日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:スターリン

アメリカ最大の軍事施設ホワイトサンズ ミサイル実験場・・・ここで人類初の核実験が行われました。
トリニティーと言われたこの実験は、広島に原爆が投下される3週間前に実施されました。
当時、マンハッタン計画と言われた原爆開発・・・アメリカの極秘プロジェクトと言われてきました。
しかし、最新研究から、この研究にイギリスが深く関与していたことが明らかになってきました。
その中心となったのが、首相のウィンストン・チャーチル。
その全容を示す資料が、イギリスで公開されました。
原爆開発を秘匿する為に、プロジェクトは暗号名で呼ばれました。
チューブ・アロイズ・・・そこには、知られざるイギリスの核戦略が記されていました。
原爆開発のカギとなる技術をもたらしたのは、イギリスの科学者たちでした。
さらに、日本の原爆投下にチャーチルが強い影響力を与えていたことが明らかになりました。

アメリカを動かし、原爆開発を進めるチャーチル・・・
しかし、ナチス・ドイツを率いるヒトラーや、ソビエトのスターリンも原爆開発を進め、しのぎを削っていました。
スターリンは、開発を急ぐため、イギリスにスパイを送り込んでいました。
原爆投下の舞台裏で、何が起きていたのか・・・暗号名”チューブ・アロイズ”。

イギリスの首都ロンドン・・・中心部の官庁街にある大蔵省・・・
その地下には、第2次世界大戦中、秘密の作戦室がありました。
イギリス首相ウィンストン・チャーチルが、戦争の指揮を執った内閣戦時執務室です。
シェルターで身を守りながら、チャーチルは強大な敵と戦っていました。

ヒトラー率いるドイツ軍・・・1939年、ポーランド侵攻。
続いてオランダやフランスを占領し、その脅威はイギリスに迫っていました。
対するチャーチルは、劣勢に立たされながらも、徹底抗戦を続けました。

「いかなる代償を払っても勝利を、海で陸で空で戦う」

チャーチルが最も恐れていたことは・・・それは、ヒトラーが原爆を手にすることでした。

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①原爆をめぐる攻防~チャーチルVSヒトラー~
1938年、ヒトラー率いるドイツで、後の原爆に繋がる重大な発見がありました。
当時、最先端の原子物理学を研究していたカイザー・ヴィルヘルム研究所・・・
人類にとって、未知のエネルギー反応が見つかりました。
原爆の原理であるウランの核分裂反応が観測されたのです。
天然資源ウラン鉱石・・・その原子に中性子を当てることで、ウランが分裂・・・
それを連鎖的にひきおこすと、莫大なエネルギーが得られることが分かりました。
核分裂を応用すれば、通常兵器の数万倍の破壊力を引き出せる可能性がありました。
翌1939年4月、ヒトラーは、ウランを使った新兵器の開発に向け、研究機関を設立。
その5か月後・・・ドイツはポーランドを攻撃し、第2次世界大戦がはじまりました。
原爆に関する情報を厳重に管理、極秘裏に研究を進めていくヒトラー。
その脅威に、いち早く警鐘を鳴らしたのが、ドイツからアメリカに亡命した天才科学者でした。

1939年、アインシュタインは、アメリカも原爆研究を始めるよう提案する手紙を書きました。
あて先は、当時の大統領ルーズベルト。
しかし、ルーズベルトは、原爆は実用的でないと考えました。
原爆開発には、大量のウランが必要になる・・・
爆弾は重すぎて、大型船でしか運べず、輸送は困難と見なしたのです。
原爆研究を本格化しないアメリカ・・・ヨーロッパの戦争に関わらない、孤立主義をとっていました。

一方のイギリス・・・
1940年、ドイツによる空襲で、ロンドンが大火に包まれました。
ヒトラーの猛攻で、敗戦の危機に立たされるチャーチル・・・
そのチャーチルのもとに、逆転の朗報がもたらされます。
バーミンガム大学で、原爆を小型化する理論が見つかったのです。
サイクロトロンは、原爆の小型化に欠かせない装置・・・
後にウランの分離に用いられました。
当時、研究を行っていたのが、ドイツから亡命していたユダヤ人科学者ルドルフ・パイエルスでした。
注目したのは、ウランの周囲・・・
自然界に存在するウランは、0.7%のウラン235と99.3%のウラン238・・・このうち、核分裂しやすいウラン235だけを分離し、濃縮すると、原爆を小型化できることが分かりました。

「1940年の春に状況が変わりました
 突然、核兵器開発の可能性を見出したのです
 それが、同位体(ウラン235)を分離する大規模な計画に繋がるのです」byパイエルス

その発見は、フリッシュ・パイエルス・メモと呼ばれた文書にまとめられました。
原爆を飛行機で運べるほど、小型化できる可能性が見えてきました。
チャーチルは、原爆が実用的な兵器になると認識・・・
本格研究に乗り出すことを決断します。

フリッシュ・パイエルス・メモの登場は、原爆開発の歴史で最も重要です。
単なる理論だった者を、現実へと変えたのです。
それは驚くべき前進でした。
パイエルスの発見をもとに、チャーチルは原爆開発の組織を立ち上げます。
オールドクイーン・ストリート16番地・・・
ここに、原爆開発の方針を検討する”チューブ・アロイズ技術委員会”が置かれました。
チューブ・アロイズ計画・・・暗号名で呼ばれました。
チューブ・アロイズとは、管状合金のこと・・・航空機のラジエーターや、燃料タンクの製造計画を連想させ、原爆開発と悟られないようにしました。
研究の中核を担った科学者は、50人ほど・・・
パイエルスのようにヒトラーの迫害を逃れてきたユダヤ系の人々が多かったのです。

「ヒトラーが、最初に原爆を手にしたら、という想像は私たちを震え上がらせた
 原爆は、多数の市民を死傷させる
 これを防御するには、同じ武器での報復以外に手段はない
 抑止力として開発する価値がある」byパイエルス

ところが、イギリスの原爆開発には大きな障害がありました。
ドイツによる激しい空襲です。

”イギリスは、絶え間ない敵の爆撃に晒されている
 必要とされる大きくて目につきやすい工場をこの国に建てるのは不可能に思われた”byチャーチル

このままでは、ヒトラーに対抗できない・・・
チャーチルは思い切った決断に出ます。
アメリカと協力すれば、最短で原爆開発ができると考えていました。
アメリカは、資金を持っているし、空襲もありません。
原爆の秘密を渡し、アメリカを味方につければ、アメリカの工業力を使って戦争に勝つための原爆開発ができると目論んだのです。

1941年7月・・・チャーチルは、原爆開発のカギを握るパイエルスの発見を密かにアメリカに伝えました。
報告を受けたのは、ルーズベルト大統領の右腕ヴァニーヴァー・ブッシュ。
兵器開発の責任者でした。

「我々は、イギリスの報告書を読み、初めて”これはできる”と確信した
 チャーチルは、ルーズベルトに非常に大きな影響を及ぼし歌と思う」byブッシュ

ブッシュは、これまで原爆開発に乗り気でなかったルーズベルトに、イギリスの報告を伝えました。
その2日後・・・ルーズベルトはチャーチルに電報を送りました。

「チャーチル閣下へ
 我々は、早急に会談を開くべきだと考える
 共同で研究を進めたい」byルーズベルト

ルーズベルトは、政策を大きく転換・・・原爆開発に着手することを決断しました。

奇妙な同盟 1 ルーズベルト、スターリン、チャーチルは、いかにして第二次大戦に勝ち、冷戦を始めたか [ ジョナサン・フェンビー ]
奇妙な同盟 1 ルーズベルト、スターリン、チャーチルは、いかにして第二次大戦に勝ち、冷戦を始めたか [ ジョナサン・フェンビー ]

2か月後・・・1941年12月真珠湾攻撃
それまで孤立主義をとっていたアメリカが参戦。
太平洋戦争が始まりました。
真珠湾攻撃は、イギリスにとって好都合でした。
アメリカが参戦し、チャーチルは”感謝してぐっすり眠った”と言っています。

1942年6月・・・チャーチルは自らアメリカへわたりました。
ニューヨーク・ハイドパークにあるルーズベルトの邸宅・・・
原爆を共同で開発するための秘密会談が行われました。

「私が強く主張したのは、直ちに全ての情報を共有すること
 そして同じ条件で仕事をし、成果を平等に分かち合うことだ」byチャーチル

チャーチルは、英米の科学者が、互いの国で研究を進め、その成果を交換し合うことを提案。
ルーズベルトも原爆開発プロジェクトを始めることを決定しました。

アメリカの計画は、その事務所がマンハッタンにあったことからマンハッタン計画と暗号名がつけられました。
アメリカを巻き込んだことで、原爆開発競争は加速していきます。
ヨーロッパでは、チャーチルがヒトラーに対し攻めに転じます。
ドイツの原爆開発を阻止するために、極秘の破壊工作を命じました。
1943年2月、ドイツ軍が占領したノルウェーのテレマルクで・・・
特別に訓練した9人の兵士を潜入させました。
切り立った壁に囲まれた秘密工場・・・
ここで、ドイツ軍は大量の重水を製造していました。
重水は、ウラン核分裂の連鎖反応を誘発させる材料でした。

「重水という不気味で異様で不吉な言葉・・・
 この恐るべき領域で敵に後れを取るという致命的な危険を冒すことはできなかった」byチャーチル

重水の製造ラインは、爆破されました。
チャーチルは、ヒトラーの原爆開発に打撃を与えることに成功したのです。
同じ頃、アメリカではイギリスの支援によって原爆研究が加速していました。
巨額の資金を投じ、全米各地に研究施設や大規模工場の建設を開始。

1942年12月・・・シカゴ大学で、世界初の実験用原子炉を建設・・・
ここで、原爆を量産する新たな可能性が見出されました。
それは、原爆のもう一つの材料となるプルトニウム・・・
ウランよりもわずかな量で、強大な爆発を引き出す特性を持っていました。
それまで、原爆の材料とされてきたウラン235、わずか0.7%しか存在しない貴重なものでした。
一方、99.3%を占めるウラン238。
これに、中性子を当てることで、プルトニウムを生み出せることが実証されました。
プルトニウムを量産できれば原爆を量産できる!!
アメリカは、頑張ク開発のカギとなる技術を独自に見出したのです。
その生かを受け、ブッシュはルーズベルトに一つの提案をしました。

「今後の情報すべてをアメリカだけで保有することの利点は明らかだ
 これから先の歩みが第一級の重要性を持つ軍事機密になる段階に達しつつある」

アメリカは、1942年の末には、プルトニウムを製造する技術をすべて持っているという強い自信がありました。
マンハッタン計画の責任者たちは、イギリスに情報を渡すことに抵抗しました。
戦後に、原子力開発の分野でイギリスがアメリカの競争相手に発展することを恐れたからです。

原爆情報の独占へと動き始めたアメリカ・・・
1943年1月、イギリスは思わぬ通告を受けます。

「アメリカからの情報は、上から規制されました
 密かに行われていた情報交換が政治的理由ですべてストップしたのです」byパイエルス 

頼りにしていたアメリカの方針転換・・・
チャーチルは、原爆の共同開発計画の見直しを迫られたのです。


②核の独占~チャーチルとルーズベルト

1943年7月、チャーチルは首相官邸にアメリカ大統領の右腕ブッシュを呼びつけました。
当初、アメリカを頼るしかないと共同開発を持ち掛けたチャーチル・・・
しかし、この会談で、意外な行動に出ました。

「イギリスは独自に原爆開発を開始する」byチャーチル

チャーチルの方から、原爆の共同開発の解消を主張しました。
チャーチルたちは追い詰められていました。
自分たちの計画が、アメリカに乗っ取られた・・・イギリスが排除されると感じていたのです。
この時、チャーチルに秘策があったことが明らかになりました。

「アメリカの協力なしでカナダに短期間で工場を建設する」byチューブ・アロイズ技術委員会議事録

カナダが、イギリス連邦の一つで、チャーチルの影響力が強く及びました。
ドイツの空襲がなく、原爆開発を安全に行えるメリットがありました。
この計画を立案したのは、パイエルス達イギリスの科学者でした。
開発拠点は、モントリオール大学、独自の原爆開発に踏み切るため、ウランと核分裂に必要な材料”重水”を運び込み、原子炉を造ろうとしていました。
こうしたチャーチルの思い切った行動を重く受け止めたのは、ルーズベルトでした。
これ以上、イギリスを追い詰めることは同盟関係をそこなうと考え始めていました。

イギリスは、第2次世界大戦の終わりには、破産寸前でした。
ルーズベルトは、それを見抜き、イギリスが没落するのを阻止しようと決めました。
ルーズベルトには、戦後の目的がありました。
力を発揮できる強力な同盟国としてイギリスを保っておくことです。
結局、ルーズベルトはイギリスを強い同盟国でいさせるために、核政策のパートナーにしておこうと思いました。

