日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ナチス

杉原千畝は、明治33年1月1日、岐阜県八百津町に生れます。
幼いころから成績優秀で、父親からは将来、医者になるように言われていました。
ところが、杉原が興味を持ったのは外国でした。
英語の教師になりたいと思うようになります。
そして18歳になった杉原は・・・
1918年早稲田大学高等師範学校(現教育学部)英語科に入学します。
本格的に英語の勉強しし始めましたが、父の意向に背いての上京だったため、仕送りが無く、たちまち生活費に困ってしまいました。
そんな時、偶然目にした新聞に、外務省の官費留学生募集の広告を見つけます。
それは、3年間の学費と、留学先への渡航費が支給されるというものでした。
学費は最高で年2500円、当時、大学卒の初任給が40円だった時代に、破格の条件でした。
しかし、問題がありました。
中国語・モンゴル語・ロシア語・スペイン語・タイ語・オランダ語・ポルトガル語・トルコ語・・・
募集の中に英語専攻がありませんでした。
それでも、学費が必要な杉原は、諦め切れずに当時人気のスペイン語を選択、猛勉強の末、見事合格しました。
ところが・・・せっかく勉強したスペイン語ではなく、ロシア語を選ばされることに・・・。
この年は、たまたまスペイン語を希望する人が多く、反面、ロシアは革命の混乱などもあってロシア語を選択する者が極端に少なかったのです。
そのため、外務省の担当官は、スペイン語の定員からあぶれた者に、ロシア語を選択するように勧めたのです。

こうして、官費留学生として、ハルビンの日露協会学校に入学。
気持ちを切り替え、ロシア語の専門家になる決意をし、一から必死に学んでいきました。
そこで杉原は、人生の指針となる教えを受けます。
それは、この学校の創設者で、外務大臣などを務めた後藤新平の言葉で、学校のモットーにもなっています。

”人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう”

日露協会学校を卒業した杉原は、大正13年、24歳の時に外務省に正式に採用されます。
ハルビン日本総領事館のロシア係として赴任、そこで、ソビエト政権に反対し、亡命してきていた白系ロシア人と交流し、独自の情報網を作り上げていきます。
そんな中、満州事変が起こり、昭和7年、満州国建国。
杉原は、ロシア語の能力を買われ、満州国外交部に引き抜かれます。
その満州国には、懸案事項がありました。
当時、満州国がソ連と共同経営していた北満州鉄道をめぐる問題です。
この鉄道は、両国の紛争の種になっていたこともあって、満州国がソ連の持つ経営権を買い取る方向で交渉が始まりました。
ソ連が提示した譲渡価格は・・・当時の日本円で6億2500万円!!
対して満州国が示した金額が5000万円でした。
交渉は平行線をたどりました。

その状況を打破したのが、満州国側の一員として交渉に参加していた杉原でした。
杉原は、交流を深めていた白系ロシア人からある重大な情報を手に入れます。
ソ連側が交渉のさ中にも関わらず、北満州鉄道の車両を密かにソ連内に運び出していたのです。
ソ連の行為は不当だとして杉原は、それを盾に交渉します。
譲渡金を1億4000万円まで値下げさせたことで、譲渡協定は結ばれました。
この功績により、杉原の外交官としての名声は国内外に一気に広まることになります。

同じ頃、ヨーロッパでは戦争の機運が高まりつつありました。
ドイツではヒトラーが総統となり、全権を掌握し再軍備へと進みます。
ロシア革命後のソ連では、鋼鉄の人と呼ばれたスターリンが独裁体制を固め、ドイツの動きを警戒していました。
そんな中、杉原の新たな赴任先は・・・ヨーロッパのバルト三国の一つリトアニアです。
どうして杉原は、リトアニアに派遣されたのでしょうか?
当時の日本は、モンゴルと満州の国境付近でノモンハン事件と呼ばれるソ連との武力衝突のさ中でした。
杉原が、ソ連に近いリトアニアに派遣されたのは、ノモンハン事件を外交的に解決するための情報を集める目的だったと言われています。
こうして、昭和14年8月28日、家族と共にリトアニアのカウナスに着任・・・39歳でした。

リトアニア着任から9か月たった昭和15年6月・・・
ソ連がリトアニアへの強引な進駐を開始。
カウナスにあった各国の大使館や領事館に対し、8月25日をめどに閉鎖することを求めてきました。
その準備に追われていた7月18日の朝の事・・・窓の外を見た杉原は驚きました。
領事館の鉄柵の向こうに、大勢の人が押し寄せてきていたのです。
杉原はすぐにその中の代表者を呼び、話しを聞くことにしました。
すると・・・

「我々は、ポーランドから逃げてきたユダヤ人です
 どうか日本の通過ビザを交付していただきたい」

当時、ヨーロッパにいたユダヤ人は、ナチスドイツから迫害されていました。
ユダヤ人迫害の歴史は古く、ユダヤ教徒がイエス・キリストを救世主として認めなかったことに端を発します。
それ以来、ユダヤ人はキリスト教を冒涜する存在としてヨーロッパのキリスト教徒から疎まれるようになり、ヒトラーは、その反ユダヤ主義を利用し、明確な敵をつくることによってドイツ国民を一つにしようとユダヤ人を迫害します。
迫害はドイツ国内にとどまらず、占領したポーランドでも行われていました。
そして、ユダヤ人にとって逃げ込んだリトアニアも安全とは言えませんでした。
進駐してきたスターリンも彼らを敵視していたからです。

「一刻も早く遠くに逃げたい!!」
 
そんなユダヤ難民たちに最初に手を差し伸べたのは、カウナスにいたオランダ名誉領事のヤン・ズヴァルテンディクでした。
ズヴァルテンディクは、南米にあるオランダ領のキュラソーやスリナムならビザが無くても入国できる・・・そう考え、独断での入国許可の証明書をユダヤ人たちに与えました。
逃げる先が決まったユダヤ人たちでしたが、問題はそこまでどうやって行くかでした。
ヨーロッパを抜けていくルートはナチスドイツの脅威があって使えません。
残された方法は、シベリア鉄道を使って東から行くルートです。
ただし、シベリア鉄道の終点・ウラジオストクからは日本の通過ビザがないと海を渡ることが出来ません。
その為、多くのユダヤ難民が、カウナスの日本領事館に押し寄せてきたのです。

杉原は、急いで日本の外務省に通過ビザ発給の許可の電報を打ちます。
帰ってきた答えは・・・

「渡航先の入国許可や、渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない」

ビザ、発給の規定を厳守するようにというのです。
ユダヤ難民の中には、キュラソーやスリナム以外を希望する者もいて、彼らの多くは入国許可を持っていませんでした。
それに、命からがら逃げてきたユダヤ人たちが、十分な渡航費用を持っているわけもなく・・・
杉原は悩みます。

「少量のビザ発行なら何とかすることもできるが、これだけ大量になると自分の裁量を越えている・・・
 問題が起これば服務規程違反で首になるかもしれない・・・」

そんな時、連日のように領事館の前にたたずむのを見た幼い長男が・・・

「あの人たちは何をしに来たの?
 パパが助けてあげるの??」

杉原は、腹をくくりました。
そして妻・幸子にこう言うのです。

「私は外務省の指示に背いた 
 領事の権限でビザを出すことにしようと思うがいいだろうか
 職務規定違反で外務省も辞めさせられるかもしれない
 それでも、私はやるべきなのだろうか」

