日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:グレタ・ガルボ

マタ・ハリ伝: 100年目の真実

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フランスで悪女の代名詞として語られる女スパイ、マタ・ハリ。
パリ郊外にある軍事資料館に100ほど前に処刑された女の記録が残っています。
悪女の中の悪女・・・死後封印され、閲覧が禁止されてきました。
オランダ人で、本名はマルガレータ・ゼレ。

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第一次世界大戦のさ中、ドイツ軍のスパイとなり、フランス軍の機密を売り渡したとして投獄されました。
マタ・ハリのドラマチックな人生は、後にハリウッドで映画となり、大ヒット。
演じたのはスター女優グレタ・ガルボでした。
目をつけた男は逃さない・・・マタ・ハリの名は女スパイの代名詞となります。

裁判記録によれば、マタ・ハリが情報を売り渡したために、イギリス・フランス連合軍の作戦が失敗、70万人以上が犠牲になったとされています。

獄中のマタ・ハリは容疑を否認し続けましたが、銃殺刑になりました。
その10年余り前、マタ・ハリはヨーロッパに名をとどろかせる人気ダンサー、そして高級娼婦でもありました。

舞台はベル・エポック・・・美しき時代と言われたフランス・パリ。
マタ・ハリは、パリであっという間に神話となりました。
それは、ベル・エポックのパリに、お金と暇を持て余す裕福な紳士がたくさんいたからです。
彼等は毎晩のように新しい恋を探し、新しい女性を探し、パリの町を彷徨っていました。
彼等にとって、素敵な女性をエスコートすることはこの上ないステータスだったのです。

マタ・ハリを一夜にして時の人にした場所は・・・ギメ美術館です。
ヨーロッパ最大の東洋美術コレクションを誇り、ルーブル美術館東洋部の役割を担っています。
当時パリでは、東洋の文化や風俗に憧れるオリエンタリズムが大流行。
アジアの植民地から珍しいものがたくさん入ってきていました。
そんなオリエンタリズムの殿堂で1905年3月、マタ・ハリのステージが幕を開けます。
インドの聖なる踊り子という触れ込みの魅惑のショー・・・。
新聞には賛辞が並びます。

僧侶と神だけしか彼女の裸身を目にしたことがないというインドの舞姫。
背が高く、細身でしなやかに動くさまは、とぐろを巻いていない蛇が、蛇使いの笛に併せて恍惚と動めいているようだ。

このショーをプロデュースしたのは、美術館のオーナーでもある大実業家、エミール・ギメ。
上流階級のサロンで踊るマタ・ハリを見て、自らスカウトしました。
この時ギメは、彼女の本名マルガレータでは東洋趣味の観客には受けないと・・・マタ・ハリ・・・太陽の目を意味する芸名をつけたのです。

客の視線を浴びながら服を脱ぎ、最後はブラジャーのみに。。。
聖なる踊り子にして娼婦・女スパイ・・・マタ・ハリとは・・・??

牛の町・オランダ北部レーワルデン・・・ここがマタ・ハリの故郷です。

マタ・ハリことマルガレータ・ゼレは、1876年4人兄弟の長女として生まれました。
父は娘を溺愛し、6歳の誕生日には豪華なヤギの馬車をプレゼントしました。
マタ・ハリも父が大好きで、男爵だと言いふらしていました。
マタ・ハリの境遇が一変するのは13歳の時・・・大好きだった父が、石油株に手を出して巨額の損失を出してしまったのです。
下部の穴埋めに借金を重ね、気がつけば6000万円にも上っていました。
追い打ちをかけるように母が亡くなり、子供たちは散り散りになって・・・
親戚の家を転々としながら人生をもがくマタ・ハリ・・・。
目に入ったのは、新聞の花嫁募集の広告でした。
結婚相手を探していたのは、ルドルフ・マクラウド大尉。。。初めて会って100日後に結婚。
夫39歳、マタ・ハリは19歳でした。
その後、彼女は夫が赴任したインドネシアで暮らします。
しかし、マクラウドは女癖が悪い上に嫉妬深く、暴力をふるいました。
子供を授かったものの、夫婦生活は破たん・・・いさかいが絶えませんでした。