イギリスとの同盟関係を最優先にしたルーズベルト・・・
情報公開の再開を行いました。
その1か月後、カナダで行われた英米首脳会談・・・チャーチルは、アメリカが再び格の独占に走らないようにルーズベルトとの間で秘密の協定を結びました。
”ケベック協定”です。
原爆を共同管理する上での基本方針を取り決めました。

第一、互いに対し原爆の力を使わない
第二、互いの合意なしに第三者に使用しない
第三、互いの合意なしに如何なる情報も第三者に提供しない

注目すべきは、第二項。
原爆投下の決定権は、英米の二国で持つという内容です。
その後、ケベック協定は予想を超えた役割を果たします。
1941年にチューブ・アロイズ計画がマンハッタン計画に組み込まれた瞬間から、イギリスは原爆を使用するつもりがあったと思われます。
チャーチルは、原爆投下の決定権にアメリカと対等の立場を望んだのです。

「ルーズベルトと交わした秘密の協定より、良い条件はありえない
 もうほかにすることはない
 ただ最善をもってこれを貫くのみだ」byチャーチル

チャーチルの計画は、ケベック協定を後ろ盾に加速していきます。
アメリカ西部のロスアラモス・・・標高2200m、人里から隔離された高台・・・
この地に、アメリカは原爆の設計と組み立てを行う秘密の研究施設を建設します。
全米の優秀な科学者や、その家族など6000人が集められました。
そこに、チャーチルは、イギリスの優秀な科学者を派遣。
一刻も早い完成を目指そうとします。

”イギリスの委員会はマンハッタン計画に全力を尽くす
 イギリス全ての研究が中断されてもだ”byチューブ・アロイズ技術委員会

イギリスの科学者は全員、本物の科学者でした。
ロスアラモスでは、皆若く、上司たちもせいぜい30代・・・
とくにイギリスの科学者が取り組んだのは、原爆を実用化する上での最大の難問・・・プルトニウムの起爆方法でした。
当時は、爆縮と呼ばれる起爆方法でした。
プルトニウムの球体の周囲を火薬で取り囲み、同時に転嫁することでプルトニウムを圧縮する仕組みです。
プルトニウムは密度が高くなると、臨界に達し、爆発する特性があり、それを起こすために外側からの爆発の力が必要だったのです。

文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫) [ ハミルトン・フィッシュ ]
文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫) [ ハミルトン・フィッシュ ]

プルトニウムの球体を覆うように32個の起爆スイッチが取り付けられていました。
起爆スイッチが同時に作動すれば、それが一つの爆発になります。
それが爆縮・・・球体を小さい体積に圧縮し、爆縮を引き起こそうとしたのです。

しかし、プルトニウムの爆縮は、困難を極めました。
火薬で圧縮しようとすると、その衝撃波は先端だけが先にプルトニウムに到達します。
プルトニウムに同時に均一の力が加わらないため、圧縮される前に逃げ道を求めて飛び散ってしまうのです。
爆縮に許された誤差は、2/1000000秒でした。
多くの科学者のとけない難問でした。
解決の糸口を見つけたのは、イギリスから派遣された二人の物理学者クラウス・フックスとジェームス・タックでした。
高度な計算理論と、火薬の専門知識を持っていました。
注目したのは、爆縮レンズと呼ばれる仕組みです。
プルトニウムの周囲に、燃焼速度の異なる火薬を組み合わせると、衝撃波が屈折!!
すると、プルトニウムを均等に包み込むように爆縮が起こるのです。
こうして、誤差を克服・・・プルトニウムを起爆する見通しが立ちました。

爆縮レンズを開発したイギリス人科学者は、どのように評価されたのでしょうか・・・??

「爆縮レンズの実現は、非常に困難なものでした
 ロスアラモスの中でも、主要な研究テーマでした
 最終的に、爆縮レンズが必要だと突き止めるまでは、この方法が使えると想像できた人は誰もいなかったのです
 イギリスが他に類を見ない重要な貢献をした
 アメリカよりはるかに高度な専門知識がありました」byロイ・グラウバー博士

アメリカの原爆開発を、陰で動かしたチャーチルと、イギリスの科学者たち・・・
当初の敵は、ヒトラー率いるナチス・ドイツでした。
しかし、ヨーロッパの戦局が激変する中で、新たな脅威が出現しようとしていました。
ソビエトです。

1941年、ソビエトは、ドイツ軍の大規模な奇襲攻撃を受ける・・・
ソビエト軍は敗退・・・首都モスクワの近郊まで侵攻されました。
ソビエトを率いるのは、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリン。

「全ての国民が陸海軍を支えてナチスの大軍を叩き潰すのだ
 我々の人的資源は無尽蔵だ」byスターリン

徹底抗戦を命じるスターリン・・・
イギリスと同盟を結び、戦局の転換を目指しました。
ソビエトが攻勢に転じたのは、スターリングラードの戦いでした。
1943年2月・・・それまで連勝を続けていたドイツ軍を壊滅に追い込んだのです。
ドイツ軍は、その後も撤退が続いていきます。
ヒトラーは、劣勢を打破しようと弾道ミサイルV2の開発に力を入れました。
いつ完成するかもわからない原爆開発は、中止に追い込まれていきます。

一方、ソビエトはスターリングラードで勝利した2月、国家防衛委員会が原爆開発を決定。
極秘に小型の原子炉建設を開始しました。
急速に台頭するソビエト・・・同盟国とはいえ、チャーチルの目にはスターリンも新たな脅威として映っていました。


③新たな脅威=チャーチルVSスターリン

スターリン率いるロシアは、原爆情報を盗み取る諜報戦に力を入れていました。

「ロシアは昔からスパイ活動に強い国です
 ロンドンにはソ連の諜報支局があり、政治や科学技術の情報を収集していました
 スターリンは、チャーチルが原爆を持てば、ソ連に戦争を仕掛けると考えていました
 当時、ソ連は原爆を持っていませんでした
 ですから、緊急を要したのです」by元KGB

もっとも重要な原爆情報をソビエトに渡していたスパイがいました。
コードネーム・チャールズ・・・
イギリスで、原爆実用化の理論が発見されたこと・・・
さらに、それをもとにアメリカ・ロスアラモスで開発が行われていることをつぶさに報告していました。
最初に情報を渡していたのは、1941年。
マンハッタン計画が始まる以前から、チャールズはスパイ活動を行っていました。
誰がチャールズなのか・・・??

ソビエトの機密資料には、その実名が記されていました。
クラウス・フックス・・・チューブ・アロイズ計画に参加し、あのプルトニウムの爆縮の研究を行った物理学者でした。
フックスは、ドイツ共産党員で、イギリスに亡命した物理学者でした
フックスは、ソビエトにどのように情報を渡していたのでしょうか??
アメリカ、ロスアラモスで研究を行っていたフックス・・・度々研究施設を離れていました。
外出が許されたのは、ドイツからアメリカに亡命した姉に面会するという理由でした。
しかし、実は、ソビエトの工作員と落ち合っていたのです。
工作員は目印として、当時流行していたコメディ本を持っていました。
フックスが渡した情報には、原爆開発における最高機密が含まれていました。
起爆装置の構造・・・プルトニウムを爆縮する方法です。
最後のカギが、ソビエトに渡っていたのです。

フックスはどうしてスパイになったのでしょうか??  
フックスは、すべての行動を、”反ファシズムの戦い”としていました。
ナチスを中心としたファシズムと対抗する勢力としてソビエトに期待していたのです。
スターリングラードの戦いで、ソビエトは祖国を開放する存在に映ったといいます。
戦いで戦局が変わったこと・・・戦争で貢献したソ連は甚大な被害も受けていたので、支援するべきだと考えていました。
フックスには、ソビエトに情報を渡したもう一つの理由がありました。
もし、原爆の情報が誰か一人の手にとどまっていたら、危険であると気づいていました
原爆を独占し、悪用できる状態は人類の危機であると・・・!!

ファシズムとの戦い、そして、英米の核の独占への危機感・・・
それが、フックスがソビエトに情報を流した理由でした。

ソビエトは、諜報活動で得た情報をもとに、プルトニウム型原爆の開発を進めていきます。
それは、英米が開発していた原爆と、瓜二つのものでした。
チャーチルは、イギリスの科学者が原爆の最高機密情報までソビエトに漏らしていたことを把握していませんでした。

アメリカとイギリスは、スターリン政権下のソ連の動向を察知できませんでした。 
独裁体制で、厳しく情報が統制されていたからです。
それでもチャーチルは、スターリンが原爆開発を始めているのではないかと恐れ続けていました。

「ロシア人は、化学開発に特異な才能がある
 原爆開発を進め、大きな成果を上げている可能性を忘れてはならない」byチューブ・アロイズ計画担当大臣

当初、ヒトラーと対抗するために始まったチャーチルの原爆開発計画・・・この先、スターリンとの攻防が焦点となっていきます。
それぞれの思惑は、原爆投下にどのようにかかわっていくのでしょうか??

1944年、ヨーロッパではドイツの敗色が濃厚となっていました。
スターリン率いるソビエトは、ベルリンを目指し猛攻撃を続けていました。
こうしたソビエトの力の脅威を感じていたのは、チャーチルでした。
共産主義のソビエトと戦後に衝突が起こると考えると、原爆の実用化を急いでいました。

「国際的恐喝に利用されかねない原爆を獲得する競争で、ソ連を勝たせてはならない」byチャーチル

一方、原爆を共同開発していたアメリカ・・・チャーチルとは異なる考えが芽生え始めていました。
ルーズベルト大統領は、大国ソビエトとの対立は、世界に混乱を招くとみていました。
ルーズベルトの戦後の大きな目標は、ソ連との協調でした。
ルーズベルトは、戦後もイギリスとは軍事同盟を維持しながら、同時にソ連との協調も必要になると信じていたのです。
ルーズベルトが目指したのは、ソビエトとの協調・・・
核を独占したいチャーチルとは、異なる考え方でした。

④”対立”か”協調”か~ソ連をめぐる攻防~
どうすれば、ソビエトと協調を図れるのか??
ルーズベルトは、ひとりの世界的な科学者を起用します。
アインシュタインと並ぶ天才と呼ばれたデンマーク出身のノーベル賞物理学者ニールス・ボーア。
チューブ・アロイズ計画の特別顧問で、英米の高官とも広い人脈を持っていました。
当時、ニールス・ボーアは、最先端を行く物理学者でした。
ルーズベルトとこれほど個人的にはなしができた科学者はいません。
ボーアは、対ソ協調に向けた独特な構想を持っていました。
原爆開発を行っていることを、ソビエトに打ち明けようというのです。

「秘密裏に準備されると、競争を防止するには情報交換と開放的な態度が必要となる
 大国間にある不振の原因の根絶に役立つはずである」byボーア

ボーアの構想は、後に”核(原子力)の国際管理”と呼ばれました。
ソビエトとの軋轢を無くすため、米英ソで原爆情報を共有・・・その上で国際組織で核技術と資源を管理する・・・
世界から、原爆の開発競争を無くすことが目的でした。
ルーズベルトは、”核の国際管理”に非常的に好意的でした。
そして構想をスターリンに伝えられるよう、イギリスに行きチャーチルを説得するようボーアに依頼しました。
ボーアは、イギリスに渡り、チャーチルとの会談を取り付けます。
1944年5月・・・ロンドン首相官邸に招かれたボーア・・・会談開始から30分、突然チャーチルが話を打ち切りました。
この時、チャーチルの元には、イギリスの諜報機関からのソビエトを警戒する計画書が届いていました。
会談の直前、ソビエトの大使館員がボーアと接触・・・ソビエトの原爆開発を手伝うように勧誘を行ったのです。
ボーアは、その勧誘をことわり、接触の事実をイギリス側に伝えていました。
しかし、チャーチルは、ボーアをソビエトのスパイと疑いました。

「どうしてボーアは、この問題に入り込んできたのか
 彼は、ソ連と密接な交信をしている
 死刑に値する大罪を犯していることをわからせなければならない」byチャーチル

9月、チャーチルはルーズベルトを訪ねます。
ボーアとソビエトの接触の事実を突き付け、くぎを刺しました。

「原爆情報を世界に知らせようとする提案は受け入れられない
 ソ連に絶対に情報を漏洩しないよう、措置を取るべきである」byチャーチル

この時結ばれた協定により、核の国際管理に繋がるルーズベルトの構想は潰えたのです。
チャーチルは、戦後スターリンが世界制覇に動くことを非常に恐れていました。
いずれはソ連も原爆を持つ・・・しかし、その時には英米が原爆を大量に保有し、優位に立っていると考えました。
1944年、太平洋では、日本軍が絶望的な抵抗を続けていました。
英米を中心とする連合国の兵士にも、犠牲者が増え続けていました。