「あとで私たちはどうなるかわかりませんけど、ぜひそうしてあげてください」


リトアニアのカウナスに赴任した年の暮れ、杉原はひとりのユダヤ人少年ソリー・ガノールと出会います。
当時11歳だったソリ―は、ユダヤ今日のお祭りで貰った小遣いをポーランドから逃れてきた難民共催のためにすべて寄付しました。
ところが、見たかった映画のお金を残さなかったことをその後後悔していたのです。
杉原は、たまたま訪れたソリ―の叔母の店でその話を聞きました。
そして、僅かな銀貨を差し出し、ソリーに言いました。

「これで映画を見なさい
 私のことを君のおじさんだと思ってくれればいいから・・・」と。

それ以来、ソリー一家と家族ぐるみの付き合いが始まったのです。
この時、ソリーの家にはポーランドから逃げてきたユダヤ人が匿われていました。
そして彼らは杉原にこんな身の上話をしました。

ワルシャワでナチスドイツによる空襲を受け、妻と長女の命をうばわれた
私は命からがらなんとか次女と逃れてきたんだ

そうした厳しい状況を聞き、胸を打たれた杉原は、自分に何かできないかとずっと考えていました。
だから、職を失う覚悟で決めたのです。
ただ・・・その一心で・・・!!

昭和15年7月末・・・
杉原千畝は、リトアニア・カンザスの日本領事館に押し寄せるユダヤ難民を助けるため、独断で日本の通過ビザの発給を始めました。
しかし、日本領事館閉鎖まで1か月・・・時間はあまりありませんでした。

「一人でも多く助けたい!!」

そう考えていた杉原は、朝食を食べ終わるとすぐに執務室に入り、行列を成すユダヤ人一人一人と面会・・・
ビザを発給していきました。
多い日には、1日250通を超えるビザを・・・
愛用の万年筆が折れるまで書き続けました。
やがて、手だけではなく体中が痛み出したといいます。
それでも杉原は休みませんでした。

そんな中、杉原からビザを受け取った最初のユダヤ人たちが日本に着きます。
すると・・・8月16日、外務省から1通の電報が届くのです。
そこには・・・

”カウナス領事館で発給された通過ビザを持参しているものの中には、行先国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できないので、対応に苦慮している
 行先国の入国手続きを完了し、十分な旅費を持っている者でなければ通過ビザを与えないように”

しかし、外務省からの指示通りに発給規定を厳守すれば、助けられないユダヤ人たちが大勢出てしまいます。
そこで杉原は、このままビザの発給を続けるためある策を講じます。
その策とは・・・??
それは、発給規定の厳守を命じた電報を一旦無視するというものでした。
外務省への返事を後回しにし、ビザを発給し続けたのです。
そしてそこに、こんな発給条件を記したスタンプを押していきます。

”本ビザは、ウラジオストク乗船までに本邦以遠の行先国入国許可取り付け並びに乗船券予約を完了すべきことを了知する旨申告せしめ交付せり”

リトアニアを出る時には行先国の入国手続きは済んでいないが、日本に入るまでには入国許可を得させ、行先国までの船の予約を済ませるという条件付きで特別にビザを発給したと・・・。

これもまた、外務省からの電報に対する杉原の対応策の一つでした。
こうして杉原は、領事館を閉鎖するまでの12日間、条件付きビザを発給し続けます。

昭和15年8月分28日、カウナスの日本領事館を閉鎖。
その後、ようやく外務省へ返事を送ります。

”ウラジオストクで日本行きの船に乗るまでに行先国の入国許可を取り付けること、また、日本からの目的地までの乗船券の予約を済ませること、以上の実行を条件にビザの発給をしています”

条件付きでビザを発給したことを伝える杉原の電報が外務省に送られたのが、初めにもらったユダヤ人たちが日本に渡ろうとするとき・・・そのビザが偽造ではなく、杉原がだした正式なものだと証明する事にもなりました。
そして、この電報の最大のポイントは・・・”ビザを発給しています”と、現在進行形で書いたことです。
昭和15年9月3日に外務省から杉原に宛てた電報には・・・

”貴殿の如き取り扱いをなしたる避難民の後始末に窮しておる実状につき
 以後は、往電22号の通り厳重取扱いありたし”

とあります。
以後は厳守してビザを発給するようにと書かれていたのです。
この電報が届いたのは9月3日・・・すでに、8月28日には領事館を閉鎖しているので、これ以後は・・・ということは、杉原がそれまでに発給したビザはすべて有効となった事を意味するのです。

もう一つ大事なことは、当時の日本の規則では、ビザ発給に当たっては十分な旅費を持っていることが必要とされていました。
しかし、具体的な金額を示す基準がありませんでした。
この曖昧さも、杉原に有利に働きました。
杉原の発給したビザの数は、記録によると2140人分・・・通説では、杉原が救ったユダヤ人は6000人ともいわれています。
ビザは、当時は家族全員で1つのパスポートなことも見受けられます。
1通のビザが複数の人を救っていたのです。
リストを見ると、領事館を閉鎖する日が近づくにつれ、1日当たりのビザ発給数が極端に少なくなっています。
これは、ビザを求める人が増えたため、ビザ発給に専念し、数の記録をとることが出来なかったからだと思われます。
こうしたことから、リストに載っている数よりも、杉原が実際に助けたユダヤ人の数が多いと言われているのです。
この時、杉原がユダヤ人を助けていることは、ナチス・ドイツに伝わっていました。
近年の研究で、領事館の事務員グッチェが、ナチスのスパイだったことが分かっており、そこから伝わったのではと考えられています。
まさに、命を狙われてもおかしくない状況で、ユダヤ難民を救った杉原千畝・・・彼は後に、こう語っています。

「全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、ビザを拒否しても構わないのか。
 それが果たして国益に叶うことだというのか」

ユダヤ人を救うことは、必ず将来の日本のためになる・・・命のビザは、そういう強い信念のもと発給されたのです。



わかっているだけでも、2140という膨大なビザを一か月にわたって休むことなく発給し続けた杉原千畝・・・
昭和15年8月28日、リトアニア・カウナスの領事館を閉鎖。
ベルリンに向かうことになっていました。
その汽車を待つ間、市内にあるホテルメトロポリスに宿泊していたのですが、ユダヤ人たちがビザを求めてここにもやってきたのです。
しかし、ビザの発給に必要な公印は、すでにベルリンに送ってしまっていました。
そこで杉原は、ビザに準じる日本への渡航許可証を書くことに・・・
公印はなくても、自分のサインだけで書くことが出来たからです。
ホテルをたつその日まで、渡航許可証を発行します。
しかし、とうとうリトアニアを立つ日がやってきました。
すると、杉原を追って駅にまでユダヤ人たちがやってきました。
ドイツのベルリンに向かう汽車に乗った杉原は、その窓から身を乗り出すように手渡されたパスポートに次々と渡航許可証を署名し続けたといいます。
発車の汽笛が鳴ると・・・

