日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:カンボジア

人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派、語る

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カンボジアのアンコールワット・・・900年前に建てられた寺院で、クメール王朝の文明の粋・・・象徴でした。
そのカンボジアに、1970年代200万人の国民を大量虐殺した恐怖の政権がありました。

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その政権のリーダーはポル・ポト。。。
貨幣の廃止・国民総農家・家族の解体・文字を読めたら処刑・学校の廃止・子ども医者・・・。


ウソだらけのプロフィール

1978年53歳のときの海外テレビ初取材映像では・・・
農村の出身で両親を手伝い、寺に住み込み・・・貧しい生い立ちを語りましたが、それは嘘で固められたものでした。
ポル・ポトも偽名で・・・本名はサロト・サル。

サロト・サルは、1925年プレクスバウ村に生まれます。
当時、人口280万人だったカンボジアは、その8割が農民で・・・ほとんどが貧しい暮らしをしていました。
その中でサルの両親は、周りの人の10倍の水田を持つ豊かな農家でした。
少年時代、何不自由ない生活を送ったのです。
9歳の時にプノンペンに・・・そして、エリートを目指して名門小学校に入学しました。
そこでサルが熱狂したのはバイオリンとロマンチックなフランスの詩・・・鳥も殺せない優しい少年でした。
名門高校に進学し・・・大きな挫折を味わいます。
勉強が付いていけなくなって大学の進学試験に失敗・・・
進学したのは工業専門学校でした。
サルは、エリートに劣等感を抱きます。

24歳の時に、チャンスが!!
1949年専門学校生初のフランスに留学・・・パリ技術専門学校へ・・・!!
希望に燃えるサル!!
パリでカンボジア人留学生の勉強会に参加しようとします。
しかし・・・一流大学のエリート留学生の話についていけません。。。
その差は、勉強会で使う本さえ理解できないほどでした。

上昇志向が強いサルは、自分の学歴を呪います。
「勉強会のリーダーは、学歴で選ばれた
 しかし私には、高校の修了書しかなかった。」

失意の中でサルは・・・人生を変えるものと出会います。
それは、当時パリの若者に流行していた共産主義思想です。
国民が財産を共有し、平等な社会を作る!!
当時、カンボジアは、フランスに植民地支配を受けていました。
さらに名目上の君主としての国王・・・二重支配のもとで、苦しんでいたのです。

「共産主義で国民が結束し、革命を起こせば、国王を倒し、フランスからも独立できる!!」

革命を夢見たサル・・・
「私は将来、革命組織を指揮するよ・・・!!
 そして、書記長となって官僚が人民のための政策から逸脱しないように統制してみせる。」

サルは28歳でカンボジアに帰国し、革命活動に参加します。
1953年11月カンボジアがフランスから独立!!悲願の達成です。
しかし、革命家たちにとっては悲劇の始まりでした。
名実ともに全権を握った国王・シハヌークは、革命活動家たちを潰しにかかります。
弾圧を開始し、多くの活動家たちが殺害されてしまいました。

サルにピンチとチャンスが・・・??
1963年38歳で共産主義政党のリーダーに就任します。
それは、真っ先に狙われることを意味していました。

秘密警察に追われることに名たサルは、首都・プノンペンを脱出し、東部・・・ベトナムとの国境地帯の農村に逃げ込みます。
そして・・・山岳地帯を移動し・・・本格的な武力闘争に・・・
その移動中に見たものは・・・教育を受けることもできず、貧しい中でただ生きるためだけに懸命な農民たちでした。
ポル・ポトは、この人たちを率いて・・・平等な社会を作ることを決意します。
「辺境の地で、平凡な庶民と暮らしてみて、問題点がわかった。
 貧しい農民こそ、基本なのだ。」
そして、都会の金持ち、インテリ・・・を革命の敵とみなし、憎悪の対象となっていきました。
この頃名乗り始めた名がポル・ポト・・・カンボジアで素朴で質素な農民にありがちは名前です。
そして、偽りの人生を始めたのです。