「我々は、とりわけ日本の存在を忘れてはならない
 日本を償わせるために、どれだけの時間や努力が必要とされるのか」byチャーチル

9月、チャーチルとルーズベルトが交わした協定・・・
この中に、日本降伏に向けたある重要な方策が記されていました。

「最終的に原爆が使用可能になったとき、おそらく日本に使用することになろう」byハイドパーク協定

日本を降伏に追い込むための切り札として、原爆を実践で利用することが視野に入ってきたのです。
1945年2月、米英ソの首脳が集まったヤルタ会談。
ここで、日本降伏へのもう一つの切り札が検討されました。

ヤルタの密約・・・ソ連は対日参戦を条件に南樺太や千島列島などを要求

スターリンは、参戦の見返りに南樺太や千島列島などを要求・・・
それには共産圏の拡大のリスクがありましたが、米英は受け入れました。
ソ連参戦は、日本を確実に降伏させるための作戦でした。
この時、原爆が本当に実用化できるか誰にもわかりませんでした。
終戦へのあらゆる戦略を練ったのです。

会談から2か月後の1945年4月・・・ルーズベルトが死去
新たに大統領となったのは、それまで原爆開発について何も聞かされていなかったトルーマンでした。
共産主義のソビエトに、批判的な考えを持つ政治家でした。
4月末・・・ヒトラーは自殺、5月、ドイツ降伏・・・長きにわたる戦いが終わり、イギリスは戦勝ムードに湧きました。
しかし、チャーチルは違っていました。

「歓喜に沸く群衆にもまれながら、私の心は将来の懸念でいっぱいになっていった
 事態にはもう一つの局面があった
 日本がまだ征服されていなかった
 原子爆弾がまだ生まれておらず、世界は混沌としていた
 私の目にはソ連の脅威がナチスにとって代わっているように見えた」byチャーチル

5月のドイツ降伏後、原爆を日本に投下する計画が加速していきます。
アメリカ・ロスアラモスに近い砂漠地帯・・・原爆を実際に爆発させ、兵器としての効果を確かめる実験の準備が始まろうとしていました。
日本のどの都市に原爆を投下するのか??
その検討も始まっていました。
ドイツ降伏から2日後に開かれた目標検討委員会・・・目標の選定にあたって重要な条件が示されました。

「兵器を使用する際、これを劇的なものにし、その重要性を国際的に認識させること」

英米が、原爆という強大な力を持っていることを世界に示す・・・
それが、次の戦争を防ぐ抑止力になると考えていました。

チャーチルは後に「原爆の被害が大きいほど好都合だ」と言っています。
核のパラドックスです。
原爆被害への想像が恐ろしいほど、再び使いにくいだろうと考えました。
イギリスから派遣された科学者たちは、原爆の効果を最大限に引き出そうとします。

ウィリアム・ペニー・・・爆風研究の第一人者です。
注目したのは、原爆を起爆させるCODE。
ある一定の高さで起爆すると、通常の爆風の2倍以上の威力を持つ衝撃が!!
マッハステムが発生します。
原爆が爆発すると、上空からの爆風・・・そして、地面にぶつかり反射する爆風・・・この2つの爆風の波長がタイミングよく重なるとマッハステムが発生します。

原爆を起爆する高度が重要議題でした。
適切な高度が設定できれば、2つの波長が同調し、威力を増大できるのです。
原爆の威力を世界に示し、マッハステムの効果を測定する空襲被害の少ない都市に投下する必要がありました。
こうして、広島と長崎が目標に選ばれました。
原爆投下に向けて、7月に実験が行われることになりました。
戦局を左右するこの極秘情報すら、ソビエトは、スパイを通じて察知していました。
プルトニウムの起爆方法をソビエトに渡したクラウス・フックス・・・原爆実験の情報も伝えていました。

「実験は7月10日ごろ行われる
 成功すれば原爆は早急に実際の戦闘で試される」

この情報は、政治的価値がありました。
フックスは、ソ連に実験を警告しました。
それで、スターリンは日本との戦いに参戦すべきとの決意を固くしました。
ソビエトは、対日参戦に向けて、極東に急ピッチで兵士を輸送していきます。
原爆投下の前に、対日参戦できるのだ。
それがスターリンの課題でした。
一方、チャーチルも動き出します。
チャーチルは、トルーマンから原爆投下の同意を求められ、ためらうことなく同意しました。

ケベック協定・・・第二、互いの合意なしに第三者に使用しない

原爆投下の決定権を等しく持つことを取り決めたケベック協定・・・
7月2日、チャーチルは、原爆が完成したら、協定に基づき、即使用することを示しました。

「イギリスは日本への原爆投下に同意する」by合同政策委員会

英米は、ソ連参戦前に、原爆投下で戦争を終わらせようとします。
スターリンに、日本の領土を渡さずに済むからです。
ソビエトの参戦を阻止したいチャーチル・・・
原爆投下の前に参戦したいスターリン・・・
日本降伏を巡って繰り広げられる大国の駆け引き・・・
そのカギを握る実験は、7月16日に行われることが決まりました。
原爆実験の前日、7月15日、チャーチルはドイツに向かいました。
ポツダム会談です。
対日戦や、戦後のヨーロッパ問題について話し合う2週間の首脳会談です。
チャーチルの呼びかけで、トルーマン、スターリンが集まりました。
どのように戦争を終結させるのか・・・
会談初日の7月17日、先に動いたのはスターリンでした。
スターリンは、チャーチルに近寄り、日本から極秘の電報が届いていたことを打ち明けました。

日本は当時、中立条約を結んでいたソビエトに、昭和天皇の和平の意向を知らせていました。
ソビエトの対日参戦の意向を知らず、和平の仲介を頼んでいたのです。
スターリンは、和平の仲介は行わず、対日参戦する意向をチャーチルに伝えました。
スターリンからのこの情報は、チャーチルもすでに掴んでいました。
日本がソビエトに送った暗号電報は解読され、チャーチルに報告されていたのです。
チャーチルも、和平に応じないことを述べました。

英米は和平交渉がソ連と日本の間で結ばれることを嫌いました。
外交的な終結を望まず、日本人に罰を下す必要があると考えていました。
翌18日、事態は大きく動きます。
アメリカで2日前におこなわれた原爆実験の報告書が届いたのです。
原爆が正確に爆発するかどうかが、プルトニウムの起爆にかかっていました。
実験は、成功・・・プルトニウム型原爆の威力は、想定を超えるものでした。
実験の成功を受け、チャーチルとトルーマンは、宿舎で話し合いました。
その時のことをトルーマンが日記に記していました。

「マンハッタンが日本の上空で爆発すれば、日本は間違いなく降伏する」byトルーマン日記7月18日

チャーチルは、トルーマンと同じ考えでした。

「対日戦の終結には、もはやソ連を必要としなくなった」byチャーチル

そして、実験の成功は、大統領になって首脳会談が初めてだったトルーマンの態度にも変化をもたらしました。
トルーマンは大胆になり、スターリンに対し強気の外交交渉を進めます。
これは、チャーチルにとって好都合でした。

「我々は、ソ連とのパワーバランスを回復するものを手に入れた
 ドイツ降伏後、不安定だった外交が、原爆の力で一変する
 今後、ソ連にあれこれ言われたら、モスクワを消せばいいのだ」byチャーチル

ポツダム会談開始から1週間後、トルーマンはソビエトに対し優位に立ったと確信!!
スターリンに実験のことを伝えました。

トルーマンは、”新兵器を手に入れた”と言いました。
スターリンを怖がらせようと思ったのです。
しかし、スターリンの反応は、トルーマンの予想とは違いました。
スターリンは、非常に冷静でした。
何の反応もありませんでした。
スターリンは、すでに知っていたのです。
原爆開発計画は、スターリンより知っていました。

2人の話し合いを、少し離れたところで聞いていたチャーチル・・・

「二人の国家元首の話し合いは、間もなく終わってしまった
 トルーマンが私のそばに姿を見せた
 ”どうでしたか?”と私は尋ねた 
 ”スターリンは、一つも質問をしなかった”とトルーマンは答えた
 私は、スターリンが自分の知らされている事の重要な意義をまるでわかっていないと確信した」byチャーチル

しかし、その重要性を知っていたスターリン・・・
すぐに側近を集め、会合を開きました。

「我々は同盟国だったはずだ
 米英は、我々が当分の間、原爆を開発できないことを望んでいるに違いない
 そうやって、時間稼ぎをして、自分たちの計画を押しつけようというのだ
 だが、そうはさせない」byスターリン

スターリンが指示したのは、対日参戦の予定を繰り上げることでした。

日中戦争はスターリンが仕組んだ 誰が盧溝橋で発砲したか [ 鈴木荘一 ]
日中戦争はスターリンが仕組んだ 誰が盧溝橋で発砲したか [ 鈴木荘一 ]

翌25日、トルーマンは、日本への原爆投下を承認します。
原爆を確実に投下するため、作戦は航空機から投下目標が目視できる最も早い日と決められました。
そして翌26日、日本への無条件降伏を呼び掛けるポツダム宣言が発表されました。
これを日本は黙殺・・・。
8月6日、午前8府15分・・・広島にウラン型原爆が投下されました。
2日後、ソビエトは日ソ中立条約を一方的に破棄、9日未明、旧満州・中国東北部へ侵攻します。
同じ日、B29に積み込まれたのは、プルトニウム型原爆・・・。
8月9日、午前11時2分・・・長崎に投下されました。

翌日、トルーマンは声明を発表します。

「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため、原爆投下を決断した
 アメリカ国民も、同意してくれると思う」byトルーマン

「原爆を使用すべきかどうかについて、一刻の議論の余地もなかった
 1、2度の爆発の犠牲によって圧倒的な力を顕示する
 我々が、あらゆる苦労と危険を経験してきた後では、奇跡的な救いのように思われた」byチャーチル

8月15日、昭和天皇の玉音放送が日本の降伏を伝えました。
原子爆弾・・・爆風は、爆心地から5キロ先の建物までも破壊しました。
熱線によって、爆心地は4000度となりました。
その年だけで、22万人もの命が失われました。
そして、目に見えない放射線は、がんや白血病を引き起こし、今も多くの被爆者を苦しめています。

⑥終わりなき核の時代へ
戦争終結から1か月後の9月・・・ロスアラモスにいたイギリスの科学者たちは、帰国することになります。
送別会では、原爆開発を劇にしていました。
そこには、7月の原爆実験を祝う場面もありました。
科学者の多くは、帰国後イギリスの核開発に関わっていくことになります。
当初、ヒトラーの抑止力として原爆開発を始めたパイエルスもその一人でした。

「父を研究に引き止めたのは、核開発がもたらす結果ではなく、科学への探求心だと思います
 でもそれは間違っています」

戦後、核開発をめぐる国際情勢は、大きく変わろうとしていました。
原爆の力を確信したトルーマン・・・
1946年マクマホン法を制定・・・外国への原子力技術の移転を禁止、政策を転換します。
ソビエトは、1949年、核実験に成功。
アメリカの原爆実験から4年後のことでした。
短期間で開発できたのは、フックスからの機密情報があったからです。
1950年、朝鮮戦争が勃発・・・核の力を後ろ盾に、 米ソ冷戦が激化していきます。
1952年、アメリカが水爆を誕生させます。
翌年、ソビエトも実験を行いました。
チューブ・アロイズ計画開始から10年余り・・・
核開発競争が激化し、一般市民が核の脅威にさらされる時代が始まっていました。
核の時代・・・原爆開発に関わった科学者はどう受け止めたのでしょうか??
英米の核の独占を阻止しようとしたフックス・・・1950年、ソビエトのスパイであることを自白して、イギリスで裁判にかけられます。
英国籍を剥奪され、9年の服役後、東ドイツで過ごしました。

「戦後、私はソ連の政策に疑問を抱くようになった
 私の行いがもたらした被害を、修復できるよう努めたい
 だが、過去にはもう戻れはしない」

フックスが自白したのは、戦後、スターリンが核の力を後ろ盾に東欧諸国を力で押さえつけたことに失望したからでした。祖国は東西に分割され、東ドイツはソビエトのひどい監視と弾圧を受けました。
フックスは、ベルリンの壁崩壊を見ることなく、31年前に亡くなりました。

冷戦時代、核のパワーバランスが次の世界大戦を防いだと信じています

原爆は投下された長崎・・・その年だけで7万人の命が失われました。
その被害を、科学者たちはどのように受け止めたのでしょうか?
戦後、イギリスは被爆地に科学者を派遣していました。
どの都市に落とすのか、選定を行ったペニーは、戦後、戦略爆撃調査団の中心メンバーとして長崎を訪れていました。
目的は爆風の威力の調査でした。
ペニーが注目したのは、爆心地から500mにある旧城山国民学校です。
当時、珍しい鉄筋コンクリートの頑丈な建物でした。
校舎には、8000トンもの力がかかったものの骨組みがあり、計測できたからです。

