年10月、エヴァは細かい遺書を書きます。
遺書には現金や車、買いそろえた毛皮のコートやじゅうたんなど、家族や友人の誰に渡すか・・・事細かに記されていました。

1945年1月、連合軍は首都ベルリンに迫っていました。
ヒトラーは、総統官邸の地下に作られた地下壕に籠り、ベルリン防衛を指揮。
エヴァに対しては、戦火から遠く離れた山荘に留まるように指示していました。
しかし、3月7日、ベルリンの戦火を抜けて走る一台の車が・・・
エヴァ・ブラウンでした。
ヒトラーは、彼女が言いつけに背いてやってきたことを心から喜んだといいます。
その後も連合軍の猛攻は続き、地下壕の側近たちにも不安が募っていきます。
しかし、エヴァは、地下壕に家具一式を運び込んで、美しく着飾って、山荘にいるのと同じように過ごしました。
エヴァは、ヒトラーが部下の前で弱みを見せることを許さず、時には軍服の乱れを注意することもありました。

「そんな薄汚れた格好で歩き回ってはいけないわ」

1945年4月、連合軍は総統官邸の目前まで迫ってきました。

「1日ごと、いや1時間ごとに最後が私たちに近づいてきています
 総統は、この戦争の全ての希望を失いました
 けれど、私たちは生きて捕らわれるつもりはありません」

敗戦が濃厚となり、逃亡する兵士が続出・・・
その中にエヴァの妹の夫・・・義理の弟もいました。
逃亡先で捕まった義理の弟には、処刑命令が下りました。
しかし、エヴァは救いの手を差し伸べませんでした。
すでに地下壕は絶望的な状況・・・連合軍がいつ押し寄せてもおかしくありませんでした。
そして、4月29日未明・・・
エヴァは、ヒトラーと結婚式をあげようとしていました。
写真館の出会いから16年が経っていました。
エヴァは、光沢を帯びたロングドレスに身を包み、美しい宝石で着飾ります。
式は、ナチスドイツの婚姻条例に従ってベルリン市役員立会いの下で行われました。
結婚証明書に署名する際、エヴァはブラウンと書きそうになり、慌ててエヴァ・ヒトラーと書き直しました。
朝になるとエヴァは使用人にこう言います。

「私のことをヒトラー夫人と呼んでもいいのよ」

結婚式の翌日・・・1945年4月30日午後3時・・・
ヒトラー夫妻はそろって部屋へと入っていきました。
そして銃声が・・・こうして、エヴァ・ヒトラー33年の生涯に幕を下ろしました。

2人の遺体は地下壕の外に運び出され、焼却されました。
2日後ベルリンが陥落し、ドイツは敗戦を迎えます。

 
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1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任しました。
ユダヤの人々にとって苦難の12年間が始まった日です。
ヒトラーの著書「我が闘争」には、ユダヤ人に対する憎悪が書かれています。
この本を読んでいたであろうドイツ系ユダヤ人・・・
自分達の存在を消そうとする政権の誕生をどう思っていたのでしょうか?

ヒトラーは、職業公務員再建法やニュルンベルク法でドイツ系ユダヤ人の生存権を奪っていきます。
ひび強まっていく差別・・・。

1930年代、反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れていたドイツ・・・。
ナチス・ドイツのベルリンで、ユダヤ人小学生たちの避難場所となったのが小学校でした。
若い女教師が立ち向かいます。

1933年首相に就任したヒトラーは、独裁体制をひいていきます。
反ユダヤ人をスローガンとしていました。
ヒトラーが出てくるまでは、ユダヤ人たちはごく普通にドイツ人として生活していました。
当時ベルリンでは、2万7000人のユダヤ人の子供たちが学校に通っていました。

普通に生活していたのに・・・
ヒトラー政権の下、忌み嫌われていきます。
反ユダヤ主義は、学校にまで持ち込まれ、ナチズムが刷り込まれていきます。
ユダヤ人生徒に対するいじめ、差別が激しくなり・・・
それは、教師も同じでした。
レオノラ・ゴールドシュミットは、11年の経験を持つ教師。
1933年4月・・・職業公務員再建法によって、政治的に好ましくない公務員は、即刻解雇できるようになりました。
好ましくない存在・・・ユダヤ人のことでした。

