日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:アームストロング砲

東京・上野・・・西郷さんの像でお馴染みの上野公園は、動物園だけでなく、美術館や音楽ホールが連なり、全国の人々に親しまれる文化の薫り高い一帯です。
しかし、150年前、ここには全く違う景色がありました。

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感想(1件)



1868年5月15日、この上野の山で西郷さんが戦争を起こし、全てが焼き払われました。
明治維新の動乱の中で、唯一江戸で行われた戦い・・・新政府軍と旧幕府軍と彰義隊がぶつかった上野戦争です。
この年の1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は旧幕府軍に圧勝、勢いに乗って、江戸に軍を進めました。
そして、西郷と勝海舟の会談の結果、江戸城の無血開城が決まります。
しかし、城が明け渡されたとはいえ、これで西郷たち新政府が江戸を手中に収めたわけではありませんでした。
次々と江戸から脱走する旧幕臣たち・・・
江戸の周囲では新政府に対しゲリラ戦が行われていました。
中でも西郷を悩ませたのが、上野の山に立てこもった彰義隊でした。
彼等がいる限り、江戸は新政府のものにはならない・・・西郷は、ギリギリの選択に迫られていました。
江戸を火の海にする危険を冒しても彰義隊を討滅するのか・・・??
西郷隆盛の苦渋の選択とは・・・??

江戸城明け渡しから1か月後の1868年4月・・・
江戸に駐留していた西郷隆盛は、思わぬ事態に頭を抱えていました。
”御用中雑記”・・・将軍・徳川慶喜の側近の日記によると・・・
江戸城明け渡し後、水戸で処分を受けるのを待っている慶喜の動向が書かれています。
4月15日、江戸より新聞が届いた・・・
慶喜は新聞を取ったり、使いを送ったりして江戸の様子を調べさせていました。
慶喜は何を調べていたのでしょうか??
彰義隊がどんな動きをするのか?気が気でなかったのです。
暴発してしまえば、江戸城無血開城はおじゃんとなってしまう!!
この時点で、徳川家がどの所領をもらえるのか??決まっていませんでした。
彰義隊の行動如何でZEROとなる??処罰される・・・??

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さらに慶喜は、彰義隊の暴発を押さえようと、家臣に軍用金65両を持たせ送り込んでいました。
この頃、江戸は混乱のさ中にありました。
4月11日、徳川将軍家の居城が無抵抗のまま新政府軍に明け渡されました。
慶喜は、江戸を出て実家の水戸に移り、謹慎します。
一度は計画されていた江戸城総攻撃!!それは、新政府側の西郷と旧幕府側の勝海舟の行動によって回避されました。
新政府が提示した降伏条件は慶喜の水戸謹慎と江戸城明け渡し、そして幕府が所用する武器・軍艦の引き渡しなどです。
しかし、開城の直前、新政府に反発する旧幕臣・大鳥圭介らが歩兵部隊を率い、武器を手に脱走!!
さらに、旧幕府歓待を率いる榎本武揚は、新政府への軍監引き渡しを拒み、江戸湾を脱走!!館山沖で新政府を威嚇していました。
西郷が勝に言い渡した降伏条件は守られなかったのです。

榎本の場合は、彼が手塩にかけて育成した旧幕府艦隊・・・お金も時間も労力もつぎ込んだ艦隊を、やすやすと薩長に引き渡すことはできない!!
徳川家の行く末がはっきりしていなかったので、全部を引き渡すと条件闘争ができない!!ということもありました。

江戸を脱出した大鳥だけでなく、他の旧幕府勢力も、江戸近くで次々と蜂起!!
新政府軍は関東各地で対応を余儀なくされました。
さらに、東北では奥羽の諸藩が新政府との対立を深めていました。
結果、江戸は手薄となって市中の治安維持もままならなくなっていました。
江戸城は手にしたものの、新政府軍は江戸で孤立していたのです。
さらに、西郷たちを悩ませていたのは、彰義隊の存在でした。

無血開城から遡ること2か月・・・浅草の本願寺で、100名以上の旧幕臣で会合を開きました。
彼等は、その場で彰義隊を結成し、その目的をこう表明しました。
「慶喜公は、朝廷に対して恭順一筋
 裁きを待つお考えである
 一同、この現状を見逃すことはできない
 その為、死を決して盟約を結び、冤罪であると訴えるしかない!!」

