日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:コッホ

明治の文豪・・・森鴎外。
鴎外は、日本近代文学の創始者として当時の文壇に多大な影響力を持っていました。
鴎外の活動は、作家だけにとどまらず、陸軍省の軍医として最高位である軍医総監にも上り詰めています。

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島根県津和野町・・・古くから山陰と山陽を結ぶ街道の町として栄えた山紫水明の地です。
この地に、江戸末期にたてられた家屋が残されています。
文豪・森鴎外の生家です。
1862年1月19日、鴎外こと森林太郎は代々続く津和野藩の御典医の長男として生まれました。
鴎外の勉強部屋・・・父が、自らの茶室を鴎外のために明け渡しています。
母の峰子は、就学前の鴎外のために、寝る間も惜しんで仮名や手習いを教えたといいます。
当時、森家は不祥事によって身分を降格させられており、鴎外は久し振りに生まれた待望の男子でした。
家族から、家名再興の期待が一心にかけられていたのです。
家族の期待に応えるために、懸命に勉学に励んだ鴎外は、すでに論語などの四書を読みこなし、神童の誉れ高かったといいます。

1874年1月、東京大学医学部に入学します。
鴎外の入学時点の年齢はわずか11歳。
大学の入学規定が14歳以上17歳以下と定められている中で、生まれた年を偽ってでの受験でした。
鴎外は、入学者の約半数がついていけず中退する厳しい授業を潜り抜け、19歳で大学を卒業します。
就職先に選んだのは、両親の薦めもあって陸軍省。
森家再興を目指し、明治政府で立身出世の道を歩むことを決めたのでした。

入省から3年後、鴎外の運命を決定づける事例が下ります。
ドイツへの留学です。
留学の目的が、鴎外の日記に記されています。

”政府が私に託したのは、衛生学を習得すること”

当時、日本には衛生という概念自体が存在していませんでした。
コレラなどの感染症を予防するすべもなく、陸軍では大量の死者を出しており、その対処が近々の課題でした。
ドイツでは、ロベルト・コッホにより、コレラ菌や結核菌が発見され、衛生学の中でも最先端の細菌学が確立されていました。
感染症の原因を明らかにするこの革新的な医学を学び軍に役立てようというのです。
鴎外は、初めて見る実験器具の扱い方や、自然科学の方法論を懸命に学びました。
その後、念願の細菌学の父・コッホに支持。
下水道から新種の菌を発見し、論文で発表するという業績を上げています。

順調に見えた鴎外の留学生活ですが・・・問題が・・・
同じ日本からの留学生との確執です。
鴎外は留学生たちが開く定例会の様子を日記に書いています。

”麦酒を飲んで新聞を読んでブラブラしているだけだ”

そして、彼らの面前で演説!!
国費で留学している以上、研究に役立つ集まりにするべきだと主張しました。
しかし、鴎外の意見は全く取り入れられず、反発されてしまいます。
当時の鴎外の直属の上司・石黒忠悳はこうした留学先での鴎外の様子を目にし、同僚に手紙を送っています。
そこには鼻が伸びた天狗の絵が・・・その天狗は鴎外のこと。
その鼻を少々削ってやりたいというのです。

鴎外のドイツ時代は、かなり生意気で自信過剰でした。
一直線に進んでいく鴎外・・・根回し、周りの雰囲気は読みません。
ある種の鴎外の正直なとことで正義感に燃えた時でした。
しかし、それは個と組織の軋轢となりました。

周囲となじめずにいた鴎外の心のよりどころとなったのが・・・

”本棚の洋書は170巻を超えた
 ダンテの新曲は、幽昧にして恍惚
 ゲーテの全集は宏壮にして偉大なり”

鴎外は、西欧の哲学や文学を大量に読み込んでいました。
中でものめり込んだのは、フランス革命後に根付いていた個人の自由の概念です。
それは、家族からの期待や組織のしがらみから解き放つものでした。

1888年9月、鴎外は4年に渡る留学を終え、帰国。
陸軍軍医学校教官に就任し、ドイツで学んだ衛生学の導入に貢献します。
そして、1年半後、鴎外のもう一つの才能が花開きます。

デビュー作である小説「舞姫」を発表したのです。

鴎外をモデルにした日本人留学生の主人公は、現地で出来た恋人との暮らしを続けるか、日本に戻るかの選択を迫られます。

”我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは時として愛情を圧せん”

個人の幸福である恋愛と、国家への忠誠との間で懊悩する姿を擬古文の雅な文体で描いた作品はたちまち評判となり、鴎外の文名を轟かすこととなりました。
鴎外はその後も、留学時代に親しんだ小説や詩の翻訳を新聞や雑誌に次々と発表。
西欧留学を経て、作家、軍医として確固たる地位を確立し始めました。

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鴎外は、帰国から5年後のわずか31歳で陸軍軍医学校の校長に就任していました。
国から大きな期待を寄せられ、出世を続けていたのです。
さらに、鴎外は作家としての名声も高めていきました。
舞姫発表から1年後に間に、後にドイツ三部作と謳われる傑作「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。
好評を博していました。
鴎外が将来の期待に胸を膨らませていた矢先、その運命を一変させることが起きます。

1899年6月8日、突然、北九州小倉にある第12師団軍医部長への転出を命じられたのです。
当時小倉は、東京から鉄道と船を乗り継ぎ、丸3日を要する地方都市でした。
鴎外が翻訳や小説を発表していた出版社は東京に拠点があり、小倉への移動は作家活動の場を奪われることに等しいものがありました。
鴎外は、この移動を軍上層部の策略だととらえていました。

事例の半年前に書かれた鴎外の日記には・・・

”小池が私を排除しようとしている噂を聞いた”

小池とは、当時軍医のTOPだった小池正直のことです。
留学先で天狗の絵を描いた石黒の息がかかった人物でした。
鴎外の軍上層部への強い不信感が伺えます。
日記から3か月後、小池は鴎外にとって受け入れがたいある訓令を発しています。

”軍医の副業は対面を汚すため、民間での病院の開業を禁止する”というもの

作家活動をする鴎外も指弾の対象でありその立場は危うくなっていきました。
失意の中で移動を受け入れるか否かで、悩む鴎外・・・

組織の論理に屈するか、私の意地を通して辞職するのか・・・??

北九州市小倉北区鍛冶町・・・北九州市屈指の繁華街の一角に、明治半ばに建てられた一軒の家屋があります。
鴎外37歳・・・この家で、小倉の生活をはじめました。
鴎外の選択は、小倉移動を受け入れるでした。
この時の心境を、母・峰子への手紙に残しています。

”私が小倉に来たのは、左遷なりとは軍医一同口をそろえて
 私も決して満足しているわけではない”

左遷を悔やむ鴎外の気持ちが見て取れます。
鴎外が当時残した「小倉日記」
小倉赴任後のおよそ3年に渡る日々が淡々と書かれています。
救護活動などの衛生演習や、徴兵のための健康診断など、軍務に多忙な様子が伺えます。
現在も小倉に残る第12師団司令部正門の跡・・・
第12師団は、来るべき日露の戦争に備えて、鴎外派遣の前年に新設されたばかりでした。
鴎外はここを拠点とし、九州各地の視察に回りました。
半年後、鴎外が現地の新聞に自らの作家活動に関わる重大な発表をしています。

”私が軍医として接する人は、「あれは小説家だから重要なことは任せられない」と言って、私の進歩を妨げてきたことは数えきれない”
 
鴎外は、作家活動が、軍での信頼を失墜させたと考えていました。
そして、鴎外漁史はここに死んだと・・・作家活動からの引退を宣言したのでした。
失意の底に沈む鴎外・・・その心を和ませてくれたのが、家の世話をしてくれる召使いたちでした。
これまで家事などを家族に任せていた鴎外にとって、彼らとの交流は初めてのことでした。
母に宛てた手紙にはこうあります。

”先日、濱といふ小間使いを置いたのだが、汁物を作る際に鰹節を削るほどつまらないことはない
 折って入れれば汁に味が就くことは同じだと言って、5つに折って入れてしまった”

召使いの大胆さに驚く鴎外・・・
さらに別の日の日記にはこうあります。

”人力車で福丸に行こうとしたのだが、みな病気だと言って引き受けず歩いていくことになった”

炭鉱の町・福丸では、人力車は金払いのいい客を選び、正規料金しか払わない軍人を拒否していました。
軍の権威がまるで通じない経験でした。
素で生きている人たち・・上層部でもなく、地方で普通に生きている人たちと初めて出会ったのです。

庶民の姿に触発され、立ち直るきっかけをつかんだ鴎外は、生涯の友人となる人物と出会います。
小倉にある寺の住職・玉水俊虠です。
鴎外は、後に小説で俊虠をモデルにした人物をこう描写しています。

”学徳があって世情に疎く赤子の心を持っている”

俊虠は東京で大学教授として仏教哲学を勉強していましたが、職を辞し、小倉にやってきていました。
鴎外は、自分と同じ境遇を、不幸とも不満とも思わない俊虠の姿に感銘を受け、交流を深めていきます。
当時の日記にはこうあります。

”俊虠が私のために唯識論の講義を始めてくれた”

唯識論とは、仏教哲学の教えのひとつで、世界の全ては自らの心の動き・・・つまり識に過ぎない

実在しているかのように見えるものや、学んだ知識、家族といった者もすべて心が作り出すかりそめの物だという・・・

鴎外はこの教えに大きな衝撃を受けました。
鴎外にとって俊虠との交流は、出世や家族へのこだわりが解きほぐれていく経験でした。
小倉移動から2年が過ぎた頃、鴎外は母への手紙にこう書いています。

”配置されたところで落ち着き、与えられた仕事をこなすことは、バカなことでも、無駄なことでもないと思っています”

鴎外は、小倉での生活を受け入れる境地に立っていました。
翌年3月、鴎外のもとにある辞令が下ります。
東京にある第1師団軍医部長への転出命令です。
鴎外は、待ち望んだ移動の辞令にも心も出されることなく、東京帰還の日を迎えました。

1907年11月13日、鴎外は軍医のTOPである軍医総監医務局長に就任、軍務に励む中、ある活動を始めています。
小倉で引退宣言をしてから10年ぶりとなる小説の執筆です。
この頃書かれた鴎外の代表作のひとつ「高瀬舟」
流刑となる罪人を乗せる渡し船の物語です。
船頭が自殺を願った弟の死を幇助した兄の話を聞き、ある疑問に囚われます。

弟が早く死にたいと言ったのは苦しさに絶えなかったからである
兄の喜助はその苦を見ているに忍びなかった
苦から救ってやろうと思って命を絶った
それが罪であろうか

医師として鴎外が向き合い続けた生と死の問題が、答えの出ない問いとして表現されています。

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鴎外は、軍医総監の職にある10年の間に、150以上もの小説を発表。
後に豊熟の時代と言われる最も多産な時期を迎えています。

鴎外はなぜ小説を書き続けたのか??
その象徴的作品が、短編「沈黙の塔」です。
物語は、高い塔にいくつもの死体が運び込まれている場面から始まります。
鴎外と思しき語り手は、その理由を別の男に尋ねます。

誰が殺しますか
仲間同士で殺すのです
なぜ・・・危険な書物を読む奴を殺すのです
どんな本ですか
自然主義と社会主義との本です

実はこの作品は、小説発表の半年前に起きたある事件に触発されて書かれたといいます。
1910年6月、幸徳秋水ら社会主義者26人が、明治天皇の暗殺を企てたとして逮捕されます。
通称”大逆事件”です。
証拠不十分なまま、全員の基礎が確定。
裁判は非公開で行われ、24人に死刑判決が下りました。
政府が事件を捏造したと言われています。
鴎外は当時、捏造を主導したとされる人物のひとり・山県有朋と知己を得ており、事件の不透明さを知り得る立場にありました。
ところが鴎外は、公の立場では何も語らず、小説の形で事件に言及していました。
その理由は、鴎外が常日頃軍という巨大な組織の中で無力さを感じ続けていたからだと言われています

沈黙の塔の終盤、語り手の男は鴎外を代弁するかのようにこう語ります。

”どこの国いつの世でも、新しい道を歩いていく人の背後には必ず反動者の群れがいて隙を伺っている
 そしてある機会に起って迫害を加える”

ここで言う新しい道を歩いていく人とは幸徳秋水ら社会主義者のことであり、反動者とは保守的な政府に他なりません。
軍医総監という組織の頂点に上りつめることで、数多くの現実とぶつかった鴎外・・・
その問題と向き合い、作品へと昇華し続けたことが豊熟の時代へと結実したのです。

1922年7月9日、作家として、軍医として、二つの人生を生きた鴎外は、60歳でその生涯を閉じました。
鴎外はその間際、遺言にこう残しています。

”私が死ぬ瞬間、称号や肩書などあらゆる外形的取り扱いを辞退する
 ただ森林太郎として死にたいと思う”

鴎外のふるさと・・・島根県津和野町。
この地に建てられた墓地には、その遺言の通り”森林太郎”の文字だけが記されています。

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京都の夏を彩る祇園祭、豪華な仮面をつけたイタリアの人々が行き交うベネチアカーニバル・・・
この二つの祭り、同じ起源を持っています。
共に伝染病を追い払い、悲惨な光景を後世に伝える儀式・・・
人類を太古の昔から、苦しめてきた見えない悪魔・・・細菌やウイルスは、今も私たちの生活を脅かしています。
今からおよそ120年前、科学を武器に伝染病に挑んだ日本人がいました。

医学者・北里柴三郎です。

未知の病を解明し、多くの命を救った北里・・・
しかし、その道のりは平たんなものではありませんでした。
2024年から1000円札の新しい顔となる北里柴三郎・・・明治の日本で、世界に認められる研究を成し遂げ、予防医学の礎を築きました。
1886年、北里は、医学先進国だったドイツに留学、ひたすら研究に明け暮れる日々を送りました。

「人に熱と誠があれば何事でも達成する」by北里柴三郎

その努力が実を結び、破傷風などの道の病を解明・・・治療法を確立し、医学の進歩に貢献しました。
明治の半ばごろには、北里の名はヨーロッパに広まり、日本人初のノーベル賞候補に・・・!!
しかし、帰国した北里を待っていたのは、苦難の連続でした。
己の信念を貫く余り、国の方針と対立!!
研究と治療の場を失い、孤立した北里を救ったのは、日本を代表する教育者でした。

”国民の衛生状態を向上させたい!!”

日本細菌学の父とされる北里柴三郎・・・ところが、少年時代に憧れたのは、軍人でした。
そればかりか・・・

「医者は一人前の人間がすることではない」by北里柴三郎

そんな少年が、どうして医学者になったのでしょうか?

1853年、北里は、小さな村の9人兄弟の長男として熊本で誕生
庄屋の息子だった北里は、ガキ大将で、肥後もっこすそのもので、一度言い出したら聞かない頑固者でした。
その頃の日本は、西洋の技術や制度を積極的に採用し、近代化を図っていました。
ところが、同時に厄介なものももたらされます。
コレラや赤痢といった未知の伝染病です。
100万人以上暮らす江戸では、コレラだけで10万人の犠牲者が出たと言われています。
北里は、5歳の時に弟と妹を疫病で失いました。
当時の医者には、手立てがなく、隔離したり看取ることしかできませんでした。

「医者と坊主は一人前の人間がすることではない」by北里

北里は18歳になると将来の夢を抱きます。
それは、職業軍人になることでした。
その為、陸軍学校に進もうと考えていました。
ところが、両親は猛反対・・・医者になることを望んだ父親は、地元にできた医学校(現在の熊本大学医学部)への進学を強く勧めました。
心ならずも地元の医学校に入学した北里・・・しかし、ここでの出会いが、北里を医学の道へと誘いました。

オランダ人講師のマンスフェルトです。
北里が、授業で唯一興味を持ったのは、軍人になっても役立つ語学でした。
マンスフェルトは、北里を気に入り、やがて授業以外でも個人的に教えるようになります。
そんなある日、北里はマンスフェルトに聞かれます。

「君は本当に医者になるつもりがあるのか?」byマンスフェルト

「両親に言われて、そのように装っていますが、実はここで語学だけを学び、将来は軍人になりたいのです」by北里

「ならば、今日一日も無駄にしてはいけない
 だがな、医学も決して無用な学問ではないぞ」byマンスフェルト

それからしばらくすると、マンスフェルトは北里にある物を見せました。
当時、日本ではまだ珍しかった顕微鏡です。
見えたのは、無数の細菌でした。
肉眼では見えないミクロの世界に、北里は異常な興奮を覚えました。

「医学もまた学ぶに足りる!!」by北里

1874年、21歳でマンスフェルトの勧めで東京医学校(後の東京大学医学部)に入学します。
学生寮に入り、学費を稼ぐために牛乳の販売会社でアルバイトにも励みます。
北里は、実にバンカラな学生生活を送りました。
肥後もっこすの性格そのままに、頑固で正義感が強かった北里・・・学生のリーダーとして、演説会や討論会を開き、時にはストライキをして暴れ回ったといいます。
校長は、やりたい放題の寮生を抑え込もうと、2人の屈強な男を監督として送り込みます。

「諸君の乱暴は、真に甚だしい
 今後、学生の本文に背いたものは、少しも容赦しない」

「貴君は、今日、就任したばかりではないですか
 生徒の行動が不良とどのように知ったのですか?」by北里

「校長などから聞いておる」

「他人の話だけで、人間を判断するのか」by北里

そう畳みかけると、男は二度と口を出しませんでした。

もちろん、医学も熱心に学びます。
しかし、北里は、疑問を感じるようになっていました。
当時、日本の医学では、病にかかった患者を治す治療医学がほとんどでした。

1878年、25歳の時に書いた「医道論」・・・演説の原稿には、北里がどんな医学を目指したいのかが記されています。
”人民に健康法を説いて、身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐ
 これが、医道の基本である”

当時、伝染病の原因がわかりませんでした。 
ただ、人にうつるということが、わかっているだけ・・・
伝染病の感染拡大を防ぐには、自分たちの命を一番に考えて、摂生保健=日々の生活の中で健康に気を配ることで病を未然に防ぎましょう・・・これが、医道論でした。

小説 北里柴三郎: ドンネルの男

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1883年30歳で東大医学部を卒業・・・
卒業と同時に、バイト先の社長の姪・乕(とら)と結婚しました。
社長が、北里の人間性に惚れ込んですすめたと言われています。
二人は仲睦まじく、後に4男3女を設けました。
同級生のほとんどは、地方病院の院長など、人もうらやむ高給取りになります。
しかし、北里が進んだのは、内務省の衛生局でした。
地方病院の院長210円
内務省衛生局  70円・・・
給料は、同級生のわずか1/3でした。

衛生局は、全国の病院や衛生環境を調査でき、さらに、ヨーロッパへの留学も可能でした。
北里に迷いはありませんでした。

「学術を研究し、国民の衛生状態を向上させたい・・・!!」

2年後、32歳の北里は、医学先進国・ドイツに留学を命じられます。

ドイツに来た時、北里は東洋の片隅からやってきた無名の留学生にすぎませんでした。
しかし、ここで画期的な研究論文を次々と発表し、第1回ノーベル賞の最終候補にまでなります。
どうしてそんなことが出来たのでしょうか??

1886年、32歳の時、ベルリン大学(現フンボルト大学)の衛生研究室に留学しました。
研究室を率いていたのは、ローベルト・コッホ・・・伝染病の原因となる細菌を次々と発見し、細菌学の世界的権威として知られていました。
コッホの元には、世界中から優秀な研究者が集まっており、新入りの北里は、特に目立つ存在ではありませんでした。

「私はその時、ドイツ語の上手い日本人が来たという印象しかなかった」byコッホ

しかし、北里は、自分の評判など気にしなかったといいます。
とにかく熱心に研究に取り組みました。
留学して最初の1年間は、下宿と研究室の間の道しか知らないほどでした。
ある時、コッホは部下から報告を受けます。

「北里は珍しい男です
 我々ドイツ人にも、彼ほどの勉強家は見当たらない」

コッホに目をかけられるようになった北里は、やがて重要な研究を任され、中心メンバーとなります。
ところが、思いもよらないことが・・・
内務省から突然、ドイツの他の研究室へと移動を命じられたのです。
北里は、この一方的な移動にカチンときました。

「細菌学は最新の学問で、1年2年では学びえないことだけはお分かりでしょう
 細菌学研究に関しては、私に一任していただきたい」by北里

しかし、どうあっても国の方針は変えられないという・・・
この時、北里を救ったのはコッホでした。
コッホは、内務省の担当者に直接会って、北里が必要な人材であることを伝えました。
おかげで北里は、研究室に留まることが出来たのです。
その後、北里は、世界的な研究を成し遂げます。

それが、破傷風の解明です。
破傷風とは、伝染病の一種で、傷口から体内に破傷風菌が入ると、筋肉がこわばり、最後にはけいれんし、身体が反り返ってしまう・・・現在でも感染者の半数が死に至る恐ろしい病です。
破傷風菌・・・北里が研究したのは、特定の金だけを取り出して培養する純粋培養でした。
当時、破傷風菌だけを増やすのは、出来なかったのです。
多くの研究者が、純粋培養に挑みましたが、成功者はいませんでした。
しかし、北里は、何度失敗しても諦めませんでした。

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研究を始めて1年後、北里ははしょうふう菌のある特徴に気付きました。
他の菌とは違い、破傷風菌はどんな時も空気から遠いところに集まっていたのです。

破傷風菌は酸素を嫌っているのか??
なんとか酸素がない状況を作れないものか??

そこで北里は、亀の子シャーレを開発します。
破傷風菌をシャーレの中に入れます。
そしてそこに水素を送り込み、空気中の酸素を追い出します。
最後にシャーレの口を閉じ、酸素がない状況を保ちます。
そうすると、破傷風菌は見る見るうちに増殖しました。

1889年、36歳の時、北里は、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功しました。
このことは、新聞でも報道され、北里の名は、ヨーロッパじゅうに轟きました。
さらに北里は、これに満足せず、破傷風の治療法の確立に取り掛かります。
実験に使ったのは、破傷風菌そのものではなく破傷風菌が出す毒素・・・
北里は、動物の体内に、この毒素を少しずつ注入していきます。
すると、同じグループの中で、致死量の毒素を入れても病気を発症せずに生きる個体がいました。
これは、動物の体内の血液中に、毒素を消す抗体が生まれ、免疫の役目をはたしていたためです。
この抗体を含む血清を、破傷風の患者に注射すると、たちまち症状が回復しました。
これは、血清療法と呼ばれ、北里が世界で初めて確立した治療法です。
伝染病に対する治療法がほとんどなかった当時は画期的なものでした。
この治療法は、同じコッホ研究室のベーリングとの共同論文として発表され、大きな話題を呼びました。
これによって北里は、11年後の1901年、第1回ノーベル医学生理学賞最終候補に選ばれます。
しかし、その栄冠に輝くのは、共同開発者のエミール・フォン・ベーリングでした。
彼は後にこう語っています。

「私が短期間で研究を改正できたのは、北里の感嘆すべき破傷風の研究結果と彼の協力があったからである」

北里は、1901年に日本に帰国していて、コレラ・赤痢に対する対策に非常に忙しくしていました。
あまりノーベル賞については頓着していなかったのでは??といわれています。
この研究によって北里は、世界の医学者と肩を並べる存在となりました。
欧米中の研究機関から、好待遇のオファーが次々と舞い込みます。
しかし、北里はこれらの誘いを丁重に断ります。

「学び得た全ての術で我が同胞の苦しみを救いたい」by北里

北里は、6年の留学を終え、39歳で日本に帰国しました。

世界的な功績を挙げたことで、内務省では北里を中心に伝染病の研究所を計画する話が持ち上がります。
しかし、これに横やりを入れてきたのが、文部省でした。
東京帝国大学内に、伝染病研究室を開設するべきだと国に提案します。
北里潰しとも取れる行為でした。
これは、北里と帝大の間でもたらされていた確執が、原因の一つでした。
確執の始まりは、数年前の脚気論争・・・
脚気とは、ビタミンB1の欠乏によって下半身のしびれや心不全を起こす疾患です。
ビタミンの概念のない当時は、伝染病の一つとして考えられていました。
1885年、帝大の教授・緒方正規が、脚気の原因は脚気菌という細菌によるものだという論文を発表しました。
しかし、北里は、脚気の原因は菌ではないと強く否定したのです。
北里の反論に、帝大側は激怒!!
何故ならその教授は、留学前の北里を指導していた恩師だったからです。
しかし、北里には関係ありませんでした。

「その説に非があるとすれば、たとえ親子兄弟師弟といえども、批判すべきなのが学者の一大義務と考える」by北里

当然帝大は、北里の行動を恩知らずと非難・・・
内務省と文部省の綱引きで計画は進まず、北里は研究の場すら持てずにいました。
そんな北里に救いの手を差し伸べた人物がいました。
慶應義塾の創設者・福沢諭吉です。

「すぐれた学者がいるのに、それを無駄にするのは国の恥である」by諭吉

福沢は、自らの土地と私財を投じ、北里のために私立伝染病研究所を設立します。
ここで北里は、日本で初めて血清療法を行います。
子供の死因の一つだった感染症・ジフテリア治療は、成功率90%でした。
恩師コッホのように伝染病研究所の所長となった北里は、しかし、若手の指導では肥後もっこすを貫きます。
しかし、怒った後は、からっとしていてわだかまりを残すことはありませんでした。
所員達は北里を、敬愛を込めてこう呼びました。
”ドンネル”・・・ドイツ語で雷の事です。

「北里先生のところに行きますと、なんだか威圧された、おっかぶせられた感じが致しました
 しかし、どういうものか甘えてみたいという気分も致しました」

北里のもとでは、黄熱病の研究で知られる野口英世や赤痢菌を発見した志賀潔など、優秀な研究者が育っていきました。
志賀は、赤痢菌を発見した当時のことをこう振り返っています。

「私は大学を出たばかりの若僧だったから、先生の研究助手というのが本当であった
 しかるに論文を発表するに当たり、先生は私一人の名前で書くように言われた
 赤痢菌発見の手柄を、若僧の助手一人に譲った宣誓を、私はまことにありがたきものと思うのである」志賀

1894年、41歳の時、北里のもとに衝撃的なニュースが舞い込みます。
香港で、ペストが猛威を振るっているという・・・
皮膚が黒ずむ症状から黒死病とも呼ばれたペスト・・・
中世のヨーロッパで大流行し、全人口の1/3を奪ったといいます。
極めて危険な伝染病でした。
当時すでに、香港と日本の間で盛んに貿易船が行き来していました。
船を経由してペストが上陸してくるのは時間の問題・・・!!
強い危機感を抱いた明治政府は、北里をリーダーに6人の調査団を香港に派遣しました。
命の保証などありませんでした。
香港に到着した北里たちの目には、病院から溢れんばかりの人が・・・その致死率は、9割近くにのぼっていました。
北里たちは、ペスト患者たちがいる病院の物置を即席の研究室としました。
そこに遺体を運んでペストの原因を探ります。
棺の蓋が、解剖台の代わりでした。
締め切られた部屋の温度は、40度近くに達しました。
死と隣り合わせの作業・・・この調査で、2面の研究者がペストに感染しましたが、なんとか一命はとりとめました。
研究開始から5日目・・・
北里は、日本に1本の電報を打ちました。

”今回、黒死病の病原を発見せり”

北里は、数百年にわたって人類を苦しめてきた伝染病の原因・・・ペスト菌を世界で初めて発見したのです。
この偉業は、世界中で報道され、称賛を集めました。
帰国した北里が行ったのは、ペストの予防対策でした。
全国から医師を集め、講演会を実施。
感染予防や消毒の方法などを説いて回りました。
同時に、ペスト治療のための血清の開発も進めました。
さらに、自ら内務省衛生局のTOPの掛け合い、伝染病対策の指針となる法律の制定に着手します。
こうして、1897年、43歳の時に伝染病予防法制定。
ペストは、国の伝染病に指定され、以下のような予防策が決められました。
感染者の隔離、上下水道の整備、外国船の検疫・・・
この法律は、1997年に改正されるまで、100年近くにわたって施行されることになります。
北里の功績を認め、1899年、46歳の時に内務省管轄の国立伝染病研究所となりました。

「学問や知識は、人々に普及させなけれ世のためにならない
 ことに、医学衛生においては、学問と生活を結びつけるのが学者の責務である」by北里

研究所が国立となった年、ついにペストが日本に上陸します。
しかし、北里たちの尽力で、大規模な感染に至ることはありませんでした。

国立伝染病研究所は、ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と共に、世界三大研究所と呼ばれました。
ところが北里は、61歳の時に研究所を退職し、私財を投じて新たな研究所を作ります。

1914年10月、北里は突然文部省から呼び出されます。
それは、伝染病研究所の管轄が、内務省から文部省へと移る通達でした。
伝染病研究所は研究機関なので、文部省が監督すべきであるという理由です。
また、更なる発展のため、研究所は帝大の傘下に入れるということでした。
これは、北里にとっては受け入れがたいことでした。
内務省が所管している研究機関であれば、自分たちの研究結果はすぐに実践できる・・・
しかし、文部省だと教育研究の現場なので、人々に向けての保健衛生的な段取りができなくなるのです。
自分達がやっている伝染病の封じ込めに、大きな支障になるのではないか??
このままでは、予防医学の実践ができなくなるかもしれない・・・
しかも、確執のあった帝大の傘下に入れば、研究所が嫌がらせを受ける可能性もある・・・

6日後・・・1914年10月20日、北里は、研究所の全員を集めてこう告げました。

「私は昨日、きっぱりとこの職を辞した
 しかし、諸君らにはまだ開かれた未来がある
 一路研究に励み、国家のため、学問のために、ますます奮励されることを望む」by北里

ところが、
「北里先生が去られて、我々だけが留まるわけにはいきません」

志賀潔をはじめとする北里の直弟子の研究者35名も辞表を提出・・・
さらに、守衛や事務員、女性職員に至るまで、ほぼ全員が研究所をやめました。

「私を慕ってくれる気持ちは嬉しい・・・しかし、彼等の生活をどうやって守るのか・・・??」by北里

新たに研究所を作って、彼らを雇うしかない・・・
北里は、妻と子を集めてこう切り出しました。

「今度、自分は伝研をやめ、若い者に意志を継がせたいと再三話したが、どうしても行動を共にすると言って聞き入れてくれない・・・
 皆の熱意を無視するのも忍びないので、それに伴う資金に貯金の大部分を当てたいが・・・」by北里

「どうぞ、役立てていただきましょう」by乕

翌1915年、北里は、私財を投じて北里研究所を設立・・・
その額は30万円、現在の価値でおよそ3億円でした。
この研究所で、北里が取り組んだのは、スペイン風邪と結核の対策でした。

1918年、65歳の時、第1次世界大戦のさ中、ヨーロッパでスペイン風邪が大流行・・・
同じ年、日本にも上陸し、およそ38万人もの死者を出しました。
スペイン風邪は、ウイルス性のインフルエンザ・・・ウイルスが小さすぎて、当時の顕微鏡では見ることが出来ず、解明は出来ていませんでした。
北里研究所では、スペイン風邪の重症化を防ぐ治療薬を開発します。
期待した効果はありませんでしたが、それでも蔓延を防ごうと懸命に取り組みました。

もう一つ・・・北里が力を入れたのが、当時は不治の病とされた結核の対策でした。
「結核退治絵解」 

etoki
















現在では当たり前となった公衆衛生の基本を説いています。

1931年、北里柴三郎はもう一決に倒れ、その生涯に幕を下ろしました。
78歳でした。

その後、北里研究所は、大学や病院を抱える一大研究機関として今も活躍しています。

2015年、北里研究所の大村智さんが、ノーベル医学生理学賞を受賞・・・授賞理由は、”線虫感染症の新しい治療法の発見”でした。
北里が、第1回ノーベル賞候補に選ばれてから100年以上経っての栄誉でした。

「第1回ノーベル賞の受賞は、本来なら北里先生も入るか、単独で貰うべきだったと(先輩の)北里の門下生は言う
 私が首相したら、その先輩が本当に涙を流してくれました
 これが、北里研究所の職員たちの思いだったんだなっていうことを思いました
 北里先生の求められたものって、深くて幅が広いんですね
 私の生涯、一生頑張っても到達できない
 若手を美優文に育成して、北里先生の求めたるところを求めてもらう
 これが、私のこれからの希望です」by大村智

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