日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ナチス

炎と闇の帝国―ゲッベルスとその妻マクダ

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1944年の夏、ベルリン郊外にとある邸宅にエレガントな母親が帰宅しました。
その立ち居振る舞いはどこか芝居じみています。
この女性こそ、第三帝国のファースト・レディー「マクダ・ゲッベルス」です。
ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの妻でアドルフ・ヒトラーとも親しいマクダ・ゲッペルス・・・。
4歳から12歳まで6人の子を愛する母親でもありました。
しかし、マクダは後の世に違う形で記憶されることとなります。

8か月後ベルリンは廃墟と化し、ソビエト軍はヒトラーの地下壕を捜索・・・
瓦礫の中なら現れたのはあまりにもむごたらしい光景でした。
白い服に身を包んだ6人の子の遺体・・・傍らには焼け焦げた二つの遺体・・・
連合国軍は、この二つの遺体をマクダ・ゲッベルスとヨーゼフ・ゲッベルスと確認しました。
ここで何が起きたのか・・・??
唯一の手掛かりは、マクダが前の夫との間にもうけた長男・ハラルトへの手紙でした。

最愛の息子へ・・・
私たちはヒトラー総統の地下壕にいます。
私たち家族が誇り高く一生を終えるにはこうするしかないのです。
総統亡き後の世界は生きるに値しないでしょう。
あなたの妹や弟たちをそんな世界によこすわけにはいきません。
夕べ総統から金色の党員指輪をいただき、光栄に思いました。
この上もなく、深い愛情をあなたに・・・。
母より。

第三帝国が崩壊した時、最高幹部の妻で自決したのはマクダだけでした。
しかし、彼女の経歴にはナチスの狂気の象徴となるようなことはありませんでした。
どうして犯罪的な政治組織に加わったのでしょうか?
何がイデオロギーの名のもと、我が子に手をかけさせたのでしょうか?
それこそ、理性を失うほど何かにのめり込むこと・・・。

1920年マクダは、ミュンヘンからベルリンに向かう列車に乗っていました。
ベルギーで育ち、ドイツの寄宿学校に通う20歳・・・裕福な建築家とその家政婦との間に私生児として生まれました。
品の良い40代の紳士が向かいに座ります。
ドイツでも指折りの実業家で大富豪・・・ギュンター・クヴァントでした。
戦後、クヴァントはこう語っています。

「目の前に、類まれな美女が座っていました。
 魅力的な青い瞳に、美しい金髪・・・私たちは演劇など若い女性が好む話をしました。」

マクダは20歳年上のクヴァントと結婚します。
息子も生まれ、ぜいたくな暮らしを続けます。
が、9年後、生活に息苦しさを感じ離婚。
それでも慰謝料によって何不自由なく暮らします。
激動の時代に、パーティーに明け暮れます。
1929年にドイツを襲った世界恐慌もどこ吹く風、30歳を前に暇を持て余していました。
美術史を学ぼうか?弁護士になろうか?託児所で働こうか?
しかし、何もかも退屈でした。

そんなマクダに退屈から逃れるきっかけが・・・
1930年、マクダ29歳・・・極右勢力が町を席巻していました。
2年前の選挙でナチ党が獲得した議席は僅か3%・・・長らくナチ党の支持者は世界からドロップアウトしたインテリで、ヨーゼフ・ゲッベルスもその一人でした。
それが様変わりしようとしています。
失業問題、汚職、共産主義の台頭・・・あらゆることが追い風となり、ナチスは上流階級に食い込んでいきました。

あるパーティーにマクダが出席しましたが・・・
マクダはナチスに入党していたホーエンツォレルン家の王子が入党を勧めます。
好奇心から翌週には、ベルリンスポーツ宮殿に足を運んでいました。
1930年9月の選挙に向け、ナチ党が大集会を行っていたのです。

その夜、聴衆の前に立ったのは、ヒトラーに次ぐアジテーター、ヨーゼフ・ゲッベルスでした。
彼の虜になったマクダ。。。
翌日、マクダは党本部に行き入党を志願します。
数か国語を話し教養もあるマクダは、すぐに秘書部門を任されます。
正式にナチ党員となったのは9月1日・・・驚くべき早さの転進でした。
政治に関心のなかった特権階級の女性がどうして短期間で活動家になったのでしょうか?
冒険、演説だけが理由でしょうか??

マクダには父親がいませんでした。
実の父親は彼女をすぐには認知せず、母親は雇い主と関係を持ったのですが、家柄のせいか、なかなか結婚してもらえませんでした。
その後、マクダはベルギーの寄宿舎に入れられます。
言葉が変わり、環境が変わり・・・ものの見方が一変します。
マクダはイデオロギーだけでなく、拠り所を見出しました。
世界を支配する優れた人種として・・・。

党本部で、マクダはナチスの思想を広める人物と出会います。
演説をしていたヨーゼフ・ゲッベルスです。
病弱で足の悪い作家崩れ・・・しかし、今やヒトラーの宣伝活動を行う大物でした。
9月の選挙でナチ党は、18%の票を獲得しました。
数か月後、二人は恋愛関係に・・・。

マクダは強くナチスとゲッベルスに惹かれていました。
ドイツ国内で大きくなるナチスの魅力・・・
そしてゲッベルスの魅力は、インテリで物分かりのいい会話の面白い、楽しい男性でした。
ゲッベルスは、やっと見つけた体裁のいい恋人に満足していました。
マクダは、上流階級の扉を開いてくれる女性でした。

「マクダとの昼食・・・彼女は戦災で心が広い。
 ”我が闘争”を彼女に送る。
 そう、これは愛だ。
 マクダは感激していた。
 午後は哲学や思想を話し合った。
 私たちは素晴らしいカップルになるだろう。」

1931年9月、ゲッベルスはマクダをナチスの指導者に紹介します。

マクダにとってヒトラーとの面会は、大きな転機でした。
ゲッベルスは周到に準備して、マクダを次の段階に引き上げました。
一人の活動家を、狂信的な信者に変えたのです。
ヒトラーは優しく親切に接することで、マクダの心を捕らえます。
相手の木をひくのが得意で、頭の中を支配しました。

