トリニティーと言われたこの実験は、広島に原爆が投下される3週間前に実施されました。
当時、マンハッタン計画と言われた原爆開発・・・アメリカの極秘プロジェクトと言われてきました。
しかし、最新研究から、この研究にイギリスが深く関与していたことが明らかになってきました。
その中心となったのが、首相のウィンストン・チャーチル。
その全容を示す資料が、イギリスで公開されました。
原爆開発を秘匿する為に、プロジェクトは暗号名で呼ばれました。
チューブ・アロイズ・・・そこには、知られざるイギリスの核戦略が記されていました。
原爆開発のカギとなる技術をもたらしたのは、イギリスの科学者たちでした。
さらに、日本の原爆投下にチャーチルが強い影響力を与えていたことが明らかになりました。
アメリカを動かし、原爆開発を進めるチャーチル・・・
しかし、ナチス・ドイツを率いるヒトラーや、ソビエトのスターリンも原爆開発を進め、しのぎを削っていました。
スターリンは、開発を急ぐため、イギリスにスパイを送り込んでいました。
原爆投下の舞台裏で、何が起きていたのか・・・暗号名”チューブ・アロイズ”。
イギリスの首都ロンドン・・・中心部の官庁街にある大蔵省・・・
その地下には、第2次世界大戦中、秘密の作戦室がありました。
イギリス首相ウィンストン・チャーチルが、戦争の指揮を執った内閣戦時執務室です。
シェルターで身を守りながら、チャーチルは強大な敵と戦っていました。
ヒトラー率いるドイツ軍・・・1939年、ポーランド侵攻。
続いてオランダやフランスを占領し、その脅威はイギリスに迫っていました。
対するチャーチルは、劣勢に立たされながらも、徹底抗戦を続けました。
「いかなる代償を払っても勝利を、海で陸で空で戦う」
チャーチルが最も恐れていたことは・・・それは、ヒトラーが原爆を手にすることでした。
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①原爆をめぐる攻防~チャーチルVSヒトラー~
1938年、ヒトラー率いるドイツで、後の原爆に繋がる重大な発見がありました。
当時、最先端の原子物理学を研究していたカイザー・ヴィルヘルム研究所・・・
人類にとって、未知のエネルギー反応が見つかりました。
原爆の原理であるウランの核分裂反応が観測されたのです。
天然資源ウラン鉱石・・・その原子に中性子を当てることで、ウランが分裂・・・
それを連鎖的にひきおこすと、莫大なエネルギーが得られることが分かりました。
核分裂を応用すれば、通常兵器の数万倍の破壊力を引き出せる可能性がありました。
翌1939年4月、ヒトラーは、ウランを使った新兵器の開発に向け、研究機関を設立。
その5か月後・・・ドイツはポーランドを攻撃し、第2次世界大戦がはじまりました。
原爆に関する情報を厳重に管理、極秘裏に研究を進めていくヒトラー。
その脅威に、いち早く警鐘を鳴らしたのが、ドイツからアメリカに亡命した天才科学者でした。
1939年、アインシュタインは、アメリカも原爆研究を始めるよう提案する手紙を書きました。
あて先は、当時の大統領ルーズベルト。
しかし、ルーズベルトは、原爆は実用的でないと考えました。
原爆開発には、大量のウランが必要になる・・・
爆弾は重すぎて、大型船でしか運べず、輸送は困難と見なしたのです。
原爆研究を本格化しないアメリカ・・・ヨーロッパの戦争に関わらない、孤立主義をとっていました。
一方のイギリス・・・
1940年、ドイツによる空襲で、ロンドンが大火に包まれました。
ヒトラーの猛攻で、敗戦の危機に立たされるチャーチル・・・
そのチャーチルのもとに、逆転の朗報がもたらされます。
バーミンガム大学で、原爆を小型化する理論が見つかったのです。
サイクロトロンは、原爆の小型化に欠かせない装置・・・
後にウランの分離に用いられました。
当時、研究を行っていたのが、ドイツから亡命していたユダヤ人科学者ルドルフ・パイエルスでした。
注目したのは、ウランの周囲・・・
自然界に存在するウランは、0.7%のウラン235と99.3%のウラン238・・・このうち、核分裂しやすいウラン235だけを分離し、濃縮すると、原爆を小型化できることが分かりました。
「1940年の春に状況が変わりました
突然、核兵器開発の可能性を見出したのです
それが、同位体(ウラン235)を分離する大規模な計画に繋がるのです」byパイエルス
その発見は、フリッシュ・パイエルス・メモと呼ばれた文書にまとめられました。
原爆を飛行機で運べるほど、小型化できる可能性が見えてきました。
チャーチルは、原爆が実用的な兵器になると認識・・・
本格研究に乗り出すことを決断します。
フリッシュ・パイエルス・メモの登場は、原爆開発の歴史で最も重要です。
単なる理論だった者を、現実へと変えたのです。
それは驚くべき前進でした。
