日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ジャクリーン・ケネディ

マリア・カラス・・・美貌と実力を兼ね備え、歌に生き、愛に生きた世紀の歌姫です。
その最後のステージは日本でした。
まだ50歳だったマリア・カラスの早過ぎる終幕・・・その訳とは・・・??

maria
類まれな表現力で、オペラ界を変えたカラス・・・”カラス以前””カラス以後”という言葉が生まれたほどでした。
歌声だけでなく、エキゾチックなその美貌で世界中の聴衆を魅了しました。
しかし、彼女はその外見に強いコンプレックスを持っていました。

世紀の歌姫と言われ、世界中の劇場から依頼が殺到したマリア・カラス・・・しかし、反面、色々なトラブルを起こしました。
突然の公演キャンセル、大劇場との対立、いつしか”高慢””金の亡者””キャンセル魔”と言われるようになります。


私生活もたたかれます。
夫がある身にもかかわらずギリシャの大富豪オナシスと9年間の大恋愛、しかし、オナシスはマリアを裏切り元アメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚。

世紀の歌姫・・・その人生に秘められた愛と悲しみとは・・・??

マリア・カラスの家は決して裕福ではなく、両親は音楽関係ではありませんでした。
しかし、マリアはオペラ歌手への道を選びます。
どうしてオペラ歌手となったのでしょうか?
1923年、マリアはニューヨークで誕生しました。
両親はギリシャ移民でした。

父・ジョージは平凡な薬剤師、母・エヴァンゲリアは幼い男の子を失くしたばかり・・・男の子が欲しかったといいます。
しかし、生まれてきたのは女の子のマリア・・・
我が子を見た母は、「その子をあっちへやって!!」
母は、姉のジャッキーにだけ愛情を注ぎました。
かつて歌手を夢見ていた母は、ジャッキーに蓄音機を買い、ピアノを学ばせて音楽の才能を伸ばそうとしました。
マリアは、母に気に入られようと姉のすることは何でもしました。
7歳の時、マリアはレコードに合わせて姉のように歌ってみました。
すると母は・・・才能があるのは姉ではなくマリアであると気づきます。

「母は、私に並外れた音楽の才能があることに気付いた最初の人でした。」

母は、突然マリアに興味を抱くようになります。
マリアにもピアノのレッスンを受けさせ、図書館でレコードを聞かせ、厳しい英才教育を施しました。
マリアも母の関心が自分に向いたので、喜んで練習をしました。

1935年、11歳の時、ラジオの音楽コンテストに出場します。
マリアはアコーディオン奏者に次いで2位となりました。

「私が母に愛されていると感じたのは、歌っている時だけでした。」

母は、薬剤師の父を見下しており、両親の不仲は子供が見ても明らかでした。
そして母は、父をアメリカに残し、1937年、13歳の時ギリシャに移住。
マリアは奨学金を得てアテネの音楽学校へ・・・!!
その学校で教えていた世界的なソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴは、すぐにマリアの才能にほれ込みました。

「マリアが孤独なのは気付いていました」byイダルゴ
 
母に愛されていないマリアを娘のようにかわいがるイダルゴ・・・
普段の生活でも何かと面倒を見ました。
オペラ歌手の卵だったマリアは体重が80キロ以上あり、外見には無頓着でした。

「先生は私の服装を嘆いていた
 容姿に磨きをかけよようと本気で努力をしないなら、もうレッスンはいないとおっしゃったほどよ」

家庭では得られなかった安らぎ・・・
マリアは歌のレッスンに集中しました。

こうしてマリアが声楽の練習をしていた時に第二次世界大戦が勃発!!
1941年、17歳の時、ドイツ軍・イタリア軍がアテネを占領します。
占領下におかれたアテネは、食糧不足に陥ります。
すると母は、マリアにドイツ兵やイタリア兵との親密な関係を強要・・・食料得るためでした。
この頃から、母とマリアの溝は深まったといいます。

1942年、18歳の時「トスカ」でプロのオペラ・デビュー。
マリアはこのトスカをこの後も何度も演じ、得意のレパートリーとします。
上演が終わると、何度もカーテンコールが起きるほど好評でした。
これを機に、ドイツ兵や、イタリア兵の前で歌うようになります。
しかし、このことが後に災いしてしまうのです。
対戦も終わりに近づいた1944年、20歳の時にアテネが開放。
すると、マリアがドイツ兵やイタリア兵のために歌っていたことが問題視されました。
劇場から追放され、音楽学校の奨学金も打ち切られます。
1945年、21歳の時に、マリアは仕事を求めて母と離れ、父のいるアメリカ・ニューヨークに向かいます。

しかし、いくらオーディションを受けても不合格。
ギリシャで有名になったぐらいでは、アメリカでは通用しませんでした。
世界屈指のオペラハウス・メトロポリタン歌劇場のオーディションもうまくいきません。
しかし、マリアは地震に満ち溢れていました。

