日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:スターリン

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男【Blu-ray】 [ ゲイリー・オールドマン ]

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世界の経営者が尊敬するリーダーは・・・??
ある会社の調査の1位は、第61代イギリス首相ウィンストン・チャーチルです。
ナチスドイツに勝った不屈の精神、イギリス国民を鼓舞するスピーチ力、そのチャーチルの人生は、失敗と挫折、敗北と失望の連続でした。
イギリス屈指の政治家とされるチャーチルは、政治家以外にも様々な顔がありました。
権威あるロイヤルアカデミーで展覧会を開いた画家の顔、生涯で30冊以上の本を書きノーベル賞を受賞したノーベル賞作家、レンガ職人の組合に加入し、自らの家の壁を作ったレンガ職人の顔・・・。
失敗と挫折を繰り返し、それでも首相を目指したチャーチル!!

イギリス国民にウィニーという愛称で親しまれたチャーチル・・・
半世紀以上が過ぎた今でも、そのドラマや映画が作られています。
第二次世界大戦でイギリスの首相として国の命運を握ったチャーチル。
ヒトラー率いるナチスと和平交渉をするか?それとも徹底抗戦するか??決断を迫られます。

「我々は野原や市街で戦い丘で戦う
 断じて降伏はしない・・・!!」

チャーチルのこの一言で、ドイツが優勢だった戦いを変えることとなります。
この時、チャーチル65歳、初めて首相になった遅咲きの政治家でした。
若い頃のチャーチルは、親も見放すほどの・・・親も見放すほどの不良の落ちこぼれでした。

イギリス、オックスフォード郊外にあるブレナム宮殿・・・チャーチル家の屋敷です。
チャーチル家は、150年続いた貴族の家柄でした。
1874年、チャーチルはこの宮殿で生まれました。
父・ランドルフは後に財務大臣を務めた政界の貴公子。
母・ジャネットは、ロンドンの社交界でも有名な美人でした。

1881年7歳で名門貴族の通う寄宿学校に入れられたチャーチル。
通信簿には遅刻20回・・・恥ずべきこと
常にトラブルの元凶で、喧嘩が絶えない・・・
無ず子の通信簿を見た父は・・・
「お前は負け犬のひとりとなり、みすぼらしく不幸で不毛な存在に堕落するだろう」と言ったといいます。
しかし、どんなに冷たくされてもチャーチルは父を尊敬し、憧れていました。
演説原稿を読んだり、父ののった新聞を集めたり・・・どうしたら父のようになれるのか考えました。
父親から突き放された息子・・・しかし、優しく接してくれるはずの母も冷淡でした。

チャーチルが寄宿舎から母に書いた手紙が残っています。

「どうぞ、ぜったいぜったいぜったいぼくに会いに来てください
 ぜったいです」byチャーチル

そんなチャーチルの心の孤独を癒したのが、おもちゃの兵隊でした。
チャーチルは人形の兵士を動かしている時だけは夢中になれました。
その姿を見た父・ランドルフは、軍人よりも向いているのでは??と、軍人を勧めます。
なんとか、士官学校に入学することのできたチャーチルは、19歳になったある日・・・
父・ランドルフが演説の途中で言葉に詰まります。
原因は、脳に至る重い病気でした。
1895年、ランドルフ、45歳で死去。
目標とする偉大な父が、突然消え去りました。

「私はいまや己自身が運命の主人となった」

士官学校を卒業したチャーチル・・・初めて自らの意思で選んだのは、戦争でした。
イギリスは、大英帝国として栄華を極めていましたが・・・19世紀末から植民地の独立運動が勃発!!
武力反乱もしばしば起きていました。
チャーチルはその反乱を抑えるべく、インド・スーダンなど戦地を転々とします。
最前線で、敵の弾丸をよけない命知らずな行動で、頭角を現していきます。
チャーチルを突き動かしていたものは、亡き父に自分の実力を証明したいという願望でした。
そしてチャーチルは、リスクを冒すことを恐れない人物でした。
彼は、地震の名をあげることに強い意志を持っていて、それが一番大事で、身の安全、経済的な安定は二の次でした。
戦線を転々としながら夢中で読んだ本は父も愛読していた「ローマ帝国衰亡史」でした。
大英帝国の行く末に危機を抱くチャーチルにとって、ローマ帝国の衰退は他人事ではありませんでした。

「我が人種の力と活気は衰えることなく、先祖から引き継いだ帝国を保持していくことを我々は決意ぢている」byチャーチル

大英帝国を保持する為に自分はどうすればいいのか??
戦場から帰ってきたチャーチルは軍陣をやめ、父と同じ政治家を志します。
24歳で下院議員に立候補!!
しかし、実績も知名度もないチャーチルは落選!!
とにかく知名度をあげなくては・・・!!

その時、チャーチルが目をつけたのは、南アフリカでおきていたボーア戦争でした。
イギリスが新たな植民地獲得のためにオランダ系のボーア人に対して起こしたものです。
チャーチルは新聞社と契約し、従軍記者として現地へ!!
ところが、チャーチルは現地で捕らえられ捕虜となってしまいます。
3週間が過ぎた頃・・・仲間と脱獄を試みます。
しかし、看守の目を脱獄できたのはチャーチルだけ・・・
敵地でのたった一人での逃亡が始まりました。
チャーチルは密かに列車に乗り込んで・・・目指すは500キロ先のポルトガル領モザンビーク!!
脱走してすぐチャーチルには追手がかかり、懸賞金もかけられます。
このまま易に行ってはあぶない・・・列車から飛び降り・・・脱走から2日間眠れず、何も食べていない・・・
一か八か、一軒のドアをたたきました。

「私はイギリスの特派員です。
 捕虜収容所から逃げてきました。
 助けてください。」byチャーチル

「君は家に来てよかった。
 うちだけだ、子の辺りで君を敵に引き渡さない家は・・・!!」

男は現地に帰化した元イギリス人・・・この地で数少ない味方でした。
捕虜の身から脱獄し、イギリスに生還したチャーチル・・・
イギリスではこぞって英雄として取り上げられました。
図らずも抜群に知名度を上げたチャーチルは、立候補し、下院議員に初当選しました。
1900年、25歳の時でした。