パイエルスの発見をもとに、チャーチルは原爆開発の組織を立ち上げます。
オールドクイーン・ストリート16番地・・・
ここに、原爆開発の方針を検討する”チューブ・アロイズ技術委員会”が置かれました。
チューブ・アロイズ計画・・・暗号名で呼ばれました。
チューブ・アロイズとは、管状合金のこと・・・航空機のラジエーターや、燃料タンクの製造計画を連想させ、原爆開発と悟られないようにしました。
研究の中核を担った科学者は、50人ほど・・・
パイエルスのようにヒトラーの迫害を逃れてきたユダヤ系の人々が多かったのです。
「ヒトラーが、最初に原爆を手にしたら、という想像は私たちを震え上がらせた
原爆は、多数の市民を死傷させる
これを防御するには、同じ武器での報復以外に手段はない
抑止力として開発する価値がある」byパイエルス
ところが、イギリスの原爆開発には大きな障害がありました。
ドイツによる激しい空襲です。
”イギリスは、絶え間ない敵の爆撃に晒されている
必要とされる大きくて目につきやすい工場をこの国に建てるのは不可能に思われた”byチャーチル
このままでは、ヒトラーに対抗できない・・・
チャーチルは思い切った決断に出ます。
アメリカと協力すれば、最短で原爆開発ができると考えていました。
アメリカは、資金を持っているし、空襲もありません。
原爆の秘密を渡し、アメリカを味方につければ、アメリカの工業力を使って戦争に勝つための原爆開発ができると目論んだのです。
1941年7月・・・チャーチルは、原爆開発のカギを握るパイエルスの発見を密かにアメリカに伝えました。
報告を受けたのは、ルーズベルト大統領の右腕ヴァニーヴァー・ブッシュ。
兵器開発の責任者でした。
「我々は、イギリスの報告書を読み、初めて”これはできる”と確信した
チャーチルは、ルーズベルトに非常に大きな影響を及ぼし歌と思う」byブッシュ
ブッシュは、これまで原爆開発に乗り気でなかったルーズベルトに、イギリスの報告を伝えました。
その2日後・・・ルーズベルトはチャーチルに電報を送りました。
「チャーチル閣下へ
我々は、早急に会談を開くべきだと考える
共同で研究を進めたい」byルーズベルト
ルーズベルトは、政策を大きく転換・・・原爆開発に着手することを決断しました。
奇妙な同盟 1 ルーズベルト、スターリン、チャーチルは、いかにして第二次大戦に勝ち、冷戦を始めたか [ ジョナサン・フェンビー ]
2か月後・・・1941年12月真珠湾攻撃
それまで孤立主義をとっていたアメリカが参戦。
太平洋戦争が始まりました。
真珠湾攻撃は、イギリスにとって好都合でした。
アメリカが参戦し、チャーチルは”感謝してぐっすり眠った”と言っています。
1942年6月・・・チャーチルは自らアメリカへわたりました。
ニューヨーク・ハイドパークにあるルーズベルトの邸宅・・・
原爆を共同で開発するための秘密会談が行われました。
「私が強く主張したのは、直ちに全ての情報を共有すること
そして同じ条件で仕事をし、成果を平等に分かち合うことだ」byチャーチル
チャーチルは、英米の科学者が、互いの国で研究を進め、その成果を交換し合うことを提案。
ルーズベルトも原爆開発プロジェクトを始めることを決定しました。
アメリカの計画は、その事務所がマンハッタンにあったことからマンハッタン計画と暗号名がつけられました。
アメリカを巻き込んだことで、原爆開発競争は加速していきます。
ヨーロッパでは、チャーチルがヒトラーに対し攻めに転じます。
ドイツの原爆開発を阻止するために、極秘の破壊工作を命じました。
1943年2月、ドイツ軍が占領したノルウェーのテレマルクで・・・
特別に訓練した9人の兵士を潜入させました。
切り立った壁に囲まれた秘密工場・・・
ここで、ドイツ軍は大量の重水を製造していました。
重水は、ウラン核分裂の連鎖反応を誘発させる材料でした。
「重水という不気味で異様で不吉な言葉・・・
この恐るべき領域で敵に後れを取るという致命的な危険を冒すことはできなかった」byチャーチル
重水の製造ラインは、爆破されました。
チャーチルは、ヒトラーの原爆開発に打撃を与えることに成功したのです。
同じ頃、アメリカではイギリスの支援によって原爆研究が加速していました。
巨額の資金を投じ、全米各地に研究施設や大規模工場の建設を開始。
1942年12月・・・シカゴ大学で、世界初の実験用原子炉を建設・・・
ここで、原爆を量産する新たな可能性が見出されました。
それは、原爆のもう一つの材料となるプルトニウム・・・
ウランよりもわずかな量で、強大な爆発を引き出す特性を持っていました。
それまで、原爆の材料とされてきたウラン235、わずか0.7%しか存在しない貴重なものでした。
一方、99.3%を占めるウラン238。
これに、中性子を当てることで、プルトニウムを生み出せることが実証されました。
プルトニウムを量産できれば原爆を量産できる!!
