チャーミングでセクシー・・・世界中の男性を虜にしたマリリン・モンローは、1950年代から1960年初頭にかけて映画界を席巻しました。
真赤な唇に口元のホクロ・・・印象的なボディーライン・・・モンローは、アメリカ国民のセックスシンボルでした。

「私は少数の人のものではなく、みんなのものでいたいの」

プライベートでは、独身でも、結婚してからもスキャンダルが絶えず・・・時の大統領ジョン・F・ケネディとも親密な仲・・・
誕生日パーティーには、撮影現場から駆けつける仲でした。
しかし、心の中は、生い立ちや教養へのコンプレックスでいっぱいでした。
”ちょっと間抜けな可愛いブロンド娘”を求められたモンロー・・・
周りにちやほやされても不安に押しつぶされそうでした。

「自分が偽物なんじゃないかと感じているなんて誰にも言えない・・・」

売れるために男心をくすぐるメイクを研究し、教養のなさを克服しようと読書に明け暮れます。
女優としての評価を得ようと演技を猛勉強し、スキャンダルも話題づくりに利用しました。
姿かたちから私生活まで、大衆の前に差し出したモンロー・・・すべては、本当の自分になるためでした。

わずか36年で生涯の幕を閉じたマリリン・モンロー
彼女が求めた本当の自分とは・・・??

マリリン・モンローこと、ノーマ・ジーン・ベイカーは、1926年6月1日、ロサンゼルスで生まれました。
ノーマが生れた時、既に父はいなくなっていました。
母は、ノーマを預けて働きます。
母の帰りを待つ間、小遣いを握りしめて通ったのが映画館でした。

「時には1日中そこに座っていたわ
 劇場の前にあるスターの手形や足型・・・そこに自分の脚を乗せてみたりしたの」

当時は世界恐慌のさ中で、アメリカ重に失業者があふれていました。
明日食べるものさえままならない中、母は必死で働きましたが、生活は益々苦しくなるばかり・・・
ついに母は、精神を患い入院・・・
母と離れ離れになったノーマは、8歳で里親を転々とすることになります。
貧しい暮らしのノーマ・・・体は痩せこけ、学校ではさやいんげんとからかわれました。

しかし、13歳になると状況は一変・・・成長期に入ったノーマは、抜群のスタイルに変身!!
学校中の生徒から熱い視線を向けられたといいます。

「学校に向かうのが、とても楽しくなったの
 女の子でさえ注目してきたわ
 目の前の世界が急に開けたの」

1942年、16歳の時、ノーマの里親はこれ以上養えないと、彼女を孤児院にいれようとしました。
それを不憫に思った近所の人の紹介で、5歳年上のジム・ドナティと結婚。

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結婚当時、アメリカは太平洋戦争を戦っていました。
1944年、19歳になったノーマは、軍需工場で働きます。
これが平凡だった人生を大きく変えることに・・・

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軍の機関誌にノーマの写真が載ると、人気が爆発!!
ノーマの元にはモデルの依頼が殺到!!

しかし、芸能界で働くことに夫は大反対!!



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夢をかなえるために離婚します。


1946年、20歳の時、モデルの仕事が目に留まり、遂にハリウッドの映画会社にスカウトされます。
ノーマ・ジーンはマリリン・モンローと名を変え、茶色だった髪をまばゆいブロンドに染め上げました。
しかし、ハリウッドは甘くはなく・・・スカウトされたとはいえ大部屋の新人女優・・・僅かに舞い込む仕事は、エキストラばかり・・・。

しかし、モンローには自信がありました。

「もしハリウッドの専門家の50%から、あなたは才能がないといわれたらどうする?」

「もし、100%の人がそう言ったとしても、その100%全員が間違っているわ」byモンロー

スターになる日を夢見て、演劇教室に通い続けるモンロー・・・。
夜間学校にも通って、高校中退という学歴の劣等感も埋めようとしました。
そして、いい仕事を得るためなら、手段を選びませんでした。
後に自らをこう振り返っています。