ペニーが学校に興味を持ったのは、人々の在籍記録があったからです。
そのデータを使い、被爆状況と死亡率の関係を調査しました。
ペニーはさらに、ひとりひとりの死因や、学校のどの場所でなくなったかを詳しく調査しました。
無くなった場所のその建物の強度を調査することで、防護率を算定していきました。
ペニーは、これらのデータから、核戦争に備えた防衛計画を立案していきました。

「同じ威力の原爆を爆発させても、イギリスのシェルターならば十分耐えられる
 ロンドンの地下鉄にある深いシェルターならば、完全に身を守ってくれる」

1952年、ペニーは、チャーチルが主導したイギリス発の核実験の責任者となります。
イギリスは、アメリカが核の独占に走ったことで戦後、独自の核開発を進めました。

ペニーは、科学者としての功績から、貴族の地位を与えられ、イギリスの原爆の父と呼ばれました。

「私は常に自分が重要だと思った仕事を、さらには義務として自分に与えられたこと、そして自分が上手くできると思われることをしてきました。
 これが私の人生で貫いてきた原則です。」byペニー

ペニーたちが見失っていたことは、広島・長崎は、人々が住んでいる普通の街だったということです。
巨大な爆発の下に、日常の生活を送っていた一般の人たちを普通の人間とは見ないのです。
被爆者の調査は、データを取るということから考えると、実験材料にされたということです。
それは許しがたいことで、人間としてのモラルは一体何だったのか??
絶対人間としてやるべきではありません。

戦後も核開発を続けたチャーチル・・・
1965年、90歳でなくなりました。
生前、
原爆投下について語った言葉があります。

「神は私になぜ原爆を使用したのか尋ねられるかもしれない
 しかし、自己弁護させてほしい
 人類が熾烈な戦いのさ中にあったときに、なぜ神はこの知識を私たちに与えたのだろうか」byチャーチル

もし、原爆が日本に投下されていなかったら、戦後の世界の様相は違っていたでしょう。
原爆投下は、第2次世界大戦の終わりではなく、冷戦の始まりでした。
チャーチルが原爆開発を主導したことを考えれば、核の軍拡競争の責任はチャーチルにあります。

明らかになったチャーチルの核戦略、チューブ・アロイズ計画。
人類と核をめぐる、今も私たちに突き付けられている課題が、既にそこにはありました。
核をどう管理すべきか・・・
倫理的な責任をどう負うべきなのか・・・

大切なのは、核の国際管理や協調を唱えた人々の考えです。
彼等が想定した戦後の最悪の姿が、多くの国が密かに核兵器を開発し、文明が逸滅びるかもしれない核の緊張下に置かれていることです。
なぜ今、この状況に陥ったのでしょうか、人類が不道徳だから間違ったのでしょうか。
答えを知るのは困難でも直視するしかないのです。
私たちは、今、その世界に生きているのですから・・・!!

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杉原千畝は、明治33年1月1日、岐阜県八百津町に生れます。
幼いころから成績優秀で、父親からは将来、医者になるように言われていました。
ところが、杉原が興味を持ったのは外国でした。
英語の教師になりたいと思うようになります。
そして18歳になった杉原は・・・
1918年早稲田大学高等師範学校(現教育学部)英語科に入学します。
本格的に英語の勉強しし始めましたが、父の意向に背いての上京だったため、仕送りが無く、たちまち生活費に困ってしまいました。
そんな時、偶然目にした新聞に、外務省の官費留学生募集の広告を見つけます。
それは、3年間の学費と、留学先への渡航費が支給されるというものでした。
学費は最高で年2500円、当時、大学卒の初任給が40円だった時代に、破格の条件でした。
しかし、問題がありました。
中国語・モンゴル語・ロシア語・スペイン語・タイ語・オランダ語・ポルトガル語・トルコ語・・・
募集の中に英語専攻がありませんでした。
それでも、学費が必要な杉原は、諦め切れずに当時人気のスペイン語を選択、猛勉強の末、見事合格しました。
ところが・・・せっかく勉強したスペイン語ではなく、ロシア語を選ばされることに・・・。
この年は、たまたまスペイン語を希望する人が多く、反面、ロシアは革命の混乱などもあってロシア語を選択する者が極端に少なかったのです。
そのため、外務省の担当官は、スペイン語の定員からあぶれた者に、ロシア語を選択するように勧めたのです。

こうして、官費留学生として、ハルビンの日露協会学校に入学。
気持ちを切り替え、ロシア語の専門家になる決意をし、一から必死に学んでいきました。
そこで杉原は、人生の指針となる教えを受けます。
それは、この学校の創設者で、外務大臣などを務めた後藤新平の言葉で、学校のモットーにもなっています。

”人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう”

日露協会学校を卒業した杉原は、大正13年、24歳の時に外務省に正式に採用されます。
ハルビン日本総領事館のロシア係として赴任、そこで、ソビエト政権に反対し、亡命してきていた白系ロシア人と交流し、独自の情報網を作り上げていきます。
そんな中、満州事変が起こり、昭和7年、満州国建国。
杉原は、ロシア語の能力を買われ、満州国外交部に引き抜かれます。
その満州国には、懸案事項がありました。
当時、満州国がソ連と共同経営していた北満州鉄道をめぐる問題です。
この鉄道は、両国の紛争の種になっていたこともあって、満州国がソ連の持つ経営権を買い取る方向で交渉が始まりました。
ソ連が提示した譲渡価格は・・・当時の日本円で6億2500万円!!
対して満州国が示した金額が5000万円でした。
交渉は平行線をたどりました。

その状況を打破したのが、満州国側の一員として交渉に参加していた杉原でした。
杉原は、交流を深めていた白系ロシア人からある重大な情報を手に入れます。
ソ連側が交渉のさ中にも関わらず、北満州鉄道の車両を密かにソ連内に運び出していたのです。
ソ連の行為は不当だとして杉原は、それを盾に交渉します。
譲渡金を1億4000万円まで値下げさせたことで、譲渡協定は結ばれました。
この功績により、杉原の外交官としての名声は国内外に一気に広まることになります。

同じ頃、ヨーロッパでは戦争の機運が高まりつつありました。
ドイツではヒトラーが総統となり、全権を掌握し再軍備へと進みます。
ロシア革命後のソ連では、鋼鉄の人と呼ばれたスターリンが独裁体制を固め、ドイツの動きを警戒していました。
そんな中、杉原の新たな赴任先は・・・ヨーロッパのバルト三国の一つリトアニアです。
どうして杉原は、リトアニアに派遣されたのでしょうか?
当時の日本は、モンゴルと満州の国境付近でノモンハン事件と呼ばれるソ連との武力衝突のさ中でした。
杉原が、ソ連に近いリトアニアに派遣されたのは、ノモンハン事件を外交的に解決するための情報を集める目的だったと言われています。
こうして、昭和14年8月28日、家族と共にリトアニアのカウナスに着任・・・39歳でした。

リトアニア着任から9か月たった昭和15年6月・・・
ソ連がリトアニアへの強引な進駐を開始。
カウナスにあった各国の大使館や領事館に対し、8月25日をめどに閉鎖することを求めてきました。
その準備に追われていた7月18日の朝の事・・・窓の外を見た杉原は驚きました。
領事館の鉄柵の向こうに、大勢の人が押し寄せてきていたのです。
杉原はすぐにその中の代表者を呼び、話しを聞くことにしました。
すると・・・

「我々は、ポーランドから逃げてきたユダヤ人です
 どうか日本の通過ビザを交付していただきたい」

当時、ヨーロッパにいたユダヤ人は、ナチスドイツから迫害されていました。
ユダヤ人迫害の歴史は古く、ユダヤ教徒がイエス・キリストを救世主として認めなかったことに端を発します。
それ以来、ユダヤ人はキリスト教を冒涜する存在としてヨーロッパのキリスト教徒から疎まれるようになり、ヒトラーは、その反ユダヤ主義を利用し、明確な敵をつくることによってドイツ国民を一つにしようとユダヤ人を迫害します。
迫害はドイツ国内にとどまらず、占領したポーランドでも行われていました。
そして、ユダヤ人にとって逃げ込んだリトアニアも安全とは言えませんでした。
進駐してきたスターリンも彼らを敵視していたからです。

「一刻も早く遠くに逃げたい!!」
 
そんなユダヤ難民たちに最初に手を差し伸べたのは、カウナスにいたオランダ名誉領事のヤン・ズヴァルテンディクでした。
ズヴァルテンディクは、南米にあるオランダ領のキュラソーやスリナムならビザが無くても入国できる・・・そう考え、独断での入国許可の証明書をユダヤ人たちに与えました。
逃げる先が決まったユダヤ人たちでしたが、問題はそこまでどうやって行くかでした。
ヨーロッパを抜けていくルートはナチスドイツの脅威があって使えません。
残された方法は、シベリア鉄道を使って東から行くルートです。
ただし、シベリア鉄道の終点・ウラジオストクからは日本の通過ビザがないと海を渡ることが出来ません。
その為、多くのユダヤ難民が、カウナスの日本領事館に押し寄せてきたのです。

杉原は、急いで日本の外務省に通過ビザ発給の許可の電報を打ちます。
帰ってきた答えは・・・

「渡航先の入国許可や、渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない」

ビザ、発給の規定を厳守するようにというのです。
ユダヤ難民の中には、キュラソーやスリナム以外を希望する者もいて、彼らの多くは入国許可を持っていませんでした。
それに、命からがら逃げてきたユダヤ人たちが、十分な渡航費用を持っているわけもなく・・・
杉原は悩みます。

「少量のビザ発行なら何とかすることもできるが、これだけ大量になると自分の裁量を越えている・・・
 問題が起これば服務規程違反で首になるかもしれない・・・」

そんな時、連日のように領事館の前にたたずむのを見た幼い長男が・・・

「あの人たちは何をしに来たの?
 パパが助けてあげるの??」

杉原は、腹をくくりました。
そして妻・幸子にこう言うのです。

「私は外務省の指示に背いた 
 領事の権限でビザを出すことにしようと思うがいいだろうか
 職務規定違反で外務省も辞めさせられるかもしれない
 それでも、私はやるべきなのだろうか」

「あとで私たちはどうなるかわかりませんけど、ぜひそうしてあげてください」


リトアニアのカウナスに赴任した年の暮れ、杉原はひとりのユダヤ人少年ソリー・ガノールと出会います。
当時11歳だったソリ―は、ユダヤ今日のお祭りで貰った小遣いをポーランドから逃れてきた難民共催のためにすべて寄付しました。
ところが、見たかった映画のお金を残さなかったことをその後後悔していたのです。
杉原は、たまたま訪れたソリ―の叔母の店でその話を聞きました。
そして、僅かな銀貨を差し出し、ソリーに言いました。

「これで映画を見なさい
 私のことを君のおじさんだと思ってくれればいいから・・・」と。

それ以来、ソリー一家と家族ぐるみの付き合いが始まったのです。
この時、ソリーの家にはポーランドから逃げてきたユダヤ人が匿われていました。
そして彼らは杉原にこんな身の上話をしました。

ワルシャワでナチスドイツによる空襲を受け、妻と長女の命をうばわれた
私は命からがらなんとか次女と逃れてきたんだ

そうした厳しい状況を聞き、胸を打たれた杉原は、自分に何かできないかとずっと考えていました。
だから、職を失う覚悟で決めたのです。
ただ・・・その一心で・・・!!

