日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:イエズス会

1582年・・・天正10年6月2日・・・京都・本能寺に宿泊中の織田信長を、明智光秀が急襲・・・!!
信長を自害へと追い込みました。
光秀は、そのまま近くにいた信長の嫡男・信忠も襲撃し、死に追いやりました。
本能寺の変・・・未だ、様々な謎が残る、戦国史上最大のミステリーです。
この謀叛には、数少ない生き証人がいます。
その男の名は弥助・・・弥助は、光秀の襲撃、信長の自害、信忠の自害まですべてを目の当たりにした歴史の目撃者なのです。

①なぜ信長の遺体は見つからなかったのか・・・??
弥助は、身の丈6尺以上(190cm)の大男で、十人力の怪力の持ち主と、信長公記には書かれています。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが上司に宛てた書簡には「イエズス会日本年報追加」には、本能寺の変における弥助の行動が書かれていました。

”信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて恐るることなくその刀を差し出せといったので、これを渡した”

弥助は、イエズス会から信長への贈り物でした。

159年7月・・・本能寺の変の3年前・・・
イエズス会の船が、島原半島の口之津に入港しました。
その時、宣教師ヴァリニャーノの従者として降り立った一人が弥助でした。
信長公記によると・・・
”年の齢二十六、七と見えたり
 その身の黒きこと牛のごとし
 彼の男 健やかに器量なり”
アフリカのモザンビーク出身と言われる弥助は、奴隷として買い取られ、インドのゴアで宣教師の護衛兼荷物持ちとなった事がわかっています。
更に弥助には大きな役目がありました。
宣教師たちは物珍しさが好きな日本人のために、黒人を「人寄せ」に使っていました。
当時、日本では黒人の人気は相当なもので、布教をしていた宣教師はこう書いています。
”日本人は極めて新奇なことを喜ぶ
 彼らは黒人を見るためにお金を払うだろうから、それを監督する者は短期間で金持ちになるだろう”
イエズス会は、黒人を日本に連れてくることで、日本人の心をつかもうとしていたのです。

1581年、弥助は宣教師に連れられて、京都に来ました。
弥助の噂は瞬く間に広がり、弥助を一目見ようと大勢の人が押しかけました。
見物人同士の喧嘩でけが人が出るほどでした。
その騒ぎを聞きつけた織田信長が、弥助を連れてくるように命じます。

1581年2月、信長と面識のあった宣教師オルガンティーノは、弥助を伴って信長との謁見に臨むこととなります。
信長は当時、畿内を中心とした強力な政権を確立、イエズス会は信長を日本の実質的最高権力者と見なし、信長に取り入ることでキリスト教の布教と庇護を確実にするという目論見がありました。
この時弥助をはじめてみたときの信長の反応は・・・??

”信長は大いに喜んだものの、愉しませるために我らが墨を塗ったのではないかと考え、男の肌の色が生来の者であると信じなかった
 しかしながら、帯から上の着物を脱がせて検分した後は、信長もようやくこれを納得した”

弥助の漆黒の肌に驚いた信長は、肌をこすったり引っかいたりしました。
それでも肌の色が変わらないとわかると、やっと黒い肌を認めたといいます。
片言の日本語が喋れるとわかった信長は、矢継ぎ早に質問をしたといいます。
数日後・・・弥助の主人ヴァリニャーノも信長に謁見します。
そこで弥助の運命が一変!!当時珍しいクリスタルガラスなどを献上したところ、弥助の献上も申し出たのです。
弥助を気に入っていた信長は、この申し出を受け入れました。
しかも、単なる従者としてではなく、弥助を侍として取り立てたのです。
信長公記によると・・・
”弥助は安土城の城下町に従者付きの住居を与えられ、さらに身分に相応しい衣服と武具も与えられた”とあり、正式な家臣となっていました。
こうして弥助は、日本初の外国人侍となったのです。
本能寺の変のわずか1年3か月前のことでした。