離婚を決めたマタ・ハリは、子供とも別れ、一人パリに向かいました。
1904年マタ・ハリは28歳でした。
その時、財布には200円しかありませんでした。
それなのにマタ・ハリは、オペラ座に面した超高級ホテルに宿をとります。
当時改装したグランドホテル・・・豪華なサロンが上流階級の間で話題となっていました。
マタ・ハリは、全財産をつぎ込んだ衣装に身をまとい、高級ホテルを定宿にしました。
ロビーに現れる男を物色し、金回りのいい男を選び、関係を持ち・・・パリの夜を生き抜くための虚飾の生活の始まりでした。

ダンサーとしての偽りのプロフィールは様々で・・・
パリに来たよく年、オリンピア劇場と1万フランで契約。
その年の暮れには、マドリードで2週間の公演を行い、よく年はモンテカルロの舞台に立ちました。
演目は「ラホール王」・・・まるで世界が彼女のために回っているようでした。

出会う男もグレードが違っていきます。
私生活もゴージャスに・・・。
ラ・ドレ城、メイド、料理人、庭師、馬・・・

パリでの鮮烈なデビューから6年、ヨーロッパ最高峰オペラハウス、ミラノのスカラ座で公演するまでになりました。
演じるは女神ビーナス、悲劇の王女・・・人気絶頂のマタ・ハリ・・・
しかし彼女は、自分に飽き足らないものを感じていました。
”半裸からドレスへ・・・マタ・ハリはもう裸では踊らない”
目指したのは、男たちの欲望に身を晒すだけでは終わらない一流のアーティスト・・・。
しかし、評判にはなりませんでした。
裸を売り物にしないマタ・ハリの仕事は、目に見えて減っていきました。
増えていったのは請求書の山・・・。
相変らずオートクチュールのドレスや宝石で身を飾り、代金はかつての愛人たちに無心しました。
1914年2月・・・生活に行き詰まりベルリンに・・・
急成長を遂げるドイツ帝国の都に希望を託して・・・。

1914年7月、第一次世界大戦勃発!!
マタ・ハリのベルリン公演は、実現しないまま終わりました。

「戦争が始まる
 もう、ベルリンにはいられない
 舞台にも立てない」

そしてマタ・ハリは危険に道に・・・

1917年2月13日、運命は一転・・・
フランス当局にスパイ容疑で逮捕されてしまいました。
その頃、一世を風靡した姿ではありませんでした。
判決が下るまでの5か月・・・尋問は14回にも及びました。
そのすべての記録がパリ郊外の軍事資料館に残されていました。

戦時中・・・頻繁に国境を越えていることがわかります。
そして、マタ・ハリが逮捕時に所持していた49枚の名刺。。。

裁判官ピエール・ブーシャルドン・・・戦時中はスパイの摘発に努めました。
初めて取調室に呼んだ時、物的証拠はありませんでした。
マタ・ハリを追い込みんでいきます。
特に問題となったのは、イギリスフランス連合軍が70万の兵士を失ったソンムの戦いです。
マタ・ハリがドイツ側に流した機密情報に問題があるとされたのです。
マタ・ハリは一貫して容疑を否認。
しかし、ブーシャルドンが手に入れた文書がマタ・ハリを追いつめます。
ドイツ軍の14枚の電報で、エッフェル塔の傍受班が解読したものです。
ドイツ軍はマタ・ハリを”H21”というコードネームで呼び、こう記していました。
”H21はパリで我々からの5000フランを受け取った”
動かぬ証拠に・・・遂に供述が始まりました。

1916年5月ごろ・・・ハーグの自宅にいると、オランダのドイツ領事がいらっしゃいました。
彼はこう切り出しました。
我々が関心を持つ情報を集めていただきたい。
同意していただければ2万フランお渡しいただけます。
領事はフランス紙幣で2万フラン渡していきました。
付け加えておきますが、私はパリから何一つ情報を送るつもりはありませんでした。

ドイツ側の指示でパリに入ったマタ・ハリ・・・運命はさらに複雑に動いていきます。
今度はフランス側からスパイ行為を求められたのです。
フランス軍ジョルジュ・ラドゥー大尉は、ドイツのスパイと知ったうえで、二重スパイにしようとしました。
マタ・ハリは、その危険な提案を受け入れます。

私は何か月もうろつき回って、細切れの情報を集めてくる気など全くありません。
大当たりやってのけたら、サッと退場します!!