昭和15年7月末・・・
杉原千畝は、リトアニア・カンザスの日本領事館に押し寄せるユダヤ難民を助けるため、独断で日本の通過ビザの発給を始めました。
しかし、日本領事館閉鎖まで1か月・・・時間はあまりありませんでした。

「一人でも多く助けたい!!」

そう考えていた杉原は、朝食を食べ終わるとすぐに執務室に入り、行列を成すユダヤ人一人一人と面会・・・
ビザを発給していきました。
多い日には、1日250通を超えるビザを・・・
愛用の万年筆が折れるまで書き続けました。
やがて、手だけではなく体中が痛み出したといいます。
それでも杉原は休みませんでした。

そんな中、杉原からビザを受け取った最初のユダヤ人たちが日本に着きます。
すると・・・8月16日、外務省から1通の電報が届くのです。
そこには・・・

”カウナス領事館で発給された通過ビザを持参しているものの中には、行先国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できないので、対応に苦慮している
 行先国の入国手続きを完了し、十分な旅費を持っている者でなければ通過ビザを与えないように”

しかし、外務省からの指示通りに発給規定を厳守すれば、助けられないユダヤ人たちが大勢出てしまいます。
そこで杉原は、このままビザの発給を続けるためある策を講じます。
その策とは・・・??
それは、発給規定の厳守を命じた電報を一旦無視するというものでした。
外務省への返事を後回しにし、ビザを発給し続けたのです。
そしてそこに、こんな発給条件を記したスタンプを押していきます。

”本ビザは、ウラジオストク乗船までに本邦以遠の行先国入国許可取り付け並びに乗船券予約を完了すべきことを了知する旨申告せしめ交付せり”

リトアニアを出る時には行先国の入国手続きは済んでいないが、日本に入るまでには入国許可を得させ、行先国までの船の予約を済ませるという条件付きで特別にビザを発給したと・・・。

これもまた、外務省からの電報に対する杉原の対応策の一つでした。
こうして杉原は、領事館を閉鎖するまでの12日間、条件付きビザを発給し続けます。

昭和15年8月分28日、カウナスの日本領事館を閉鎖。
その後、ようやく外務省へ返事を送ります。

”ウラジオストクで日本行きの船に乗るまでに行先国の入国許可を取り付けること、また、日本からの目的地までの乗船券の予約を済ませること、以上の実行を条件にビザの発給をしています”

条件付きでビザを発給したことを伝える杉原の電報が外務省に送られたのが、初めにもらったユダヤ人たちが日本に渡ろうとするとき・・・そのビザが偽造ではなく、杉原がだした正式なものだと証明する事にもなりました。
そして、この電報の最大のポイントは・・・”ビザを発給しています”と、現在進行形で書いたことです。
昭和15年9月3日に外務省から杉原に宛てた電報には・・・

”貴殿の如き取り扱いをなしたる避難民の後始末に窮しておる実状につき
 以後は、往電22号の通り厳重取扱いありたし”

とあります。
以後は厳守してビザを発給するようにと書かれていたのです。
この電報が届いたのは9月3日・・・すでに、8月28日には領事館を閉鎖しているので、これ以後は・・・ということは、杉原がそれまでに発給したビザはすべて有効となった事を意味するのです。

もう一つ大事なことは、当時の日本の規則では、ビザ発給に当たっては十分な旅費を持っていることが必要とされていました。
しかし、具体的な金額を示す基準がありませんでした。
この曖昧さも、杉原に有利に働きました。
杉原の発給したビザの数は、記録によると2140人分・・・通説では、杉原が救ったユダヤ人は6000人ともいわれています。
ビザは、当時は家族全員で1つのパスポートなことも見受けられます。
1通のビザが複数の人を救っていたのです。
リストを見ると、領事館を閉鎖する日が近づくにつれ、1日当たりのビザ発給数が極端に少なくなっています。
これは、ビザを求める人が増えたため、ビザ発給に専念し、数の記録をとることが出来なかったからだと思われます。
こうしたことから、リストに載っている数よりも、杉原が実際に助けたユダヤ人の数が多いと言われているのです。
この時、杉原がユダヤ人を助けていることは、ナチス・ドイツに伝わっていました。
近年の研究で、領事館の事務員グッチェが、ナチスのスパイだったことが分かっており、そこから伝わったのではと考えられています。
まさに、命を狙われてもおかしくない状況で、ユダヤ難民を救った杉原千畝・・・彼は後に、こう語っています。

「全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、ビザを拒否しても構わないのか。
 それが果たして国益に叶うことだというのか」

ユダヤ人を救うことは、必ず将来の日本のためになる・・・命のビザは、そういう強い信念のもと発給されたのです。



わかっているだけでも、2140という膨大なビザを一か月にわたって休むことなく発給し続けた杉原千畝・・・
昭和15年8月28日、リトアニア・カウナスの領事館を閉鎖。
ベルリンに向かうことになっていました。
その汽車を待つ間、市内にあるホテルメトロポリスに宿泊していたのですが、ユダヤ人たちがビザを求めてここにもやってきたのです。
しかし、ビザの発給に必要な公印は、すでにベルリンに送ってしまっていました。
そこで杉原は、ビザに準じる日本への渡航許可証を書くことに・・・
公印はなくても、自分のサインだけで書くことが出来たからです。
ホテルをたつその日まで、渡航許可証を発行します。
しかし、とうとうリトアニアを立つ日がやってきました。
すると、杉原を追って駅にまでユダヤ人たちがやってきました。
ドイツのベルリンに向かう汽車に乗った杉原は、その窓から身を乗り出すように手渡されたパスポートに次々と渡航許可証を署名し続けたといいます。
発車の汽笛が鳴ると・・・

「ゆるしてください
 もうこれ以上書くことはできません
 皆さんのご無事を祈っています」by杉原千畝

この言葉を聞いたユダヤ人の一人は・・・

「スギハラ!私たちはあなたを忘れません!
 いつか必ず再会しましょう!!」

そこにいる全てのユダヤ人が、杉原に深く感謝していました。

杉原千畝が発給したビザにより、ユダヤ人たちはウラジオストクから日本の敦賀に上陸できました。
ところが、想定外の問題が発生します。
オランダ領のキュラソーや、スリナム以外のアルゼンチンなどの中南米諸国が、ユダヤ人の入国を拒否するようになっていたのです。
これを受け、外務省はウラジオストク総領事館に対し、渡航先が中南米諸国の場合、日本に向かう船に乗せる許可を出さないように指示しました。
乗船許可を得られなければ、ユダヤ人たちはソ連によって拘束されてしまいます。
そうなれば、命の保証はありません。

ユダヤ人たちが、命の危険にさらされるのをわかって追い返すことなどできない・・・
そういって、外務省の方針に異を唱えた人物がいました。
ウラジオストク総領事代理・根井三郎です。
根井も、杉原と同じ日露協会学校でロシア語を学んだ外交官でした。
根井にとって杉原は、外務省では先輩であり、学校では同窓生でした。
当然、根井も、あの教えを大事にしていました。

”人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう”

根井は、杉原からのバトンを受け継ぎ、命のビザを繋ぐため、外務省に電報で抗議します。

「日本の領事が出したビザを行先国が中南米になっているというだけの理由で、一律に船に乗る許可を与えないのは日本が発行したビザの威信をそこなうことになり、面白くない」

根井は、外務省の指示に従わず、ビザを持つすべてのユダヤ人を受け入れ、敦賀港に向かわせたのです。

リトアニアのカウナスからドイツのベルリンについた杉原は、ドイツ大使だった来栖三郎からチェコスロバキアのプラハにある日本総領事館の領事代理を務めるよう命じられました。
外務省外交史料館には、そのプラハで杉原が発給したビザのリストが2通保管されています。
そこには、合計120人の名前が記されており、そのほとんどがユダヤ人でした。
杉原がいたプラハはこの時、ドイツの占領下にあり、ユダヤ人への弾圧が強まっていました。
その現状を見た杉原は、ユダヤ人たちを救いたいと、ここでもビザを発給していたのです。

その時、杉原にビザを発給してもらったジョン・ステシンジャーは、

「プラハの日本総領事館は、すでに長蛇の列ができていた
 中に入ると杉原に、”君は日本語が話せますか”と聞かれました
 その時私はたまたま”ハイ”という日本語を知っていたのでそう答えると、杉原は微笑みながら
 ”よろしい ビザを出しましょう”と、発給してくれました」

と言っています。
きっと杉原は、わかっていたのでしょう。
ジョンが、ハイ以外の日本語を話せないということを・・・。

プラハで発給したビザには、条件を満たしていない者も多く含まれていただろうと言われています。
この時は、杉原はリストにある80人以上の他にも多くの人を救っていたと考えられます。
ジョン・ステシンジャ―一家がプラハをたった後、プラハ郊外にゲットーが築かれ、終戦までにおよそ14万人ものユダヤ人が収容されたと言われています。
そして、そこで働けなくなった者は、アウシュビッツ強制収容所に移送。毒ガスなどで命を失いました。
もし、杉原がプラハにいなければ、ジョンは命を落としていたかもしれません。

昭和20年、第二次世界大戦が、同盟を結んだドイツ、イタリア、日本の敗戦で終結・・・
ルーマニアのブカレストで終戦を迎えた杉原は、その2年後、家族と共にシベリア鉄道で帰国。
外務省を退職すると、商社に勤め、再び海外生活を送ることとなります。
そんな杉原を探している人がいました。
杉原が発給したビザによって命を助けられたユダヤの人々です。
ところが、どんなに探しても、杉原を探し出すことはできません。
一説には、杉原は外国人が発音しやすいように”チウネ”を”センポ”と呼ばせていたといわれています。
ユダヤ人たちは”センポ・スギハラ”を探していたため見つからなかったというのです。

時は過ぎ、昭和43年、68歳になっていた杉原も、また、ユダヤ難民たちの消息が気になり調べ始めていました。
そんな中、日本にあるイスラエル大使館から連絡が入りました。
訪ねて行くと・・・そこには、杉原によって救われたユダヤ人が・・・!!
リトアニア・カウナスの日本領事館で、ビザを求める嘆願をしに来たユダヤ人たちの代表・ニシェリでした。
彼は、イスラエル大使館の参事官となっていたのです。
28年ぶりの再会に、2人は手を取り合い喜んだといいます。
それから17年が経ち、昭和60年・・・イスラエル政府は、杉原の功績をたたえ、日本人で唯一となる「諸国民の中の正義の人」として、イスラエル政府から表彰されます。

そして、その翌年、昭和61年7月31日永眠・・・86年の人生でした。

杉原は、生前こんなことを言っています。

「私のしたことは、外交官として間違った事だったかもしれない
 しかし、私には頼ってきた何千人もの人々を見殺しにすることはできなかった
 大したことをしたわけではない
 当然のことをしただけです」

そして杉原は、それが国益になると考えていました。
その通り、2011年の大震災の際、イスラエルの人々は多大な支援を日本の対して行ってくれました。
当時のイスラエル大使はこう言っています。

「これは恩返しなのです
 我々は、杉原千畝の恩を、決して忘れることはありません」

杉原が、自らの命を懸け、繋いでくれた国と国、人と人との絆・・・これもまた杉原の言っていた国益なのかもしれません。
命のビザを発給し続けた杉原千畝・・・信念を貫き、国も、人種もこえ、まさに正義のために生きた人でした。



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世界の経営者が尊敬するリーダーは・・・??
ある会社の調査の1位は、第61代イギリス首相ウィンストン・チャーチルです。
ナチスドイツに勝った不屈の精神、イギリス国民を鼓舞するスピーチ力、そのチャーチルの人生は、失敗と挫折、敗北と失望の連続でした。
イギリス屈指の政治家とされるチャーチルは、政治家以外にも様々な顔がありました。
権威あるロイヤルアカデミーで展覧会を開いた画家の顔、生涯で30冊以上の本を書きノーベル賞を受賞したノーベル賞作家、レンガ職人の組合に加入し、自らの家の壁を作ったレンガ職人の顔・・・。
失敗と挫折を繰り返し、それでも首相を目指したチャーチル!!

イギリス国民にウィニーという愛称で親しまれたチャーチル・・・
半世紀以上が過ぎた今でも、そのドラマや映画が作られています。
第二次世界大戦でイギリスの首相として国の命運を握ったチャーチル。
ヒトラー率いるナチスと和平交渉をするか?それとも徹底抗戦するか??決断を迫られます。

「我々は野原や市街で戦い丘で戦う
 断じて降伏はしない・・・!!」

チャーチルのこの一言で、ドイツが優勢だった戦いを変えることとなります。
この時、チャーチル65歳、初めて首相になった遅咲きの政治家でした。
若い頃のチャーチルは、親も見放すほどの・・・親も見放すほどの不良の落ちこぼれでした。

イギリス、オックスフォード郊外にあるブレナム宮殿・・・チャーチル家の屋敷です。
チャーチル家は、150年続いた貴族の家柄でした。
1874年、チャーチルはこの宮殿で生まれました。
父・ランドルフは後に財務大臣を務めた政界の貴公子。
母・ジャネットは、ロンドンの社交界でも有名な美人でした。

1881年7歳で名門貴族の通う寄宿学校に入れられたチャーチル。
通信簿には遅刻20回・・・恥ずべきこと
常にトラブルの元凶で、喧嘩が絶えない・・・
無ず子の通信簿を見た父は・・・
「お前は負け犬のひとりとなり、みすぼらしく不幸で不毛な存在に堕落するだろう」と言ったといいます。
しかし、どんなに冷たくされてもチャーチルは父を尊敬し、憧れていました。
演説原稿を読んだり、父ののった新聞を集めたり・・・どうしたら父のようになれるのか考えました。
父親から突き放された息子・・・しかし、優しく接してくれるはずの母も冷淡でした。

チャーチルが寄宿舎から母に書いた手紙が残っています。

「どうぞ、ぜったいぜったいぜったいぼくに会いに来てください
 ぜったいです」byチャーチル

そんなチャーチルの心の孤独を癒したのが、おもちゃの兵隊でした。
チャーチルは人形の兵士を動かしている時だけは夢中になれました。
その姿を見た父・ランドルフは、軍人よりも向いているのでは??と、軍人を勧めます。
なんとか、士官学校に入学することのできたチャーチルは、19歳になったある日・・・
父・ランドルフが演説の途中で言葉に詰まります。
原因は、脳に至る重い病気でした。
1895年、ランドルフ、45歳で死去。
目標とする偉大な父が、突然消え去りました。

「私はいまや己自身が運命の主人となった」

士官学校を卒業したチャーチル・・・初めて自らの意思で選んだのは、戦争でした。
イギリスは、大英帝国として栄華を極めていましたが・・・19世紀末から植民地の独立運動が勃発!!
武力反乱もしばしば起きていました。
チャーチルはその反乱を抑えるべく、インド・スーダンなど戦地を転々とします。
最前線で、敵の弾丸をよけない命知らずな行動で、頭角を現していきます。
チャーチルを突き動かしていたものは、亡き父に自分の実力を証明したいという願望でした。
そしてチャーチルは、リスクを冒すことを恐れない人物でした。
彼は、地震の名をあげることに強い意志を持っていて、それが一番大事で、身の安全、経済的な安定は二の次でした。
戦線を転々としながら夢中で読んだ本は父も愛読していた「ローマ帝国衰亡史」でした。
大英帝国の行く末に危機を抱くチャーチルにとって、ローマ帝国の衰退は他人事ではありませんでした。

「我が人種の力と活気は衰えることなく、先祖から引き継いだ帝国を保持していくことを我々は決意ぢている」byチャーチル

大英帝国を保持する為に自分はどうすればいいのか??
戦場から帰ってきたチャーチルは軍陣をやめ、父と同じ政治家を志します。
24歳で下院議員に立候補!!
しかし、実績も知名度もないチャーチルは落選!!
とにかく知名度をあげなくては・・・!!

