青森県・八甲田山・・・毎年1月、青森の陸上自衛隊では雪深い山を15キロ踏破する訓練を行っています。
そのルート上、必ず立ち寄る場所があります。
仮死状態になりながらも絶ち続けた兵士・・・
明治35年、八甲田山麓で遭難し、雪の中に倒れている仲間の場所を立ち姿によって救援隊に知らせました。
120年近く経った今なお、語り継がれる悲劇・・・世界最大級の山岳遭難事件です。

210人のうち、199人の死者を出した八甲田山雪中行軍の惨劇・・・
兵士は東北出身、日程は僅か2日、雪に慣れた屈強な男たちに何が起きたのか・・・??

八甲田山・・・標高1585m・・・
青森県のほぼ中央にならぶ、18の山々からなる連峰です。
この地で、今からおよそ120年前、明治陸軍の士官や兵士210人が遭難し、199人が命を落としました。
彼等の殆どは、地元・東北出身者・・・雪に慣れ、規律正しい集団行動に長けた屈強な若者たちが、どうしてこれほど多く犠牲になったのか・・・??

明治35年1月23日、帝国陸軍青森歩兵第五連隊駐屯地

「前へ進め!!」

午前6時55分、歩兵第五連隊の第二大隊を中心とした210名は、八甲田山山麓に向け片道20キロ・・・往復40キロの雪中行軍の訓練に出発しました。
時は日露戦争前夜・・・この訓練は、ロシアでの戦い・・・極寒の北の大地、対ロシア戦の軍事行動を想定したものでした。
コースは青森市内から少しづつ坂をのぼり、最初の目標は小峠・9.6キロの中間地点です。
続いて17キロ地点・八甲田山の北側・標高732mの馬立場、そして残り3キロを下って温泉地・田代で野営。
2日目は来た道を帰る1泊2日の行程・・・登山というより麓を進む夏場ならトレッキングコースの地形です。
出発した23日、朝の天気は薄曇りで風も穏やか・・・
行軍の滑り出しは好調で、兵士の中には目的地田代で温泉に入るつもりで手ぬぐいを用意する気楽な者もいました。
彼等は冬の雪山を軽く見ていたのでしょうか・・・?
青森市内、八甲田山雪中行軍遭難資料館・・・
ここに、第五連隊の雪中行軍の様子の展示があります。
編制は雪の中の行軍に適した工夫が施されていました。
先頭はカンジキ隊40人・・・カンジキを履き、雪を上から踏み固める兵士
その歩きやすくなった雪道を本隊114人が続きます。
更に踏み固められた道をソリ輸送隊56人、全員の食料や酒、炊事道具の外、野営で暖をとる薪や木炭、地面に風よけの穴を掘るスコップなど、雪山の備えた装備をたっぷりと運び、装備や物資など当時としては可能なほど準備をしていました。
先頭を行くのは、この行軍の計画、指揮を執った青森歩兵第五連隊第二大隊中隊長・神成文吉大尉・32歳。
秋田県出身で、青森第五連隊には14年も所属し、雪のことを熟知しているたたき上げでした。

出発から4時間35分後・・・1月23日午前11時30分、9.6㎞地点小峠着。
一行は中間点の小峠に到着し、昼食の小休止、時速およそ2.1キロ・・・ほぼ神成の予定のペースでした。
ところが、少し前から雲行きが怪しくなり、風速は10m・・・雪が兵士たちをたたきつけ始めました。
そこに、軍医の永井源吾が申し出ます。
永井は前夜、青森の測候所に問い合わせ、午後から天気が崩れると聞いていました。

「天候の急変により、風雪も強く、気温も低下しています
 これからは、益々雪も深く、風も強くなるでしょう
 現装備では、この風雪に耐えられません
 一応帰隊しては・・・」by永井

ところがこれに、若い下士官たちが反発します。
予定通り進んでいる現状を重視し前進するか、この先の悪天候を見越して引き返すか・・・?
神成大尉は、上官である最高責任者・第二大隊長の山口鋠少佐の判断を仰ぎます。
山口少佐は45歳の東京育ち・陸軍士官学校出身で、日清戦争にも従軍した明治陸軍の生え抜きでした。

「計画通り、行軍を実行する!!」by山口

次の目標は17キロ地点・・・ルート上の再興標高地点・馬立場。
午前中と同じペースで行けば、午後三時に到着予定でした。
しかし、途中には平たんだが最大の難所・賽の河原がありました。
賽の河原は遮るものもない1年中吹きっ晒しの大雪原・・・風が強く、少し前に地元住民が18名も遭難・・・
凍死したほどの難所で、怖がって冬場には誰も近づかないところでした。
体を飛ばしそうな暴風に、歩みを止めさせる雪・・・神成大尉は、無事突破できるように遅れるものをかばいながら、慎重に隊列を進ませます。
苦闘の結果、第五連隊210名は、全員脱落することなく賽の河原を突破しました。

出発から9時間15分・・・1月23日午後4時10分、17km地点・馬立場到着。
悪天候の難所を乗り越え、最高地点まで登ったものの、この間の速度は1.2キロ・・・小峠までの速度の半分まで落ちていました。
目的地・田代まであと3キロ・・・日没までに到着するのは不可能・・・
ここにとどまり野営するか??
雪の夜を田代まで強行するのか・・・??