目立たない記念写真

辺境の農村に身を隠したポル・ポトは、政府と武力闘争を行うゲリラ部隊を結成します。
「クメール・ルージュ」です。
ポル・ポトは、北部の山岳地帯を基地に、武力で農村から革命を起こしていきます。
・土地制度の改革・・・すべての農民から土地を取り上げて平等に再配分します。
強制的に平等な社会を築いていくことで、貧しい農民の支持を集め勢力を拡大していきます。
1970年3月・・・首都プノンペンで・・・首相ロン・ノルによるクーデターが起きます。
最高権力者のシハヌーク国王を追放したのです。

共産主義精力と接近した国王シハヌークを追放し、新しい政権を樹立しました。
新政権は、共産主義を敵視するアメリカと手を組みます。
こうして始まったのが・・・アメリカによる共産主義「クメール・ルージュ」支配地域への空爆です。
50万トンにも及ぶ爆弾が投下され、地上軍が・・・!!
死傷者30万人とも言われています。

ポル・ポトは、圧倒的な物量の差に追い込まれていきます。
そこで、中国に亡命していた宿敵・・・元国王のシハヌークと手を結ぼうと画策します。
1973年2月・・・シハヌーク元国王が、クメール・ルージュと会談を持ち、カンボジアへ秘密裏に帰国・・・。
このシハヌークを迎えたのは・・・クメール・ルージュの幹部キュー・サムファンでした。
ポル・ポトではなかったのです。
会合の写真でも、ポル・ポトは目立っていません。

シハヌークは、このポル・ポトが、昔秘密警察に追わせたサロト・サルとは、気付きませんでした。
ポル・ポトは、自分の存在をかくし、シハヌーク元国王との協力関係を築こうとしました。

ポル・ポトは秘密主義者で、自分は影に潜んで身を守り、幹部を動かして部下を操る・・・そんな戦い方をしていました。
「勝利へのカギは、秘密を厳しく守ることである。
 機密性が高ければ高いほど、我らは長く生き延びられるのだ。」

シハヌークと組んだことで、支配地域は拡大していきます。
首都プノンペンに近づいていきます。
1975年1月・・・クメール・ルージュ、プノンペンの総攻撃を開始、3万5000の兵で政府軍を圧倒します。
4月17日・・・クメール・ルージュがプノンペンを制圧。
これで悲惨な内戦が終わる・・・と、誰もが思っていました。
この時も・・・その兵士たちの中に・・・ポル・ポトの姿はありませんでした。

そして・・・恐ろしい命令を・・・!!
「今すぐ町を出ていけ!!」兵士たちは、市民たちに銃を突き付けて追い立て始めました。
大混乱で、荷物ひとつ持ち出すことができません。
しかし、兵士たちも混乱していました。
何が目的で、何をすべきなのか・・・??
混乱の中・・・射殺される人も・・・!!
ポル・ポトの秘密主義は、無秩序が巻き起こす惨劇をもたらしたのです。
そして・・・200万の人々が農村へ移住・・・。
その距離最大で300㎞・・・。
炎天下を歩かされ・・・歩けなくなったものは銃で撃たれ・・・あるいは置いていかれ・・・この移動で、2万人が死亡したと言われています。

首都プノンペンは、人っ子一人いない・・・もぬけの殻となりました。
混乱と殺戮の中・・・4月下旬になってようやくポル・ポトがプノンペン入りをします。
姿なき独裁者でした。


大虐殺の引き金となったつぶやき・・・「責任を負うべき者がいる」

クメール・ルージュ・・・国民が全員農民として働くことで、農作物はこれまでの3倍以上の収穫を目指します。
そして・・・誰もが腹いっぱいの米を食べることを賛美しました。
これは、全ての国民を平等な農民とする為でした。
私有財産を没収し、貨幣を廃止・・・自らの理想を完成させようとしました。
中国やベトナムよりも30年以上も進んでいる??
それは・・・地獄でした。