「ゆるしてください
 もうこれ以上書くことはできません
 皆さんのご無事を祈っています」by杉原千畝

この言葉を聞いたユダヤ人の一人は・・・

「スギハラ!私たちはあなたを忘れません!
 いつか必ず再会しましょう!!」

そこにいる全てのユダヤ人が、杉原に深く感謝していました。

杉原千畝が発給したビザにより、ユダヤ人たちはウラジオストクから日本の敦賀に上陸できました。
ところが、想定外の問題が発生します。
オランダ領のキュラソーや、スリナム以外のアルゼンチンなどの中南米諸国が、ユダヤ人の入国を拒否するようになっていたのです。
これを受け、外務省はウラジオストク総領事館に対し、渡航先が中南米諸国の場合、日本に向かう船に乗せる許可を出さないように指示しました。
乗船許可を得られなければ、ユダヤ人たちはソ連によって拘束されてしまいます。
そうなれば、命の保証はありません。

ユダヤ人たちが、命の危険にさらされるのをわかって追い返すことなどできない・・・
そういって、外務省の方針に異を唱えた人物がいました。
ウラジオストク総領事代理・根井三郎です。
根井も、杉原と同じ日露協会学校でロシア語を学んだ外交官でした。
根井にとって杉原は、外務省では先輩であり、学校では同窓生でした。
当然、根井も、あの教えを大事にしていました。

”人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう”

根井は、杉原からのバトンを受け継ぎ、命のビザを繋ぐため、外務省に電報で抗議します。

「日本の領事が出したビザを行先国が中南米になっているというだけの理由で、一律に船に乗る許可を与えないのは日本が発行したビザの威信をそこなうことになり、面白くない」

根井は、外務省の指示に従わず、ビザを持つすべてのユダヤ人を受け入れ、敦賀港に向かわせたのです。

リトアニアのカウナスからドイツのベルリンについた杉原は、ドイツ大使だった来栖三郎からチェコスロバキアのプラハにある日本総領事館の領事代理を務めるよう命じられました。
外務省外交史料館には、そのプラハで杉原が発給したビザのリストが2通保管されています。
そこには、合計120人の名前が記されており、そのほとんどがユダヤ人でした。
杉原がいたプラハはこの時、ドイツの占領下にあり、ユダヤ人への弾圧が強まっていました。
その現状を見た杉原は、ユダヤ人たちを救いたいと、ここでもビザを発給していたのです。

その時、杉原にビザを発給してもらったジョン・ステシンジャーは、

「プラハの日本総領事館は、すでに長蛇の列ができていた
 中に入ると杉原に、”君は日本語が話せますか”と聞かれました
 その時私はたまたま”ハイ”という日本語を知っていたのでそう答えると、杉原は微笑みながら
 ”よろしい ビザを出しましょう”と、発給してくれました」

と言っています。
きっと杉原は、わかっていたのでしょう。
ジョンが、ハイ以外の日本語を話せないということを・・・。

プラハで発給したビザには、条件を満たしていない者も多く含まれていただろうと言われています。
この時は、杉原はリストにある80人以上の他にも多くの人を救っていたと考えられます。
ジョン・ステシンジャ―一家がプラハをたった後、プラハ郊外にゲットーが築かれ、終戦までにおよそ14万人ものユダヤ人が収容されたと言われています。
そして、そこで働けなくなった者は、アウシュビッツ強制収容所に移送。毒ガスなどで命を失いました。
もし、杉原がプラハにいなければ、ジョンは命を落としていたかもしれません。

昭和20年、第二次世界大戦が、同盟を結んだドイツ、イタリア、日本の敗戦で終結・・・
ルーマニアのブカレストで終戦を迎えた杉原は、その2年後、家族と共にシベリア鉄道で帰国。
外務省を退職すると、商社に勤め、再び海外生活を送ることとなります。
そんな杉原を探している人がいました。
杉原が発給したビザによって命を助けられたユダヤの人々です。
ところが、どんなに探しても、杉原を探し出すことはできません。
一説には、杉原は外国人が発音しやすいように”チウネ”を”センポ”と呼ばせていたといわれています。
ユダヤ人たちは”センポ・スギハラ”を探していたため見つからなかったというのです。

時は過ぎ、昭和43年、68歳になっていた杉原も、また、ユダヤ難民たちの消息が気になり調べ始めていました。
そんな中、日本にあるイスラエル大使館から連絡が入りました。
訪ねて行くと・・・そこには、杉原によって救われたユダヤ人が・・・!!
リトアニア・カウナスの日本領事館で、ビザを求める嘆願をしに来たユダヤ人たちの代表・ニシェリでした。
彼は、イスラエル大使館の参事官となっていたのです。
28年ぶりの再会に、2人は手を取り合い喜んだといいます。
それから17年が経ち、昭和60年・・・イスラエル政府は、杉原の功績をたたえ、日本人で唯一となる「諸国民の中の正義の人」として、イスラエル政府から表彰されます。

そして、その翌年、昭和61年7月31日永眠・・・86年の人生でした。

杉原は、生前こんなことを言っています。

「私のしたことは、外交官として間違った事だったかもしれない
 しかし、私には頼ってきた何千人もの人々を見殺しにすることはできなかった
 大したことをしたわけではない
 当然のことをしただけです」

そして杉原は、それが国益になると考えていました。
その通り、2011年の大震災の際、イスラエルの人々は多大な支援を日本の対して行ってくれました。
当時のイスラエル大使はこう言っています。

「これは恩返しなのです
 我々は、杉原千畝の恩を、決して忘れることはありません」

杉原が、自らの命を懸け、繋いでくれた国と国、人と人との絆・・・これもまた杉原の言っていた国益なのかもしれません。
命のビザを発給し続けた杉原千畝・・・信念を貫き、国も、人種もこえ、まさに正義のために生きた人でした。



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感想(2件)

1945年4月・・・ベルリン・・・
ドイツ第三帝国の最期の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません・・・
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、その約束を最後まで守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・
そのゆるぎない精神は、どのように培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのでしょうか?
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

ナチス・・・そしてヒトラーユーゲントの歴史は、1920年代に遡ります。
当時のドイツは、第1次世界大戦の敗戦の深い傷を負っていました。
ベルサイユ条約によって厳しい制裁を科され、領土の一部を失ったのです。
敗戦国にとって屈辱的なこの条約を改めようとした男・・・それが、アドルフ・ヒトラーでした。
1923年、クーデターに失敗したヒトラーは、選挙による政権奪取を目指します。
ナチ党は、党の軍事組織SA・・・突撃隊を始め、少年たちを選挙活動に動員しました。
若い活動員たちは組織を結成し、ヒトラーユーゲントと名乗ります。
年齢は14歳から18歳、まだ少人数でした。
1920年代のドイツでは、共産党やカトリック教会が独自に青少年団体を組織していました。
イギリスではじまったボーイスカウトを手本に作られ、子供たちにレクリエーションの機会を与えていました。
ヒトラーユーゲントも人気のあるイベントを催し、あらゆる階級の子供を参加させていました。
多くの子供たちにとって、それは夢のような時間でした。

当時、労働者階級はギリギリの生活をしていました。
青少年向けのレクリエーションは特別で、喜んで参加していたのです。
ヒトラーユーゲントと共に出かけることは、日常とは違う生活を送ることのできる素晴らしい体験でした。
ボーイスカウト同様、メンバーには制服の着用が義務づけられ、見た目には階級の違いは判りませんでした。
ナチ党と共に、ヒトラーユーゲントも急速に勢いを増していきます。
当初ヒトラーは、投票権もない彼らが自分の役に立つとは考えていませんでした。
しかし、1932年、ポツダムのスタジアムに7万の青少年が集まり、ヒトラーを盛大に迎えます。
その力の結集を見たヒトラーは、若者こそが自分の理想を実現する要だと考えます。
ヒトラーは側近に打ち明けました。

