日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:インフルエンザ

にっぽん!歴史鑑定で「100年前のパンデミック!スペイン風邪の恐怖」をしていました。
普段は、こちらのブログでは感想は書かないようにしているんですが・・・あまりな内容に言わずにはいられません!!

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今のコロナを彷彿とさせる放送です。
中身も、煽って煽って・・・最悪です。
スペイン風邪・・・新型インフルエンザウィルス、3回にわたって大流行、凶暴化したウィルスは世界の人口の3割に感染、死者数4000万人以上、日本国内での死亡者数は45万人・・・

”大正時代の人々はどのように対応したのでしょうか?”というお話でした。

でも・・・政府が後手後手に・・・と、番組が始まった時から嫌な予感がしていました。
医療でどんなことをしたのかとか、政府がどんなことをしたのか・・・あ・・・後手後手か??
ワイドショーのようなお話でした。
だいたい、スペイン風邪を紹介するとき、アメリカの兵隊さんから始まったと言っていたけど、”軍事機密で隠蔽していた”って事実もさらっとしか言ってなかったし・・・!!
結局、その時戦争をしていなかったスペインが、隠す必要がなかったために公表して=スペイン風邪に名づけられたというあまりにも不憫!!

”ものすごい勢いで感染拡大していったんですね~~!!”

ほんと、まるでワイドショーです。

京都の女学生が見た大流行の脅威
これは家族感染した女学生の日記を紹介
情報のあまりない時代の女学生の日記で病気で人が亡くなるという恐怖を煽りに煽っていました。

”凶暴化するウィルス!!三密で感染してしまった!!”
”マスクの値段が高騰”
”島村抱月も、松井須磨子も感染!!
 島村抱月病死→松井須磨子自殺!!”

新型コロナ、本当のところどれだけ問題なのか

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与謝野晶子の生後2日の子供が死亡→スペイン風邪ではないみたいなのに印象操作!!
その後、晶子の家で家庭内クラスター発生!!原因は小学校に通う子供から!!
お金がないので新聞に家庭内、学校などで、感染してしまっていると投稿。
”どの学校にも学校医と云ふ者がありながら、衛生上の予防や応急手段について不親切も甚だしいと思います”
予防策を講じず急行決定が遅れた学校などを痛烈に批判!!
どうして人が密集種場所を一時休業を命じないのか??
庶民が項かな解熱剤を安い値段で購入できるよう衛生機関と富豪が協力すべき!
晶子の痛烈な批判は、大きな反響を呼びましたが、事態は好転せず、感染拡大の勢いも一向に止まりませんでした。
ま、あの時代、反戦をうたう晶子なら言うだろうなあ・・・

”スペイン風邪で村が全滅!?一体何が?村を襲った更なる悲劇!!”
あまりの感染者の多くに、医師や看護師たちも限界を超え、医療崩壊寸前な中での悲劇!!
267人の住民全員が感染!!
追い打ちをかけるように大雪で交通が遮断!!
外部との連絡路を絶たれ、食糧不足という悲惨な状況に・・・!!
結局、200人以上の人々が、スペイン風邪と飢えによって亡くなりました。

これって、飢えが主なんじゃないの??

3年余りでのべ45万人もの命を奪ったともいわれています!!

この場合、”のべ”って必要なんだろうか??
命は一つ・・・合算だから、”のべ”じゃないんじゃないの??
あ・・・”3回”のパンデミックの”のべ”??

この間、なんとか政府は止めようとポスターを制作しました。

まるで、政府が行ったのはポスターのみみたいな感じでゲンナリ!!
当時は技術が追い付いていなかっただけなのに、ワクチンも見当違いと批判!!
政府や自治体は有効な手立てを打つことができなかったというお話でした。

スペイン風邪はどうやって終息したのか??

「確かなことはわかりませんが、おそらくは集団免疫ができたことではないか
 毒性が弱まって、季節性インフルエンザへと移行した」

スペイン風邪の病原体が、新型のインフルエンザウィルスとわかったのは20世紀末のことでした。
人を死に至らしめるその病の正体がわからないまま戦っていた当時の人々の恐怖は今以上に大きかったことでしょう。
大正時代、未曽有のパンデミックを乗り越えた人たちがいたことを知ると、コロナ禍の私たちも一筋の希望の光を見出したような気がします。
終わらないパンデミックはないのだから・・・!!

ちゃんちゃん!!

