ローマのカエサル、フランスのナポレオン、ナチス・ドイツのヒトラー・・・
彼らがこぞって憧れた英雄・・・それがアレクサンドロス大王です。
彼が支配した帝国は、あのチンギス・ハンが現れるまで1500年間世界最大の広さを誇りました。
しかも、アレクサンドロスは、この帝国をわずか10年で築いたのです。

アレクサンドロス大王・・・後の人々は、戦の天才、理想的なリーダーと称えました。
未知の世界に挑みながら、32歳でこの世を去ったアレクサンドロス・・・その大いなる野望と苦悩の人生とは・・・??

アレクサンドロスは、紀元前334年、22歳の時にアジアに出発!!
6万5000の兵を率いてエーゲ海から東の世界に旅だちます。
わずか10年のうちに大帝国を打ち立てました。
どうしてアジアへ向かったのでしょうか・・・??

紀元前356年、アレクサンドロスはギリシャ北部の山岳地帯マケドニア王国に生れました。
父は、マケドニア王・フィリッポス2世!!
母はオリュンピアス・・・アレクサンドロスは、次期マケドニア王の有力候補でした。

彼は幼い頃から英才教育を受けます。
アレクサンドロスは、同世代の貴族の子どもたちと切磋琢磨し、運動や格闘で体を鍛えます。
乗馬も習います。それは、騎馬隊がマケドニアの戦力だったからです。
誰も乗りこなせなかった気性の荒い馬を乗りこなします。
その馬は、ブーケファラスと名付けられ、その後アレクサンドロスの愛馬としていくつもの戦いを勝利に導くことになります。
勉強も超一流で、343年、13歳の時に、今も歴史に残る人物が家庭教師として招かれます。
哲学者・アリストテレスです。
アレクサンドロスは、アリストテレスから文学や哲学、医学、天文学・・・ありとあらゆる知識をたたき込まれ学びます。
アレクサンドロスがアリストテレスに送った手紙にはこう書かれています。

「私は権力者よりも、何が最善であるか正しく判断できる者になりたいのです」

当時、ギリシャは都市国家アテネを中心に発達し、西洋随一の文明を誇っていました。
しかし、戦上手で野心家だったフィリッポスは、精強な軍隊を率いて南に勢力を広げていきます。
18歳の時、アレクサンドロスに活躍の場面が・・・
ギリシャ地域の覇権をかけた一戦に、マケドニアの一員として参加することになったのです。
敵は、アテネを中心とする連合軍!!
紀元前338年、カイロネイアの戦いです。
アレクサンドロスは、騎兵部隊を指揮し、アテネ連合軍の歩兵部隊を壊滅させるのです。
マケドニアは圧勝します。

マケドニア王国の首都・ペラの遺跡に、強さを物語る壁画があります。
貴族の墓に描かれた兵士の姿・・・手にしている槍の長さは約6m・・・。
それまで他の部隊の歩兵が使っていたものの2倍は長かったのです。
この長い槍の兵士たちが何列も体型を作り、密集して進む戦法です。
他の攻撃を寄せ付けず、もし見方が倒れても、そのまま前へと進む強力な戦法でした。
この戦いでマケドニアはギリシャ地域の大半を支配下に置き、フィリッポス王は、強大な地域の盟主となりました。

しかし、アレクサンドロスは華々しい活躍を見せたにもかかわらず、複雑な思いを抱いていました。

「父上は何もかも先に取ってしまわれて、私がやりたい大きく立派な仕事は何一つ残してくださらない」

紀元前336年、アレクサンドロスが20歳の時に、フィリッポスは前代未聞の代計画に取りかかります。
古代ギリシャ人がアジアと呼んだ大国ペルシャへの遠征です。
ギリシャとペルシャは、貿易が盛んなエーゲ海の覇権をめぐり、200年にもわたって対立していました。
そんな争いに決着をつけるために、ペルシャ侵攻を決意したのです。
しかし、出兵の直前に思わぬ事件が・・・
祝典のさ中、観衆の前でフィリッポスは護衛官によって暗殺!!
事件の直後、暗殺の黒幕として二人の人物に疑いの目が向けられました。
ひとりは妻のオリュンピアス、そしてもう一人はアレクサンドロスです。

