日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:チャップリン

アメリカの情報機関は、最近2000ページに及ぶ極秘文書を公開しました。
20世紀最大の喜劇王チャールズ・チャップリンの人物ファイルです。
命じたのは、J・エドガー・フーバー・・・FBI史上最強の長官は、チャップリンを共産主義と危険視していました。
私生活も徹底調査、電話の盗聴、取り巻きの素行調査、女性関係、セックスの監視、作品の分析・・・
1922年から78年まで50年以上に及んだ容赦ない調査の記録です。

チャップリンとフーバーの対決には、長い間アメリカを分断してきたリベラルと保守の対立構造が伺えます。
なぜアメリカで人道主義者のチャップリンが批判の的になったのでしょうか?
どうして言論の自由は蔑ろにされたのでしょうか?

1910年代・・・
20代半ばだったイギリス人俳優・チャップリンは、所属する劇団の巡業でアメリカを訪れました。
その頃、ハリウッドでは、映画産業が急成長を遂げていました。
まだ小さな制作会社の集まりでしたが、その一つのキーストンスタジオがチャップリンを雇い、短編のトーキー映画に出演させます。
チャップリンは、すぐに人気をさらいます。
奇妙ないでたちでユーモアたっぷりの浮浪者の姿が、大いに受けたのです。

チャップリンはタイミングのいい男で、映画産業が花開こうとするときにハリウッドにやってきました。
放浪者は、大きすぎる服に、だぼだぼのズボン、しかし、山高帽でステッキ、フロックコートを着ています。
下半身はみすぼらしいのに、上半身は上流階級のよう・・・。
チャップリンが自ら選んだこの衣装は、後の映画での基本的なスタイルがすでにできています。
質素でありながら威厳を供えている・・・。

こうして、トレードマークの放浪者が誕生しました。
チャップリンは、自ら監督も行うようになり、もっと自由な環境で映画を作りたいと考えるようになりました。
チャップリンは、いくつもの映画会社を渡り歩き、70本以上作成します。
数年で莫大な富を築きます。
1917年には、自身のスタジオの建設に着手しました。
彼が好んで制作したのが風刺映画でした。
金持ちの紳士が、顔にパイを投げつけられたり、警察官がひどい目に合ったりします。
チャップリン演じる放浪者は、社会で虐げられている人々の代弁者になっていきます。
彼が、劇中で繰り広げる権力者への些細な抵抗が、庶民の共感を詠んだのです。
チャップリンの風刺作家としての名声は高まっていきます。

チャップリンは、放浪者を労働者や移民の一人として描きました。
生涯で様々な役を演じますが、貧しい生まれの人物という部分では共通していました。
彼は、虐げられている弱者のことをよく知っていたのです。
彼自身の貧しい生い立ちを考えれば当然のことでした。
子供の頃に感じた不公平感を・・・

1917年公開の映画{チャップリンの移民」は、アメリカの移民政策への批判が込められていました。
保守派の論客は、チャップリンの映画を反体制的だととらえるようになります。
アメリカのピューリタン的な価値観を、脅かしかねないと見たのです。

第一次世界大戦でアメリカ兵が戦地へ赴く中、チャップリンはアメリカの市民権を拒んだことで批判されます。
チャップリンは、「自分は世界市民だ。国籍は生まれた国の物だけあればいい。」と言いました。

一方、チャップリンは、戦争資金を調達するための公債の発行を支援します。
政府への支持を訴え、全米を回りました。
さらに、公債と題したプロパガンダ映画を製作します。
しかし、公開時にはすでに休戦が宣言されていました。

1920年代になると、アメリカは飛躍的に成長を遂げます。
大手映画会社は、700本を超えるサイレント映画を世界中で公開しました。
チャップリンは、作家自身による映画配給会社「ユナイティッド・アーティスト」を作ります。
作品の内容により強い権限を持つようになったチャップリンは、映画「キッド」では固辞の問題を取り上げました。
チャップリン演じる放浪者が、ニューヨークの街で孤児と出会うストーリーです。
チャップリンは、人々に夢と希望を与えてきたアメリカが、一方で貧しい孤児たちの存在を無視してきた実態を描いています。
彼は、様々な手法で批判してきたことです。
ワシントンではロシアの革命から、共産主義の思想の広がりを懸念していました。
若きフーバーの任務は、要注意人物の監視でした。
フーバーは公務員でした。
彼は大戦中から、政治犯の監視の担当をしていたのです。
フーバーは、黒人を蔑視する人種差別の塊で、同性愛も嫌悪していました。
そして何よりも反共主義者でした。
国際的な秘密組織が存在し、欧米各国を弱体化させ社会主義革命を狙っているという妄想に取り憑かれていました。
1919年、フーバーは、共産主義運動の指導者たちを国外追放します。
少しでも社会主義やリベラルな思想を持つ者は、コミュニズムの支持者だと疑われました。
マスメディアで反体制の言動をする者も標的になります。
知識人や芸術家も疑われました。
一般市民に危険な思想を植え付けていると思われたのです。

フーバーは、ハリウッドに捜査員を潜入させ、監視下におきます。
ゴシップ誌も重要な情報源でした。
フーバーは、チャップリンファイルを開設、50年で2000ページに及ぶ記録の始めは、俳優ミルドレッド・ハリスとの結婚です。
当時、ミルドレッドは16歳、スキャンダルを畏れたチャップリンは、1918年結婚します。
子供は生後すぐに亡くなり、結婚はすぐに破綻・・・
妻が離婚を申し立て、ほどなく認められました。
1921年、チャップリンは、長期のヨーロッパツアーに出かけます。
ロンドンやパリで大歓声で迎えられました。
1924年、チャップリンは、俳優のリタ・グレイと結婚し、二人の息子を設けますが、結婚はうまくいかず、リタは幼い子供を連れて家を出ました。
その後、リタはチャップリンの不貞や暴力を訴え、離婚を申し立てます。
裁判の末、チャップリンが多額の示談金を支払うことで離婚が成立します。

