独裁者の妻たち・・・恐怖政治の中で、彼女たちはどのような役割を担っていたのでしょうか?
フィリピン・・・史上最も欲深いとされた女性・・・イメルダ婦人。
大いなる浪費家・・・独裁者の引き立て役として贅沢に走り、国を食いつぶしたファーストレディーです。
1946年、フィリピンはアメリカの植民地から独立、マルコスは1965年に大統領に選出され、再選を果たします。
しかし1972年、彼は戒厳令を布告・・・独裁を開始しました。
国民を拷問し、3257人を処刑、7万人を無差別に投獄しました。
国民の所得の20%が下落、マニラの40%がスラム化・・・
マルコス政権の20年に及んで、国の負債は90倍に膨らみました。
500億ユーロを着服!!

美人コンテストで名を馳せたマニラのミューズが、駆け出しの下院議員フェルディナンド・マルコスに見初められ、出会ってからわずか11日でスピード結婚します。
この結婚で名声をえたマルコスは、権力の階段を瞬く間に上り詰めました。
1965年、マルコスが大統領に当選します。

「ファーストレディーの役割を尋ねると、マルコスはこう答えました
 ”私は大統領として国民のために頑丈な家をつくる
  君は国の母として、家庭を築くのだ”と
  それで、文化センターを建設したのです」byイメルダ婦人

当初、ファーストレディーとして文化事業を手掛けていたイメルダでしたが、70年代にマルコスが独裁体制に入ると知事や、大臣、特命大使に任命されます。
イメルダはこうして夫と二人で、フィリピンという国を治める権力を握ったのです。

イメルダ・マルコスは、首都マニラを再建するためたくさんのホテルや病院を作りました。
そして、カンヌ映画祭の会場をもしのぐ、巨大な映画センターも建設を指示します。
しかし、工事中に建物が崩壊し、160人以上が死亡・・・
生き埋めになっている人がいるにも関わらず、工期を守るためにコンクリートが流し込まれたという噂が立ちました。
事故から2か月後、マニラ初の国際映画祭が開かれました。

「私の功績・・・??
 世界平和のために国を代表して世界を回ったのです
 冷戦の真っ最中にです」byイメルダ

マルコス夫人は意気揚々と国際政治の舞台に飛び込み、各国の首脳と1対1で渡り合います。
カリスマ性のある抜け目ないネゴシエイターとして、彼女は”鋼鉄の蝶”と呼ばれるようになりました。
イメルダ・マルコスは、冷戦終結に貢献して、歴史にその名を刻みたいと願っていました。
イメルダは、東西ブロック間の会談にも参加しました。
彼女が冷戦を終わらせたわけではありませんが、外交手腕は確かなものでした。
彼女ほど聡明な女性が、どうして誇大妄想に陥ってしまったのでしょうか?
それには70年代という時代が関係しています。

1971年、マルコス夫人は、イラン建国2500年の祭典に招待されます。
60人以上の国家元首が招かれた盛大な祭典でした。
イランのハーレビ国王は、軍人の息子として生まれました。
自らを王の中の王と名乗った彼は、豪華絢爛なこの祭典で誇大妄想を世界に伝染させていきます。

ボカサ1世国王陛下・・・中央アフリカの皇帝・・・彼もまた権力欲に取りつかれていました。
終身大統領だったボカサは、国名を中央アフリカ帝国と変えて、皇帝に就任・・・
ナポレオンを真似た豪華な戴冠式を行いました。
費用は国家予算の1/4に相当する金額だったといいます。
中央アフリカ共和国は、1960年にフランスの植民地から独立・・・
1966年、軍事クーデターによってボカサが大統領に就任・・・72年に就寝大統領となりその後皇帝を名乗ります。
ボカサは多額の公金を横領する一方で、増税し、国民は窮乏の一途をたどります。
税の取り立ては軍隊まで動員して強引に行われました。
人権団体は、70年代にボカサが多くの子供を投獄したと非難します。
ボカサには17人の妻がいました。
しかし、そのほとんどが力づくで結婚させられた未成年でした。
妻たちは軟禁状態で逃げ出す人や、自殺する人もいました。
戴冠式のために、ボカサは本妻を一人選びました。
王妃となったキャサリンは14歳の時、歩いて通学する姿をボカサに見初められました。
ボカサに身を捧げるため、勉強はあきらめざるを得ませんでした。
政治的野心などひとかけらもない女性でした。