1582年6月1日・・・
天下統一を目指す織田信長は、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍に向かうために、京都本能寺に宿泊していました。
当時の本能寺は、東西140m、南北270mの広大な敷地と大伽藍を有していました。
しかし、信長が連れていたのは僅かな手勢のみでした。
従者のうち戦力となるのは弥助を含め、30人ほどでした。
そして翌、6月2日未明・・・
信長と同じく秀吉の援軍に出立するはずだった明智光秀が、1万3000の兵で本能寺を包囲!!
只ならぬ喧噪で目を覚ました信長は、当初、従者たちの喧嘩だと思ったといいます。
しかし、小姓の森蘭丸が、明智光秀の謀反であると告げると・・・

「是非に及ばず」

と覚悟を決めたのです。

鬨の声を上げ攻撃を仕掛ける明智の軍勢、それでも信長は弓を次々と放ち、弦が切れると槍を突き立てて敵をなぎ倒しました。
弥助も主君の首をとらせてなるものかと必死に応戦!!
しかし、兵力の差は歴然・・・状況を打破するには至りませんでした。
そして、雑兵によって深手を負わされた信長は、もはやこれまで・・・と観念・・・
一説によると奥に誰も通さぬよう命じ、燃え盛る本能寺で自害し、果てたといわれています。
49歳でした。
問題はこの後・・・襲撃後、明智軍は信長の遺体を探します。
しかし、それらしき遺骨すら見つけることができませんでした。
信長の遺体はどこに消えたのでしょうか?
それが、本能寺の変おける長年の謎でした。
その謎を解くカギを握っていたのは弥助でした。

森蘭丸が、信長の首を切り落とし、弥助が本能寺から持ち出すことを任されていた・・・??
戦国の世では、首をとることが戦に勝った事の証・・・
首が見つからなければ、光秀は信長を討ったとは証明されず、大きな打撃となります。
弥助に首を持って本能寺を脱出した・・・??
明智軍をどうやって突破したのか??

信長の死後の弥助の行動は・・・??
本能寺の近くにあった阿弥陀寺に残されています。
本能寺の変の頃、阿弥陀寺の住職をしていたのは清玉上人です。
清玉上人は、幼い頃信長の兄・信広に命を救われ、その後織田家に家族同然に育てられた織田家とつながりの深い人物でした。
そんな清玉上人の本能寺の変当日の行動を書いたものが「信長公阿弥陀寺由緒之記録」です。
そこには・・・
本能寺の変の知らせを受けた清玉上人は、大いに驚き、仲間の僧侶20人ばかりと一緒に信長のもとに駆け付けます。
なんとか寺の裏側から寺に入ると、既に信長は切腹した後・・・
墓地のやぶの中で、10人ほどが火葬をしていました。
話を聞くと、遺言通り信長の首を持ち出そうとしたものの、四方を明智軍に囲まれているので仕方なく火葬しているとの事・・・
この火葬を行っていた家臣の一人が弥助・・・??
弥助たち家臣は、織田家にゆかりのある清玉上人なら信長の遺骨を託せる・・・と、あるものは再び明智軍に飛び込んで行ったといいます。
火葬を終えた清玉上人は、信長の遺骨を取り集め、自らが着ていた法衣に包みました。
そして、本能寺の僧侶のふりをして阿弥陀寺に持ち帰ります。
火葬し、遺骨にしていたので、目立たずに持ち運ぶことができたというのです。
清玉上人は、葬儀を行い、死を弔いました。
そのため、現在でも阿弥陀寺では信長の法要が毎年行われています。
墓地も存在しています。
弥助たち家臣が火葬し、清玉上人が遺骨を持ち去った可能性が高いと思われます。

本能寺の変の直後、京都と近江を支配下に置いた光秀は、織田家の武将たちの反撃に備えます。
その際、光秀は周辺の武将たちに味方になるように要請します。
しかし、信長の遺体が見つからないことで、信長が討たれた確証はなく、もし生きていた場合光秀に加担したことで攻め滅ぼされてしまう・・・と、ほとんどの武将が光秀の味方に付かなかったといいます。
その結果・・・
1582年6月13日、明智軍は本能寺の変を知り急遽引き返した秀吉の軍と山崎で激突し敗退・・・
光秀は、逃げる途中に落ち武者狩りにあい、本能寺の変からわずか11日後に命を落としました。
弥助と清玉上人の活躍が、光秀の三日天下につながったとも考えられます。

遺骨を上人に預けた弥助は・・・??