当時のマケドニアは一夫多妻制・・・
フィリッポスには7人の妻と2人の息子がいましたが、後継者はアレクサンドロスが最有力でした。
しかし、フィリッポスが寵愛する若い王妃が妊娠すると、風向きは変わります。
この王妃が男の子を産めば・・・その子に王位を継がせるかもしれない・・・。
王の死は、アレクサンドロスにとって好都合でした。
王子といえど黒幕となれば王位に就くことなどできない・・・。
しかし、新たな王となったのは、疑惑の渦中にあった20歳のアレクサンドロスでした。
決め手になったのは、重臣たち・・・大貴族がアレクサンドロスを支持したからでした。
アレクサンドロス自身は、父親から帝王学を学び、すでに軍隊で活躍した経験を持っていました。
それは、どの貴族も兵士たちも認めるところでした。

紀元前334年、22歳でアジアに出発!!
父が成し遂げられなかった夢をかなえるために・・・!!
10年に及ぶ大遠征の始まりでした。

「アジアを野蛮なペルシャの支配から解き放ち、ギリシャの自由を取り戻すのだ・・・!!」

トルコの西部・エーゲ海と黒海の間に位置する海峡ダーダネルス海峡・・・ヨーロッパとアジアを分かつ境界線です。
紀元前334年、22歳の時にダーダネルス海峡を越えてアジアへ・・・!!
当時、アジアに君臨していたペルシャは、世界最大の帝国でした。
そんな強敵を相手に、アレクサンドロスは連戦連勝を重ねます。
どうしてペルシャに勝てたのでしょうか??
当時のペルシャの支配領域は、エジプトからトルコ、インドのインダス川にまで及んでいました。
その帝国をしていたのは、ペルシャ王ダレイオス3世でした。
アレクサンドロスの軍に対抗すべく、2000キロ以上離れた王宮のあるバビロンから戦闘の指揮を執っていました。
アレクサンドロスはペルシャ領に入ると、小アジアを東に侵攻。
それを受けてペルシャ軍は、アジアの門といわれたグラニコス川で迎え撃つことに・・・。
アレクサンドロス率いる1万8000の軍が川に到着。
対岸にはペルシャ軍の精鋭部隊が川を渡ろうとするところを待ち構えていました。
グラニコス川は、川幅は狭いものの流れが早く、切り立った崖が迫っていて川岸には十分な広さがありませんでした。
マケドニアが得意とする長槍部隊が使えない・・・!!
対岸に押し寄せたペルシャ兵・・・戸惑う味方の兵士にアレクサンドロスは・・・

「あとに続け!!
 そしてあっぱれば勇者ぶりを見せよ」

アレクサンドロスは正面突破を決断し、川に飛び込みます。
敵軍の放つ矢を受けながら、崖を登って対岸にたどり着くと、次々とペルシャ軍を撃破していきます。
ペルシャ軍は、リーダーのアレクサンドロスめがけてやってきます。
この時、身を挺してアレクサンドロスを守ったのが、子供の頃から共に訓練を受けて育った側近の部下たちでした。
やがてペルシャ軍は敗走を始めました。
父・フィリッポス2世が、軍隊を改革して、側近だけでなく歩兵も「仲間」と呼ぶようになっていました。
父親の代から、王と兵士の間には強い絆があったのです。
これをアレクサンドロスは受け継いでいたのです。
兵士や貴族たちも、王に対して親密な態度で、親しく語ることができる・・・
上下関係ではなく、「仲間」「同志」という関係で結ばれていました。

部下との絆を大切にするアレクサンドロス・・・
遠征に出発する前に、アレクサンドロスは財産の殆どを部下たちに分け与えてしまいます。
それを心配した側近が訪ねます。

「王の手元には何を残されますか?」
「希望だけだ」
「では、あなたと遠征を共にする我々も、その希望を分かち合いましょう」
側近はこう言って、もらった財産をアレクサンドロスに返したといいます。