国民はこうして騙される Fakeが「FACT」に化けるカラクリ

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??なんか、うまくまとめてるような気もするけど、煽って終わりだったよな・・・!!
コロナ禍の私たちも一筋の希望の光って・・・なんとたいそうな・・・!!
今回は、ワイドショーでコロナを煽られて煽られておなか一杯の中、BSのテレビでも煽られてしまうという残念な番組となっていました。

ま・・・副題が”スペイン風邪の恐怖”だから煽って当たり前か・・・Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

先日、テレビのニュースで、どこかの大学の偉い、感染症専門の先生が、

パンデミックは広がってもどのように終息するのか・・・わからないけど、戦いながら人間は生きてきた。
今回の第5波も、なんでおさまったのか??わからないけれど、そうやって歴史は繰り返してきたんです。
ゼロコロナはありえません。withコロナで頑張りましょう。

みたいなことをおっしゃっていました。

同じ話でも切り口が違うとこんな番組になります。




1年半もたつのにコロナばかりを煽るテレビにいら立って、YouTubeとBSしか見なくなりました。
BSでもこんな内容はちょっとなあ・・・でした・・・残念!!

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禍いの科学 正義が愚行に変わるとき

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およそ100年前・・・第1次世界大戦終結に湧く世界の足元で、未知の感染症が猛威を振るっていました。
スペイン・インフルエンザ・・・世界で5億人が感染し、5000万人もの命を奪ったと言われる史上最悪のパンデミックです。
日本では、スペイン風邪と呼ばれ、国民のおよそ半数が感染・・・50万人が亡くなったとされます。
この恐るべき感染症に、日本人はどう戦い、どう生き抜いたのか・・・??

第1次世界大戦末期の1918年春・・・
ヨーロッパ戦線に集結した各国の軍隊の間で、謎の感染症が流行していました。
発端は、アメリカのファンストン軍事基地で死亡した48人の肺炎患者だと言われ、感染は4か月で世界に広がりました。
しかし、戦時かにあった各国は、感染情報を隠蔽・・・
中立国スペインの発表だけが知れ渡り、いつの間にかスペイン・インフルエンザと呼ばれるようになりました。
第1次世界大戦による人の移動がパンデミックを引き起こしたのです。

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いまだと毎年のようにインフルエンザが流行りますが、当時、田舎で生まれ育った人たちは一生で一度もインフルエンザに罹ったことのない人がいたと思われます。
そんな人たちが、ヨーロッパに一堂に会して兵舎で暮らしたりすると、3密状態・・・
免疫がない状態に、一気に感染が広まってしまう・・・。
戦争が終わり、母国に帰り、水際を通り越して市中感染に繋がったのです。
グローバル化の象徴的な出来事でした。

1918年9月・・・日本にも上陸、スペイン風邪と呼ばれるようになりました。
病原体は、神戸や門司、大阪などの湾港から貨物や乗客と共に上陸。
その後、鉄道に乗って地方都市へと運ばれていきました。

おりしも、第1次世界大戦の軍需景気の真っただ中・・・農村から来た労働者らが、炭坑や製糸工場のような過密空間で働くことで、次々とクラスターが発生しました。
都市部の病院には、患者たちが殺到し、医師や看護婦にも感染・・・医療崩壊が起こっていました。
一方、当時農村地帯だった栃木県矢板市では、一人の医師が厳しい医療の現実を克明に記録していました。
それが、「世界的流行性感冒の見聞録」・・・開業医・五味淵伊次郎の手記です。
医師自身が記したスペイン風邪の記録としては、現存する唯一の物です。

10月下旬、地元の農林学校の生徒が、東京への遠足から帰ってくると続々と発病者が現れます。
体温は、38度から39度
頭痛やのどの痛みを訴え、患者たちの顔は、みな赤黒い色をしている

2日後には、矢板駅の駅員も倒れ、駅の利用者や、その家族から村全体に瞬く間に感染が広がっていきました。
自転車で十数キロ離れた村々を往診しますが・・・間に合わずに遺体と対面することもしばしばでした。
医師の欠乏・・・
大正期から昭和の初期は、農村と都市部の医療格差が大きくなった時代でした。
農村では、現金収入がないから医療費を払えない・・・
医者は、「農村では食えない」と、都市部に流れるのです。
当時は、国民皆保険ではないので、悪くなるまで医者を呼ばない・・・そうなると、家族が看病し、その家族が倒れたときは親戚が応援に来るので、親戚にまで広がってしまうという悪循環を起こします。

そして、五味淵の家で働いていた15歳の少女も感染し、危篤状態に陥ってしまいます。
五味淵は、当時はやっていたジフテリアと、スペイン風邪の症状が似ていることに気付き、一か八かジフテリアの血清療法を試そうとしました。