都市から移住させられた農業に不慣れな人々・・・
農機具は堕落した資本主義なので一切使わない農業。。。
衣服は黒い農民服・・・見知らぬ土地での共同生活でした。

もともと農村にいた人は、旧人民・・・革命に協力した人で、都市から移住した人は新人民とされました。
新人民は、旧人民の教育指導のもと、絶対服従とされました。

人間関係も強制的に作りかえられます。男女・夫婦は別々となり、オンカーのもとで、重労働・・・共同生活を強いられました。
7歳以上は親から引き離され、オンカーの子供となり思想教育を施されました。
工場で働くのは子供・・・学歴がある知識人たちは革命に反抗する敵であるとみなされ処刑されました。
無垢で洗脳できる子供たちに工場での労働が任されたのです。

全ての国民がオンカーの支持の元、農村へと伝えられました。
しかし、知っているのは直属のオンカーのみ・・・。
ポル・ポトの名さえ知らないのでした。
上から降りてきた命令を、理由も目的も分らないまま、絶対服従を命じられたのです。

1年後・・・無形かっくでガムシャラな農村の拡大は、失敗に終わります。
機械を使わない手作業では、作物の収穫量が伸びなかったのです。
農村では食糧不足となり餓死者がたくさん出ました。

ポル・ポトは幹部を集めて・・・
「正しい政治意識を持っていれば、こんな失敗はしなかったはずだ。
 責任を負うべき者がいる。
 あらゆる場所で、この問題を解決せよ。」と。。。

国民の側に責任を負わせ・・・全国の農村へ・・・!!
裏切り者の密告・・・!!
革命の敵となれば・・・どこかへと連れていかれ・・・二度とは、戻って来ません。。。

「粉砕せよ・・・!!」

もはや敵とすることに深い意味はありませんでした。

キリング・フィールド・・・殺戮の地・・・連行された多くの人は拷問・・・逮捕・・・そして・・・集団銃殺・・・殴り殺されたのです。
このキリング・フィールドは、カンボジアだけで400カ所。。。
3年8か月で・・・死者は推定100万人から200万人と言われています。

1978年12月・・・軍の一部によるクーデターが起こります。
司令官はヘン・サムリン。
1979年1月7日プノンペン陥落・・・。
ポル・ポト政権は、3年8か月で崩壊しました。

ポル・ポトは、タイ国境付近の密林に潜伏します。
当時は冷戦の時代・・・共産主義国(ベトナム・ソビエト)はカンボジア新政権を支持したので、ポル・ポトはしノン主義国(アメリカ・イギリス・フランス)が支援をします。
食料・・・武器・・・ゲリラ戦を続行し、20年にも及ぶ内戦へと発展していくのです。
内戦の傷痕は今も・・・双方の地雷600万個、死傷者5万人以上と言われています。

1980年代・・・カンボジアの取材が入った時・・・ポル・ポト政権による虐殺が明るみにされましたが・・・
ポル・ポトは認めませんでした。

1998年4月15日・・・最期まで自分の罪を認めないまま・・・この世を去りました。
病死とも自殺とも言われています。
その1年後・・・戦いは終結しました。

2009年プノンペンでクメール・ルージュによる虐殺の国際法廷が行われました。
被告となったのは・・・ポル・ポトの側近だった5人のみ。
いずれも自分に責任はないと主張!!

しかし、ポル・ポトの関与を認めたうえで、幹部たちの責任も免れないとしました。
これまでに3名の被告に、最高刑である終身刑が言い渡されました。

正体を偽り、影となった姿なき独裁者・ポル・ポト・・・。
未だに傷跡を残したままなのです。

最近・・・高校生に向けて、ポル・ポトが何をしたか?の授業が始まりました。
被害者と加害者が同じ生活をしている国で。。。
悲劇を風化させないように・・・。
教科書の冒頭には・・・

「我々カンボジア人は、あの暗黒の時代と向き合って初めて、他の国でも起こりうるこのような大量虐殺を阻止出きる国民になれるのだ。」

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アジアの巨大都市・・・タイのバンコク・・・

市内にはバリケード・・・通行止め・・・

そのバリケードの奥では、市内の幹線道路を占拠し、大規模な反政府デモが行われていました。

でもそこは歩行者天国?