②なぜ信忠も巻き添えとなってしまったのか・・・??
本能寺と1.2キロのところに信忠が宿泊していました。

本能寺の変の当日、織田信長の嫡男・信忠は、京都にいないはずでした。
本能寺の変の3か月前・・・3月11日、織田家が長年争っていた甲斐の武田氏を滅ぼしたことで、信忠は功労者である徳川家康をねぎらうために堺に向かう予定だったのです。
しかし、父・信長が毛利と戦う羽柴秀吉の応援に向かうことになり、安土を出発したことを知った信忠は、急遽予定を変更し、信長を迎えようと京都にとどまったのです。
このように信忠が信長の顔色をうかがうのには理由がりました。
織田家の嫡男として小さい頃から帝王学を学んできた信忠は、父・信長と共に多くの戦に参戦し、自らも多くの功績をあげてきました。
1575年織田家の家督を継いで岐阜城へ・・・
美濃・尾張の二か国およそ100万石を治める大名に・・・正式に織田家の当主となったのです。
しかし、信忠に対する信長の評価は・・・

「信忠は、一見器用に見えるが、城持ち大名としては不器用だ
 もっと人が予測できないことをやらなければ合戦には勝てない」

と、極めて厳しいものでした。
信忠は19歳で織田家を継承しましたが、天下平定の実権は父・信長のもとにありました。
そんな中、信長が自らの後継者として信忠に並々ならぬ期待をしていました。
信忠にとっては、そのプレッシャーは、計り知れないものがありました。
その父・信長の重圧が、信忠を京都に止まらせてしまったのです。

1582年6月1日・・・
信忠は、本能寺にいる信長のもとを訪ね、酒を酌み交わしたといいます。
それが、父と子の今生の別れとなりました。
その僅か数時間後・・・本能寺の変が起きたのです。
信忠は、明智軍が本能寺を攻めたという知らせを妙覚寺で聞きました。
その信忠のもとへ弥助が駆けつけることに・・・
どうして弥助が向かったのか・・・??
明智急襲の知らせを聞いた信忠は、直ちに手勢500人を引き連れて、父・信長を救うべく本能寺に向かいました。
その途中で、信長の家臣で村井貞勝に遭遇します。
すると村井が、
「本能寺は明智勢に取り囲まれ、近づくことすらできません。」by村井
「となれば、もはや明智勢から逃げ切ることは出来ないだろう
 もし逃げられたとしても、雑兵に討ち取られては後世の物笑いになり、無念である」by信忠
「ならば、御所へお行き下さい
 御所であれば、光秀も攻め入ることはできないでしょう」by村井
「仕方あるまい・・・」by信忠

こうして信忠は、二条御所に向かい、籠城することになったのです。
一方、死を覚悟した信長は、一刻も早く京都から脱出の命を信忠に伝える必要がありました。
信長にとって最悪の事態は、自分と信忠が同時に討ち取られてしまうことでした。
織田家の当主である信忠が生きていれば反撃できる!!
そこで、信長が考えたのが、何とかして信忠を京都から脱出させることだったのです。
しかし、本能寺は光秀の軍勢に取り囲まれている・・・
どうやって伝える・・・??
信長は、十人力の弥助なら、明智軍を潜り抜け、自らの首と伝言を妙覚寺の信忠に届けられると考えたのかもしれません。
信長の命を受けた弥助は、信長の遺骨は清玉上人に託すことになりましたが、伝言だけは・・・と、命がけで妙覚寺に向かうこととなります。
その結果、弥助はなんとか信忠のもとにたどり着くことができました。