「我々は年を食った・・・しかし、この若者たちの力を借りれば新しい世界を作れる・・・!!」

経済危機に乗じて政権を奪取!!
1933年、ヒトラーはついに首相となります。
民主主義は葬られ、ナチ党以外の政党は活動を禁止させられます。
ヒトラーは、最高指導者に全権をゆだねられる民族主義国家をつくることを目指します。
900万人のドイツの子供達を狂信的なナチ党員に育て上げるために、ヒトラーは、脅迫と誘惑を使い分けます。
まず脅迫・・・
対立する政党の全ての青少年組織は解体され、ヒトラーユーゲントに統合されました。
次は誘惑です。
少年たちが一年で一番楽しみにしているサマーキャンプ・・・ヒトラーユーゲントはこのイベントを独占したのです。
親の目の届かない環境は、ナチスのイデオロギー教育に最適でした。
野外活動を通じて、幸せな将来が約束されていると子供たちに思い込ませます。
多くの子供達は、これまでにない楽しい経験をしました。
ユーゲントのメンバーの数は、1年で10万人から200万人以上に爆発的に増えました。
ユダヤ人や野党の党員でない限り、第三帝国の国民は快適な人生を送れたのです。
ユーゲントには女子も男子もいましたが、ヒトラーが計画を成し遂げるためには男子が重要でした。
将来、帝国の兵士となる男子には、特別なプログラムが用意されました。
本格的な戦争ゲームです。
少年たちは、敵の陣地にコンパスと地図をもって潜入し、偽装工作を続けながら標的に接近します。
アドベンチャーゲームは、少年たちの心を掻き立てました。

まるで、ドイツ版西部劇のような宣伝映画も作られました。
映画は劇場公開され、新しいメンバーの入団を促しました。

「ドイツの若き男たちよ!今一度野獣となり、美しさを求める軟弱より、無学な野獣の方がいいのだ!!」

腕っぷしが何より大事です。
ひ弱な子供は笑い者にされ、屈辱を受けました。
ナチスの理念の下では、強い者だけが優遇され、期待に応えられない人間は落伍者として扱われたのです。
いじめの余りのひどさに、若者の中には精神を病み、自殺を図るものまで現れました。
しかし、第三帝国では都合の悪い出来事は覆い隠され、ヒトラーユーゲントは全員勇猛果敢な戦士でした。
徐々に教会や様々な団体が運営する青少年組織は、ヒトラーユーゲントに吸収されていきました。
1937年までヒトラーユーゲントのへの加入は、法律で義務付けられます。
子供達は、幼いころから名誉あるメンバーとして、街頭のパレード行事に招かれました。
行進の練習をすることで、団結したのです。
その足並み同様、少年たちの考え方も統一されていきます。
大人たちに褒め称えられ、政権の宣伝の道具とされた彼らは、高揚感に包まれていきます。
大規模集会では、イベントが最高潮に達すると総統ヒトラーが登場することがありました。
第三帝国の将来を担う者と、その創始者との対面です。
若者たちは我を忘れ、ヒトラーをスターのように褒め称えます。

「我が若きドイツ人たちよ
 君たちがドイツの将来を保証する

 君たちは我々の血であり、肉であり、魂だ
 そして、我が国民の将来である

 君たちの中にある国の未来が、称賛されんことを!!」byヒトラー

ナチスのプロパガンダは、ドイツの若者に、君たちは成功し、強くなり、幸せな暮らしをすると思い込ませました。
若者は喜んで、その魔法にかかりました。
1936年には、500万人以上の若者が、ヒトラーに傾倒し、大きな歌声を響かせました。
国民の洗脳を徹底するため、日常生活にもナチス的敬礼が組み込まれます。
一日に何十回も「ハイルヒットラー」を繰り返す中で、ヒトラーユーゲントは、国家社会主義を刷り込まれました。
イデオロギーの強制は、さらに厳しさを増します。
ナチスは子供と接する大人全てに監視の目を・・・!!
協会の活動は、礼拝だけが許され、サマーキャンプの間に親の影響が取り除かれました。
ナチスは、学校の教育課程も変えました。
子供達は、ユダヤ人と共産主義者を憎むように教えられます。
民族を差別する法律も制定されます。
愛国的な歌は、徐々に憎しみの歌に代わりました。
何度も歌ったため、今でも歌えるといいます。
ひとたび憎しみに感染すると、行動に移すのは簡単です。
ヒトラーユーゲントは、親衛隊SSや、突撃隊SAと共に、ユダヤ排斥運動を大々的に展開していきます。

1936年までに、ドイツは不況から脱します。
ヒトラーは、軍備拡張と、大規模な公共事業を行うことで失業率を低下させ、ドイツをヨーロッパ内の強国に押し上げます。
1938年には、対外攻勢を加速させ、周辺の国や地域を次々とドイツに併合!!
戦争の足音が聞こえてきます。
ナチスにとって、将来の兵士となるヒトラーユーゲントはより重要になりました。
ヒトラーは、自分の望む戦士に仕立て上げるために彼らを厳しく鍛えようと考えます。
スポーツや遊びに加えて、若者たちは本格的な軍事訓練を始めます。
競争心を煽られ、16歳の少年が8キロのリュックを背負って20キロ以上の道程を歩きます。
恐怖心を克服し、戦士にならなければなりません。
ヒトラーユーゲントでは、夢で見た大人の世界のあらゆるものに手が届きます。
射撃訓練も行います。
海軍への入隊に備えた海上訓練・・・空軍の入隊を夢見る少年には、グライダーを使った飛行訓練を、こうした大きすぎるおもちゃを使ってヒトラーユーゲントの子供達は真剣な戦争ごっこをしました。
そして徹底させるために、宣誓をさせました。
年齢を問わず、帝国と総統に忠誠を誓います。

10歳が唱える宣誓・・・

「赤い血の旗の前で私は自分のエネルギーと力の全てを、我が国の救世主アドルフ・ヒトラーに捧げることを誓います。
 総統のためならば、命を捨てる意思と覚悟があります。
少年たちは動じることなく、この言葉を受け入れました。

ヒトラーユーゲントは、恐るべき大組織となります。
1929年に1万7000人だった団員の数は、10年後にはドイツの全ての青少年の98%にあたる800万人以上に達していました。
この頃、ヒトラーユーゲントへの参加は義務となっていましたが、招集に応じない家族には重い罰金が科され、逮捕されることもありました。
徴兵の年齢に達した若者は、国防軍やSS親衛隊に競って入隊しました。
1939年9月1日、戦争が勃発!!
ドイツは、先に攻撃されたという嘘を口実にポーランドに侵攻。
その進軍は、電光石火の早業でした。

ポーランド侵攻から8か月後の1940年5月、ドイツは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻します。
ドイツ国民にとって、ヒトラーは史上もっとも偉大な戦略家でした。
ヒトラーユーゲントは、ドイツ軍の進軍ぶりを信じられない思いで見ていました。
ドイツ国防軍は、フランスとの戦いを6週間で決着させ、勝利しました。
ヒトラーは攻勢を続けます。
1941年6月には、ソビエトに対して奇襲を仕掛けました。
長年の訓練が実を結び、ヒトラーユーゲント育ちの若い兵士たちが至る所で立派な戦士であることを証明します。
前線から戻ると、将来の兵士たちへ英雄となった体験を語ります。