解雇されてしまったレオノラ。
しかし、鳴き寝入りはしません。
公立が雇ってくれないなら、私立を作ろう!!
と、行動を開始します。

当時の状況で、ユダヤ人の学校を作ることは極めて困難でした。
ナチスは、ユダヤ人教師が教えてもいい人数を、一度に5人までとしていました。
この規定をうまく利用したのです。
しかし、レオノラと夫・エルンストは・・・多くの教員で教えれば学校ができる??

学校設立に動いていたレオノラ・・・
その間も着々と独裁体制を固めていくヒトラー。
1937年、宣伝映画を作るために、アメリカ人の映画製作者ジュリアン・ブライアンを雇い入れました。
が・・・ユダヤ人に関することや軍事力に関することの撮影は禁止されました。
ブライアンは、労働者、建物、高速道路・・・しかし、ナチスがひた隠しにする現実に気が付いていくのです。

そして・・・本当は何がこの国で起こっているのか?暴こうとします。
ナチスの掲げる反ユダヤ主義は教室の子供たちにも強まっていきます。
教師は、ナチスを浸透させるための道具に変貌し、子供たちはユダヤ人はドイツ人より人種的に劣ると教え込まれます。
そうした中・・・レオノラは、ユダヤ人の子供たちが安心して安心して通える学校を!!と、奮闘していました。

何代も遡って家系を調べられ、ユダヤ人の子は教室の後ろに分けられていきます。
レオノラは、乗り越えなくてはならない壁にぶち当たっていきます。
膨大な資金、学校に相応しい建物・・・。
1934年レオノラの親戚がナチス親衛隊に殺害され、レオノラに莫大な財産が入りました。
遺産の一部のベルリンの邸宅を使っての学校ですが・・・
許可はなかなか下りません。
当局の規制をかいくぐり・・・
1935年申請が許可され、ゴールドシュミット・スクール開校。
解雇された5人の教師による25人の生徒の学校が始まり・・・
そこには本当の自由がありました。

しかし、迫害はひどくなっていきます。
1935年ナチスはニュルンベルク法という反ユダヤ主義の法律を作りました。
ユダヤ人は、国民としての権利を奪われます。

レオノラは、将来子供たちが国外に逃げることを想定し英語教育をします。
ほとんどの授業は英語で行われ・・・移住に備えられました。

イギリス大使館から教師を呼びます。
自分の学校を、イギリス・ケンブリッジ大学受験の認定校にするように動き出します。
教え子たちが国外の学校に行きやすくなるように。。。

ドイツ教育省の高官ヴァルター・ヒューグナーを頼ります。
かつての恩師に嘆願書を送ります。
ヒューグナーは、ナチスに睨まれるのを承知で協力してくれ。。。
1937年・・・ドイツでも数少ないケンブリッジ大学受験の認定校となるのです。
お蔭で、他のユダヤ人学校のように閉鎖されずに済んだのです。
ドイツ以外でも生きていけるように・・・!!

しかし、学校の外ではナチスの暴挙が・・・!!
ユダヤ人迫害の事実は隠せなくなってきました。
その頃、ジュリアン・ブライアンは、事実を暴く撮影を始めていました。

「ユダヤ人お断りの看板」
「ユダヤ人は黄色のベンチ」

1937年夏・・・7週間かけてドイツを廻り・・・
ゴールドシュミット校にも来て撮影しています。
しかし・・・このオアシスも長続きすることはありませんでした。

ブライアンは、自らとった映像を世界に公表しようとします。
撮りためたフィルムを国外に出さなければ・・・

ブライアンは、自分が撮った映像が、ナチスにとって大打撃になることを知っていました。
アメリカに帰国したブライアンは、記録映画を作り始めました。
1938年「ナチスドイツの内側」という映画が公開され、何百万人の観客を動員しましたが・・・
歴史はすぐには動かなかったのです。
アメリカの世論を動かそうとしたのに・・・
その間にも、事態はますます悪化していきます。
1938年3月、ヒトラー率いるドイツが隣国オーストリアを併合!!