第1次世界大戦後のアメリカは、禁酒法が施行され、保守主義が台頭した時代でした。
しかし、チャップリンはそんな時代をあざ笑っていました。
彼の映画は、多くの良識あるアメリカ人にとって不快に映ることもありました。
一方で庶民は、チャップリンの映画を称賛しました。
権力者がコテンパンにされる姿を見て大喜びしたのです。

厳格なキリスト教徒たちは、チャップリンの映画のボイコットを呼びかけます。
道徳的な観点から映画に懸念を示す人が大勢いて、キリスト教の団体が政府に映画の検閲をするように求めていました。
そのため、多きな映画会社が、MPPDAを設立し、自主的な倫理規定を作ります。
初代会長は、郵政長官だった共和党の政治家ウィル・ヘイズです。
協会は、まず俳優たちに教会に従うという誓約書への署名を義務付けました。
しかし、自分の配給会社を持っていたチャップリンは、縛られることはありませんでした。

チャップリンは、次第にFBIからにらまれるようになります。
1922年8月、フーバーは、特別捜査官のホプキンスに調査を命じます。
ホプキンスは、チャップリンがロサンゼルスの自宅で開催したパーティーについて報告しました。
それによると、招待客の中には、共産主義に共鳴する人物や、急進主義者、労働組合の指導者も含まれていました。
ホプキンス捜査官は、チャップリンはMPPDAのヘイズ会長を批判し、我々は如何なる検閲にも反対すると明言したと言い、トイレの扉には「ようこそヘイズ」と書かれたペナントがあったと報告しています。
フーバーは、報告書をヘイズに送ります。
FBIとMPPDAは、映画に含まれるプロパガンダを取り締まるために協力関係を築き、この関係は1945年前まで続きました。

マスメディア・FBI・MPPDAの圧力を前に、チャップリンは四面楚歌の状態でした。
1927年、チャップリンの映画の内容に、外部から更なる圧力がかかり、更なる規則が追加されました。
映画に含んではいけない11の要素と扱いに注意を払うべき25の項目のリストが発表されました。
ヌードは禁止、宗教は敬意をもって扱う、犯罪や不貞行為を煽らない・・・
MPPDAには、違反者を罰する手段がありませんでした。
映画の製作者たちは、一分でもリストを守ればいいと都合よく解釈をし、良心と興行収入を守りました。

華やかな1920年代は悲劇で幕を閉じます。
1929年10月24日、株価が大暴落!!
大恐慌となります。
人口の1/4が職を失い、多くの人が路頭に迷いました。
FBIにとって、経済危機であると同時に、政治的な危機でもありました。
国内の全ての反体制分子を監視しろという命令が秘密裏に出されました。
極右のメンバーと共産主義者への調査活動が強化されました。

映画「街の灯」は、金融危機がもたらした労働者たちの過酷な日常を書いています。
チャップリンは、脚本を恐慌が始まる前から書いていました。
劇中では酒飲みの大富豪と放浪者との奇妙な関係が描かれ、庶民に対する支配階級の冷淡さが表現されています。
この映画の製作中、新たな問題に直面します。
トーキーの登場です。
映像と音声と同期したトーキーは、大手映画会社では数年前から制作されていました。
しかし、チャップリンは、一時的な流行に過ぎないと考えていました。
チャップリンは、放浪者はしゃべれない・・・しゃべった瞬間、死んでしまう・・・ジェスチャーを通して意思疎通することに面白さがあると言っていました。
サイレント映画では興行的に失敗すると言われても、チャップリンはトーキーを嫌いました。
チャップリンの「街の灯」は大ヒットし、賭けに勝ちました。
1933年になると、映画業界はカトリックの団体から圧力を受けるようになります。
これに対応する為に、MPPDAはジョセフ・グリーンを検閲の責任者に据えます。
彼は何より道徳を重んじました。
彼は最高で2万5000ドルの罰金を科す権限を与えられたので、制作者たちは規則を守らざるを得なくなります。
これが、ハリウッドの転換点となりました。
制作者たちは規則に従うか、抜け穴を見つけるか、判断を迫られます。
チャップリンにとっては受け入れがたいことでした。

同じころ、ルーズベルト大統領が、ニューディール政策を打ち出します。
経済を復興させ、失業者たちを無くす目的でした。
チャップリンは、ルーズベルトへの支持をラジオで訴えます。
公正な社会を求める彼の思いが、次の作品「モダン・タイムス」につながります。
当時、地方の人々が、大挙して大都市に移り住みましたが、生活は非常に貧しいものでした。
この窮状を目の当たりにしていたチャップリンは、大手自動車工場を訪問したのち、モダン・タイムスを制作します。
そして、効率化を求める会社の管理体制や、分業化、機械化を批判しました。
労働者を機械やロボットのように変えてしまう資本主義社会を痛烈に皮肉ったのです。

チャップリンは、ポーレット・ゴダードを起用、その後二人は10年近くプライベートでもパートナーとなります。
彼女はチャップリンの生活に多くの幸せをもたらしました。
チャップリンは、彼女に会った瞬間に、モダン・タイムスにピッタリだと思いました。
映画が封切られると、チャップリンはゴダードと一緒に世界旅行に出かけます。
1936年、二人は密かに結婚しました。
映画は大成功を収めましたが、内容は共産主義的だと非難する批評家が大勢いました。