ヨーゼフ・ゲッベルスの伴侶であるマクダは、ヒトラーの取り巻きの一員となります。
マクダは頻繁にヒトラーを夕食に招きました。
マクダの豪華な住まいは、ヒトラーが公務を行う本部となります。
権力を握る最終段階で会議を重ねます。
マクダも華やかなパーティーを開きました。
1932年の選挙で、ナチ党はついに議会第一党となります。
マクダのサロンには、新進の政党を見定めようと上級の人が集まりました。
ヒトラーは、上流階級を取り込もうと、何年も動いていました。
世間はナチスのことを、粗野な左翼集団ととらえていました。
そんなナチスの幹部が、上流階級の女性・・・しかも、大実業家のギュンター・クヴァントの元妻と深い関係にあるということは、大きな宣伝となりました。
ゲッベルスがマクダに惹かれたのは当然でした。
マクダの存在は、ナチスは労働者階級のチンピラというイメージを払拭するのにうってつけでした。
保守政党は、共産主義に対抗するためナチ党との連携を模索し・・・資本家と交流のあるマクダは、この二つを結びつける重要人物でした。

ヒトラーは、マクダの魅力にひかれます。
自分に忠実でありながら対等に話せる側近で唯一の女性・・・彼女に好意を持ちました。
ヒトラーは友人に、「マクダは私の男性的本能の対極にある女性かも知れない。」と語っています。
ゲッベルスは嫉妬します。
マクダは総統が相手だと下手に出る・・・それが私を苦しめる・・・。
ヒトラーはゲッベルスと話をします。
総統は、「マクダを愛しているが、私の幸せをねたみはしない。マクダは君の支えとなるだろう。」
そう言った時、総統の目はうるんでいた・・・哀れなヒトラーマクダは私の物だ・・・!!

ゲッベルスと結婚して私の傍にいなさい・・・そうヒトラーは言いました。
結婚式は黒いドレス・・・そして介添え人はヒトラー・・・!!
マクダは・・・
「夫への愛より、ヒトラー総統への愛の方が強いの。
 総統への想いに生涯を捧げたい。
 でも、総統は最早女性を愛することはなく、唯一愛するのはドイツ国家なの。」
ヒトラーは愛と結婚と国家の狭間で、女性との親密な関係を求めるも、結婚は約束出来ないという立場にありました。
自らを歴史的使命に身を捧げ、そこに女性の入る隙は無い・・・
体裁を考えて、マクダはゲッベルスと結婚した方がいいと、ヒトラーは考えたのです。

1932年11月の選挙で・・・
「私たちが負ければ共産主義が支配し、私はクヴァントからもらった財産を失うわ。
 でも、勝ったら、私はドイツで最も権力のある女性になる・・・!!」

ここに、マクダが入党した真の理由が伺えます。
ナチスへの心酔も事実ですが、限りない野心がありました。
1933年1月・・・ナチ党と連携する保守勢力は、国民から支持を集めるヒトラーを首相に・・・!!
ゲッベルスも国民啓蒙宣伝大臣に・・・!!
「マクダは名誉だと大喜びしている」
その夜・・・松明を掲げた大行進を余所に、ヒトラーはベルリンにある国立歌劇場にいました。
傍らにはその夜の同伴者・・・エレガントなマクダ・ゲッベルスがいました。

政権運営には人々の心をつかむことが必要でした。
ナチスは、シンボルとなる女性がいないという欠点をわかっていました。
相応しいのはマクダしかいません・・・弁が立ち、上流階級に身を置き、魅力にあふれていて・・・完璧でした。
マクダに白羽の矢が立ちました。
長くドイツ国民の目から隠されたヒトラーの愛人エバ・ブラウンではありません。

活躍の場を求めていたマクダは、新しい役に没頭します。
ドイツファッション協会の代表に就任、チャリティーイベント開催。
1933年ドイツ初の母の日・・・マクダはラジオで演説します。
ドイツで絶大な影響力を持ったマクダ・・・
しかし、マクダには、知られれば簡単に失脚しかねない秘密がありました。
1933年5月10日、夫ゲッベルスはユダヤ人による書物を焼き払います。
ゲッベルスは極端なまでの反ユダヤ主義で、ナチズムの中核をなすこの思想を強く推し進めていました。
彼は、ユダヤ人を排斥する法律を制定しようと躍起になっていました。
同じ日の夜・・・マクダと夫との間にある出来事が・・・
マクダの過去のこと・・・若い頃の彼女は無分別だった・・・と、ゲッベルス。
その日の朝、マクダと10年もあっていなかった男性が電話で話そうとしていました。
ベルリンを訪れていたその男性は、ユダヤ人のヴィクトル・アルロゾロフ・・・パレスチナのユダヤ人国家建設運動のリーダーです。
10年前、マクダはアルロゾロフと熱烈な恋愛をしていたのです。
当時から自己実現を求めていたマクダは、イスラエル建国運動に賛同し、一緒にパレスチナに行く覚悟をしていました。
そのためにヘブライ語まで勉強していました。
その頃マクダは、フリートレンダーというユダヤ系の姓を名乗っていました。
アルロゾロフはマクダを同胞と思ったのです。
しかし、ドイツ人だった・・・。
マクダの母親の再婚相手はユダヤ人でした。
養父フリートレンダーは愛情をもってマクダを育て、彼女もその姓を名乗りました。
アルロゾロフはマクダに会えないまま、ベルリンを去り、1か月後・・・テルアビブで暗殺されます。
おそらく、ゲッベルスの手先の仕業でしょう。
暴露されたならナチスにとって大打撃だったからです。

マクダは、養父フリートレンダーから助けを求められた際も、耳を貸しませんでした。
彼は、ある日ゲッベルスのオフィスに呼び出され、行方不明となりました。
マクダは新しい政権で、政治的な輝かしいキャリアを築きたいと考えていました。
自分にとって邪魔な人間を排除するぐらい簡単なことでした。
マクダは、育ての親が強制収容所で死ぬことを黙認しました。
狂信的だったのか・・・権力に飢えていたのか・・・
マクダの姿はナチスの幹部そのものでした。
どこまでも利己的で、ナチスの政治思想を徹底するためなら手段を選びませんでした。