その時、天は第五連隊に味方します。
雪が薄れて日が差し、3キロ先の田代が見えたのです。
晴れてさえいれば、満月に近い月で雪が照らされ見通しが利く・・・神成たちは、夜の行軍を決断します。
しかし、この時彼らは、冬の八甲田山の本当の恐ろしさにまだ気づいていなかったのです。

出発から10時間30分・・・1月23日午後5時30分、17km地点・馬立場発。
歩兵第五連隊第二大隊は、馬立場を後にし、3キロ先の田代を目指します。
すでに夜・・・幸い、月が雪山を照らし、道に迷う心配はありませんでした。
しかし、進み始めてすぐに想定外の苦難が・・・
後に、遭難の一部始終を生存者から聞き取った「遭難始末」によると、馬立場からわずか800mで起きた異変が記してありました。

”積雪胸ヲ没シ 一進一止 其困難 名状スベカラズ”

急激に雪が降り始め、胸まで埋まってしまう・・・
しかも、雪には水分が少なく、粉のようにさらさらしていました。
先頭の隊が履いているカンジキは、パウダースノーでは雪に沈んで機能しない・・・
さらに、本隊の後方にいたソリ輸送体にとって、この雪は致命的!!
ソリごとパウダースノーに沈み、進めない!!

彼等がルートにしていた八甲田山の北側山麓は、世界でも有数の大雪が降る局地気象のエリアです。
八甲田山北側山麓では、雪雲が八甲田山にぶつかり北側に流れる・・・第五連隊の辺りに雪雲が集中し、直前でもわからない局地的な豪雪を降らせるのです。

出発から13時間・・・1月23日午後8時、18.5km地点・平沢着。
田代の手前の平沢に到着しました。
2時間30分でわずか1.5キロ・・・もがきながらの行軍でした。
動き続けた兵士たちは疲労困憊・・・一行は、この日のうちの田代到着を断念し、ここ平沢での野営を決定!!
輸送隊のスコップで、風よけの雪洞を掘り、朝5時の出発まで休息をとることにしました。
20人ほどが立ったままで食事をし、暖をとり、休憩する・・・しかし、ここでも想定外のことが・・・!!
雪は深さ4メートルもあったため、地面まで掘り進めることが出来なかったのです。
雪の上では火がなかなかつかず、ついても火力が弱い・・・まともに米も焚けず、食事がとれない・・・その上・・・

出発から17時間・・・1月23日深夜・平沢露営地。
マイナス21度の寒さと強い風が兵士たちを襲います。
寒さをしのぐはずの雪洞が役に立たない・・・外気の侵入を防ぐ天幕などが、現場にはありませんでした。
さらに、兵士たちが着こんだ防寒を意識した服装が、彼らを苦しめます。
彼等が着用していた軍服・・・小倉服は、綿で織られています。
その下の肌着も綿素材・・・これらが汗を吸収し、濡れ、凍り付きます。
一睡もできず、足踏みをして体を温める兵士たち・・・このままでは全員が凍傷か、凍死してしまう・・・!!

最高責任者・山口鋠少佐は決断します。

”行軍ノ目的ハ 概ネ達成シタルモノト云フベシ
 天命ヲ待ツハ 凍傷ヲ起スノ患アリ
 夜明け前ノ出発ハ 日没后ノ行進ニ優レリ”

出発から19時間30分・・・1月24日行軍2日目午前2時30分、平沢露営地出発。
歩兵第五連隊は、朝5時を待たず、元来た道を青森に向けて出発・・・それが、死の行軍の始まりでした。

出発から21時間・・・1月24日行軍2日目未明、平沢露営地~馬立場間
平沢露営地を出発した第五連隊第二大隊210名は、青森連隊に戻るため、1.5キロ先の最高標高地点・馬立場を目指します。
しかし、天候は悪化、目印となるはずの馬立場は見えず・・・!!
雪に残っているはずの自分たちの通ってきた跡さえ豪雪で覆いかぶされわからなくなっていました。
行軍開始から1時間・・・彼等は鳴沢渓谷に行き当たります。
道に迷った・・・遭難の始まりでした。