亡き父の背中を追って政治家となったチャーチル・・・
しかし、65歳で首相になるまで何度も失敗を犯し、政治生命を絶たれかけます。
33歳の時、人生を変える女性が表れます。
1908年クレメンティーンと結婚
9歳年下と妻は、生涯チャーチルに安らぎを与えてくれました。
そして5人の子供に恵まれます。
チャーチルとクレメンティーンの関係は非常に重要で、妻は彼にとって岩のような存在でした。
世界が変わりゆく中で安定した存在でした。
そして彼が誤った選択をしたとき、過ちをはっきり指摘することができる数少ない人物でした。
益々仕事に打ち込んだチャーチル・・・
1911年36歳で海軍大臣に抜擢されます。
1914年第1次世界大戦勃発!!
イギリスは連合国としてドイツに宣戦布告します。
チャーチルはドイツに大打撃を与えるべくガリポリ作戦を発案します。
目標はトルコ・イスタンブールの占領。
黒海とエーゲ海を繋ぐ要所を押さえてドイツの補給路を断つ作戦でした。
ところが・・・イスタンブールを望むガリポリ半島に上陸しようと試みた英仏連合軍は、6万もの犠牲者を出して大敗・・・。
この事態を受けて作戦の立案者のチャーチルに避難が殺到します。
チャーチルは戦争にもかかわらず、海軍大臣を辞任!!
妻への手紙に、不可解な文章を書いています。

もし私の黒い犬が戻ってきたら、今のところはずいぶんと遠くに行っているようで、それにはほっとしている

チャーチルは犬を飼っていませんでした。
チャーチルは、彼にしか見えない黒い犬に怯え、悩まされます。
この黒い犬とは・・・??
1915年、彼は非常に気が動転し、落ち込みました。
彼の精神状態を言い表すなら、死別とか、喪失とか、悲観・・・
これらは、うつのような症状ですが、病気ではありません。
海軍大臣という要職を奪われたことが、彼の心を砕き、落ち込ませたのです。
大臣の座を追われたチャーチルは、妻の勧めもあって、田舎で静養します。
やがて、目に映る自然や風景を描き始めました。
無心に何枚もの絵をかきます。
後にその心境を表現しています。

「絵の女神が私を救いに訪れた」

気力を取り戻し、ロンドンに戻ったチャーチル・・・この時40歳。
大臣を辞任し、政治生命を絶たれたに同然でした。
今の自分にできることは・・・一兵士として再び戦場へ・・・!!
大臣まで務めた人物が最前線に行くのは異例のことでした。
死と隣り合わせの塹壕の中で不思議な高揚感に襲われます。

「防衛区域のただ中では、土から死者の足やら服が飛び出していて、広範囲に墓が散らばっているようだし、どちらを見ても水や泥だらけだ。
 これに、湿気、寒さ、あらゆるささいな不便が加わっているが、私はこの数か月感じたことのない幸せと充足を感じている。」

1918年11月ドイツの降伏で終戦。
イギリスは勝利したものの90万人の戦死者を出し、膨れ上がる戦費が生活を圧迫し、4年後の選挙ではチャーチルの所属する自由党は大敗し、議席を失うことに・・・!!
それでもチャーチルは諦めません。
2年後の1924年恥も外聞もなく敵の保守党に鞍替えして出馬、下院議員に当選!!
そして、チャーチルが生涯最もうれしかったのが父・ランドルフと同じ財務大臣に就任します。
この時、49歳でした。

1939年第二次世界大戦勃発!!
イギリスは再び連合国としてナチスドイツと対決します。
その大戦のさ中・・・イギリスの首相となったのがチャーチルでした。
対戦当初、ドイツは破竹の勢いで各地を侵攻、フランス・パリも占領し、英仏海峡までやってきました。
イギリスが降伏すれば、ヨーロッパ全体がヒトラーの手に落ちるかもしれない・・・!!
絶体絶命の危機の中、チャーチルはどうやってイギリスを勝利に導いたのでしょうか??

第一次世界大戦で敗れたドイツは、壊滅的な打撃を受け国民の生活は困窮を極めました。
そんな中、ヒトラーのナチ党が台頭します。
1933年ヒトラーはドイツの首相に就任。
2年後、再軍備を宣言します。
この時、イギリスは一旦抗議するものの、ドイツの再軍備を追認しました。
ドイツを封じ込めるのではなく、譲歩することで取り込もうとしたのです。
しかし、チャーチルは違いました。
1932年にドイツを訪問し、ナチ党が独裁の道を着々と歩んでいることを目の当たりにしていたからです。

「私にはドイツ再軍備は冷酷で不気味さを帯びているように思われた。
 それはきらめき、そしてギラギラと光っていた。」

チャーチルはイギリスの政治家の中で、アドルフ・ヒトラーの脅威に最初に気付いた一人でした。
ヒトラーがヨーロッパのバランスを崩して、再び世界を戦争状態に戻そうとしていると早くから感じ取っていました。
1939年9月、ナチスドイツがポーランド侵攻
イギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、チャーチルはまたもや海軍大臣に就任します。
そのわずか9か月後、ドイツはオランダ・ベルギーに侵攻。
チャーチルが指摘した脅威は本物となっていました。
1940年5月・・・ヒトラーの危険性をいち早く唱えたチャーチルが首相に任命されました。
65歳の時でした。

「ついに私は、全局面にわたって指導していく権力を握ったのだ。
 私は運命と共に歩いているかのように感じた。
 そして、過去の私の生涯は、全てただこの時、この試練のための準備に過ぎなかった。」

ナチスドイツの対抗するためには、国民の士気を高め、野党を取り込む必要がありました。
イギリスを一つにまとめ上げる!!
チャーチルは、演説の準備を周到に行います。
6月4日、下院の議場に立ち、野党の議員を前に演説をはじめました。