かつての宗主国フランスは、ついにボカサに愛想をつかしてクーデターに・・・。
1979年9月、首都にフランス軍が到着。
ボカサがリビアを訪れている間に、ダビド・ダッコを大統領に据えました。
ボカサは皇帝の座を失いました。
彼が失脚した理由の一つが妻キャサリンの裏切りでした。
ボカサ失脚の数週間前、キャサリン・ボカサは、フランスのジスカール・デスタン大統領の庇護のもと、密かにフランスに向かいました。
ボカサは、フランスにある自分の銀行口座の残高がゼロになり、宝石類も無くなっていることに気付きました。
裏切りに気付いたボカサは、妻とフランス大統領との不倫を疑います。
ボカサは7年間服役し、全財産を没収されました。
1996年、彼は貧困の中で死去します。
一方、キャサリン・ボカサは、何ひとつ失いませんでした。
かつて夫から送られた別荘とスイスに自分の財産を隠していたからです。

1970年代、独裁者たちは妻たちに惜しみなく金を使わせました。
しかし、80年代になると、ファーストレディの贅沢はけた外れになり、夫たちの足をすくうまでになります。
彼女たちは現状に飽き足らず、フィリピン国民のお金を盗んでそれをスイスの口座に入れました。
スイスだけでなく、世界中のたくさんの口座に・・・
よりにもよって、国民が飢えに苦しみ、すさまじい貧困が蔓延している時に、アメリカに大きなビルの購入も決めていました。
当時の国民生活の状況と、彼女たちが私腹を肥やすためにビルを買いあさっていた事実を対比すると、犯罪としか言いようがありません。

実権を握っていた20年の間に、マルコス夫人は3000足の靴、ダイヤのネックレス、数十個のティアラを収集していました。
失脚後、フィリピンは2億ユーロ相当の宝石を回収しました。
その宝石は、彼女たちが国民から盗んだものと最高裁が認めています。
2013年、雑誌フォーブスは、マルコスの資産を50億ドルと推定しました。

「肉食のバラ」といわれたイメルダ・・・同じような女性は、遠くハイチにいました。
1980年ハイチ・・・ハイチの貴族の娘ミシェル・ベネットと自称終身大統領ジャン・クロード・デュヴァリエとの結婚式・・・
自分達の国が国際援助によってようやく生き残っているにもかかわらず、2人は数弱万ドルかけた盛大な結婚式を行いました。
ハイチはキューバの最も親しい近隣国の一つです。
医師だった父・デュヴァリエ(パパ・ドク)は、1957年大統領に当選。
1958年クーデターにあったデュヴァリエは、非常事態を宣言・・・共産主義の恐怖を巧みに利用してアメリカの支援を取り付けます。
彼等は秘密警察トントン・マクートを利用した恐怖政治で4万人を殺害・処刑・・・
支配を強めていきました。
1971年にパパ・ドクが亡くなると、翌日”ベビー・ドク”が終身大統領に・・・。
親子に国を乗っ取られ、国は貧困にあえぎました。
ミシェル・デュバリエは、パパ・ドクとベビー・ドク・・・デュヴァリエ親子が築いたシステムの一部でした。
それは単なる泥棒システムでした。
パパ・ドクの死後は、残された妻ママ・ドクが19歳だったベビー・ドクを導いていきました。
ミシェルが嫁いできたことで、嫁姑の争いが勃発・・・女王の座は一つしかありません・・・。
ミシェル・デュヴァリエは、貧しい人たちのもとに足を運び、食べ物や服を与え、学校や病院を作りました。
彼女の活動にマザー・テレサも感銘を受け、ハイチを訪れ多額の寄付を残したほどでした。
ベビー・ドク夫人は、心優しいファーストレディとしての立ち位置を確立しました。
しかし・・・小切手は現金化されると彼女の個人口座に大半が入金されていました。
ハイチの小麦粉を一手に扱っている製粉会社は、彼女の慈善活動に対して毎月2万5000アメリカドルを振り込んでいます。
セメント会社も、宝くじ会社も、電力会社も・・・
ミシェル・デュヴァリエは、雑誌ピープルでドラゴンレディと呼ばれました。
イメルダ・マルコスと同じ誇大妄想の人で、欲深く、押しの強い女性でした。
ピンクのコートを着たいからといって、大きなダンスホールで冷房を最大限にきかせたこともありました。
ミシェル・デュヴァリエは、高価なパーティーを催しては、国営テレビで生放送させました。
ファーストレディが贅沢にふける一方、町には満足に食べられずに餓死する子供までいました。
彼女は定期的にリムジンの窓から小銭をばらまきました。
スラム街の聖母のイメージを守るためでした。