その時、チャーチルが目をつけたのは、南アフリカでおきていたボーア戦争でした。
イギリスが新たな植民地獲得のためにオランダ系のボーア人に対して起こしたものです。
チャーチルは新聞社と契約し、従軍記者として現地へ!!
ところが、チャーチルは現地で捕らえられ捕虜となってしまいます。
3週間が過ぎた頃・・・仲間と脱獄を試みます。
しかし、看守の目を脱獄できたのはチャーチルだけ・・・
敵地でのたった一人での逃亡が始まりました。
チャーチルは密かに列車に乗り込んで・・・目指すは500キロ先のポルトガル領モザンビーク!!
脱走してすぐチャーチルには追手がかかり、懸賞金もかけられます。
このまま易に行ってはあぶない・・・列車から飛び降り・・・脱走から2日間眠れず、何も食べていない・・・
一か八か、一軒のドアをたたきました。

「私はイギリスの特派員です。
 捕虜収容所から逃げてきました。
 助けてください。」byチャーチル

「君は家に来てよかった。
 うちだけだ、子の辺りで君を敵に引き渡さない家は・・・!!」

男は現地に帰化した元イギリス人・・・この地で数少ない味方でした。
捕虜の身から脱獄し、イギリスに生還したチャーチル・・・
イギリスではこぞって英雄として取り上げられました。
図らずも抜群に知名度を上げたチャーチルは、立候補し、下院議員に初当選しました。
1900年、25歳の時でした。

亡き父の背中を追って政治家となったチャーチル・・・
しかし、65歳で首相になるまで何度も失敗を犯し、政治生命を絶たれかけます。
33歳の時、人生を変える女性が表れます。
1908年クレメンティーンと結婚
9歳年下と妻は、生涯チャーチルに安らぎを与えてくれました。
そして5人の子供に恵まれます。
チャーチルとクレメンティーンの関係は非常に重要で、妻は彼にとって岩のような存在でした。
世界が変わりゆく中で安定した存在でした。
そして彼が誤った選択をしたとき、過ちをはっきり指摘することができる数少ない人物でした。
益々仕事に打ち込んだチャーチル・・・
1911年36歳で海軍大臣に抜擢されます。
1914年第1次世界大戦勃発!!
イギリスは連合国としてドイツに宣戦布告します。
チャーチルはドイツに大打撃を与えるべくガリポリ作戦を発案します。
目標はトルコ・イスタンブールの占領。
黒海とエーゲ海を繋ぐ要所を押さえてドイツの補給路を断つ作戦でした。
ところが・・・イスタンブールを望むガリポリ半島に上陸しようと試みた英仏連合軍は、6万もの犠牲者を出して大敗・・・。
この事態を受けて作戦の立案者のチャーチルに避難が殺到します。
チャーチルは戦争にもかかわらず、海軍大臣を辞任!!
妻への手紙に、不可解な文章を書いています。

もし私の黒い犬が戻ってきたら、今のところはずいぶんと遠くに行っているようで、それにはほっとしている

チャーチルは犬を飼っていませんでした。
チャーチルは、彼にしか見えない黒い犬に怯え、悩まされます。
この黒い犬とは・・・??
1915年、彼は非常に気が動転し、落ち込みました。
彼の精神状態を言い表すなら、死別とか、喪失とか、悲観・・・
これらは、うつのような症状ですが、病気ではありません。
海軍大臣という要職を奪われたことが、彼の心を砕き、落ち込ませたのです。
大臣の座を追われたチャーチルは、妻の勧めもあって、田舎で静養します。
やがて、目に映る自然や風景を描き始めました。
無心に何枚もの絵をかきます。
後にその心境を表現しています。

「絵の女神が私を救いに訪れた」

気力を取り戻し、ロンドンに戻ったチャーチル・・・この時40歳。
大臣を辞任し、政治生命を絶たれたに同然でした。
今の自分にできることは・・・一兵士として再び戦場へ・・・!!
大臣まで務めた人物が最前線に行くのは異例のことでした。
死と隣り合わせの塹壕の中で不思議な高揚感に襲われます。

「防衛区域のただ中では、土から死者の足やら服が飛び出していて、広範囲に墓が散らばっているようだし、どちらを見ても水や泥だらけだ。
 これに、湿気、寒さ、あらゆるささいな不便が加わっているが、私はこの数か月感じたことのない幸せと充足を感じている。」

1918年11月ドイツの降伏で終戦。
イギリスは勝利したものの90万人の戦死者を出し、膨れ上がる戦費が生活を圧迫し、4年後の選挙ではチャーチルの所属する自由党は大敗し、議席を失うことに・・・!!
それでもチャーチルは諦めません。
2年後の1924年恥も外聞もなく敵の保守党に鞍替えして出馬、下院議員に当選!!
そして、チャーチルが生涯最もうれしかったのが父・ランドルフと同じ財務大臣に就任します。
この時、49歳でした。

1939年第二次世界大戦勃発!!
イギリスは再び連合国としてナチスドイツと対決します。
その大戦のさ中・・・イギリスの首相となったのがチャーチルでした。
対戦当初、ドイツは破竹の勢いで各地を侵攻、フランス・パリも占領し、英仏海峡までやってきました。
イギリスが降伏すれば、ヨーロッパ全体がヒトラーの手に落ちるかもしれない・・・!!
絶体絶命の危機の中、チャーチルはどうやってイギリスを勝利に導いたのでしょうか??

第一次世界大戦で敗れたドイツは、壊滅的な打撃を受け国民の生活は困窮を極めました。
そんな中、ヒトラーのナチ党が台頭します。
1933年ヒトラーはドイツの首相に就任。
2年後、再軍備を宣言します。
この時、イギリスは一旦抗議するものの、ドイツの再軍備を追認しました。
ドイツを封じ込めるのではなく、譲歩することで取り込もうとしたのです。
しかし、チャーチルは違いました。
1932年にドイツを訪問し、ナチ党が独裁の道を着々と歩んでいることを目の当たりにしていたからです。

「私にはドイツ再軍備は冷酷で不気味さを帯びているように思われた。
 それはきらめき、そしてギラギラと光っていた。」

チャーチルはイギリスの政治家の中で、アドルフ・ヒトラーの脅威に最初に気付いた一人でした。
ヒトラーがヨーロッパのバランスを崩して、再び世界を戦争状態に戻そうとしていると早くから感じ取っていました。
1939年9月、ナチスドイツがポーランド侵攻
イギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、チャーチルはまたもや海軍大臣に就任します。
そのわずか9か月後、ドイツはオランダ・ベルギーに侵攻。
チャーチルが指摘した脅威は本物となっていました。
1940年5月・・・ヒトラーの危険性をいち早く唱えたチャーチルが首相に任命されました。
65歳の時でした。

「ついに私は、全局面にわたって指導していく権力を握ったのだ。
 私は運命と共に歩いているかのように感じた。
 そして、過去の私の生涯は、全てただこの時、この試練のための準備に過ぎなかった。」

ナチスドイツの対抗するためには、国民の士気を高め、野党を取り込む必要がありました。
イギリスを一つにまとめ上げる!!
チャーチルは、演説の準備を周到に行います。
6月4日、下院の議場に立ち、野党の議員を前に演説をはじめました。

「我々はいかなる犠牲を払っても、英国を守り抜く
 海岸で上陸地点で戦い 野原や市街で 丘で戦う
 断じて降伏はしない!!」

議場は歓喜に包まれたといいます。
チャーチルの就任後、それまでは入閣を拒否していた議員たちも政権に参加!!
パリを占領したナチスは、遂にイギリス本土に本格的な攻撃をはじめました。
爆撃機にとるロンドンの無差別空襲!!
多くの市民が犠牲となりました。
瓦礫と化したロンドンを歩くチャーチル・・・みなを励まして回ります。
チャーチルは、どんな場所でも帽子、葉巻、ステッキを崩すことはなく、その姿に国民は「イギリスはまだ大丈夫!!」と感じたといいます。

「大英帝国と共に、我々は降伏することなく戦い続けるだろう
 ヒトラーの呪いが人々の頭上から消え去るまで!!」

チャーチルはドイツ軍の具体的な策も実行します。
最新鋭のレーダーを配備!!ドイツ軍の爆撃機を迎え討つ体制を整えます。
1か月以上の戦闘で、イギリスはドイツ軍1,400機を撃墜!!
ロンドンの空からドイツ軍を追いだすことに成功しました。
ロンドンは守ったものの、大陸ではドイツ軍が優勢を誇っていました。
そこでチャーチルは、アメリカのルーズベルト大統領と会談!!
アメリカの参戦を要請します。

毎日の執務時間17時間、睡眠は3時間!!
自宅に帰っても外交文書の口述を続けました。
それでも、昼からシャンパンを欠かさず、日に10本の高級葉巻をくゆらし、夜にはウイスキーやブランデーを・・・
心臓発作で倒れても、生活は変えませんでした。

1941年12月アメリカが参戦し、ドイツに宣戦布告!!
形勢を一気に逆転させるためには・・・??
ノルマンディー上陸作戦!!

連合軍が英仏海峡のフランス・ノルマンディーに上陸し、ドイツの防御網を突破しようというものです。
この勝負に負ければ、イギリスは二度と立ち上がることはできないかもしれない・・・!!
チャーチルは、作戦実行前夜、イギリスの拠点・ポーツマスまで見送りに行ったといいます。
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦・・・4000隻を超える大艦隊、史上最大の上陸作戦が実行されます。
ドイツ軍との激しい戦闘の末、連合軍は上陸に成功!!
ここから反撃が始まりました。
連合軍はドイツ軍を次々と撃破!!そして、1945年5月、ベルリンが陥落し、ドイツは無条件降伏!!
チャーチルの戦争はようやく終わりました。

チャーチルはイギリスが勝利することで、戦う以前の大英帝国の状態に戻ることを期待していました。
ところが、戦勝国の会議で主導権を握ったのは、アメリカのルーズベルトとソ連のスターリンでした。

「私の左側には手足を思い切り伸ばしたロシアの大熊、右側にはアメリカの大きな象がいた
 二頭に挟まれ、哀れな英国の小さなロバはただ一人、正しい道を知っていた」

イギリスの領土要求は不調に終わったばかりか、かつての大英帝国の植民地も独立の道を歩み始めます。
チャーチルの目指した栄光は幻となってしまったのです。
更に選挙でも保守党は敗退・・・首相の座を追われたとき、70歳になっていました。
引退を考えてもおかしくないのに・・・野党の党首として働き続けます。

「いま、政界を引退したら、2度と戻ってくることは出来ない」

チャーチルは、地震の影響力で冷戦の緊張緩和が得られると信じていました。
東西冷戦の中で、イギリスの影響力を保持する為に、自分にできることがあると信じました。
第二次世界大戦後の世界は、ソ連を中心とする社会主義陣営とアメリカを中心とする資本主義陣営の冷戦状態にありました。

チャーチルは、東西の冷戦を「鉄のカーテン」と表現し、その西側にいる我々は団結するべきだ!!と、主張します。
現在のEU構想をいち早く唱えたと言われています。
活動を続けること6年・・・チャーチルに幸運が・・・政権与党への不満が爆発し、野党が政権をとり1951年、76歳にして再び首相に返り咲きます!!
しかし議会では、老害、引退すべき・・・との発言が・・・
新聞記者にいつ引退するのか聞かれたチャーチルは、
「私の健康が本当に衰えて、大英帝国が本当に元気を取り戻したらね。」と、答えました。