「メトロポリタンはいつか歌ってくれ、と私に頭を下げて来るでしょう」

歌手活動を本格化させたマリア・カラスは、30キロ以上のダイエットをします。
あまりに急激な原料は、歌声に影響する可能性がありましたが、マリアは大変身を遂げました。
ニューヨークに戻って2年、ようやくマリアにチャンスが巡ってきました。
イタリアでのオペラ出演です。
マリアはすぐに、イタリアのベローナに向かいます。
1947年、23歳の時に「ラ・ジョコンダ」でイタリア・デビュー。
2万5000人も集まった野外劇場で歌い上げます。
しかし、公演は成功したものの、次の契約につながりません。
そこに、救いの手を差し伸べたのが、オペラ好きで地元では有名な実業家のジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニでした。
マリアより30歳ほど年上の52歳でした。
公演前の食事会で、マリアに一目ぼれしたのです。
その後、マリアを高級レストランに誘っては口説きます。
初めてレディーとして扱われるマリア・・・次第にメネギーニを愛するようになっていきます。
あえない時、マリアがメネギーニに贈った手紙には・・・

「私がどんなにあなたを恋しがっているかお分かりにならないでしょう
 あなたの腕に戻る日が待ちきれません」

裕福なメネギーニは、マリアの生活を保障。
マネージャーも務め、仕事上のパートナーになりました。
メネギーニの援助でイタリアを拠点としたマリアに、少しづつオペラの仕事が舞い込むようになります。

1948年、24歳の時、フィレンツェで「ノルマ」が大成功!!
カラスブームが巻き起こります。
ノルマは最も難しい曲の一つで、それまであまり歌われてはいませんでした。
しかし、マリアは見事に歌いこなして観客を魅了します。
それが可能だったのは、マリアが様々な声を使いこなせたからです。

「美しい声だけでは十分ではありません
 役を演じる時は、幸福感・喜び・悲しみ・恐れなどを表現する為に、千種類もの声を使い分ける必要があります。
 美しい声だけでそれができますか?」

さらにマリアがこだわったのが演技です。
当時のオペラは、あまり演技にこだわっていませんでした。
当時は、”ちゃんと楽譜通りにやりましょう”というオペラでした。
そして衣装を着けて棒立ちで歌っている・・・
マリア・カラスは、激しい演技を行うことによって、歌い手としての個性を発揮するのに成功したのです。
オペラ歌手として軌道に乗ったマリアは、1949年、25歳の時にメネギーニと結婚。
そして主役のチャンスが訪れます。

1951年ミラノ・スカラ座で正式にデビューします。
スカラ座といえば、誰もが憧れるイタリアオペラの殿堂・・・!!
この時演じたのは、「シチリア島の夕べの祈り」
マスコミの反応は・・・

”驚異的な広がりを持つ中音域と低音域はきらめくような美しさに満ちている”

その歌声に熱狂した聴衆は、いつしかマリアをこう呼ぶようになります。

”スカラ座の女王”と。

マリア・カラスの名は世界中に響き渡り、王族や大富豪も、マリアの舞台を見ることがステータスとなりました。
新境地を次々と開いていくマリアは、オペラの常識にも挑戦します。
体重が必要とされるオペラ歌手にもかかわらず、痩せようと考えたのです。
きっかけは、映画「ローマの休日」でした。
オードリー・ヘップバーンに憧れたマリアは、ダイエットを決意しました。
そして、11か月で30キロ以上の体重を落としました。
マスコミでも話題となり、その減量法聞かれると・・・

「もし痩せる方法がわかっていたら、私は世界一の金持ちになれたと思いませんか?」

ハリウッド女優並みのスタイルを手に入れると、ディオールやジバンシーなどのデザイナーが、ドレスや宝飾品を提供。
マリア・カラスは、誰もがうらやむ大スターとなりました。
さらに、マリアの勢いは止まりません。
駆け出しのころからあこがれていた生まれ故郷ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の出演!!
1956年、32歳の時にメトロポリタン歌劇場で初公演。
マリアは聴衆を感動と興奮の渦に巻き込んで、16回ものカーテンコールを受けました。
ダイエットをしてもその歌声は、衰えませんでした。
大スターとなったマリア・・・ギリシャの母とは疎遠になっていました。
マリアは仕送りをしていましたが、母はそれ以上にお金を欲しがりました。
マリアが断わると、母はマスコミを通じて冷たい娘と非難しました。
マリアはそんな母が許せず、生涯あうことはありませんでした。

35歳の時、マリア・カラスは17歳年上の大富豪オナシスと恋に落ちます。
オナシスは妻も子もありながら、女遊びの絶えないプレイボーイ・・・。
それなのに、どうしてマリアは恋に落ちたのでしょうか?