ファーストレディーの地位を守ったマクダ・・・
次の望みは、第三帝国で主要な政治的役割を果たすこと・・・
しかし、女性の役割について、ナチスは凝り固まっていました。

「歴史を作るのは男性です。
 しかし、その男性の子供を産むのは女性であります。」

ドイツでは1919年に女性の参政権が認められましたが、新政権は育児や出産を推奨しました。
マクダも冷害ではなく、政治的にお飾りでした。
1934年ヒトラーはゲッベルス夫妻に事の白黒をはっきりさせます。
女性には政治をさせない・・・
マクダは帝国の母になるという役割を受け入れます。
ナチスの人口増加政策の広告塔です。
夫妻はベルリン郊外のボーゲン湖のほとりに別荘を構え、マクダは次々と身籠り、9年間で6人の子を授かりました。
夫妻は子煩悩でした。
ナチスの凶悪的なイメージとは離れ、暴力もなく、食事中の会話もできました。
1936年から44年まで、夫妻は毎年家族の記録を撮影しています。
ゲッベルスの誕生日10月29日にその映像を見るのがしきたりでした。
1937年も同様でした。
これらはホームムービーではなく、宣伝省の職員に家族の映像をとらせたものです。
ゲッベルス家の映像は、ニュース映画として放映されました。
その数は年間35回にも及びました。

この映画を通して、自分達が理想とする生活を知ることのできた人々・・・。
ナチスにおいてはイメージが全てで、ヒトラーでさえ、この家族よりも国民の目に触れることはありませんでした。
マクダの6人の子供は第三帝国の子供で、子だくさんで豊かなゲルマン民族の象徴なのです。
マクダの子供たちの笑顔は、犯罪的政策のプロパガンダに利用されます。
精神障碍者を安楽死させる政策です。
人種を純化させるために・・・!!
ファーストレディーで帝国の母であるマクダは、誰よりもヒトラーに忠実です。
マクダは家族を連れてヒトラーを訪問しましたが、そこにはカメラマンが同行していました。
ヒトラーが独身だからといって一人だけの写真ばかりを国民に見せることはできません。
ヒトラーはドイツ国民の父であるためにドイツの父だとアピールしなければなりません。
1938年頃、これらの写真は有効なプロパガンダとなりました。
ヒトラーは自分から戦争を仕掛けようともくろみながら、世間には平和を愛する男だと広めたのです。

嘘や虚構は、ナチスでは当たり前でした。
幸せなゲッベルス家も虚構でした。
マクダの身体は立て続けの出産で弱っていました。
ゲッベルスは浮気癖がひどくなり、家庭内暴力へ・・・!!
そんな中、マクダに屈辱的出来事が・・・!!
ゲッベルスが若い女優の愛人と公然と一緒にいるようになったのです。
マクダは離婚を望みます。
そして、ヒトラーの夏の別荘を訪ねました。
二人が別れることなど、ヒトラーに許されるわけがありません。
そこで彼は、夫婦関係が破たんしていても離婚しないようにと念を押します。
ヒトラーは強引に決着をつけます。
女優の愛人を追放し、ゲッベルスを呼びつけマクダの作った契約書に同意させます。
その契約書には、今後ゲッベルスは浮気をしないこと、その女優と会わないこと、さらにマクダの母親に優しく接することも書かれていました。
マクダの華やかなキャリアも、ゲッベルスの政治生命もすべてが終わるところを、ヒトラーは政治の力学に従わせたのです。
ベルリンに戻るとヒトラーは、ポーランド侵攻に着手します。
1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまりました。
ボーゲン湖畔の別荘・・・子供たちの遊びも戦争が反映されていきます。
マクダの人生は再び軌道に乗り始めました。
彼女は強い愛国心の持ち主で、兵士の子供たちにプレゼントを贈るだけでは満足せずに、看護婦の育成も始めます。
子供達を伴って、ナチス親衛隊士官たちももてなします。
このナチス親衛隊・・・SSドクロ師団は、東部戦線で大虐殺を行いました。

マクダと前の夫との子・ハラルトも活躍が認められ勲章を受けました。
マクダはハラルトを特別扱いすることなく、前線に送っていました。
しかし、ハラルトは、1943年負傷。
マクダは心配のあまり体調を崩します。
戦争を思い知らされました。
優勢だったドイツ軍は勢いを失い、ソビエト軍が反攻に転じ、連合軍がイタリアに上陸。
1943年2月、マクダは子供達とスポーツ宮殿に行き、夫の演説を聞きます。
そこは13年前、全てが始まった場所でした。
その帰り道・・・連合国軍の爆撃で破壊されたベルリンの惨状を目の当たりにします。

戦争の英雄・・・ロンメル元帥の訪問・・・心のうちを隠してもてなします。
絶え間ない爆撃を避け、家族は別荘に籠っていました。
マクダは孤独でした。
厳しい戦況の中、夫やヒトラーとはめったに会えなくなりました。
ゲッベルスはその演説とは裏腹に、この戦争には勝てないとマクダに言っていました。

「総統は国民との約束を一つも実現できなかったのに、自分を正しいと思っている。
 忠告を受け入れず、耳当たりのいい言葉ばかり聞いて・・・
 最悪の結果に終わるでしょう。
 年を取り、疲れ果てた私に道はない。
 あるとすれば二つ・・・
 戦争に勝てば夫は更なる権力を手にし、みずぼらしい私のことを捨てるでしょう。
 もし負けても、私には死しか残されていない。」

1944年の夏・・・ゲッペルス一家の最後の映画・・・
敗戦が濃厚になり、ドイツは残虐行為を加速させました。
ゲッベルスはそれを最も推進した人間です。
この映画が撮られた夏の間に、30万人のユダヤ系ハンガリー人がガス室に送られました。
うち8万人は子供・・・

「夫の話すことがあまりにも残酷で、もう受け入れられない・・・
 私の良心は押しつぶされそうなのに、それを誰にも話せないの。
 夫は私を頼って何でもぶちまける・・・
 彼自身も限界なの。」

