人類が初めて月に降り立ってから丁度50年・・・当時アポロ11号が月に着陸する姿に全世界が熱狂しました。

1969年7月20日・・・
「1人の人間にとっては小さな1歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」
人類が初めて月に降り立ちました。
帰還したアームストロングは、世界中の人々にとってヒーローとなりました。
しかし、わずか2年でNASAを退職しました。
謎に包まれたヒーローの心の中・・・そこには苦悩がありました。
人類初の偉業を成し遂げたアームストロング・・・しかし、彼が本当に追い求めたものとは何だったのでしょうか?

1930年8月5日・・・アメリカ・オハイオ州のワパコネタに生まれます。
家族は両親と弟・妹の質素な暮らしでした。
父は転勤が多く、一家はオハイオ州内で度々引っ越しをします。
友達ができてもすぐに離れ離れ・・・心を許す友人は出来ずに、遊ぶ友達は専ら弟と妹でした。
そんなアームストロングが2歳の頃から夢中になったのが・・・模型飛行機でした。
アームストロング少年は模型飛行機にのめり込み、飛行機は大きくなっていきます。

「私にとって飛行機は、飛ばすことより作る方が大切だったんだ」

模型好きが高じて、実際の飛行機を乗ろうと勉強します。
16歳でパイロットの免許を取得しました。
車の免許よりも早かったのです。

他人と深くかかわることが苦手な子供で、自分の考えが周りと合わないことがあっても議論はせず、何も言わないままその場を立ち去るような子でした。
そして、いつも空を見ているうちに、飛行機に興味を持ったのです。
自由な空には、人間関係からの逃避のような感覚もあったのです。

1947年、17歳でパデュー大学に入学し、航空工学を学ぶ中で将来については・・・

「航空機の設計と操縦、その両方を出来る方法があるかもしれない」

それが新型航空機のテストパイロットという仕事でした。
そして3年生の時・・・アームストロングは運命の女性に巡り合います。
大学に入学したばかりのジャネット・シアロンでした。
活発で楽天家だったジャネットはクラスの人気者で・・・二人の性格は正反対でした。
アームストロングは、あったその日に友人にこう言っています。

「僕はあの子と結婚するよ!」

しかし、アームストロングがデートに誘ったのは、大学を卒業してからでした。
不器用な男の愛・・・しかし、その熱い想いはジャネットに届き・・・
1956年、26歳でジャネットと結婚・・・子宝にも恵まれます。
妻のジャネットは「私がデートしたほかのどの男の子よりも大人びていた」といっていました。

1955年、25歳の時に大学を卒業して・・・後のNASA・・・高速飛行研究所のテストパイロットとなります。
飛行機を操縦するだけでなく、技術者たちと議論を交わし、新人ながら高い評価を得るようになっていきました。
7年後の1962年・・・31歳でアームストロングの運命を大きく変えることが・・・。
人類で初めて月に着陸する宇宙飛行士の募集が始まったのです。
その背景にあったのは、東西の冷戦・・・アメリカとソ連は地球上の領土だけでなく、宇宙開発競争でもしのぎを削っていました。
1961年4月12日、ソビエトのガガーリンが人類初の有人宇宙飛行に成功。
開発で先行するソビエトに焦るアメリカ・・・
そこで挽回を狙うケネディ大統領が狙うのが、有人船の月面着陸という壮大な計画でした。

「1960年代末までに、人類を月面に着陸させ無事に地球に帰還させることを国家目標とします」byケネディ

こうして始まったのがアポロ計画です。
しかし、ソビエトを追うアメリカの技術はお粗末なものでした。
打ち上げ途中で爆発事故が度々おこっていました。
しかし、月に行くとなればパイロットは国民的英雄・・・
命の危険を冒してでも参加したいと253人の候補者が応募してきました。
アームストロングもその一人でした。
他の候補者と比べても実績は十分・・・ただ一人、ロケットエンジンを積んだ飛行機の操縦経験もありました。
1962年9月、32歳の時に宇宙飛行士に選ばれます。
こうして、月を目指す9名の宇宙飛行士が誕生しました。

月面着陸という前人未到のプロジェクトに厳しい訓練をするアームストロング達・・・
そうした中、アメリカの関心は・・・月に最初に降り立つ人間・・・”ファーストマン”は誰になるのかでした。
アームストロングはどうしてファーストマンに選ばれたのでしょうか?