チャップリンは抗議します。
この映画は共産主義でも資本主義でもない・・・中立だ!!
ナショナリズムの機運が高まる中、中立を貫くのは不可能だということを、チャップリンはわかっていませんでした。
それまでハリウッドの共産主義者は少数でしたが、1930年代半ばに変化が起こります。
アメリカ国内の共産主義者の数も倍増しました。
フーバーは、映画業界が反体制派に対抗するように手をまわします。
フーバーはFBIの後方映画の制作を指揮、その活動がいかに優れているのかをアピールします。
さらに、FBI捜査官が主役の映画を作るように映画会社に働きかけました。
1935年の「Gメン」は、その一例です。

フーバーは、捜査官のネットワークを使い、チャップリンの収入や資産をつぶさに監視、多額の預金があることは確認できましたが、共産主義団体に寄付した痕跡は見つかりませんでした。
失望したフーバーは言いました。
「ロックフェラーのように大金を稼いでおきながら、資本主義を批判するのは間違っている」

当時の世界情勢に触発され、チャップリンは新作「独裁者」に取りかかります。
彼は全体主義の台頭に恐れを抱きました。
チャップリンは、本質的に常にヨーロッパ人でした。
彼は独裁者の構想を練り始めます。
そして、2年という歳月をかけてヨーロッパ情勢を分析し、300ページに及ぶ作品を書きあげました。

本当にすごい偶然です。
世界で最も嫌われた男と、最も愛された男が、ほとんど生き写し・・・
誕生日は数日違い、年齢も、身長も、体つきも同じ・・・
髭の大きさは違っていましたが、しかし、ヒトラーの髭は次第に縮んでいって、チャップリンそっくりになっていきます。
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した1939年9月、チャップリンはハリウッドで撮影を開始します。
チャップリンは独断でこの映画を作ることを決め、自分のたくわえを投じました。
家族も制作会社も映画の制作には反対でした。
チャップリンは、殺しの脅迫まで受けていましたが、経済的なリスクを含め、あらゆる覚悟をしていました。
人々の連帯や、人権が尊重される世界を信じ、平和主義を訴えようとしました。

独裁者は、1940年秋に公開されると、たちまち人気に・・・
しかし、終盤の平和を訴えるスピーチには賛否両論がありました。
新聞は、チャップリンが共産主義を宣伝していると批判します。
映画を見たルーズベルト大統領はナチス・ドイツを支持する国々との間で緊張が高まるのではないかと心配します。
当時アメリカは、ドイツに宣戦布告しておらず、孤立主義の立場をとっていました。
市民の多くは、アメリカの参戦に反対でした。
ルーズベルトは、FBIの役割を強化します。
ナチスを支持するドイツ系アメリカ人協会の団体を、監視下に置くよう命じます。
1940年以降、FBIは、国内の諜報活動において軍を凌ぐほどの力を持つようになります。
1941年12月、日本の真珠湾攻撃をきっかけに、世論が変わります。
アメリカ人の大半が、参戦を支持するようになりました。
ソビエト連邦が、連合国側についたことで、アメリカの共産主義者への姿勢も変わります。
内なる敵からナチスと戦う戦友となったのです。
ルーズベルトは国民を一つにすることに専念しました。

大統領はハリウッドにも協力を求めます。
政府、軍、映画会社は一丸となって愛国心を鼓舞する作品を作りました。
チャップリンは、大統領の要請にこたえるだけではなく、ソビエト軍を支援すべきだと公に訴えました。
チャップリンは、ドイツが東部戦線を制したら、ヨーロッパは終わりだと思っていました。
ソビエトを支援する運動を、FBIは、共産党の隠れ蓑だと思っていました。
運動を支持したチャップリンも、共産主義者では??と疑われました。

1942年、チャップリンはロシア戦線を支援する集会でスピーチをするように当局から依頼されます。
求めに応じたチャップリンは、サンフランシスコの会場に向かいます。
そして、スピーチ冒頭「同志よ・・・!!」と、突然呼びかけ、聴衆を驚かせます。
まずいことにスピーチの内容をFBIが記録していました。
更にチャップリンは、オーソン・ウェルズらと共にニューヨークで開かれた集会に出席します。
主催したのはFBIが左翼としてマークしていた芸術団体で、開場のカーネギーホールの前では、共産主義に反対するデモが行われました。
ロシア戦線への支持を表明したことが、とどめの一撃になりました。
チャップリンは、大統領だけでなく連邦議会まで敵に回しました。

フーバーは、チャップリンを法廷に引きずり出すための証拠探しを続けていました。
1943年、俳優のジョーン・バリーが妊娠6か月で父親はチャップリンだと主張。
フーバーは、早速調査に乗り出しました。
報告書によれば、二人の出会いは1941年。
彼女はハリウッドに出てきたばかりでしたが、チャップリンにうまく取り入り、彼の映画で役をもらいました。
しかし、次第にジョーンの精神的不安定が明らかになります。
ある日彼女が泥酔状態で車の事故を起こします。
チャップリンは、ジョーンとの契約を解除し、その後しばらく彼女に会いませんでした。
報告書でフーバーが興味を示したのが、次のような一文でした。
1942年10月にチャップリンがニューヨークを訪れた際、ジョーンと一夜を過ごすために列車の切符を買い与えた。
フーバーは報告書にしるしを入れ「掘り下げるように」と記入。
マン法に違反している場合は、厳しく処罰するようにと指示しました。
マン法は、白人奴隷の売買を防ぐ目的で、1910年に施行された法律です。
州をまたいで女性を輸送し、売春などの不道徳な行為に当たらせることを禁じるものでした。
ホテルの請求書を手に入れたフーバーは、ついにチャップリンを追いつめる証拠を手に入れたと意気込みます。
フーバーは、職責を著しく逸脱してジョーンを説得し、チャップリンに対する訴訟を起こさせます。
さらに、彼女のために、自ら弁護士を雇いました。
1944年2月10日、裁判が行われ、報道陣が押しかけました。
チャップリンの弁護士は陪審員に訴えます。
「ジョーン・バリーは、いつでも被告の求めに応じたであろうに、わざわざ4500キロも一緒に旅をしたなんて、おかしいと思いませんか?」
チャップリンは無罪になりますが、これで終わりではありませんでした。
すぐに二つ目の裁判が始まります。
ジョーン・バリーが子供を認知するように訴えを起こしたのです。
しかし、血液検査で親子関係がないことが証明されます。
チャップリンは法廷で彼女とは2年間関係を持っていないと主張しました。
それでも裁判所は、チャップリンの姓を名乗ることを認め、チャップリンに養育費の支払いを命じます。