「何人ものプロデューサーと寝たわ
 そうやって、最初のチャンスを掴む女優が多いの
 ほとんどの男は本当に下衆なんだから
 私たちは男からすべてを得る当然の権利があるのよ」byモンロー

1950年、24歳のモンローは、「イヴの総て」に出演。
売り出し中の新人女優という役でした。
この作品は、アカデミー賞6部門に輝き、期待の新人女優として脚光を浴び始めます。
念願だった女優の道を、ようやく歩き始めたモンロー・・・しかし、2年後、25歳の時に女優人生を消されかねないスキャンダルを襲います。

町中で売られていたヌードカレンダー・・・あのモンローではないか?という噂が広がりました。
当時のアメリカ社会は、今と違って性的なことに厳しく、ヌードはポルノ雑誌にしか許されていませんでした。
ヌード・モデルが女優など、とんでもないと思う人が大勢いたのです。
空前んだいスキャンダルの危機・・・!!
映画会社の幹部は、モンローに迫ります。

「ここに写っているのは君じゃない
 絶対に否定するんだ」

しかし、モンローは記者にこう言いました。
「お金に困り、食費や家賃にも不自由していたころ、ヌード・モデルをやってくれないかと頼まれたの
 私は50ドルをもらった
 悪いことは何もしてないわ」

ヌードモデルだったことをあっさり認めます。
どうして彼女はスキャンダルから逃げなかったのでしょうか?
衝撃の告白に、幹部たちはモンローはこれで終わりだと思っていました。
しかし・・・意外なことに、モンローの告白を世間は好意的に見ました。
ヌード写真に対するモンローの対応は、素晴らしいものでした。
おかげで批判的な見方は収まり、人々は彼女のヌードの上品さと美しさに気付いたのです。
モンローが時代の新しい基準を作りました。
これをきっかけに、マリリン・モンローの名がアメリカ中に広まり彼女は、一躍スターダムにのし上がっていきます。

マリリンの代名詞・モンローウォーク・・・モンロー自身が編み出した、お尻のラインを強調する歩き方です。
その姿に、世界中の男性が魅了されました。
「紳士は金髪がお好き」では、甘い歌声と妖艶なダンスを披露・・・。
女性としての自分の見せ方が、天才的に上手だったのです。
そして1953年、27歳でハリウッドの大スターの証・・・手形を押すまでになります。

アメリカ中を熱狂させ、セックス・シンボルとまで言われたモンロー・・・
しかし、わずか2年後、ハリウッドから姿を消すことに・・・!!
モンローがセックス・シンボルとしてもてはやされた裏には、たゆまぬ努力がありました。
美しいスタイルを維持する為に当時はほとんどの女優がしなかったジョギングや筋トレをしていました。
解剖学の専門書がモンローの愛読書でした。
筋肉や呼吸器官の仕組みを勉強し、発声方法や歩き方まで魅力的な見せ方を徹底的に研究します。
自分を作り直さなくてはいけないと思っていました。
女優は努力で作られることを知っていたからです。
人から教わるだけでなく、独学でも自分を輝かせようとしました。
セルフプロデュース術は外観だけにとどまらず、記者からの質問には男心をくすぐるサービス満点の答えを用意します。

「夜は何を着て寝ていますか?」
「シャネルの5番よ・・・」

その後も出演映画は大ヒットを連発・・・!!
しかし、人気が出れば出るほど、モンローへの重圧が重くのしかかります。

「新しいセリフを渡されるのが怖い
 覚えられなくて失敗するかもしれない
 みんな、素っ気なくて冷たい・・・」

やがて、モンローは撮影現場への遅刻が癖になります。
カメラの前に立つのが怖い・・・芝居が手につかない・・・
この頃、プライベートでも悩みを抱えていました。
長い間疎遠になっていた母・・・久し振りに届いた手紙・・・そのあて名は、「マリリンへ」でした。
実の母にも関わらず、あて名はノーマではなく芸名のマリリンでした。
 