アポロ計画とは・・・
サターンⅤロケットを打ち上げて、地球から月へ司令船と着陸船を送り込みます。
4日後、月の周回軌道に入ったら、司令船から着陸船だけを降下させ、ミッション完了後着陸船は浮上し、司令船とドッキングして地球に帰還する・・・8日間で80万キロという壮大な計画でした。

その準備段階として様々なミッションをするのがジェミニ計画です。
1966年、35歳の時にアームストロングがジェミニ8号で初めて宇宙へ。
①無人宇宙船とドッキング
②宇宙での船外活動
を行う計画でした。
ジェミニ8号はそれまで誰も為し得なかった宇宙でのドッキングに成功。
ところがその直後・・・制御不能・・・回転が止まらなくなったのです。
即座に宇宙船を切り離したものの回転は止まらない・・・遠心力で徐々に意識が薄れていくアームストロング・・・。
しかし、失神寸前で機体を地球に向けることができました。
危機一髪でジェミニ8号は帰還・・・
冷静に判断したアームストロングを地上スタッフは褒め称えます。
本人は・・・??

「我々は任務を果たせずに帰還した
 素晴らしい船外活動を成功させる予定だったのに、全て潰してしまった」

この事故は、アームストロングの家庭に暗い影を落としました。

「彼が家に帰ってくると荷物を下ろして、キッチンで一緒にコーヒーを飲みました。
 そうね・・・その時にケンカになりました。
 ”全員が死んでいた可能性があった でもそれは、最初からわかっているリスクだ
 だからいまさら話しても仕方がない やるか、やらないかなのだ”と・・・」byジャネット

訓練を重ね、アームストロングが月に近づけば近づくほどジャネットの心は遠ざかっていきました。

「人類を月に立たせる国家目標のため、私たちの生活は捧げられていました。」byジャネット

1967年、アームストロング36歳の時、ついにアポロ1号の計画がスタートしました。
1号に乗るのは、精鋭中の精鋭!!
月面着陸に最も近いと言われていました。
その中にアームストロングの親友、エドワード・ホワイトがいました。
自宅も隣どうして家族ぐるみの付き合いでした。
しかし、ホワイトの乗ったアポロ1号が宇宙へと飛び立つことはありませんでした。
地上での練習中、司令船から突如出火・・・
船内に閉じ込められた3人は命を失ったのです。
1967年1月27日・・・アポロ1号火災事故・・・。

アームストロングは愕然としました。

「親友を飛行中に亡くす方が受け入れやすかったかもしれない
 地上のテストで彼らを失うなんて、本当に心が痛んだ
 エドは最高の宇宙飛行士のひとりだったんだ」

事故をきっかけにアポロ計画は大幅な見直しをされ、様々な安全対策が施されました。
そして、事故から2年後の1969年・・・38歳の時、人類初の月面着陸という悲願を託されたのがアポロ11号でした。
乗組員に選ばれたのは船長のアームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンでした。
このうち、月着陸船に乗り込むのはアームストロングとオルドリンの二人・・・どちらかがファーストマン・・・!!

オルドリンはファーストマンになるために生まれてきた男でした。
宇宙研究で博士号を取り、船外活動の実績も十分・・・
オルドリン自身も、ファーストマンになることを熱望しました。
仲間の宇宙飛行士に、自分を推薦してくれるようにと運動をしていました。
しかし、アームストロングは・・・

「私には大した問題ではなかったが、世間の人々から見れば明らかに重要な問題だった」

彼にとっての大した問題は、1年前の事故でした。
1968年5月6日・・・月着陸船の操縦訓練・・・月面への着陸訓練をしていたら・・・突如コントロールを失って・・・アームストロングはとっさの判断で脱出し、事なきを得ます。
アームストロングの友人だったアラン・ビーンは、知らせに驚いて事故のことを訪ねました。