ユダヤ人への迫害があからさまに行われるようになっていきます。
そしてドイツのユダヤ人にも・・・。
1938年11月9日「水晶の夜」事件によって、ユダヤに関係のある建物が襲撃されます。
3万人ものユダヤ人男性が強制収容所に送られました。

そして学校も危険に晒されていました。
襲撃されたのは、全てユダヤ人の所有する建物でした。
たった一晩で、何百もの建物が襲撃されたのです。
どうすれば学校を守れる??

建物をイギリスの所有物だということにして、難を逃れます。

そのうち・・・町では男性はみんな逮捕され、強制収容所に送られていきました。
そしてその危険は、レオノラの夫・エルンストにも・・・
水晶の夜の次の日・・・ゲシュタポが家の近くまでやってきていました。
二人が家を出た直後にやってきて・・・対応したのは彼らの娘でした。

娘が時間を稼いでいる間に、イギリスのビザを取得し逃れることができました。
ドイツのユダヤ人たちは、もはや生き残るためには国外脱出しかない・・・!!と、思い始めていました。

1938年には、もう、国を出ることすら難しくなっていました。
経済恐慌・・・反ユダヤ主義は、各地に飛び火していたのです。
アメリカも受け入れには消極的でした。
生徒たちを国外に・・・!!
イギリスに渡った夫と考えます。
イギリスにゴールドシュミット校の分校を作ろう!!
ユダヤ人を支持しているイギリスの団体に援助を求めます。
が・・・いい返事は得られません。

あらゆるつてを頼ったのに、資金は集まりません。
多くのユダヤ人たちが連行されていきます。
一刻の猶予もない!!

イギリスにあるユダヤ人支援団体が、ユダヤ人の子供の移住を後押ししていました。
9000人以上の子供たちが親元を離れ、イギリスに渡っていきました。

1939年7月レオノラがドイツ出国!!
9月1日、イギリスでゴールドシュミット校が開校。
その2日後、イギリスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦がはじまったのです。
幸いにも当時の生徒たちのほとんどはホロコーストを免れることができました。

レオノラは、その後もイギリスで教師を続け・・・
1983年に85歳で亡くなりました。
多くの生徒たちは、今も彼女を誇りに思っています。

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縛られることに抵抗し、どのような非難に晒されようとも自由を貫き、世界を笑いに包んだ男・・・
20世紀の喜劇王・チャップリンです。

笑い・・・涙・・・風刺・・・才能と栄光に溢れた輝かしい業績・・・
しかしチャップリンは自分の人生は・・・

「人生とは苦しみだ」

と言っていました。

自由を求めるチャップリンが自由を求めて戦ったのは・・・
ヒトラー、アメリカ・・・
そして・・・翻弄された人生。。。
天国と地獄を行き来した喜劇王です。

cha1



























チャーリーは、わざとちぐはぐな大きさの衣装にし、ホームレスのキャラクターを表現しています。

しかし、実際のチャップリンは・・・こんな感じ。cha2


世界の喜劇王はどのようにして生まれたのでしょうか???

イギリス・ロンドン。。。
下町にチャップリンの原点のミュージックホールがあります。
日々の貧しさをつかの間忘れられる場所です。
チャップリンの良心も、歌やものまねをする舞台芸人でした。

1889年4月16日、チャールズ・チャップリン誕生。
両親は離婚し、母が女手一つで育てていました。
が・・・母は、コメディやものまねを演じ、家族を笑いで包んでいました。

「私にとって母は、最高の芸人だった。
 私は身振りや表情で自分の感情を表現する方法や、人間を観察する力も学んだのだった。」

ところがある日・・・
母に異変が・・・!!
声が出なくなり・・・仕事を失ってしまいました。
それは貧乏になることを意味し・・・チャップリンは、母と離れ離れになってしまいました。