「我々はいかなる犠牲を払っても、英国を守り抜く
 海岸で上陸地点で戦い 野原や市街で 丘で戦う
 断じて降伏はしない!!」

議場は歓喜に包まれたといいます。
チャーチルの就任後、それまでは入閣を拒否していた議員たちも政権に参加!!
パリを占領したナチスは、遂にイギリス本土に本格的な攻撃をはじめました。
爆撃機にとるロンドンの無差別空襲!!
多くの市民が犠牲となりました。
瓦礫と化したロンドンを歩くチャーチル・・・みなを励まして回ります。
チャーチルは、どんな場所でも帽子、葉巻、ステッキを崩すことはなく、その姿に国民は「イギリスはまだ大丈夫!!」と感じたといいます。

「大英帝国と共に、我々は降伏することなく戦い続けるだろう
 ヒトラーの呪いが人々の頭上から消え去るまで!!」

チャーチルはドイツ軍の具体的な策も実行します。
最新鋭のレーダーを配備!!ドイツ軍の爆撃機を迎え討つ体制を整えます。
1か月以上の戦闘で、イギリスはドイツ軍1,400機を撃墜!!
ロンドンの空からドイツ軍を追いだすことに成功しました。
ロンドンは守ったものの、大陸ではドイツ軍が優勢を誇っていました。
そこでチャーチルは、アメリカのルーズベルト大統領と会談!!
アメリカの参戦を要請します。

毎日の執務時間17時間、睡眠は3時間!!
自宅に帰っても外交文書の口述を続けました。
それでも、昼からシャンパンを欠かさず、日に10本の高級葉巻をくゆらし、夜にはウイスキーやブランデーを・・・
心臓発作で倒れても、生活は変えませんでした。

1941年12月アメリカが参戦し、ドイツに宣戦布告!!
形勢を一気に逆転させるためには・・・??
ノルマンディー上陸作戦!!

連合軍が英仏海峡のフランス・ノルマンディーに上陸し、ドイツの防御網を突破しようというものです。
この勝負に負ければ、イギリスは二度と立ち上がることはできないかもしれない・・・!!
チャーチルは、作戦実行前夜、イギリスの拠点・ポーツマスまで見送りに行ったといいます。
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦・・・4000隻を超える大艦隊、史上最大の上陸作戦が実行されます。
ドイツ軍との激しい戦闘の末、連合軍は上陸に成功!!
ここから反撃が始まりました。
連合軍はドイツ軍を次々と撃破!!そして、1945年5月、ベルリンが陥落し、ドイツは無条件降伏!!
チャーチルの戦争はようやく終わりました。

チャーチルはイギリスが勝利することで、戦う以前の大英帝国の状態に戻ることを期待していました。
ところが、戦勝国の会議で主導権を握ったのは、アメリカのルーズベルトとソ連のスターリンでした。

「私の左側には手足を思い切り伸ばしたロシアの大熊、右側にはアメリカの大きな象がいた
 二頭に挟まれ、哀れな英国の小さなロバはただ一人、正しい道を知っていた」

イギリスの領土要求は不調に終わったばかりか、かつての大英帝国の植民地も独立の道を歩み始めます。
チャーチルの目指した栄光は幻となってしまったのです。
更に選挙でも保守党は敗退・・・首相の座を追われたとき、70歳になっていました。
引退を考えてもおかしくないのに・・・野党の党首として働き続けます。

「いま、政界を引退したら、2度と戻ってくることは出来ない」

チャーチルは、地震の影響力で冷戦の緊張緩和が得られると信じていました。
東西冷戦の中で、イギリスの影響力を保持する為に、自分にできることがあると信じました。
第二次世界大戦後の世界は、ソ連を中心とする社会主義陣営とアメリカを中心とする資本主義陣営の冷戦状態にありました。

チャーチルは、東西の冷戦を「鉄のカーテン」と表現し、その西側にいる我々は団結するべきだ!!と、主張します。
現在のEU構想をいち早く唱えたと言われています。
活動を続けること6年・・・チャーチルに幸運が・・・政権与党への不満が爆発し、野党が政権をとり1951年、76歳にして再び首相に返り咲きます!!
しかし議会では、老害、引退すべき・・・との発言が・・・
新聞記者にいつ引退するのか聞かれたチャーチルは、
「私の健康が本当に衰えて、大英帝国が本当に元気を取り戻したらね。」と、答えました。

そんな中、思いもよらない出来事が・・・ノーベル文学賞の受賞!!
自らの著書、「第2次世界大戦」が戦争当事者の貴重な証言として高く評価されたのです。
チャーチルは序文に書いています。

「過去に深い考慮を払うことが来るべき日の手引きとなり、未来の恐るべき光景を抑制できることを私は心から願っている」

ノーベル賞の受賞で、まだまだ元気と思われていたチャーチルでしたが・・・耳が遠くなり、閣議の答弁も失敗するように・・・
1955年、80歳になったチャーチルは、周りに促され遂に引退を受け入れます。
首相官邸を去る前日・・・妻・クレメンティーンと共にエリザベス女王から直々に労いを受けたのです。
それから10年後の1965年1月24日、ウィンストン・チャーチルは90歳で激動の人生にピリオドを打ちました。 

奇しくも父親が死んだ人同じ日でした。
1月30日の国葬にはチャーチルを慕う30万人の国民が参加。
チャーチルは人生を振り返ってこうつぶやいています。

「いい旅だった
 旅に出た価値はあった・・・1度だけなら」byチャーチル

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”一人の死は悲劇だが 100万人の死は統計だ”

suta-rin
ソビエト連邦に四半世紀にわたって君臨したヨシフ・スターリン。
ソビエトを第二次世界大戦の戦勝国に導き、世界を二分する大国にした男です。
しかしそれは、多くの国民の死の上に築かれたものでした。


1878年12月18日ジョージア・小さな農村ゴリで、貧しい靴職人の息子として生まれたのが、ヨシフ・ジュガシビリ・・・後のスターリンでした。


1892年2月13日、13歳の時に、公開絞首刑という衝撃的な事実を目にします。
処刑されるのはジョージア人、処刑するのはロシア人。。。
19世紀当時、ジョージアは、ロシア帝国の支配下にある辺境の地でした。
ロシア皇帝の絶対的権力のもとに、民族も文化も違うジョージア人は抑圧されていたのです。
貧しい生活に喘いでいました。
ジョージアの権力と経済を握っていたのはロシア人で、ロシア語が強制され、新聞もジョージア語は禁止されていました。