ところ狭しと露店が並んでいます。

一番人気はデモのTシャツ、パラソル、かき氷、ロックコンサート。。。

極めつけは足裏マッサージまで。。。

不思議なデモの参加者の腕には高級時計。。。

お金に困っている訳ではありません。

シンボルカラーは黄色。。。富裕層や中間層が主流で・・・怒りの矛先は、タイ初の女性首相・インラック首相です。

首相の支持派のシンボルカラーは赤色。。。貧しい人たちが中心です。

国を二分する戦いとなっています。


これに直面している日本企業。。。

バンコク伊勢丹ではセキュリティーチェックを強化、外出を控える人が多いので外食チェーン店では空席が目立っています。

タイの新車生産245万台のうち日本7社で9割ですが・・・
首都封鎖の危機に物流を止めないためにも日本企業が動いています。


タイの日本企業数は7000社超。

在留邦人・5万5000人。

日本人観光客137万人と、離れられない関係です。


反政府側・ステープ元副首相VS政府側・インラック首相。。。

キーマンはインラック首相の実兄・タクシン元首相です。

タクシン元首相は、人気を誇りましたが2006年9月にクーデターで失脚し、海外逃亡。

2008年10月には土地取引で有罪判決を受けています。

タクシン元首相を国内に戻すために、インラック首相が去年、恩赦法案を強行採決させました。

この事に対して反対運動が起きているのです。

タクシン元首相は、今太閤と呼ばれた日本の田中角栄元首相にたとえられています。


タクシン元首相の故郷・ナーン県には・・・

”タクシンロード”と呼ばれる幹線道路が。。。

村にはタクシンの恩恵がたくさんあって・・・

年間1000万円の助成金を使って・・・学校・プール・・・貧しかった農村が一変しました。

収入も倍になったといいます。


タイ政府は、農家から市場価格の2倍で米を買い取っています。

これを海外に売るはずでしたが・・・ベトナムの米の方が安いので、タイ米が売れなくなってしまいました。

売るに売れないコメ・・・政府の赤字は8000億円にも上っています。
政府はまだ続けると言っていますが、これ以上米を買い取るお金がありません。

行き詰まりを見せるタクシン政権に・・・反発したのがデモなのです。
タクシン政権からインラック政権までの不正を正すために・・・!!
反政府デモには巨大なスポンサーがありました。
反政府デモのリーダーは、元副大統領のステープ。。。
金持ちやエリート層が参加し、大企業が資金・食品・飲料を提供しています。
24時間のデモ活動には1日約3000万円必要です。
それをバックアップしているのは経済界だったのです。

2月2日には投票が行われましたが、妨害活動によって20%が投票できませんでした。2月18日警察が反政府デモ隊を強制排除し、警官1人、デモ隊3人が死亡しています。
23日には中心部のデモ隊拠点で爆発があり、2人死亡・20人以上が負傷し・・・混乱は続いています。

そんな中、日本企業は???

近鉄エクスプレス・・・
タイに進出している日本企業の物流を支えています。その数約300社。
道路の封鎖は死活問題で。。。
政府は非常事態宣言を発令しました。
神出鬼没の反政府デモを避けて運搬します。
物流を止められない!!何故ならそれは、タイが大アジアの中心だからです。

ASEAN10か国・6億5000万人の中心にあるのはタイ・・・2015年までに、関税を撤廃することになっています。
経済共同体となるので、ますますタイの必要性が強まるのです。


タイプラスワン・・・
バンコクから東に400キロ・・・カンボジアにつきます。
カンボジアにある広大なコッコン経済特区にはたくさんの工場がありました。
日本のスポーツメーカーミカサも2013年12月にカンボジアに進出。
年間500万個のバレーボールを生産。
主力工場をタイに置いたまま、カンボジアに置いているのです。
もしタイで何かあったら・・・というリスク回避・リスク分散のためです。

