十二歳の戊辰戦争 [ 林洋海 ]

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前にやっていた番組の再放送ですね。

大河ドラマが”八重の桜”だからアンコールでやってくれたのでしょうか?
とってもびっくりな内容です。

1868年~69年にかけて、戊辰戦争がありました。
新政府軍(薩摩・長州など)VS旧幕府軍(会津藩など)の壮絶な戦いです。
1年半に及ぶ日本近代史最大の内戦でした。

松平容保を含む東北諸藩は無念の降伏をしたのでした。
しかし・・・ひょっとしたら旧幕府軍が勝って・・・明治維新が簡単になされなかったかもしれない可能性が出てきました。

ドイツで・・・
ビスマルク時代の東アジア政策に関する外交文書が発見されたのです。
その外交文書は、戊辰戦争の最中、中日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントからプロイセン宰相・ビスマルクに宛てられたものでした。

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その内容は・・・会津藩・庄内藩が、蝦夷地をプロイセンに売却しようとしている文書だったのです。
会津・庄内藩は、軍事支援の見返りに、北海道を売り渡す計画していたのでしょうか???
秘密交渉があったことは伝えられていましたが、実際に証拠が出てきて。。。
そこには、プロイセンの北海道植民地化計画がありました。
知られざる密約とは???

会津藩の研究は、お城も落城しているので大変難しく・・・
資料は落城当時燃やしていたり、第2次世界大戦の東京大空襲で多くが焼失してしまいました。
情報はほとんどありません。

ドイツ・フライブルクで・・・
軍事に関する公文書館があります。
ここに・・・戊辰戦争の最中、駐日プロイセン公使・ブラントから宰相ビスマルクに送られた手紙が保管されています。
日本の会津・庄内藩の領主が、蝦夷地を売却したい・・・と。。。内密に交渉したというものです。
この2藩の状況を考えると、間違いなく有利な条件で得ることができる・・・と、書かれていました。

当時・・・蝦夷地警備は、東国諸藩が行っていました。
会津藩は網走・紋別周辺を、庄内藩は、天塩・留萌周辺が領地でした。
自分達の領地を譲渡しよう・・・というそして・・・プロイセンとの外交ルートを作ろうとしていたのです。
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そんな日独関係は・・・幕末の横浜に資料が残っていました。
漫画雑誌「ジャパン・パンチ」によると・・・。
混乱に乗じて日本を取り巻く列強が書かれています。
薩長についたイギリス。
旧幕府軍にはプロイセン。。。
薩長土肥VS奥羽越列藩同盟の後ろに諸外国がついていたのです。
そして・・・東北は一つになって南からやってくる新政府軍に向かっていました。

いつの時代も小国の内戦には大国の干渉がつきもので・・・
そして・・・今の日本と違って、攘夷!攘夷!と言っていても国=藩だったので・・・
日本国一丸ではありませんでした。

日本の一部割譲???・・・それは、明治になってからは封印された過去だったのです。

欧米列強の思惑は???
イギリス⇒日本の植民地化は無理だ。
       生糸を貿易による利益を出せる国を作りたかったのです。
       幕府は駄目・・・薩摩は外国と貿易をしたがっている!!
フランス⇒イギリスと仲が悪く、面白くないので旧幕府側につきます。
そこで迷っていたのが・・・プロイセンでした。

出遅れたプロイセンが選んだ相手・・・それが会津・庄内だったのです。
プロイセンの狙いは、海運業保護の基盤をつくることでした。

この両者を結びつけたのが、ヘンリー・シュネル・・・プロイセンの将軍(ジェネラル)で、会津に鉄砲の使い方などを教えていました。
そして・・・ビスマルクに手紙を書いたブラントの元で働いていたのです。

1868年戊辰戦争が始まると本国に帰ると帰国願いを出しています。
しかし・・・本国には帰らずに。。。会津若松に。
日本の妻を与え、”平松武兵衛”という名も与えました。
シュネルが頻繁に通っていたのが新潟。
ここには、東北で戦う旧幕府軍に武器弾薬が陸揚げされていたからです。
シュネルは・・・港に近い勝楽寺で武器の販売を行っていました。