不当な判決に傷ついた彼を救ったのは、ウーナ・オニールの存在でした。
ウーナは、1943年6月、一連の騒動の渦中でチャップリンと結婚し、彼がこの世を去るまで支え続けました。
この頃チャップリンは、これまでで最もシリアスな作品を書き始めていました。
「殺人狂時代」です。
よく手入れされた口ひげを蓄え、オーダーメイドのスーツに身を包んだ紳士・ベルドゥーが、殺人を繰り返し、最後は処刑される物語です。

「一人を殺せば犯罪者だが、数百万人殺せば英雄だ」

チャップリンは、このセリフに裁判所への恨みを込めていました。
戦争が終わると状況が一変・・・アメリカとソビエトの間で冷戦が始まります。
マッカーシー上院議員が主導する赤狩りがあらゆる分野で吹き荒れ、特にハリウッドは大きな打撃を受けます。
殺人狂時代のメディア無家の試写会は惨憺たるものでした。
記者たちは映画の内容ではなく、チャップリンについて質問しました。

「あなたは共産主義者ですか?」
「私は共産主義者ではない。」
「ではなぜアメリカ市民にならないのですか?」

「チャップリンはアメリカの道徳的基盤を脅かしている
 彼の映画が若者たちの目に触れないようにしなければならない」byジョン・ランキン

ランキンは、司法長官にチャップリンの国外追放命令を出すように迫ります。
チャップリンは、下院非米活動委員会に召喚されました。
反体制的な活動を摘発するこの委員会は、1947年秋、ハリウッドの映画関係者聴聞会を開きます。
チャップリンは委員会にこう伝えます。

「喜んで出席するが、聴聞会の間中放浪者の姿でパントマイムする」

これにより、チャップリンは出席を免れることができましが、多くの映画関係者はそうはいきませんでした。
委員会は反体制的で共産党との関係が疑われる人物をハリウッド10に絞ります。
俳優のハンフリー・ボガート、ローレン・バコール夫妻などが、友人たちを助けようと立ち上がります。
映画会社はボガートにハリウッド10の支援をやめなければ俳優としてのキャリアを失うぞと警告しました。
チャップリンは、委員会に逆らい、友人らを擁護します。
アイスラ―は国外追放となり、チャップリンは共産主義者の味方をしたと責められました。
証言を拒否した映画関係者は、理解侮辱罪に問われ、禁固刑に処せられました。
大手映画会社の幹部たちは、ニューヨークで対策に追われ・・・
今後は共産主義者でないと誓ったものしか雇わないことで一致しました。
ブラックリストに載った者は、潔白を証明する為に仲間を売ることを余儀なくされました。
チャップリンは、非米活動委員会や映画業界の圧力からは逃れることができましたが、退役軍人やカトリック団体からの追及は続きました。
彼等は、ハンス・アイスラ―との関係を、さらに調査するように求めていました。

1948年、ロンドンでの撮影を計画していたチャップリンは、帰国の際に必要な再入国許可を申請しました。
すると移民局から4時間にわたって尋問を受けます。
人種的なルーツは??・・・
女性関係はどうなっているのか??
なぜアメリカの市民権をとらなかったのか?
戦時中にソビエトを支援したのはなぜか?
チャップリンは答えました。
「ソビエトを支援したのは彼らがいなければナチスが勝っていたからだ。
 私は進歩的な民主主義者であって、社会主義者ではない・・・
 人道的な愛国者で、世界市民だ
 私は常にアメリカを愛してきた」
尋問の末、チャップリンの再入国が認められますが、後日、税務当局は一変して200万ドルの保証金の支払いを命じてきました。
チャップリンは、イギリスへの渡航を中止し、次回作をハリウッドで撮影することを決めます。
チャップリンがイギリス行きを計画したのは、新作「ライムライト」の世界観が、自分が育ったロンドンの貧しい町だったからです。
チャップリンは、何回もオーディションを行い、イギリスの舞台俳優クレア・ブルームをヒロインに抜擢します。
ハリウッドで全くの無名でした。

映画が完成すると、試写会の準備のためにロンドンに向かいます。
1952年9月、チャップリンは妻と4人の子供を連れ、アメリカを離れました。
しかし、出港から2日後、悪い知らせが・・・
司法省が再入国許可を取り消し、チャップリンがアメリカに戻った場合は拘束することを通達したのです。
この措置は、フーバーの調査報告に基づき、以前から決められていたことでした。