弥助は、織田家の当主だった信忠に、信長の死を報せ、京都から退避するように伝えるために、信忠のもとに向かったのです。
明智光秀が信長を討ち取ったのち、織田家当主の信忠は、弥助から父・信長の死と、京都を脱出せよという最後の命を受け取りました。
しかし、信忠が逃げようとした形跡はありません。
すでに、安全であったはずの二条御所も明智軍に包囲され、京都を脱出することは不可能だったのです。
それでも信忠は、明智軍と命の限り戦いました。
弥助も信忠を守ろうと応戦しますが、それも時間の問題でした。

信忠の最期について信長公記には・・・

「私が腹を切ったら縁の板をひきはがし、亡骸を床下に入れて隠せ」

こう言い残し、信忠は自決という名誉の死を選んだのです。
26歳の若さでした。

③光秀に謀反を起こさせた黒幕とは誰なのか・・・??

織田信長とその嫡男・信忠が自害し、明智光秀軍の勝利に終わった本能寺の変・・・
ここにもう一つの謎があります。
その後の弥助について、フロイスはこう書いています。

「明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったので、これを渡した」

こうして弥助を捕らえた明智の家臣が光秀にその処分をたずねると・・・光秀はこう命じました。

「インドのパードレの聖堂に置け」by光秀

インドのパードレの聖堂とは、京都・南蛮寺・・・イエズス会の京都における本拠地のことです。
明智軍と戦った信長の側近・弥助をなぜか無罪放免・・・かつて従者として仕えていたイエズス会へ戻したのです。
どうして弥助は殺されることなくイエズス会に戻されたのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀に味方する武将はいませんでした。
そこで、光秀が目をつけたのが、京都に近い高槻城主の高山右近でした。
右近はかつて信長によって弾圧された荒木村重の家臣だったことで、信長に反感を持っていると考えたからです。
光秀は、右近がキリシタン大名でもあったことから、宣教師を通じて書状を送り、味方になるように要請していました。
とにかく見方を作る必要があった光秀・・・
イエズス会と連携して、キリシタン勢の支持を得ようとしたのです。

こうした光秀とイエズス会との関係が、本能寺の変の前からあったという説があります。
そのきっかけとなったのは、信長のある行動でした。
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・

「安土山の寺院には神体はなく、信長は己自らが神体であり、生きたる神仏であるとし、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」

信長は、自らが神になろうとしたのです。
安土城・・・の本丸に清涼殿という天皇を招く館を作りました。
しかし、この館の上に、信長のいる天守を置いたのです。
自ら天皇の上にたとうと・・・あらゆるものを超越しようと自らを神格化し、全く新しい権力構造を作ろうとしたのです。
この信長の野望は、キリスト教に忠実なイエズス会にとって絶対に許すことにできないものでした。
そして、そんな信長の絶対的権力に恐れを抱いたのが、信長の重臣・明智光秀でもあったのです。
当時光秀は、信長によって丹波・近江志賀郡などの領地を召し上げられ、出雲と石見を自ら攻略し、領土とするよう命じられていました。
このことから、打倒信長という点で、イエズス会と光秀の利害が一致、そのため、イエズス会が本能寺の変の黒幕だった・・・??