厳しい暮らしの中、ジョージア人が救いを求めたのがキリスト教でした。
ヨシフも、キリスト教が主催する学校に通い、聖職者を目指していました。
しかし・・・この目の当たりにした現実・・・
ロシアに逆らった些細な罪で、命を落とすジョージア人。。。
見せしめの絞首刑・・・それを教会学校の教師が子供たちに見学を命じます。
処刑する側には聖職者が・・・

神は実際には存在しない・・・教会学校を退学したヨシフは、ジョージアの貧しい者たちを救う為に解放運動に参加します。

退学から4年後・・・1903年7月・・・ヨシフは、労働者を扇動しストライキを起こしたという罪で、シベリアに流刑となります。
この流刑地で自らの運命を変える一人の人物の存在を知ることとなります。
lenin一冊の小冊子・・・その著者はウラジミール・レーニン。。。
ロシア皇帝打倒の革命集団を率いる若き指導者でした。
当時、すでに農奴はなかったものの・・・労働者が一部の特権階級に搾取されていました。
レーニンの思想は、特権階級から富を奪い、労働者が主人公となる・・・。
だれもが公平な社会主義国家の樹立を目指していました。

「搾取階級に同情する必要はない。
 彼等は根絶やしにしなければならないのだ。」

ヨシフはレーニンに共感し、自らの道を確信します。
倒すは、ロシア帝国!!

以後ヨシフの活動は過激に・・・13年間で逮捕7回、流刑5回に及びました。
ヨシフは自らに新たな名前を付けました。
スターリン・・・ロシア語で”鋼鉄の人”という意味です。

1917年ペトログラードでレーニンがで武装蜂起を促します。
労働者や兵士たちがたちまち宮殿を占拠し、権力を掌握しました。
200年に及んだロシア帝国は終わりをつげ、世界初の社会主義政権「ソビエト共和国」が誕生したのです。
レーニンをはじめとする政治を行う7人の中にはスターリンの名前もありました。
エリートが揃う中、末席でしたが・・・

最初の仕事は・・・クラーク(富農)から食料を奪うことでした。
汚れ仕事でした。。。
「100人以上の金持ちを処刑せよ。
 必ず民衆に見える様に処刑せよ。」byレーニン
スターリンは命じられたとおりに、食料の提供をしないクラークを処刑していきます。
「死が全ての問題を解決する
 全員が死んでしまえば何の問題も残らない。」byスターリン

1917年革命により建国されたソビエト共和国・・・目指したのは階級のない誰もが平等な世界でした。
しかし、20年後・・・彼らが見たのは大凶作の上の400万人を餓死させた失政でした。
反抗する900万人を収容所に送り、半数を死に至らしめました。
この責任者はスターリン。。。

どうして抑圧する側に回ってしまったのでしょうか??

1922年43歳で共産党書記長に就任します。
権力への階段を登り始めたスターリンの最大の敵は、国家の最重要ポスト・軍事担当大臣レフ・トロツキーでした。裕福なユダヤ教農家に生まれたトロツキーは雄弁家で理論家・・・。
トロツキーにとっては、スターリンはジョージア出身の田舎者でした。
相容れないふたり・・・トロツキーを追い落とす千載一遇のチャンスがスターリンの訪れます。
1924年1月21日レーニン死去。

葬儀は書記長であるスターリンが執り行うこととなりました。
torotuki-トロツキーは病気療養のためにモスクワを離れていました。
スターリンは電報を打ちます。
「レーニン死す。葬儀は1月23日。」
受け取ったトロツキーは、間に合わないと葬儀を欠席しました。
しかし・・・実際には、葬儀は1月26日。。。
スターリンの陰謀でした。
偉大なる指導者の葬儀に欠席・・・騙されたとはいえ、トロツキーの権威は失墜!!
これを機に・・・1927年共産党中央委員会総会で批判し・・・トロツキーを党から除名します。
最大のライバルを葬り去ったスターリンは、ソビエト連邦の最高権力者となったのでした。

モスクワ・・・赤の広場にあるレーニン廟。
スターリンは、レーニンの遺体を永久保存しました。
真っ先に行ったのは、レーニンの神格化です。

「私は、レーニンの最も忠実な使徒である。」

各地にレーニンの銅像を作り、農村には写真を・・・。
レーニンの神格化は、実際には自分を神格化するためでした。
しかし、問題は山積・・・。
世界で唯一の社会主義国は、その波及を恐れる本主義諸国から敵視されていました。
1927年イギリスとの国交が断絶。
戦争が起こる可能性に、スターリンは危機感を感じていました。
我々は、先進諸国に50年から100年立ち遅れている。
この距離を10年で走り抜けねばならない・・・。
農業が中心の近代化が遅れた国だったソビエト・・・現状打破のために、1928年第1次五か年計画を始めます。
重工業を先進諸国のレベルまで一気に発展させようというものでした。

高層ビルが・・・鉄道が・・・自動車が・・・ダムが・・・作られていきます。
計画を推進するためには莫大な資金がかかる・・・作物を輸出することを考えます。
農業の集団化を考え始めました。

作物を確実に徴収するために、収穫した作物は全て国が管理します。
しかし・・・この政策が悲劇を招くのです。
大凶作・・・にもかかわらず、あらかじめ決められた量をノルマとして徴収していきます。
農民の手元には、生き延びるのに必要な穀物すら残っていませんでした。
1年で400万人の死者がでたことも・・・村人全員が死に絶えたことも・・・
あまりに過酷な農民の政策に、妻・ナージャも批判します。
1932年11月・・・革命の理想を見失った夫を避難する妻は・・・ピストルで自らの胸を撃ち・・・
「お前は私を見捨てた・・・まるで敵のように。。。」byスターリン。

反抗する者は全て革命の敵・・・
妻が抗議の自殺をしてもそれは変わることはありませんでした。
「ペルミ36」強制収容所は、現存する唯一の強制収容所です。
スターリンは、集団化に反抗する人間を、次々に強制収容所に送ります。
このような施設は500ほどあり・・・
集められた人々は、工場や工事現場でタダ働きの労働者となりました。