チャップリンは唖然としつつも立ち向かう決意をします。
40年近く暮らし、情熱や愛情を注いできた国から追放される・・・到底受け入れられないことでした。

ロンドンでチャップリンは大歓迎を受けます。
ライムライトは、試写会で絶賛されます。
チャップリンはイギリス王室の面々にも謁見しました。
その後、パリやローマでも熱烈な歓迎を受けます。
もう二度とアメリカへと戻らないと決心したチャップリンは、妻にアメリカにおいてきた財産を整理するように銘じました。
アメリカ国籍を持っていたウーナはアメリカに戻り、家やスタジオを処分し、スタッフに別れを告げ、銀行から預金を引き出し、書類を持ってチャップリンの元へ戻りました。

1953年、チャップリン一家は、スイスに移り住み、レマン湖を望む場所に居を構えます。
チャップリンは疲れ切っていました。
静かな場所で安心して映画を作り続けたかったのです。
一家は幸せに暮らしました。
そしてさらに、4人の子供に恵まれました。
妻のウーナは、アメリカの市民権を放棄します。
チャップリンは自分を追放した人々を許すつもりはありませんでした。

1954年に制作が始まった「ニューヨークの王様」では、チャップリンの息子マイケルがFBIに追われる夫婦の子供を演じました。
長年の敵フーバーとチャップリンの対立のパロディでした。
赤狩りがテーマで、自分を追放したアメリカを痛烈に批判しました。
フーバーは、チャップリンがアメリカを離れた後も、しつこく追い続けます。
本当はユダヤ人ではないかと、イギリスの情報機関に問い合わせたり、スイスの情報機関から交友関係や行動について報告を受けたりしていました。
しかし、ベトナム戦争が始まると、チャップリンの帰国待望の声が高まります。
1960年代に入ると、フーバーの勢いにも陰りが・・・執拗な反共攻撃や部下へのパワハラ、政治家への脅迫、マフィアとのつながりなど、次第に明らかになり、そのキャリアを泥の中に終えたのです。
チャップリンは、フーバーとの長きにわたる戦いを終えるがごとく、20年ぶりにアメリカに帰還・・・至る所で大歓迎を受け、ニューヨークではカギを贈呈されました。

アカデミー賞授賞式で、名誉賞を授与されたチャップリンは、12分間の熱烈な拍手喝さいを浴びます。
それは、彼を追放していた映画界からの心からの謝罪でした。
1か月後、フーバーは心臓発作でこの世を去ります。
彼は、戦後アメリカの暗い秘密を墓場まで持って行きました。
1975年、チャップリンはエリザベス女王からナイトの称号を受けます。
1977年のクリスマスの日、天国に旅立ちました。
庶民の味方で誇り高き自由人の放浪者と共に・・・。

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感想(3件)


縛られることに抵抗し、どのような非難に晒されようとも自由を貫き、世界を笑いに包んだ男・・・
20世紀の喜劇王・チャップリンです。

笑い・・・涙・・・風刺・・・才能と栄光に溢れた輝かしい業績・・・
しかしチャップリンは自分の人生は・・・

「人生とは苦しみだ」

と言っていました。

自由を求めるチャップリンが自由を求めて戦ったのは・・・
ヒトラー、アメリカ・・・
そして・・・翻弄された人生。。。
天国と地獄を行き来した喜劇王です。

cha1



























チャーリーは、わざとちぐはぐな大きさの衣装にし、ホームレスのキャラクターを表現しています。

しかし、実際のチャップリンは・・・こんな感じ。cha2


世界の喜劇王はどのようにして生まれたのでしょうか???

イギリス・ロンドン。。。
下町にチャップリンの原点のミュージックホールがあります。
日々の貧しさをつかの間忘れられる場所です。
チャップリンの良心も、歌やものまねをする舞台芸人でした。

1889年4月16日、チャールズ・チャップリン誕生。
両親は離婚し、母が女手一つで育てていました。
が・・・母は、コメディやものまねを演じ、家族を笑いで包んでいました。

「私にとって母は、最高の芸人だった。
 私は身振りや表情で自分の感情を表現する方法や、人間を観察する力も学んだのだった。」

ところがある日・・・
母に異変が・・・!!
声が出なくなり・・・仕事を失ってしまいました。
それは貧乏になることを意味し・・・チャップリンは、母と離れ離れになってしまいました。

自分で稼がなければ生きていけない・・・職人についたり・・・時には物乞いなどをして過ごしました。
12歳の時、別れた父が死ぬことを知ると・・・
喪章をつけて花を売り・・・女性たちは、哀れな少年に同情して花を買いチップまでくれました。
生きるためには、きれいごとを言っていられなかったのです。

普通の子なら死んでいたところ、それに抵抗し、生き抜いたのでした。

18歳の時・・・生きるために・・・ロンドンの人気劇団に入団。
それは、両親と同じ大衆芸人でした。

チャップリンの当たり役は・・・酔っ払い・・・
全身を使ったアクション、メリハリ、タイミング・・・誰もが爆笑し。。。
ロンドンの大衆演芸で・・・週給75ドル(現在の約17万円)もらえるまでになりました。

チャップリン21歳の時・・・所属劇団の興業でアメリカに渡りました。
そこは、自由と成功の地・・・チャップリンの憧れの地でした。

”自らの努力によって身をたてることが出来る立身出世が可能な国”

でした。

24歳の時、映画会社からスカウトされます。

当時映画は、急成長の娯楽・・・
出身の階級など関係なく、人気スターになれたのです。
成功への登竜門でした。

1913年24歳の時に・・・映画会社と契約します。
期間は1年、週に150ドル。申し分ない金額でした。

が・・・この契約書、一度作り直されています。
作り直す前に・・・チャップリンはサインを拒否しています。
そこには絶対に受け入れられない項目があったのです。

「契約は、いずれか当事者の通知により解約できる」

という部分でした。

この項目の削除を求めたのです。
安定した生活は、絶対に失いたくはない・・・。
貧しさへの恐怖はそれほど根深かったのです。
 

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感想(1件)



1914年「成功争い」で銀幕デビュー。

cha3


お馴染みのスタイルではありません。
ドタバタ勢いで、どちらがチャップリンか分からない出来でした。



cha4


しかし、2作目「ヴェニスの子供自動車競争」では・・・
本領発揮!!
既にチャーリーになっていました。
味のある動き・・・その個性的な動きに大爆笑!!