30代で世界で最も有名な歌姫となったマリア・・・
しかし、栄光の影で様々な苦悩を抱えていました。
その一つが、夫メネギーニのお金への執着。
マネージャーでもあるメネギーニは、マリアが売れてくるとギャラを法外に吊り上げました。
1947年・・・1公演:4万リラ
しかし、10年後には、80万~100万リラと20倍以上に・・・
今の日本円で1000万円以上です。
余りに高額な請求に、困惑する劇場側に、メネギーニは「妻が望んでいるので・・・」と言いました。
実際には、マリアは夫に任せっきりだったので、ギャラの金額などわかっていませんでした。
さらにマリアを悩ませたのは、大御所の批評家たちでした。

「マリア・カラスの声は、力強さはあるが清らかさがない」

若い批評家には熱狂的に評価された一方で、大御所の受けは悪かったのです。
というのも、マリアは今までにいないタイプでした。
マリアは自分を侮辱する手紙ばかりを100通ほど保管していました。
どうしてこのような手紙を保管していたのかは難しいですが、自分をさらに精進させるために自分の糧にするためだったと思われます。
絶頂期だったマリア・・・しかし、翌年から破滅の足音が聞こえてくるのでした。

1957年、33歳のエディンバラでの公演以来、喉の調子を崩します。
医者に休養を命じられていました。
それでもどうしてもと頼み込まれ、5回の上演・・・しかし、喉は4回が限度でした。
そのため、1回分の代役を頼みます。
オペラでは、体調に合わせて代役が歌うのはよくあること・・・
ところが・・・

「あの忌まわしいパーティーに行ったのが間違いでした」

5回目の公演キャンセルの日にパーティーに出席・・・
これが報道され、マスコミから非難の嵐が・・・!!
オペラ歌手としては当たり前のことをしただけなのに・・・。

この事件から4か月後・・・
1958年1月にローマで事件を起こします。
イタリア大統領も見に来る公演でマリアはノルマを演じることになっていました。
ところが、またしても喉の調子を崩してしまう・・・
一幕目は乗り越えたものの、二幕目以降は出演できないというマリアに、スタッフは・・・

「あなたならできます
 舞台を続けないとダメですよ!!」

「声が出ないのよ・・・」

「いい加減でいいんだよ、それなら!!」

遂に、二幕目をすることなく公演中止。
これが大問題となり、マリアは会見を開いて声が出なかったと弁明します。
しかし、マスコミは気まぐれでワガママだと非難します。
これをきっかけに、スカラ座を始めイタリアでの契約が無くなります。
大統領も出席する公演をキャンセルしたことで、イタリア政府の介入もあったとされます。
さらに同年、メトロポリタン歌劇場と演目で衝突!!

「同じ演目ばかり・・・新しい試みがしたいの!!」

大劇場との関係悪化は、メネギーニの責任が大きいといわれています。
メネギーニにとって交渉はありえないことでした。
自分の要求額でなければ契約しませんでした。
アメリカに行って、メトロポリタンの支配人・ビングが相手でも、同じやり方をしました。
メネギーニ同様、ビングも譲らない性格だったので、二人は喧嘩になっていました。
さらに、マリアのビジネス用の口座からメネギーニ個人の口座にお金を移して使い込んでいたことが発覚。
マリアはショックを受け、夫への信頼は粉々に崩れました。

声の衰え・・・大劇場との衝突・・・夫の裏切り・・・
精神的にも追いつめられた時、一人の男性と出会いました。
マリアより17歳年上で、一代で巨万の富を築いた大富豪オナシスです。
しかし、オナシスは妻の間に二人の子供のいる既婚者でした。

1959年、35歳の時、オナシスがマリア夫婦を招待したオナシスの地中海クルーズがマリアの人生を変えました。
元イギリス首相・チャーチルなどを乗せた3週間の航海・・・
クルーズの間、マリアとオナシスは急接近します。
二人きりの時間を過ごしました。
港に戻ってきたころには、マリアはメネギーニと別れる決意をしていました。
結婚生活は終わりをつげ、マネージャーも辞めさせました。
世紀の歌姫の大富豪の恋は、マスコミも注目します。

「私は長いことカゴの中で飼われていると感じていました
 ですから、活気にあふれ魅力的なオナシスや彼の友人たちに出会った時、私は生まれ変わったのです」

マリア・カラスがオナシスと恋に落ちた翌年・・・
1960年、マリアが36歳の時、オナシスが妻と離婚します。
マリアは、アメリカの市民権を放棄して、1966年、42歳でギリシャ国籍を取得します。
オナシスと結婚するためでした。
当時、マリアを悩ませていたのは声の衰えでした。
ある時、パリのオペラ座で公演した時も、最後まで持たずに途中降板していまいました。

「歌っていたのは本当の私ではないのよ
 自分の声ではなくて、聞き覚えのない他人の声に聞こえたわ」

超えの衰えたマリアは、仕事を控え、オナシスとの生活を最優先しました。

「8年半もの間 共に生きてきて 私は心から言います
 あなたのことをとても誇りに思い 全身全霊をかけてあなたを愛していますと・・・
 そして、あなたもまた私に対して同じ思いでいることを願っています」

ところが・・・この手紙が書かれた9か月後・・・
1968年・・・オナシスは、もとアメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚します。
この衝撃的なニュースを新聞で知ったマリア・・・
結婚式当日は、オナシスとよく行ったレストランに足を運びました。

「私には屈辱よ
 2か月たっても立ち直れない」

オナシスとジャクリーンが結婚して数か月後・・・
マリアのアパートを一人の男が訪ねてきました。
なんと、オナシス・・・ジャクリーンと離婚はしないが、マリアとよりを戻したいというのです。
マリアは拒絶・・・しかし、結局はオナシスを許し、受け入れるのです。
心の支えが戻ってきたマリアは、47歳で新たな挑戦を始めます。
ニューヨークのジュリアード音楽院で、若者たちに教えたのです。

聴講生には、世界三大テノールと言われるプラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティの姿もありました。
再びステージに立つ気力の湧いたマリアは、1973年、49歳で世界各地をコンサートで回ります。
ヨーロッパやアメリカなど世界9か国を回り、最後は日本でした。
札幌での公演を終わりホテルに戻ると、マリアを愕然とさせる報せが・・・オナシス緊急入院!!
マリアはパリで入院中のオナシスのもとへ・・・!!