フランスに同意した理由は・・・??

愛する人と結婚できるように、経済的に自立するため・・・。
100万フラン!!
愛する男と生きるために、二重スパイを引き受けたマタ・ハリ・・・
その男ととった写真をいつも大事に持っていました。
ロシア人将校ウラジミール・マスロフ・・・マタ・ハリは41歳、マスロフは21歳でした。

「私が苦しんでいるなんて裁判官は知らないでしょう。
 ここから出してください、もう耐えられません!!」

彼女にとっては恋に生きただけで、戦争なんて全くどうでもよかったのです。
それがマタ・ハリなのです。

裁判官に対し、ドイツのスパイをしていたことを認めたものの、機密情報は提供していないと主張し続けました。
フランスには害もない情報を・・・私は一度もフランスにスパイ行為をしたことはありませんし、試みたこともありません。

”H21にこう告げるべし
 得られた成果は満足すべきものではない”

ドイツ軍が求めた情報を提供していなかったマタ・ハリ。
どうしてフランスは死刑判決をくだしたのでしょうか?

そこには政治的背景がありました。
マタ・ハリがパリにいた1916年は、ソンムの戦いで大打撃を受けた年でした。
70万人もの死者を出していたのです。
当時フランスでは、ソンムの戦いでの責任を厳しく問う声が高まっていました。
作戦を指揮した陸軍大臣辞任、仏軍新総司令官罷免、内閣総辞職に追い込まれていました。
そこで、スパイがいたせいでたくさんの死者が出たことにしたのです。
ソンムの戦いで勝っていれば、マタ・ハリなどどうでもよく、死刑にされることもなかったでしょう。

裁判官ブーシャルドンがマタ・ハリを追いつめるために用意したものがある・・・それは、恋人・マスロフへの事情聴収です。
最愛の男はこう言いました。
「今は別の女と暮らしている
 マタ・ハリとは遊びだった」

読み終えたマタ・ハリは、申し上げることはありませんとだけ答えました。

1917年10月15日、マタ・ハリの41念の人生に幕が下りました。
処刑が行われた森は今、パリ市民の憩いの場となっています。

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100年前は・・・派手な飾りの帽子、締め付けるコルセット、裾の長いスカート・・・そんなファッションを劇的に変えたのが・・・ココ・シャネルでした。
koko
喪服の色とされていたブラックドレス、ミリタリージャケットなど男性の服からヒントを得たスーツ、それまでの常識を覆し、ファッション界に旋風を巻き起こしました。

手がけたのは服だけでなく・・・マリリン・モンローも愛用のシャネルの5番・・・女性の両手を解放したキルティングバッグ・・・そしてリップスティック・・・

「男たちのデザインは女を怪物にしてしまう・・・!!
 私は女の体を自由にした」
まさにファッション界の革命児でした。


シャネルには封印した過去がありました。
それは、孤児院で育ったこと。。。
貧しい境遇から這い上がるために、ナイトクラブの歌い手となり・・・ブルジョア青年の愛人となりました。
しかし、男の飾りで終わりたくありませんでした。
一方・・・女としての幸せもつかもうとしましたが・・・その前に立ちはだかったのは、二度にわたる恋人の死でした。
仕事でも・・・従業員4000人のストライキ、マスコミからのバッシング・・・
「仕事のためにはすべてを犠牲にした・・・恋でさえ。
 仕事は私の人生をむさぼり尽した。」
ファッションも、生き様も・・・のちの女性たちに大きな影響を与えました。