その結果か、光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲い、自らの主君を自害に追い込むことになりました。
そして、この謀叛の一部始終を、イエズス会の宣教師たちは、本能寺のすぐ近くの南蛮寺から見届けていたのです。

「インドのパードレの聖堂に置け」・・・

つまり、弥助がイエズス会に返されたのは、光秀とイエズス会との密接な関係の証であった可能性があるのです。

イエズス会の思惑と、信長の野望・・・その狭間で、運命を翻弄されたのが弥助だったのかもしれません。
この後、弥助に関する記録は残っていません。
日本を離れ、モザンビークに帰ったのでは??と言われています。
しかし、イエズス会の報告書に気になる記述がありました。
本能寺の変の2年後、九州に黒人がいたことが記され、キリシタン大名であった有馬晴信の軍勢の大砲の使い手として活躍し、勝利をもたらしたというのです。
その黒人が弥助だったとしたら・・・九州のどこかで一生を終えていたのかもしれません。
本能寺の変の目撃者として全ての真相を胸に秘めたまま・・・。

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カトリック総本山のバチカン・・・
ローマ教皇をいただく聖地として多くのキリスト教信者からの信仰を集めています。
今から400年ほど前、この地を訪れた日本人がいます。
それが、天正遣欧少年使節・・・伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンです。
4人の少年たちは、戦国時代にローマ教皇に会った日本人としてその名を刻むこととなります。
少年たちのその後は、戦いの連続でした。
当時の日本は戦国の乱世・・・人々は死と向き合いながら生きなければなりませんでした。
苦しみの中、人々が救いを求めたのがキリスト教でした。
信者の数は爆発的に増加、40万近くに達します。
戦国の世=キリシタンの世紀だったのです。
日本の信者を導くために帰国した遣欧使・・・その4人を待っていたのは、変わり果てた祖国でした。
激しさを増していく切支丹弾圧!!
戦乱を終わらせた天下人は、キリスト教に魂の救済ではなく。。。
キリスト教は有害である!!
切支丹への迫害が進む中、遣欧使節はそれぞれの道を進むことに・・・。

1582年、一隻の南蛮船が長崎からローマに向けて出港しました。
そこに乗っていたのが、天正遣欧少年使節でした。
伊東マンショ・千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンです。
4人は武士の子供たちで、この時13歳前後。
熱心な切支丹でした。
彼らはどうしてローマに送られたのでしょうか?

1549年遣欧使節が送られる30年ほど前、キリスト教伝来。
イエズス会・フランシスコザビエル達です。
ローマ教皇を頂点とするカトリックの一派で、この頃、布教のために宣教師を世界に派遣していました。
この中で、信者の獲得に成功したのが日本でした。
遣欧使節が送られる直前の1581年には切支丹の数は15万に達していました。
大名から農民まで爆発的に広がり、戦国時代は切支丹の世紀と呼ばれることになりました。
これほどまでに、キリスト教が広まった背景には、戦国の世相が関わっています。
絶え間なく続く戦、疫病、飢餓が蔓延・・・人々は生きる幸せを見いだせなくなっていました。
絶望の中、キリスト教のある教えが人々の心を掴むのです。

ドチリナ・キリシタンには・・・
”後生(来世)に扶(助)かる道”と書かれています。
この教えを信じれば、あの世ですくわれると説いたのです。
日本人にとって死というものが身近な時代、明日死ぬかもしれない、来年かも知れない・・・
次の世界で素晴らしいことが待っている・・・
神様は耳鼻深いと説く宣教師はついて行きたい存在でした。

戦国の人々のニーズを満たし、急激に広まったキリスト教・・・
イエズス会の宣教師・ヴァリニャーノは、日本での布教の効果をローマ教皇に宣伝するために、遣欧使節を派遣することを思いつきます。

ヴァリニャーノは、キリシタン大名の親類や、ゆかりの者を選び出します。
伊東マンショ=大友宗麟
千々石ミゲル=有馬晴信
原マルチノ・中浦ジュリアン=大村純忠
キリシタン大名たちの代理のようでした。

一国の支配者である大名たちまでキリシタンに・・・
イエズス会での評価もあがるだろう・・・うってつけの人選でした。
一行は2年半の歳月をかけてヨーロッパへ。。。
1583年3月23日、ローマ教皇・グレゴリウス13世に謁見。
教皇は心を打たれて、滝のように涙を流した・・・。
感激するローマ教皇・・・この涙の裏には、当時のカトリックが置かれていた厳しい現実がありました。
当時ヨーロッパではプロテスタントが台頭し、カトリックと争っていました。
イギリス、ドイツ北部がプロテスタントの支配下となり、信者を失ってきていました。
こうした中、遣欧使節ははるかユーラシア大陸の東の王様がカトリックに改宗したことを知らせる存在だったのです。

