日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ウィリアム・アダムス

江戸時代に整備された五街道の起点・日本橋。
そのすぐそばに、按針通りと呼ばれる小さな通りがあります。
按針とは、中国船や西洋船の航海士のことで、かつてこの地に徳川家康に仕えた航海しの屋敷がありました。
航海士の名は、三浦按針・・・本来の名をウィリアム・アダムスという青い目のサムライです。

三浦按針の謎に迫る -家康を支えたイギリス人臣下の実像

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1564年、第5次川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が戦っていた頃。
後の三浦按針・・・ウィリアム・アダムスは、イギリス南東部ののどかな港町ジリンガムで生まれます。
高貴な生まれではなかったものの、イギリスの一般民衆の識字率が低かった当時においても、アダムスは読み書きを身につけていたことからそれなりの教育を受けていたと考えられています。
そして、12歳の時に、船大工に弟子入り。
厳しく仕事を叩きこまれ、24歳でようやく独り立ちしました。
しかし、その矢先、船大工の職をあっさりと捨てて英国海軍に入隊しました。
当時、小国イギリスに大国スペインが侵略して来るという情報が・・・
エリザベス女王の名で、英国海軍に協力する船と船員を募集しました。
アダムスは、航海術も学んでいたので、海軍に入ったのではないか?と言われています。
当時のイギリスは、スコットランドや北アイルランドとは連合していない人口300万ほどの小国でした。
一方、スペインは、ポルトガルを併合した世界最強の大帝国でした。
そんな両国が対立したのには、当時のヨーロッパの宗教問題が大きく関係していました。
共にキリスト教でありながら、ローマ教皇を中心とするカトリックと、そこから分離した改革派のプロテスタントが反目しあっていたのです。
その為、プロテスタント推進政策を掲げるエリザベス1世と、カトリック原理主義をとるスペイン国王・フェリペ2世が激しく対立。
大艦隊をもってイギリスに進攻しようとするスペイン軍に対し、アダムスは祖国を守ろうとエリザベス女王の呼びかけに応じて英国海軍に入隊したのです。
当時の海軍の名簿によれば、アダムスは前線に弾薬などを届ける貨物補給線リチャード・ダフィールド号の船長として参戦。
大激戦の末、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を退けて勝利を収めました。

しかし、英国海軍は、本隊を残して解散!!
止む無くアダムスは、イギリス~モロッコ間の貿易を行うバーバリ商会に就職します。
バーバリ商会にはもう一つの顔がありました。
それは、海賊です。
バーバリ商会がモロッコに向かう経路は、スペイン船やポルトガル船の主要航路と重なっていて、遭遇すれば船を襲って略奪行為を行うのが常となっていました。
そして、襲撃した船の積み荷の1/3が、船員に分配されました。
また、アダムスは、バーバリ商会に入社した翌年に結婚、1男1女をもうけています。
そんなアダムスが、どうして極東の日本に来ることとなったのでしょうか?

1597年、バーバリ商会は、モロッコ貿易の許可証が失効したことを理由に解散。
33歳になっていたアダムスは、再び職を失います。

「私のささやかな知識を活かす場所を見つけた」byアダムス

それが、オランダが開拓したアジア航路でした。

当時のヨーロッパの状況は、アジア貿易を行っていたのはスペインとポルトガルだけでした。
彼らは、アジアへの行路などを秘密にしていました。
しかし、イギリスと友好国であったオランダが、1595年にアジアへの進出に成功します。
そこで、オランダ人としてもアジアで貿易ができることが示されていました。
アダムスは、オランダが始めたアジア貿易で培った航海術を活かしたいと考えたのです。
1598年、オランダの貿易会社がアジア遠征を企画します。
アダムスはイギリスに妻子を残して、オランダ・ロッテルダムに渡ります。

1598年6月27日、オランダ・ロッテルダムを出航!!
大西洋を渡り、南米対立南端のマゼラン海峡を抜け、太平洋を渡ってアジアに来る予定でしたが、その航海は惨憺たる有様でした。
航海当初は風に恵まれて順調だったものの、まもなくビタミンC不足が原因とされる壊血病や熱病が船内で蔓延。
多くの船員が命を落とし、アダムスがのっていたホープ号の船長も病死。
すると、船員の配置換えで、アダムスはリーフデ号に移りました。
その後も苦難は続き、嵐も重なって船は一隻、また一隻と姿を消していきました。
最後の一隻となったリーフデ号は、それでも懸命に航海を続行。
出航からおよそ1年8カ月が過ぎた1600年3月16日に豊臣政権化にあった豊後国・白杵にたどり着きます。
長旅を耐え抜いた船員は、アダムスを含めてわずか24人。
みな、衰弱しきっていたため、臼杵の民衆が船の積み荷を盗もうと乗り込んできても何も抵抗できませんでした。
翌日には、臼杵の役人がやってきて、盗人を取り締まり、リーフデ号を検分。
すると、その報告を受けた臼杵城主・太田一吉は、首をかしげます。
貿易にやってきた商業船かと思いきや、リーフデ号には多くの大砲や武器が積み込まれていたのです。
太田は急いで、リーフデ号の報告書を作成します。
豊臣政権の長崎代官・寺沢広高に送付。
アダムスたちには処遇が決まるまでそのまま待機するよう命じました。
待機している間に3人の船員が衰弱死してしまいました。
残りの21人は、港近くの一軒家を逗留場所として与えられました。