「私よ マリア
 あなたのカナリヤよ
 あなたを愛している
 これからもずっと愛し続ける」
 
9日後・・・
1975年3月15日、オナシス死去・・・69歳でした。
マリアが葬儀に参列することは許されませんでした。
オナシスの死後、マリアはパリの自宅からほとんど出ませんでした。
ステージにも、札幌公演を最後に、二度と立つことはありませんでした。
過去に自分が歌った歌声を、聞いてばかりだったといいます。
夜・・・眠れなくて睡眠薬を飲み、朝・・・頭をすっきりさせるために興奮剤
1977年9月16日、マリア・カラス53歳、自宅で急死・・・
心臓麻痺と言われています。

晩年自伝を書くことを勧めた作家に対してこう言っていたといいます。

「自伝ならもう書いたわよ
 それは、私が演じてきた音楽の中にあるわ
 音楽こそ私が知る唯一の言語なんですもの」

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感想(2件)



”アメリカの女王”と言われたジャクリーン・ケネディ・・・。
第35代大統領ジョン・F・ケネディの妻として知られています。
最も華麗なファーストレディ、悲劇の主人公、裏切者・・・様々な言葉と共に、どうして女王と言われたのでしょうか?

アメリカのファーストレディと言えば、華麗なファッションと言動の一つ一つに世界の注目が集まります。
そんな歴代の夫人の中で、別格としてスーパー・ファーストレディと呼ばれるのが、ジャクリーン・ケネディです。
ファッションリーダーとして絶大な人気を誇り、アメリカ国民を魅了しました。
外交でも、笑顔と流暢な語学で各国の首脳を虜にしました。
更に、自ら企画したホワイトハウスの修復や、文化活動も幅広く手がけました。
夫をサポートするだけではなく、自ら行動する最初の大統領夫人でした。

しかし、悲劇は突然起こりました。
夫のケネディが、ジャックリーンの目の前で暗殺されたのです。
ジャクリーンの孤独な戦いはここから始まりました。

1953年6月2日、エリザベス2世戴冠式・・・
世界で注目されたこのビッグイベント・・・取材のためにアメリカから派遣されたのが24歳のジャクリーンブービエでした。
この時、滞在先に一通の電報が届きました。
後にジャクリーンの運命を変える人物からでした。

「新聞記事は最高。
 君がいなくてさみしい。」

ジョン・F・ケネディ・・・アメリカで新進気鋭の政治家として注目を集めていた青年でした。

1929年7月28日、ジャクリーンはアメリカのニューヨーク、サウサンプトン・・・マンハッタンを望む高級住宅地に生まれました。
父、ジョン・ブービエ3世は、株の仲買人・・・プレイボーイとして有名でした。
母、ジャネットは、資産家の娘・・・父は、幼い娘をかわいがり・・・
「特別な存在になれ
 ユニークな人間になれ
 お前は女王になるんだ」と言いました。
しかし、11歳の時、父はジャクリーンの元を離れていきました。
遊び人の父と母が離婚したのです。

その2年後、母は、大富豪と再婚します。
待っていたのは、ニューヨークでも指折りの金持ちしか味わえない豪華で夢のような暮らしでした。
高校に通う頃には、ジャクリーンはわがまま放題のお嬢様に育っていました。
頭がいいが、先生には反抗的・・・制服が嫌いで、学校でタバコも吸っていました。
異性に興味はなく、言い寄ってくる男は多いものの・・・
「男の子って不器用で退屈、私は一生恋もせず、結婚もしない気がするの」
高校の卒業アルバムには・・・”将来の夢=主婦にならないこと”と書いていました。

1949年20歳・・・フランスのソルボンヌ大学に留学します。
パリでフランス文学や美術を学び、ボードレールの詩を暗唱するほど熱心でした。
勉強の合間には、オペラやバレエを見ます。
美術館を巡り、カフェで読書に熱中します。

「パリでの1年間は、生涯で最も幸せな時期でした」

アメリカに戻ったジャクリーン・・・キャリア・ウーマンとして活躍しようとしていた時に千載一遇のチャンスが・・・。
世界的ファッション雑誌VOGUEの未来の編集者を発掘するコンテストです。
優勝者には、パリとニューヨークで半年間ずつ見習い編集者として働くという特典がついていました。

ジャクリーンの論文やエッセイは高く評価され、1280人の応募者の中から1位に選ばれます。
ところが、ジャクリーンが雑誌社で働くことはありませんでした。
大富豪の義父と母に大反対されたのです。
良家の子女は、優秀な伴侶をアメリカで見つけることが第一・・・