アメリカは、頑張ク開発のカギとなる技術を独自に見出したのです。
その生かを受け、ブッシュはルーズベルトに一つの提案をしました。
「今後の情報すべてをアメリカだけで保有することの利点は明らかだ
これから先の歩みが第一級の重要性を持つ軍事機密になる段階に達しつつある」
アメリカは、1942年の末には、プルトニウムを製造する技術をすべて持っているという強い自信がありました。
マンハッタン計画の責任者たちは、イギリスに情報を渡すことに抵抗しました。
戦後に、原子力開発の分野でイギリスがアメリカの競争相手に発展することを恐れたからです。
原爆情報の独占へと動き始めたアメリカ・・・
1943年1月、イギリスは思わぬ通告を受けます。
「アメリカからの情報は、上から規制されました
密かに行われていた情報交換が政治的理由ですべてストップしたのです」byパイエルス
頼りにしていたアメリカの方針転換・・・
チャーチルは、原爆の共同開発計画の見直しを迫られたのです。
②核の独占~チャーチルとルーズベルト
1943年7月、チャーチルは首相官邸にアメリカ大統領の右腕ブッシュを呼びつけました。
当初、アメリカを頼るしかないと共同開発を持ち掛けたチャーチル・・・
しかし、この会談で、意外な行動に出ました。
「イギリスは独自に原爆開発を開始する」byチャーチル
チャーチルの方から、原爆の共同開発の解消を主張しました。
チャーチルたちは追い詰められていました。
自分たちの計画が、アメリカに乗っ取られた・・・イギリスが排除されると感じていたのです。
この時、チャーチルに秘策があったことが明らかになりました。
「アメリカの協力なしでカナダに短期間で工場を建設する」byチューブ・アロイズ技術委員会議事録
カナダが、イギリス連邦の一つで、チャーチルの影響力が強く及びました。
ドイツの空襲がなく、原爆開発を安全に行えるメリットがありました。
この計画を立案したのは、パイエルス達イギリスの科学者でした。
開発拠点は、モントリオール大学、独自の原爆開発に踏み切るため、ウランと核分裂に必要な材料”重水”を運び込み、原子炉を造ろうとしていました。
こうしたチャーチルの思い切った行動を重く受け止めたのは、ルーズベルトでした。
これ以上、イギリスを追い詰めることは同盟関係をそこなうと考え始めていました。
イギリスは、第2次世界大戦の終わりには、破産寸前でした。
ルーズベルトは、それを見抜き、イギリスが没落するのを阻止しようと決めました。
ルーズベルトには、戦後の目的がありました。
力を発揮できる強力な同盟国としてイギリスを保っておくことです。
結局、ルーズベルトはイギリスを強い同盟国でいさせるために、核政策のパートナーにしておこうと思いました。
イギリスとの同盟関係を最優先にしたルーズベルト・・・
情報公開の再開を行いました。
その1か月後、カナダで行われた英米首脳会談・・・チャーチルは、アメリカが再び格の独占に走らないようにルーズベルトとの間で秘密の協定を結びました。
”ケベック協定”です。
原爆を共同管理する上での基本方針を取り決めました。
第一、互いに対し原爆の力を使わない
第二、互いの合意なしに第三者に使用しない
第三、互いの合意なしに如何なる情報も第三者に提供しない
注目すべきは、第二項。
原爆投下の決定権は、英米の二国で持つという内容です。
その後、ケベック協定は予想を超えた役割を果たします。
1941年にチューブ・アロイズ計画がマンハッタン計画に組み込まれた瞬間から、イギリスは原爆を使用するつもりがあったと思われます。
チャーチルは、原爆投下の決定権にアメリカと対等の立場を望んだのです。
「ルーズベルトと交わした秘密の協定より、良い条件はありえない
もうほかにすることはない
ただ最善をもってこれを貫くのみだ」byチャーチル
チャーチルの計画は、ケベック協定を後ろ盾に加速していきます。
アメリカ西部のロスアラモス・・・標高2200m、人里から隔離された高台・・・
この地に、アメリカは原爆の設計と組み立てを行う秘密の研究施設を建設します。
全米の優秀な科学者や、その家族など6000人が集められました。
そこに、チャーチルは、イギリスの優秀な科学者を派遣。
一刻も早い完成を目指そうとします。
”イギリスの委員会はマンハッタン計画に全力を尽くす
イギリス全ての研究が中断されてもだ”byチューブ・アロイズ技術委員会
イギリスの科学者は全員、本物の科学者でした。
ロスアラモスでは、皆若く、上司たちもせいぜい30代・・・
とくにイギリスの科学者が取り組んだのは、原爆を実用化する上での最大の難問・・・プルトニウムの起爆方法でした。
当時は、爆縮と呼ばれる起爆方法でした。
プルトニウムの球体の周囲を火薬で取り囲み、同時に転嫁することでプルトニウムを圧縮する仕組みです。
プルトニウムは密度が高くなると、臨界に達し、爆発する特性があり、それを起こすために外側からの爆発の力が必要だったのです。
文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫) [ ハミルトン・フィッシュ ]
プルトニウムの球体を覆うように32個の起爆スイッチが取り付けられていました。
起爆スイッチが同時に作動すれば、それが一つの爆発になります。
それが爆縮・・・球体を小さい体積に圧縮し、爆縮を引き起こそうとしたのです。
しかし、プルトニウムの爆縮は、困難を極めました。
火薬で圧縮しようとすると、その衝撃波は先端だけが先にプルトニウムに到達します。
プルトニウムに同時に均一の力が加わらないため、圧縮される前に逃げ道を求めて飛び散ってしまうのです。
爆縮に許された誤差は、2/1000000秒でした。
多くの科学者のとけない難問でした。
解決の糸口を見つけたのは、イギリスから派遣された二人の物理学者クラウス・フックスとジェームス・タックでした。
高度な計算理論と、火薬の専門知識を持っていました。
注目したのは、爆縮レンズと呼ばれる仕組みです。
プルトニウムの周囲に、燃焼速度の異なる火薬を組み合わせると、衝撃波が屈折!!