「しかし・・・動物試験のような注射を、人の子供に打つことなど、どうしてもできなかった・・・
 しかし、今は、試みなかったことを憾む・・・」

結成の投与をためらう五味淵を前に、少女は翌朝息を引き取りました。
その4日後には、五味淵の妹もスペイン風邪に侵され、血痰を吐き、呼吸困難に陥ります。
五味淵は、妹を救いたいという一心で、ジフテリア血清の注射を決意します。
手記には、注射後に、妹の呼吸や脈拍、体温が落ち着いて行く様子がつぶさに記録されています。
妹の命がかかった治療の記録を、全国の医師たちにも役立ててほしいと書き留めたのです。
五味淵は、自分自身にも血清を試したうえで、効果を確信し、村人たち99人に241回ジフテリア血清を注射しました。
しかし、現在の価値で数万円にもなる高価な費用を貧しかった農民たちを払うことが出来たのでしょうか?
五味淵の生活・・・
請求したものが全て医療費としてもらえる方が少なくて、お野菜、お米と交換したり、質素に暮らしていたのではないのかと思われます。
1919年3月・・・スペイン風邪第一波終息・・・死者25万人!!
つかの間の平穏が訪れていました。

1919年秋・・・スペイン風邪第二派到来!!
死亡率は、第一波の五倍に相当していました。
社会全体に不安が立ち込める中、医学界を代表する二つの権威がワクチン開発を巡ってしのぎを削りました。
一早く動いたのは、北里柴三郎率いる民間の北里研究所・・・
細菌の研究で、世界にその名をとどろかせていました。
北里研究所は、スペイン風邪の病原体は、インフルエンザ菌という細菌だと断定。
これを用いたワクチンの開発に乗り出そうとしていました。
それを真っ向から否定したのが、東京帝国大学医学部教授・長与又郎が率いる国立伝染病研究所です。
長与たちは、インフルエンザ菌以外の未知の病原体が作用しているのではないかと考えました。
しかし、その存在を説明するすべがなく、病原体は不明という立場をとりました。

そもそも、インフルエンザの真の病原体が、最近よりもさらに1/100ほど小さなウィルスと判明するのは、この時から14年後のこと。
当時使われていた光学顕微鏡では細菌は観察できても、ウィルスの姿を見ることは不可能でした。
しかし、北里たちは、ペスト菌や赤痢菌など細菌の発見によって医学を進歩させてきたという自負がありました。
その使命感から、1919年11月、インフルエンザワクチンを用いたワクチン製造に踏み切りました。
北里側にすれば、自分たちは細菌学の最先端の技術、最先端の知識でやっている・・・
北里研究所の人たちは、成功の連続でした。
成功体験を、人間は変更することは難しかったのです。
自分達の最近の発見のその先に、インフルエンザ菌が存在するように考えていました。
北里研究所のワクチンが、世間で熱狂的に受け入れられる中、国の威信がかかる伝染病研究所の長与たちも苦渋の決断をします。
北里たちから遅れること1か月・・・病原は依然として不明としながらも、北里研究所が主張したインフルエンザワクチンに肺炎の予防ワクチンを加えた混合ワクチンの製造を始めたのです。
伝染病研究所は、「よくわからない」と言いながら、北里側がワクチンブランドとして高名になっていく・・・
伝染病研究所は、完全に後れをとって、「国は何をやってるんだ」と言われながら、追いつくためにインフルエンザ菌や他の肺炎球菌を使いながら作っていく・・・どうしても対抗上、そうせざるを得ませんでした。

二つの研究所が、成分の異なるワクチンを製造した問題は、やがて国会へと波及・・・
専門知識がない政治家たちも、ワクチンに口を挟みだしました。

「北里研究所では、病原を確定してワクチン製造を行っているが、政府の伝染病研究所では、病原を不明としたまま混合ワクチンを出した
 政府はどちらの予防ワクチンを認めるのか、明らかにしてほしい!!」by土屋清三郎議員

新型インフルエンザパンデミックに日本はいかに立ち向かってきたか: 1918スペインインフルエンザから現在までの歩み

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世論に押された政治家たちは、医学者への要求を日に日に高めていきました。
そもそも、現代医学の知見からは、二つの研究所のワクチンは細菌をもとに作られたもので、インフルエンザの予防効果は疑わしいとされています。
しかし、当時の人々は、ワクチンに大きな期待を寄せました。
民間の製薬会社も開発に乗り出し、全国およそ20カ所でワクチンが量産される一大ブームが巻き起こります。