ドイツ軍が東部戦線で進撃を続ける中、後方ではヒトラーユーゲント育ちのメンバーの多い特殊部隊アインザッツグルッペンに、ユダヤ人殺害の任務が与えられました。

前線の戦いが激しさを増す中、ヒトラーユーゲントには体を鍛える授業や、イデオロギー教育が続けられていました。
民族的優位についての授業では、頭蓋骨を奥行き、幅、高さの比率や、髪の毛と目の色が調べられ、ナチスの科学者が決めた基準で分類されます。

1942年の暮れには、ドイツは劣勢となり北アフリカ戦線や東部戦線の戦いは膠着状態となります。
成人男性の殆どが戦場に送られたドイツでは、ヒトラーユーゲントが前線の活動に動員されました。
14歳以上の少年は、一軒一軒家を回って、古着や金属などを集めました。
郵便配達、路面電車の運転、道路や線路の工事、収穫などの畑仕事に駆り出されたメンバーもしました。
戦時の経済を支えるうえで、若者の力は欠かせなくなりました。
プロパガンダ映像は、青少年の強い意志を掲げますが、実際には辛い思いをし、疑問を抱く者が続出します。
工場や鉱山での社会奉仕活動は、強制労働に近いものがありました。

1943年の冬、ヒトラーユーゲントは想定外の事態に直面しました。
劣った人間と呼ぶように教えられてきたロシア人が、ドイツが誇る屈強な軍人たちに反撃を始めたと伝わったのです。
スターリングラードの攻防戦で、ドイツ側は数十万の兵力を失いました。
モスクワ占領も、赤の広場の行進も、もはや夢物語です。

1943年になると、アメリカやイギリスは、地上部隊の損失を最小限に止めるために、大規模な空襲をドイツの工業施設や都市で繰り返しました。
戦争へ行きたいと願っていたヒトラーユーゲントのもとへ、戦争がやってきました。
ドイツは大きな打撃を受けます。
瓦礫の中で、ユーゲントは即席の消防隊員や救急隊員となります。
10年以上にわたってナチスに洗脳され、明るい未来を約束されたヒトラーユーゲント・・・
しかし、彼らは今、連合軍の空襲を受け、悪夢のただ中にいました。
そして、事態はさらに悪化・・・ドイツが敗戦に向かう中、完全な崩壊に至るまで、本土防衛が、この青少年たちに押し付けられたのです。


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炎と闇の帝国―ゲッベルスとその妻マクダ

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1944年の夏、ベルリン郊外にとある邸宅にエレガントな母親が帰宅しました。
その立ち居振る舞いはどこか芝居じみています。
この女性こそ、第三帝国のファースト・レディー「マクダ・ゲッベルス」です。
ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの妻でアドルフ・ヒトラーとも親しいマクダ・ゲッペルス・・・。
4歳から12歳まで6人の子を愛する母親でもありました。
しかし、マクダは後の世に違う形で記憶されることとなります。

8か月後ベルリンは廃墟と化し、ソビエト軍はヒトラーの地下壕を捜索・・・
瓦礫の中なら現れたのはあまりにもむごたらしい光景でした。
白い服に身を包んだ6人の子の遺体・・・傍らには焼け焦げた二つの遺体・・・
連合国軍は、この二つの遺体をマクダ・ゲッベルスとヨーゼフ・ゲッベルスと確認しました。
ここで何が起きたのか・・・??
唯一の手掛かりは、マクダが前の夫との間にもうけた長男・ハラルトへの手紙でした。

最愛の息子へ・・・
私たちはヒトラー総統の地下壕にいます。
私たち家族が誇り高く一生を終えるにはこうするしかないのです。
総統亡き後の世界は生きるに値しないでしょう。
あなたの妹や弟たちをそんな世界によこすわけにはいきません。
夕べ総統から金色の党員指輪をいただき、光栄に思いました。
この上もなく、深い愛情をあなたに・・・。
母より。

第三帝国が崩壊した時、最高幹部の妻で自決したのはマクダだけでした。
しかし、彼女の経歴にはナチスの狂気の象徴となるようなことはありませんでした。
どうして犯罪的な政治組織に加わったのでしょうか?
何がイデオロギーの名のもと、我が子に手をかけさせたのでしょうか?
それこそ、理性を失うほど何かにのめり込むこと・・・。

1920年マクダは、ミュンヘンからベルリンに向かう列車に乗っていました。
ベルギーで育ち、ドイツの寄宿学校に通う20歳・・・裕福な建築家とその家政婦との間に私生児として生まれました。
品の良い40代の紳士が向かいに座ります。
ドイツでも指折りの実業家で大富豪・・・ギュンター・クヴァントでした。
戦後、クヴァントはこう語っています。

「目の前に、類まれな美女が座っていました。
 魅力的な青い瞳に、美しい金髪・・・私たちは演劇など若い女性が好む話をしました。」

マクダは20歳年上のクヴァントと結婚します。
息子も生まれ、ぜいたくな暮らしを続けます。
が、9年後、生活に息苦しさを感じ離婚。
それでも慰謝料によって何不自由なく暮らします。
激動の時代に、パーティーに明け暮れます。
1929年にドイツを襲った世界恐慌もどこ吹く風、30歳を前に暇を持て余していました。
美術史を学ぼうか?弁護士になろうか?託児所で働こうか?
しかし、何もかも退屈でした。

そんなマクダに退屈から逃れるきっかけが・・・
1930年、マクダ29歳・・・極右勢力が町を席巻していました。
2年前の選挙でナチ党が獲得した議席は僅か3%・・・長らくナチ党の支持者は世界からドロップアウトしたインテリで、ヨーゼフ・ゲッベルスもその一人でした。
それが様変わりしようとしています。
失業問題、汚職、共産主義の台頭・・・あらゆることが追い風となり、ナチスは上流階級に食い込んでいきました。

あるパーティーにマクダが出席しましたが・・・
マクダはナチスに入党していたホーエンツォレルン家の王子が入党を勧めます。
好奇心から翌週には、ベルリンスポーツ宮殿に足を運んでいました。
1930年9月の選挙に向け、ナチ党が大集会を行っていたのです。

その夜、聴衆の前に立ったのは、ヒトラーに次ぐアジテーター、ヨーゼフ・ゲッベルスでした。
彼の虜になったマクダ。。。
翌日、マクダは党本部に行き入党を志願します。
数か国語を話し教養もあるマクダは、すぐに秘書部門を任されます。
正式にナチ党員となったのは9月1日・・・驚くべき早さの転進でした。
政治に関心のなかった特権階級の女性がどうして短期間で活動家になったのでしょうか?
冒険、演説だけが理由でしょうか??