すると、プルトニウムを均等に包み込むように爆縮が起こるのです。
こうして、誤差を克服・・・プルトニウムを起爆する見通しが立ちました。
爆縮レンズを開発したイギリス人科学者は、どのように評価されたのでしょうか・・・??
「爆縮レンズの実現は、非常に困難なものでした
ロスアラモスの中でも、主要な研究テーマでした
最終的に、爆縮レンズが必要だと突き止めるまでは、この方法が使えると想像できた人は誰もいなかったのです
イギリスが他に類を見ない重要な貢献をした
アメリカよりはるかに高度な専門知識がありました」byロイ・グラウバー博士
アメリカの原爆開発を、陰で動かしたチャーチルと、イギリスの科学者たち・・・
当初の敵は、ヒトラー率いるナチス・ドイツでした。
しかし、ヨーロッパの戦局が激変する中で、新たな脅威が出現しようとしていました。
ソビエトです。
1941年、ソビエトは、ドイツ軍の大規模な奇襲攻撃を受ける・・・
ソビエト軍は敗退・・・首都モスクワの近郊まで侵攻されました。
ソビエトを率いるのは、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリン。
「全ての国民が陸海軍を支えてナチスの大軍を叩き潰すのだ
我々の人的資源は無尽蔵だ」byスターリン
徹底抗戦を命じるスターリン・・・
イギリスと同盟を結び、戦局の転換を目指しました。
ソビエトが攻勢に転じたのは、スターリングラードの戦いでした。
1943年2月・・・それまで連勝を続けていたドイツ軍を壊滅に追い込んだのです。
ドイツ軍は、その後も撤退が続いていきます。
ヒトラーは、劣勢を打破しようと弾道ミサイルV2の開発に力を入れました。
いつ完成するかもわからない原爆開発は、中止に追い込まれていきます。
一方、ソビエトはスターリングラードで勝利した2月、国家防衛委員会が原爆開発を決定。
極秘に小型の原子炉建設を開始しました。
急速に台頭するソビエト・・・同盟国とはいえ、チャーチルの目にはスターリンも新たな脅威として映っていました。
③新たな脅威=チャーチルVSスターリン
スターリン率いるロシアは、原爆情報を盗み取る諜報戦に力を入れていました。
「ロシアは昔からスパイ活動に強い国です
ロンドンにはソ連の諜報支局があり、政治や科学技術の情報を収集していました
スターリンは、チャーチルが原爆を持てば、ソ連に戦争を仕掛けると考えていました
当時、ソ連は原爆を持っていませんでした
ですから、緊急を要したのです」by元KGB
もっとも重要な原爆情報をソビエトに渡していたスパイがいました。
コードネーム・チャールズ・・・
イギリスで、原爆実用化の理論が発見されたこと・・・
さらに、それをもとにアメリカ・ロスアラモスで開発が行われていることをつぶさに報告していました。
最初に情報を渡していたのは、1941年。
マンハッタン計画が始まる以前から、チャールズはスパイ活動を行っていました。
誰がチャールズなのか・・・??
ソビエトの機密資料には、その実名が記されていました。
クラウス・フックス・・・チューブ・アロイズ計画に参加し、あのプルトニウムの爆縮の研究を行った物理学者でした。
フックスは、ドイツ共産党員で、イギリスに亡命した物理学者でした
フックスは、ソビエトにどのように情報を渡していたのでしょうか??
アメリカ、ロスアラモスで研究を行っていたフックス・・・度々研究施設を離れていました。
外出が許されたのは、ドイツからアメリカに亡命した姉に面会するという理由でした。
しかし、実は、ソビエトの工作員と落ち合っていたのです。
工作員は目印として、当時流行していたコメディ本を持っていました。
フックスが渡した情報には、原爆開発における最高機密が含まれていました。
起爆装置の構造・・・プルトニウムを爆縮する方法です。
最後のカギが、ソビエトに渡っていたのです。
フックスはどうしてスパイになったのでしょうか??
フックスは、すべての行動を、”反ファシズムの戦い”としていました。
ナチスを中心としたファシズムと対抗する勢力としてソビエトに期待していたのです。
スターリングラードの戦いで、ソビエトは祖国を開放する存在に映ったといいます。
戦いで戦局が変わったこと・・・戦争で貢献したソ連は甚大な被害も受けていたので、支援するべきだと考えていました。
フックスには、ソビエトに情報を渡したもう一つの理由がありました。
もし、原爆の情報が誰か一人の手にとどまっていたら、危険であると気づいていました
原爆を独占し、悪用できる状態は人類の危機であると・・・!!
