皇妃エリザベートをめぐる旅 ドイツ・オーストリア・ハンガリー シシィの足跡をたずねて [ 沖島 博美 ]

価格:1,728円
(2019/1/23 21:39時点)
感想(0件)

時代を超え語り継がれた女たちがいます。
悪女・・・美貌と策略、野望と執念、歴史をも動かした女たち・・・。
美への執着と浪費・・・皇妃・エリザベート。

19世紀の終わり・・・ウィーンの森・・・ここに豪華な別荘が建てられました。
オーストリア皇帝が一人の女性のために作らせたものです。
その名はエリザベート(1837~1898)。
歴代の皇帝を輩出した名門・ハプスブルク家に妃として迎えられ、宮廷一の美貌を誇りました。
しかし、1898年、エリザベートは旅先で暗殺されます。
そして彼女は悲劇のヒロインとして語り継がれていきました。

ウィーンの王宮を抜け出しては贅沢な豪華な旅をしました。
専用列車や船でイタリアやギリシャを回り、お気に入りの場所に別荘を建てました。
旅はしばしば半年を超えました。
国の威信をかけた行事にも出席せず、王宮はその対応に追われました。
多くのお供を連れての旅・・・
金に糸目をつけずにエリザベートが旅をしていた頃、オーストリア帝国は様々な問題に直面していました。
1848年ウィーン蜂起
1859年ソルフェリーノの戦い
各地で独立運動が激化・・・!!
鎮圧するための戦費が莫大に・・・!!
度重なる凶作で、多くの国民が飢餓に苦しんでいました。
エリザベートの桁外れの浪費ぶりに宮廷内部からも批判が・・・

「これほど社会全体が辛苦に耐えている時に、どうして旅行のことなどを考えられるのか?!」
「なぜ周囲はそれを許しているのか理解できない。
 旅行費用50万グルデンを分配すれば、どれほどの飢餓が癒された事か?
 涙を流したい気分だ」

そんな声を余所に、エリザベートは帝国の中枢ホーフブルク宮殿に意外なものを持ち込んでいました。
体操用具です。
エリザベートは、出産で緩んだ体を元に戻すことに執念を燃やしていました。
若さと美しさへの執着・・・

毎晩仔牛の生肉で美顔パック、しなやかな肌を保つための高価なオリーブオイル風呂・・・
ある時、オリーブオイル風呂が高温となり危うく恐ろしい死に見舞われるところでした。
宮廷の厨房では、肉絞り器・・・美容のために肉を食べなかったエリザベートは、仔牛のモモ肉から絞り出した肉汁を飲んでいました。

エリザベートの私生活の暴露本には・・・
この本は、エリザベートの死後、15年経って出版されました。
当時でも衝撃的な内容で、オーストリアでは出版されず、アメリカでしか出版されませんでした。

”あの方は、まるで気京都が偶像を拝むみたいに御自分の美しさを崇拝し、そのまえに跪いていらっしゃいました。
御自分の身体が完璧なのを眺めては、美的喜びを味わっていたのです。
人生の課題は若さを保つことだというお考えで、美しさを維持するための最良の方策を求めることに意識のすべてを傾けられていました。”

エリザベートは、身長172cm、体重50kg、ウエスト50cmを生涯キープしたと言われています。

帝国を混乱に陥れたエリザベート、悪女にしたのはゾフィー大公妃かもしれません。
ゾフィーは、皇帝フランツ・ヨーゼフの母で、エリザベートの姑でした。
二人の軋轢は、結婚する前から始まっていました。
舞台となったのは温泉保養地として知られるバート・イシュル。
皇帝フランツ・ヨーゼフの避暑地でもあります。
1853年夏、フランツはここでバイエルンの貴族の娘・ヘレネと見合いをします。
ところが、フランツが見初めたのはその妹・エリザベートでした。
一目惚れだったのです。
ヘレネを見合い相手に選んだゾフィーは顔を潰されたのです。
母に背くことのなかった息子の反抗でした。
これは、ゾフィーとエリザベートの長い戦いの始まりとなりました。