漸将軍・慶喜は、鳥羽・伏見の戦いによって、朝敵の汚名を着せられていました。
慶喜は、上野の寛永寺で謹慎し、ひたすら恭順の姿勢を貫いていました。
この状況を打開するために、彼らは立ち上がったのです。
この彰義隊のリーダーである頭取に、慶喜の側近だった渋沢成一郎が選ばれました。
そして、副頭取には旧幕臣・天野八郎が就任しました。
その後、彰義隊は拠点を上野・寛永寺に定めます。
関東各地のみならず、江戸にまで旧幕府側が勢力を伸ばす危険な状態・・・
西郷は頭を悩ませていました。

彰義隊の拠点となった上野の山・・・当時、この山全体が、徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の境内でした。
寛永寺は、3代将軍・家光の時代に創建、最盛期には大伽藍と付属する支院36が立ち並ぶ、江戸随一の寺として栄えました。

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鳥羽・伏見の戦いで破れ逃げ帰った徳川慶喜は、この寛永寺の支院の一つに入って謹慎していました。
寛永寺には、慶喜監禁の部屋が残っています。
”葵の間”床の間のついた書院造・・・10畳と8畳の二間続きの部屋です。
2月12日から4月11日まで、水戸に隠居されるまで、ここで謹慎していました。
将軍がここにいて、徳川の世が明治に変わっていくことに納得がいかないという人たちが・・・幕府恩顧の者たちが、上野に集結してどんどん数が膨れていきました。

慶喜を警護する為に結成された彰義隊は、旧幕臣を中心に参加者が続々と集まり、遂には4000人に達したといいます。
江戸で存在を無視できないほどの大勢力を築いた彰義隊・・・
この状況を利用しようとしたのが、徳川方の代表・勝海舟です。
勝は西郷に、彰義隊に市中取締役を命じ、江戸の治安維持にあたらせることを提案します。
治安が悪化する江戸を、新政府軍の力だけで取り締まるのは不可能・・・
西郷は、その提案を受け入れざるをえませんでした。
さらに、勝の要求はエスカレート・・・
水戸で謹慎する慶喜を、江戸に戻すこと・さらに、江戸城を徳川家に返すことまで要求しました。
このことは、西郷を窮地に陥れます。
降伏条件が守られないことを甘んじている西郷に対し、新政府軍の要人たちから弱腰との声が上がり始めたのです。
佐賀藩士・江藤新平は、手紙にこう記しています。

”官軍の中には、勝らに騙される人がおり、憤慨に堪えない”

巻き返しを図る旧幕府側の圧力・・・新政府強硬派からの圧力・・・
西郷は、のっぴきならない状況に追い込まれていました。

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この頃、京都から江戸にある男が送り込まれていました。
長州藩士・大村益次郎・・・長州に攻め寄せた幕府軍を、散々に打ち破った西洋流の兵学者です。
新政府内での強硬派が西郷の融和策に業を煮やし派遣・・・これは、彰義隊の武力鎮圧を期しての人選でした。
一方の西郷は、4月から江戸と京都を頻繁に行き来していました。
西郷は新政府の首脳陣と連日会議を行います。
徳川家の最終処分を決定するためです。
4月25日、新政府内部で徳川家の処分方針が決定しました。
徳川家を駿河国に移す・・・旗本の領地を含め800万石を一気に70万石まで削減するというものでした。
このことが発表されれば、旧幕臣たちの反発は必至の厳しい処分でした。

5月に入ると大村は彰義隊討滅に向け動き出します。
彰義隊に与えられていた市中取締役の役目を奪ったのです。
これ以降、江戸で事件が頻発します。
彰義隊士による新政府軍兵士の殺傷事件が起こるのです。
佐賀藩士、鳥取藩士、西郷の直属の部下である薩摩藩士も犠牲となりました。

彰義隊の扱いをどうするのか??軍議が開かれました。
大村は、彰義隊の殲滅を強硬に主張、早期の決着に自信を見せました。
一方、西郷と共に徳川方との折衝に当たってきた参謀たちは、兵力の不足を理由に大反対をします。
双方の意見を聞きながら、西郷は選択に迫られました。

彰義隊を討滅・・・??
あくまで戦を回避・・・??