世界のトップブランドのシャネル・・・
その服は動きやすくシンプル、そしてエレガント。
グレース・ケリー、ブリジット・バルドー、マレーネ・ディートリヒ・・・名だたる女優達もシャネルをこよなく愛しました。

「寝るときに身にまとうのはシャネルの5番を1、2滴だけ。」byマリリン

この一大ブランドを一人で築き上げたのがココ・シャネルです。
生前、シャネルは孤児院に育ったことを隠し続けました。
「私は私の人生を作り上げた
 なぜなら、私の人生が気に入らなかったからだ」

1883年8月19日、シャネルはフランス・ソミュールに生まれました。
本名・ガブリエル・シャネル・・・父は行商人で貧しく、シャネル11歳の時に母が急死・・・すると、父は、シャネルを修道院の中にある孤児院に入れました。
その後、二度と顔を見せることはありませんでした。
孤児院でのシャネルは反抗的・・・。
「頭を下げたり、ぺこぺこしたり、自分の考えを押し曲げ、命令に従うのは大嫌いだった。
 とにかく人に頭を下げるのはまっぴらだった。」
仕事としてやらされたのが・・・裁縫でした。
幼いころから仕事をするのが当たり前だったのです。
18歳で近くの町ムーランでお針子の仕事に就きますが、貧しく・・・
「自由になるためにはお金がいる・・・!!」
この町にはナイトクラブがあり、シャネルはここで歌手を目指し始めます。
”トロカデロでココを見たのは誰”という当時はやっていた歌・・・このフレーズから、ココという愛称で呼ばれることとなります。

何も持たない身としては・・・何でもやってみる!!

しかし、歌手として成功することはありませんでした。
行き場をなくしたココは、ブルジョア出身の将校・バルサンの愛人の一人となります。
バルサンの屋敷での生活は・・・働きづめの生活とは全く違うものでした。
しかし・・・次第に物足りなさを感じていきます。
乗馬を始めたシャネル・・・当時は、スカートのまま横座りでした。
しかし、男性と同じように馬に乗りたかったので、男性と同じ乗馬服を作ってもらいました。
上流階級の女性の帽子にも違和感を抱きます。
巨大な防止に羽根飾りや果物をくっつけて・・・何より嫌だったのは、その帽子が頭にちゃんと入らないことでした。

そこでシャネルは、自らシンプルな帽子を作ります。
この帽子が人生を切り開いていきます。
見たこともない帽子を見て・・・作ってほしいといい始めた女性たち・・・
1909年26歳で帽子作りを請け負う仕事場を構えます。
場所と資金を提供したのは、バルサンとその仲間でした。
バルサンは暇つぶしのつもりでしたが・・・シャネルは本気でした。

帽子から始まったデザイナーとしての生活・・・
世の女性たちを虜にしていきます。
そのどれもが、それまでの女性の服の概念を覆すものでした。
帽子店を開こうとしたシャネル・・・バルサンに申し入れますが・・・断られてしまいます。
というのも、当時の上流階級の男性は、女性が働くことに嫌悪感を抱いていました。
落ち込むシャネルに手を差し伸べたのは・・・バルサンの屋敷に出入りしていたイギリス人、アーサー・カペルでした。
カペルは、自らの力で財を成した実業家でした。
気ままに暮らすバルサンとは違っていたのです。
シャネルの才能を見抜き、開業の資金を提供し・・・二人は恋に落ちていきました。

この帽子店は大評判に・・・!!
しかし、シャネルはそれだけでは満足しませんでした。
女性のファッションに違和感を抱いていたから・・・
当時の女性のファッションは、男性の目を楽しませるだけのものでした。
派手な装飾、コルセット、長く膨らんだスカート・・・
装飾過剰が女性たちの体のラインを殺し、まるで熱帯雨林の寄生植物が樹木を殺すみたいにゴテゴテした飾りが体を押しつぶしていた・・・
シャネルは、自ら女性服を作り始めます。
3年後・・・女性服の店ををオープン。。。
シンプルでゆったりとしたスタイル、無駄を省き、着心地を追求したものでした。
デザインだけでなく素材でも・・・男性の下着だったジャージに目をつけます。
ジャージは伸縮性に富んでいる・・・ジャージドレスは、動きやすさを実現しました。
しかし、批判の声が上がります。