自分で稼がなければ生きていけない・・・職人についたり・・・時には物乞いなどをして過ごしました。
12歳の時、別れた父が死ぬことを知ると・・・
喪章をつけて花を売り・・・女性たちは、哀れな少年に同情して花を買いチップまでくれました。
生きるためには、きれいごとを言っていられなかったのです。

普通の子なら死んでいたところ、それに抵抗し、生き抜いたのでした。

18歳の時・・・生きるために・・・ロンドンの人気劇団に入団。
それは、両親と同じ大衆芸人でした。

チャップリンの当たり役は・・・酔っ払い・・・
全身を使ったアクション、メリハリ、タイミング・・・誰もが爆笑し。。。
ロンドンの大衆演芸で・・・週給75ドル(現在の約17万円)もらえるまでになりました。

チャップリン21歳の時・・・所属劇団の興業でアメリカに渡りました。
そこは、自由と成功の地・・・チャップリンの憧れの地でした。

”自らの努力によって身をたてることが出来る立身出世が可能な国”

でした。

24歳の時、映画会社からスカウトされます。

当時映画は、急成長の娯楽・・・
出身の階級など関係なく、人気スターになれたのです。
成功への登竜門でした。

1913年24歳の時に・・・映画会社と契約します。
期間は1年、週に150ドル。申し分ない金額でした。

が・・・この契約書、一度作り直されています。
作り直す前に・・・チャップリンはサインを拒否しています。
そこには絶対に受け入れられない項目があったのです。

「契約は、いずれか当事者の通知により解約できる」

という部分でした。

この項目の削除を求めたのです。
安定した生活は、絶対に失いたくはない・・・。
貧しさへの恐怖はそれほど根深かったのです。
 

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1914年「成功争い」で銀幕デビュー。

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お馴染みのスタイルではありません。
ドタバタ勢いで、どちらがチャップリンか分からない出来でした。



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しかし、2作目「ヴェニスの子供自動車競争」では・・・
本領発揮!!
既にチャーリーになっていました。
味のある動き・・・その個性的な動きに大爆笑!!




新作を発表するたびに、その笑いは鋭さを増していきます。
もっとチャップリンの映画を・・・!!映画館から注文が殺到します。
わずか1年足らずで週給1万ドル(現在の2300万円)へと・・・役者としての最高ランクにまで上り詰めたのでした。

ところが・・・トランクの中身は・・・
使い古したシャツと歯ブラシ・・・
小さなホテルに暮らしていました。
どんなに成功している時でも・・・
「もし明日、無一文になったら・・・」というのが口癖でした。
突然声が出なくなった母や、死の恐怖にさいなまれていたのです。
貧乏という苦しさは、いつもチャップリンの身近にあるものでした。

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映画監督として活動しだしたチャップリン・・・。
笑い・・・涙・・・風刺・・・独特の魅力はどこから出てきたのでしょうか?
初期作品のNGフィルム・・・保存されているもので250本あります。
若きチャップリンは、作品作りでどんな試行錯誤をしたのでしょうか???
チャップリンの作品には台本はなく・・・
その時感じた面白いことを作品にしていっていました。
その為・・・撮影したのに使われないフォルムがたくさんあったのです。
当時の映画界に置いては異常な量でした。

当時は入念にリハーサルを行い・・・1テイクで撮るのが普通でした。
しかし、チャップリンの場合は、ギャグを試して何度も撮影をやり直しました。
少しでも良い笑いを生み出そうとしていたのです。
完璧な笑いを追求していきました。
そして批判も加えて仕上げます。
チャップリンは自由に作りながら、徹底的に追求していきました。

風刺の笑いで快進撃を続けるチャップリン。。。
しかし・・・初めての赤字作品が誕生してしまいました。
「殺人狂時代」です。
 

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1938年チャップリンは、風刺映画の大作に取り組み始めました。
「独裁者」です。
風刺の対象は・・・ アドルフ・ヒトラー・・・ドイツの民衆を圧倒的に先導した男です。
過剰で大袈裟なパフォーマンス・・・。
ドイツの民衆は、ヒトラーの作る熱狂へと引き込まれていきました。
一方でヒトラーは、国内をひとつにまとめるために、敵を作りました。ユダヤ人です。
周囲の国を敵とみなし、1939年ヨーロッパを第2次世界大戦に巻き込みました。
チャップリンは、ヒトラーに怒りを覚えます。
このままにしては置けない・・・!!