「欲求不満の塊でした
 将来は、敷かれたレールを進むだけ
 そして有利な結婚をするだけですから」

雑誌社で働くことを辞退させた義父は、知り合いのコネを使って地方紙の記者に採用させました。
受け入れ炊きの新聞社では、誰もがジャクリーンを結婚までの腰掛仕事だと思っていました。
ところがジャクリーンにはそんなことはなく・・・
最初は雑用係だったものの、街頭インタビューに志願。

1951年22歳のジャクリーンは、あるパーティーで運命の人と出会います。
ジョン・F・ケネディです。

「この人は、自分の一生に深い影響を与え、心を悩ませる存在になる」

12歳上のケネディは大富豪ケネディ家の次男で、青年政治家として将来を期待されていました。
ケネディの魅力は、莫大な財産、人間的な魅力、ハンサムなルックス・・・でも、それ以外に、それまでジャクリーンが出会ったどんな男性も持っていない何かを持っていたのです。

ケネディに興味を抱いたジャクリーンは、手作りのランチをもって事務所を訪ねるようになりました。
時には、議会で使うフランス語の資料を翻訳したり・・・親密になっていきます。
知り合ってから1年後・・・ケネディは、遂に彼女を父・ジョセフに紹介します。
ケネディ家の長・ジョセフは、一代で莫大な財を築いた大富豪でした。
手段を選ばず、金と権力でのし上がったジョセフ・・・息子を大統領にする野望に燃えていました。
ジョセフはジャクリーンを気に入ります。
聡明さ、美貌、学歴、家柄・・・彼女は、大統領夫人の条件すべてを満たしていました。
ジョセフ・ケネディは、ジャクリーンの女性としての魅力より、政治的な才能に目をつけたのです。

1952年5月、ケネディはジャクリーンにプロポーズ。

「結婚の相手は、君の他にいないことがわかった
 結婚してほしい」

ジャクリーンは、この申し出を受けました。
ケネディとだったら、冒険心に富んだドラマチックな人生が歩める・・・!!
1953年9月、ジャクリーンはケネディと結婚。
ニューポートのセントメアリー教会には、700人の招待客と、3000人の見物客が・・・!!
ウエディングドレスは、新郎の希望で伝統的なスタイルのものを着ました。
青年政治家と良家の娘の結婚を、マスコミはこぞって取り上げます。
この時、24歳!!

1958年、ジョン・F・ケネディは、大統領選挙に出馬表明をします。
結婚して5年間、子育てを優先してきたジャクリーンでしたが、ケネディ家の家族会議で協力を求められ・・・
「ジョンが大統領になるためなら何でもするわ」と言いました。
ケネディ家の命運をかけた大勝負、父ジョセフは、この選挙戦に莫大な資金を投じました。
フランク・シナトラをはじめ、多くのハリウッド俳優たちがケネディを応援・・・空前絶後のキャンペーンでした。

ジャクリーンは、夫の良き相談相手でした。
ジョンの服装、演説の原稿、身振り手振りにもアドバイスを与えます。
これまでいまいちだったケネディの演説は、大いにイメージアップします。
さらにジャクリーン自らも演説をします。
フランス語、スペイン語、イタリア語など、移民たちの言葉で語りかけます。
この言葉は、英語を話さず、貧しい生活を送るマイノリティの心を掴んだのです。
聴衆はその語学力に驚き、しかし、それ以上に庶民のために努力をしてくれる彼女に心打たれたのです。

ジャクリーンの人気は沸騰!!
ジャクリーンが来ると知らされると演説会場は2倍に膨れ上がりました。
1960年11月8日、大統領選挙投票日・・・
「今までの人生で最も長い夜」
夫を大統領にする・・・その目標のために、全てを犠牲にしてきました。
そして、ケネディが大統領に当選!!
ジャクリーンは31歳の若さでファーストレディとなったのです。

ジャクリーンの服装は、それまでの大統領夫人とは全く違い、華やかなものでした。
しかし、先輩の元大統領夫人からは批判を受けます。
「質素にしなさい」
「高価な服や派手なスタイルはやめなさい」
大統領夫人は、アメリカの母・・・常に質素で夫を立てる・・・控えめなイメージに合わないというのです。

そのジャクリーン・ルックは華やかで、全米に大ブームを巻き起こします。
自分専属のデザイナーをおいていました。

「私が着るものは常にオリジナルで、他の人が同じものを絶対に着ないように配慮してください
 太った背の低いご婦人に同じドレスで歩き回られるのは嫌なのです」

しかし、人々はそのファッションに夢中になります。
華やかで行動的な大統領夫人は、アメリカの女性たちに大きな影響を与えます。
”結婚しても、こういうファッションをしていいんだ”と思い、ジャクリーンの存在感自体が女性の在り方、生き方を大きく変えていきました。