「私が”今朝緊急脱出したのか?”と聞くと、「ああ!」の一言だけ。
 あと1.5秒脱出が遅ければ、死んでいたのに、そんなことをおくびにも出さなかった
 「ああ」の一言で片づけられたよ!」byビーン

彼の考えでは事故はあったけれど、生きているし、仕事はあるし、物事は続いていると考えたのかもしれません。
冷静な判断をしたアームストロングでしたが、事故そのものは重大な問題として原因究明をするために徹底的にこだわります。
この事故はNASAの首脳陣にとって別の意味でもありました。
彼が、どんな時も冷静で、物事を大袈裟に吹聴しない性格だということがわかったからです。
アームストロングとオルドリン・・・どちらをファーストマンに選ぶのか??
決め手になったのは、地球に帰還後ヒーローになった時の二人の態度でした。

オルドリンは必死で名誉を欲しがった
アームストロングはうぬぼれなかった
「初めて月に立つのは俺だ」という男でもなかった
だから彼しかいないと思ったんだ

こうしてアームストロングはファーストマンに選ばれます。
1969年7月5日、アポロ11号打ち上げ直前記者会見で・・・記者は勇ましく華やかなコメントを期待しました。

「任務以外の個人的なものを持って行くとしたら、何にしますか?」
「持って行けるなら少しでも多くの燃料を持って行く」



1969年7月16日、アポロ11号打ち上げ!!
100万人近い人が見守る中、アポロ11号は打ち上げられました。
アームストロング、38歳の挑戦が始まりました。

ロケット打ち上げ!!9時32分、アポロ11号上昇!!
タワーから離脱・・・アポロ11号でつきに向かう間、アームストロングは徐々に小さくなる地球を眺めていました。

「宇宙から見る地球はのどかなものだった
 勝手に引かれた国境など見当たらなかった」

打ち上げから4日後・・・7月20日、アポロ11号は、月の周回に入っていました。
アームストロングとオルドリンは着陸船イーグルへ・・・!!
準備万端!!
いよいよ月面への降下が始まりました。

イーグルは順調に月の10キロまで降下・・・
その時、突然警報が鳴りだしました。
訓練でも見たことのない警報が・・・!!
船内が緊張に包まれます。

”1202!!”

イーグルはもちろん、ヒューストンでも何が起きたか判明するまで、口から心臓が飛び出そうだった」byオルドリン

原因はコンピューターでした。
当時宇宙船に使われたものは、80年代に流行った家庭用ゲーム機にも劣るほど貧弱でした。
そのため、情報の処理が追い付かないという警告でした。
着陸には支障なしと判断されます。
ホッとしたのもつかの間、刑法に気をとられていて最悪の事態に・・・!!
予定の着陸地点を過ぎていたのです。
目の前に広がるのは巨大なクレーターのデコボコ・・・!!
このままでは着陸は不可能・・・

「せっかくここまで来たのだから、着陸したかった
 中断は考えなかった
 ただ、着陸させることに集中していた」

月面まであと150m・・・!!
アームストロングは船を手動に切り替えて、着陸地点を探します。
月面まで50m・・・燃料もあとわずか・・・チャンスは一度きり!!

「ヒューストン・・・こちら静かな基地、イーグルは舞い降りた」

7月20日午後10時56分、アームストロングは、見事月面着陸に成功!!
そして、イーグルから外に出ました。

「これより月面に足を下ろす
 1人の人間にとっては小さな1歩だが、人類にとってはい大きな飛躍である」

アームストロングは何を言うのか、前もって質問されても一切答えませんでした。
あの明言はどうして生まれたのか・・・??