「独裁者」でチャップリンは、ふたりのちょび髭の男を演じます。
 

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ひとりは迫害に苦しむユダヤ人の床屋。
もう一人は、架空の国の独裁者・ヒンケル。世界のすべてを手に入れたい皇帝です。
ヒンケルの演説は、ヒトラーを髣髴させます。
叫んでいるのはでたらめな言葉。。。ヒトラーの演説が無意味であることを風刺しています。

チャップリンは、ヒトラーを笑い飛ばそうとしました。
ヒトラーを怪物のように書けば恐怖ですが、見方を変えれば非常に滑稽な存在です。
彼は独裁者を面白おかしく書くことで、やっつけようとしたのです。

そして・・・映画のラストでは。。。
自由の尊さを訴えます。
独裁者ヒンケルと入れ替わった床屋が、演説します。

”私は皇帝などなりたくない
 それは私には関わりのないことだ
 人間が命を賭けて守る限り、自由は滅びることはありません。
 権力者たちに身をゆだねてはいけません。
 君たちを奴隷にし、考えを指図し規制するものは、家畜のようにこき使い、単なる駒として扱うのです。
 独裁者は自分だけを自由にして、人民を奴隷にするのです。
 今こそ、世界の解放の為に戦おうではありませんか。
 国と国の障壁を取り去り、貧欲や憎悪や非寛容を追放する為に、理性の世界をつくるために
 兵士のみなさん、民主主義のもとで、みんなで手を繋ぎ、一つになりましょう!!”

笑いなど娯楽の要素のない、6分間が続きます。。。
その掟破りに、映画の担当が・・・収入が100万ドルは減ると反発します。
しかし、チャップリンは、このラストシーンにこだわりました。
1940年12月、「独裁者」は、一般公開をするや否や大ヒット。
たとえメッセージ性が強くても・・・チャップリンの映画は支持されたのです。

そして・・・チャップリンは、ちょび髭を止め・・・新たなスタイルに挑戦します。
1947年「殺人狂時代」です。
この作品は、コミカルな笑いを封印したブラックユーモアな作品です。
主人公は・・・実直な元銀行員。
しかし・・・裏の顔は・・・裕福な女性からお金を巻き上げて殺すという・・・連続殺人鬼でした。
映画のラスト・・・死刑になる直前に・・・

”戦争だって小さな争い事だってビジネスなんだ。
 1人殺せば悪党で、100万人殺せば英雄だ。
 数が殺人を神格化するんだ。”

この言葉でチャップリンが風刺したのはアメリカでした。
1945年第2次世界大戦終結。
国民はお祭り騒ぎ!!
その熱狂が止まないうちに、新たな敵を設定しました。
共産主義VS資本主義です。
冷戦時代に突入したのです。
戦争への嫌悪感が麻痺した世の中への率直な批判でした。

チャップリンは殺人狂時代を自らの最高傑作とし、自信に満ちていました。
ところが・・・映画が公開されると・・・
アメリカ連邦議会で猛烈に批判されます。

”チャップリンを国外追放するための訴訟を要請します
 彼がハリウッドにいること自体がアメリカの体制にとって有害なのです”

当時アメリカでは、全ての疑わしい共産活動を排除する赤狩りが行われていました。
アメリカに避難的な言動をしたチャップリンは・・・”国家の敵”とみなされたのです。
”危険思想をばらまく資本主義の敵”のレッテルが張られたのです。
殺人狂時代を上映する映画館が、上映をボイコットしていきます。
テレビ放映も中止されます。
それでもチャップリンは・・・民衆が支持してくれると思っていました。
「アメリカ人はユーモアが解ると信じていたのだ。」
しかし・・・結果は惨憺たるものでした。
チャップリンは、アメリカの大衆からも見放されたのです。
5年後・・・家族とイギリスに船旅にでたチャップリンに絶望的な知らせが届きます。
”アメリカへの再入国困難に”
アメリカからの事実上の国外追放だったのです。
63歳でした。