収容所に送られた農民の数は900万人。
半数以上が耐えられずに1年以内に死にました。

「死の懲罰をともなう恐怖の強制労働こそ、囚人を矯正するのだ。」

スターリンの指示によって製作された「イワン雷帝」は・・・敵対する貴族たちを次々と粛清し、恐怖政治を行った暴君でした。


1934年共産党党大会・・・壇上に立ったスターリンは・・・
「決してパニックに陥るな!!
 たとえ混沌と危険が地平線に迫っても・・・!!」
この時、会場にいた半数以上の党員が、処刑されるとは思う余地もありませんでした。

大粛清・・・
1932年・・・・・2728人
1933年・・・・・2154人
1934年・・・・・2056人
1935年・・・・・1229人
1936年・・・・・1118人
だったのが・・・
1937年・・・353,074人
1938年・・・328,618人
となりました。

ヒトラーでさえ・・・
「スターリンとその部下は病気なのだ
そうでなければ、大粛清の説明がつかない。」と言ったとか。

どうしてこんなことが行われたのでしょうか??

1936年スターリン体制が盤石なものとなります。
まず、粛清の対象となったのは、かつての共産党幹部でした。
rehu最初に狙われたのは、レフ・カーメネフ。
スターリンと同じジョージア出身でシベリア流刑の仲間でした。
罪状は、国家反逆罪・・・家族には手を付けないと約束し、自白を強要します。
公開裁判が行われ・・・家族を守るために罪を認めたカーメネフはすぐに処刑されてしまいました。
ところが・・・約束を反故にして、妻子をも処刑!!
そして、共産党幹部全員を死に追いやったのです。

その背景には、農業集団化の失敗があったようです。
農民たちがバタバタと死んでいく・・・党の幹部たちはスターリンの責任を追及・・・する人間を粛清していたのです。
一般人たちも巻き込まれていきます。

人々が一番恐れていたのは、密告でした。
密告されないように、外では声を潜め・・・密告しないのは人民の敵だと密告する側にもなります。
粛清された人と話していたとか、一緒に写真に写っていたとか・・・些細なことで密告されます。

地方の党支部への命令には・・・地区ごとに処刑ノルマが決まっていました。
あらかじめ人数を決めて、目標に達するまで処刑していきます。
毎晩、膨大な処刑執行命令書にサインをするスターリン。

「逮捕した者の中に、本物の敵が5%含まれていれば、大成功というべきである。」

しかし、スターリンは今でも支持されているのでしょうか?

1938年ヒトラー率いるドイツが台頭し、スターリンは脅威を感じていました。
この時、ドイツはオーストリアを併合し、東西に領地を広げます。
いずれソビエトにも・・・。
ドイツとの戦争を回避したいと思っていたスターリンは、独ソ不可侵条約を締結。
ところが、1941年6月22日ドイツがソビエトに電撃侵攻!!
ソビエトは、わずか3週間で200万の兵士を失って・・・壊滅的となってしまいます。
国境地帯の警備を怠っていたスターリンの失策でした。

しかし、なおも権力の座に座り続けるスターリン。
鼓舞するために、ロシア帝国時代の軍服を復活させます。
自ら軍の最高司令官となります。

リーダーになれる人物は、スターリン以外に考えられませんでした。
なぜなら、リーダーになる人間は、スターリンによって粛清されてしまっていたのです。
1941年7月・・・ソビエト軍の捕虜の中に、長男・ヤコフが含まれている!!
ドイツから捕虜交換を求められるスターリン。
しかし、これを拒否!!
ヤコフはドイツの収容所で死亡しました。

知らせを聞いたスターリンは・・・ヤコフの写真を眺めていました。
「もしほかの兵士たちのことを忘れて、ヤコフだけ助けたら・・・私はもう”スターリン”ではいられなくなるだろう」

劣勢に立たされたソビエトを立て直すために・・・
指令227号を出しました。

”戦闘から一歩でも退却した兵は、背後から銃殺せよ。」

戦場では・・・軍の最後に秘密警察の銃殺部隊が構えていました。

死の恐怖で戦意を煽ったのです。
1942年200日に渡って激戦が行われたボルゴグラード(旧・スターリングラード)・・・100万のドイツ軍が包囲する中、戦闘は熾烈を極め、ソビエトは苦戦を強いられます。
しかし、厳しい冬でソビエトに有利となりドイツに勝利!!
この戦いでのソビエトの犠牲者は48万人、味方による銃殺は、13,500人にのぼりました。

1945年6月24日モスクワでの戦勝パレード・・・。
第二次世界大戦の戦勝国となり、スターリンの権力は絶大となります。
終戦から8年後、スターリンは一人倒れているところを発見されます。
脳溢血でした。
1953年3月5日、スターリンは74年の生涯を閉じました。

モスクワ・ノヴォデヴィチ修道院・・・31歳の若さで自殺したナーシャはここに葬られています。
葬儀の途中にも仕事場に戻ったスターリンは、暇さえあればここに来ていました。
束の間・・・”鋼鉄の人”から自分に戻ったのかもしれません。

スターリンの名を使った息子にはこういいました。

「お前はスターリンではない。
 私だってスターリンではない。 
 新聞に載っているスターリン。
 肖像画に描かれているスターリン。
 それがスターリンなのだ。」


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1941年12月8日真珠湾攻撃・・・それより8年前の1933年2月24日。
スイス・ジュネーブでの国際連盟臨時総会で・・・日本が戦争への分岐点となる演説がありました。
日本首席全権は松岡洋右。

「極東の平和を保障し、世界平和を維持するために、日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

この演説から一か月後、日本は国際連盟を脱退!!
世界から孤立する道を進んでいきます。

国際連盟は、第一次世界大戦後・・・1920年に作られ・・・設立当時・加盟42か国、常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本でした。後にドイツ、ソビエトも加盟しますが、アメリカはいませんでした。
第28代アメリカ大統領W・ウィルソンが提唱したにも関わらず・・・。
アメリカの議会が反対し、参加しないままの出発となったのです。

1914年に第一次世界大戦に参戦した日本・・・イギリスとの同盟を理由にドイツに宣戦布告。
当時ドイツが利権を持っていた山東省に攻め込み、獲得ました。
マリアナ諸島・マーシャル諸島・パラオ諸島・カロリン諸島を委任統治することになりました。

どうして脱退したのでしょうか?