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半世紀前に来日していたイエズス会士・・・カトリックの宣教師たちは、豊後の臼杵にオランダ船が来航したことを知ると、臼杵城に向かい城主の太田一吉にこう進言しました。

「あの船は海賊船です
 船員たちは即刻処刑すべきです」byイエズス会士

臼杵城下の民衆にも、「やってきたのは極悪な海賊だ」と、吹聴して回り、アダムスたちに敵意が向くように仕向けます。
さらに、日本でのイエズス会の活動を統括していたイエズス会司祭、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、長崎代官・寺沢広高に、

「来航した船は海賊船であり、船員たちはポルトガル人とすべてのキリスト教徒の敵である」と言いました。

この時代は、まさしく宗教戦争の時代でした。
イエズス会士はカトリック、アダムスたちはプロテスタントでした。
プロテスタントはイエズス会士たちから見れば異端者でした。
改宗か、滅ぼさなければならない相手でした。
また、日本でのポルトガルの貿易の一部がイエズス会の活動資金になっていました。
もし、貿易独占が破られてしまえば大きな痛手だったのです。
イエズス会士たちにとってアダムスたちは、異端者であり、イギリス船などの来日を牽制するためにも排除しなければならないと考えていました。

そうした状況の中、アダムスたちの処遇をゆだねられたのが長崎代官から報告を受けた徳川家康でした。
この時、家康は59歳。
まだ豊臣政権の五大老でした。
しかし、2年前の秀吉の死後、急速に勢力を拡大。
豊臣家の居城である大坂城に強引に入城し、秀頼を差し置いて政の実権を握っていました。
来日から9日が過ぎた3月25日、家康からの指示が伝えられます。

「主だった船員2人で大坂に来るように」

選ばれたのが、ウィリアム・アダムスとオランダの商人ヤン・ヨーステンでした。
こうしてアダムスとヨーステンは、大坂城へ!!
そして、3月30日、自分たちの置かれれている状況すらわからないまま家康と対面しました。

「大王の宮殿は金箔が贅沢に使われた、非常に豪華なものだった」byアダムス

家康は、イギリスとオランダという見知らぬ国からやってきた二人に対し、身振り手振りで意思の疎通を図ろうとします。
上手くいかなかったため、ポルトガル語なら少しはわかるのではないかと、ポルトガル語が話せる家臣を呼んで通訳させることにしました。
アダムスたちの国が戦をしているのかと尋ねます。

「スペインとポルトガルとはしています
 しかし、他の国とはみな平和に付き合っています
 
 貿易によって日本にはない商品を、イギリスからもたらし、イギリスにはない商品を日本で購入したいのです」

次々と投げかけられる家康の質問に、片言のポルトガル語で懸命に答えるアダムスたち・・・
質疑応答は、真夜中まで続いたと言われ、政務に忙しい家康がこれほどの時間を費やしたことにアダムスたちに対する興味の深さが伺えます。

しかし、得体のしれない外国人に対する警戒心を解いたわけではなく、謁見後は牢屋に入れられてしまいました。
再び家康に呼ばれたのは2日後でした。
この日も家康は、アダムスたちを朝から晩まで質問攻めにしました。

「二度目の尋問後も牢屋に入れられた
 二度目の牢屋は前回よりも快適だった」

生きて帰れるかもしれない・・・と期待したアダムスたちでしたが、それから1カ月以上もお呼びがかからず、外の情報も一切入りません。

「はりつけにされて死ぬのだと、毎日のように思っていた」

この間、イエズス会士たちは、家康に
「リーフデ号の船員たちを活かしておけば、家康さまや日本の不利益になる」と、処刑を訴え続けていました。

「今のところ、彼らは余ばかりか、我が国の誰にも危害を加えていない
 そのため彼らを処刑するのは道理や正義に反する」by家康

と、退けます。
関ケ原の戦いの3か月ほど前のことでした。
アダムスたちに3度目の呼び出しがかかったのは、それから間もなくのこと。
牢屋に入れられてから41日目でした。
家康はこれまで同様、様々な質問をし、謁見が終わりに近づくとアダムスたちに