マクダは人生に失敗しました。
思想においても、結婚においても、そしてヒトラーへの熱狂も・・・
しかし、ナチスの幹部たちが逃亡する中、ベルリンに残ることを選びます。

「戦争に負けたらユダヤ人が戻ってくる・・・
 妻と話し合い、私たちは自決することにした。」

マクダはヨーゼフ・ゲッベルスの妻です。
夫がナチ政権の犯罪に深く関与している以上、自分も同罪だとわかっていました。
忠実なナチ党員として潔く戦い続けること・・・
ヒトラーに寄り添い、ヒトラーと共に死ぬこと・・・!!
1945年戦争はついにゲッベルス一家を追い込みます。
町にはソビエト軍の侵攻から逃れてきた人々が溢れていました。
ドイツ降伏の3か月前の2月1日、母に決心を伝えます。
ヒトラーは夫を道連れに死ぬ、夫は私と子供を道連れに死ぬ・・・全員死ぬ運命なのよ。
ゲッベルスも決意をヒトラーに伝えます。
祭祀とベルリンに留まることを決意したこと、子供たちを誰にも託さないこと・・・。
総統は、「それは感心だが正しい態度とは思わない」といいました。
ヒトラーでさえマクダの決断に反対でした。
友人たちはマクダの身を案じ、連合国側に脱出させようとします。
元夫ギュンター・クヴァントも、スイスへの亡命を提案し、せめて子供達だけでも面倒を見ると言いました。
しかし、マクダは聞く耳を持ちません。

1945年3月、マクダは親友と最後の会話をします。
「こんなにかわいい子たちを残していけないわ。
 夫はドイツ史上最悪の戦犯と見なされるでしょう。
 それが一生、あの子たちについて回り、蔑まれることになる・・・
 そんな重荷を背負わせることはできない。
 私が関わっていた政権は、言葉にできないほどの残虐なことをしてきたわ。
 世界中から報復されるでしょう。
 あの子たちを連れて行くしかないわ。
 絶対に・・・!!」

1945年4月22日、ソビエト軍が迫る中、マクダは6人の子供を連れて夫の待つ総統官邸地下壕へ向かいます。
マクダは長い間、子供たちを国民に晒し、国家のシンボルに仕立て上げてきました。
第三帝国の滅亡と共に、子供達も消えるべきだと考えたのかもしれません。

マクダは自決するしかない・・・最期まで自分を演じ切らなければと思っていました。
子供を道連れに自決することでヒトラーへの完全なる忠誠を示し、その親しい友人として名を刻もうとしたのです。
地下壕へと向かう時、マクダは子供たちに西部開拓への冒険に出かけようと出発しました。
息子は特別な服を着て、家政婦が同行しました。
長女のヘルガだけは理解していました。
他の子たちは、楽し気に相当の地下壕に行くとはしゃいでいました。
爆撃が続く中、不快な地下壕で、家族は一週間ヒトラーと忠実な部下たちと過ごします。
それまで大量殺戮に手を染めてきた男たちまでもがマクダに脱出を促しました。
4月30日、ヒトラーは自らの命を絶ちます。
その直前彼は、党の紋章入りの指輪をマクダに送ります。
翌日、マクダは眠っている子供達の口に青酸カリのカプセルを滑り込ませます。
そして、夫ヨーゼフ・ゲッベルスと共に第三帝国のファースト・レディはすべてに終止符を打ちました。

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1941年12月8日真珠湾攻撃・・・それより8年前の1933年2月24日。
スイス・ジュネーブでの国際連盟臨時総会で・・・日本が戦争への分岐点となる演説がありました。
日本首席全権は松岡洋右。

「極東の平和を保障し、世界平和を維持するために、日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

この演説から一か月後、日本は国際連盟を脱退!!
世界から孤立する道を進んでいきます。

国際連盟は、第一次世界大戦後・・・1920年に作られ・・・設立当時・加盟42か国、常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本でした。後にドイツ、ソビエトも加盟しますが、アメリカはいませんでした。
第28代アメリカ大統領W・ウィルソンが提唱したにも関わらず・・・。
アメリカの議会が反対し、参加しないままの出発となったのです。

1914年に第一次世界大戦に参戦した日本・・・イギリスとの同盟を理由にドイツに宣戦布告。
当時ドイツが利権を持っていた山東省に攻め込み、獲得ました。
マリアナ諸島・マーシャル諸島・パラオ諸島・カロリン諸島を委任統治することになりました。

どうして脱退したのでしょうか?

当時日本は、中国にある満州・関東州に派遣された日本陸軍部隊が関東軍。
1931年9月18日に日本が起こしたといわれている柳条湖事件が起きました。
これをきっかけに、満州事変・・・政府の方針を無視して軍事行動を進めていき・・・満州国を作りました。

世界大恐慌のあおりを受けて、深刻な不況だったので、働き口、資源を求めてたくさんの日本の人々が満州に渡っていきました。そしてソビエトの恐怖・・・。

1932年3月・・・作った満州国は、日本の傀儡政権でした。
中国国民党政府は、侵略と・・・国際連盟に提訴します。
これを受けリットン卿を中心とするリットン調査団がやってきます。
「日本による占領は、自己防衛だと正当化されるべきではない。
 日本が作った新政府は、満州が自ら決めたことではない。」
1933年2月24日国際連盟臨時総会が行われ・・・
日本は満州から撤退するべきだ!!ということになります。

”満州国を世界に認めさせるため!”にやってきたのが日本首席全権・松岡洋右でした。

「東洋における問題の根本的原因は、中国の無政府状態である。
 真剣に考えて欲しい。
 日本と中国は友人であり、両国の繁栄のために協力し合うべきなのだ。
 満州撤退の報告書を国際連盟が受け入れれば、日中両国を救うことができない。」

中国政府では、満州を維持することができないと、平和維持のために行っていると46分に渡り演説します。が・・・満州国撤退の対日勧告案は、賛成42に対し反対1・棄権1・・・と、圧倒的に否定されてしまいます。