ペルシャとの初戦に勝利したアレクサンドロスは、小アジアの都市を攻略していきます。
一方、ペルシャ帝国のダレイオス3世は、国中から集めた大軍を率いてバビロンを出発!!
アレクサンドロスとの直接対決に向かいました。
紀元前333年、23歳の時にイッソスの戦い・・・
地中海沿岸部で、両軍が川を挟んで対峙しました。
アレクサンドロス率いるマケドニア軍・1万9000、対するはダレイオスの部隊ペルシャ軍7万2000!!
圧倒的な兵力差でした。
戦いが始まりました。
しかし、川岸は足場が悪く、マケドニア軍が馬にまたがったまま川を渡ることは難しい・・・
そこで、アレクサンドロスは、弓矢軍の援護を受けながら、徒歩で素早く川を渡ります。
ペルシャ軍は、狭い土地に数万の兵士を集めたために身動きが取れず、アレクサンドロスの素早い動きに対応できませんでした。
敵の混乱に乗じたアレクサンドロスは、ブーケファラスにまたがり、ダレイオスに突進!!
それを見たダレイオスは・・・戦線離脱・・・逃げ出したのです。
王を失ったペルシャ軍は、総崩れ・・・アレクサンドロスは、歴史的勝利を得ました。

戦いの後、ペルシャ陣営に足を踏み入れたアレクサンドロス・・・
そこには、ダレイオスの母と妻、子供たちが残されていました。
敗者はどのような扱いを受けても文句は言えない・・・しかし、アレクサンドロスは、捕虜となったダレイオスの家族を、王族として丁重に扱ったのです。

また、そこには、夥しい数の金銀財宝や豪華絢爛な装飾品の数々が残されていました。

「王になることはこういうことだったのか・・・!!」byアレクサンドロス

アフガニスタン北部にある紀元前4世紀の都市の遺跡・・・アイ・ハヌム・・・
ここで、ギリシャの様式で作られた柱の跡が残されています。
2400年前、遥か4000キロ離れた中央アジアにまでギリシャ文化が伝えられていました。
もちろん、ギリシャからペルシャ、インドまで及んだアレクサンドロスの帝国がもたらしたものです。
それだけの広大な土地をどのようにして支配したのでしょうか?
ペルシャ軍を破ったアレクサンドロス軍は、紀元前332年、24歳の時にエジプトを制圧!!
逃げ出したダレイオスを完全に倒すべく、帝国の中心に向かいます。
その頃、既にアレクサンドロスは、東地中海一帯を支配下に置いていました。
そんな中、アレクサンドロスのもとへダレイオスから手紙が届きました。

「捕虜となった家族を返してくれるならば、ユーフラテス川より西の領域すべてと身代金として多額の金を提供する
 さらに、私の娘と結婚し、友人になり、同盟を結んでほしい」byダレイオス

しかし、アレクサンドロスは・・・

「自分はアジアの王である!!
 金にしても、領土にしても、すべてもう自分のものだ
 家族を返してほしいというなら、まずはダレイオスみずから臣下として出頭せよ」byアレクサンドロス

そしてアレクサンドロスは、再びダレイオスと対決します。
決戦の部隊はイラク北部のチグリス川のほとりガウガメラ!!
ダレイオスは前回の教訓からダレイオス軍が力を発揮できる広大な平原を選びます。
更にダレイオスは秘密兵器も用意しました。
車輪に鋭い鎌をつけた戦車です。
その威力を生かすために、先に土地を平らにならすという念の入れようでした。
兵士も帝国の全土から精鋭を集めます。
ダレイオスの威信をかけた総力戦でした。
20万とも30万ともいわれるペルシャ軍に対し、アレクサンドロス率いるマケドニア軍は4万7000!!
まともに戦えば勝ち目がありません。
側近がアレクサンドロスに提案します。