「仲間に会いたいか?」

と、たずねました。
当然、アダムスはうなずきます。
すると家康は、アダムスたちを開放し、堺へ向かわせました。
この時、家康は、リーフデ号とその船員たちを堺に移動させていました。
アダムスたちが涙を流して再会を喜んだのは言うまでもありません。
さらに家康は、船内にあったアダムスたちの所持品が盗難によって無くなっていることを知ると、現在の8億円相当の金銭を与えました。

三浦按針 その生涯と時代

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家康がアダムスたちを手厚く労ったのは・・・??
日本の統治にアダムスたちが必要だったからです。
家康は、日本の対外貿易におけるポルトガルの独占を快く思っていませんでした。
貿易の自由競争による輸入価格の低下を狙っていました。
日本の国内産業が潤うように・・・!!

そこで、アダムスたちを仲介して、ポルトガル以外の国とも貿易を行おうとしたのです。
当時の家康の政治基盤はまだ脆いものでした。
そこで武器の供給が非常に重要となっていました。
現に、リーフデ号には武器がぎっしりと積まれていました。
武器の供給源になることも期待していたのです。
後に大坂の陣ではアダムスたちを通じて武器を手に入れています。

1600年6月16日、徳川家康は、天下取りのライバルになりかねない会津の上杉景勝を討つため、大坂城を後にしました。
これに伴い、ウイリアム・アダムスたちを乗せたリーフデ号も浦賀に移動。
リーフデ号に積まれていた武器を、会津で使うためだったと言われていますが、会津討伐は中止に・・・。
アダムスたちはそれから2年間、家康からの命令が下されずほったらかしにされてしまいます。
彼はその間、日本語を習得。
政局が落ち着くと、アダムスは再び家康から呼び出されるようになり・・・

「小型船を一隻作ってくれぬか」by家康

船大工をしていたのは昔のこと・・・
アダムスは、依頼を受けるべきか悩みます。
造船を請け負うこととなったアダムスは、伊豆の伊東へ。
海に面し、木材を調達しやすい山にも近い伊東は、古くから造船が盛んでした。
船大工も多く、造船技術の伝授が狙いでした。
完成したのは、80トンほどの西洋式帆船
伊東まで見学にやってきた家康は、たいそうご満悦で、アダムスを褒め称え、今後は側近となって常に側にいるように命じました。
以来、アダムスは、好奇心旺盛な家康に西洋の学問や技術を教えるブレーンとなりました。
その蜜月関係は、家康が生体将軍に任命され、江戸幕府を開いてからも変わらず、アダムスに厚い信頼を寄せていました。

新しい妻を娶り、家族を作ったアダムスでしたが、イギリスに残した妻子を忘れることはできませんでした。
来日から5年が過ぎたある日、家康に帰国を願い出ますが・・・家康は機嫌を損ねてしまいました。
その後、アダムスは、家康からもう一隻船を作ってほしいと依頼され、120tの洋式船を作ります。
日本の海岸線沿いを測量し、海図も作成しました。
すると家康は、アダムスを日本に引き止めるという意味も含めて異例ともいえる褒美・・・それは旗本という身分を与えました。
大小の刀と三浦半島の逸見・・・約250万石が所領として与えられました。
そして、この地名にちなんで、三浦按針と呼ばれるようになりました。
三浦半島の航海士という意味で、江戸・日本橋にも屋敷を与えられたアダムスは、いつでも登城できるようにそこで過ごすことが多かったといいます。
江戸を闊歩する青い目のサムライ・・・人の目を引いたことでしょう。

アダムスは、航海士などの経歴と幅広い知識から家康の外交顧問を務めるようになりました。
時にはその発言が、日本の命運を左右したことも・・・
1611年、来日したスペイン使節のセバスチャン・ビスカイノが本国の鉱山技術を提供すると申し出ると、家康はその申し出に対し、キリスト布教の許可と江戸湾測量の許可を出しました。
それを知ったアダムスは、家康に・・・

「スペイン人が江戸湾を測量する目的は、いずれ大艦隊を率いて侵略するためです
 私の母国であるイギリスならば、他国による海岸の測量は絶対に許しません」

そう止めても、

「今更断るのは面目が立たん、たとえ攻め込まれても、対抗する兵力は十分ある」

と納得しません。

「宣教師を送り込んで、その国の民衆をキリスト教に改宗させ、その後スペイン人がキリスト教徒と共謀して国を乗っ取るのが奴らの策略なのです」

アダムスは必死に訴えました。
これに心打たれた家康は、スペインとの外交に消極的となり、さらに、
1612年、家康が直轄地でのキリスト教禁止令を発布します。
この家康の決定には、アダムスの助言が大きくかかわっているといいます。
もしもアダムスが家康を諌めていなければ・・・南アメリカのインカ帝国のように日本もスペインの植民地となっていたかもしれません。
スペインとの外交には苦言を呈したアダムスでしたが、母国のイギリスにはアジア貿易の拠点・イギリス東インド会社に手紙を送り、日本との外交を働きかけました。
それが実を結んだのは、1613年。
徳川と豊臣の最終決戦・大坂の陣の前の年でした。
イギリス船・クローブ号が肥前国平戸に来航・・・日英貿易が始まったのです。