松岡は・・・「日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

と、会議場を去ります。

この演説は、日本国内の映画ニュースで繰り返し上映され、国民に大歓迎されるのです。
新聞も松岡を英雄視します。
しかし・・・本人は帰国し・・・期待に添えなかったことをお詫びしています。
松岡の使命は、満州国を世界に認めさせたうえでの国際連盟にも残ることだったからです。
どちらもできなかったのです。


1937年盧溝橋事件が起こります。
北京郊外の盧溝橋で、演習中の日本軍に何者かが発砲したとされる事件ですが・・・発端の実情は不明ですが・・・。
これで中国全土に戦争が広まっていきます。
アメリカは、日本に中国からの撤退を強く呼びかけていました。
1940年第二次近衛文麿内閣で外務大臣として就任した松岡洋右。。。
ドイツ・イタリアと三国同盟を結びます。
ヨーロッパに向かうシベリア鉄道・・・モスクワでスターリンに会い、ベルリンでヒトラーに会い、ローマではムッソリーニに会います。
そして・・・日本に帰る前にモスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を結びます。
日独伊ソ連が手を組むことを考えていて・・・アメリカとの戦争はしたくない・・・というのが本音でした。

1941年7月にはアメリカと直接交渉できずに外務大臣を退任。。。病気療養に入り・・・日米開戦を病床で知るのでした。

「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だった。」

1941年6月22日ドイツがソビエトに侵攻!!
4か国でアメリカに対抗しようと思っていた松岡の思惑は挫折してしまったのです。
1941年12月8日、ハワイ・真珠湾攻撃!!
開戦当時は、日本が優勢でした。
しかし、戦況は急速に悪化し、日本は後退を余儀なくされます。
そして・・・1943年11月21日明治神宮外苑競技場にて”出陣学徒壮行会”が行われました。
敗戦の色が濃くなる中で、大学生が戦争に送られていきます。
集まったのは2万5000人。。。総理大臣・東条英機が演説します。

「私は、衷心より諸君の門出をお祝い申し上げる次第です。
 敵・米英におきましても諸君と同じく、若い学徒が戦場に立っているのであります。」

東大生の答辞は・・・
「生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂・・・」

その後、13万人の学生たちが戦場へと送られていきました。 
1945年8月日本は無条件降伏しますが、この時までの日本人犠牲者は、310万人にも及びました。
敗戦後松岡洋右は、A級戦犯として逮捕されます。
しかし、裁判では英語で無罪を主張し、1946年66歳の生涯を閉じるのでした。


ドイツでは・・・アドルフ・ヒトラー。
ヒトラーは、当時のドイツ国民に指示されて独裁者に上り詰めました。
「大衆の多くは無知で愚かである
 嘘を大声で、十分に時間を費やして語れば人はそれを信じる」
ヒトラーが行動を起こしたのは、ドイツのミュンヘンでした。
類まれなる演説で、人々を魅了していきます。

ヒトラーが25歳の時、運命の出来事が・・・第一次世界大戦勃発!!
オーストリア出身のヒトラーでしたが、ドイツに志願兵として参加します。
前線で戦うも敗戦し、ドイツは巨額の賠償金を支払わなければならなくなりました。
国内は極度のインフレ、大不況となって失業者であふれます。
国が崩壊していきます・・・ドイツ民族の栄光を取り戻す!!

ホフブライハウス・・・1589年に宮廷の醸造所として設立されたこの場所、ビアホールで、1920年反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党。。。ナチスが結成されます。

「我々が再び立ち上がるためには天才的な独裁者が必要である!!」
「ユダヤ人は嘘つきで寄生虫だ!!」

結成当初、党員は7人でした。

1923年ナチスが政権奪取を試みるミュンヘン一揆が起こります。
ビアホールのビュルガー・ブロイケラーで、武力蜂起したのです。
政府高官を人質にしたものの、警官隊によって鎮圧。。。逮捕・・・クーデターは失敗に終わりました。

8か月間のランツベルク刑務所で、「我が闘争」を口述筆記、ここで、自分の考え方、政策の基本をまとめます。
我が闘争には、アーリア人至上主義、共産主義の打倒、ユダヤ人排斥などが書かれて・・・後にナチスのバイブルとなり・・・ドイツの家庭には、必ず1冊ありました。
1929年世界大恐慌が起こります。
失業者が600万人となったドイツ・・・これが追い風となります。
新しいドイツが、民衆の心をとらえていきます。

ヒトラーは暴力ではなく、選挙で政権を握ろうとします。
そこには革新的な戦略が・・・
大量のビラをまき、街中に自分の顔や鍵十字のポスターを張り、巧みなプロパガンダで民衆を掌握していきます。
大衆の心を掴み・・・1933年1月、ついに首相に任命されます。

ヒトラーの野望・・・それは、ドイツ帝国の復活、反ユダヤ主義、共産主義打倒でした。

しかし、経済政策も魅力的でした。
大規模な公共事業・・・アウトバーンの建設によって、失業者は600万人から50万人に減少、フォルクスワーゲン
(国民車)の設計によって車に乗れる人が増えていきます。
大統領と首相を兼ね総統に就任します。

当時ドイツには、世界一民主的な憲法・・・ワイマール憲法がありました。
そこで権力をとり、1933年全権委任法をヒトラー内閣は制定し、国会が立法権を政府に譲位します。

ヒトラー専属のカメラマンが様々なヒトラーを撮ります。
大袈裟なアクションは、オペラ歌手からの指導・・・街がナチスに染まっていきます。
1934年の第6回ナチス党大会は「意志の大会」とも呼ばれ、100万人が参加したとも言われています。
その映像は「意志の勝利」としてレニ・リーフェンシュタールによって映画化されます。

「レニ・リーフェンシュタール」はこちら
人生にYESと言いなさい~レ二・絶賛と非難の101年~はこちら

カリスマに演出されていくヒトラー、平和のための独裁!!
平和という言葉を何度も使います。

党大会は夜に頻繁に行われましたが・・・
夜の幻想的な演出も、民衆を熱狂させていきます。

最初に作られたナチス・ドイツの強制収容所は「ダッハウ強制収容所」で、親衛隊の残虐行為の訓練所とまで言われました。
たくさんのユダヤ人が・・・多くの人が命を絶たれます。