とにかく薬を作らなければいけない、是非とも薬を作ってほしいという要請にこたえるために、一生懸命してしまったのです。
北里研究所がワクチンを作った時に、伝染病研究所も「何をしているのか?」と言われないように、ワクチンwの作る方向に流れてしまったのです。
世の中の流れの強さ、流行のようなものを誰も止めることが出来なかったのです。
当時からワクチンの効果を疑問視する声も上がっていました。
しかし、最終的には500万人以上がワクチンの接種を受けたと言われています。
1921年夏を最後に、スペイン風邪の流行は終息します。
それと共に、世論や政治にあおられたワクチン開発競争は次第に忘れられていきました。

スペイン風邪が日本を襲った当時、政治の民主化を求める国民の声が高まり、全国で労働運動や普通選挙運動が盛り上がりを見せました。
大正デモクラシーです。
平民宰相と呼ばれた原敬が率いる政府は、スペイン風邪の対応に当たります。
しかし、国民への強制的な介入は避け、各自の予防自覚を促すことを優先しました。
明治時代のコレラやチフスのように、警察が強引に感染者の隔離や、商店の閉鎖を行えば、国民の激しい反発は避けられない・・・!!
政府は、衛生行政の転換を迫られていました。

当時の政府の取り組みを記した資料が残されています。
「流行性感冒」・・・内務省衛生局がまとめたスペイン風邪の報告書です。
行政の対応や、全国の感染データなどが、500ページにわたって克明に書かれています。
中でも政府の方針を端的に示すのが、スペイン風邪予防のポスターです。

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病原体をユニークな姿で書いたもの・・・
見えないはずのウィルスの感染経路を赤い点線で記し、咳エチケットを促すポスターも・・・!!

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帰宅後のうがいやマスクの着用など、衛生習慣はスペイン風邪をきっかけに、日本に定借したと言われています。

日本では、イラストやキャッチコピーを多用することで、高圧的な印象を与えないように工夫をしていました。

それまでは、国民・住民というのは、命令する対象・取締りの対象と考えていましたが、住民が理解して、行動しなければ問題の対策にならない・・・ということ・・・行動の変容を訴える形に変わっていきました。


さらに、注目すべきは、全国の自治体独自の対策です。
報告書の1/5を占めていました。
埼玉県では、陸軍飛行場から飛行機を飛ばし、飛行機から感染対策のビラを撒きました。
北海道では、女学生たちにマスクづくりの協力を要請・・・出来上がったマスクを劇場や寄席の入り口で無料配布しました。

東京では、ワクチンの接所を受けられない低所得者のためや缶無料注射所を作り、医療格差の是正に取り組んでいました。
紂王の人でも気づかなかったような地方独自の政策を、拾い上げ、記録していくことで新しい公衆衛生の糧にしていこうという意識が、内務省衛生局の人にもあったのではないのか??

国や警察による一方的な介入ではなく、地域が率先して感染対策に取り組む動きが、昭和の保健所の誕生にもつながっていきます。
全国に設置された保健所は、地域の住民を守る公衆衛生の最前線となったのです。

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新型コロナ騒ぎで根拠のないデマに振り回され、物不足で買い占めの悪循環・・・
感染者に誹謗中傷・・・まるで加害者扱い!!
眼に見えない恐怖で、人類はろくなことをしない・・・!!

文明誕生以来、人類を苦しめ続けてきた感染症・・・
原因不明、訳も分からず死ぬ恐怖の地獄絵図!!
解決できない恐怖に対して、人類は何にすがってきたのか??
病の原因は何??
どうして差別や虐待が・・・??
人類が繰り返す勘違いと悲劇・・・人はどうして見えない恐怖に翻弄されるのか??

コロリは、幕末を中心に日本各地を度々襲った流行り病です。
特に、1858年はコロリが江戸で流行・・・地獄絵図に陥れました。
ある日突然、激しい下痢と嘔吐・・・脱水症状を起こし次々コロリ・・・!!
パニックを起こした庶民は、迷信の薬に飛びつきます。
煎じた黒豆、桑の葉、ミョウガの根・・・さらに、コロリ祭り・・・原因不明の恐怖に怯えた人たちは、疫病退散に一心不乱に祈るしかありませんでした。

コロリ・・・詳しくはコレラ。
肉眼では見えない微生物・・・コレラ菌が引き起こす感染症です。
水の中に潜み、水や魚を飲み食いした人間の腸で増殖し、排せつ物によって再び水に広がっていきます。
驚くべきことに、江戸の庶民は、コロリの原因を目に見えない小さな生き物ではないかと噂していました。
管狐・・・日本古来の伝説上の動物です。
その名の通り、人間の体の細い管をとおり、体内に入り込み命を奪う超マイクロ狐です。