ファシズムとの戦い、そして、英米の核の独占への危機感・・・
それが、フックスがソビエトに情報を流した理由でした。
ソビエトは、諜報活動で得た情報をもとに、プルトニウム型原爆の開発を進めていきます。
それは、英米が開発していた原爆と、瓜二つのものでした。
チャーチルは、イギリスの科学者が原爆の最高機密情報までソビエトに漏らしていたことを把握していませんでした。
アメリカとイギリスは、スターリン政権下のソ連の動向を察知できませんでした。
独裁体制で、厳しく情報が統制されていたからです。
それでもチャーチルは、スターリンが原爆開発を始めているのではないかと恐れ続けていました。
「ロシア人は、化学開発に特異な才能がある
原爆開発を進め、大きな成果を上げている可能性を忘れてはならない」byチューブ・アロイズ計画担当大臣
当初、ヒトラーと対抗するために始まったチャーチルの原爆開発計画・・・この先、スターリンとの攻防が焦点となっていきます。
それぞれの思惑は、原爆投下にどのようにかかわっていくのでしょうか??
1944年、ヨーロッパではドイツの敗色が濃厚となっていました。
スターリン率いるソビエトは、ベルリンを目指し猛攻撃を続けていました。
こうしたソビエトの力の脅威を感じていたのは、チャーチルでした。
共産主義のソビエトと戦後に衝突が起こると考えると、原爆の実用化を急いでいました。
「国際的恐喝に利用されかねない原爆を獲得する競争で、ソ連を勝たせてはならない」byチャーチル
一方、原爆を共同開発していたアメリカ・・・チャーチルとは異なる考えが芽生え始めていました。
ルーズベルト大統領は、大国ソビエトとの対立は、世界に混乱を招くとみていました。
ルーズベルトの戦後の大きな目標は、ソ連との協調でした。
ルーズベルトは、戦後もイギリスとは軍事同盟を維持しながら、同時にソ連との協調も必要になると信じていたのです。
ルーズベルトが目指したのは、ソビエトとの協調・・・
核を独占したいチャーチルとは、異なる考え方でした。
④”対立”か”協調”か~ソ連をめぐる攻防~
どうすれば、ソビエトと協調を図れるのか??
ルーズベルトは、ひとりの世界的な科学者を起用します。
アインシュタインと並ぶ天才と呼ばれたデンマーク出身のノーベル賞物理学者ニールス・ボーア。
チューブ・アロイズ計画の特別顧問で、英米の高官とも広い人脈を持っていました。
当時、ニールス・ボーアは、最先端を行く物理学者でした。
ルーズベルトとこれほど個人的にはなしができた科学者はいません。
ボーアは、対ソ協調に向けた独特な構想を持っていました。
原爆開発を行っていることを、ソビエトに打ち明けようというのです。
「秘密裏に準備されると、競争を防止するには情報交換と開放的な態度が必要となる
大国間にある不振の原因の根絶に役立つはずである」byボーア
ボーアの構想は、後に”核(原子力)の国際管理”と呼ばれました。
ソビエトとの軋轢を無くすため、米英ソで原爆情報を共有・・・その上で国際組織で核技術と資源を管理する・・・
世界から、原爆の開発競争を無くすことが目的でした。
ルーズベルトは、”核の国際管理”に非常的に好意的でした。
そして構想をスターリンに伝えられるよう、イギリスに行きチャーチルを説得するようボーアに依頼しました。
ボーアは、イギリスに渡り、チャーチルとの会談を取り付けます。
1944年5月・・・ロンドン首相官邸に招かれたボーア・・・会談開始から30分、突然チャーチルが話を打ち切りました。
この時、チャーチルの元には、イギリスの諜報機関からのソビエトを警戒する計画書が届いていました。
会談の直前、ソビエトの大使館員がボーアと接触・・・ソビエトの原爆開発を手伝うように勧誘を行ったのです。
ボーアは、その勧誘をことわり、接触の事実をイギリス側に伝えていました。
しかし、チャーチルは、ボーアをソビエトのスパイと疑いました。
「どうしてボーアは、この問題に入り込んできたのか
彼は、ソ連と密接な交信をしている
死刑に値する大罪を犯していることをわからせなければならない」byチャーチル
9月、チャーチルはルーズベルトを訪ねます。
ボーアとソビエトの接触の事実を突き付け、くぎを刺しました。
「原爆情報を世界に知らせようとする提案は受け入れられない
ソ連に絶対に情報を漏洩しないよう、措置を取るべきである」byチャーチル
この時結ばれた協定により、核の国際管理に繋がるルーズベルトの構想は潰えたのです。
チャーチルは、戦後スターリンが世界制覇に動くことを非常に恐れていました。
いずれはソ連も原爆を持つ・・・しかし、その時には英米が原爆を大量に保有し、優位に立っていると考えました。
1944年、太平洋では、日本軍が絶望的な抵抗を続けていました。
英米を中心とする連合国の兵士にも、犠牲者が増え続けていました。
「我々は、とりわけ日本の存在を忘れてはならない
日本を償わせるために、どれだけの時間や努力が必要とされるのか」byチャーチル
9月、チャーチルとルーズベルトが交わした協定・・・
この中に、日本降伏に向けたある重要な方策が記されていました。
「最終的に原爆が使用可能になったとき、おそらく日本に使用することになろう」byハイドパーク協定
日本を降伏に追い込むための切り札として、原爆を実践で利用することが視野に入ってきたのです。
1945年2月、米英ソの首脳が集まったヤルタ会談。
ここで、日本降伏へのもう一つの切り札が検討されました。