当時日本は、中国にある満州・関東州に派遣された日本陸軍部隊が関東軍。
1931年9月18日に日本が起こしたといわれている柳条湖事件が起きました。
これをきっかけに、満州事変・・・政府の方針を無視して軍事行動を進めていき・・・満州国を作りました。

世界大恐慌のあおりを受けて、深刻な不況だったので、働き口、資源を求めてたくさんの日本の人々が満州に渡っていきました。そしてソビエトの恐怖・・・。

1932年3月・・・作った満州国は、日本の傀儡政権でした。
中国国民党政府は、侵略と・・・国際連盟に提訴します。
これを受けリットン卿を中心とするリットン調査団がやってきます。
「日本による占領は、自己防衛だと正当化されるべきではない。
 日本が作った新政府は、満州が自ら決めたことではない。」
1933年2月24日国際連盟臨時総会が行われ・・・
日本は満州から撤退するべきだ!!ということになります。

”満州国を世界に認めさせるため!”にやってきたのが日本首席全権・松岡洋右でした。

「東洋における問題の根本的原因は、中国の無政府状態である。
 真剣に考えて欲しい。
 日本と中国は友人であり、両国の繁栄のために協力し合うべきなのだ。
 満州撤退の報告書を国際連盟が受け入れれば、日中両国を救うことができない。」

中国政府では、満州を維持することができないと、平和維持のために行っていると46分に渡り演説します。が・・・満州国撤退の対日勧告案は、賛成42に対し反対1・棄権1・・・と、圧倒的に否定されてしまいます。

松岡は・・・「日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

と、会議場を去ります。

この演説は、日本国内の映画ニュースで繰り返し上映され、国民に大歓迎されるのです。
新聞も松岡を英雄視します。
しかし・・・本人は帰国し・・・期待に添えなかったことをお詫びしています。
松岡の使命は、満州国を世界に認めさせたうえでの国際連盟にも残ることだったからです。
どちらもできなかったのです。


1937年盧溝橋事件が起こります。
北京郊外の盧溝橋で、演習中の日本軍に何者かが発砲したとされる事件ですが・・・発端の実情は不明ですが・・・。
これで中国全土に戦争が広まっていきます。
アメリカは、日本に中国からの撤退を強く呼びかけていました。
1940年第二次近衛文麿内閣で外務大臣として就任した松岡洋右。。。
ドイツ・イタリアと三国同盟を結びます。
ヨーロッパに向かうシベリア鉄道・・・モスクワでスターリンに会い、ベルリンでヒトラーに会い、ローマではムッソリーニに会います。
そして・・・日本に帰る前にモスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を結びます。
日独伊ソ連が手を組むことを考えていて・・・アメリカとの戦争はしたくない・・・というのが本音でした。

1941年7月にはアメリカと直接交渉できずに外務大臣を退任。。。病気療養に入り・・・日米開戦を病床で知るのでした。

「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だった。」

1941年6月22日ドイツがソビエトに侵攻!!
4か国でアメリカに対抗しようと思っていた松岡の思惑は挫折してしまったのです。
1941年12月8日、ハワイ・真珠湾攻撃!!
開戦当時は、日本が優勢でした。
しかし、戦況は急速に悪化し、日本は後退を余儀なくされます。
そして・・・1943年11月21日明治神宮外苑競技場にて”出陣学徒壮行会”が行われました。
敗戦の色が濃くなる中で、大学生が戦争に送られていきます。
集まったのは2万5000人。。。総理大臣・東条英機が演説します。

「私は、衷心より諸君の門出をお祝い申し上げる次第です。
 敵・米英におきましても諸君と同じく、若い学徒が戦場に立っているのであります。」

東大生の答辞は・・・
「生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂・・・」

その後、13万人の学生たちが戦場へと送られていきました。 
1945年8月日本は無条件降伏しますが、この時までの日本人犠牲者は、310万人にも及びました。
敗戦後松岡洋右は、A級戦犯として逮捕されます。
しかし、裁判では英語で無罪を主張し、1946年66歳の生涯を閉じるのでした。


ドイツでは・・・アドルフ・ヒトラー。
ヒトラーは、当時のドイツ国民に指示されて独裁者に上り詰めました。
「大衆の多くは無知で愚かである
 嘘を大声で、十分に時間を費やして語れば人はそれを信じる」
ヒトラーが行動を起こしたのは、ドイツのミュンヘンでした。
類まれなる演説で、人々を魅了していきます。

ヒトラーが25歳の時、運命の出来事が・・・第一次世界大戦勃発!!
オーストリア出身のヒトラーでしたが、ドイツに志願兵として参加します。
前線で戦うも敗戦し、ドイツは巨額の賠償金を支払わなければならなくなりました。
国内は極度のインフレ、大不況となって失業者であふれます。
国が崩壊していきます・・・ドイツ民族の栄光を取り戻す!!

ホフブライハウス・・・1589年に宮廷の醸造所として設立されたこの場所、ビアホールで、1920年反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党。。。ナチスが結成されます。

「我々が再び立ち上がるためには天才的な独裁者が必要である!!」
「ユダヤ人は嘘つきで寄生虫だ!!」

結成当初、党員は7人でした。

1923年ナチスが政権奪取を試みるミュンヘン一揆が起こります。
ビアホールのビュルガー・ブロイケラーで、武力蜂起したのです。
政府高官を人質にしたものの、警官隊によって鎮圧。。。逮捕・・・クーデターは失敗に終わりました。

8か月間のランツベルク刑務所で、「我が闘争」を口述筆記、ここで、自分の考え方、政策の基本をまとめます。
我が闘争には、アーリア人至上主義、共産主義の打倒、ユダヤ人排斥などが書かれて・・・後にナチスのバイブルとなり・・・ドイツの家庭には、必ず1冊ありました。
1929年世界大恐慌が起こります。
失業者が600万人となったドイツ・・・これが追い風となります。
新しいドイツが、民衆の心をとらえていきます。