家康とウィリアム・アダムス

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アダムスは、イギリス船が来航したことによってイギリスに帰りたいという思いが再燃します。
そんな時、家康から呼び出しが・・・!!
決意を固めたアダムスは、所領を許された際の朱印状を差し出し、深々と頭を下げてこれまでの厚遇と感謝の意を述べ、所領をお返ししてイギリスに帰りたいという思いを伝えます。
すると家康は、
「貴殿のこれまでの行いと忠実な奉仕に鑑みると、その願いを拒否することは不当であろう」
と、帰国を認めました。

来日から13年目の1613年。
三浦按針ことウィリアム・アダムスは、徳川家康から帰国の許しを得たものの、結局本国イギリスに帰ることはありませんでした。
大きな要因だったと言われているのが、イギリス船クローブ号の総司令官を務めるジョン・セーリスとの不仲です。
イギリス使節でもあったセーリスは、家康との仲介役を務めるアダムスと共に過ごすことが多かったのですが、2人は馬が合わず、激しく口論が絶えませんでした。
その為、アダムスは、セーリスとの長旅は無理だと考え、

「もう少し現金を貯めてから帰国する」

そう言って、乗船を断わったのです。
アダムスは、日本では殿さまでしたが、イギリスでは一介の船乗りでした。
そしていつでも帰れるという安心感・・・。

日本にとどまったアダムスは、平戸に設立したイギリス商館で働きはじめ、琉球やシャムまで自ら足を運び貿易を行うようになります。
すると家康は、アダムスを呼び寄せてこう伝えます。

「航海などに出ず、我が国にとどまってくれぬか
 知行が不十分ならば加増しよう」

家康は、再びアダムスを手元に置きたいと考えていました。
しかし、新たな道を歩み始めていたアダムスは、丁重に辞退。
これが二人の最後の対面となりました。

大坂夏の陣で豊臣を滅ぼし、徳川政権を盤石なものにした家康が、1616年4月17日この世を去ったのです。
幕府の実権は、2代将軍秀忠が掌握・・・これがアダムスの運命を変えます。
秀忠は、家康の側近たちから距離をとり、独自の政治を始めました。
中でも違いが大きかったのが外交面でした。
家康がヨーロッパ諸国との貿易を奨励したのに対し、秀忠は、京都・大坂・堺で外国人が日本人に商品を売ることを禁止します。
それまで特に決まりのなかった外国人の居留地を、江戸から遠く離れた長崎と平戸に限定しました。
さらに、家康の朱印状があれば日本のどこでも入港が可能だったのに対し、秀忠は長崎と平戸に限定。

当然、アダムスは納得できず、幕府の高官に外交の重要性を訴えましたが、全く聞き入れてくれません。
秀忠とは会うこともままならず、ついには外交担当からも外されてしまいました。

失意のアダムスは、帰国の機会も得られないまま平戸で家康の死のわずか4年後・・・
1620年4月24日、ウィリアム・アダムス死去・・・青い目のサムライ・・・56歳でした。
アダムスの遺産は、現在の価値で4000万円ほどでした。
その半分をイギリスの妻子に、残りの半分を日本の子供たちに与えると遺言に残していました。

そしてこれ以降、日本は鎖国に突き進み、アダムスが開いたイギリスとの国交も閉ざされてしまいます。
家康との運命的な出会いを果たし、故郷から遠く離れた日本でサムライとなったウィリアム・アダムス。
その人生は、時代の荒波に翻弄された数奇なものでした。

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感想(887件)



静岡県伊東市・・・日本初の洋式帆船サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号の模型があります。
およそ400年前、この船を造り、貿易を夢見た男は・・・徳川家康です。
ヨーロッパの国々が押し寄せた大航海時代、家康は世界を股にかけた国際外交を推し進めました。
それは、開いたばかりの江戸幕府を盤石なものにするための一大事業でもありました。

当時、国内には外国商人たちと共にキリスト教宣教師たちも数多くいました。
家康は、彼らが各地で布教することを許し、キリスト教が広がることも黙認していました。
さらに、イギリス人のウィリアム・アダムスを外交顧問に抜擢。
そのネットワークを利用して最新の世界情勢まで手に入れていました。
ところが・・・
家康は、突如として禁教令を発し、キリスト教教会を破壊、日本で布教を進めていた宣教師たちを北外追放としました。
世界に開かれた国を目指していた家康・・・いったい何があったのでしょうか?