”この度の一日ころりの急病は、くだ狐のわざなるよし評判”

新たな見えない恐怖・・・これを管狐に当てはめたのです。

何が疫病を引き起こしたのか??という場合に、当時の人たちの考え方で説明すると・・・これまでの病気の原因を考えれば、狐が人間にとりついて病気を引き起こしたり、場合によっては死に至らしめるような「狐憑き」という信仰があったので、そんな信仰も踏まえて、疫病も狐が運んできたと考えていました。

さらに・・・
顔は馬、足は人間の赤ん坊、大きさは猫・・・その名も千年モグラ・・・
千年モグラは、雷獣ともよばれる日本古来の妖怪で、天変地異と共に姿を現すので、コロリと結び付けられました。
しかし、この千年モグラも新たな解釈では・・・??
”千年モグラとは、アメリカ狐ともよばれ、日本人をとり殺す!!”
どうして国産の妖怪が、アメリカ産に化けたのか・・・??

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当時は、アメリカのペリー艦隊が、軍事力で江戸幕府を威圧し、鎖国をとかせて4年ほど・・・
日本は、踏み込んできた外国人に不吉な気配を感じていました。
そんな中、1858年5月に長崎に入港したアメリカ船の船員にコレラ患者が発生!!
この感染流行が、西日本から一気に東日本へ拡大したのです。
コレラは外国から持ち込まれ、病気は動物が起こす・・・ならば、原因は外国の動物だと人々は考えたのです。

人間が不安を感じた時に、不安の原因や対処法がわからないときには、眼に見えるようなわかりやすい、据わりの言い原因を求めることによって自分の不安を落ち着かせようという心理のメカニズムがあるのです。

アメリカ狐にイギリス疫兎・・・庶民は見えない恐怖の原因をその時々に世情に合わせ納得しやすいものへと変えていきました。
さらに、退治する方法も考えます。
それが・・・ニホンオオカミでした。
相手が、異国の狐やウサギならば、それを退治してくれるのは日本のオオカミ・・・!!
ニホンオオカミの頭蓋骨は、コレラに効果があるとされ、削って粉にして飲まれたといいます。
”お犬様”ことオオカミは、昔から信仰の対象でした。
かつて、ニホンオオカミの生息地・秩父地方にある三峯神社には、神様の眷族であるオオカミのお札を求め、人々が殺到しました。
コレラが流行した1858年の記録には、”御眷族一万疋”・・・一万枚ものお札がわずか半年の間に下げ渡されたといいます。
しかし、疫病除けのこの信仰は、ニホンオオカミに悲劇を生みました。
疫病退治の薬として頭蓋骨の需要が高まり、ニホンオオカミを乱獲・・・これも、絶滅の原因の一つだと言われています。
見えない恐怖は外国から来たと、直感的に感じ取っていた庶民たち・・・
しかし、人は、不安を解消する納得感を重視すると、解決か遠ざかってしまうものなのです。

現代、飛沫感染を予防するのに有効とされるマスク・・・
1650年・・・鳥??死神??17世紀にヨーロッパの医者がつけていたとされるマスクです。

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これは、鳥のくちばしのような部分には、汚染された空気を浄化する為に薬草が入れられていました。

眼には悪い空気除けのガラス。

かつてヨーロッパでは、感染症は悪い空気が引き起こすと考えられていました。

その最悪のケースが、14世紀から18世紀まで度々ヨーロッパを襲ったペストです。
突然の発熱から嘔吐・下痢・リンパ節の腫れ・・・
体が黒く変色し、わずか5日ほどで死に至ることから黒死病ともいわれました。
特に、1346~52年のペストの流行は、中央アジアから広がりイタリアに上陸・・・一説には、ヨーロッパ人口のおよそ60%・・・5000万人が死んだと言われています。
市が町を覆いつくす地獄絵図・・・墓での埋葬が追い付かず、死体の山が・・・
目に見えないペストの原因は不明のまま。

一部の裕福な人々は町から逃げ出し、郊外の屋敷に閉じこもりました。
「ステイホーム」です。
ボッカチオは、ペスト流行の原因をこう記しています。

「この疫病がひどいありさまになったのは、人の接触によって病人から健康な人へと感染していったからです
 病人を時々訪ねるだけでも感染して死んでしまい、衣服をはじめ、病人が触ったりしたものは何でもひとたび触るとたちまち感染してしまうのです」