ヤルタの密約・・・ソ連は対日参戦を条件に南樺太や千島列島などを要求
スターリンは、参戦の見返りに南樺太や千島列島などを要求・・・
それには共産圏の拡大のリスクがありましたが、米英は受け入れました。
ソ連参戦は、日本を確実に降伏させるための作戦でした。
この時、原爆が本当に実用化できるか誰にもわかりませんでした。
終戦へのあらゆる戦略を練ったのです。
会談から2か月後の1945年4月・・・ルーズベルトが死去
新たに大統領となったのは、それまで原爆開発について何も聞かされていなかったトルーマンでした。
共産主義のソビエトに、批判的な考えを持つ政治家でした。
4月末・・・ヒトラーは自殺、5月、ドイツ降伏・・・長きにわたる戦いが終わり、イギリスは戦勝ムードに湧きました。
しかし、チャーチルは違っていました。
「歓喜に沸く群衆にもまれながら、私の心は将来の懸念でいっぱいになっていった
事態にはもう一つの局面があった
日本がまだ征服されていなかった
原子爆弾がまだ生まれておらず、世界は混沌としていた
私の目にはソ連の脅威がナチスにとって代わっているように見えた」byチャーチル
5月のドイツ降伏後、原爆を日本に投下する計画が加速していきます。
アメリカ・ロスアラモスに近い砂漠地帯・・・原爆を実際に爆発させ、兵器としての効果を確かめる実験の準備が始まろうとしていました。
日本のどの都市に原爆を投下するのか??
その検討も始まっていました。
ドイツ降伏から2日後に開かれた目標検討委員会・・・目標の選定にあたって重要な条件が示されました。
「兵器を使用する際、これを劇的なものにし、その重要性を国際的に認識させること」
英米が、原爆という強大な力を持っていることを世界に示す・・・
それが、次の戦争を防ぐ抑止力になると考えていました。
チャーチルは後に「原爆の被害が大きいほど好都合だ」と言っています。
核のパラドックスです。
原爆被害への想像が恐ろしいほど、再び使いにくいだろうと考えました。
イギリスから派遣された科学者たちは、原爆の効果を最大限に引き出そうとします。
ウィリアム・ペニー・・・爆風研究の第一人者です。
注目したのは、原爆を起爆させるCODE。
ある一定の高さで起爆すると、通常の爆風の2倍以上の威力を持つ衝撃が!!
マッハステムが発生します。
原爆が爆発すると、上空からの爆風・・・そして、地面にぶつかり反射する爆風・・・この2つの爆風の波長がタイミングよく重なるとマッハステムが発生します。
原爆を起爆する高度が重要議題でした。
適切な高度が設定できれば、2つの波長が同調し、威力を増大できるのです。
原爆の威力を世界に示し、マッハステムの効果を測定する空襲被害の少ない都市に投下する必要がありました。
こうして、広島と長崎が目標に選ばれました。
原爆投下に向けて、7月に実験が行われることになりました。
戦局を左右するこの極秘情報すら、ソビエトは、スパイを通じて察知していました。
プルトニウムの起爆方法をソビエトに渡したクラウス・フックス・・・原爆実験の情報も伝えていました。
「実験は7月10日ごろ行われる
成功すれば原爆は早急に実際の戦闘で試される」
この情報は、政治的価値がありました。
フックスは、ソ連に実験を警告しました。
それで、スターリンは日本との戦いに参戦すべきとの決意を固くしました。
ソビエトは、対日参戦に向けて、極東に急ピッチで兵士を輸送していきます。
原爆投下の前に、対日参戦できるのだ。
それがスターリンの課題でした。
一方、チャーチルも動き出します。
チャーチルは、トルーマンから原爆投下の同意を求められ、ためらうことなく同意しました。
ケベック協定・・・第二、互いの合意なしに第三者に使用しない
原爆投下の決定権を等しく持つことを取り決めたケベック協定・・・
7月2日、チャーチルは、原爆が完成したら、協定に基づき、即使用することを示しました。
「イギリスは日本への原爆投下に同意する」by合同政策委員会
英米は、ソ連参戦前に、原爆投下で戦争を終わらせようとします。
スターリンに、日本の領土を渡さずに済むからです。
ソビエトの参戦を阻止したいチャーチル・・・
原爆投下の前に参戦したいスターリン・・・
日本降伏を巡って繰り広げられる大国の駆け引き・・・
そのカギを握る実験は、7月16日に行われることが決まりました。
原爆実験の前日、7月15日、チャーチルはドイツに向かいました。
ポツダム会談です。
対日戦や、戦後のヨーロッパ問題について話し合う2週間の首脳会談です。
チャーチルの呼びかけで、トルーマン、スターリンが集まりました。
どのように戦争を終結させるのか・・・
会談初日の7月17日、先に動いたのはスターリンでした。
スターリンは、チャーチルに近寄り、日本から極秘の電報が届いていたことを打ち明けました。
日本は当時、中立条約を結んでいたソビエトに、昭和天皇の和平の意向を知らせていました。
ソビエトの対日参戦の意向を知らず、和平の仲介を頼んでいたのです。
スターリンは、和平の仲介は行わず、対日参戦する意向をチャーチルに伝えました。
スターリンからのこの情報は、チャーチルもすでに掴んでいました。
日本がソビエトに送った暗号電報は解読され、チャーチルに報告されていたのです。
チャーチルも、和平に応じないことを述べました。
英米は和平交渉がソ連と日本の間で結ばれることを嫌いました。
外交的な終結を望まず、日本人に罰を下す必要があると考えていました。