いかに混乱を起こさず、徳川家処分を発表するのか・・・??
江戸と日本全体の行く末を案じながら、西郷は苦悩していました。

西郷の決断は・・・??

「大村には、勝てる清算があるに違いない
 勝てさえするならよかろう」

大村の意見に同意し、彰義隊討滅に同意しました。

5月14日、指揮権を持った大村は、彰義隊に宣戦布告を行いました。
その布告の中で大村は、官兵を暗殺し、官軍と偽り、民の財産を略奪する彰義隊は、国家の乱賊であると決めつけました。

1868年5月15日、降りしきる雨の中、新政府軍による上野攻めが始まりました。
この時、寛永寺に立てこもっていた彰義隊の人数は1000人程度。
大村による事前の宣戦布告が功を奏し、戦う意思のない者たちは寛永寺から大挙していました。
布陣を見ると・・・
彰義隊隊士たちは、寛永寺の8つの門に分かれ、新政府軍の侵攻に備えました。
さらに、現在西郷隆盛の立つ山王台に、大砲を据え、新政府軍に向けていました。
一方、新政府軍の数は1万以上、とはいえ、実際に上野の山の攻撃に当たったのはその一部に過ぎなかったといわれています。
谷中方面には長州を中心とする部隊、最も激戦と予想され黒門を攻めるのは西郷率いる薩摩兵を中心とした部隊・・・そして、谷を挟んだ本郷台には差が藩を中心とする大砲部隊の陣地が置かれました。

午前7時ごろ、戦いの火蓋が切られました。
現在も残る黒門・・・激しい戦闘を物語る無数の弾痕が・・・!!
午前中は、高台で地の利のある彰義隊が優勢に戦いを進めました。
しかし、正午・・・本郷の台地から佐賀藩が誇る最新鋭の大砲アームストロング砲が撃ち込まれました。

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この砲撃をきっかけに、彰義隊が乱れ始めます。
この機をとらえた西郷は、黒門への突撃を命じます。
上野戦争を描いた錦絵には、新政府軍の一斉射撃が高台の彰義隊を狙い撃ちにします。
黒門前は、敵味方入り乱れての大乱戦・・・
濛々と煙を上げる寛永寺の伽藍・・・次々と撃たれていく彰義隊士・・・
自害するものも・・・
午後5時ごろ、戦いは新政府側の勝利で幕を閉じ、江戸で行われた唯一の戦争はわずか半日で集結しました。

新政府軍大勝利の秘密は何だったのでしょうか?
これまで佐賀藩のアームストロング砲の威力によってもたらされたといわれてきました。
しかし、勝利の理由はそれだけではない??
アームストロング砲の特性は、射程距離が長い、命中精度が高い・・・それは、旧来の大砲よりも格段に性能が良かったのですが、上野に持ってきた大砲は、6ポンドで口径が2.5インチ・・・6センチぐらいでした。
旧来の大砲に比べて、弾が小さいのです。
火薬の量も少なく、破壊力そのものでいうとそんなに際立っていないのです。

新政府側の勝因は、アームストロング砲だけでなく、旧式の大砲を使ったその戦術にあったのでは・・・??
加賀藩邸の方に13門集中的に配備、当時、砲列を敷くというのは事例的に多くありませんでした。
集中的に火砲を運用して、攻撃を支援するというのは、大村益次郎の先験的な戦術でした。

戦いののちにとられた写真・・・彰義隊と運命を共にするかのように寛永寺の大伽藍は灰塵に帰しました。
彰義隊の生き残りは、散り散りになりながらも、関東各地や東北に逃れます。
後に会津や箱館の戦いに身を投じた者たちもいました。
新政府軍の勝利は、人々の心に新しい時代の到来を印象付けました。

彰義隊を味方としていた人びとは、賊と呼ぶようになります。
新政府軍に罪を追及される恐れがあるからです。
上野戦争の大勝利の直後、新政府は徳川家の駿河移封と70万石への減俸を発表・・・
しかし、もはや江戸に反発する者はいませんでした。