現代では、ペストの原因はペスト菌という細菌だと判明しています。
動物から人間に感染し、広がる仕組みのうち、人々は人間同士でうつることまでは把握していたのです。
でも、という字の人々は微生物と言ったような極小の存在を知りません。
その代わりに、一種の毒のような物質が、作用しているのではないか??と考えました。
その結果、ペストの原因は”神の罰”と人々は考えました。
目に見えない現象は、神の御業と考えるのが自然でした。
しかし、当時の学者たちは、科学的に原因を追究しようとしていたのです。

1348年、ヨーロッパ最高峰のパリ大学医学部で・・・
ペストの毒がどうして発生するのか?研究成果を発表しました。

”ペストは、火星や木星など惑星の不吉な配置、地震などの異常気象、さらには動物の大量の死骸により腐敗した空気、すなわち瘴気によって起きるのだ”

この病気の原因を宇宙から考えるという発想は、紀元前5世紀ごろ、古代ギリシャの世界観にもとがあります。
世界を構成している天体、空気、大地、水・・・
コレラが精密に動いている時は世界は安定している。
ところが、その一部でバランスが崩れると悪い環境が生み出され、汚染物質が発生・・・!!
そうした毒を含んだ空気は、瘴気と呼ばれ、ペストをはじめ、様々な病気の原因となるのだ!!

肉眼では見えない病気の原因を、秩序・バランス・・・という目に見えないものに求める発想・・・
それが、当時の世界観に基づく科学だったのです。
しかし、ペストの不安におびえる庶民には、納得できませんでした。
原因が宇宙の秩序と言われても、ピンときません。
神の罰だとすると、自分達が悪いとなってしまいます。
そんなはずはない・・・

「カトリックが使う井戸や泉に毒物を入れ、ペストの原因となる”瘴気”を発生させた奴がいる!
 ユダヤ人だ!!」

ヨーロッパ、カトリック世界では、国を持たない異教徒ユダヤ人は秩序を乱すものとして長年迫害されてきました。

「ユダヤ人が怪しい・・・」

という疑いこそ、見えない恐怖におびえる庶民が求めた答えだったのです。

「ユダヤ人が井戸に毒を入れているということは、当時の人々にとっては一種の連想チェーンでした
 ペストから遡って連想すると、毒を水に入れる行為まで容易にたどり着いたのです
 ペストの原因は、毒の空気”瘴気”によって広まっている
 その瘴気を生み出しているのは??毒の水だ!!
 毒を入れたのは?それはユダヤ人の陰謀だ
 だから、大量のペスト患者が発生する」

これが、当時の人々にとって納得のいく答えだったのです。

最悪のペスト大流行の時代・・・
1348年3月・・・スペイン・バルセロナで感染が広がるや否や、ユダヤ人が疑われ虐殺が始まりました。
4月にはフランス南部、9月にはスイスと感染が広がるにつれて、迫害が拡大!!
最悪の悲劇が起きたのが、フランスの北東部ストラスブール・・・!!
1349年2月、まだペストの感染が始まってもいないのに、被害を未然に防ごうとユダヤ人狩りを始めたのです。
およそ900人のユダヤ人が、共同墓地に掘った大穴で焼き殺されました。
その後も、虐殺の嵐は吹き荒れ、ヨーロッパで100以上のユダヤ社会が壊滅、1万人以上が犠牲となりました。
見えない恐怖の原因を知りたいという人間の心理は、時に差別という目に見えない心の闇をも引きずり出してしまうのです。
時を同じくして、ハンセン病やロマの人たちに対する迫害も起きています。
自分と異なる人に原因を求めて、恐怖のはけ口にすることが起きていたのです。
ガセの拡散・・・インフォデミック・・・大量の情報が溢れ、混乱が生じたのです。

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感染症対策には「手洗い」が有効だと言い出したのは・・・??
今やすっかり常識となった感染症対策の基本・・・手洗い。
手には、目に見えないけれど、たくさんの病原菌がついている・・・
まとめて洗い流そうというものです。
人間の体には、小さな微生物が付着しているとわかったのは、17世紀の事です。
オランダ人科学者・レーウェンフック・・・発明されたばかりの顕微鏡で確かめたのです。
肉眼では見えない微生物が病気の原因ではないのかという新しい説・・・病原体説が生れます。