翌18日、事態は大きく動きます。
アメリカで2日前におこなわれた原爆実験の報告書が届いたのです。
原爆が正確に爆発するかどうかが、プルトニウムの起爆にかかっていました。
実験は、成功・・・プルトニウム型原爆の威力は、想定を超えるものでした。
実験の成功を受け、チャーチルとトルーマンは、宿舎で話し合いました。
その時のことをトルーマンが日記に記していました。
「マンハッタンが日本の上空で爆発すれば、日本は間違いなく降伏する」byトルーマン日記7月18日
チャーチルは、トルーマンと同じ考えでした。
「対日戦の終結には、もはやソ連を必要としなくなった」byチャーチル
そして、実験の成功は、大統領になって首脳会談が初めてだったトルーマンの態度にも変化をもたらしました。
トルーマンは大胆になり、スターリンに対し強気の外交交渉を進めます。
これは、チャーチルにとって好都合でした。
「我々は、ソ連とのパワーバランスを回復するものを手に入れた
ドイツ降伏後、不安定だった外交が、原爆の力で一変する
今後、ソ連にあれこれ言われたら、モスクワを消せばいいのだ」byチャーチル
ポツダム会談開始から1週間後、トルーマンはソビエトに対し優位に立ったと確信!!
スターリンに実験のことを伝えました。
トルーマンは、”新兵器を手に入れた”と言いました。
スターリンを怖がらせようと思ったのです。
しかし、スターリンの反応は、トルーマンの予想とは違いました。
スターリンは、非常に冷静でした。
何の反応もありませんでした。
スターリンは、すでに知っていたのです。
原爆開発計画は、スターリンより知っていました。
2人の話し合いを、少し離れたところで聞いていたチャーチル・・・
「二人の国家元首の話し合いは、間もなく終わってしまった
トルーマンが私のそばに姿を見せた
”どうでしたか?”と私は尋ねた
”スターリンは、一つも質問をしなかった”とトルーマンは答えた
私は、スターリンが自分の知らされている事の重要な意義をまるでわかっていないと確信した」byチャーチル
しかし、その重要性を知っていたスターリン・・・
すぐに側近を集め、会合を開きました。
「我々は同盟国だったはずだ
米英は、我々が当分の間、原爆を開発できないことを望んでいるに違いない
そうやって、時間稼ぎをして、自分たちの計画を押しつけようというのだ
だが、そうはさせない」byスターリン
スターリンが指示したのは、対日参戦の予定を繰り上げることでした。
日中戦争はスターリンが仕組んだ 誰が盧溝橋で発砲したか [ 鈴木荘一 ]
翌25日、トルーマンは、日本への原爆投下を承認します。
原爆を確実に投下するため、作戦は航空機から投下目標が目視できる最も早い日と決められました。
そして翌26日、日本への無条件降伏を呼び掛けるポツダム宣言が発表されました。
これを日本は黙殺・・・。
8月6日、午前8府15分・・・広島にウラン型原爆が投下されました。
2日後、ソビエトは日ソ中立条約を一方的に破棄、9日未明、旧満州・中国東北部へ侵攻します。
同じ日、B29に積み込まれたのは、プルトニウム型原爆・・・。
8月9日、午前11時2分・・・長崎に投下されました。
翌日、トルーマンは声明を発表します。
「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため、原爆投下を決断した
アメリカ国民も、同意してくれると思う」byトルーマン
「原爆を使用すべきかどうかについて、一刻の議論の余地もなかった
1、2度の爆発の犠牲によって圧倒的な力を顕示する
我々が、あらゆる苦労と危険を経験してきた後では、奇跡的な救いのように思われた」byチャーチル
8月15日、昭和天皇の玉音放送が日本の降伏を伝えました。
原子爆弾・・・爆風は、爆心地から5キロ先の建物までも破壊しました。
熱線によって、爆心地は4000度となりました。
その年だけで、22万人もの命が失われました。
そして、目に見えない放射線は、がんや白血病を引き起こし、今も多くの被爆者を苦しめています。
⑥終わりなき核の時代へ
戦争終結から1か月後の9月・・・ロスアラモスにいたイギリスの科学者たちは、帰国することになります。
送別会では、原爆開発を劇にしていました。
そこには、7月の原爆実験を祝う場面もありました。
科学者の多くは、帰国後イギリスの核開発に関わっていくことになります。
当初、ヒトラーの抑止力として原爆開発を始めたパイエルスもその一人でした。
「父を研究に引き止めたのは、核開発がもたらす結果ではなく、科学への探求心だと思います
でもそれは間違っています」
戦後、核開発をめぐる国際情勢は、大きく変わろうとしていました。
原爆の力を確信したトルーマン・・・
1946年マクマホン法を制定・・・外国への原子力技術の移転を禁止、政策を転換します。
ソビエトは、1949年、核実験に成功。
アメリカの原爆実験から4年後のことでした。
短期間で開発できたのは、フックスからの機密情報があったからです。
1950年、朝鮮戦争が勃発・・・核の力を後ろ盾に、 米ソ冷戦が激化していきます。
1952年、アメリカが水爆を誕生させます。
翌年、ソビエトも実験を行いました。
チューブ・アロイズ計画開始から10年余り・・・
核開発競争が激化し、一般市民が核の脅威にさらされる時代が始まっていました。
核の時代・・・原爆開発に関わった科学者はどう受け止めたのでしょうか??