この頃・・・アメリカでは南北戦争が終結したばかりで、世界で武器弾薬が余っていました。
それが日本へ流れてきていました。
その数、小銃だけで70万丁とも言われています。
この時代、新しい武器が次々と登場しています。
連射式銃・ミトラィユーズ、ガトリング砲・・・それらを会津に結びつけたのでした。
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ブラントからビスマルクに送られた手紙・・・
その背景には全く違う事情もあったようです。
プロイセンが北海道を先に狙っていたような・・・そんな節もあります。
日本での権益拡大を思っているブラント・・・
「プロイセンは蝦夷地に基地の獲得を考えるべきであり、今すぐ交渉を始めるべきです。」
駐日公使ブラントによる北海道植民地化計画とは・・・
ブラントは、戊辰戦争が始まる前・・・2度にわたって北海道を調査しています。
1回目は1865年9月・・・2度目は1867年8月。
ゲルトナーなる人物と共に、伊能忠敬の地図でまわっています。

ブラントによると、北海道の魅力は???
「蝦夷地は気候が北ヨーロッパと酷似しており、土地は広大で水は豊か、農業牧畜に適している。
 蝦夷地は、5000人の海兵隊により、簡単に手に入れることができる。」

しかし、海軍省は、ブラントの提案を却下します。
そこで・・・土地を開拓し、実質的に支配し始めました。
それを行ったのがゲルトナー・・・農業専門家でした。
寒冷で稲作には向かない蝦夷地・・・
ここを農業に適していると、西洋農法を初めて持ち込みました。
北海道の農業の原点となります。
「蝦夷地は肥沃な平地で、開墾するには容易で、農地として高い価値を持っている。」

そこに大きなチャンスが!!
1869年1月、榎本武揚による蝦夷地共和国が成立。
ゲルトナーは条約を結びます。
凾館近郊の土地七重町、広さ300万坪・1000haの土地を99年間借りるという内容でした。

ゲルトナーは私財で本国から色々な種を手に入れ・・・ワインも栽培。
ゲルトナーが特に大切にしていたのがブナ林。
故郷のドイツを思ってのことだったのでしょうか???
しかし、1869年函館戦争終結に伴い、榎本武揚の北海道共和国は5か月で消滅。
新政府は、ゲルトナーに契約解除を申し入れます。
日本の一部を99年間貸し付けるのは、受け入れがたいものだったのです。
新政府から賠償金(ヨーロッパから農業関係のものを輸入したお金も足して)として6万2500ドル(約18億円)を引換にして・・・
そして・・・それを調べたアメリカが・・・クラークをよこしたのです。

bisumarukuこの北海道を手に入れることに対して、宰相ビスマルクは???
「外国人にはきわめて危険な日本の政治状況下で、領地取得は小規模とはいえどちらの藩のものでもこの交渉を推し進めることは推薦いたしかねる。
 領地獲得は、他国の公使達にねたみ、不信感を持たれる恐れがある。
 同時に内戦に関わっている各藩に中立的立場を犯しうると考えられる。」
と・・・否定的でした。

初めてドイツ統一を成し遂げた熱血宰相ビスマルク。
統一の陰には、各国との協調関係を最も重視していたことがあります。

当時ヨーロッパでは・・・ドイツはフランスとの戦いが避けられない状況にありました。
普仏戦争です。
ヨーロッパが緊張状態にあったので余裕がなかったと言えます。
また、ビスマルクは、アジアの植民地獲得に消極的でした。
それよりも、ヨーロッパの政治的安定を望んでいました。
ビスマルクがこの断りの手紙を書いたのは・・・1868年10月8日・・・。
奇しくも新政府軍が会津城下に・・・この日・・・飯盛山で悲劇が。。。
ドイツが蝦夷地獲得に躊躇している間に、会津・庄内は、屈服してしまったのです。

シュネルは、会津落城の半年後、アメリカのカリフォルニアへ・・・。
ここに140年前、敗れた会津の人が移り住んでいました。
当時の新聞には・・・
「内戦で、ミカドの軍と戦って敗れた3家族が、日本から移民としてやってきた。」
引率してきたのは、プロイセン人のシュネル。。。
その家が今も残っています。
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この地・若松コロニーで、お家再興を目指して働いたのです。
しかし、持ち込んだ種は気候の違い、水不足で枯れ・・・
ただ今も、彼らが植えた桑の木が一本残っています。



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