マクダには父親がいませんでした。
実の父親は彼女をすぐには認知せず、母親は雇い主と関係を持ったのですが、家柄のせいか、なかなか結婚してもらえませんでした。
その後、マクダはベルギーの寄宿舎に入れられます。
言葉が変わり、環境が変わり・・・ものの見方が一変します。
マクダはイデオロギーだけでなく、拠り所を見出しました。
世界を支配する優れた人種として・・・。

党本部で、マクダはナチスの思想を広める人物と出会います。
演説をしていたヨーゼフ・ゲッベルスです。
病弱で足の悪い作家崩れ・・・しかし、今やヒトラーの宣伝活動を行う大物でした。
9月の選挙でナチ党は、18%の票を獲得しました。
数か月後、二人は恋愛関係に・・・。

マクダは強くナチスとゲッベルスに惹かれていました。
ドイツ国内で大きくなるナチスの魅力・・・
そしてゲッベルスの魅力は、インテリで物分かりのいい会話の面白い、楽しい男性でした。
ゲッベルスは、やっと見つけた体裁のいい恋人に満足していました。
マクダは、上流階級の扉を開いてくれる女性でした。

「マクダとの昼食・・・彼女は戦災で心が広い。
 ”我が闘争”を彼女に送る。
 そう、これは愛だ。
 マクダは感激していた。
 午後は哲学や思想を話し合った。
 私たちは素晴らしいカップルになるだろう。」

1931年9月、ゲッベルスはマクダをナチスの指導者に紹介します。

マクダにとってヒトラーとの面会は、大きな転機でした。
ゲッベルスは周到に準備して、マクダを次の段階に引き上げました。
一人の活動家を、狂信的な信者に変えたのです。
ヒトラーは優しく親切に接することで、マクダの心を捕らえます。
相手の木をひくのが得意で、頭の中を支配しました。

ヨーゼフ・ゲッベルスの伴侶であるマクダは、ヒトラーの取り巻きの一員となります。
マクダは頻繁にヒトラーを夕食に招きました。
マクダの豪華な住まいは、ヒトラーが公務を行う本部となります。
権力を握る最終段階で会議を重ねます。
マクダも華やかなパーティーを開きました。
1932年の選挙で、ナチ党はついに議会第一党となります。
マクダのサロンには、新進の政党を見定めようと上級の人が集まりました。
ヒトラーは、上流階級を取り込もうと、何年も動いていました。
世間はナチスのことを、粗野な左翼集団ととらえていました。
そんなナチスの幹部が、上流階級の女性・・・しかも、大実業家のギュンター・クヴァントの元妻と深い関係にあるということは、大きな宣伝となりました。
ゲッベルスがマクダに惹かれたのは当然でした。
マクダの存在は、ナチスは労働者階級のチンピラというイメージを払拭するのにうってつけでした。
保守政党は、共産主義に対抗するためナチ党との連携を模索し・・・資本家と交流のあるマクダは、この二つを結びつける重要人物でした。

ヒトラーは、マクダの魅力にひかれます。
自分に忠実でありながら対等に話せる側近で唯一の女性・・・彼女に好意を持ちました。
ヒトラーは友人に、「マクダは私の男性的本能の対極にある女性かも知れない。」と語っています。
ゲッベルスは嫉妬します。
マクダは総統が相手だと下手に出る・・・それが私を苦しめる・・・。
ヒトラーはゲッベルスと話をします。
総統は、「マクダを愛しているが、私の幸せをねたみはしない。マクダは君の支えとなるだろう。」
そう言った時、総統の目はうるんでいた・・・哀れなヒトラーマクダは私の物だ・・・!!

ゲッベルスと結婚して私の傍にいなさい・・・そうヒトラーは言いました。
結婚式は黒いドレス・・・そして介添え人はヒトラー・・・!!
マクダは・・・
「夫への愛より、ヒトラー総統への愛の方が強いの。
 総統への想いに生涯を捧げたい。
 でも、総統は最早女性を愛することはなく、唯一愛するのはドイツ国家なの。」
ヒトラーは愛と結婚と国家の狭間で、女性との親密な関係を求めるも、結婚は約束出来ないという立場にありました。
自らを歴史的使命に身を捧げ、そこに女性の入る隙は無い・・・
体裁を考えて、マクダはゲッベルスと結婚した方がいいと、ヒトラーは考えたのです。

1932年11月の選挙で・・・
「私たちが負ければ共産主義が支配し、私はクヴァントからもらった財産を失うわ。
 でも、勝ったら、私はドイツで最も権力のある女性になる・・・!!」

ここに、マクダが入党した真の理由が伺えます。
ナチスへの心酔も事実ですが、限りない野心がありました。
1933年1月・・・ナチ党と連携する保守勢力は、国民から支持を集めるヒトラーを首相に・・・!!
ゲッベルスも国民啓蒙宣伝大臣に・・・!!
「マクダは名誉だと大喜びしている」
その夜・・・松明を掲げた大行進を余所に、ヒトラーはベルリンにある国立歌劇場にいました。
傍らにはその夜の同伴者・・・エレガントなマクダ・ゲッベルスがいました。

政権運営には人々の心をつかむことが必要でした。
ナチスは、シンボルとなる女性がいないという欠点をわかっていました。
相応しいのはマクダしかいません・・・弁が立ち、上流階級に身を置き、魅力にあふれていて・・・完璧でした。
マクダに白羽の矢が立ちました。
長くドイツ国民の目から隠されたヒトラーの愛人エバ・ブラウンではありません。

活躍の場を求めていたマクダは、新しい役に没頭します。
ドイツファッション協会の代表に就任、チャリティーイベント開催。
1933年ドイツ初の母の日・・・マクダはラジオで演説します。
ドイツで絶大な影響力を持ったマクダ・・・
しかし、マクダには、知られれば簡単に失脚しかねない秘密がありました。
1933年5月10日、夫ゲッベルスはユダヤ人による書物を焼き払います。
ゲッベルスは極端なまでの反ユダヤ主義で、ナチズムの中核をなすこの思想を強く推し進めていました。
彼は、ユダヤ人を排斥する法律を制定しようと躍起になっていました。
同じ日の夜・・・マクダと夫との間にある出来事が・・・
マクダの過去のこと・・・若い頃の彼女は無分別だった・・・と、ゲッベルス。
その日の朝、マクダと10年もあっていなかった男性が電話で話そうとしていました。
ベルリンを訪れていたその男性は、ユダヤ人のヴィクトル・アルロゾロフ・・・パレスチナのユダヤ人国家建設運動のリーダーです。
10年前、マクダはアルロゾロフと熱烈な恋愛をしていたのです。
当時から自己実現を求めていたマクダは、イスラエル建国運動に賛同し、一緒にパレスチナに行く覚悟をしていました。
そのためにヘブライ語まで勉強していました。
その頃マクダは、フリートレンダーというユダヤ系の姓を名乗っていました。
アルロゾロフはマクダを同胞と思ったのです。
しかし、ドイツ人だった・・・。
マクダの母親の再婚相手はユダヤ人でした。
養父フリートレンダーは愛情をもってマクダを育て、彼女もその姓を名乗りました。
アルロゾロフはマクダに会えないまま、ベルリンを去り、1か月後・・・テルアビブで暗殺されます。
おそらく、ゲッベルスの手先の仕業でしょう。
暴露されたならナチスにとって大打撃だったからです。

マクダは、養父フリートレンダーから助けを求められた際も、耳を貸しませんでした。
彼は、ある日ゲッベルスのオフィスに呼び出され、行方不明となりました。
マクダは新しい政権で、政治的な輝かしいキャリアを築きたいと考えていました。
自分にとって邪魔な人間を排除するぐらい簡単なことでした。
マクダは、育ての親が強制収容所で死ぬことを黙認しました。
狂信的だったのか・・・権力に飢えていたのか・・・
マクダの姿はナチスの幹部そのものでした。
どこまでも利己的で、ナチスの政治思想を徹底するためなら手段を選びませんでした。