英米の核の独占を阻止しようとしたフックス・・・1950年、ソビエトのスパイであることを自白して、イギリスで裁判にかけられます。
英国籍を剥奪され、9年の服役後、東ドイツで過ごしました。
「戦後、私はソ連の政策に疑問を抱くようになった
私の行いがもたらした被害を、修復できるよう努めたい
だが、過去にはもう戻れはしない」
フックスが自白したのは、戦後、スターリンが核の力を後ろ盾に東欧諸国を力で押さえつけたことに失望したからでした。祖国は東西に分割され、東ドイツはソビエトのひどい監視と弾圧を受けました。
フックスは、ベルリンの壁崩壊を見ることなく、31年前に亡くなりました。
冷戦時代、核のパワーバランスが次の世界大戦を防いだと信じています
原爆は投下された長崎・・・その年だけで7万人の命が失われました。
その被害を、科学者たちはどのように受け止めたのでしょうか?
戦後、イギリスは被爆地に科学者を派遣していました。
どの都市に落とすのか、選定を行ったペニーは、戦後、戦略爆撃調査団の中心メンバーとして長崎を訪れていました。
目的は爆風の威力の調査でした。
ペニーが注目したのは、爆心地から500mにある旧城山国民学校です。
当時、珍しい鉄筋コンクリートの頑丈な建物でした。
校舎には、8000トンもの力がかかったものの骨組みがあり、計測できたからです。
ペニーが学校に興味を持ったのは、人々の在籍記録があったからです。
そのデータを使い、被爆状況と死亡率の関係を調査しました。
ペニーはさらに、ひとりひとりの死因や、学校のどの場所でなくなったかを詳しく調査しました。
無くなった場所のその建物の強度を調査することで、防護率を算定していきました。
ペニーは、これらのデータから、核戦争に備えた防衛計画を立案していきました。
「同じ威力の原爆を爆発させても、イギリスのシェルターならば十分耐えられる
ロンドンの地下鉄にある深いシェルターならば、完全に身を守ってくれる」
1952年、ペニーは、チャーチルが主導したイギリス発の核実験の責任者となります。
イギリスは、アメリカが核の独占に走ったことで戦後、独自の核開発を進めました。
ペニーは、科学者としての功績から、貴族の地位を与えられ、イギリスの原爆の父と呼ばれました。
「私は常に自分が重要だと思った仕事を、さらには義務として自分に与えられたこと、そして自分が上手くできると思われることをしてきました。
これが私の人生で貫いてきた原則です。」byペニー
ペニーたちが見失っていたことは、広島・長崎は、人々が住んでいる普通の街だったということです。
巨大な爆発の下に、日常の生活を送っていた一般の人たちを普通の人間とは見ないのです。
被爆者の調査は、データを取るということから考えると、実験材料にされたということです。
それは許しがたいことで、人間としてのモラルは一体何だったのか??
絶対人間としてやるべきではありません。
戦後も核開発を続けたチャーチル・・・
1965年、90歳でなくなりました。
生前、
原爆投下について語った言葉があります。
「神は私になぜ原爆を使用したのか尋ねられるかもしれない
しかし、自己弁護させてほしい
人類が熾烈な戦いのさ中にあったときに、なぜ神はこの知識を私たちに与えたのだろうか」byチャーチル
もし、原爆が日本に投下されていなかったら、戦後の世界の様相は違っていたでしょう。
原爆投下は、第2次世界大戦の終わりではなく、冷戦の始まりでした。
チャーチルが原爆開発を主導したことを考えれば、核の軍拡競争の責任はチャーチルにあります。
明らかになったチャーチルの核戦略、チューブ・アロイズ計画。
人類と核をめぐる、今も私たちに突き付けられている課題が、既にそこにはありました。
核をどう管理すべきか・・・
倫理的な責任をどう負うべきなのか・・・
大切なのは、核の国際管理や協調を唱えた人々の考えです。
彼等が想定した戦後の最悪の姿が、多くの国が密かに核兵器を開発し、文明が逸滅びるかもしれない核の緊張下に置かれていることです。
なぜ今、この状況に陥ったのでしょうか、人類が不道徳だから間違ったのでしょうか。
答えを知るのは困難でも直視するしかないのです。
私たちは、今、その世界に生きているのですから・・・!!
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