ファッションだけでなく、ホワイトハウスを変えていきます。

「こんなところには住めない!!」

当時、ホワイトハウスは大統領の住まいとは思えないくらいひどい状態でした。
歴代の大統領がそれぞれ改築した結果、水の流れないトイレや、壊れたシャワーが放置されていました。
そしてジャクリーンは、ホワイトハウスの改修を行います。
修復の会議を作り、メンバーには全米有数の富豪たちを入れます。
莫大な予算を税金で賄えば、批判を受けるので、金持ちから寄付金や調度品の寄付をしてもらい節約しながら・・・
さらに、斬新なアイデア・・・ホワイトハウスのガイドブックを作り、見学に訪れた人に売ります。
発売から10か月で50万部売れ、改修費用を大きく助けました。
そしてテレビ番組も。。。「ジャクリーン・ケネディが案内するホワイトハウスへの誘い」自ら出演し、フランス語版、スペイン語版も作り、世界108か国に発信します。

ジャクリーンは、大統領夫人として、政治的にも使らを発揮します。
ケネディ大統領の外交の切り札ともいわれました。
フランスでシャルル・ド・ゴール大統領と会談した時、ケネディは険悪だったアメリカとフランスとの関係修復にジャクリーンの力を借りようとしました。

「私はジャクリーン・ケネディをパリまでエスコートしてきた男です」

夫の通訳を務めたジャクリーンは、フランス語を巧みに操り、文学や美術の話をし、ド・ゴールの心を掴んでしまいました。

「素晴らしい髪と目をしたほれぼれするほど魅力的な女性だ」

冷戦で緊張関係が続いていたソ連との会談にも同行。
ジャクリーンは、フルシチョフ書記長をたちまち魅了します。
カメラマンがフルシチョフに、ケネディと並んでポーズをとってくれというと・・・
「できればケネディ夫人との方がいいんだけどなー」と言ったと言います。
ジャクリーンを待ち受ける各国のマスコミは過熱し、まるで王族のようでした。
アメリカの女王と世慣れていたジャクリーン・・・立ち居振る舞いや歩き方など、何とも言えない魅力がありました。

大統領夫人として絶大な人気を誇ったジャクリーン・・・
ところが数年後には裏切り者のレッテルを貼られることに・・・。
1963年、ジャクリーンが34歳の時、大統領再選を目指すケネディは、テキサス州で遊説することにしました。
1963年11月22日、ダラス・・・
ジャクリーンは、ストロベリーピンクのスーツにピルボックスハットを被り、颯爽とタラップから降り立ちました。
ケネディは、オープンカーでのパレードを予定していました。
前回の選挙では、この地方では票がとれなかったので、てこ入れのためにジャクリーンと共に、しっかりと姿を見せようとしたのです。
そして、みんなが見やすいようにパレードのルートも発表!!
12時55分パレード開始。
ジャクリーンは夫の隣に座りました。
13時30分・・・車がテキサス教科書ビルに差し掛かった時・・・銃弾を頭に受けてのけぞる大統領。。。
ジャクリーンは、座席を這い上ってトランクにのぼろうとしました。

「私は彼の頭を抱えて、これ以上脳がこぼれ出ないようにしたの」

ジャクリーンは、夫について病院へ・・・。
しかし・・・1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ死去。
ショックと悲しみに包まれたものの、大統領の不在は許されない・・・。
すぐに大統領専用機の中で、ジョンソン副大統領が宣誓式を行い、ジャクリーンも立ち会います。
この日、ジャクリーンは、ケネディの血を浴びたスーツのままでした。
着替えるように勧められたものの・・・

「犯人に自分がしたことを見せるの
 世界中の人たちに見せるの」

夫の死を人々の心に深く刻みたい・・・
ジャクリーンは、葬儀のすべてを自ら取り仕切ることにしました。

1963年11月25日、ジョン・F・ケネディの国葬が行われました。
葬列は、ジャクリーンとケネディの家族が先頭に、ワシントンの議事堂からセントマシューズ大聖堂まで徒歩で移動。
埋葬は、南北戦争の兵士も眠るアーリントン国立墓地・・・。
ジャクリーンが特にこだわったのは墓を照らす”永遠の炎”。
消えることのない炎のようにアメリカ国民がケネディを忘れないように・・・。
ケネディの死後、ジャクリーンは親しい人に手紙で・・・
「私の人生は終わった」と書きました。

しかし、失意のジャクリーンを、世間は放っておいてくれませんでした。
ワシントンの新居の前には常に報道陣が・・・観光バスまでも・・・。
夫の死から5年・・・さらにケネディ家の悲劇は続きます。
弟・ロバート・ケネディが大統領に立候補するも・・・1968年6月5日暗殺・・・。選挙中のことでした。

ジャクリーンは、子供達にも身の危険が迫っていると感じていました。
しかし、ケネディ家は、ロバートの選挙に財産の殆どをつぎ込んでしまっていました。
ジャクリーンが警備のために使える資金は殆どありませんでした。
ロバートの葬儀の翌日・・・

「アメリカという国が憎い、アメリカという国を軽蔑するわ
 ケネディだから殺されるなら、子供たちは一番の標的じゃない!!
 こんな国、私出ていく!!」

ジャクリーンが逃避先に選んだのは、ギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスの元でした。

「とんでもない悪党だけど、同時にとても理解があるの」

オナシスとは、5年前、ケネディの存命中に一度会っていました。
この頃、ジャクリーンは3人目の子を身籠ったものの、生後わずか3日で死亡・・・。
その傷を癒すために妹の知り合いだったオナシスと船旅を共にしたことがあったのです。
23歳年上のオナシスはプレイボーイではあったものの、女性に対する気遣いがありました。
莫大な財力を使って、宝石は言うを及ばず、船や飛行機をジャクリーンにプレゼント。
何より魅力的だったのは、地中海に島を持っていたことでした。
ジャクリーンのために、島に万全のセキュリティシステムを作ってくれたのです。

1968年10月、39歳の時、オナシスと再婚。

この結婚は、アメリカをはじめ、世界中か裏切り行為だとバッシング!!