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鎖国時代にあったといわれる江戸時代、当初家康はどのような国の形を描いていたのでしょうか??
16世紀、世界は大きなうねりの中にありました。
大航海時代の始まりです。
ヨーロッパ各国は、莫大な富と市場を求めて海外に進出しました。
それはまず、スペインとポルトガルという二大強国の世界侵略から始まりました。
両国は競うように勢力範囲を広げていき、ヨーロッパから遠く離れたアジアでぶつかり合います。

1529年、争いを避けるためにある取り決めをします。
アジアに線を引き、世界を二分したのです。
線から東はスペイン、西はポルトガルの勢力範囲となりました。
その線が、モルッカ諸島の東側144度30分のところです。
そこに南北のラインを引っ張りました。
そのラインの北の方に日本がありました。
日本はどちら??両国が争います。
かつてマルコポーロが財宝に溢れた黄金の国ジパングとして紹介した日本。
ヨーロッパ人たちが、特に目をつけたのは銀でした。
中国地方の石見銀山など、世界有数の銀行山があったからです。
銀は当時、世界貿易における国際通貨のような役割を果たしていました。
しかも、日本の銀は良質で、産出量は一時世界の1/3にも達したと言われています。
世界史の激動が、まさに日本を飲み込もうとしていました。

その頃日本では、戦国大名たちが覇を競い、各地でし烈な戦いを繰り広げていました。
そこに登場したのが、ヨーロッパからもたらされた鉄砲でした。
鉄砲は、日本の戦に革命をもたらしていきます。
戦国大名たちは、先を争って鉄砲を手に入れました。
その鉄砲を持ち込んだのがポルトガル人でした。
そしてもうひとつ、日本に影響を与えたものが、キリスト教です。
伴天連と呼ばれた宣教師たちによる布教が各地で進められていきます。
その中心となったのが、イエズス会です。
キリスト教カトリック教会の男子修道会。
教皇の精鋭部隊ともいわれた一団で、彼らの目標は世界にキリスト教を広めること。
そのための手段は選びませんでした。
イエズス会の宣教師は、スペイン、ポルトガルの先兵として世界各地に送りこまれました。
そして、先住民にキリスト教を布教し、時に侵略の手助けをしていきました。
しかし、16世紀後半、この両国の覇権を脅かす国々が現れます。
オランダとイギリスです。
新旧二つの勢力は、宗教的にも対立していました。
スペイン・ポルトガルがカトリック、イギリス・オランダはプロテスタント。
当時、ヨーロッパのキリスト教国はカトリックとプロテスタントに分かれて戦争が繰り返されていました。
1568年、長くスペインの支配を受けていたオランダが独立戦争を開始。
さらに、1588年、イギリスがスペインの無敵艦隊を撃破。
世界は新たな時代を迎えようとしていました。
その頃、日本でも長かった戦国時代が終わろうとしていました。
天下人として君臨した豊臣秀吉の死、そのあと天下の実権を握ったのが徳川家康でした。
家康は、激動する世界を相手に、独自の外交政策を打ち出していきます。
東アジアでは、文禄・慶長の役の後始末が大きな課題でした。
豊臣秀吉は、中国・明の征服を目指し、朝鮮への侵略戦争を行いました。
その結果、明国や朝鮮との国交が断絶してしまっていました。
家康は、両国との貿易を復活させるため、関係修復に努めます。
その一方、スペインやポルトガルとの南蛮貿易にも積極的にかかわろうとしました。
当時、松浦、大村、鍋島、有馬、島津など、主に西国大名が南蛮貿易を独占していました。
そこで家康は、独自の貿易を求め、フィリピン・マニラに使者を送っています。
当時スペイン領だったマニラと、江戸湾の入り口浦賀。
さらに、スペイン領メキシコを結ぶ壮大な貿易ルートを開拓するためでした。
家康が宣教師を通じて、フィリピンのスペイン総督に送った親書にはこう記されています。

”マニラのスペイン人が、毎年江戸湾浦賀に来航し貿易をすればよい
 日本人も、メキシコに赴いて通商をしたい
 その抗かいようの帆船を作るために、造船技師や職人を派遣してほしい”

アダムスと家康

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1600年9月、関ケ原の戦いに勝利し、敵対勢力を一掃した家康。
その10日後、家康は、破れた毛利氏から日本最大の銀山・石見銀山を取り上げます。
その豊富な銀を背景に、さらに積極的な外交を進めていきます。