 お願いだから手紙をちょうだい
 どうか、憎しみを忘れて
 あなたの愛がほしいの
                母より

モンローは、この手紙に返事をしませんでした。

「私たちを繋げるものは、何一つなかった
 私は不幸をすべて忘れたいだけなの
 私と母が抱えていた哀れな人生を・・・」

モンローは、母と会うことを拒絶し続け、親しく交流することはありませんでした。
しかし、母への経済的な援助は生涯つづけています。

そんなモンローの心の支えとなったのが、元ニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオです。
今なお破られていない世界記録56試合連続ヒットの伝説のスーパースターです。
12歳年上の物静かで頼れる男に夢中になります。
ディマジオは、モンローを愛していましたが、妻には家庭に入り、自分を支えてほしいと望んでいました。

1954年1月14日、遂に二人は結婚!!
映画界と野球界の国民的スター同士の結婚でした。
マスコミは大きく取り上げます。
1954年2月1日、二人が新婚旅行で向かった先は日本でした。
日本の野球関係者からの正体を受けていたディマジオは、日本を訪れることにしたのです。
ところが、出迎えた日本人は、招待したディマジオではなく、モンローに集中します。
記者会見でもモンローばかりに質問が殺到・・・気を悪くしたディマジオが、懐剣を中止するということに・・・!!
日本に滞在中、モンローとディマジオの関係に亀裂の入る出来事が起こりました。
1950年に勃発した朝鮮戦争・・・
来日の半年前に休戦したものの、いまだ数万人の米兵が韓国に駐留していました。
丁度日本に来ていたモンローに、軍から兵士を慰問してほしいとオファーが届いたのです。
モンローに許しを求められたディマジオは、こう答えました。

「”きみ”の新婚旅行だ 好きなようにしろ」

1954年2月、モンローは、ディマジオを日本に置いたまま韓国へ・・・!!
アメリカ軍の駐屯地10カ所を巡ってショーを行いました。
真冬の雪がちらつく天気をものともせず、氷点下の中ドレスひとつで歌います。
集まった兵士は、のべ10万人を超えたといわれています。

「あの慰問コンサートの時くらい、自分がスターだと思ったことはなかった
 生涯で最も楽しい瞬間だった」

新婚早々、ぎくしゃくした二人の関係を、決定的に破たんさせたのは、「七年目の浮気」でした。

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ニューヨークに住む妻子持ちと同じアパートに住む美女が巻き起こすコメディです。
この作品から生まれたのが、モンローを象徴するあのシーンです。

maririnn

真夜中の撮影だったにもかかわらず、現場に観客が殺到!!
想定外で現場は混乱し、撮影は何十回も撮ることに・・・。

笑顔を絶やさずに何度もカメラの前に立ち続けるマリリン・・・
この場所にはディマジオも来ていました。
撮影後のホテルでは、怒号と悲鳴か聞こえてきたといいます。



ディマジオは、彼女が主婦業に専念し、たまにいい映画があれば出演する・・・そんなスタンスを求めていました。
もう、セックス・シンボルは卒業してほしかったのです。

結局、この出来事をきっかけに・・・
1945年、9か月で離婚。

離婚会見に臨んだモンローは疲れ切っていました。
離婚の翌年・・・1955年、28歳でハリウッドを去ります。

1955年、28歳の時にある決断をしました。
売れない頃から所属していた映画会社から、周りの反対を押し切って独立!!
個人事務所を立ち上げます。
当時はどんなスターでも、映画会社と契約していなければ出演は不可能!!
二度と映画に出られなくなるかもしれない・・・大きな決断でした。
そしてそこまでしてモンローが求めたものとは・・・??
モンローは、ハリウッドの映画会社があまりにも大きな力を持っていることに不満を抱いていました。
次はどんな作品に出演するのか??監督は?いつどこで撮影・・・??
モンローのいない重役室の中で、映画会社が勝手に決めていたのです。
さらに、問題なのはスターになってもギャラは、昔の契約のままでした。