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幕末、長州藩を率いて幕府と戦った高杉晋作の歌です。
理想に燃え、仲間の死に涙し、そして無鉄砲とも思える勇気で時代を動かした男です。
明治維新の先駆けとして活躍した長州の風雲児・高杉晋作。
晋作の代名詞と言えば奇兵隊・・・
身分の枠を超えて兵を募集した画期的な部隊です。
最新兵器で武装し、変幻自在に戦いを仕掛ける奇兵隊・・・晋作は戦の天才と言われました。
しかし、戦場から戻れば和歌を嗜み、三味線にも興じました。
誰もが晋作に憧れたといいます。
一見、誰にも縛られない粋な風流人・・・
ところが、事実は全く逆でした。
武士の家に育った晋作には、常に家名を汚すなというプレッシャーが襲いました。
人生を教えてくれた恩師との早過ぎる別れ。
夢を抱いて習った西洋航海術も、モノになりません・・・!!
教師に意見が通らず、酒に溺れ、頭を丸めることも・・・。

しかし、時代は晋作を求めていました。
長州藩取り潰しを狙う幕府に対し、仲間に決起を訴えかけます。
最初はたった80人でした。
晋作がつけた小さな炎は、やがて長州藩全体を燃え上がらせ、大きなうねりとなって日本中に広まっていきます。
しかし、そのさ中・・・晋作を待ち受けていたのは不治の病でした。

1862年、江戸時代の末、限られた人しか外国に行けなかった時代・・・
高杉晋作は、船の上から上海の街並みを見ていました。
幕府が作ったおよそ40人の視察団に、長州代表として参加したのです。
晋作は、かねてから外国に行くことを望んでいました。
どうして海外を目指したのでしょうか?

日本海を望む山口県萩・・・
1839年、この城下町に高杉晋作は生まれました。
高杉家は戦国時代から藩主毛利家に仕える名家です。
晋作の父・小忠太も、藩主の傍で要職を務めていました。
晋作は、高杉家の跡取りになるために厳しく育てられました。
特に、父の言うことには絶対に逆らえませんでした。
しかし、外では負けん気の強い性格が抑えられず・・・

15歳の時、晋作は、父と共に江戸に向かいました。
そこで目にしたのは、巨大な黒船・・・!!
1854年、15歳の時ペリーが来航。
ペリーは軍事力を背景に、日本に開国を迫ります。
大混乱の江戸の町・・・晋作は、激動の時代の始まりを肌で感じていました。
西洋列強が日本に迫ってきているのが、黒船を見ることによってリアルに感じられました。
これからの日本という国の形が変わっていく・・・彼の中で大きなテーマとなります。
この時、高杉晋作と同じ長州藩の中に、黒船に密航しようとした者がいました。
吉田松陰です。
晋作より9歳年上の兵学者で、若い頃から藩主にその才能を称えられていました。

1857年、18歳の時に萩に帰って吉田松陰の松下村塾に通い始めます。
松下村塾には、幼馴染の久坂玄瑞、後の総理大臣の伊藤博文も参加していました。
塾には自由な空気が流れ、時間の制約もなく、身分の制約もない・・・
熱い議論を交わしたといいます。
世界の情勢についても学びます。
そんな中、松陰の唱えたのは攘夷論でした。
松陰は、日本は西洋列強に学び力をつけ、その力で西洋を打ち払う攘夷を行うべきだと主張しました。
しかし、松陰の訴えと過激な行動は、一般の人たちには危険な行為としか思えませんでした。
そのため、晋作の家族は松下村塾に行くことを禁じます。
しかし、晋作は深夜にこっそりと松下村塾に通ったといいます。
国防論についても尊王論についても現実的で、そんな話が晋作は心底好きだったのでしょう。
日本の国を何とかしなければ・・・という積極的な燃えている炎があったので、松陰に引き付けられたのでしょう。

1858年、19歳の時に江戸に再遊学
この頃、藩の上層部に海外留学の希望をかなえてほしいと強く願い出ています。

”お願いしておりました私の洋学修行の件、どうなりましたでしょうか
 一刻も早く取りかからないと、手遅れになります”

ところが、この海外渡航の夢にも暗雲が立ち込めます。
晋作が江戸に来た年、幕府による危険分子の弾圧・・・安政の大獄が始まりました。
そして、晋作の師、吉田松陰も江戸の牢に投獄されてしまいます。

晋作は、牢に入った松陰のため、文具や書物を工面するなど奔走します。
この頃、晋作が感銘を受けた松陰の言葉があります。

”死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし”