出発から22時間・・・1月24日午前5時、鳴沢~平沢露営地間
闇を彷徨っていた兵士たちは、明るい視界に活路を見出します。

「ここからなら、田代への道を知っています!!」

兵士の一人が申し出たその言葉に、山口少佐は賭けます。

「青森本部までの帰路は18km、田代までならばたった1km余りだ
 道がわかるのなら、田代へ向かうのが得策である」

疲労の極みの兵士をおもんぱかったのでしょうか?
しかし、天は彼らを裏切ります。
まさにこの時、東北一帯を台風並みの猛烈な巨大低気圧が襲いました。
風速29m、気温-25℃・・・猛吹雪が第五連隊の視界を奪います。
ホワイトアウト・・・近くを歩く仲間も見えない・・・それどころか、自らの上下感覚さえもわからない・・・。
兵士たちは方向感覚を失い、大きくカーブを描き、再び鳴沢渓谷に出てしまいました。
どうしてここまで極端に目的地に向かえないのか・・・??
それは、リングワンダリングです。
視覚と聴覚を奪うと、進めば進むほど同じ場所を回り迷走する・・・第五連隊も、まさにその状況でした。
500mほどの白い闇に閉じ込められたのです。

出発から25時間・・・1月24日午前8時、鳴沢周辺

迷走する第五連隊は、別の進路に希望を見出します。
雪の中を進むのではなく、鳴沢の渓谷から駒込川に下りたのです。川沿いに進めば、いずれ人の住むところに出るかもしれない・・・!!
しかし、川はさらに危険でした。
岩が多く、足場が悪いのでケガをする・・・水で体がぬれ、益々凍えます。
やがて、雪と断崖に阻まれ、先に進めなくなり、地上に脱出するため、高低差200mもの急斜面を何時間もかけて登りました。

出発から29時間・・・1月24日昼12時、鳴沢周辺。
-20℃の中、食事も睡眠も休息もまともにとれず歩き続けた兵士たち・・・
疲労の限界を超え、異変が起こり始めます。

髭や眉毛は氷柱となり、顔面は暗紅色となり、睡魔に襲われたの如く昏倒・・・
体の内部まで冷え切って低体温症・・・体に震えが起こり、やがて震えが止まらなくなり眠るように倒れたといいます。
深部体温が35℃以下の低体温症では、脳の機能が低下し、意識障害を起こします。
最終的には心臓が停止、死に至るのです。
行軍2日目・・・わずか500mの真っ白な闇に閉じ込められた兵士たちは、わずか数時間で全体の1/4、およそ50名が死亡、行方不明となりました。

出発から41時間・・・1月24日2日目深夜、鳴沢露営地。
丸一日彷徨い続けた挙句、第五連隊は白い闇から外に出ることが出来ず、鳴沢で2日目の夜を耐えていました。
その間にも、次々と兵は倒れていく・・・既に全体の1/3、70人余りが命を失っていました。

出発から44時間・・・1月25日3日目、午前3時。、間から満月が現れました。

「天候が回復したぞ~~!!」

鳴沢から800m先、馬立場の頂が見えました。
ようやく、帰る方向が示されたのです。
指揮官・神成大尉が先頭に立ち、生き残った140人を率いて馬立場を目指します。
ところが・・・すぐに風雪が吹き始め、馬立場を覆い隠しました。
神成たちは彷徨い続けます。
最後の希望が消えた・・・。

この時の、神成の叫びを生き残った兵士が覚えていました。

「天は我々は軍隊の資料のために死ねというのが天の命令である」

出発から71時間・・・1月26日4日目、救助隊捜索開始!!
陸軍青森駐屯地は、第五連隊との連絡が取れないため、救助隊を派遣!!62人が雪中行軍の後を追い、捜索を開始。

そして・・・出発から100時間・・・1月27日午前11時、馬立場手前。
神成大尉と行動を共にしていた第五連隊・後藤房之助伍長が発見されます。
仮死状態になりながらも、まるで救助隊に仲間を知らせるかのように、雪原の中で立ち続けていました。
相次いで連隊を率いていた神成大尉も雪の中で遺体で発見・・・
次々と兵士たちの遺体が見つかっていきます。
その場所は、馬立場の手前の難所・賽の河原周辺・・・神成大尉は閉じ込められた鳴沢周辺から兵士たちを率いてかろうじて脱出、しかし、馬立場を越えたところで力尽きたのです。
その後、奇跡的に生存者が発見されます。
行軍9日目の1月31日、山口少佐ら10人が駒込川沿いに・・・風雪を凌げる崖の下で、4日間過ごしていたのです。
鳴沢で3人救助、平沢で3人救助・・・2月2日には田代の小屋で1人・・・温泉の湯を飲み11日目まで生き長らえていました。
生き残った者は、谷の中、炭焼き小屋などの風を防げる場所に避難していました。
救出されたのは17人・・・しかし、収容後に6人が死亡、雪中行軍参加者210名のうち、死者199名が犠牲となりました。
生存者は11名・・・その多くが凍傷で体の一部を失ったのです。

生に至る判断が、すべて裏目に出てしまいました。
判断の中でいかに冷静になれるのか・・・??
パニックに陥った時、今の状況を客観的に分析して理想の方向性を探し出す・・・冷静に自分の状況を見つめる必要があります。

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