1854年4月24日、フランツとエリザベートの盛大な結婚式が行われました。
結婚を祝福してオーストリア国家にある歌詞が加わりました。
”皇帝の傍らには 考えまでもが一心同体の皇妃
 その豊かな魅力は衰えることを知らない
 我等が美しい皇妃
 誉れ高き幸運が天から彼に降り注ぐ
 フランツ・ヨーゼフ万歳 エリザベート万歳
 ハプスブルク家に恵あれ”

帝国の后とったエリザベート・・・1837年12月24日南ドイツの名門貴族ヴィッテルズバッハ家に生まれました。
貴族の権力争いに嫌気がさした父・マクシミリアンは、一家を連れて、宮殿を離れ田舎で過ごしました。
狩りや旅を楽しみ、詩を書き、楽器を演奏した父・・・エリザベートも芸術を愛し、豊かな自然の中で伸び伸びと育ちました。
しかし、后妃となった彼女を待っていたのは、大公妃ゾフィーが司る息苦しい生活でした。
ハプスブルク家の外交儀礼では、后妃への挨拶は手の甲への口づけとされていました。
誰であれ、后妃に話しかけることはできませんでした。
エリザベートは、このルールを破ってしまいます。
バイエルンの従姉たちが訪ねてきたとき、手の甲への挨拶を受けることを忘れて抱きしめてしまいました。
すると・・・叱られてしまいました。
皇帝の母として威厳を守ろうとする大公妃ゾフィー・・・
宮廷の生活は、ゾフィーの目にかなったもので飾られていました。
エリザベートが大切にしていたものは素朴なモノが好きだったのです。

ハプスブルク家の領地だったハンガリーでは、当時独立の機運が高まっていました。
エリザベートは、父親が独立運動に理解を示していたことから、子供のころからハンガリーの言葉や歴史に親しんでいました。
ここにもゾフィーとの火種がありました。
ゾフィーは、ハンガリーの独立はオーストリア帝国の解体につながる危機と考えていました。
二人の対立には国と一族の命運がかかっていました。

1854年エリザベートは初めての子を身籠ります。
心を許すことのできるものの好きない王宮で、彼女は故郷から連れてきたお気に入りのオウム・・・
ゾフィーが動物と似た子が生まれると困るからとどこかにやるように言われてしまいます。
1855年エリザベートは長女を、よく年には次女を授かります。
ゾフィーはハプスブルク家の伝統にのっとり自分の女官に育てさせます。
ゾフィーの許しなしには子供にも会うこともできません。

皇帝フランツのハンガリー訪問が計画され、フランツは独立運動を鎮静する為にハンガリーで人気のあったエリザベートを共に連れて行きます。
エリザベートは、子供を一緒に連れていきたいと望みます。
が、ゾフィーは反対!!
ハプスブルク家の維新を見せつけることに子供は必要ない!!
ゾフィーの反対を押し切って、二人の子供を連れて旅立ちます。
が、思わぬ悲劇が・・・長女が発熱と下痢を繰り返し、亡くなってしまいました。
その後生まれた長男も、ゾフィーに取り上げられてしまいました。
やがてエリザベートは、体調が悪いと部屋に閉じこもりがちに・・・
皇妃の務めもあれこれと理由をつけて断ります。
1860年10月、22歳のエリザベートは、医師の勧めでポルトガルのマデイラ島で療養することに。。。
遠ざかっていく国・・・王宮、家族・・・エリザベートの長い旅の始まりでした。

穏やかな潮風に包まれた療養生活は2年に及びました。
立ち直り始めたエリザベート・・・
その頃、ウィーンの王宮で苦しんでいる少年は・・・ゾフィーに育てられていた息子・・・皇太子ルドルフ!!
病気がちな体を強くするため、厳しい軍隊式の教育を受けていました。
寝ている耳元で空砲を撃たれたり、いきなり冷水を浴びせられたり、立っていることができなくなるまで走らされたり・・・これを知ったエリザベートは、遂に立ち上がります。
朝5時に6歳の子供を銃声で起こすような・・・軍人の教官をやめさせようとしました。
政治的にリベラルな教師を集め、近代的な教育をしようとしました。
これが受け入れられなければ宮廷には戻らないと宣言します。
その訴えのおかげで、ルドルフはゾフィーのもとを離れます。