「夜の闇に紛れて奇襲をかけましょう」

しかし、アレクサンドロスは・・・


「私は勝利を盗まない」

あくまでも正々堂々と決着をつけることを望みました。
紀元前331年10月、ガウガメラの戦い。
ダレイオスを中心に広がるペルシャの大軍・・・アレクサンドロスは敵に囲まれないようにせん列を⑳西、斜めの陣形をとりました。
そして、アレクサンドロス本人は、騎兵隊を率いて右翼の最前線に立ちました。
敵の戦車の機動力を削ぐために、地ならしされていない方向へ戦列を移動させます。
さらに、巧妙な罠を貼りました。
ペルシャの戦車部隊が突進すると中に入れさせます。
戦車が孤立したところを襲い掛かります。
作戦にはまり混乱するペルシャ軍!!
その左翼で喜平と歩兵の間で亀裂が生じました。
その瞬間、アレクサンドロスは突進!!
敵陣の中に入りました。
目指すはダレイオスの首ひとつ!!
しかし、ダレイオスは、再び逃げ出しました。
王がいなくなったペルシャ軍は、散り散りとなり敗走を始めました。
25歳のアレクサンドロスは、こうしてギリシャとアジアの覇者となったのです。

その後、アレクサンドロスは自ら兵を率いてダレイオス追撃に向かいます。
しかし、ダレイオスは逃亡の途中で側近に裏切られ、暗殺されていました。
遺体を目にしたアレクサンドロスは自らのマントで包み、王として丁重に葬りました。
さらに、暗殺者を捕らえて、四肢分断・・・ペルシャ式で処刑しました。
正当な方法でダレイオスの仇を討ったとペルシャ全土に触れ回ったのです。
ガウガメラの戦いで歴史的勝利をおさめたアレクサンドロスは、王宮のあるバビロンに向かいます。
この時、アレクサンドロスがバビロンの人々に語り掛けた言葉がバビロンの遺跡から発掘されています。

「私はあなた方の家に侵入しない」

決して略奪や破壊は行わない・・・平和的に入城するつもりであることを表明しました。
おだやかに諭して平和的に彼らを治める・・・
力づくで征服するのではなくて、相手の文化や伝統を尊重しながら支配下に治めていく・・・!!
アレクサンドロスはどうして平和的な政策をとったのでしょうか?
それは、ガウガメラの戦いの前年、エジプト入城でのことです。
ダレイオスから学びました。
エジプトの王・ファラオでもあったダレイオスは、現地の宗教を認め、言葉や文化を尊重しました。
さらに、荒れ果てた砂漠に地下水路を建設し、農地を増やしていました。
人々の生活を豊かにし、慕われていたのです。

ギリシャ文明こそ世界一でアジアは野蛮・・・そんなアレクサンドロスの価値観は揺らいだのです。
それまでアレクサンドロスは、 制圧した都市の総督をすべてギリシャ人に変えていました。
しかし、バビロンではペルシャ人に今まで通り統治させることを決めました。

arekusanndorosu














この有名な壁画は、イタリアの古代都市ポンペイの大富豪の家を飾っていました。
しかし、紀元1世紀に火山の大噴火によって町全体が壊滅・・・。
その後、18世紀に遺跡の発掘が開始され、1831年モザイク画が発見されたのです。
絵の内容は、アレクサンドロス軍とペルシャ軍との決戦の場面です。
アレクサンドロスは右側のダレイオスを見据え、右手の槍はペルシャ兵の体を貫いています。
一方、ダレイオスは、アレクサンドロスの方を見ながらも、身体は逆を・・・まさに逃走しようとしている瞬間を描いた絵なのです。

当時のギリシャ人の中には、生計を立てるために傭兵として外国で仕事をする者もいました。
ペルシャ軍の中にも傭兵としてギリシャ人が戦っていました。
当時は大義のために戦う人もいれば、職業で戦う人・・・色々いました。
ペルシャ軍は、他にもいろいろな東方の民族がおり、寄せ集めの兵のような感じでした。
これが勝敗を分けた原因の一つでもありました。

向かうところ敵なしのアレクサンドロス・・・??
アレクサンドロスは、ペルシャを制圧したのち、広大な地を治めるためにペルシャ人を次々と要職につけました。
しかし、そのことで腹心の部下の間に亀裂が入りました。
ギリシャ人の部下はこう漏らします。