「かつて我々が努力によって得たイギリスは失われました。
 しかし、ご覧ください。
 地球を一回りしなければならないほど離れた国が改宗しました。
 我々が失ったものを補って余りあることです。」

遣欧使節は、スペインの国王やフィレンツェのメディチ家などでも大歓迎を受けます。
更に、イタリア、ドイツでも彼らを称える出版物が・・・!!
その数は確認できるもので70以上・・・ヨーロッパで一大ブームを起こしました。
遣欧使節の派遣は見事に成功し、ローマ教皇はイエズス会に巨額の援助を約束します。
はるか東の島国から来た少年たちは、キリスト教世界のヒーローとなったのです。

1590年、天正遣欧少年使節、日本に帰国。
少年たちは20代の青年に成長し、キリスト教会のために尽くそうという熱い信念が・・・
しかし、彼らが見たのは、出発の頃とは全く違っていた日本でした。

1587年天下統一を目前にした豊臣家康は・・・伴天連追放令を出していました。
宣教師(バテレン)たちに日本から出て行くように迫ったのです。
キリスト教への取締が始まりました。
この頃、キリシタン大名の数は増え、九州だけではなく全国に広がっていました。
彼らが宣教師を通じ、スペインやポルトガルと結びつくようなことがあれば、秀吉には大きな脅威となります。
宣教師・フロイスは秀吉の言葉を書き記していました。
「キリスト教は、領主や貴族にまで信者を獲得しようと活動し、決断力は一向宗よりも強固である。
 全国を征服しようとしていることは、疑いの余地はない。」
1597年秀吉の命により、キリシタン26名の処刑が行われる事件が起こり、処刑場となった長崎には記念碑があります。
宣教師だけでなく、子供までもが殺されたのです。
しかし、この弾圧は・・・秀吉の思いとは正反対の方向へ・・・!!
事件の知らせがヨーロッパに届くと、26人を称える運動が発生!!
犠牲者を英雄のように・・・絵画や印刷物が・・・!!
これには殉教という特別な概念が関わっています。
殉教とは、迫害に対し信仰を守り命を落とすこと・・・
キリスト教が誕生して以来、1500年以上にわたって称えられてきた行為でした。

日本では26人もの人が殉教の道を選んだ・・・宣教師たちの日本での布教熱を燃え上がらせます。
秀吉の伴天連追放令をよそに、信者の数は増え続けます。
一方、帰国した遣欧使節は、増加する信者を導くために、聖職者の道を目指し勉学に励んでいました。
彼らが目指したのが司祭。
司祭はキリシタンにとって重要な儀式を行います。
”ゆるしの秘跡”と呼ばれる儀式です。
イエス・キリストに代わって、ゆるしの言葉を与える権限を持つのが司祭です。
1608年・・・伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンが司祭に・・・。
この時、彼らは40歳前後・・・日本のキリシタンのリーダーとしてその未来を担うこととなりました。
その中で一人加わらなかったのは・・・千々石ミゲル・・・
彼は、イエズス会を脱会・・・記録によると、病気によってイエズス会を去ったとされています。
しかし、ミゲルの脱会にはもっと根深いものが・・・??
ミゲルが後に仕えた大村家の書物によると・・・
「キリスト教は来世での救済を説いてはいるが、本当は国を奪う謀をしている・・・」
ミゲルの脱会の裏には何があったのでしょうか?