新作を発表するたびに、その笑いは鋭さを増していきます。
もっとチャップリンの映画を・・・!!映画館から注文が殺到します。
わずか1年足らずで週給1万ドル(現在の2300万円)へと・・・役者としての最高ランクにまで上り詰めたのでした。

ところが・・・トランクの中身は・・・
使い古したシャツと歯ブラシ・・・
小さなホテルに暮らしていました。
どんなに成功している時でも・・・
「もし明日、無一文になったら・・・」というのが口癖でした。
突然声が出なくなった母や、死の恐怖にさいなまれていたのです。
貧乏という苦しさは、いつもチャップリンの身近にあるものでした。

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映画監督として活動しだしたチャップリン・・・。
笑い・・・涙・・・風刺・・・独特の魅力はどこから出てきたのでしょうか?
初期作品のNGフィルム・・・保存されているもので250本あります。
若きチャップリンは、作品作りでどんな試行錯誤をしたのでしょうか???
チャップリンの作品には台本はなく・・・
その時感じた面白いことを作品にしていっていました。
その為・・・撮影したのに使われないフォルムがたくさんあったのです。
当時の映画界に置いては異常な量でした。

当時は入念にリハーサルを行い・・・1テイクで撮るのが普通でした。
しかし、チャップリンの場合は、ギャグを試して何度も撮影をやり直しました。
少しでも良い笑いを生み出そうとしていたのです。
完璧な笑いを追求していきました。
そして批判も加えて仕上げます。
チャップリンは自由に作りながら、徹底的に追求していきました。

風刺の笑いで快進撃を続けるチャップリン。。。
しかし・・・初めての赤字作品が誕生してしまいました。
「殺人狂時代」です。
 

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1938年チャップリンは、風刺映画の大作に取り組み始めました。
「独裁者」です。
風刺の対象は・・・ アドルフ・ヒトラー・・・ドイツの民衆を圧倒的に先導した男です。
過剰で大袈裟なパフォーマンス・・・。
ドイツの民衆は、ヒトラーの作る熱狂へと引き込まれていきました。
一方でヒトラーは、国内をひとつにまとめるために、敵を作りました。ユダヤ人です。
周囲の国を敵とみなし、1939年ヨーロッパを第2次世界大戦に巻き込みました。
チャップリンは、ヒトラーに怒りを覚えます。
このままにしては置けない・・・!!

「独裁者」でチャップリンは、ふたりのちょび髭の男を演じます。
 

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ひとりは迫害に苦しむユダヤ人の床屋。
もう一人は、架空の国の独裁者・ヒンケル。世界のすべてを手に入れたい皇帝です。
ヒンケルの演説は、ヒトラーを髣髴させます。
叫んでいるのはでたらめな言葉。。。ヒトラーの演説が無意味であることを風刺しています。

チャップリンは、ヒトラーを笑い飛ばそうとしました。
ヒトラーを怪物のように書けば恐怖ですが、見方を変えれば非常に滑稽な存在です。
彼は独裁者を面白おかしく書くことで、やっつけようとしたのです。

そして・・・映画のラストでは。。。
自由の尊さを訴えます。
独裁者ヒンケルと入れ替わった床屋が、演説します。

”私は皇帝などなりたくない
 それは私には関わりのないことだ
 人間が命を賭けて守る限り、自由は滅びることはありません。
 権力者たちに身をゆだねてはいけません。
 君たちを奴隷にし、考えを指図し規制するものは、家畜のようにこき使い、単なる駒として扱うのです。
 独裁者は自分だけを自由にして、人民を奴隷にするのです。
 今こそ、世界の解放の為に戦おうではありませんか。
 国と国の障壁を取り去り、貧欲や憎悪や非寛容を追放する為に、理性の世界をつくるために
 兵士のみなさん、民主主義のもとで、みんなで手を繋ぎ、一つになりましょう!!”

笑いなど娯楽の要素のない、6分間が続きます。。。
その掟破りに、映画の担当が・・・収入が100万ドルは減ると反発します。
しかし、チャップリンは、このラストシーンにこだわりました。
1940年12月、「独裁者」は、一般公開をするや否や大ヒット。
たとえメッセージ性が強くても・・・チャップリンの映画は支持されたのです。

そして・・・チャップリンは、ちょび髭を止め・・・新たなスタイルに挑戦します。
1947年「殺人狂時代」です。
この作品は、コミカルな笑いを封印したブラックユーモアな作品です。
主人公は・・・実直な元銀行員。
しかし・・・裏の顔は・・・裕福な女性からお金を巻き上げて殺すという・・・連続殺人鬼でした。
映画のラスト・・・死刑になる直前に・・・

”戦争だって小さな争い事だってビジネスなんだ。
 1人殺せば悪党で、100万人殺せば英雄だ。
 数が殺人を神格化するんだ。”

この言葉でチャップリンが風刺したのはアメリカでした。
1945年第2次世界大戦終結。
国民はお祭り騒ぎ!!
その熱狂が止まないうちに、新たな敵を設定しました。
共産主義VS資本主義です。
冷戦時代に突入したのです。
戦争への嫌悪感が麻痺した世の中への率直な批判でした。