ナチスに立ち向かった学生たちがいました。
またもやミュンヘンで・・・1943年ハンス、ゾフィー兄妹らがペンで反ナチスを訴えます。
白バラ抵抗運動です。
ビラを配ったり、党大会への不参加を呼びかけます。
しかし逮捕されると・・・わずか4日で斬首刑となりました。

第2次世界大戦が勃発した翌年に、チャップリンは「独裁者」を作ります。
ヒトラーを痛烈に批判したラストシーン・・・

「申し訳ないが  私は皇帝になどなりたくない
 それは私には関わりのないことだ
 だれも支配も征服もしたくない 
 できることなら皆を助けたい・・・
 ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も

 私の声が聞こえる人たちに言う
 絶望してはいけない
 憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪い取られた権力は、人々のもとに返されるだろう
 兵士よ 奴隷を作るために闘うな 自由のために闘え
 君たち人々は、機会を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ
 君たち人々は、人生を自由に美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ
 
 だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか
 みんなでひとつになろう
 新しい世界のために」

ヒトラーが首相に就任してかあら12年・・・ドイツの敗北が決定的になります。
1945年になると、連合国による攻撃が激しさをまし・・・ベルリンは廃墟と化します。
その4月・・・総統官邸の地下壕で、愛人のエバ・ブラウンと共に自ら命を絶つのでした。

ヒトラーの影法師と言われた男はこちら
「ヒトラー 独裁者という名の怪物」はこちら
チャップリンの「独裁者」観ました。はこちら
苦しいからこそ笑う~チャップリン天国と地獄を見た喜劇王~はこちら

そして戦後・・・
敗戦国の日本とドイツは、戦争をしていません。
アメリカが沢山の戦いに関わってることは周知の事実です。

史上最年少の43歳でアメリカ大統領となったケネディ大統領・・・
東西冷戦が始まり、アメリカなどの自由主義陣営と、ソビエトなどの社会主義陣営が対立していきます。
ベトナム戦争・・・
第二次世界大戦後、フランスとの戦いに勝利し独立したベトナムは、北(ベトナム民主共和国)と南(ベトナム共和国)に分断されます。
社会主義陣営は北ベトナムを支持し、自由主義陣営は南ベトナムを支持します。
南北の対立が激しくなり・・・アイゼンハワー大統領は、軍事顧問団を南ベトナムに派遣。
ケネディ大統領はそれを増強していきます。代理戦争となっていくベトナム。。。

1961年8月13日には・・・東ドイツによってベルリンの壁が築かれます。
193年11月テキサス州ダラスにて、大勢の目の前でケネディ大統領が凶弾に斃れました。
後を継いだジョンソンの時代、ベトナムの北爆を開始します。
50万人を超える兵士を導入しますが、戦争は泥沼化・・・。

世論によって反戦運動が起こってきます。
1975年サイゴンが陥落し、15年続いたベトナム戦争終結しました。

日本にとっては・・・
1950年朝鮮戦争が勃発したので、アメリカ兵が朝鮮に引っ張られ・・・警察予備隊が作られました。
憲法9条で軍隊を持つことができなかった日本だったので・・・「警察予備隊」なのです。
これが今の自衛隊へとなっていくのです。

もちろん戦争には参加していませんが、後方支援はやっています。
1991年湾岸戦争、ペルシャ湾での機雷の除去、2001年アフガニスタン戦争で・・・インド洋での燃料補給、2008年イラク戦争でイラクで給水などの復興支援・・・。
戦闘に於いては一人も亡くなることはなく戦後70年を過ごしてきました。

世界のどこかで今も戦争は続いています。
日本にもその危機が訪れるかもしれません。
過去から学ぶ・・・そのことが必要なのです。

「ジョン・F・ケネディ “弱さを力に変えたジャック”」はこちら
リンドン・ジョンソン~ケネディの後を継いだ男~はこちら


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池上彰の戦争を考える

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戦争の20世紀

そこには、民主主義の危うさがありました。
第1次大戦後、1919年にドイツではワイマール憲法が出来ます。
主権在民や男女平等の普通選挙などを規定し、当時世界で最も民主的憲法と言われましたが。。。
民主ドイツ元年と言われるこの年に、ナチスの前進であるドイツ労働者党が労働者を中心に結党されます。
同じくこの年に、ベルサイユ条約が締結され、第1次世界大戦のドイツに多額の賠償金が課せられ、植民地も失いました。
厳しい軍備制限と、多額の・・・天文学的賠償金の負担・・・
政府は紙幣を大量に発行し、深刻なインフレに陥ります。
1923年11月のドイツの為替レートは・・・1ドル=4兆2000億マルクでした。

そこで、アメリカの金融支援で財政の立て直しを図ります。
インフレを治めて、経済が徐々に回復、そこに1929年世界恐慌がやってきます。
この世界恐慌が、ナチス躍進のきっかけになってしまうのです。

ナチスは・・・1928年12議席だったのが、1930年には107議席。
1932年には、230議席獲得し、第1党に躍進します。
この時、ドイツ国民がナチスに期待したことは???
・強力な指導者への期待
ワイマール共和政では、強力な指導者は出てきませんでした。
・厳しい軍備制限への不満感
 空軍や潜水艦は禁止。
・ヒトラーは女性に大人気

政治不信の国民は強い指導者を求め、選挙でナチスを選んだのです。
特に、当時としては珍しい女性の参政権、男女平等の選挙です。
ヒトラーは、女性に対し巧みな話術で票を稼ぎます。
ナチスを独裁政権にしたきっかけは、皮肉にも最も民主的な憲法の存在がありました。
ナチスは結果的に、選挙や住民投票によってさらに勢力を拡大します。

hito.png

ヒトラーとはどのような人物なのでしょうか?
ドイツ人ではなく、オーストリア=ハンガリー帝国に、1889年に中産階級に生まれます。
画家になりたかったのです。

第1次大戦も参加し・・・1919年9月ドイツ労働者党に入党します。
1920年「国民社会主義ドイツ労働者党」(ナチス)と、党名を変更。
1921年ナチスの党首に選ばれます。
1923年クーデターを計画しますが失敗。
この時獄中生活を送り、「わが闘争」を執筆します。