ヒトラーは暴力ではなく、選挙で政権を握ろうとします。
そこには革新的な戦略が・・・
大量のビラをまき、街中に自分の顔や鍵十字のポスターを張り、巧みなプロパガンダで民衆を掌握していきます。
大衆の心を掴み・・・1933年1月、ついに首相に任命されます。

ヒトラーの野望・・・それは、ドイツ帝国の復活、反ユダヤ主義、共産主義打倒でした。

しかし、経済政策も魅力的でした。
大規模な公共事業・・・アウトバーンの建設によって、失業者は600万人から50万人に減少、フォルクスワーゲン
(国民車)の設計によって車に乗れる人が増えていきます。
大統領と首相を兼ね総統に就任します。

当時ドイツには、世界一民主的な憲法・・・ワイマール憲法がありました。
そこで権力をとり、1933年全権委任法をヒトラー内閣は制定し、国会が立法権を政府に譲位します。

ヒトラー専属のカメラマンが様々なヒトラーを撮ります。
大袈裟なアクションは、オペラ歌手からの指導・・・街がナチスに染まっていきます。
1934年の第6回ナチス党大会は「意志の大会」とも呼ばれ、100万人が参加したとも言われています。
その映像は「意志の勝利」としてレニ・リーフェンシュタールによって映画化されます。

「レニ・リーフェンシュタール」はこちら
人生にYESと言いなさい~レ二・絶賛と非難の101年~はこちら

カリスマに演出されていくヒトラー、平和のための独裁!!
平和という言葉を何度も使います。

党大会は夜に頻繁に行われましたが・・・
夜の幻想的な演出も、民衆を熱狂させていきます。

最初に作られたナチス・ドイツの強制収容所は「ダッハウ強制収容所」で、親衛隊の残虐行為の訓練所とまで言われました。
たくさんのユダヤ人が・・・多くの人が命を絶たれます。

ナチスに立ち向かった学生たちがいました。
またもやミュンヘンで・・・1943年ハンス、ゾフィー兄妹らがペンで反ナチスを訴えます。
白バラ抵抗運動です。
ビラを配ったり、党大会への不参加を呼びかけます。
しかし逮捕されると・・・わずか4日で斬首刑となりました。

第2次世界大戦が勃発した翌年に、チャップリンは「独裁者」を作ります。
ヒトラーを痛烈に批判したラストシーン・・・

「申し訳ないが  私は皇帝になどなりたくない
 それは私には関わりのないことだ
 だれも支配も征服もしたくない 
 できることなら皆を助けたい・・・
 ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も

 私の声が聞こえる人たちに言う
 絶望してはいけない
 憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪い取られた権力は、人々のもとに返されるだろう
 兵士よ 奴隷を作るために闘うな 自由のために闘え
 君たち人々は、機会を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ
 君たち人々は、人生を自由に美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ
 
 だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか
 みんなでひとつになろう
 新しい世界のために」

ヒトラーが首相に就任してかあら12年・・・ドイツの敗北が決定的になります。
1945年になると、連合国による攻撃が激しさをまし・・・ベルリンは廃墟と化します。
その4月・・・総統官邸の地下壕で、愛人のエバ・ブラウンと共に自ら命を絶つのでした。

ヒトラーの影法師と言われた男はこちら
「ヒトラー 独裁者という名の怪物」はこちら
チャップリンの「独裁者」観ました。はこちら
苦しいからこそ笑う~チャップリン天国と地獄を見た喜劇王~はこちら

そして戦後・・・
敗戦国の日本とドイツは、戦争をしていません。
アメリカが沢山の戦いに関わってることは周知の事実です。

史上最年少の43歳でアメリカ大統領となったケネディ大統領・・・
東西冷戦が始まり、アメリカなどの自由主義陣営と、ソビエトなどの社会主義陣営が対立していきます。
ベトナム戦争・・・
第二次世界大戦後、フランスとの戦いに勝利し独立したベトナムは、北(ベトナム民主共和国)と南(ベトナム共和国)に分断されます。
社会主義陣営は北ベトナムを支持し、自由主義陣営は南ベトナムを支持します。
南北の対立が激しくなり・・・アイゼンハワー大統領は、軍事顧問団を南ベトナムに派遣。
ケネディ大統領はそれを増強していきます。代理戦争となっていくベトナム。。。

1961年8月13日には・・・東ドイツによってベルリンの壁が築かれます。
193年11月テキサス州ダラスにて、大勢の目の前でケネディ大統領が凶弾に斃れました。
後を継いだジョンソンの時代、ベトナムの北爆を開始します。
50万人を超える兵士を導入しますが、戦争は泥沼化・・・。

世論によって反戦運動が起こってきます。
1975年サイゴンが陥落し、15年続いたベトナム戦争終結しました。

日本にとっては・・・
1950年朝鮮戦争が勃発したので、アメリカ兵が朝鮮に引っ張られ・・・警察予備隊が作られました。
憲法9条で軍隊を持つことができなかった日本だったので・・・「警察予備隊」なのです。
これが今の自衛隊へとなっていくのです。

もちろん戦争には参加していませんが、後方支援はやっています。
1991年湾岸戦争、ペルシャ湾での機雷の除去、2001年アフガニスタン戦争で・・・インド洋での燃料補給、2008年イラク戦争でイラクで給水などの復興支援・・・。
戦闘に於いては一人も亡くなることはなく戦後70年を過ごしてきました。

世界のどこかで今も戦争は続いています。
日本にもその危機が訪れるかもしれません。
過去から学ぶ・・・そのことが必要なのです。

「ジョン・F・ケネディ “弱さを力に変えたジャック”」はこちら
リンドン・ジョンソン~ケネディの後を継いだ男~はこちら


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社会主義は理想だったのに・・・独裁国家となり・・・みんなやる気を失ってしまいました。
中国も同じように働かなくなってしまいました。