チャップリンは殺人狂時代を自らの最高傑作とし、自信に満ちていました。
ところが・・・映画が公開されると・・・
アメリカ連邦議会で猛烈に批判されます。

”チャップリンを国外追放するための訴訟を要請します
 彼がハリウッドにいること自体がアメリカの体制にとって有害なのです”

当時アメリカでは、全ての疑わしい共産活動を排除する赤狩りが行われていました。
アメリカに避難的な言動をしたチャップリンは・・・”国家の敵”とみなされたのです。
”危険思想をばらまく資本主義の敵”のレッテルが張られたのです。
殺人狂時代を上映する映画館が、上映をボイコットしていきます。
テレビ放映も中止されます。
それでもチャップリンは・・・民衆が支持してくれると思っていました。
「アメリカ人はユーモアが解ると信じていたのだ。」
しかし・・・結果は惨憺たるものでした。
チャップリンは、アメリカの大衆からも見放されたのです。
5年後・・・家族とイギリスに船旅にでたチャップリンに絶望的な知らせが届きます。
”アメリカへの再入国困難に”
アメリカからの事実上の国外追放だったのです。
63歳でした。

40年前。。。自由と成功を求めてやってきた憧れの国・アメリカ。。。
その悲しさを・・・
「私の愛したアメリカは、もうどこにも存在しない・・・」
と、表現しています。

アメリカを追われたチャップリンは・・・???
生まれ故郷のイギリスで・・・制作活動に意欲をみせます。
1957年「ニューヨークの王様」
革命を避けて、ニューヨークに逃げてきた王様が赤狩りに狙われて窮地に陥るなど・・・アメリカを痛烈に批判します。
1967年「伯爵夫人」
マーロン・ブランドとソフィア・ローレン・・・
自分を追い出したアメリカを意識して負けまいとする作品作り。。。
しかし、長年慣れ親しんだスタッフがいない現実に・・・
「ハリウッドのスタジオでは、誰もが私の我儘を聞いてくれた。
 しかしイギリスでは、他の馬小屋に入れられた馬のようで、取り残されたように感じた。
 他のスタジオで演じ振る舞うことは、本当に辛いことだった。」

これらは・・・アメリカでの作品には遠く及びませんでした。
チャップリンも80歳になり・・・
しかし、赤狩りが過去のものとなったアメリカ・・・。
1972年には、チャップリンが映画界に残したはかりきれない功績に対して、アカデミー名誉賞の授与が決定されます。
チャップリン・・・20年ぶりのアメリカでした。
拍手で熱烈歓迎されたチャップリン。。。
授賞式では、涙を浮かべながら・・・
「この栄誉に、この場にお招きくださったことに、どう感謝を述べればよいのかわかりません。
 素晴らしい素敵な皆様に・・・ありがとう。」

風刺も毒気もなく、ただ感謝を述べたチャップリン・・・

多くの人を笑いで救おうとしたチャップリン。。。
しかし、自分の一生を振り返って・・・”地獄だった”と表現しています。
みんなを幸せにしようとすることは・・・本人にとっては地獄。。。

スイス・レマン湖畔。。。
チャップリンは、晩年をここで過ごしました。
愛する家族と静かに暮らしながら、新しい映画の構想を練っていました。
その中に、チャップリンが自らの生涯を描いたかのような企画がありました。
その直前までとりかかっていたのに間に合わなかったその作品。。。
「フリーク」
物語の始まりはチリの海岸。。。
翼の生えた少女が現れて・・・人々に衝撃を与えます。
やがて少女はイギリスへ・・・天使と崇められたり迫害を受けたり・・・
世の中の気まぐれに翻弄されます。
苦難の末に自由の身となった少女は、故郷を目指して飛び立ちます。
そして物語の最後は・・・
少女は、故郷にたどり着けず、大海原で死んでいた。。。
人々は語る、
「可哀想に・・・難しい人生を送ったなあ。。。
 だが遂に、彼女の抱えていた問題も終わった。」

1977年12月25日、チャップリンは・・・88歳で人生の幕を下ろしました。
自伝の中で、成功と苦難を味宇ワイつくした人生を・・・

「私が味わった不幸、不運が何であれ、もともと人間の運・不運などというものは、空ゆく雲と同じで結局は風次第のものにすぎないと信じている。
 人間はみな、苦しんで生きるよりほかないのだ。」

個人としての自由を求める戦いは死ぬまで続いていたのです。
人間の分かり合えない部分を笑いで共有しようとし、その媒体として映画を選んだ・・・。
苦しみを主体的に選び、その”苦しみを貫く自由”を選んだ人でした。


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愛と勇気と感動のスピーチです。

①マーチン・ルーサー・キング・・・キング牧師です。
アメリカで・・・1956年黒人女性が白人にバスの席を譲らなかったことから逮捕されます。
当時のアメリカには、あからさまな人種差別と法律がありました。
この事から黒人の怒りが頂点に達して・・・

黒人たちが武器を持って報復しようとします。
これに待ったをかけたのが・・・26歳のキング牧師でした。
「暴力ではなく整然と講義するんだ!
 黒人がバスで差別されなくなるまでバスに乗らずに歩こう!!」
バスボイコット運動です。
非暴力抵抗でその必要性を訴えました。
1963年ワシントンで集会!!そこには25万人の人が!!
その1/4は白人でした。
大観衆の前でキング牧師は・・・

king
















「私には夢がある・・・ 
 いつの日かジョージアの赤土の丘の上で
 かつての奴隷の子孫たちと
 かつての奴隷所有者の子孫が兄弟のように
 同じテーブルにつくことができる夢です。
 私の四人の幼い子供たちが、
 いつの日か肌の色ではなく 
 人格そのものによって評価される国に
 住めるようになるという夢です。」
 
この演説は、虐げられていた黒人のみならず、白人たちの心も揺さぶりました。
1964年公民権法成立・・・白人社会が変革し始めたのでした。

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②ヒトラーにNoを突き付けた「世紀のスピーチ」

抜群の演説力で合法的にTOPとなったヒトラー。
そのヒトラーに立ち向かったのは・・・???