40年前。。。自由と成功を求めてやってきた憧れの国・アメリカ。。。
その悲しさを・・・
「私の愛したアメリカは、もうどこにも存在しない・・・」
と、表現しています。

アメリカを追われたチャップリンは・・・???
生まれ故郷のイギリスで・・・制作活動に意欲をみせます。
1957年「ニューヨークの王様」
革命を避けて、ニューヨークに逃げてきた王様が赤狩りに狙われて窮地に陥るなど・・・アメリカを痛烈に批判します。
1967年「伯爵夫人」
マーロン・ブランドとソフィア・ローレン・・・
自分を追い出したアメリカを意識して負けまいとする作品作り。。。
しかし、長年慣れ親しんだスタッフがいない現実に・・・
「ハリウッドのスタジオでは、誰もが私の我儘を聞いてくれた。
 しかしイギリスでは、他の馬小屋に入れられた馬のようで、取り残されたように感じた。
 他のスタジオで演じ振る舞うことは、本当に辛いことだった。」

これらは・・・アメリカでの作品には遠く及びませんでした。
チャップリンも80歳になり・・・
しかし、赤狩りが過去のものとなったアメリカ・・・。
1972年には、チャップリンが映画界に残したはかりきれない功績に対して、アカデミー名誉賞の授与が決定されます。
チャップリン・・・20年ぶりのアメリカでした。
拍手で熱烈歓迎されたチャップリン。。。
授賞式では、涙を浮かべながら・・・
「この栄誉に、この場にお招きくださったことに、どう感謝を述べればよいのかわかりません。
 素晴らしい素敵な皆様に・・・ありがとう。」

風刺も毒気もなく、ただ感謝を述べたチャップリン・・・

多くの人を笑いで救おうとしたチャップリン。。。
しかし、自分の一生を振り返って・・・”地獄だった”と表現しています。
みんなを幸せにしようとすることは・・・本人にとっては地獄。。。

スイス・レマン湖畔。。。
チャップリンは、晩年をここで過ごしました。
愛する家族と静かに暮らしながら、新しい映画の構想を練っていました。
その中に、チャップリンが自らの生涯を描いたかのような企画がありました。
その直前までとりかかっていたのに間に合わなかったその作品。。。
「フリーク」
物語の始まりはチリの海岸。。。
翼の生えた少女が現れて・・・人々に衝撃を与えます。
やがて少女はイギリスへ・・・天使と崇められたり迫害を受けたり・・・
世の中の気まぐれに翻弄されます。
苦難の末に自由の身となった少女は、故郷を目指して飛び立ちます。
そして物語の最後は・・・
少女は、故郷にたどり着けず、大海原で死んでいた。。。
人々は語る、
「可哀想に・・・難しい人生を送ったなあ。。。
 だが遂に、彼女の抱えていた問題も終わった。」

1977年12月25日、チャップリンは・・・88歳で人生の幕を下ろしました。
自伝の中で、成功と苦難を味宇ワイつくした人生を・・・

「私が味わった不幸、不運が何であれ、もともと人間の運・不運などというものは、空ゆく雲と同じで結局は風次第のものにすぎないと信じている。
 人間はみな、苦しんで生きるよりほかないのだ。」

個人としての自由を求める戦いは死ぬまで続いていたのです。
人間の分かり合えない部分を笑いで共有しようとし、その媒体として映画を選んだ・・・。
苦しみを主体的に選び、その”苦しみを貫く自由”を選んだ人でした。


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レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実

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2000年内戦下のスーダンで・・・
墜落したヘリコプターから奇跡的に救い出されたドイツ人女性・・・
その人は、98歳のレ二・リーフェンシュタールでした。
今から80年前に、歴史を動かす1本の映画を撮りました。
ヒトラーのもと・・・「意思の勝利」・・・ヒトラーのプロパガンダ映画です。

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1902年8月22日、ドイツ・ベルリンにあるヴェディング地区で生まれました。
実業家の父と、母のもと裕福な生活でした。
変化に富んだ人生を送り、”20世紀を4度生きた女”と言われました。