北朝鮮も、ソ連・中国と同じように独裁国家ですが・・・
天才的な指導者・金日成に対する個人崇拝が激しく、金日成が農村で現地指導します。

稲の密植・・・ソ連のスターリンが小麦の密植を指導したため
=風通しが悪く失敗し、北朝鮮の農業が壊滅してしまいます。

山の木を切って段々畑に・・・トウモロコシ畑にしてしまいました。
トウモロコシといっても飼料用の美味しくないトウモロコシです。
しかし、トウモロコシは一年草・・・根をしっかり張らないので、ちょっとでも雨が降ると土砂崩れに。。。
=下流の田んぼまで駄目になってしまいます。
 おまけにちょっとした日照りで干ばつに・・・なったらすぐに水不足になってしまいます。

川も氾濫し、洪水がすぐにおきます。
海に流れた土砂のおかげで魚の産卵場所が埋まってしまい、北朝鮮では沿岸漁業も壊滅状態になってしまいました。

独裁者の意見を聞いて・・・自分の思っていることも言えなくなるとこんな状態となるのです。
今の金正恩も、同じような状態でやっています。

ひとりひとりが自己実現できるような仕組みを作っていかないといけない・・・
社会主義の失敗からも学ぶところはたくさんあります。

社会主義が起こったことで資本主義が変わっていきました。
革命が起きないようにするためにはどうしたらいいのか??
と、労働者の気持ちを考え労働条件を良くし、給料を上げる・・・
人々の不満が高まらないような平等な社会を意識し始めます。
労働組合を作ることを認め、経営者側も条件を受け止めるのです。
労働条件・社会保障は社会主義によって発達しました。
医療や年金制度なども充実していきます。

社会主義の国を見て、資本主義の国々が良くなっていったのです。

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スターリンも社会主義の理想を目指しました。
当時のロシアは、遅れた農業国で、大地主がいたのですが。。。
大農場の大地主たちは皆殺しにして、土地を国有化し、平等に働きましょう!!
としました。

資本家はみんな殺してしまう・・・
「労働者と農民だけの国にしよう」と、考えたのです。
集団農場、国営農場を作り、みんな一緒に平等に働きだした(農業集団化)のです。

土地は”皆のもの”ということは、”自分のもの”という意識がありません。
みんなサラリーマン化して、嵐が吹こうが、霜が下りようが・・・9時から5時までしか働かなくなってしまったのです。
農業が壊滅状態となり、ソ連各地で餓死者が続出しました。
その中でも深刻だったのがウクライナ。
ウクライナは肥沃な大地で、その昔、ソ連の”パンかご”といわれるぐらいでした。
ウクライナによってソ連の食料は賄われていたと言われるぐらいだったのです。

ウクライナの国旗は・・・

ukuraina












黄色は小麦・青は青空を意味しています。

それぐらい豊かな土地だったのに・・・
スターリンによる農業集団化によって食糧不足に陥ったのです。
大勢の餓死者が、ウクライナでも出ます。
つまり、ウクライナの人たちは、ソ連時代に酷い目にあったという思いを持っています。
だからソ連が崩壊した時に・・・ヨーロッパの側につきたいと思っている人が多いのですが・・・
東側はロシア系の人々が多いので。。。
今に至る対立構造は、このソ連時代からあるのです。

ソ連は計画経済をとっていました。
社会主義で、エリートが経済計画をきっちり立てれば無駄がなくなる。
となると・・・
商品の数だけが目標となり、ダサい商品ばかりになり=売れ残りが増えていくのです。

社会主義は、資本主義のような資源の無駄遣いはない!!ということで始めたはずでした。
資源を効率的に使おうと考えたはずなのに、結果的に無駄が出てくるのです。
おまけに、海外からのファッション性の高い商品に長蛇の行列ができていきます。

資本主義ではマーケットの需要と供給でモノの値段が決まりますが・・・
社会主義は政治家・役人がモノの値段を決めます。
価格設定のミスによって、経済が大混乱し、不振な状態となっていったのです。

おまけに理想は”労働者は平等”。。。職業によって給料が決められていました。
しかし現実は”働いても働かなくても給料は同じ”なので、働かなくなっていきます。

おまけに、労働者と農民の国なので、肉体労働をする人の給料が高く、頭脳労働の人々は額に汗して働いている訳ではないので・・・大学の先生・医者などは、給料がものすごく安かったのです。
そんな人たちは亡命していきます。
理想と現実の違いで、ゆがんだ経済となっていったのでした。

資本主義は、それぞれが競争することによって経済が発展していきますが、あまりにも弱肉強食だと・・・不満が溜まっていって社会が不安定になります。
ある程度の競争は必要ですが、競争だけでは無理なのです。
が・・・社会主義では労働意欲がそがれてしまいます。
競争主義と平等主義の両極端となるのは駄目で、その中間が相応しいのです。

資本主義では、新発明で新製品を作ると企業が全て独占します。
他の企業がそれを作ることは出来ません。
しかし、社会主義の国有企業では新発明をしたら、みんながその恩恵を受けることが出来るはず・・・そうなれば、技術が発展してみんなが豊かになるだろうと理想を持っていましたが、現実は???

仕事をしなくても許されて・・・東ドイツで有名な自動車”トラバント”は、猛烈な排気ガスを吐き・・・一部が段ボールで出来ているような・・・そんな車が作られたのでした。
ちなみに、西ドイツでは、フォルクスワーゲン・ベンツ・BMWなど・・・大手が激しく技術を争い、向上させていっていたのです。
つまり・・・民族の問題ではなく・・・経済体制が違うと、同じ民族でもここまで差が出るのです。

資本主義では新しい技術が出来て、商品が売れれば会社の利益も給料も上がります。
しかし、社会主義ではみんな同じ給料なので、一生懸命努力しても変わらない・・・=苦労する必要がない!!と、なってしまったのです。
しかし、よその国の失敗ではなく・・・日本でもそんな経営をしてつぶれていった会社がたくさんあります。

社会主義の失敗ではなく、人間とはどんなものなのか??ということを知るうえで、大事なことなのです。
共産党という上の言いなりで働いていた人々・・・現場で創意工夫をしようという考えが無くなって、結局指示待ちになってしまう。。。
日本でもそうやってつぶれていった大企業がたくさんあります。
代表的な企業は”ダイエー”。
みんな社長の”指示待ち”の姿勢だったのです。
”自分で考えてやること”の意識改革をするのが大変だったのです。


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