もう一つの理由は、ゴムのチューブに布を張る作業・・・これは人の手でしかできないのです。
カンボジアで単純作業をし半製品までを作って、仕上げをタイの主力工場で行っています。
カンボジアには多くの労働力が眠っています。
人件費は平均賃金・月額で・・・タイ=3万4500円ですが、カンボジアは7400円です。
ニッポンの新しい戦略です。

タイの混乱は・・・
昔のように明確に対立している訳ではなく、政府はの中にもタクシンさんは国に戻って刑を受けるべきだという人も増えてきています。
反政府側の人たちも、いつまでもこんなことをしていてはいけない・・・という考えも出てきています。
選挙によらない政治は民主主義ではないという人たちもいます。

全体としては、このままではいけない!!
タイを前に進ませなければいけない!!という考え方に向かっているようです。
タイの経済は日本にとっても大事です。
これからを期待していきたいものです。

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ああ、本当に、ベルリンの壁崩壊も、ベトナム戦争もビデオに撮り忘れてしまいました。。。(TmT)本当にショックです。

ということで、今回は第八弾、「カンボジアの悲劇です。

では、カンボジアの悲劇とは?

ベトナム戦争が関係しています。ああ、だからこそ見たかったのに・・・。
1960年~75年にかけて、ベトナム戦争がありました。北ベトナムと南ベトナムで内戦をしていたのです。その戦争は、共産化しようとするベトナム(北ベトナム)に対して、アメリカが南ベトナム政府を樹立し戦いが始まったものです。

が、南ベトナムを支援するアメリカに対し、ベトコンが対立していました。北ベトナムからベトコンに対してホーチミンルートを使って救援物資が運ばれていました。このホーチミンルート、なんとカンボジアの中を通っていました。
アメリカとベトコンは対立しているのだから、当たり前ですがアメリカはこのルートを破壊します。当時はシアヌーク殿下が治めていましたが、カンボジアはベトナムとタイに囲まれた小さな国・・・。カンボジアがベトナム戦争に巻き込まれないように中立、どちらも見てみぬふりをしたのです。

このことがアメリカの怒りを買います。「ホーチミンルートを使っての支援物資の援助はカンボジアの中を通っている!これはカンボジアが何とかしてとめるべきだ!!シアヌーク殿下には任せておけない!!」として、1970年シアヌーク殿下がモスクワを訪問中にロン・ノル首相によるクーデターが起きます。これは、CIAの支援を受けて行ったものでした。

この政権は、アメリカにとって都合の良い政策をとります。これが20年間戦火に見舞われる結果となるのです。

シアヌーク殿下はカンボジアに帰れなくなり、中国・北京からロン・ノル政権と戦うことになってしまうのです。中立だったのに、中国・ソ連などの共産主義と手を組むようになってしまったのです。

ベトナム戦争からアメリカが撤退していく中、カンボジアでは内戦が始まります。シアヌークがカンプチア民族統一戦線=クメール・ルージュ(実態はカンボジア共産党)を指揮、内戦がはじまるのです。

1975年4月17日クメール・ルージュが中心となってカンボジアを統一、その代表が悪名高いポル・ポトなのです。

ポル・ポトの下プノンペンに入り、カンボジアを支配します。ロン・ノル政権の崩壊です。
が、翌日から世界を震撼させます。ポル・ポトが実権を握ったカンボジアに平和は訪れなかったのです。

まず、政府マスコミ関係者は殺害、プノンペン市民200万人を追放し、農村に強制移住させます。勿論抵抗した人は全て殺されます。このポル・ポトの政策は原始共産制と言われます。生産性の低い原始時代には、自給自足の極めて平等な社会が存在したという考えです。
この理想を実現しようとしたのです。

人々を
旧住民・・・クメール・ルージュ
新住民・・・都市から来た人

にわけ、クメール・ルージュさえよければいいと考えます。
また、紙幣の廃止・・・お金で物を買う必要は無い
   宗教の禁止・・・共産主義の考え方で、アンコールワットなど仏寺を破壊、僧を殺害しました。