ファーストレディーの地位を守ったマクダ・・・
次の望みは、第三帝国で主要な政治的役割を果たすこと・・・
しかし、女性の役割について、ナチスは凝り固まっていました。

「歴史を作るのは男性です。
 しかし、その男性の子供を産むのは女性であります。」

ドイツでは1919年に女性の参政権が認められましたが、新政権は育児や出産を推奨しました。
マクダも冷害ではなく、政治的にお飾りでした。
1934年ヒトラーはゲッベルス夫妻に事の白黒をはっきりさせます。
女性には政治をさせない・・・
マクダは帝国の母になるという役割を受け入れます。
ナチスの人口増加政策の広告塔です。
夫妻はベルリン郊外のボーゲン湖のほとりに別荘を構え、マクダは次々と身籠り、9年間で6人の子を授かりました。
夫妻は子煩悩でした。
ナチスの凶悪的なイメージとは離れ、暴力もなく、食事中の会話もできました。
1936年から44年まで、夫妻は毎年家族の記録を撮影しています。
ゲッベルスの誕生日10月29日にその映像を見るのがしきたりでした。
1937年も同様でした。
これらはホームムービーではなく、宣伝省の職員に家族の映像をとらせたものです。
ゲッベルス家の映像は、ニュース映画として放映されました。
その数は年間35回にも及びました。

この映画を通して、自分達が理想とする生活を知ることのできた人々・・・。
ナチスにおいてはイメージが全てで、ヒトラーでさえ、この家族よりも国民の目に触れることはありませんでした。
マクダの6人の子供は第三帝国の子供で、子だくさんで豊かなゲルマン民族の象徴なのです。
マクダの子供たちの笑顔は、犯罪的政策のプロパガンダに利用されます。
精神障碍者を安楽死させる政策です。
人種を純化させるために・・・!!
ファーストレディーで帝国の母であるマクダは、誰よりもヒトラーに忠実です。
マクダは家族を連れてヒトラーを訪問しましたが、そこにはカメラマンが同行していました。
ヒトラーが独身だからといって一人だけの写真ばかりを国民に見せることはできません。
ヒトラーはドイツ国民の父であるためにドイツの父だとアピールしなければなりません。
1938年頃、これらの写真は有効なプロパガンダとなりました。
ヒトラーは自分から戦争を仕掛けようともくろみながら、世間には平和を愛する男だと広めたのです。

嘘や虚構は、ナチスでは当たり前でした。
幸せなゲッベルス家も虚構でした。
マクダの身体は立て続けの出産で弱っていました。
ゲッベルスは浮気癖がひどくなり、家庭内暴力へ・・・!!
そんな中、マクダに屈辱的出来事が・・・!!
ゲッベルスが若い女優の愛人と公然と一緒にいるようになったのです。
マクダは離婚を望みます。
そして、ヒトラーの夏の別荘を訪ねました。
二人が別れることなど、ヒトラーに許されるわけがありません。
そこで彼は、夫婦関係が破たんしていても離婚しないようにと念を押します。
ヒトラーは強引に決着をつけます。
女優の愛人を追放し、ゲッベルスを呼びつけマクダの作った契約書に同意させます。
その契約書には、今後ゲッベルスは浮気をしないこと、その女優と会わないこと、さらにマクダの母親に優しく接することも書かれていました。
マクダの華やかなキャリアも、ゲッベルスの政治生命もすべてが終わるところを、ヒトラーは政治の力学に従わせたのです。
ベルリンに戻るとヒトラーは、ポーランド侵攻に着手します。
1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまりました。
ボーゲン湖畔の別荘・・・子供たちの遊びも戦争が反映されていきます。
マクダの人生は再び軌道に乗り始めました。
彼女は強い愛国心の持ち主で、兵士の子供たちにプレゼントを贈るだけでは満足せずに、看護婦の育成も始めます。
子供達を伴って、ナチス親衛隊士官たちももてなします。
このナチス親衛隊・・・SSドクロ師団は、東部戦線で大虐殺を行いました。

マクダと前の夫との子・ハラルトも活躍が認められ勲章を受けました。
マクダはハラルトを特別扱いすることなく、前線に送っていました。
しかし、ハラルトは、1943年負傷。
マクダは心配のあまり体調を崩します。
戦争を思い知らされました。
優勢だったドイツ軍は勢いを失い、ソビエト軍が反攻に転じ、連合軍がイタリアに上陸。
1943年2月、マクダは子供達とスポーツ宮殿に行き、夫の演説を聞きます。
そこは13年前、全てが始まった場所でした。
その帰り道・・・連合国軍の爆撃で破壊されたベルリンの惨状を目の当たりにします。

戦争の英雄・・・ロンメル元帥の訪問・・・心のうちを隠してもてなします。
絶え間ない爆撃を避け、家族は別荘に籠っていました。
マクダは孤独でした。
厳しい戦況の中、夫やヒトラーとはめったに会えなくなりました。
ゲッベルスはその演説とは裏腹に、この戦争には勝てないとマクダに言っていました。

「総統は国民との約束を一つも実現できなかったのに、自分を正しいと思っている。
 忠告を受け入れず、耳当たりのいい言葉ばかり聞いて・・・
 最悪の結果に終わるでしょう。
 年を取り、疲れ果てた私に道はない。
 あるとすれば二つ・・・
 戦争に勝てば夫は更なる権力を手にし、みずぼらしい私のことを捨てるでしょう。
 もし負けても、私には死しか残されていない。」

1944年の夏・・・ゲッペルス一家の最後の映画・・・
敗戦が濃厚になり、ドイツは残虐行為を加速させました。
ゲッベルスはそれを最も推進した人間です。
この映画が撮られた夏の間に、30万人のユダヤ系ハンガリー人がガス室に送られました。
うち8万人は子供・・・

「夫の話すことがあまりにも残酷で、もう受け入れられない・・・
 私の良心は押しつぶされそうなのに、それを誰にも話せないの。
 夫は私を頼って何でもぶちまける・・・
 彼自身も限界なの。」

マクダは人生に失敗しました。
思想においても、結婚においても、そしてヒトラーへの熱狂も・・・
しかし、ナチスの幹部たちが逃亡する中、ベルリンに残ることを選びます。

「戦争に負けたらユダヤ人が戻ってくる・・・
 妻と話し合い、私たちは自決することにした。」

マクダはヨーゼフ・ゲッベルスの妻です。
夫がナチ政権の犯罪に深く関与している以上、自分も同罪だとわかっていました。
忠実なナチ党員として潔く戦い続けること・・・
ヒトラーに寄り添い、ヒトラーと共に死ぬこと・・・!!
1945年戦争はついにゲッベルス一家を追い込みます。
町にはソビエト軍の侵攻から逃れてきた人々が溢れていました。
ドイツ降伏の3か月前の2月1日、母に決心を伝えます。
ヒトラーは夫を道連れに死ぬ、夫は私と子供を道連れに死ぬ・・・全員死ぬ運命なのよ。
ゲッベルスも決意をヒトラーに伝えます。
祭祀とベルリンに留まることを決意したこと、子供たちを誰にも託さないこと・・・。
総統は、「それは感心だが正しい態度とは思わない」といいました。
ヒトラーでさえマクダの決断に反対でした。
友人たちはマクダの身を案じ、連合国側に脱出させようとします。
元夫ギュンター・クヴァントも、スイスへの亡命を提案し、せめて子供達だけでも面倒を見ると言いました。
しかし、マクダは聞く耳を持ちません。