長崎県南島原市は、ミゲルが少年時代に過ごした地です。
戦国時代、この地方はほとんどの人がキリスト教徒となっていました。
多数派となったキリシタンが寺院や神社を襲い始めました。
攻撃を逃れるために、仏教徒たちは近くの洞穴に仏像を隠すものの、キリシタンたちに見つかってしまいました。

”キリシタンの少年たちが仏像を引きずり出し唾を吐きかけた
 これらの仏像は、直ちに割られ、薪になり、我々の炊事に役立った”

その後もミゲルは、長い年月、異文化、異民族を軽視するヨーロッパ人宣教師を見続けたのではないか?と思われます。
キリスト教が持つ世界こそが最高だという、それが布教先の伝統文化などを壊し、衝突を繰り返していたのです。
千々石ミゲルは当時のキリスト教布教の中の問題から脱却するために、イエズス会を離れたのです。

しかし、多くの摩擦を繰り返しながらキリシタンは増え、1600年ごろには30万人に達していました。
1612年伊東マンショ病で死去。
日本人司祭として人々を導く重責は、原マルチノ、中浦ジュリアンの二人にかかっていました。

1603年、徳川家康が江戸幕府を開きます。
家康はカトリックであるスペイン、ポルトガルと貿易をするため、キリスト教への大規模な取り締まりはしませんでした。
その間に、信者の数は増加・・・1614年には37万人となっていました。
もしかすると、キリスト教が日本で全面的に認められる日が来るかもしれない・・・。
原マルチノ、中浦ジュリアンは期待を持ち始めていたのです。
しかし、1614年最悪の事態が・・・!!
家康が、日本にいる宣教師たちに突如、国外追放を命じたのです。
慶長の禁教令です。
日本のキリスト教布教の拠点だった長崎では、これまでにない迫害が繰り広げられます。

”異教徒たちは、小躍りして喜び、教会を破壊し始めた。
 見るに堪えがたい光景だった。”

どうして家康は厳しい弾圧と、宣教師たちの追放を始めたのでしょうか?
その理由の一つが豊臣家の存在です。
幕府の体制強化を望む家康にとって、秀頼は最後の生涯でした。
当時秀頼は、家康に対抗するために大坂に人を集めていました。
そこには、キリシタンの武将や宣教師がいました。
家康は、37万人もいるキリシタンが結束して秀頼に味方し、自分に敵対することを恐れたのです。
そしてもう一つ・・・イギリスやオランダなどのプロテスタント勢力との貿易です。これらの勢力は、宗教を持ち込まず貿易だけを行ってくれていました。
家康は新しい選択肢を手にいてたのです。
追放令を受け、原マルチノと中浦ジュリアンらイエズス会は次のような対抗策を出します。
①宣教師8割を海外へ退去
幕府に従っているかのように見せます。
②宣教師2割を日本に潜伏
布教活動を継続させる。
海外に退去する者と、日本に潜伏する者・・・2つに分けて、乗り切ろうとします。
イエズス会の決定は、マルチノとジュリアンの二人の未来を引き裂くことに・・・
ジュリアンは日本にとどまり布教、マルチノは海外に退去することになりました。
しかし、この命令は、日本を去らなくてはならないマルチノにとっては大きな矛盾をはらんでいました。
司祭を含む宣教師たちのほとんどが海外に退去した後には、37万人ものキリシタンたちが日本に残されることとなります。
僅かに残った司祭では、膨大な信者に許しの秘跡を行うのことはできない。。。
罪が許されなければ、天国への道が閉ざされてしまう。。。
その結果、救済すべき信者に大きな苦しみが残ることに・・・!!
しかし、マルチノにはイエズス会に従い、日本からの退去以外に道はありませんでした。
マルチノは、語学が堪能で、”日本支社のカリスマ支店長”のような存在でした。
当然、日本側はマルチノが残るだろうと思っていたのですが、イエズス会は・・・
日本人に人気があるので、マルチノを日本に置いておくと「独立して起業してしまう」・・・ヨーロッパ人の手を離れた独自の日本人教団になってしまう・・・と恐れたようです。
ジュリアンは”現場のモーレツ営業マン”で、いつも現場で身を粉にして働いていました。