肉体労働こそすばらしく、共同農場で働かせました。
学校や病院も廃止し、子供は国家が育てるとして、5歳で親から引き離され、ポル・ポトの言いなりの人間を大量生産していきました。
知識人は敵である、必要なしとし、抹殺計画を立て70~80年代にかけて殺害していきます。その中には眼鏡をかけていたからという理由もありました。
その結果、カンボジアでは40代、50代、60代の人材がすっぽりと抜けているのです。

それは解放された後のインテリ層でもカンボジアを地図で示せないほどでした。読み書きの出来ない人達ばかりになってしまったのです。

何人死んだのかはデータが無いのでわかりませんが、当時の人口は600万、少なくとも100万人~300万人の人が殺害されたと言われています。

クメール・ルージュはシアヌークが始めたものでしたが、シアヌーク殿下は帰国と同時に王宮に幽閉されてしまいます。

今はトゥール・スレン虐殺博物館として公開されている当時の強制収容所では、生存者は10人にも満たなかったそうです。

都市の人たちは強制労働をさせられます。が、農業をしたことの無い都市の人々が、満足のいく道具も無く作るので、ダムは決壊、農地は水浸し・・・。と、飢饉になり、悲惨な食糧不足に陥るのです。これは、中国の毛沢東に習った政策ですね。同じことが世界各地で起こっています。

国民の不満は高まりますが、そのたびに無表情で無慈悲な、親の愛情を知らない軍人として育てられた人たちが殺していくのでした。

が、国民の不満が出た時の常套手段は国外に敵を作ること。カンボジアでは、伝統的にベトナムを敵対視していました。

そこで、ベトナムを攻撃します。ベトナムでは、やっとアメリカ軍が撤退し、戦争が終わり、これから政府を作っていこうという時でした。そんなときにカンボジアから軍事攻撃されたのです。

これにベトナムが切れます。ベトナムにはカンボジアから逃げてきた難民がたくさんいました。その人たちを助けるという大義名分の下、1987年12月10万のベトナム軍がカンボジアに侵攻します。

そうして侵攻してきて見つけたのが虐殺されたなきがらだったのです。街には死臭が漂っていました。カンボジア人はベトナムが侵攻してきてくれて嬉しかったかも知れません。ポル・ポト政権は、2週間で崩壊し、ポル・ポトは北へ逃げます。

1979年1月ヘン・サムリンは、ベトナムの支援の下、政権を樹立。
しかしポル・ポトはジャングルで勢力を温存、タイ国境には難民キャンプが出来るほどでした。
いずれは政権の座に返り咲こう!!と、ゲリラ活動をし、VSベトナムの新しい内戦が始まることになるのです。

ベトナム軍は、この3年前までアメリカと戦っていました。自分達の国に侵攻してきたアメリカ軍と戦っていました。そうして今、自分達が侵攻している・・・。皮肉な現実がありました。

国際的には、ポル・ポトの大虐殺から「人道的介入はあっても良いのか?」という問題が指摘されるようになります。ベトナムの軍事的な侵略には間違いないが・・・。国民はポル・ポトの大虐殺から解放されるのです・・・。

後に旧ユーゴでもセルビア人がボスニア・ヘルツェコビナの人を殺していた時・・・。NATO軍がセルビアを攻撃したことがありました。ボスニアの人たちは解放されましたが・・・。

現在でもNATOがリビア政府を攻撃しています。これは許されるのでしょうか?国家に対する干渉、国際政治の難問が、このカンボジアを機に考えられるようになりました。

現在の人道的介入は、ヨーロッパ側から見れば許されるもので、国際常識になりつつあります。国際世論はどう考えるのでしょうか?問題提起されたのです。

北朝鮮でも貧困に喘ぎ、虐げられた人たちがいます。これに人道的に介入していいのか?非常に難しい問題です。

シアヌーク殿下は、王宮からの幽閉が説かれ、中国はへと戻ります。ポル・ポトはもともと毛沢東主義派だったので、中国はあんなポル・ポトを全面的に支援していました。

ところで、タイにはカンボジアからポル・ポト派が難民としてたくさん来ていました。タイとしてはベトナムの勢力が強くなるのは困ります。カンボジアがベトナム化するのは困るのです。=ポル・ポトの方がましだ!!と、ポル・ポト軍が、カンボジアに戻って戦うことを黙認しました。