家康は、江戸幕府を開くと東南アジアにも目を向けました。
タイ、カンボジア、ベトナムなどと、朱印船貿易を開始。
まさに、家康の全方位外交でした。

関ケ原の戦いの5か月前・・・豊後・臼杵領内に浮かぶ黒島・・・
その沖合に一隻の西洋帆船が漂着しました。
オランダ船籍のリーフデ号。
そこに一人の男が乗船していました。
名は、ウィリアム・アダムス、世界一周航路の探索の途上、日本に漂着したイギリス人航海士です。
すぐに家康はアダムスを大坂城に呼び出しました。
直々に尋問するためです。

アダムスが妻に宛てた手紙によると・・・

”家康は自分をじっくり見つめた
 予想に反して、家康は非常に有効的な態度を取った”

家康はアダムスに尋ねます。

「どの国から来たのか?
 そして、こんな遠い日本に何故来たのか?」by家康

「我が国は、長い間アジアへ渡航する方法を模索していました
 貿易を通じて、アジアのすべての君主と友好関係を築くことを望んでいます」byアダムス

家康は、アダムスから、イギリスがポルトガル、スペインと敵対関係にあることや、アダムスたちの宗教、さらにはリーフデ号の公開など、色々なことを聞きだします。
尋問は深夜にまで及んだといいます。

家康は、一貫して宗教抜きで貿易を活性化したいと思っていました。
スペインとの文通の中でも

「貿易もいいがキリスト教の布教を許してください」byスペイン国王

「日本は神の国であり、仏の国でもある
 宗教抜きで貿易をしに来てほしい」by家康

そこにアダムスが現れて、
「そういう宗教観は全くなく、我々は日本に貿易に来た
 日本にとってもウィン・ウィンのシチュエーションでお互い豊かになるように商売をしたい」byアダムス

家康としては非常に魅力的な話でした。

静岡県伊東市に、サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号の復元模型があります。
実物の全長は35m、乗組員は80人から90人、日本初の洋式帆船として伝えられています。
家康の命を受けたアダムスが伊東で造船した船でした。
家康も、外洋船・・・強固な船を造りたいと考えていました。
和船では外洋に出られない・・・貿易にも使える、外洋にも出られるということで、アダムスに船を作らせました。
アダムスは、この船で畿内から江戸までを航海、沿岸に沿って測量も行いました。
この船を造った功績により、アダムスは家康から三浦半島に領地を与えられます。
さらに、旗本に取り立てられ、三浦按針と名乗るようになります。
一方、家康は新たな貿易パートナーを探していました。
当時の南蛮貿易で、鉄砲などの武器や銃弾の他に、輸入品の中で大きく占めていたのが中国産の生糸でした。
高級絹織物の原料として珍重されていました。
ところがその貿易は、ポルトガルとイエズス会にほぼ独占されていました。
その為、価格が高騰することもありました。
新しい貿易相手が加われば、彼らの間で自由競争となり、生糸の価格が抑えられる・・・
そうなれば、日本が潤うこととなる・・・!!と、家康は考えていました。

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そこで目をつけたのが、ポルトガルと敵対していたオランダでした。
オランダは、1602年に東インド会社を設立。
貿易で世界を席巻しようと各地へ船団を送っていました。
アジアでは、タイ南部に拠点を作り、そこを足掛かりにそれまでのポルトガルに代わりアジア貿易への影響力を拡大しつつありました。
家康は、オランダ人と同じプロテスタントだったアダムスを仲介役に起用、オランダとの交渉にあたらせました。
その結果、1609年7月、駿府城にオランダ使節団を招きます。
ところが、そこに妨害が入りました。
イエズス会です。
イエズス会の宣教師は、家康にこう進言しました。

「オランダ人は”反逆者”であり”海賊”であり、日本にとって重要な貿易を破壊するものである」

しかし、家康は、イエズス会の訴えを退けます。
家康は、オランダに朱印状を授けます。

オランダ船が日本へ渡航して来る時には、どこの港に着岸しても良い!!

早速オランダは、平戸に商館を設立します。
倉庫には、中国産生糸をはじめ、鉛、胡椒、象牙などが保管されていたといいます。
家康は、日本を世界に開いていきました。

家康は、将軍職を秀忠に譲ったのち、1607年以降、駿府を拠点に様々な外交政策を打ち出していきました。
1610年、家康は念願のスペイン領メキシコとの貿易のために行動を起こします。
サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号をメキシコに向けて出航させ、スペイン国王に親書を送ったのです。
そして、1611年5月、親書の返事を携えたスペイン王国の大使ビスカイノが家康に謁見。

登城の時、ビスカイノは日本の風習を無視し、スペインの流儀で城に向かいます。
ビスカイノは、当地駿河に約40人の従士を連れ、スペイン国王の紋章のある旗を掲げて到着しました。
全ての道において、マスケット銃及びトランペットを鳴り響かせました。
アダムスも控える中、謁見が始まりました。
ビスカイノにとって貿易の条件として日本でのキリスト教布教の許可は欠かせないものでした。
その上で、去らなく交換条件を突き付けます。