その一方で、少数ながら再婚を支持した人も・・・。
友人の女優エリザベス・テーラーでした。

「オナシスは魅力たっぷりで、新説で思いやりがある人だと思うわ
 ジャクリーンは、最善の選択をしたと思う」

11歳の娘と7歳の息子のために、平穏な生活を求めてギリシャに来たジャクリーン・・・。
しかし、浮気者のオナシスとは喧嘩が絶えませんでした。
ジャクリーンは、寂しさを紛らわすためにショッピングにのめり込みます。
気に入った靴はダース単位で、気に入ったブラウスは全色揃えました。
さらに、数々のファッションショーの常連で、コレクションを丸ごと買い上げます。
さすがの大富豪オナシスも制限を設けたほど、その買い物はすさまじいものでした。

1975年、結婚から7年でオナシス死去。
晩年、ジャクリーンに愛想をつかしていたオナシスは、遺言で財産の殆どを娘クリスティナに譲るとしていました。
ところがジャクリーンは、クリスティナを相手に、遺産相続の訴訟を起こします。 
その結果、2600万ドル・・・当時の金額で79億円という莫大な遺産を手にすることになりました。
もう、誰に頼る必要もない・・・ジャクリーンはアメリカに戻り、子供たちとニューヨークで生活を始めます。
莫大な遺産のお金で、子供の頃に味わった豪華な暮らしを再び手に入れたのです。

「今の生活は退屈で仕方がないの」

1975年、46歳で突然出版社に就職。
学生時代から好きだった美術や文学の本を作り始めます。
それを見た社員たちは驚いてこう言いました。
「雑誌の表紙が歩いている!!」
しかし、ジャクリーンは、コーヒーを自分で入れるなど、部下の手をわずかわせることはありませんでした。

「もう、自分のために生きる時が来たの」

仕事ではアーティストの書物を得意としました。
「ジョンとヨーコの愛の詩」、マイケル・ジャクソンの自伝の出版・・・
マイケルの自伝には、少年時代の体験や、思春期のコンプレックス、家族の問題など、それまでにない内容が書かれていました。
ジャクリーンは、序文にこんな文章を寄せました。

”多くの人にとってマイケル・ジャクソンは理解しにくい人物に見えるかもしれません
 けれど、彼と一緒に仕事をした人は違います
 この才能あふれるアーティストは、感じやすく、心温かく、面白く、また洞察力にも富んでいるのです”

そして、生涯最後の恋をしました。
50歳となったジャクリーンの相手は、有名な政治家でも大富豪でもなく・・・同い年のベルギー人・・・モーリス・テンペルズマンでした。
ジャクリーンはモーリスとは趣味が合い、文学を愛し、フランス語で会話をし、二人でオペラを見たり、美術品を買ったりしました。
二人は一緒に暮らすようになったものの、結婚することはありませんでした。
モーリスの妻が離婚に応じなかったからです。
それでもジャクリーンは満足でした。

「私が有名であることで、私の人生から彼が遠ざかることがないよう、心から願っているわ」

1994年5月19日、ジャクリーンはリンパ腺がんによりニューヨークで死去・・・64歳でした。
子供達とモーリスに見守られての最期でした。

墓は、本人の希望でアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの隣に造られました。
ジャクリーンが夫の葬儀の際に灯した永遠の炎は今も燃え続けている・・・

「人生にあまり多くを期待してはいけない
 普遍的なものは何もない
 だから、誰も頼ることはできない
 頼れるのは自分だけ
 これが辛い思いをして私が学んだことです」

 
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ケネディの暗殺を受け、大統領となったジョンソン。。。
ケネディの時代の閣僚を再任させ、ケネディの悲願だった公民権法を成立させたケネディの後を引き継いだ男です。

jyon

Great Society=偉大な社会を目標に、社会的弱者を救済することを目標にしていました。
ベトナム戦争も始まった時代のことです。

1963年11月22日、アメリカ副大統領ジョンソンは、ケネディについて故郷のテキサスにいました。
ケネディは南部ではあまり人気がなく、ジョンソンの役目はケネディの選挙に先立ち、南部でケネディを売り込むことでした。



人々の反発も見られず、遊説は大成功!!
そこに銃声が響き渡ったのです。
ダラスの暑い日です。
ケネディ大統領は即死。

jyon2
メディアは、悲報一色・・・次の大統領のことなど触れもしなかったのです。
ジョンソンは、あまり存在感もなく今まで来ていましたが、突然、国の最高司令官になってしまったのです。
もともとリーダーシップもあり、わずか数日で、ケネディの推し進める改革に着手します。