「ペルシャ人たちは、アレクサンドロスの同胞と呼ばれているが、私たちは誰もそんな名誉にあずかっていない」

アレクサンドロスが人前に出る時には、ペルシャ風の豪華の装束を身にまとっていました。
アジア地域の王であることを多くの民族に知らしめ、支配力を高めるためです。
さらに、家臣が王の前でひざまずき、ペルシャ式の宮廷儀式をギリシャ人にもさせました。
あるギリシャ人の部下は・・・アレクサンドロスのことを陰でこう言いました。

「東方かぶれ」と。
「野蛮な者たちや奴隷と一緒に暮らすがいい」

ひざまずいてお願いをするというのは、ギリシャ人にとって神に対して行う嘆願であって、生きた人間に対して行うものではありませんでした。
人間の世界と神の世界をごちゃまぜにしてしまう・・・
この世の秩序が壊れてしまうような非常に重大な出来事だったのです。

遠征軍が東へ、東へ進むと、ペルシャ帝国の影響力が弱くなり、抵抗は激しいものとなっていきます。
アレクサンドロスは、現在のウズベキスタンの辺りまでを苦労の末に制圧。
現地の豪族を取り込むために、生れてはじめてのことをしました。
有力者の娘・ロクサネと結婚したのです。
アレクサンドロスは、ロクサネとの間に子供も設けます。 
くわえて部下たちにも現地人との結婚を奨励し、合同結婚式を行います。
その土地で子供を産み、兵を増やすという考えもあったのだといいます。

しかし、アレクサンドロスが征服した民族と融和を深めるほど、古参の部下との溝が深まっていきます。
ある日の宴で酔っ払った部下が、アレクサンドスを公然と批判しました。

「アレクサンドロスの功績も、ただ一人で成し遂げたわけでもない
 大部分は、われわれマケドニア人たちの働きの結果ではないか」

こういわれたアレクサンドロスは、頭に血が上り、槍をとって部下を刺し殺しました。
この部下は、かつてグラニコス川の戦いでアレクサンドロスを守った側近中の側近でした。
己の行いにショックを受けたアレクサンドロスは3日間何も口にせず、悔やみ続けたといいます。

それでも・・・紀元前326年、30歳でインド北部へ・・・!!
川の向こうには、もっと豊かで広大な土地がある!!と、アレクサンドロスは心躍らせます。
しかし、いざ川を渡ろうとしたとき、部下の多くがついていくのを拒んだのです。

「我々が国を出た当時、どれくらいの数のギリシャ人がいたか・・・
 そして今、どれほどの数が残っているかはよくご存じのはずです。
 体力は、かつてのように強健ではなく、気力はさらに衰えております。」

兵士たちは、故郷マケドニアを出て以来、8年間過酷な遠征に疲弊しきっていました。
しかし、アレクサンドロスは、必死に説得します。

「輝かしい大業は、危険をおかす者たちの手によってこそ成就するのだ
 武勇に生き、不滅の誉れを後の世に残して死ぬことこそ、喜ぶべきことではないか」byアレクサンドロス

結局、兵士たちは動きませんでした。
アレクサンドロスは、やむ終えず遠征を中断・・・バビロンに戻りました。

それでも2年後、アレクサンドロスは海を渡る新たな遠征計画を立てます。
指揮官たちに命令します。

「陸上部隊は4日後に出発、艦隊は5日後に港を出る」 

しかし、その直後に熱病にかかり、見る見るうちに病状が悪化・・・
遠征に出発できないまま・・・
紀元前323年、アレクサンドロス死去・・・32歳でした。

アレクサンドロスの死後、大王を失った帝国では後継者争いが勃発し、膨大な領土はいくつもに分裂します。
新しく王となって激しく対立したのは、長年アレクサンドロスのもとで戦った部下たちでした。
1887年に発掘されたアレクサンドロスの石棺・・・そこには、ギリシャ兵とペルシャ兵が戦う姿があります。
しかし、別の面にはお互いが協力しながら狩りをする姿が刻まれています。

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