「オランダ人に、日本での交易を禁じ、以後、永久に許可しないこと」byビスカイノ

それまで黙っていた家康は、あざ笑うかのように・・・

「日本の国は、全ての異国にとって自由であり、皆に開かれている
 これについては、全ての他の国と同様、オランダ人を優遇するつもりである
 そして、オランダの王子が他国との戦争をしていても、私には関係がない」by家康

最後にビスカイノはあることを家康に願い出ます。

「江戸湾の測量をしたい」byビスカイノ

すると家康は、理由も聞かずにそれを許します。
これにアダムスは黙っていませんでした。
全てはスペインの策略であると家康に詰め寄ります。
スペイン側に残された資料によると、アダムスはこう進言した・・・

「江戸湾測量の目的は、大艦隊による軍事侵略の準備であります
 スペインはまず、宣教師を送り込み、国民をキリスト教に改宗せしめ、その後、彼等を使い共謀してその国を征服、スペイン王国の領土としていく・・・
 それが、スペインの常套手段なのです」byアダムス

その8か月後、ある事件が起きました。
1612年2月、西国大名の有馬晴信がかつての領地を取り戻すべく家康側近の家臣・岡本大八におよそ6000両の賄賂を送ったことが発覚したのです。
はじめは岡本の処刑と有馬の切腹で一件落着のはずでした。
しかし・・・思わぬ事実が・・・
実は、両者はキリシタンでした。
さらに周囲を調べていくと、なんと駿府城の中にまでキリシタンが大勢いたことが判明しました。
アダムスの言葉が現実となってきていました。

キリスト教を黙認するか??
排除するのか・・・??

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1612年3月21日、岡本大八は、駿府市中引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処せられました。
同じ日、家康は江戸、京都、駿府をはじめとする幕府直轄地に対して、教会の破壊と布教の禁止を命じました。
キリシタン禁教令です。
その2年後、禁教令は全国に広げられました。
宣教師や改修いないキリシタンは、マカオやマニラに次々と追放されていきました。
家康は、キリスト教の排除を選択したのです。
それは、布教と貿易を一体と見なしていたカトリック教会の排除に他なりませんでした。
スペインは、その後、日本との新たな貿易は実現是ず、ポルトガルは商人だけが行き来を許されました。
一方、オランダ、イギリス、東南アジアなどキリスト布教とは関係のない国々とはそれまで通り貿易が続けられました。
1616年4月17日、徳川家康死去。
享年75歳。
それからほどなくして、幕府の外交方針を大きく変えることが起きます。
8月、2代将軍秀忠が、それまで日本中どこにでも港に入れた外国船を、中国船以外は平戸・長崎だけに限定する二港制限令を打ち出したのです。
それは、幕府が貿易を独占するということでした。
それまでは、戦国大名は思い思いに南蛮貿易をしていました。
幕府としては、大名による個別の貿易は制限して、どうやって幕府が一手に貿易を独占していくかが外交戦略として必要になってきます。
平戸と長崎の二港は、幕府の直轄地になっているので、そこだけに来航を許す・・・
他の大名領に寄港してはならない!!

幕府は海外貿易の統制をゆるめませんでした。
秀忠以降、3代家光へとさらにその厳しさは増していきます。
キリスト教に対する弾圧も強化され、1622年、凄惨な事件が起きます。
幕府は、宣教師と信徒、そして彼等を匿っていた者たち55人を長崎西坂で処刑・・・元和の大殉教です。
こうして1641年、ヨーロッパとの貿易を長崎・出島のオランダ商館だけに制限する鎖国体制が完成しました。
家康の開国への夢は、ここに幕を閉じたのです。

一方、ウィリアム・アダムスは、幕府の外交方針に翻弄され、その運命に翳りが訪れていました。
二港制限令の撤回を求めて奔走しましたが、秀忠に会うこともかないませんでした。
アダムスはこう書き残しています。

「全てのことが、あまりにも大きく変わってしまった」byアダムス

やがてアダムスは、平戸で波乱に満ちた55年の生涯を閉じたのでした。

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感想(1件)

懐かしいです。「その時歴史が動いた」です。

1600年9月15日・・・関ヶ原の合戦で・・・
豊臣・徳川が16万の軍勢で戦いました。
天下分け目の戦いです。
東軍の総大将は徳川家康、西軍は石田三成。
東軍7万五千、西軍8万2千の戦いでした。
不利だった陣形の東軍が、どうして勝てたのでしょうか?

その勝利の秘密は、合戦から半年前の・・・外国船の漂着にありました。
その積み荷は・・・西洋の武器が!!!
その中で、家康が最も重要視したのが西洋式甲冑でした。

鉄砲の弾を跳ね返す!!!