そして松陰は・・・過激な思想の持ち主として処刑されました。

”松陰先生の仇は必ず取る
 しかし、主君も父もいて、わが身はわが身のようでわが身ではない”

それからおよそ5か月・・・20歳になった晋作に、海外渡航のチャンスが巡ってきました。
幕府の軍艦教練所で航海術を学び、様式軍艦の訓練をせよと命が下ったのです。

”男子としてこの宇宙に生れたのだ
 筆や硯の家来などになっていられない”

しかし、毎日書き続けていた日記がある日から書かれていません。
航海術の勉強を放棄したのです。
理系の航海術が得意ではなかったようです。
航海術は挫折したものの、藩主の跡継ぎの側近となります。
そして今度こそ、海外へ行くチャンスが・・・
1862年、22歳で海外視察団の一員となります。
行先は、清国の上海・・・晋作22歳、遂に海外に飛び出す時が来ました。
病に倒れる4年前のことです。

幕末・・・身分制度に縛られた世の中に、新風を吹き込んだ人がいました。
武士から商人、浪人に至るまで身分を問わず志ある者で編成された革新的な集団・・・その名も奇兵隊です。
創設者は、高杉晋作です。
晋作はどうして奇兵隊を作ったのでしょうか?

1860年、20歳・・・上海に渡航する2年前・・・晋作は結婚しました。
相手は城下一の美人と言われた4歳下のマサでした。
晋作はマサと仲睦まじく、上海から手紙を送っています。

”無事にお暮らしとのことめでたく思っています
 長崎でめずらしい高価な反物を買って送りました
 しかし、どうかこの反物で作った着物や帯で人の多いところ、お祭りなどへ出かけないでください
 あなたが武家の立派な妻の手本となれば、私も安心です
 稽古事や和歌の勉強をしながら、家のことをお願いします”

1862年5月、上海に到着
しかし、目の当たりにしたのは、かつての大国・清の惨状でした。
イギリスにアヘン戦争で敗れた清は、外国人が所有する居留地を各地に置かれ、貿易の主導権を握られていました。

”清の人たちは、イギリス人が街を歩けばみな避けて道をゆずっている
 その上、ことごとく外国人にこきつかわれている
 実に上海の地は清に属してはいても、イギリス、フランスの属地といえるくらいのありさまだ”

更に晋作が驚いたのは、イギリス軍の設置した砲弾・・・最新鋭の兵器・アームストロング砲です。
日本にある大砲とはけた違いの威力・・・西洋列強に武力で対抗するには軍備が欠かせない・・・!!
帰国した晋作は、長崎のオランダ商館へ。
最新鋭の武器を買うためです。
現在の価値で10億円の軍艦の契約を、藩に無断で契約!!
しかし、藩の了承を得ることができず、軍艦が買えませんでした。

”国の情勢が切迫している・・・!!”

もはや一刻の猶予もならない・・・!!
晋作は、自らの手で外国人を攻撃し、攘夷を決行しようと考えます。
向かったのは江戸・・・!!
1862年12月、23歳の時・・・
久坂玄瑞や伊藤博文ら松下村塾の仲間たちと共に、品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。
極秘に進められたこの計画は、犯人が晋作たちだと判明するのは、明治時代になってからです。

晋作は、長州藩に攘夷のための軍備を主張し続けましたが、なかなか理解が得られません。
自暴自棄になる晋作・・・。
23歳の時、藩の要職を辞して休職・・・さらに、晋作は武士の命である髷を落とし、頭を丸めてしまいました。
酒を飲んではどんちゃん騒ぎの毎日・・・その胸には、むなしさと焦りが渦巻いていました。

”空しく月日を送り 愚か狂か 智か節義か
 なんだか訳も分からぬ人物にあいなり”

そんな中、ある事件から晋作の主張が認められるようになります。
1863年、23歳の時・・・下関事件です。
長州藩は下関を通る外国船を砲撃しました。
長州藩としては、外国船を打ち払い、攘夷を実行したのですが・・・
しかし、すぐに外国船から砲撃を受け、蹴散らされてしまいます。
初めて列強の武力に直面した長州藩・・・軍備の重要性を思い知った上層部が、晋作に意見を求めてきました。
この時、晋作は新しい部隊の新設を進言します。