数年後、ベトナム戦争への対応から彼の評価は地に落ちます。
しかし、ケネディが打ち出した社会政策は、ジョンソンなしには成しえなかったかもしれません。
そして・・・バラク・オバマが大統領となれたのも、リンドン・ジョンソンのおかげかもしれません。

第36代アメリカ合衆国大統領リンドン・ベインズ・ジョンソン。
粗野で傲慢、人を操ることに長けていました。
一方で志が・・・リンカーンが唱えた人々は平等であるということの法制化でした。
しかし、ケネディの悲劇があるまでは、自分には出番はないと思っていたのです。

1960年の大統領選挙の民主党代表候補となったのは、ガサツなテキサス人の男・ジョンソンではなく、東部出身の見栄えのいいインテリ・ケネディでした。
ケネディを大統領に、ジョンソンは副大統領となります。
ケネディがジョンソンを副大統領としたのは、保守的な南部の党員を取り込むことだったのです。

しかし、副大統領にはほとんど権限はなく・・・

ダラスで銃声が鳴り響いたその日から、変わり始めました。

ケネディが亡くなり、長年望んでいた地位につきます。
混乱を拡大させないために!!
ジャクリーン・ケネディのとなりで宣誓をします。
宣誓が終わり・・・新大統領となったのです。

メディアが亡き大統領に向いている間に、物事を進めていきます。
閣僚とホワイトハウスの支持を取り付ける事。
演説では・・・ケネディの志を継ぐこと・・・忠誠を誓うことを強調します。
ジョンソンは南部出身でしたが、保守派でも公民権反対派でもなく・・・行き詰っていた公民権法を成立させます。
弱者への思いやりが深く憤りを感じていたジョンソンは、南部の人種隔離に対しても立ちあがります。

ジョンソンは上院議員を動かします。
ひとりひとりと連絡を取り・・・味方にしていきます。
減税法案と連邦予算の両方を可決する方向に持って行きました。
1964年2月26日減税法成立!!
2か月と少しで、ケネディが成しえなかったことをし。。。
いよいよ公民権法案を通す道を作ったのでした。

ジョンソン大統領は絶好調!!
支持率79%、ケネディの56%を大きく上回っていました。

ケネディの政策を受け継ぎながら・・・
公民権の確立と失業問題の解決を掲げます。
”貧困との無条件の戦い”の為に、10億ドル拠出します。
リベラルで進歩的、即行動の人でした。
そのキャッチフレーズは・・・”偉大な社会”・・・そのためには、公民権法の制定が必要でした。

ジョンソンは世論を導きながら・・・公民権運動確立に向けて。。。
ケネディの願いだ!!と、説得に回ります。
反対派の保守派との対決もありました。
正義は自分の側にある!!
下院も上院も通過し・・・1964年7月2日公民権法がサインされます。

そして・・・次こそは、選挙で選ばれた大統領となるための戦いが始まるのです。
彼が恐れていたのは、ロバート・ケネディが出馬すること。。。
そのことは、阻止しなければなりません。

選挙を控えて頭を悩ませていたのがベトナム。。。
ケネディ政権の下、介入を始めたアメリカ。。。
ベトコンを掃討するために、軍事援助を強化していたのです。
1964年8月事件が起こりました。
”トンキン湾事件”が起こりました。
アメリカの駆逐艦が、先制攻撃を受け・・・反撃したのです。
更なる軍事行動に???
アメリカ議会はジョンソン大統領を支持し、南ベトナムを全面的に支援する方向に。。。
圧倒的な信任がジョンソンに託され、圧勝!!
晴れて、選挙で選ばれた大統領となったのです。

医療保険・都市開発・・・80もの法案が可決されます。
公民権法と共に重要だったのが、投票権法・・・
納税の有無や、識字テストを理由に人々に投票権がなかったのです。
1965年アラバマ州はデモの聖地となっていました。
投票権法成立に向けて・・・変革を加速させていきます。
議会の抵抗は続き・・・しかし、説き伏せて成立させます。
南部を合衆国の一員とするために!!

1965年、ベトナムが表面化していきます。
軍事攻撃を強めていきます。。。北爆は3年間も続きました。
しかし、諸外国に支持されていないベトナムへの介入・・・。

国内でも黒人の自由に対する暴動が起きます。
全米38の都市に広がります。
偉大な社会は見る影もなくなっていきます。

ベトナムの戦費はアメリカを圧迫。。。
1965年  1億300万ドル
1966年  60億ドル
1967年 200億ドル。。。

泥沼の戦争で、支持率は36%にまで織り込みます。 
ジョンソンは・・・次の大統領選に出馬しない意向を示し。。。
大統領がホワイトハウスを離れ・・・時を同じくしてベトナムも和平への道へと進んでいくのでした。
ベトナムは、ジョンソンの汚点となったのです。

しかし、ジョンソンはアメリカを変えました。
法を整備し、平等と機会の均等を与えたのです。
20世紀で一番大切な時期を大統領として過ごし、ケネディが到底成しえなかったであろう公民権法・投票権法の成立させたのは、あか抜けない田舎の大統領ジョンソンだったのです。

そう、オバマ大統領は有り得なかったのです。

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