それを改良した南蛮甲冑で戦いました。

当時最強の甲冑だったのです。
家康、最前線へ!!!
動揺した西軍・・・家康の大勝利となりました。
鉄砲の弾をも跳ね返す南蛮甲冑とは???

大分県臼杵市黒島1600年3月・・・オランダ船・リーフデ号が漂着しました。
この船が日本の歴史を大きく変えました。

航海の途中暴風雨で日本に漂着したのです。
その頃、実権を握って大坂城にいた家康は・・・大坂・堺で積み荷を調べました。
織物・ガラス玉・・・そして武器弾薬。。。小銃50丁大砲19門、砲弾5000発、火薬2500㎏・・・そしてその中に見たこともない西洋製甲冑がありました。

その船に乗っていたのはウィリアム・アダムス(三浦按針)。。。
アダムスは、銃撃戦で身を守る道具だと教えました。
日本の甲冑は・・・小さな金属の板を組み合わせて作っていました。
だから、板の間に弾がめり込んでしまうのです。
しかし、西洋甲冑は分厚い鉄板1枚で・・・鉄砲の弾を弾き返しました。

密かにこの甲冑を江戸に運びます。

1600

関ヶ原の戦いは、当時でも類を見ないほどの銃撃戦でした。
日本は様々な銃が開発される銃大国となっていたのです。
そして・・・日本の甲冑と西洋甲冑のいいところを取り入れた甲冑を作ります。

起伏の多い日本に良いように改造されていました。
まさに、秘密兵器だったのです。

当時はまだ防御することに引け目を感じていました。
”守る”という価値を見出したのです。

7月2日家康は大坂から江戸へ・・・
会津に上杉景勝謀反の疑いで討伐に向かったのです。
1月17日家康を快く思わない人たちが、大坂城で挙兵します。

その中心が石田三成でした。
9万5千の兵を集めます。

上杉景勝の挙兵も実は三成の罠・・・家康を挟み撃ちにしようとしたのでした。
7月24日小山のあたりで三成の挙兵を知ります。

引返し三成と???
しかし、この時家康と一緒にいた兵のうち家康直属は3千。
残りの5万5千は豊臣系の武士でした。
家康ピンチ!!!
7月25日小山軍議が行われます。

以外にも・・・家康に従います。
家康は黒田長政に南蛮甲冑を与えています。
それは、家康につくように豊臣系の武将を説得したことへの見返りだったのです。

福島正則、加藤嘉明・・・家康は、豊臣政権の中枢を担う人物を説得していきます。
こうして家康軍は、3千から5万8千となったのです。

8月10日三成は大垣城へ・・・
その兵力は8万2千。ここを西軍の前線基地としました。
8月24日東軍の福島正則、黒田長政ら大垣城近くの赤坂に布陣。
総大将家康の到着を待っています・・・。

その頃、家康は江戸城で戦略を練っていました。
9月1日極秘に出発。。。三成の虚をつくために・・・。
そして、9月14日正午赤坂に到着!!!
突然翻った葵の紋に、三成は浮足立ちました。

家康はこの西軍の動揺に・・・大坂城へ登ると偽情報も流します。
きっと三成は大垣城から出てくるに違いない!!!

夜7時三成率いる西軍は大垣城を出ました。
関ケ原で待ち受けて・・・戦う準備を始めます。
そして家康も、秘策・・・南蛮甲冑をつけて7万5千の兵で、夜中に出発します。
西軍は8万2千の兵で陣取った場所から家康を見下ろしていました。
山から見下ろされる場所・・・平野に陣を敷くことになった家康・・・。

9月15日8時・・・
天下分け目の関ケ原の合戦が始まりました。
火ぶたを切ったのは井伊直政。
福島正則も突進します。黒田長政、加藤嘉明・・・家康から南蛮甲冑を貰ったメンバーが躍り出ます。
しかし・・・一進一退。。。
東軍は劣勢になっていきます。
桃配山の陣から見ていた家康は・・・
松尾山に陣取っていた小早川秀秋に苛立っていました。
合戦が始まると同時に寝返るという話だったのに・・・!!!

午前11時・・・。
家康は決断しました。
桃配山から最前線へ!!
南蛮甲冑に身を包んだ家康が叱咤激励をします。
黒田長政隊が前線を突破!!!
さらに小早川秀秋は・・・三成に裏切りの意思を固めたのです。
西軍の陣へ攻め込みます。

小早川の裏切りに、西軍の包囲網は崩壊してしまいました。
午後3時東軍勝利!!!
開戦から7時間のことでした。

16601

和歌山県立博物館に家康が来たとされるものがおさめられています。
弾のあとが残っています。
試し撃ちをして戦いに臨んだようです。

この甲冑によって天下を手中にし、徳川260年を築いたのです。





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