1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻。
第二次世界大戦が勃発しました。
そして・・・1942年ナチスドイツはユダヤ人1100万人の殺害を決定、3年間で500万人以上が殺害されました。
人類史上最悪の悲劇です。
これを起こしたのが・・・アドルフ・ヒトラーです。

元々軍人だったヒトラーは、時代の流れを利用して政治家に!!
成りあがっていきます。
政局が混迷する中・・・1933年首相に任命されます。

このヒトラーを・・・成り上がり者。。。
と、長続きしないと思っていました。
しかし、2か月後・・・
ヒトラーは、主要司令官の前で演説し、軍部を掌握・・・
国会議事堂放火事件を口実に他党を弾圧!!
暴力による脅しと甘い言葉で圧力をかけたのでした。
独裁体制を確立していきます。
その最大の武器は、”演説”でした。
具体的な数字と簡単な言葉で聴衆を惹きつけます。

大衆にとっての敵!!
ユダヤ人に対する不満を・・・民衆の憎悪の言葉を心に植え付けたのでした。
身振り手振りを駆使して・・・煽っていきます。
狂気の演説は人々を飲み込みました。
そして・・・世界中が沈黙・・・または無視したのです。

しかし、この狂気に立ち向かった男がいました。
”チャールズ・チャップリン”です。

ヒトラーの暴虐に対抗します。
言葉を以って・・・!!!
チャップリンは、サイレントの映画が最高の表現方法だと思っていました。
初のトーキー映画に挑戦します。

こうして作られたのが1940年「独裁者」です。

ヒトラーを模した独裁者と、床屋のチャーリーが偶然に入れ替わり・・・兵士たちの前で演説する!!という映画です。
しかし・・・完成目前で・・・
政策中止の圧力がかかります。。。
その命がけの演説が・・・

cya-ri-













「ユダヤ人も黒人も白人も人類は互いに助け合うべきである。
 他人の幸福を念願として互いに憎みあったりしてはならない
 貪欲はやがて姿を消し、恐怖もやがて消え去り、
 独裁者は死に絶える。
 大衆は再び権力を取り戻し、自由は決して失われない!!
 兵士諸君!犠牲になるな!独裁者の奴隷になるな!
 彼らは諸君を欺き、犠牲を強いて家畜のように追い回している!
 彼らは人間ではない!
 心も頭も機械に等しい!
 諸君は機械ではない!人間だ!!
 兵士諸君 民主主義のために団結しよう!!」

この映画は大ヒット!!
翌年には演説部分がラジオで放送されます。
人々はこの演説に聞き入りました。

ヒトラーはその言葉で憎悪・偏見・暴力を生みし、チャップリンは光・勇気・希望を与えたのでした。
そのスピーチは今でも世界最高とされています。

チャップリンの「独裁者」観ました。はこちら


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③世界中が感動した16歳の少女が伝えたかったこと。
国連でスピーチしたのは、マララ・ユスフザイさん、16歳です。
パキスタン北部酢ワード地区の生まれです。
学校に通って医師を目指していました。

2012年10月9日。。。帰宅途中にスクールバスが襲撃されます。
頭部と首に被弾してしまいました。

奇跡的に助かった彼女・・・たまたまではなく、狙われていたのです。

イスラム過激派タリバンが勢力を伸ばし・・・
女性教育を認めず、200以上の学校が爆破されていました。
彼女はそれを非難し、ブログで女性教育の必要性を訴えていたのです。

事件から9か月後・・・
不屈の精神で復活し、7月に国連でスピーチをしました。

marara















「親愛なるみなさん、
 2012年タリバンは私の額の左側を銃で撃ちました。
 私の友人も撃たれました。
 彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。
 しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。
 次のものを除いて・・・
 私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。
 強さ、力、そして勇気が生まれたのです。
 親愛なる少年少女のみなさん
 私は誰にも抗議していません。
 タリバンや他のテロリストグループへの個人的復讐心から
 スピーチをしている訳でもありません。
 ここでの目的は、全ての子供に教育が与えられる権利を主張することです。
 全ての過激派とりわけタリバンの息子や娘たちのために、教育が必要だと思うのです。

 私は、自分を撃ったタリバンの兵士さえも憎んではいません。
 私が銃を手にして彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。
 親愛なる少年少女のみなさん、私たちは、暗闇の中にいると光の大切さに気付きます。
 私たちは沈黙させられると声をあげることの大切さに気付きます。
 同じように私たちがパキスタン北部のすわーとにいて銃を目にした時、ペンと本の大切さに気付きました。
 少女たち、少年たちが明るい平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。
 無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。
 本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとって最も強力な武器なのです。
 一人の子供、一人の教師、一冊の本、そして一本のペン。
 それで世界を変えられます。
 教育こそがただ一つの解決策です。
 教育を第一に・・・ありがとうございました。」

16歳の若さで、ノーベル平和賞候補にあがっています。
世界的に賞賛の声が上がっていますが、タリバンは再び命を狙うと宣言・・・
それでも、自分の夢はいつか実現する!!と。



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