”有志の士を募り、一隊を創立 名付けて奇兵隊と云わん”

奇襲をかけるなど敵の不意を打つための部隊という意味です。
武士だけで戦うには限界がある・・・戦いに長けたものを広く集め、武士ともども戦闘部隊にしようという考えでした。
志があればだれでも入隊ができる・・・
中での扱いも身分の上下はない、実力で決めていく・・・!!
後に庶民も入ってきて、それを軍事力として利用していきます。
封建社会を壊す一つのステップになりました。

1864年、25歳の時に四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が下関に来襲。
前年に行った長州藩の攻撃に対し、更なる報復に出てきたのです。
この時、晋作の奇兵隊も初陣を飾ります。
しかし、圧倒的な戦力の四国連合艦隊にあえなく惨敗・・・
そればかりか、沿岸の砲台まで占拠されてしまいました。

追いつめられた長州藩は、戦いを諦め停戦交渉を行うことに・・・。
圧倒的に不利な仲での和平交渉に誰もがしり込みします。
結局、頼りにしたのが晋作でした。
藩の全権を任された晋作は、船に乗り込みます。
その姿は、家紋が入った直垂、黒の烏帽子・・・家老の正装でした。
居並ぶ提督たちに格で負けないように家老の息子だと偽っての交渉でした。
列強の代表は、安全な航行のための砲台撤去や、補給のための下関港への立ち寄りなどを求めます。
その上、300万ドルという巨額の賠償金を求めてきました。
これは、長州藩の年間予算の10倍でした。

こんな大金を払えば、藩の財政は壊滅・・・強硬な姿勢を崩さない外国人を前に晋作は言い放ちます。

”長州には、主君の為に命を捨てることなどなんとも思わないものが大勢いる
 もし、戦争を続けるというのならば、最後の一人になるまで戦うつもりだ”

この晋作の気迫の前に、賠償金は一銭も払われませんでした。
藩の存亡をかけた停戦交渉に成功した晋作、この時25歳。
病に倒れる1年前のことでした。

1864年12月、長州藩が幕府の圧力に屈しようとしている中、晋作は反乱を起こします。
晋作の呼びかけに応じたのは、最初はわずか80人ほど・・・長州藩は2000もの兵を動かし反乱を押さえようとするものの、戦いが進むにつれて晋作に共感するものが増え・・・800人にまで膨れ上がりました。

1864年7月、長州藩は、兵を率いて京に上りました。
御所で天皇に嘆願し、長州の地位回復を狙ったのです。
そこで、御所を警備する有力藩と激突・・・禁門の変です。
この戦闘で、長州藩は敗北し、晋作の仲間も命を落とします。
その中には松下村塾で共に学んだ久坂玄瑞もいました。

”後れても後れてもまた
 君たちに誓いし言を
 吾忘れめや”

この事件をきっかけに、幕府は長州征討を決定!!
15万を超える兵を動員します。
この動きに対し、長州藩は真っ二つに割れます。
幕府に抵抗し戦いも辞さない抗戦派と、幕府に謝罪して従うべきという恭順派です。
晋作は、抗戦派を支持していました。
しかし、藩の存続を優先するべきという恭順派が主導権を握ることとなります。

長州藩は幕府に従う証として禁門の変に関わった家老3人を切腹させ重臣たちを処刑しました。

”処刑の知らせを聞き 胸中やけるがごとく
 藩が受けた辱めをそそぎたい”

もはや武力決起しかない・・・!!
晋作は、奇兵隊の元へ・・・!!
晋作は隊士たちに恭順派の打倒を訴え決起を促します。
しかし、それに応える者はいませんでした。
この時奇兵隊は、自分たちの地位を保証してもらう代わりに藩の方針に従うという約束を交わしていました。

”この腰抜けどもが!!
 ぼくは毛利家300年の家臣だ
 たとえこの身が打倒されようと忠義を尽くす”

晋作が次に向かったのは、松下村塾の同志・伊藤博文の元でした。
この時伊藤は、下関で力士隊を率いていました。
伊藤は晋作の訴えに共鳴します。
他の部隊からも続々と集まってきました。
晋作は、約80人あまりの同志と共に決起します。

自分が死んでも自分の志を誰かが引き継いでくれるだろう・・・!!