このポル・ポト派、質のよい木材、ルビーを密輸してタイで捌いたのです。これは、タイにとっては大歓迎!と言うことで、支援され、長く存続することになるのです。

中国は、北京に助けを求めたシアヌーク殿下を利用して、ベトナムを懲罰する!と・・・。

1979年中越戦争勃発。中国軍20万人がベトナムを攻撃します。ベトナム軍が、カンボジアから引き上げることを期待したのです。そうすれば、ポル・ポトが盛り返すことが出来る!しかし、ベトナム軍は、カンボジアに10万の軍を置いたまま迎え撃ちます。

当時のベトナムは、アメリカが戦車など全ての武器を残していっていました。南ベトナム崩壊後はその武器は自分達のものになっていました。その武器は最新式でした。それに対し、中国は人海戦術で戦います。

この人海戦術、日中戦争の時日本軍もやられました。人数で閉じ込める作戦です。

20万で攻撃するも、最新兵器なのでベトナムは少しの兵隊で戦えるのです。殺されても殺されても進んでくる中国軍。これによって2万人の中国軍が死亡、ベトナム軍は7000人でした。そうして、殆どベトナムに入ることが出来ずに撤退するのです。これによって、中国は人海戦術では戦えないことを知り、軍の近代化へと向かうのです。

ベトナムでは今も中国に対する反感は強く、現在も南シナ海は誰のもの?と、反中国感情が高まっています。

そんなこんなでベトナムはカンボジア駐留が難しくなり、1989年撤退を始めます。この時点でベトナム兵の死者5万人、ベトナム戦争で死んだアメリカ兵の数も5万でした。皮肉なものです。

国際政治において誰が正義で誰が悪なのか?複雑な関係になってしまいました。撤退をきっかけにカンボジアでも・・・

1991年パリ共和協定が結ばれます。国連監視の下、平和に選挙を実施し、代表を決めることになります。

1992年3月新政府が出来るまで国連カンボジア暫定統治機構を作ります。UNTACです。44カ国、2万人を超える組織で、代表は日本人、明石康特別代表でした。

この時自衛隊が始めて海外に派遣されました。PKOの平和維持活動です。主に道路を作ったりしました。この自衛隊の派遣にも日本国内では問題になりました。憲法で戦争を放棄しているのに、もし襲われたら攻撃できないのか?という問題ですね。私も覚えています。
でも、その後色々なところで参加し、活動することになりました。

ANTACの下、1993年カンボジアで総選挙が行われます。ポル・ポト派は選挙をボイコット、投票率90%の中、1993年9月ノロドム・シアヌークが再即位するのです。新憲法が発布されます。
この頃からポル・ポトから取り巻きが離れていき、力が弱まり始めます。

1998年4月ポル・ポトは一人寂しく死亡。ジャングルの中で病死したとされていますが、毒殺されたとも言われています。

2004年、シアヌークが退位、息子のノロドム・シハモニが即位します。

2006年7月からポル・ポトがカンボジアでしたことを国際法廷で裁こうではないか!ということになり、クメール・ルージュ「特別法廷」が開かれます。これによってポル・ポト及び、幹部の責任が問われたのです。が、未だに続いています。

こんなに長引いている原因は、そもそも今の政府ももともとポル・ポト派。大量虐殺の責任が無いわけではないのです。だから、法廷で決着するのを体制側の人間も止めようとしているからなのです。

何故、こんな悲劇が起こったのか?それは理想のためならば手段を選ばない・・。閉ざされた場所で、極端な理想を追求した結果、些細なことから過激な意見へ、過激な意見へ導かれたことが、国家レベルで起きたということなのでしょう。


本当に悲惨な戦争でしたね。自衛隊の派遣でもめていた頃は大学生だったのでよく覚えています。で、いつも思っていたのは、国際法って、結局意味が無いの?ってことでした。

平和な日本が、時代が続きますように・・・。


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