医学界の主流は、古代ギリシャ以来の瘴気説を19世紀半ばまで採用・・・病気は瘴気、悪い空気が原因としていました。
19世紀半ば・・・オーストリア・ウィーン。
主人公は、医学界の権威・・・ウィーン大学病院の産科医師イグナック・ゼンメルワイス。
当時、産褥熱という病気が、大勢の女性を苦しめていました。
出産直後の母親が、原因不明の高熱で死亡するという謎の病です。
ウィーン大学病院でも、1か月に出産した母親208人のうち36人が産褥熱で死亡・・・。
2割近くが犠牲になっていました。
ある日、ゼンメルワイスは産褥熱の患者を診ていて奇妙なことに気付きました。
ウィーン大学病院には、2つの産科があり、第一産科はゼンメルワイスたち医師や医学生が妊婦を診察、第二産科ではお産になれた助産婦が出産を担当していました。
このうち、第一産科の方が18.2%、第二産科は2.8%・・・第一産科の方が産褥熱での死亡率がはるかに高かったのです。
どうして近代医学をマスターした医師が担当する産科の方が、助産婦たちの産科より死亡率が高いのか・・・??
ゼンメルワイスは調査を開始します。
2つの病棟の気温や湿度、食べ物、飲み物などを比較します。
しかし、大きな差はみられません。
また、両病棟は隣り合っているため”瘴気”が原因であれば、第一産科だけ突出してひどいというのは考えにくい・・・
そこでゼンメルワイスは、第一産科の医師たちと、第二産科の助産婦の行動を観察し、決定的な違いがあることに気付きました。

第一産科の医師たちだけが、死亡した患者を解剖している・・・
死亡患者の解剖が、どのように産褥熱に関係するのか・・・??
突然、ゼンメルワイスの脳裏に、産褥熱の原因がひらめきました。
医師たちが解剖する際に、死体についている”死体粒子”とでもいう物質が、彼らの手に付着したのではないか・・・??
そして、手についた死体粒子が妊婦を診察する際に、彼女たちの産道に付着して病気を起こすのではないか・・・??
ならばこの”死体粒子”を取り除くには、手洗いで流せばいい!!

ゼンメルワイスは、医者たちの第一産科で塩素系の薬品での手洗い、爪などを入念にブラシで洗うように指導しました。
すると驚くべき結果が出ました。
第一産科の産褥熱での死亡率が、第二産科と同じ程度の3.0%にまで激減!!
その後も減り続けたのです。

1861年「産褥熱の原因と概念及びその予防法」とまとめ、出版します。
目に見えない病気の正体をこう語りました。

「産褥熱は”瘴気”からくるものではなく感染で起こるものだ
 したがって、予防可能な病気であり、この病が蔓延する責任は、予防に努めようとしない者にある
 私たち医者が数世紀にわたり墓場に送ってしまった犠牲者の数は、神のみがご存じだ
 こうした認識が、医者にとって痛いほどつらくても、秘密にすることは絶対にできない」byゼンネルワイス
 
ところが・・・ゼンメルワイスの所属する大学や医学界の権威は激怒!! 
目に見えない死体粒子説や手洗い励行の訴えを完全に無視!!

医師たちの失敗が、。患者たちに死をもたらすことは、医学の分野で起こる出来事で最もまずい事柄です。
医学的措置が人に害を及ぼすのですから、突然妊婦殺しの非難に直面した医師たちにとって、愉快な出来事でないことは十分に理解できます。

医学界の仕打ちに対し、ゼンメルワイスは目に見えない「死体粒子」を説明、反論することが出来ませんでした。
その後、精神を病み、4年後の1865年ゼンメルワイス死去・・・46歳でした。

ところが、わずか10年後の1876年。
目に見えない病気の原因が”瘴気”か”病原体”か、長年の論争に終止符が打たれます。
ドイツ医師ロベルト・コッホが、目に見えない原因を解明する為の基本的な考え方・・・”コッホの三原則”を打ち立てたのです。

①病気にかかった動物から原因の可能性のある細菌を見つけ出す
②細菌を取り出し培養
③培養した細菌を健康な動物に接種し、同じ症状が現れれば病気の原因はその細菌

ということになります。
この三原則によって、目に見えない恐怖・・・人類を長年苦しませてきた感染症の原因が、様々な細菌だと特定され始めました。

その後、ゼンネルワイスが主張した手洗いの重要性が科学的にも認められていったことは言うまでもありません。

1918年春・・・第1次世界大戦のさ中のヨーロッパ戦線で、人類にとって新たな感染症となる脅威が発生し始めていました。
それは、スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザでした。
戦場では、狭い塹壕に無数の兵士が長い間ひしめき合っていました。
そこで、敵も味方も関係なく、インフルエンザは一気に広がりました。
さらに、兵士たちの移動により、わずか4か月で世界中に拡散!!

