江戸時代の歴史の常識は・・・??
江戸幕府は三代将軍家光の頃に海外からの往来や通商を制限し、日本人の海外渡航と帰国を禁じました。
さらに、通商を許していたオランダとの貿易さえも、長崎の出島に限ったため、ここに鎖国が完成したといわれてきました。
実際は長崎の出島だけではなく、幕府の統制下で開かれた4つの窓口がありました。
①長崎・・・オランダ・明・清
②対馬・・・朝鮮
③薩摩・・・琉球
④松前・・・アイヌ
この4つの港で、日本は外国と貿易をしていたのです。
カトリック強国でないオランダ、中国、朝鮮、東南アジア諸国とは禁止していませんでした。
いわゆる鎖国言葉自体、家光の頃にはありませんでした。
鎖国という言葉はいつ生まれたのか・・・??
江戸時代の蘭学者・志筑忠雄の書いた「鎖国論」です。
鎖国論は、1801年に蘭学者・志筑忠雄によって書かれたもので、江戸時代後期に書かれたこの本で、鎖国という言葉が使われました。
1712年にドイツで出版されたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが書いた「廻国奇観」が元になっていて、出島にあったオランダ商館医師だったエンゲルベルト・ケンペルがペルシャを中心とするアジア諸国を巡った際の報告書です。
その14章に・・・
”最良の見識によって自国民の出国及び外国人の入国・交易を禁じ、国を閉ざしている日本王国”と紹介されています。
これがオランダ語に訳され「日本誌」に・・・日本に入ってくると、志筑が自分の意見を踏まえ、”日本人が全国を鎖して”と翻訳、「鎖国論」としました。
つまり、鎖国は、江戸時代後期にドイツの書籍の翻訳から生まれた言葉だったのです。
その後、鎖国という概念は、幕末にやってきた外国の使節を追い返すために利用され、開国の対語として使われるようになった=江戸時代の外交と、定着してしまったのです。


江戸時代の身分制度である士農工商・・・
①武士・・・支配階級
②農民・・・幕藩体制の財政基盤となる米を作る
③職人・・・大工など
④商人・・・不浄なものとされた銭を扱う
厳格な身分制度です。
しかし、近年では士農工商は、身分制度ではなかったといわれています。

現在の教科書に書かれている身分は三つ・・・武士、町人、百姓です。
武士は侍たち特権階級のことですが、町人と百姓は、住んでいるところによって呼び方が振り分けられていただけで、町に暮らしていれば町人、村に暮らしていれば百姓といった感じです。

百姓には農業だけでなく、漁業や林業の者も含まれていました。
百姓=”百せい”で、いろんな名字を持つ人という意味です。
その名字を持っていたものの大半が百姓だったので百姓=農民となりました。

武士、町人、百姓の身分関係は・・・町人は百姓と同等でした。
武士の身分は特権を持ち格差はありましたが、そこまで厳格ではありませんでした。
大名行列の際・・・人々は土下座をして通り過ぎるまで待つ??といわれますが、将軍や徳川御三家を除けば、庶民も顔をあげて見物のぞき見などもすることができました。

士農工商とは何だったのでしょうか?
その語源は、中国の「漢書」で、”士農工商四民有業”とあります。
本来は身分の違いを現したものではなく、民衆全体を指すものでした。
明治時代・・・江戸時代を厳しい身分制度があった悪しき時代とするために、政府は江戸時代に重んじられていた儒教の思想が階級社会と結びつきやすいと考え、士農工商を身分制度の言葉へと捻じ曲げてしまったのです。

士・・・古代中国の儒学では、何かを成し遂げる能力のある人という意味です。
日本では、武士に置き換えていました。
農・・・生活に欠かせない米を作る農民
と、観念をあてはめやすかったのです。
明治政府は士農工商を明治時代の身分制度に仕立て上げるとともに、四民平等を掲げることで新しい時代はいい時代だと強調したのです。

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