しかしその後も、エリザベートは王宮には戻らず、各地の別荘で過ごします。
その一つが夏の避暑地・・・バート・イシュル。今でもハプスブルク家の末裔が暮らしています。

エリザベートが情熱を注いだのが・・・馬。
エリザベートは乗馬が好きでした。
たくさんの名馬を飼い、気に入った馬を絵に書かせました。
少女時代から打ち込んできた乗馬・・・それが、エリザベートとハンガリーを結びつけることに・・・。
騎馬民族を祖先に持つことを誇りに思っていたハンガリーの人々・・・馬を愛する彼らと心を通わせながら国の将来を語りあっていく・・・
その頃、独立運動は大きな転換点を迎えていました。
新しい指導者アンドラーシが、自治権を獲得するためにハプスブルク家と和解する方針を打ち出しました。
エリザベートは皇帝に手紙を書き、アントラーシとの対話を促しました。

「あなたが彼を信頼されるなら、ハンガリーのみならず帝国全体をまだ救うことができると確信しました。
 とにもかくにも御自身であの方とお話になること、それも早急にです。」

1867年6月、ハンガリーは喜びに包まれました。
皇帝フランツとエリザベートのもと、悲願の自治権が認められ、ハンガリーはオーストリアと並ぶ立場となりました。
しかしそれは、ゾフィー大公妃にとってハプスブルク家の支配が揺らぐことを意味していました。
1872年5月、帝国の将来を憂いながら、ゾフィーは67年の生涯を閉じました。
皇帝はウィーン郊外に、エリザベートの新たな別荘を作りました。
彼女が好んだギリシャ神話にちなんで”ヘルメス ヴィラ”と名付けられました。
皇帝フランツの愛が詰まった贅沢な城・・・しかし、エリザベートの旅は終わりません。
ウィーンにいるのは1年で数週間にすぎませんでした。
フランツはエリザベートにたくさんの手紙を書いています。

”今年の春以来、一緒に過ごした日は数日とないが、君が自分の健康のために必要と思うなら、私は何も言うまい。”

皇帝の執務室には、エリザベートの肖像画がいつも飾られていました。

ウィーンの南の森にマイヤーリンクという王室ゆかりの館があります。
1889年1月、ここで悲劇が起きました。
皇太子ルドルフが男爵令嬢と心中したのです。
霊廟を訪れたエリザベート・・・ルドルフ・・・ルドルフ・・・ルドルフ・・・泣き叫ぶ声の大きさが、修道僧を驚かせました。

皇帝フランツは後にマイヤーリンクを修道院としました。
ルドルフが亡くなった場所に祭壇が置かれ、天井にハプスブルク家の守護聖人が描かれました。
礼拝堂のとなり。。。懺悔の部屋にエリザベートは嘆きのマリア像を納めました。
ルドルフの死後、エリザベートは喪服しか身に付けなくなりました。
さすらうその姿は、黒いカモメのようでした。
1898年9月、エリザべートはスイス・レマン湖のほとりにいました。
とつぜん男が襲い掛かり・・・それが長い旅の終わりとなりました。

当時ヨーロッパでは、従来の秩序が揺らぐ中、王政の打倒が活発になっていました。
犯人のルイジ・ルケーニは、イタリア人のアナーキストでした。
動機を問われ、「王族なら誰でもよかった」と言いました。
スイスへの帰らぬたびに出る途中、エリザベートはバート・イシュルで過ごしました。
彼女が何より大切にしていたのが・・・一番末の娘・マリー・バレリーです。
彼女が唯一自分の手で育てることができた娘・・・成長を見届けることができた唯一の娘。
エリザベートは、娘の嫁ぎ先の母にこう言いました。

「何事であれ、二人のことに口をさしはさむのはやめましょう。」

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

ハプスブルク帝国1809~1918―オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史

中古価格
¥586から
(2019/1/23 21:44時点)

フランツ・ヨーゼフ (河出文庫)