しかし、感染症の原因である病原体を突き止め、有効な対策を打つことを学んだ人類は、感染の封じ込めに自信を持っていました。
それが、ワクチン開発によるインフルエンザの封じ込めです。
学者たちは、インフルエンザの患者から、原因と思われる細菌を発見!!
この細菌をもとにワクチンが作られ、人々への接種が積極的に行われました。
ところが・・・ワクチンは、思ったような効果を発揮せず、インフルエンザの猛威は止まりませんでした。

それも当然・・・インフルエンザの原因は、19世紀に確認された最近ではなく、それよりはるかに小さい見えない恐怖・・・人類にとって見えない恐怖のウィルスだったのです。

そのさ中、アメリカ・西海岸のサンフランシスコ・・・1918年9月に最初のインフルエンザ患者が発見されるや感染拡大の兆しを見せていました。
このサンフランシスコの危機に立ち向かったのが、サンフランシスコ市保健委員会委員長のウィリアム・ハスラーです。
ハスラーは、ワクチン接種を推進する一方、他にも対策を講じていきます。
人の接触を減らす
娯楽施設、人が集まりそうな場所、学校、教会での礼拝・・・閉鎖措置をとります。
そして一般市民にはなじみのなかった衣料用マスク!!
10月18日、マスク着用義務化を訴えます。

「公共の場に行く人、そして食料品や衣料品などを扱う職業に従事する者には、マスクの着用を義務付けるべきです」

市議会は、全会一致でマスク着用条例を採択!!
アメリカ初のマスク着用の義務化でした。

一方でハスラーは、新聞の一面広告で、市民の自発的心情に訴えかけます。

「マスクはあなただけではなく、あなたの子供や隣人の命を守るものです」

マスクで感染拡大を防ぐことは、アメリカ社会を守る事・・・ということは、マスクをすることは、遠くヨーロッパで第1次世界大戦を戦っているアメリカ兵の命を守る事・・・市民は、そう考えたのです。
すると街角には、マスクを買い求めると長蛇の列が・・・使命感と愛国心をくすぐられた市民は、マスク義務化が実施される前から市民の99.9%がマスクを着用していたといいます。

「これは、サンフランシスコ市民の持つ注目に値すべき知識レベルの高さと協調精神の証だ」

この結果、10月の第3週には8700人近くだった新規感染者は、次の週には7000人台に減少・・・11月に入ると、新規感染者は2桁にまで激減!!
11月21日、マスク着用条例を解除しました。
閉鎖措置が取られていた学校や娯楽施設も再開、サンフランシスコはインフルエンザに打ち勝ったのです。
ところが、喜びの裏で、大きな落とし穴が・・・
マスク条例が解除される10日前・・・11月11日、第1次世界大戦休戦!!
戦争終了の喜びとともに、前線の兵士のためという使命感から解放された人々は、一気に気が緩みました。
この頃行われたボクシングの試合には、マスクをしていない人が多い・・・まだマスク条例が解除されていないにもかかわらず・・・!!
感染者数の減少という目に見える数字だけを見て、目に見えず潜伏するウィルスの怖さを忘れてしまったのです。
悪い予感は的中し、11月21日、マスク条例を解除した直後から、感染者数が再び上昇を始めました。
12月7日、ハスラーは、マスク着用義務化の再実施を訴えます。

「もう一度市民にマスクを義務付けましょう
 感染拡大を防ぐ切り札はマスクです」

しかし、時にまさにクリスマスシーズンに突入・・・
経済界、市民も、マスクをするとクリスマスが台無しになってしまうと強く反対!!
ハスラーが提案したマスク再着用条例は市議会で否決されました。

戦争が終わったので、以前のように兵士たちをマスクをつけて守ろうという愛国的な目標が無くなってしまいました。
その上、戦争が始まって以来、初めての心から楽しめるホリデーシーズンを迎えていたのです。
市民は、
「インフルエンザに感染するかもしれないけど、それでもクリスマスを楽しみたい」
「もう、マスクなど目にしたくはない」という気持ちだったのです。

結果、サンフランシスコでのインフルエンザの死者は、3500人に上ることとなります。
その4割・・・1453人がマスク着条例解除後の死者でした。

そして、100年後の現在に至るまで、感染症・・・目に見えない恐怖は、人間から正しい判断を奪い、様々な悲劇をんでいます。
エイズやハンセン病への誤った認識、偏見は、感染者や家族への不幸な差別を生み出し、様々な人権侵害を引き起こしてきました。
見えないものに対する恐怖は、いつの時代、どの地域でも、人間の心の弱い部分を露にして更なる悲劇を生みだしかねないのです。

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