そんな中、思いもよらない出来事が・・・ノーベル文学賞の受賞!!
自らの著書、「第2次世界大戦」が戦争当事者の貴重な証言として高く評価されたのです。
チャーチルは序文に書いています。

「過去に深い考慮を払うことが来るべき日の手引きとなり、未来の恐るべき光景を抑制できることを私は心から願っている」

ノーベル賞の受賞で、まだまだ元気と思われていたチャーチルでしたが・・・耳が遠くなり、閣議の答弁も失敗するように・・・
1955年、80歳になったチャーチルは、周りに促され遂に引退を受け入れます。
首相官邸を去る前日・・・妻・クレメンティーンと共にエリザベス女王から直々に労いを受けたのです。
それから10年後の1965年1月24日、ウィンストン・チャーチルは90歳で激動の人生にピリオドを打ちました。 

奇しくも父親が死んだ人同じ日でした。
1月30日の国葬にはチャーチルを慕う30万人の国民が参加。
チャーチルは人生を振り返ってこうつぶやいています。

「いい旅だった
 旅に出た価値はあった・・・1度だけなら」byチャーチル

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”一人の死は悲劇だが 100万人の死は統計だ”

suta-rin
ソビエト連邦に四半世紀にわたって君臨したヨシフ・スターリン。
ソビエトを第二次世界大戦の戦勝国に導き、世界を二分する大国にした男です。
しかしそれは、多くの国民の死の上に築かれたものでした。


1878年12月18日ジョージア・小さな農村ゴリで、貧しい靴職人の息子として生まれたのが、ヨシフ・ジュガシビリ・・・後のスターリンでした。


1892年2月13日、13歳の時に、公開絞首刑という衝撃的な事実を目にします。
処刑されるのはジョージア人、処刑するのはロシア人。。。
19世紀当時、ジョージアは、ロシア帝国の支配下にある辺境の地でした。
ロシア皇帝の絶対的権力のもとに、民族も文化も違うジョージア人は抑圧されていたのです。
貧しい生活に喘いでいました。
ジョージアの権力と経済を握っていたのはロシア人で、ロシア語が強制され、新聞もジョージア語は禁止されていました。

厳しい暮らしの中、ジョージア人が救いを求めたのがキリスト教でした。
ヨシフも、キリスト教が主催する学校に通い、聖職者を目指していました。
しかし・・・この目の当たりにした現実・・・
ロシアに逆らった些細な罪で、命を落とすジョージア人。。。
見せしめの絞首刑・・・それを教会学校の教師が子供たちに見学を命じます。
処刑する側には聖職者が・・・

神は実際には存在しない・・・教会学校を退学したヨシフは、ジョージアの貧しい者たちを救う為に解放運動に参加します。

退学から4年後・・・1903年7月・・・ヨシフは、労働者を扇動しストライキを起こしたという罪で、シベリアに流刑となります。
この流刑地で自らの運命を変える一人の人物の存在を知ることとなります。
lenin一冊の小冊子・・・その著者はウラジミール・レーニン。。。
ロシア皇帝打倒の革命集団を率いる若き指導者でした。
当時、すでに農奴はなかったものの・・・労働者が一部の特権階級に搾取されていました。
レーニンの思想は、特権階級から富を奪い、労働者が主人公となる・・・。
だれもが公平な社会主義国家の樹立を目指していました。

「搾取階級に同情する必要はない。
 彼等は根絶やしにしなければならないのだ。」

ヨシフはレーニンに共感し、自らの道を確信します。
倒すは、ロシア帝国!!

以後ヨシフの活動は過激に・・・13年間で逮捕7回、流刑5回に及びました。
ヨシフは自らに新たな名前を付けました。
スターリン・・・ロシア語で”鋼鉄の人”という意味です。

1917年ペトログラードでレーニンがで武装蜂起を促します。
労働者や兵士たちがたちまち宮殿を占拠し、権力を掌握しました。
200年に及んだロシア帝国は終わりをつげ、世界初の社会主義政権「ソビエト共和国」が誕生したのです。
レーニンをはじめとする政治を行う7人の中にはスターリンの名前もありました。
エリートが揃う中、末席でしたが・・・

最初の仕事は・・・クラーク(富農)から食料を奪うことでした。
汚れ仕事でした。。。
「100人以上の金持ちを処刑せよ。
 必ず民衆に見える様に処刑せよ。」byレーニン
スターリンは命じられたとおりに、食料の提供をしないクラークを処刑していきます。
「死が全ての問題を解決する
 全員が死んでしまえば何の問題も残らない。」byスターリン

1917年革命により建国されたソビエト共和国・・・目指したのは階級のない誰もが平等な世界でした。
しかし、20年後・・・彼らが見たのは大凶作の上の400万人を餓死させた失政でした。
反抗する900万人を収容所に送り、半数を死に至らしめました。
この責任者はスターリン。。。

どうして抑圧する側に回ってしまったのでしょうか??

1922年43歳で共産党書記長に就任します。
権力への階段を登り始めたスターリンの最大の敵は、国家の最重要ポスト・軍事担当大臣レフ・トロツキーでした。裕福なユダヤ教農家に生まれたトロツキーは雄弁家で理論家・・・。
トロツキーにとっては、スターリンはジョージア出身の田舎者でした。
相容れないふたり・・・トロツキーを追い落とす千載一遇のチャンスがスターリンの訪れます。
1924年1月21日レーニン死去。

葬儀は書記長であるスターリンが執り行うこととなりました。
torotuki-トロツキーは病気療養のためにモスクワを離れていました。
スターリンは電報を打ちます。
「レーニン死す。葬儀は1月23日。」
受け取ったトロツキーは、間に合わないと葬儀を欠席しました。
しかし・・・実際には、葬儀は1月26日。。。
スターリンの陰謀でした。
偉大なる指導者の葬儀に欠席・・・騙されたとはいえ、トロツキーの権威は失墜!!
これを機に・・・1927年共産党中央委員会総会で批判し・・・トロツキーを党から除名します。
最大のライバルを葬り去ったスターリンは、ソビエト連邦の最高権力者となったのでした。

モスクワ・・・赤の広場にあるレーニン廟。
スターリンは、レーニンの遺体を永久保存しました。
真っ先に行ったのは、レーニンの神格化です。

「私は、レーニンの最も忠実な使徒である。」

各地にレーニンの銅像を作り、農村には写真を・・・。
レーニンの神格化は、実際には自分を神格化するためでした。
しかし、問題は山積・・・。
世界で唯一の社会主義国は、その波及を恐れる本主義諸国から敵視されていました。
1927年イギリスとの国交が断絶。
戦争が起こる可能性に、スターリンは危機感を感じていました。
我々は、先進諸国に50年から100年立ち遅れている。
この距離を10年で走り抜けねばならない・・・。
農業が中心の近代化が遅れた国だったソビエト・・・現状打破のために、1928年第1次五か年計画を始めます。
重工業を先進諸国のレベルまで一気に発展させようというものでした。

高層ビルが・・・鉄道が・・・自動車が・・・ダムが・・・作られていきます。
計画を推進するためには莫大な資金がかかる・・・作物を輸出することを考えます。
農業の集団化を考え始めました。

作物を確実に徴収するために、収穫した作物は全て国が管理します。
しかし・・・この政策が悲劇を招くのです。
大凶作・・・にもかかわらず、あらかじめ決められた量をノルマとして徴収していきます。
農民の手元には、生き延びるのに必要な穀物すら残っていませんでした。
1年で400万人の死者がでたことも・・・村人全員が死に絶えたことも・・・
あまりに過酷な農民の政策に、妻・ナージャも批判します。
1932年11月・・・革命の理想を見失った夫を避難する妻は・・・ピストルで自らの胸を撃ち・・・
「お前は私を見捨てた・・・まるで敵のように。。。」byスターリン。

反抗する者は全て革命の敵・・・
妻が抗議の自殺をしてもそれは変わることはありませんでした。
「ペルミ36」強制収容所は、現存する唯一の強制収容所です。
スターリンは、集団化に反抗する人間を、次々に強制収容所に送ります。
このような施設は500ほどあり・・・
集められた人々は、工場や工事現場でタダ働きの労働者となりました。

収容所に送られた農民の数は900万人。
半数以上が耐えられずに1年以内に死にました。

「死の懲罰をともなう恐怖の強制労働こそ、囚人を矯正するのだ。」

スターリンの指示によって製作された「イワン雷帝」は・・・敵対する貴族たちを次々と粛清し、恐怖政治を行った暴君でした。


1934年共産党党大会・・・壇上に立ったスターリンは・・・
「決してパニックに陥るな!!
 たとえ混沌と危険が地平線に迫っても・・・!!」
この時、会場にいた半数以上の党員が、処刑されるとは思う余地もありませんでした。

大粛清・・・
1932年・・・・・2728人
1933年・・・・・2154人
1934年・・・・・2056人
1935年・・・・・1229人
1936年・・・・・1118人
だったのが・・・
1937年・・・353,074人
1938年・・・328,618人
となりました。

ヒトラーでさえ・・・
「スターリンとその部下は病気なのだ
そうでなければ、大粛清の説明がつかない。」と言ったとか。

どうしてこんなことが行われたのでしょうか??

1936年スターリン体制が盤石なものとなります。
まず、粛清の対象となったのは、かつての共産党幹部でした。
rehu最初に狙われたのは、レフ・カーメネフ。
スターリンと同じジョージア出身でシベリア流刑の仲間でした。
罪状は、国家反逆罪・・・家族には手を付けないと約束し、自白を強要します。
公開裁判が行われ・・・家族を守るために罪を認めたカーメネフはすぐに処刑されてしまいました。
ところが・・・約束を反故にして、妻子をも処刑!!
そして、共産党幹部全員を死に追いやったのです。

その背景には、農業集団化の失敗があったようです。
農民たちがバタバタと死んでいく・・・党の幹部たちはスターリンの責任を追及・・・する人間を粛清していたのです。
一般人たちも巻き込まれていきます。

人々が一番恐れていたのは、密告でした。
密告されないように、外では声を潜め・・・密告しないのは人民の敵だと密告する側にもなります。
粛清された人と話していたとか、一緒に写真に写っていたとか・・・些細なことで密告されます。

地方の党支部への命令には・・・地区ごとに処刑ノルマが決まっていました。
あらかじめ人数を決めて、目標に達するまで処刑していきます。
毎晩、膨大な処刑執行命令書にサインをするスターリン。

「逮捕した者の中に、本物の敵が5%含まれていれば、大成功というべきである。」

しかし、スターリンは今でも支持されているのでしょうか?

1938年ヒトラー率いるドイツが台頭し、スターリンは脅威を感じていました。
この時、ドイツはオーストリアを併合し、東西に領地を広げます。
いずれソビエトにも・・・。
ドイツとの戦争を回避したいと思っていたスターリンは、独ソ不可侵条約を締結。
ところが、1941年6月22日ドイツがソビエトに電撃侵攻!!
ソビエトは、わずか3週間で200万の兵士を失って・・・壊滅的となってしまいます。
国境地帯の警備を怠っていたスターリンの失策でした。

しかし、なおも権力の座に座り続けるスターリン。
鼓舞するために、ロシア帝国時代の軍服を復活させます。
自ら軍の最高司令官となります。

リーダーになれる人物は、スターリン以外に考えられませんでした。
なぜなら、リーダーになる人間は、スターリンによって粛清されてしまっていたのです。
1941年7月・・・ソビエト軍の捕虜の中に、長男・ヤコフが含まれている!!
ドイツから捕虜交換を求められるスターリン。
しかし、これを拒否!!
ヤコフはドイツの収容所で死亡しました。

知らせを聞いたスターリンは・・・ヤコフの写真を眺めていました。
「もしほかの兵士たちのことを忘れて、ヤコフだけ助けたら・・・私はもう”スターリン”ではいられなくなるだろう」

劣勢に立たされたソビエトを立て直すために・・・
指令227号を出しました。

”戦闘から一歩でも退却した兵は、背後から銃殺せよ。」

戦場では・・・軍の最後に秘密警察の銃殺部隊が構えていました。

死の恐怖で戦意を煽ったのです。
1942年200日に渡って激戦が行われたボルゴグラード(旧・スターリングラード)・・・100万のドイツ軍が包囲する中、戦闘は熾烈を極め、ソビエトは苦戦を強いられます。
しかし、厳しい冬でソビエトに有利となりドイツに勝利!!
この戦いでのソビエトの犠牲者は48万人、味方による銃殺は、13,500人にのぼりました。

1945年6月24日モスクワでの戦勝パレード・・・。
第二次世界大戦の戦勝国となり、スターリンの権力は絶大となります。
終戦から8年後、スターリンは一人倒れているところを発見されます。
脳溢血でした。
1953年3月5日、スターリンは74年の生涯を閉じました。

モスクワ・ノヴォデヴィチ修道院・・・31歳の若さで自殺したナーシャはここに葬られています。
葬儀の途中にも仕事場に戻ったスターリンは、暇さえあればここに来ていました。
束の間・・・”鋼鉄の人”から自分に戻ったのかもしれません。

スターリンの名を使った息子にはこういいました。

「お前はスターリンではない。
 私だってスターリンではない。 
 新聞に載っているスターリン。
 肖像画に描かれているスターリン。
 それがスターリンなのだ。」


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1941年12月8日真珠湾攻撃・・・それより8年前の1933年2月24日。
スイス・ジュネーブでの国際連盟臨時総会で・・・日本が戦争への分岐点となる演説がありました。
日本首席全権は松岡洋右。

「極東の平和を保障し、世界平和を維持するために、日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

この演説から一か月後、日本は国際連盟を脱退!!
世界から孤立する道を進んでいきます。

国際連盟は、第一次世界大戦後・・・1920年に作られ・・・設立当時・加盟42か国、常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本でした。後にドイツ、ソビエトも加盟しますが、アメリカはいませんでした。
第28代アメリカ大統領W・ウィルソンが提唱したにも関わらず・・・。
アメリカの議会が反対し、参加しないままの出発となったのです。

1914年に第一次世界大戦に参戦した日本・・・イギリスとの同盟を理由にドイツに宣戦布告。
当時ドイツが利権を持っていた山東省に攻め込み、獲得ました。
マリアナ諸島・マーシャル諸島・パラオ諸島・カロリン諸島を委任統治することになりました。

どうして脱退したのでしょうか?