「私はいま贅沢さの死・・・19世紀の喪に立ち会っている
 一つの時代が終わろうとしている
 私は女の体を自由にした」

批判にも動じず・・・宣伝の仕方も型破り!!
自らモデルとして最新の服で街を歩きます。
スレンダーなシャネル・・・それでもシャネルは地震に満ち溢れていました。
「欠点は魅力の一つになるのに、みんな隠すことばかり考える
 欠点をうまく使いこなせばいい
 これさえうまくいけば、なんだって可能になる」

1914年飛躍のきっかけをつかみます。
第一次世界大戦です。
男たちが戦場に駆り出されたため、女たちが働きます。
メイドたちのいなくなった上流階級の人々は、一人で着られることのできる服が必要になります。
それこそが、シャネルの服だったのです。
シンプルで動きやすい服が評判となり、ファッション界の寵児となります。
店も50人のスタッフ・・・資金援助も全額返済!!
シャネルは、カペルと対等な立場にやっとなったことで結婚を意識するようになります。
しかし・・・信じられない裏切りが・・・
カペルがイギリス貴族の娘と結婚してしまいました。
それでもカペルの愛人として生きていこうと決意します。
が・・・1年後・・・カペルは自動車事故でこの世を去ってしまうのでした。

シャネルは前に進むことを選びます。
革新的なファッションを生み出していくシャネル!!
シャネルNo,5、リップスティック、ツィードのスーツ、真っ黒なドレス・・・今もシャネルブランドの象徴です。
その誕生には男の存在がありました。
世界で最も売れている香水・・・シャネルNo,5。
この香水の誕生にかかわったのが、8歳上の恋人、ドミトリー大公。
ロシア皇帝のいとこで、ロシア革命以降フランスに逃れていました。
シャネルはドミトリーとの交際の中で、フランスよりも進んでいるロシアの香水文化に刺激を受けます。
ドミトリーはシャネルにロシア人調香師を紹介します。
それまでの香水は、どれか1種類の花から作られたものでした。
しかし・・・シャネルは天然の香料と人口の香料を何十種類も混ぜ合わせたのです。
そして・・・10個の試作品の中から選んだのが5番だったのです。
大ヒットしたNo,5。。。シャネルは、香水をファッション・アイテムにしたのです。

シャネルはバレエ団の舞台衣装も手がけます。
当時、バレエの衣装は、様々な芸術家が参加していました。
台本を書いたのは、ジャン・コクトー。
美術スタッフの中にはピカソ。
ロシアバレエ団の創始者・ディアギレフ。
シャネルは彼らに刺激を受けて、芸術家との交流を図っていきます。
そして・・・作曲家・ストラヴィンスキーとは恋に落ちます。
当時無名のストラヴィンスキーは妻と4人の子供を養うのに苦労していました。
シャネルは資金援助し、自分の住まいを提供!!
こうした芸術家たちとの交流によって感性を磨いていきます。

今では冬の定番ともいえるツイード・・・。
これを女性服に定着させたのもシャネル・・・
きっかけは、4歳年上の男・ウエストミンスター公爵との恋愛。
イギリス王室の血を引き、ヨーロッパ一のお金持ちと言われていました。
シャネルはある日、公爵からジャケットを借りると、その着心地の良さにびっくり!!
その生地こそがイギリスで紳士服に使われているツイードだったのです。
上品で温かく、耐久性にも富んでいるツイード。
シャネルは、女性もののジャケットやコートを生み出していきます。
公爵との恋愛中・・・もう一つの代表作”リトルブラックドレス”を生み出します。