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「紳士は金髪がお好き」・・・主演女優のジェーン・ラッセルが出演料10万ドルなのに対し、ダブル主演のモンローは1万8000ドル・・・1/5にも満たない額でした。

そしてモンローが最も不満だったのが、その役柄・・・
いくら抵抗しても、少し間抜けなブロンド娘と決まっていました。

「私が演じるのは、マリリン・モンローばかり
 もっと違うものだって演じたいの
 マリリン・モンローを演じることから抜け出さなければならない」

1955年、「マリリン・モンロー・プロダクション」を設立。

私生活でも二度目の離婚をしたモンローは、新しい人生をスタートさせようとニューヨークに・・・
向かったのは、アクターズ・スタジオでした。
ジェームズ・ディーンやアル・パチーノなどが通った俳優養成所です。
モンローは、リー・ストラスバーグから指導を受けます。
その演技法は独特で・・・演技をするときに自分自身の体験からその感情を表現せよ・・・というもので、難解な指導についていけない者が後を絶ちませんでした。

スターであろうとここでは新人・・・モンローも一から学び始めます。

「彼女ほど感性と才能にあふれた人は珍しい
 マーロン・ブランドと同じだ
 彼女にはマーロンと似た感性があった」byストラスバーグ 

アクターズ・スタジオに通う一方、もう一つのコンプレックス教養を身につけようとします。
連日、古典から現代文学を読む一方で、作家や知識人と交流します。
映画の役と、モンローの実生活は、全く違っていました。
彼女とデートした男性の多くは、彼女が読書好きであることに驚きました。
そしてその知性と教養の深さに感動したのです。

1956年、29歳の時に一本の電話が・・・
古巣のハリウッドの映画会社が、彼女に帰ってきてほしいと懇願したのです。
モンローはそこで、長年の不満をぶつけます。
作品への出演拒否権、監督や脚本への意見を認めさせ、数々の要求をして再契約します。
出演料も、1本あたり10万ドルにアップしました。
こうしてモンローは、1年ぶりに帰ってきました。

復帰第1作目は、コメディ「バス停留所」でした。
モンローが演じたのは、ハリウッドを夢見て酒場で働くしがない歌手・・・
胸に秘めた想うを吐きだし、武骨な男の一途な愛にほだされるヒロイン・・・
話題を呼んで映画は大ヒット!!

「バス停留所」の中で、彼女は今までとは異なり、哀愁漂う演技をしました。
ヒロインの悲しみが伝わってくる表現は圧巻です。
批評家も、彼女の演技を高く評価しました。
延喜派の女優にステップアップしたモンロー・・・
しかし、身体に異変が起きていました。
極度の不眠症です。

「自分が偽物なんじゃないかと感じているなんて、誰にも言えない」

いくら喝采を浴びても、自分の演技に自信が持てない・・・
やがて睡眠薬を多用するようになります。
朝起きることさえままならなくなり・・・遅刻癖はますますひどくなりました。
そんなモンローがすごったのは、またもや結婚でした。
1560年、30歳の時に三度目の結婚。
相手は劇作家のアーサー・ミラーでした。
「セールスマンの死」でピューリッツァーを受賞した巨匠でした。
モンローは、11歳年上のミラーの知性と教養に強く惹かれました。

「私には父親がいません
 だから、尊敬できる人物が必要です」

モンローは、ミラーと親族だけのささやかな結婚式を行います。
誓いの言葉を述べながら、モンローは夢を抱いていました。
それは、夫と子供に囲まれた幸せな家庭を持つこと・・・。
結婚式の写真の裏にはこう書きました。

”Hope! Hope! Hope!”