”下関の鬼となり討ち死にする覚悟
 これより長州男児の肝っ玉をお見せする”

晋作は下関の役所を狙い、占拠することに成功。
この騒ぎを聞きつけた商人が資金援助を申し出ます。
次に晋作は、長州藩の海軍局へ・・・そこで軍艦三隻を手にします。
一方奇兵隊にも変化が・・・藩に反旗を翻します。
やがて奇兵隊は、晋作の隊に合流・・・
晋作がつけた決起の炎は、800人にまで燃え広がりました。
1月7日、ついに奇兵隊と藩兵が激突!!
最新式の銃を使いこなす奇兵隊は圧倒的勝利をおさめます。
すると藩の上層部に変化が・・・。
晋作の主張を受け入れなければ内乱はおさまらないと判断し、恭順派が更迭され始めます。

そして決起から40日後・・・藩主は徹底恭順の方針を撤回。
幕府へは恭順の意を示すもののもし攻撃を受ければ最後の一兵まで戦い抜くという武備恭順の方針を固めます。
この決起をきっかけに、晋作は長州藩の指導者の一人になるのです。

晋作が25歳の時に、マサとの間に待望の長男が誕生します。
名は梅之進・・・自分の好きな花の名で、溺愛しました。
しかし、晋作には家族と共に過ごす時間は残されていませんでした。
1865年9月、長州藩が敵対的な態度に変わったことを察知した幕府は、再び長州征討に乗り出します。
長州藩は徹底抗戦の構え・・・幕府との戦いの大義名分を文章にして民衆に示し、士気を高めていきます。
長州藩全体が沸き立つ中、25歳の晋作は、原因不明の病にかかっていました。

”腹痛がひどかったが、少し良くなった
 征長軍との戦いまでは命を保ちたいと鬼神に祈っている”

1866年6月7日、幕府軍は長州藩を取り囲み、四方向から攻めてきました。
長州藩の存亡をかけた戦い・・・幕府軍の兵数は、長州軍のおよそ50倍だったともいわれています。
しかし、晋作は怯むことなく最前線で指揮を執り、敵艦に奇襲をかけています。
小型の船を使った奇襲は大成果を納め、200隻余りを焼き払いました。
これをつぶさに見ていたのが土佐の坂本龍馬です。
龍馬は長州藩に味方し、軍艦を率いて参戦していました。

”晋作は兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破り敵陣の陣幕屋旗などを奪っていった”

6月22日・・・激戦のさ中、晋作は突然倒れてしまいます。
不治の病と言われた肺結核でした。
それでも晋作は、病床で作戦会議を行います。
敵を蹴散らし進めと長州男児たちを鼓舞し続けます。
しかし、病は悪化・・・
喀血を繰り返すようになり、8月には戦線離脱、下関にある友人の家で療養することに・・・

晋作が最前線で戦う仲間に送った手紙は・・・

”進撃や勝利に大変喜んでいます
 体調は日々よくなっていますが、戦場に赴くほどではありません
 ご笑殺ください”

この頃、晋作を看病したのは愛人のうのでした。
元々下関の芸者だったうの・・・晋作が口説き落として一緒に暮らすようになったともいわれています。
うのは優しい性格で、正妻のマサといがみ合うこともなく、明治になっても二人の交流は続いたといいます。
そんなうのの看病の会もなく・・・晋作の病状は悪化の一途をたどります。
余命いくばくかの晋作の元へ、萩からマサと梅之進がやってきました。
医者が最後の別れに呼んだのです。
この時晋作はこう言います。

”しっかりやってくれろ・・・しっかりやってくれろ・・・”

そんな晋作の心の支えになったのはアルバムです。
そこには松下村塾からの盟友伊藤博文をはじめ晋作と深くかかわった人たちの写真が・・・
それだけではなく、アメリカ合衆国16代大統領のリンカーン、イギリスのビクトリア女王の写真まであります。

翼あらば
 千里の外も飛めぐり
よろづの国を
   見んとぞおもふ

1867年4月13日、晋作の命の炎が静かに消えました。
27歳でした。
最晩年に詠んだ歌が残っています。

面白き
   こともなき世に
          面白く

晋作がこの世を去ってから半年後・・・日本は明治維新を迎えます。

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