デュヴァリエ夫人も、マルコス夫人も、ひたすら上辺だけ取り繕い、国民の傷を癒すふりをしていました。
1986年2月7日・・・デュヴァリエ失脚・・・
アメリカは、失脚したデュヴァリエ夫妻がフランスへ逃亡する手助けをしました。
1988年、ベビー・ドクの助言者が政権につき、デュバリエ夫妻の法的な問題を精算、同じ年、ミシェル・デュヴァリエは大金を国外に移していました。
1990年、ミシェル・デュヴァリエはそれまでの悪評を払拭するべくベビー・ドクと離婚・・・
かつての独裁者はその後貧困生活を送り、2014年失意のうちに心臓発作で亡くなります。
ミシェルは今も、パリの公住ブティックが並ぶ地区で暮らしています。

マルコス政権の独裁の色は強まるばかり・・・
1983年には反政府派のリーダーだったニノイ・アキノ上院議員が暗殺されます。
国民の暮らしは余りにも貧しく、失うものさえなくなりかけていました。

民主的な統治が難しくなると、統治者は強権的になり、問答無用の威圧的な手段を使いはじえっます。
国民の人権を侵害するようになり、権力にしがみつくためなら何でもするようになる・・・
そんなことが起きました。
1986年2月25日、マルコス失脚!!

1970年代から80年代にかけて中央アフリカのボカサ、イランのハーレビ、フィリピンのマルコス、ハイチのデュヴァリエなど独裁者が次々と失脚しました。
しかし、ザイールのモブツ・セセ・セコは、90年代になってもなお、権力に取りつかれていました。
1960年にベルギーから独立したコンゴは、鉱物資源が豊かな国です。
1965年、クーデターでモブツが大統領に・・・。
国名をザイールと変更、アメリカから支援を受けて権力を強め、60年代の終わりには反対派を処刑、学生運動を弾圧し、遺体を穴に投げ捨てました。
その後、大規模なインフラ整備に着手すると、国庫を完全に私物化、国家元首が横領した金額ではモブツはマルコスに次ぐといわれています。
1980年、モブツ大統領はボビ・ラダワと結婚、ザイールのファーストレディは世界でも独特です。
大統領は第二夫人としてボビの双子の姉妹コシアを娶ったからです。
2人のファーストレディの生活を維持する為に、国は負債を抱えることになります。
ザイールの紙幣は、主にアルゼンチンで印刷されていました。
2枚の紙幣に同じ番号が振られ、政権の隠し口座と中央銀行に入金されていたのです。

1990年代、双子のファーストレディは、アフリカのイメルダ・マルコスとして有名になります。
どんなに身近な旅でも100個のトランクが用意され、有名デザイナーの最高級のふく服や宝石が詰め込まれました。
40歳の誕生日には、盛大なパーティーが開かれました。
モブツは、自身が築いた黄金の山の上に座り続けています。
フランスやスイスなど、海外に複数の不動産を持ち、ザイールの債務とほぼ同額の資産を保有しています。
権力を独占して30年が過ぎた頃、モブツは重い病気にかかります。
アメリカに見捨てられ、軍部に裏切られ、国民から憎まれ、1997年5月、大統領はついに失脚しました。
モブツは4か月後に死亡・・・2人の妻は、フランスやベルギー、ポルトガルの自宅を行き来して暮らしています。
双子の元ファーストレディは、今もモロッコやヨーロッパに多くの資産を保有しているようです。
彼女たちは、もうカメラの前に姿を見せることはありません。
風の便りでは、宝石で身を飾って一人テーブルにつき、昔のように使用人にかしづかれているといいます。
皮肉なことに、コンゴは今も、元大統領の妻という名目で、月7000ドルの年金を払い続けています。