1958年、32歳の時に「お熱いのがお好き」の撮影に入ります。

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モンロー演じる楽団の歌手と、ギャングに追われる男二人が恋に落ちる物語です。
モンローは、その魅力を遺憾なく発揮!!
最高傑作と言われます。
ところが、作品の評判とは共に、撮影現場でのモンローの評判は最悪でした。
相変らずの遅刻癖に、僅かの台詞でもNGを連発!!
監督のビリー・ワイルダーは、こう言っています。

「マリリンとの仕事は大変だった
 予算ははるかにオーバーし、私は破産寸前
 俳優たちの関係も冷え切っていた
 当時は果たして作品を完成できるか、わからない状態だった」

デビューから10年経っても、演技の不安はおさまるどころか益々大きくなっていきました。
昼夜をとわず睡眠薬を・・・
そして私生活でも深い傷を負います。
撮影中、モンローは念願の子どもを授かります。
しかし、3か月目で流産・・・結婚生活も破産寸前でした。

ある日、夫ミラーの個人的ノートがテーブルに開いて置いてありました。
何気なく読むと・・・
「私にどれほど失望したか、書いてあったのよ
 ”天子みたいだと思っていたが、間違いだった”って」

3度目の結婚生活も4年で終わりました。
34歳でミラーと離婚したモンロー・・・仕事に専念したかったものの、遅刻魔、トラブルメーカーという悪評の為に、敬遠されるようになっていました。
モンローは、一人で暗い部屋に閉じこもることが多くなりました。
心身共に限界に達し、精神病院に入院することも・・・。
この時、モンローの脳裏に浮かんだのが、幼い頃の母の姿でした。

「私は狂っているのかもしれない
 自分の家族がそうだったように」

この時期、、モンローは数々の男たちと浮名を流します。
イブ・モンタン、フランク・シナトラ、マーロン・ブランド、トニー・カーチス・・・
その中には、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディもいました。
ケネディが大統領に就任して以降、二人は急接近したといわれています。
そしてそれは、公然の秘密でした。
恋愛におぼれているかに見えたモンロー・・・
友人にはこんな手紙を送っています。

「私がやりたいことはたった一つ・・・仕事だけよ」
 
1962年4月、2年ぶりの主演映画「女房は生きていた」の撮影が開始。
しかし、モンローの奇行は相変らずで、スタジオに現れないことも現場を混乱します。
カメラの前に立つことが怖くてたまらない・・・
さらに、撮影のさ中、スタッフに無断でニューヨークへ。
1962年5月19日・・・その向かった先は、ケネディ大統領の誕生日パーティーでした。
これには映画会社も激怒!!
その後も、一向に進まず、6月・・・製作中断!!
それから2か月・・・映画会社とモンローが和解し・・・
1962年8月1日、「モンローなしの映画はありえない!!」と、撮影再開。

モンローは友人に・・・

「また仕事に戻れる とってもうれしいわ」

ところが、その4日後・・・
マリリン・モンローは、突然その生涯の幕を閉じました。
1962年8月5日、マリリン・モンロー死去・・・36年の生涯でした。
自宅の寝室で受話器を握ったままでした。
片割れには、睡眠薬の空き瓶が転がっており、自殺、他殺、事故死・・・様々な憶測が流れましたが、その真相はいまも謎に包まれています。

1962年8月8日、マリリン・モンローの葬儀が行われました。
大スターにもかかわらず、関係者の意向で30人ほどで行われました。
弔辞を読んだのは、かつてニューヨークで彼女を演技指導したリー・ストラスバーグでした。

「マリリン・モンローは一つの伝説であった
 貧しい少女が夢をつかむ神話を作り上げた
 全世界にとって、永遠の女性の象徴となった
 だが、私はこの”マリリン・モンロー”を知らない
 そして、本人でさえも」


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