当時日本は、中国にある満州・関東州に派遣された日本陸軍部隊が関東軍。
1931年9月18日に日本が起こしたといわれている柳条湖事件が起きました。
これをきっかけに、満州事変・・・政府の方針を無視して軍事行動を進めていき・・・満州国を作りました。

世界大恐慌のあおりを受けて、深刻な不況だったので、働き口、資源を求めてたくさんの日本の人々が満州に渡っていきました。そしてソビエトの恐怖・・・。

1932年3月・・・作った満州国は、日本の傀儡政権でした。
中国国民党政府は、侵略と・・・国際連盟に提訴します。
これを受けリットン卿を中心とするリットン調査団がやってきます。
「日本による占領は、自己防衛だと正当化されるべきではない。
 日本が作った新政府は、満州が自ら決めたことではない。」
1933年2月24日国際連盟臨時総会が行われ・・・
日本は満州から撤退するべきだ!!ということになります。

”満州国を世界に認めさせるため!”にやってきたのが日本首席全権・松岡洋右でした。

「東洋における問題の根本的原因は、中国の無政府状態である。
 真剣に考えて欲しい。
 日本と中国は友人であり、両国の繁栄のために協力し合うべきなのだ。
 満州撤退の報告書を国際連盟が受け入れれば、日中両国を救うことができない。」

中国政府では、満州を維持することができないと、平和維持のために行っていると46分に渡り演説します。が・・・満州国撤退の対日勧告案は、賛成42に対し反対1・棄権1・・・と、圧倒的に否定されてしまいます。

松岡は・・・「日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

と、会議場を去ります。

この演説は、日本国内の映画ニュースで繰り返し上映され、国民に大歓迎されるのです。
新聞も松岡を英雄視します。
しかし・・・本人は帰国し・・・期待に添えなかったことをお詫びしています。
松岡の使命は、満州国を世界に認めさせたうえでの国際連盟にも残ることだったからです。
どちらもできなかったのです。


1937年盧溝橋事件が起こります。
北京郊外の盧溝橋で、演習中の日本軍に何者かが発砲したとされる事件ですが・・・発端の実情は不明ですが・・・。
これで中国全土に戦争が広まっていきます。
アメリカは、日本に中国からの撤退を強く呼びかけていました。
1940年第二次近衛文麿内閣で外務大臣として就任した松岡洋右。。。
ドイツ・イタリアと三国同盟を結びます。
ヨーロッパに向かうシベリア鉄道・・・モスクワでスターリンに会い、ベルリンでヒトラーに会い、ローマではムッソリーニに会います。
そして・・・日本に帰る前にモスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を結びます。
日独伊ソ連が手を組むことを考えていて・・・アメリカとの戦争はしたくない・・・というのが本音でした。

1941年7月にはアメリカと直接交渉できずに外務大臣を退任。。。病気療養に入り・・・日米開戦を病床で知るのでした。

「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だった。」

1941年6月22日ドイツがソビエトに侵攻!!
4か国でアメリカに対抗しようと思っていた松岡の思惑は挫折してしまったのです。
1941年12月8日、ハワイ・真珠湾攻撃!!
開戦当時は、日本が優勢でした。
しかし、戦況は急速に悪化し、日本は後退を余儀なくされます。
そして・・・1943年11月21日明治神宮外苑競技場にて”出陣学徒壮行会”が行われました。
敗戦の色が濃くなる中で、大学生が戦争に送られていきます。
集まったのは2万5000人。。。総理大臣・東条英機が演説します。

「私は、衷心より諸君の門出をお祝い申し上げる次第です。
 敵・米英におきましても諸君と同じく、若い学徒が戦場に立っているのであります。」

東大生の答辞は・・・
「生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂・・・」

その後、13万人の学生たちが戦場へと送られていきました。 
1945年8月日本は無条件降伏しますが、この時までの日本人犠牲者は、310万人にも及びました。
敗戦後松岡洋右は、A級戦犯として逮捕されます。
しかし、裁判では英語で無罪を主張し、1946年66歳の生涯を閉じるのでした。


ドイツでは・・・アドルフ・ヒトラー。
ヒトラーは、当時のドイツ国民に指示されて独裁者に上り詰めました。
「大衆の多くは無知で愚かである
 嘘を大声で、十分に時間を費やして語れば人はそれを信じる」
ヒトラーが行動を起こしたのは、ドイツのミュンヘンでした。
類まれなる演説で、人々を魅了していきます。

ヒトラーが25歳の時、運命の出来事が・・・第一次世界大戦勃発!!
オーストリア出身のヒトラーでしたが、ドイツに志願兵として参加します。
前線で戦うも敗戦し、ドイツは巨額の賠償金を支払わなければならなくなりました。
国内は極度のインフレ、大不況となって失業者であふれます。
国が崩壊していきます・・・ドイツ民族の栄光を取り戻す!!

ホフブライハウス・・・1589年に宮廷の醸造所として設立されたこの場所、ビアホールで、1920年反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党。。。ナチスが結成されます。

「我々が再び立ち上がるためには天才的な独裁者が必要である!!」
「ユダヤ人は嘘つきで寄生虫だ!!」

結成当初、党員は7人でした。

1923年ナチスが政権奪取を試みるミュンヘン一揆が起こります。
ビアホールのビュルガー・ブロイケラーで、武力蜂起したのです。
政府高官を人質にしたものの、警官隊によって鎮圧。。。逮捕・・・クーデターは失敗に終わりました。

8か月間のランツベルク刑務所で、「我が闘争」を口述筆記、ここで、自分の考え方、政策の基本をまとめます。
我が闘争には、アーリア人至上主義、共産主義の打倒、ユダヤ人排斥などが書かれて・・・後にナチスのバイブルとなり・・・ドイツの家庭には、必ず1冊ありました。
1929年世界大恐慌が起こります。
失業者が600万人となったドイツ・・・これが追い風となります。
新しいドイツが、民衆の心をとらえていきます。

ヒトラーは暴力ではなく、選挙で政権を握ろうとします。
そこには革新的な戦略が・・・
大量のビラをまき、街中に自分の顔や鍵十字のポスターを張り、巧みなプロパガンダで民衆を掌握していきます。
大衆の心を掴み・・・1933年1月、ついに首相に任命されます。

ヒトラーの野望・・・それは、ドイツ帝国の復活、反ユダヤ主義、共産主義打倒でした。

しかし、経済政策も魅力的でした。
大規模な公共事業・・・アウトバーンの建設によって、失業者は600万人から50万人に減少、フォルクスワーゲン
(国民車)の設計によって車に乗れる人が増えていきます。
大統領と首相を兼ね総統に就任します。

当時ドイツには、世界一民主的な憲法・・・ワイマール憲法がありました。
そこで権力をとり、1933年全権委任法をヒトラー内閣は制定し、国会が立法権を政府に譲位します。

ヒトラー専属のカメラマンが様々なヒトラーを撮ります。
大袈裟なアクションは、オペラ歌手からの指導・・・街がナチスに染まっていきます。
1934年の第6回ナチス党大会は「意志の大会」とも呼ばれ、100万人が参加したとも言われています。
その映像は「意志の勝利」としてレニ・リーフェンシュタールによって映画化されます。

「レニ・リーフェンシュタール」はこちら
人生にYESと言いなさい~レ二・絶賛と非難の101年~はこちら

カリスマに演出されていくヒトラー、平和のための独裁!!
平和という言葉を何度も使います。

党大会は夜に頻繁に行われましたが・・・
夜の幻想的な演出も、民衆を熱狂させていきます。

最初に作られたナチス・ドイツの強制収容所は「ダッハウ強制収容所」で、親衛隊の残虐行為の訓練所とまで言われました。
たくさんのユダヤ人が・・・多くの人が命を絶たれます。

ナチスに立ち向かった学生たちがいました。
またもやミュンヘンで・・・1943年ハンス、ゾフィー兄妹らがペンで反ナチスを訴えます。
白バラ抵抗運動です。
ビラを配ったり、党大会への不参加を呼びかけます。
しかし逮捕されると・・・わずか4日で斬首刑となりました。

第2次世界大戦が勃発した翌年に、チャップリンは「独裁者」を作ります。
ヒトラーを痛烈に批判したラストシーン・・・

「申し訳ないが  私は皇帝になどなりたくない
 それは私には関わりのないことだ
 だれも支配も征服もしたくない 
 できることなら皆を助けたい・・・
 ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も

 私の声が聞こえる人たちに言う
 絶望してはいけない
 憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪い取られた権力は、人々のもとに返されるだろう
 兵士よ 奴隷を作るために闘うな 自由のために闘え
 君たち人々は、機会を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ
 君たち人々は、人生を自由に美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ
 
 だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか
 みんなでひとつになろう
 新しい世界のために」

ヒトラーが首相に就任してかあら12年・・・ドイツの敗北が決定的になります。
1945年になると、連合国による攻撃が激しさをまし・・・ベルリンは廃墟と化します。
その4月・・・総統官邸の地下壕で、愛人のエバ・ブラウンと共に自ら命を絶つのでした。

ヒトラーの影法師と言われた男はこちら
「ヒトラー 独裁者という名の怪物」はこちら
チャップリンの「独裁者」観ました。はこちら
苦しいからこそ笑う~チャップリン天国と地獄を見た喜劇王~はこちら

そして戦後・・・
敗戦国の日本とドイツは、戦争をしていません。
アメリカが沢山の戦いに関わってることは周知の事実です。

史上最年少の43歳でアメリカ大統領となったケネディ大統領・・・
東西冷戦が始まり、アメリカなどの自由主義陣営と、ソビエトなどの社会主義陣営が対立していきます。
ベトナム戦争・・・
第二次世界大戦後、フランスとの戦いに勝利し独立したベトナムは、北(ベトナム民主共和国)と南(ベトナム共和国)に分断されます。
社会主義陣営は北ベトナムを支持し、自由主義陣営は南ベトナムを支持します。
南北の対立が激しくなり・・・アイゼンハワー大統領は、軍事顧問団を南ベトナムに派遣。
ケネディ大統領はそれを増強していきます。代理戦争となっていくベトナム。。。

1961年8月13日には・・・東ドイツによってベルリンの壁が築かれます。
193年11月テキサス州ダラスにて、大勢の目の前でケネディ大統領が凶弾に斃れました。
後を継いだジョンソンの時代、ベトナムの北爆を開始します。
50万人を超える兵士を導入しますが、戦争は泥沼化・・・。

世論によって反戦運動が起こってきます。
1975年サイゴンが陥落し、15年続いたベトナム戦争終結しました。

日本にとっては・・・
1950年朝鮮戦争が勃発したので、アメリカ兵が朝鮮に引っ張られ・・・警察予備隊が作られました。
憲法9条で軍隊を持つことができなかった日本だったので・・・「警察予備隊」なのです。
これが今の自衛隊へとなっていくのです。

もちろん戦争には参加していませんが、後方支援はやっています。
1991年湾岸戦争、ペルシャ湾での機雷の除去、2001年アフガニスタン戦争で・・・インド洋での燃料補給、2008年イラク戦争でイラクで給水などの復興支援・・・。
戦闘に於いては一人も亡くなることはなく戦後70年を過ごしてきました。

世界のどこかで今も戦争は続いています。
日本にもその危機が訪れるかもしれません。
過去から学ぶ・・・そのことが必要なのです。

「ジョン・F・ケネディ “弱さを力に変えたジャック”」はこちら
リンドン・ジョンソン~ケネディの後を継いだ男~はこちら


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