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ここに、ヒトラーの世界観や政策が書かれています。
その内容は・・・?
・再軍備の推進
・東方への勢力拡張
・ユダヤ人排斥

ベルサイユ条約で鬱屈していた国民の共感を得て、ベストセラーに!!
ヒトラーの名を世に知らしめることになります。
その後も、演説レコードや、宣伝映画などメディアを利用した選挙活動を展開、世論を味方にして・・・
独裁政権の確立に!!
ヒンデンブルク大統領の時に・・・1933年ヒトラー内閣に就任します。
全権委任法を成立、民族と国家の困難を除去することを理由に、政府に立法権を委ねるものです。
ナチス政権独裁の準備を進めていきます。

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政党新設禁止法を制定し、社会民主党や共産党などを追放、一党独裁へ突き進んでいきます。
1933年7月ナチス独裁政権が確立。
当時はヒンデンブルク大統領でしたが、大統領がなくなると、大統領・首相・党首の全権を持つ総統にヒトラーが就任します。
独裁者となり・・・ナチスが国内唯一の政党となりました。
ナチス一党独裁政権へ!!

領土拡張に動くナチス!!
軍備制限の中、1935年再軍備宣言を行います。
ベルサイユ条約を破棄し、国防軍を5.5倍にすることなどを宣言。
本格的再軍備を!!ベルサイユ条約で非武装地帯とされたラインラントを超え・・・1938年オーストリア併合。
第1次世界大戦で失った15%の領土の回復を!!
圧倒的な国民の支持のもとに動いていきます。
裏返せば・・・領土拡張は国民の支持を維持するために不可欠だったのかもしれません。

では、国際社会はどうしてナチスを抑えることが出来なかったのでしょうか?
1938年ミュンヘン会議が行われます。
チェコスロバキア・ズデーデン問題について、英・仏・伊・独の会議です。
ドイツはヒトラー、イタリアはムッソリーニ・・・イギリスとフランスは、譲歩してしまいます。チェコスロバキアをドイツに割譲することを認めてしまいます。

イギリスはドイツを重きにおいておらず、フランスは自国の内政問題が不安定、イタリアは後にドイツと手を組むこととなります。
ロシアは革命後の混乱を収拾するのに手がいっぱいの状態でした。
ヨーロッパ各国に余裕がなかったのです。

1939年9月ポーランド侵攻。
重い腰を上げイギリス・フランスは宣戦布告、第2次世界大戦がはじまりました。

今後、再びナチスのような独裁政権の生れる可能性はあるのでしょうか?
世界中にはいろいろな国があるので、今後二度とないとは言い切れません。

今は相互に助け合う社会となっています。
社会主義は別ですが、独裁者の出る可能性は低いと思われます。

どうして民主的な憲法下でナチスが生まれたのか???
第1次世界大戦後の国民の不満をヒトラーが利用したということ。
世界恐慌、領土拡張・・・すべてが民衆が期待していたということ。

大衆民主主義とは、人民投票型独裁者を生む土壌である・・・。
警戒すべきことだということでした。

ナチスドイツによって引き起こされた第2次世界大戦。
その後ドイツは、ヨーロッパ各地を占領、戦果は拡大の一途を取ります。
この勢いに乗ったのが日本・・・
1941年真珠湾を攻撃
領土拡張路線へと舵を切っていきます。。。


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ヒトラーの影法師と言われた男
BS歴史館。やっと見ることができました。

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今回は、側近が見た独裁者ヒトラー(1)ヒトラーの影法師と呼ばれた男でした。でも、側近が見たヒトラーって。。。ヒトラーの事はあまりしなかったな・・・。どちらかというと、ナンバー2みたいな内容でした。

この主人公は、ルドルフ・へスです。この人は、ゲーリングやゲッペルスと違って、あんまり有名ではないようです。

ヘスは、ヒトラーの首相就任と共に、副総統に任命され、強大な力を手に入れますが、実質的な権力は与えられず、反ユダヤ主義暴動やポーランド侵攻では、ヘスが采配を振るうことはありませんでした。

この、ナチ党副総統、ルドルフ・へスの数奇な運命を、彼が人生を捧げたナチスドイツの知られざる側面を振り返ります。

ルドルフ・へスは、ナチスの中では目立たないですが、ヒトラーに次ぐ地位を持っていました。かれは、ヒトラーに何かあったら、次の指導者になる立場であったのに、ヒトラー個人に仕えた従僕だったのです。

何故目立たなかったのか?それは、例えばゲーリングは空軍、ゲッペルスは宣伝、でも、へスでないと語れないものはありませんでした。

もともとナチスは、トゥーレ教会のひとつのドイツ労働者党から、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)ヒトラーと共に大きくなりました。その大きくなり方、何故国民がヒトラーに惹かれ支持していったのか・・・。

ヘスは、1894年エジプトのアレキサンドリアに生まれます。裕福な貿易商の家に長男としてうまれ何不自由ない生活、父ヨハンは祖国ドイツに忠誠を誓っていました。

14歳で全寮制のドイツの学校に進学、父は貿易商を継がせたかったのですが、1914年8月ドイツが第一次世界大戦に参戦。国中が高揚感に包まれる中、親の反対を押し切って、西部戦線へ行きます。この経験が世界観を変えたのです。航空隊へ入りましたがドイツは敗戦。それを機にミュンヘン大学へ進学します。

1919年5月、暴力闘争の果てにドイツ義勇軍が共産主義者からミュンヘンを奪取。学生だったヘスはこの反共産主義闘争に加わり、人生を捧げることとなるヒトラーと会うのです。

1920年、ヒトラーのナチ党に、創立メンバーとして参加。学生を勧誘します。ヒトラーが蜂起していたミュンヘン一揆でも、最前線で戦い、二人は投獄。この、ランツベルグ刑務所で「わが闘争」を書き上げるのです。