レ二が監督したスポーツ映画の傑作「オリンピア(1938年)」。
スローモーション撮影・水中撮影・・・それまでの常識を覆したベルリンオリンピックの記録映画です。
高く評価され、スポーツドキュメントの金字塔と言われています。



どうしてこのような興奮するような作品をつくれたのでしょうか?
ビジネスの才能のあったレ二に、父は・・・
「お前が男の子だったらいいのに・・・」
と、言っていました。
父は、娘の才能を高く評価して、ビジネスをさせようと思っていました。
が・・・16歳の時、足を運んだダンススクールの同世代の女の子達をみて・・・
新舞踊をしたくなりました。
クラシックバレエとは違い、1920年に誕生した自由な表現をする前衛的なダンスです。
アドリブもあり、個性が如何なく発揮できるものでした。
プロのダンサーになりたい!!
父には内緒でスクールに通います。

好奇心旺盛な少女・・・レ二・・・。
舞台で踊ったことが父の耳に入ると、父は激怒!!
ダンスを習うなど言語道断!!
家出までしたレニ。
歩み寄ったのは父の方。。。
最上の舞踊学校に入り、様々なダンススタイルを学び、血のにじむような練習をします。
そして、21歳の時、最初についた職業はダンサーでした。
完璧で力強い優美さ、比類ない美しさ・・・批評家たちも絶賛します。
人生最初の成功を勝ち取ったのでした。

プロのダンサーとして大成功を修めたレ二・・・しかし、ひざを痛めてステージに上がれなくなってしまいます。
しかし・・・映画女優としてデビュー、30歳で映画監督となりました。
処女作の「青の光」は、国外でも評価され、監督として華々しい一歩を踏み出したのです。
当時のドイツは、第1次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償金を背負わされ、財政破たんに陥っていました。
町には失業者が溢れていたのです。
その時、レ二が聞いた演説は・・・アドルフ・ヒトラーだったのです。
ヒトラーに感銘を受けて手紙を出して・・・ヒトラーもレ二の映画を見ていて・・・
ヒトラーはレ二の監督としての実力を高く評価してくれました。

ナチ党大会の映画監督になるように頼まれます。
「芸術家に撮ってもらいたい!!」
ナチ党には、宣伝省映画部があり、トップの宣伝大臣はゲッペルスでした。
しかし、その宣伝省を差し置いて映画をつくる・・・。

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レ二は独自の手法を実現させていきます。
通常の演説撮影ではヒトラーから離れたところにカメラを置くのですが、これでは面白い映像は望めません。。。
なので、周囲にレールを敷いて至近距離から移動して撮影し、ヒトラーの威厳と存在感を演出します。
また、鍵十字の旗のポールにエレベーターをつけて、上から撮影します。
妥協を許さない撮影・・・編集・・・。


そんなある日、国防軍の幹部が!!
試写するためです。
しかし、その出来に激怒!!国防軍の扱いが!!!
というのも、悪天候でフィルムの写りが悪く、国防軍のシーンを一切使わなかったのです。
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数日後・・・ナチ党総本部でヒトラーから・・・ある提案が出ました。

「国防軍の将軍や党の幹部たちをスタジオに集めて撮影し、それを映画のプロローグにしよう。
 これで気分を害するものはいなくなる。」

自分のイメージとは全く違う!!

「そんなことできません!!」
ヒトラー相手に映画監督としての意思を貫きます。
刃向うものは粛清・・・

「この提案が気に入らないのならもう、勝手にしたまえ。。。」byヒトラー。

そしてできたのが「意思の勝利」でした。

この映画でレ二は、ヒトラーを身近なものにしようとしました。
そして最高権力者をビジュアル的に最大級に表現したものだったのです。
親近感、尊敬、憧れを表現しています。
ナチ党のプロパガンダとして効果をあげ、ドイツ国民映画賞を受賞します。
そして国境を越え、ベネチア映画祭で最高賞を受賞するのです。
1937年パリ万国博覧会グランプリ獲得!!
レ二は映画監督としての栄光を極めたのでした。

ヒトラー政権は当時盤石ではなく・・・
ヒトラーの肯定・・・優れたところを目に見える形でアピールしたのです。

映画監督として頂点に上り詰めたレ二・・・

1939年第二次世界大戦・・ユダヤ人迫害・・・大量虐殺・・・
戦いが進むにつれて劣勢になるドイツ。
奈落の底に落ちていく予感をしていたレ二。。。
ドイツの敗戦によってそれは現実となっていきます。

ニュルンベルク軍事裁判が始まりました。
18歳以上のドイツ国民にナチ党の選別が実施されます。
そしてレ二も・・・人生最大の危機が襲ったのです。

連合軍の追及は、執拗なまでに厳しく。。。
それは”ナチの精神の根絶”を目指したもので、レ二は要注意人物の筆頭だったのです。
否定するレ二・・・
しかし、ナチ党員の確認もないまま投獄、財産も凍結、映画のフィルムや自宅を差し押さえ。。。
自宅軟禁にも。。。
”非ナチ化裁判”・・・ドイツ人判事が被疑者とナチ政権の関係を裁くもの。。。が始まりました。
非ナチ化裁判では、ナチとのかかわりを5段階に分け・・・
①主要犯罪者
②活動家
③経度犯罪者
④同調者
⑤無罪
としていました。
段階に応じて厳しい刑罰が科せられました。
レ二が法廷に立つ日がやって来ました。。。
ナチとの関係を否定し、無実を訴えます。
レ二の刑は・・・”同調者”。
活動には協力したが、政治的責任はない!!というものでした。

ところが・・・最大の苦難が・・・
世界中からバッシングが起こりました。
国内外メディアからの猛烈なネガティブキャンペーンが起こったのです。
”指導者の花嫁””悪魔の監督””裸のレ二がヒトラーの前で踊った”・・・・
世間はレ二を”ナチの淫売”と貶めます。

根も葉もない噂でした。。。

レ二は第二次世界大戦中も映画を撮っていました。
撮影で、強制収容所に拘束されていたロマの人々をエキストラで使っていました。
そのことも非難の対象となったのです。
”収容所での大量虐殺を知っていた”という記事まで・・・。

そんな誹謗中傷に対して、レ二は名誉棄損で訴え、裁判で勝利しました。

しかし・・・その姿がさらに避難を呼び・・・死ぬまで続いたバッシングでした。。。
レ二は当時目立っていたドイツ女性・・・その女性に対して、手をゆるめることはなかったのです。
そして・・・50年以上バッシングを受けることで罪を受けることになるのでした。

そんな中でも映画を撮り続けます。
晋作の題材を求めて世界中を旅し、映画を企画します。
「赤い悪魔」「黒い積み荷」・・・これらはレ二が関わっているということでスポンサーや配給会社が撤退し、実現しなかったのです。

それでも前を向き続けるレ二。。。

「厳しい運命、死に瀕するようなこと
 それでも生き延びた時、人は強くなる。」byレ二

50台半ばでアフリカを訪問、魅力に取りつかれていきます。
スーダンのヌマ族。。。
彼らに芸術性を見出します。
レ二は彼らの姿をカメラに収め続け・・・写真集を出版しました。

新しい人たちに芸術作品として評価されます。
最高傑作と言われるまでに復活し、世界に注目されていきます。
自伝「回想」を執筆。
ドキュメンタリー映画の製作。
この時98歳となっていました。
内戦のスーダンで、ヘリコプターが標的になってしまいました。
大破した機体の中から、奇跡的に生きていたレ二。。。


そして2002年・・・
100歳にして半世紀ぶりの新作映画「ワンダー・アンダー・ウォーター」を公開。
自分が潜った海の世界に魅了され、生き生きとした海の生命たちを取り続けた結果の作品でした。
映画を撮りたい!!長年の夢が叶ったのです。

よく2003年9月8日レ二・リーフェンシュタール死去。。。
享年101歳。
天国と地獄を見た人生に幕を閉じたのでした。

レニ・リーフェンシュタールはこちら

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