当時、黒と言えば喪服・・・ドレスに使うなどあり得ませんでした。
「私は、女性たちみんなに黒を着させて見せる!!
 黒は、周りのすべての色に打ち勝つ!!」
このリトルブラックドレスをアメリカの雑誌”VOGUE”が取り上げます。
当時のハリウッド女優マレーネ・ディートリヒ、グレタ・ガルボたちも、シャネルのくろいドレスに惹かれていきます。
不動の地位を築いていくシャネル!!
その後、ウエストミンスター公爵との結婚を意識し始めます。
結婚か・・・仕事か・・・公爵との別れを選んだのでした。
「ウエストミンスター公爵夫人は数多く存在しても、ガブリエル・シャネルはただ一人!!」

世界的な成功を手に入れたシャネル・・・その私生活はきらびやかなものでした。
パリ本店の3階にあったシャネルのプライベート部屋には、優雅な家具やオブジェが所狭しと並んでいました。
この頃、従業員は4000人を超え、シャネルは絶対的な自信を得ていました。
そんな彼女の前に新しい男・・・マルチクリエイターのポール・イリブです。
共同で仕事をすることも多く、同じ年だったのに成功しているシャネルにイリブは遠慮なくものを言い・・・
そんなイリブにシャネルは惹かれます。
1935年夏、52歳のとき・・・バカンスを楽しんでいた時に・・・イリブが突然心臓発作で亡くなります。
またも・・・恋人の死に直面してしまったシャネル・・・
悲しみを断ち切るかのように仕事に没頭します。
仕事一筋のシャネル・・・

1936年フランス全土でストライキが頻発!!
シャネルの店でも4000人の従業員がストライキに突入します。
譲歩するしかないシャネル・・・決定的な第二次世界大戦!!
フランスという国の存在が失われる・・・??
人々は恐怖におののき、オシャレをする余裕さえなくしていきました。
シャネルは思い切った決断をします。
香水とアクセサリー部門だけを残し、洋服部門から撤退します。
一つの時代が終わっていく・・・
ドレスを作るような時代はもう来ない・・・。
1939年56歳でファッションの世界から姿を消したのでした。

戦争が終わると、シャネルのいなくなったファッション業界に新しい風が・・・
ニュールックです。
極端に締まったウエスト、長いスカート、この女性らしさを強調して時代の寵児となったのはクリスチャン・ディオールでした。
しかし、シャネルはこれに怒りを覚えました。
それは、女の自由を奪う男目線のファッションの再来だったからです。
復活を決断!!
1954年2月5日・・・15年の沈黙を果て、カムバックコレクションを開催!!
70歳での再出発でした。
世界中が注目したシャネルの新作・・・
熱狂は起きなかった・・・大失敗・・・流行おくれ・・・しかし、シャネルはくじけませんでした。
「私はひどく往生際が悪い!!」
そんなシャネルに追い風が・・・アメリカの雑誌”LIFE”が、シャネルの新作を大絶賛します。
シャネルの服は、流行から創り出されるのではなく一貫していたのです。
究極の芸術作品で時代を超えている・・・!!
次々と革命を起こしていきます。
手で持つハンドバッグではなく、肩にかけられるキルティングバッグを考案。女性の両手を解放しました。
そして・・・シャネルスーツ・・・それは、エレベーターボーイの制服やミリタリージャケットからヒントを得たものでした。

すっきりとしたデザインと機能性・・・動きやすさと上品さ・・・
モナコ王妃となったグレース・ケリー、ケネディ大統領夫人ジャクリーン・・・世界が注目する女性たちが愛用し、働く女性に欠かせないファッションとなっていったのです。

衰えない情熱・・・店の近くのホテルに移りこんで制作します。
仕事が終わってしまうのが怖い・・・だから日曜日が嫌い。

1971年1月10日・・・夜・・・突然の発作に襲われて帰らぬ人となりました。
仕事のためにはすべてを犠牲にした・・・恋でさえ犠牲にした。
仕事は私の人生をむさぼり尽した。。。

87年の生涯を閉じた日・・・その日は大嫌いな日曜日でした。


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