月面に降り立った二人の最初のミッションは、星条旗を立てることでした。
その時、ある人物から電話が入りました。

「やあ、ニールとバズ、私はホワイトハウスの執務室からかけているんだ」
 
第37代アメリカ大統領ニクソンでした。

「すべてのアメリカ人にとって、今日は人生で最も誇れる日になるだろう
 そして世界中の人々が、この偉業を認めてくれるはずだ
 君たちのおかげで、宇宙は我々の世界の一部となったのだ」

ニクソンは、着陸成功をアメリカの偉業として称えようとしました。
しかし、アームストロングは答えました。
「ありがとうございます 大統領
 私たちは合衆国の代表ではありません
 すべての国家の平和を愛する人、好奇心を持ち未来を目指す人々、彼らを代表してこの場所に立てるの、はとても光栄なことです。」
わずか2時間ほどの滞在で、アームストロングとオルドリンはミッションを黙々と続けました。
月の石の採取、地震計、太陽風測定装置、レーザー反射装置など機器の設置、全てを終え、月を離れる直前・・・アームストロング達は小さな包みをおいてきました。
その中身は・・・宇宙飛行士を称えたメダルでした。
アポロ1号の乗組員、そして人類初の宇宙飛行に成功し、その後の事故で亡くなったソビエトのガガーリンもいました。
月面着陸から4日後・・・アームストロング達は無事に帰還。
アメリカの各都市でパレード・・・熱烈な歓迎を受けます。
さらに海外にも飛び出します。
24の国々を訪れ、1969年11月4日、最後には日本も訪れます。

しかし、この後、アームストロングは表舞台から消えてしまいます。
どうして・・・??

1970年、39歳の時にNASAワシントン本部へ移動。
現場を離れ、管理職に・・・大変な出世でした。
航空学の副長官になり、NASAの航空関連の問題をすべて指揮する立場となります。
しかし、月に降り立った最初の人間として議会やNASAから常に電話がきて、あちこち行ってはだれかと握手するばかりで実際の仕事はできませんでした。
彼のやりたいことではなかったのです。

結局NASAを退職します。
月面着陸から2年後のことでした。

1971年、41歳でシンシナティ大学の特別教授となります。
しかし、NASAをやめたところで人々の注目がおさまることはありませんでした。

家族で夕食に行っても、人々がひそひそと話して・・・
「サインをもらえませんか?」と、テーブルまでやってきました。

「一体いつになれば、私が宇宙飛行士であることが終わるのだろう」

アームストロングが人々の好機の目にさらされることを嫌い・・・表舞台から姿を消します。
ある新聞では・・・世捨て人とまで書かれました。
妻・ジャネットは、アームストロングが退職してホッとしました。

「今度こそ、二人で何か一緒にできると思いました。」

マスコミから解放されたアームストロングでしたが、時間を家族のために使うことはありませんでした。
ジャネットは何も変わらない夫に失望し、別居を選びます。
二人は後に離婚します。
この時のアームストロングの落胆はひどかったと言います。

「ジャネットはこんな生活に愛想が尽きたんだ
 彼女はもう、戻ってきそうにはない」

そんなアームストロングがある事故をきっかけに人びとの前に現れます。
1986年55歳の時・・・スペースシャトル チャレンジャー号爆発事故です。

打ち上げ途中でシャトルが爆発し、7人の宇宙飛行士全員が犠牲となりました。
事故調査委員会が立ち上がり・・・アームストロングは副委員長という重要な役を任されます。
何年もたっていたものの快く引き受けました。
事故の原因はある部品でした。
アームストロングは、公聴会の場で、部品を作った業者を厳しく追及します。

「試験の際、温度の問題は考慮していましたか?」
「あなたたちはこの問題に気が付いていたということですね?」

事故の原因を正確に突きとめなければ無意味になってしまう・・・
だから、何よりもそこにこだわった

1994年、63歳の時のアポロ11号月面着陸25周年記念式典で・・・

若き後輩たちに語り掛けます。

「ここに来ている最高の学生たちよ
 君たちに言いたい
 私たちは”始まり”をやり遂げただけだ
 多くのことが君たちに残されている
 それにチャレンジするのは君たちだ
 チャレンジは宇宙とは限らない
 それが人類の運命なのだ」

2012年8月25日、ニール・アームストロングは82歳で永遠の宇宙に飛び立っていきました。

アームストロングは常々自分のことを、こう言っていました。

「私はいつまでも野暮ったいエンジニアだ」

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