2000年代に入ると、人々の注目はチュニジアのファーストレディ、レイラ・ベンアリに向けられます。
当時、チュニジアにはアラファト夫人も住んでいました。
チュニジアのファーストレディ、レイラ・ベンアリとスーハ・アラファトとの間で、対抗意識の火花が散ります。
チュニジアは元フランス保護領で、1956年に独立しました。
1987年、無血クーデターによって、ベンアリが大統領に就任。
再選回数の制限を廃し、5期連続政権・・・23年にわたって大統領を務めました。
一早く女性の地位を向上させた一方、若者の失業率は60%にまで増大。
また敵対勢力のイスラム教徒に対し、刑務所内で組織ぐるみの拷問をして人権団体から非難されました。
2008年、フォーブス誌によって、世界で最もリッチな国家元首の一人に選ばれました。

1992年、ベンアリ大統領は離婚歴のある秘書レイラ・トラベルシと結婚。
1年後、女性の権利に関する憲法が改正されると、彼女は真摯に問題に取り組み、複数の団体の代表となりました。
イメルダ・マルコスや、ミシェル・デュヴァリエのような浪費家の妻とは対極にあると思えました。
彼女の一族は、立場を利用して自動車、不動産、メディア、そして観光業を牛耳っていました。
まるでマフィアのように国の経済の3割から4割を支配していたのです。
国民は、無法者の一族に苦しめられます。
不動産や企業がトラベルシ一族にいつ乗っ取られるかわからないのです。
国民の怒りの矛先がファーストレディに向けられました。
2009年10月の選挙では、レイラ・ベンアリは自らが中心となって不正を働きます。
彼女は夫の代理で積極的にスピーチを行いました。
同じころ、大統領の健康問題が取りだたされるようになります。
跡を継ごうというファーストレディの意気込みを感じ、国民はうんざりします。
ベンアリ政権があと20年続くと考えるだけで、国民は耐えられなかったのです。

2011年1月、ベンアリ夫妻は国外へ逃亡します。
23年に及ぶ、ファーストレディの不正の蓄財が明るみに出る前に逃げなければならなかったのです。
レイラ・ベンアリは、今も犯人引き渡し条約で守られています。
亡命先がサウジアラビアだからです。
悪魔のようなレイラ・ベンアリは今後も上手く立ち回るでしょう。
祖国で禁固35年を言い渡されたレイラ・ベンアリは、現在サウジアラビアの豪邸に暮らしています。


アメリカの司法制度では、イメルダ・マルコスを友罪にはできませんでした。
1991年2月・・・彼女は国外逃亡を経て祖国に戻り、フィリピンの司法制度に立ち向かう決意をします。
イメルダ・マルコスが、法の網を逃れる秘訣を明かしました。
それは、特権を手にすること・・・彼女が選挙に出続けた理由がそこにはありました。
はれて議会のメンバーとなり、議員特権を得てアンタッチャブル・・・手出しできない存在となったのです。

責められるべきは彼女一人ではありません。
大統領だったマルコス、ファーストレディだったイメルダ、そしてアメリカ大統領だったレーガン・・・
彼ら全員が、フィリピンの民主主義を侵害した張本人だったのです。

大いなる浪費家たちよ・・・
貴女方が自らの正当化を試みた時、西側諸国はその共犯者となりました。
貴女方は、決して俯かず、巧妙な戦略を用いて一切の責任を免れました。
マリー・アントワネットの継承者でありながら、夫の首以上に自分の首を守り抜いたのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング