一度見たら忘れない映画「サイコ」
ある調査では、史上最高のアメリカのスリル映画に選ばれました。
作ったのは、アルフレッド・ヒッチコック・・・サスペンスの神様として、今も世界中で愛されています。

「鳥」「めまい」・・・これらの映画を作り出したヒッチコック。
彼の作品は、後にヒットする様々な恐怖映画のお手本として大きな影響を与えたとされます。
その影響は恐怖映画にとどまらず・・・若き日のスピルバーグも撮影現場を度々見学・・・。
ヒッチコックは、映画の映像表現の世界を大きく変えました。

これほどの業績を残したヒッチコック・・・不満たらたらでした。
当時、恐怖映画は低級とみられ、いくら大ヒットしてもアカデミー監督賞は取れませんでした。
さらに、世界中から愛された外見も、コンプレックスでした。
恐怖を描くことに生涯情熱を燃やすつづけたその知られざる素顔とは・・・??

ヒッチコックがその生涯で世に出した長編映画は53本・・・そのほとんどが恐怖やサスペンスの映画でした。
ところが、本人は人一倍怖がりでした。
どうして恐怖に魅せられたのでしょうか??

19世紀の末、イギリス・ロンドンで映画が普及します。
ヒッチコックが生れたのはそんな時代でした。
1899年、ロンドン郊外で青果店を営む三人兄弟の末っ子として誕生しました。
両親はカトリック教徒でした。
当時のイギリスは、国王を首長とするイギリス国教会を信仰する人が大多数でした。
カトリックは少数派・・・
母・エマは末っ子のアルフレッドを溺愛・・・
毎晩、アルフレッドをベッドに呼んで、一日のでき義とを聞くのが日課でした。
この寝る前の母との時間は、就職してからも続いていました。
父・ウィリアムは、よく芝居に連れて行ってくれました。
美しく踊るバラ色のライトに照らされたヒロイン・・・しかし、悪役が登場すると照明は緑に!!
ライトの効果で恐怖が一層掻き立てられ、その光景が目に焼き付きました。
さらに、幼いアルフレッドが恐怖と思った体験が・・・

「私はすごく怖がりであることを告白しなければならない」

ある晩、夜中に突然目が覚めました。
いつもなら人の気配がするはずなのに、あまりに静かで真っ暗でした。
両親を呼ぶものの返事もなく、真っ暗な中、彷徨います。
キッチンにも誰もいない・・・ふと見ると、コールドミートがありました。
幼いアルフレッドは、涙を拭きながらそれを食べました。

「その時以来、私は夜一人でいることと、冷たい肉を食べることに耐えられなくなった」

ヒッチコックの少年時代はいつも孤独でした。

「遊び友達がいたという記憶はない」

ひとりで本を読んだり、ゲームをしたり、母親がそばにいれば満足でした。

ヒッチコックはコンプレックスの塊でした。
当時カトリックの信徒は、それだけで変わっている存在でした。
そして出身がロンドンのイーストエンドのさらに東のはずれ・・・
強い訛がありました。
その訛にもコンプレックスがあり、友達とコミュニケーションをとることができなかったのです。
しかも、勉強がよくでき、プライドが高い

1910年、11歳の時に聖イグナチウス・カレッジ入学
そこで、恐怖という感情をさらに強くすることになります。
学校の規律が厳しく、破ったものには体罰が・・・!!
堅いゴム製の鞭で・・・そして罰を待つ時間が辛かった・・・。

思春期のヒッチコックは・・・
「私は常に犯罪というものに引き付けられていた」

当時、ロンドンの市民を恐怖のどん底に突き落とした切り裂きジャックなどの凶悪犯罪・・・十代の頃からヒッチコックは裁判所に通っています。
殺人事件の裁判をノートに詳細に書き留めていました。
ロンドン警視庁内にある犯罪図書館にも通い、犯罪に関する知識を貪欲に求めます。
敬虔なカトリック信者・・・罪悪感を感じつつ、一方で犯罪に魅惑される・・・。
悪に魅惑される自分を感じると、自分は罪深いと感じる・・・
そんな感情が渦巻いていました。
それがヒッチコックの映画作りの原点でした。

21歳の時転機が訪れます。
1920年、ロンドンに新しく映画の撮影所ができました。
芝居や映画が好きだったヒッチコックは自ら出向いて採用!!

「私はアシスタント・ディレクターの職を得て、とても満足していた
 あるとき”いい脚本家を知らないか?”と聞かれたので、”僕が書きましょう”といった
 アート・ディレクターをするはずの友達がいたが、別の仕事で来られなくなった
 ”アート・ディレクターをどうする?”という話になったので、”僕がやりましょう”といった」

監督デビューは26歳の時・・・「快楽の園」でした。
ライトを駆使して、映像に明るさの強弱を極端につけるなど、工夫を凝らします。
しかし、試写会の席で配給会社の社長は・・・

「この作品は観客を混乱させ不安にする」

初監督作品は、あっさりお蔵入りとなってしまいました。
ヒッチコックの斬新な映像は、社長には理解されず、2作目もお蔵入り・・・。
ヒッチコックがようやく評価されたのは、本格的にサスペンスに取り組んだ「下宿人」でした。
物語は、あの”切り裂きジャック”が下敷きでした。
ブロンドの女性ばかりが狙われる謎の連続殺人事件・・・ロンドン中がその話題で持ちきりの中、怪しい男が下宿屋にやってきます。
あの男が噂の殺人鬼ではないか・・・??
人々の中に疑いと恐怖が膨らんでいきます。
それを演出した・・・撮影方法・・・謎の男にガラス板の上を歩かせ下から撮影し、階下から見上げる人々が上の部屋を想像するという方法をとりました。
下宿人は、試写会で好評!!
映画はようやく公開にこぎつけます。
面白い!!知的で明瞭!!苦労の末に世に出た「下宿人」は、空前の大ヒット!!
イギリス映画史上最高といわれ、ヒッチコックは一躍新進気鋭の監督となりました。

ヒットを次々に飛ばしたヒッチコックは、観客から絶大な支持を集めましたが、俳優やスタッフの評判は・・・たいていは冷酷でした。
どうして冷酷といわれたのでしょうか??
27歳の時、ヒッチコックは同じ年のアルマと結婚をしました。
アルマはヒッチコックより5年先輩で、16歳から映画界で働いていました。
各シーンの記録をとるスクリプターで、現場のほぼすべてに精通するスタッフでした。
2人が出会った頃・・・アルマに話しかけられてもヒッチコックは無視し続けていました。

「僕は女の人に対してひどく引っ込み思案になってしまうんだ」

しかし、アルマがこちらを見ていないときは、アルマを見つめっぱなしだったといいます。
アルマに強く惹かれていたものの、すぐに結婚を申し込みませんでした。
こだわりがあったのです。

「私はまず映画監督に、その次にアルマの夫になりたかった
 アルマと結婚するには監督という絶対的な地位が必要だと思ったんだ」

下宿人で自信を得たヒッチコックはようやくアルマと結婚・・・。
その後もヒッチコックは、毎回脚本をチェックしてもらうほど、頼りにしていました。

「仕事の話になると、普段おとなしいアルマが怖い番犬みたいになった」

アルマの方が、ヒッチコックを尻に敷いていました。
アルマは、プロデューサーで活躍するという自分自身の夢は諦めることになりましたが、ヒッチコックをサポートして、ありえない傑作が生みだされることに喜びを見出していました。

1929年、30歳の時に英国初のトーキー映画「ゆすり」を公開。
ある時、男に襲われた主人公のアリスは抵抗するうちにナイフで相手を刺し殺してしまう・・・
動揺したアリスは、見るものすべてがナイフに見えて、罪の意識に悩まされます。
アリスの恐怖心を描くために、ヒッチコックはナイフという言葉だけ音量をあげました。
トーキーの特徴を見事にとらえた演出で、名声はますます高まります。

映画館に次々と恐怖を送り出したヒッチコックですが、家に帰れば優しい父親でした。
彼は特に一人娘を溺愛しました。
仕事が終わると飲みにも行かず、家族と食事をするのが楽しみでした。
39歳の時、大きなチャンスが舞い込みます。
ハリウッドから監督の声がかかったのです。

1939年、39歳の時にハリウッドに進出!!
第1作は・・・1940年「レベッカ」
大富豪の後妻となって屋敷にやってきた主人公・・・
そこには至る所に前妻レベッカの影が・・・!!
主人公の心理が追いつめられていくサスペンスです。
レベッカの興行は大成功で、ハリウッド進出は大成功となりました。
アメリカでも自分のサスペンス映画は通用する!!
ヒッチコックは自信を深めていきました。

ヒッチコックが渡米した年、第二次世界大戦が勃発!!
ヨーロッパは火の海と化していきます。
故郷イギリスにも、空襲の危機が迫っていました。
ヒッチコックはロンドンにいた母をアメリカに呼びましたが、母はイギリスを離れることを拒否します。
2年後、母はイギリスでその生涯を終えました。
映画の製作に追われていたヒッチコックは、母の死に目にも会えませんでした。
この事実がマスコミを通じて知られると、イギリス国民が激怒し、バッシングします。
祖国を見捨てた男として・・・!!

1945年・・・終戦を迎えると、戦勝国のアメリカには豊かで明るい時代が訪れます。
ハリウッド映画は娯楽の王様で、映画界が大盛況!!
この時代、ヒッチコックはヒットを連発します。

1954年、54歳の時に「裏窓」公開
脚を骨折した主人公の楽しみは、裏窓から見える隣のアパートの住人達の観察・・・
そんなある日、殺人と思われる様子を目撃してしまいます。
50代の円熟期にないったヒッチコックは、「めまい」「北北西に進路をとれ」などの名作を次々と製作。
ヒッチコックの映画作りは完璧主義でした。
撮影前から頭の中に映画の全体像が出来上がっていて、詳細に沿った絵コンテに沿って撮影が行われました。
現場でのアドリブはほとんどありませんでした。

「すべて絵コンテ通りに撮るべきなんだ
 私は映画作りにおいて現場でアドリブはしない
 現場での変更は、フルオーケストラの前で音楽家が曲を作るようなもの
 曲がまだできていないのに”フルート、音を出してくれない?”
 フルートが音を出すと”ありがとう”といって曲を書く
 映画は絵コンテ通りに撮影して、スケジュールより早く製作されるべきだ」

ヒッチコックは俳優が求められる以上の自発的な演技をすることを嫌いました。

「俳優は家畜だ
 俳優はあぶくのようなもので、監督の名前こそが観客の心にはっきり残るべきだ」

撮影現場を見た評論家はこう書き残しています。

「撮影現場のヒッチコックはサディストだ
 演技に自信を持っているスター俳優を脂汗流すまでしごき、結局そのシーンを使わないことにしたと人に話す
 それが何よりの楽しみなのだ」

俳優だけでなく、脚本家さえ気に入らなければクビでした。
そして中断された脚本を引き取って、台詞を直しシーン割をしたのがアルマでした。
めったに人を褒めないヒッチコックの最高の誉め言葉は・・・
「アルマが脚本を気に入っているよ」
 
1958年、ヒッチコックが仕事が手につかない事態に陥ります。
アルマがガンで入院したのです。
ヒッチコックはアルマに万が一のことがあったら・・・と、気も狂わんばかりだったといいます。
アルマが無事退院してからも、暫くの間は仕事が再開できない状況でした。

サイレント映画、トーキー、カラーと、日進月歩の映画界で、常に新しい表現にチャレンジしたヒッチコック・・・しかし、どんな作品を作っても、恐怖というテーマは変わりませんでした。
どうして”恐怖”にこだわったのでしょうか?
1955年、TV「ヒッチコック劇場」放送開始
平穏な日常の中で、突然恐怖に襲われる30分のミステリードラマです。
ヒッチコックは、番組を監修するだけでなく物語のはじめと終わりに登場。
製作者が作品を語るスタイルは大好評で、ヒッチコックの顔も世に広まりました。 
これは、ヒッチコックではおなじみのカメオ出演の応用です。
きっかけは衛が下宿人の制作でした。
人件費を削るために出演しました。
それ以来、ヒッチコックは数多くの作品に登場・・・もはや予算のためではありませんでした。
そして観客の楽しみの一つが、映画の中のヒッチコックを探すことでした。

「監督として世間に認められるためには、自分の名前と作品と結びつけてマスコミに取り上げてもらう必要がある
 そうしないと、自分のやりたいことができない」

彼がヒッチコック劇場を手掛けたのには、もう一つ理由がありました。
1950年代後半、テレビが家庭に普及します。
テレビに御客を奪われた映画は、興行収入が落ち込みます。
年間100本制作していたのが、15本ほどに激減・・・。
低予算でも質の高い映画を作って映画館に御客を呼び戻す・・・
この為にテレビ制作の経験を映画制作に取り込みました。
それが・・・「サイコ」です。

スタッフはテレビ界から集められ、時間を削減して人件費を削減する為に、早撮りになれているテレビの人間が必要でした。
低予算で早撮りでモノクロ・・・当時の映画会では常識外れでした。
この映画の最大の見せ所はシャワーシーン・・・
殺人者の顔は見えず、女性の顔が何度も映し出されます。
一秒にも満たない短いカット・・・こうしたカットが50以上重ねられています。
ヒッチコックがこのカットで狙ったのは、観客にも悲鳴を上げさせること・・・
スクリーンと観客席、そのどちらからも悲鳴を上げさせて、絵k画と観客が一体となった恐怖体験を作ろうとしたのです。

観客の感情や心理を操作・・・罪の意識や恐怖を刺激し、感情や心理を操作することに、達成感を見出していました。
人の心を操りたい・・・これは、ヒッチコックが生れながらに持っていたもので、子供の頃からいたずらっ子でした。

常に新しい映画に挑戦するヒッチコックは、古い価値観とも戦いました。
サイコの封切り前・・・当時の映画は倫理が厳しく管理されていました。
わいせつな言葉、神を冒涜する言葉は、悪役でも使えませんでした。
サイコのある映像が、ハリウッド映画で使われたことのない映像でした。
倫理規定に反するのでは・・・??しかし、ヒッチコックは演出上必要だとして一歩もひきません。
それは・・・汚いということで自粛していたトイレのアップでした。
サイコの予告にも独創的なアイデアを持ち込みます。
自らが予告編に出演して撮影現場を案内します。
映画の映像はワンカットも使いませんでした。
そして映画館では誰であっても上映開始後は途中入場させないという前代未聞の規制を徹底させました。
すると・・・上映に遅れまいと人々が長蛇の列をつくり、それがいい宣伝となります。
サイコはヒッチコック最大のヒットとなります。

制作費は他の映画の半分の80万ドル、しかし、興行収入は3600万ドル・・・映画界に新たな希望をもたらしました。

ヒッチコックはさらに新しい恐怖に取り組みます。
それは人間以外の恐怖でした。
カモメやスズメなど、おとなしい鳥が突然襲ってくるという恐怖・・・
どうして鳥が人間を襲うのか・・・??
最後まで明らかにされません。それが恐怖を掻き立てました。
本物の鳥を使うことにこだわります。
クライマックス・・・女優は本物の鳥に襲われます。
女優が本当にケガをするところまでカメラを回してリアリティーを追求します。
鳥もサイコ同様大ヒット・・・この映画を見た人が鳥がトラウマになるなど、衝撃作となるのです。

「サイコ」「鳥」の大成功で、自他ともに認めるハリウッドを代表する映画監督となったヒッチコック・・・
しかし、60歳を過ぎたこの時でも、アカデミー賞には不満たらたらでした。
1940年「レベッカ」で初めてアカデミー監督賞にノミネートされます。
それ以後、5回ノミネートされるも5回とも落選していました。

「私はいつも花嫁の付き添い役で、決して花嫁にはなれない」

当時、サスペンス映画は低級という風潮がありました。
ヒッチコックがいくらヒットを飛ばしても、所詮はテクニックだけの職人監督であるとされたのです。
「サイコ」や「鳥」以外で見返してやる・・・!!
1966年「引き裂かれたカーテン」など次々と新作を作りました。

「ヒッチコックの新作・・・標準以下のでき」
「かつては高度な個性的なスタイルがあったが、今は過去の栄光の繰り返しだ」

1960年代、どぎつい描写や残酷な表現があふれていました。
描写を抑制して観客の想像力を刺激する・・・ヒッチコックが得意とした演出が物足りないとされてしまったのです。
時代遅れといわれ、ピンチに陥ったヒッチコック・・・救いの手は思わぬところから現れました。
それはヨーロッパ・・・フランスを中心とするヌーベルバーグが評価したのです。
新進気鋭の映画監督トリュフォーは、ヒッチコック映画は芸術だと評価します。
トリュフォーは、ヒッチコックに対して1週間以上のロングインタビューを敢行。

「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」・・・その内容をまとめた本は、今も映画監督を目指す者たちのバイブルとなっています。
ヒッチコックはハリウッドでも再評価されるようになり、各地で往年の名作が上映されました。
しかし、こうしたリバイバル上映は、ヒッチコックには堪えがたいものでした。
往年の名作ではなく、今の作品に注目を浴びせたかったのです。

「私は常に、映画を作り続けねばならない
 引退こそが一番恐ろしいことだ」

ヒッチコックは70歳を超えても新作に挑戦します。
酒の飲み過ぎで心臓が弱り、ペースメーカーを・・・。
現場に立ち続けます。
しかし、かつての自信は消え失せ、残ったのは不安でした。

「みんなが私を裏切ろうとしている!
 みんな、私を見捨てようとしているんだ!!
 助けてくれ!私はひとりぼっちなんだ!!」

生来人づきあいが苦手なヒッチコックは、友人からの電話や手紙に返事をしてきませんでした。
気が付いたときには、長年の友人たちはヒッチコックの傍にはいませんでした。
そんなヒッチコックに最後まで寄り添ったのは、妻のアルマでした。
いつしか、アルマと二人だけで家に籠るようになります。

1979年、79歳の時にヒッチコックに最後の晴れ舞台が訪れます。
長年の映画会への貢献を表彰されたこの席で、ひねくれものの彼には珍しく感謝の意を表します。

「皆さんに紹介します
 私に最大の愛情と感謝、励ましをくれた4人の人物です。
 最高のパートナーでした。
 一人目は映画の編集者、二人目は脚本家、三人目は私の娘パトリシアの母親、余人目は長年うちのキッチンで腕を振るってくれた名コック・・・彼女の名前はアルマです。」

1年後・・・1980年4月29日、ヒッチコックはアルマに看取られながら80歳の生涯に幕を下ろしました。

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