当時のドイツは第一次世界大戦に敗戦。ベルサイユ条約で、ドイツ帝国は戦争を引き起こした責任を取らされ1320億マルクという賠償金の支払いと、領土の割譲が課せられます。

ヒトラーは、時代の不安感につけこむ天才でした。国民は、この課せられた多額の借金に苦しんでいました。この不満に乗って・・・。ヒトラーがやったミュンヘン一揆は、バイエルン州に臨時政府を樹立し国家の転覆を図るクーデターでした。失敗したものの、ドイツ国民にヒトラーを印象付けるには十分でした。

そこでのヒトラーの演説。彼の演説は天才的で、みな心酔し救世主のようにあがめるようになるのです。そこにはヒトラーの、一か八か、生か死かの鬼気迫る世界観があったのです。ヒトラーの意思の強いところに引かれる・・・「意思の勝利」でした。

そうして、帝国国民は党の方針を一切疑わず、従うようになっていったのです。党こそがヒトラーの権力の土台でした。

この頃すでに、副総裁にもかかわらず、ヘスには発言権はありませんでした。ヒトラーは、人の意見など取り入れず、独断で国を支配するようになっていったのです。その結果、帝国は独裁国家へと突き進んで行きます。

そうして、誰もが認めるヘスの誠実さは利用されていきます。

1938年11月9日、ドイツ各地で反ユダヤ主義暴動が起きますが、ヘスは権力の中枢にいたにもかかわらず、知らされていなかったこと、また、止められなかったことにショックを受けます。

しかし・・・。戦争は迫っていました。にもかかわらず、ヘスはヒトラーを信じ、「ドイツは平和を築く義務があると、総統は常に強調してこられた」と、ヒトラーが平和を演説していると訴えます。

1939年9月、ポーランド侵攻に勝利したヒトラーが呼び寄せたのは、同士ゲーリングでした。ヘスは三番目に格下げされたのです。

ヘスに部下がいなかったり、発言権がないのは、独裁するためには自分が一手に引き受けたいとヒトラーが思っていたからでした。

1940年5月フランスに侵攻し、6週間で勝利。この西部戦線がヒトラーにとってゆるぎない自信となるのです。ヒトラーはますます、助言に耳を傾けなくなります。

イギリスとの戦争にあたり、誤解から生まれた戦争と信じていたヘス。でも、チャーチルもヒトラーも、和平は望んでいませんでした。
ヒトラーは和平に対して「これ以上私に何が出来るというのだ。私が向うに飛んで行き、ひざまずいて頼むことは出来ないのだ」と言ったといいます。

このことで、ヘスは自らイギリスへ行こうと決意をします。これは、国家に対する反逆の何物でもありません。しかし、ヘスはヒトラーを信じていました。ヒトラーに対する己の純粋な信念、ロマンチシズム。

1941年5月10日へスはイギリスに単独飛行を行います。そして捕らえられ、監禁されるのです。

そのときヒトラーは、「よくもこんな事をしてくれたな!」講和条約で、「ヘスの帰国を要求する。反逆罪で裁判にかけて処刑してやる」と言ったのです。

1941年6月ドイツはバルバロッサ作戦を遂行、東方の殲滅作戦を行います。副総統がいなくても、何の不都合も生じませんでした。

捕らえられたヘスは、このことをくよくよと悩んでいたといいます。

何故、単独飛行したのか?ヘスは、東方への殲滅作戦をしたら、ソ連が攻めてくる、アメリカも参加するかもしれない、早く和平をしないと第一次世界大戦のようになって負けてしまう。それだけはなんとしても避けなければ。という気持ちからだったようです。彼にとっては裏切りではなく、英雄になりたかったのです。しかし、これは、客観的にみるとまともではありません。敵に対しても、副総裁がこうでは、国家として戦争継続能力がないのではないか?と思われるからです。

ヘスの滅私奉公は、ヒトラー政権12年のうち8年間でした。

ドイツの降伏で、ヨーロッパ戦は終わり、ナチのニュルンベルグ裁判が始まります。ヘスは、ユダヤ人虐殺やソビエト侵攻にかかわっていないにもかかわらず、すべてにおいて起訴されます。

法廷では明らかに精神が病んでいるように見えましたが、2週間後「裁判を受ける能力がないと断定されないために、ここに宣言を行います。私は法廷での戦術として記憶喪失を装っていました。」と。その結果、終身刑を受けることになります。
しかし、こうも言っています。「わが民族の歴史が生んだ最も偉大な息子の下で、長年働くことが出来たのは、名誉なことでした。たとえ可能であっても、その年月を人生から消し去ろうとは思いません。国民にお対する義務を果たすことが出来て幸せでした。ドイツ人としての義務。国家社会主義者としての義務。総統の側近としての義務。すべてを果たすことが出来ました。何一つ後悔していません。」

終身刑に服したヘスは、連合国の監視下におかれました。1969年まで家族とも面会せず、イギリスへの単独飛行は沈黙しました。最も経費のかかる受刑者でしたが、彼の釈放を阻んでいたのはソ連でした。ベルリンにあるこの刑務所を前線基地として維持していたかったからだといわれています。ヘスの釈放を求める声が上がりますが、これは、ゴルバチョフになるまで応じてくれませんでした。

1987年刑務所内で自殺。遺族は自殺とは思っていず、遺書があったにもかかわらず、イギリスが秘密保持のため、暗殺したという噂もあります。他殺だったという証拠もないが、未解決事件となっています。

ヘスの葬儀はネオナチの支持により延期されます。ネオナチにとってヘスは、裁判においてもヒトラーを否定せずに生き抜いた、ネオナチにとって鏡のような人でした。

彼の信じ続けたナチズムは、まだ葬り去られていないのです。
ただ彼は、ヒトラーに依存しすぎました。

本当に、思い込みって怖いですよね。
太平洋戦争も然り、今のイスラムの聖戦も然りです。
チャップリンの「殺人狂時代」を思い出しました。有名なあの言葉です。

「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が神聖化する。」

洗脳教育は、本当に恐ろしいですね。



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