別々の道を歩むことになった二人・・・
1614年11月、原マルチノたちイエズス会士は日本を去りました。
転居先に選んだのがマカオ。
マカオは中国大陸の沿岸にあり、イエズス会が拠点にしていた港町です。
長崎とは貿易船で結ばれていて、日本の情報も入ってくる絶好の場所でした。

イエズス会が建てた世界遺産・聖ポール天主堂・・・
この天主堂は、アジアで最も壮麗な教会とされていました。
この教会の建築に関わったのが、日本を追放された日本人キリシタンたちでした。
教会の建設に参加した日本人たちは、大きなプロジェクトに加わる喜びを感じる一方で、徳川幕府のキリシタン弾圧が終わり、祖国に帰れる日を待ちわびていました。

原マルチノも、マカオで日本の帰国準備をしていました。
マルチノは語学に才能長けていたので、多くのキリスト教に通じる書物を翻訳。
それらは活版印刷で刷られ、日本での布教を担う宣教師の養成に使われました。
マカオで仲間を増やすマルチノ・・・あとは、日本で禁教令が解かれるのを待つだけでした。
しかし・・・思い通りにはなりませんでした。
家康の後を継いだ二代将軍・秀忠は、キリスト教への弾圧をさらに強めていきます。
1622年元和の大殉教・・・長崎でキリシタン55人が処刑されました。
火あぶりにされる宣教師、首を斬られる信者・・・当時幕府は鎖国へと踏み出しつつあり・・・キリスト教容認の必要性が無くなっていました。
日本にとどまった中浦ジュリアンは、追手から逃げながら布教を続けていました。
この頃、激しい弾圧に屈し、キリスト教を捨てるものが出て来ていました。
ジュリアンは農民に変装し、村々をまわり、信者たちを励まし続けます。
ジュリアンがイエズス会に出した手紙が残っています。
1621・・・元和の大殉教の前に書かれたものです。
”決して終わらない迫害の中、私には4000人もの信者の世話が任されています。
 キリスト教会のために働く力は、まだ十分に残っています。
 ローマからお送りくださった「信仰心を呼び起こす品々」も、信者たちに分け与えました。
 この品々によって記された愛情を深く感謝します。”
信仰心を呼び起こす品々・・・最近発見されたそれは、”メダイ”でした。
中浦ジュリアンが布教活動をしていく中で、地域の人にも配られたもののようです。
ジュリアンの活躍によって、一度は信仰をやめた人々が再び信仰を取り戻していきます。
メダイが発見されたのが、原城跡。。。島原の乱の舞台でした。
天草四郎の元に、3万を越えるキリシタンが集結・・・幕府に反旗を翻したのです。
ジュリアンが布教を行った人々も、この乱に参加。
信仰のために、壮絶な戦いに・・・。
そしてこの地域の住民のほぼ全員が命を落としたのです。
潜伏してから18年後・・・ジュリアンはついに捕らえられ、5日間に及ぶ拷問に耐えたのち殉教・・・
60代半ばだったと言われています。
最期の言葉は・・・
”私はローマを見た中浦ジュリアン司祭だ”
マカオに追われたキリシタンたちが建てた聖ポール天主堂。。。
日本で命を落とした殉教者の遺骨は、家族や仲間の手によってこの地にもたらされました。
そして、信仰を最後まで貫いた証として、今も崇められています。
原マルチノは日本での殉教の話を聞いてどう思ったのでしょうか?彼の言葉は残っていません。
徳川幕府のキリシタンへの弾圧は、さらに激しさを増し・・・日本に戻る道は完全に閉ざされてしまいます。
祖国の仲間や信者を思い続けて15年・・・マルチノは異国の地でその生涯を閉じたのでした。
1629年原マルチノ死去・・・
日本でキリスト教が許されるのは、200年以上後の、明治の代を待たなければなりませんでした。




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