1945年3月、マクダは親友と最後の会話をします。
「こんなにかわいい子たちを残していけないわ。
 夫はドイツ史上最悪の戦犯と見なされるでしょう。
 それが一生、あの子たちについて回り、蔑まれることになる・・・
 そんな重荷を背負わせることはできない。
 私が関わっていた政権は、言葉にできないほどの残虐なことをしてきたわ。
 世界中から報復されるでしょう。
 あの子たちを連れて行くしかないわ。
 絶対に・・・!!」

1945年4月22日、ソビエト軍が迫る中、マクダは6人の子供を連れて夫の待つ総統官邸地下壕へ向かいます。
マクダは長い間、子供たちを国民に晒し、国家のシンボルに仕立て上げてきました。
第三帝国の滅亡と共に、子供達も消えるべきだと考えたのかもしれません。

マクダは自決するしかない・・・最期まで自分を演じ切らなければと思っていました。
子供を道連れに自決することでヒトラーへの完全なる忠誠を示し、その親しい友人として名を刻もうとしたのです。
地下壕へと向かう時、マクダは子供たちに西部開拓への冒険に出かけようと出発しました。
息子は特別な服を着て、家政婦が同行しました。
長女のヘルガだけは理解していました。
他の子たちは、楽し気に相当の地下壕に行くとはしゃいでいました。
爆撃が続く中、不快な地下壕で、家族は一週間ヒトラーと忠実な部下たちと過ごします。
それまで大量殺戮に手を染めてきた男たちまでもがマクダに脱出を促しました。
4月30日、ヒトラーは自らの命を絶ちます。
その直前彼は、党の紋章入りの指輪をマクダに送ります。
翌日、マクダは眠っている子供達の口に青酸カリのカプセルを滑り込ませます。
そして、夫ヨーゼフ・ゲッベルスと共に第三帝国のファースト・レディはすべてに終止符を打ちました。

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1941年12月8日真珠湾攻撃・・・それより8年前の1933年2月24日。
スイス・ジュネーブでの国際連盟臨時総会で・・・日本が戦争への分岐点となる演説がありました。
日本首席全権は松岡洋右。

「極東の平和を保障し、世界平和を維持するために、日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

この演説から一か月後、日本は国際連盟を脱退!!
世界から孤立する道を進んでいきます。

国際連盟は、第一次世界大戦後・・・1920年に作られ・・・設立当時・加盟42か国、常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本でした。後にドイツ、ソビエトも加盟しますが、アメリカはいませんでした。
第28代アメリカ大統領W・ウィルソンが提唱したにも関わらず・・・。
アメリカの議会が反対し、参加しないままの出発となったのです。

1914年に第一次世界大戦に参戦した日本・・・イギリスとの同盟を理由にドイツに宣戦布告。
当時ドイツが利権を持っていた山東省に攻め込み、獲得ました。
マリアナ諸島・マーシャル諸島・パラオ諸島・カロリン諸島を委任統治することになりました。

どうして脱退したのでしょうか?

当時日本は、中国にある満州・関東州に派遣された日本陸軍部隊が関東軍。
1931年9月18日に日本が起こしたといわれている柳条湖事件が起きました。
これをきっかけに、満州事変・・・政府の方針を無視して軍事行動を進めていき・・・満州国を作りました。

世界大恐慌のあおりを受けて、深刻な不況だったので、働き口、資源を求めてたくさんの日本の人々が満州に渡っていきました。そしてソビエトの恐怖・・・。

1932年3月・・・作った満州国は、日本の傀儡政権でした。
中国国民党政府は、侵略と・・・国際連盟に提訴します。
これを受けリットン卿を中心とするリットン調査団がやってきます。
「日本による占領は、自己防衛だと正当化されるべきではない。
 日本が作った新政府は、満州が自ら決めたことではない。」
1933年2月24日国際連盟臨時総会が行われ・・・
日本は満州から撤退するべきだ!!ということになります。

”満州国を世界に認めさせるため!”にやってきたのが日本首席全権・松岡洋右でした。

「東洋における問題の根本的原因は、中国の無政府状態である。
 真剣に考えて欲しい。
 日本と中国は友人であり、両国の繁栄のために協力し合うべきなのだ。
 満州撤退の報告書を国際連盟が受け入れれば、日中両国を救うことができない。」

中国政府では、満州を維持することができないと、平和維持のために行っていると46分に渡り演説します。が・・・満州国撤退の対日勧告案は、賛成42に対し反対1・棄権1・・・と、圧倒的に否定されてしまいます。

松岡は・・・「日本は断じてこの勧告の受け入れを拒否する。」

と、会議場を去ります。

この演説は、日本国内の映画ニュースで繰り返し上映され、国民に大歓迎されるのです。
新聞も松岡を英雄視します。
しかし・・・本人は帰国し・・・期待に添えなかったことをお詫びしています。
松岡の使命は、満州国を世界に認めさせたうえでの国際連盟にも残ることだったからです。
どちらもできなかったのです。


1937年盧溝橋事件が起こります。
北京郊外の盧溝橋で、演習中の日本軍に何者かが発砲したとされる事件ですが・・・発端の実情は不明ですが・・・。
これで中国全土に戦争が広まっていきます。
アメリカは、日本に中国からの撤退を強く呼びかけていました。
1940年第二次近衛文麿内閣で外務大臣として就任した松岡洋右。。。
ドイツ・イタリアと三国同盟を結びます。
ヨーロッパに向かうシベリア鉄道・・・モスクワでスターリンに会い、ベルリンでヒトラーに会い、ローマではムッソリーニに会います。
そして・・・日本に帰る前にモスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を結びます。
日独伊ソ連が手を組むことを考えていて・・・アメリカとの戦争はしたくない・・・というのが本音でした。

1941年7月にはアメリカと直接交渉できずに外務大臣を退任。。。病気療養に入り・・・日米開戦を病床で知るのでした。

「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だった。」

1941年6月22日ドイツがソビエトに侵攻!!
4か国でアメリカに対抗しようと思っていた松岡の思惑は挫折してしまったのです。
1941年12月8日、ハワイ・真珠湾攻撃!!
開戦当時は、日本が優勢でした。
しかし、戦況は急速に悪化し、日本は後退を余儀なくされます。
そして・・・1943年11月21日明治神宮外苑競技場にて”出陣学徒壮行会”が行われました。
敗戦の色が濃くなる中で、大学生が戦争に送られていきます。
集まったのは2万5000人。。。総理大臣・東条英機が演説します。

「私は、衷心より諸君の門出をお祝い申し上げる次第です。
 敵・米英におきましても諸君と同じく、若い学徒が戦場に立っているのであります。」

東大生の答辞は・・・
「生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂・・・」

その後、13万人の学生たちが戦場へと送られていきました。 
1945年8月日本は無条件降伏しますが、この時までの日本人犠牲者は、310万人にも及びました。
敗戦後松岡洋右は、A級戦犯として逮捕されます。
しかし、裁判では英語で無罪を主張し、1946年66歳の生涯を閉じるのでした。


ドイツでは・・・アドルフ・ヒトラー。
ヒトラーは、当時のドイツ国民に指示されて独裁者に上り詰めました。
「大衆の多くは無知で愚かである
 嘘を大声で、十分に時間を費やして語れば人はそれを信じる」
ヒトラーが行動を起こしたのは、ドイツのミュンヘンでした。
類まれなる演説で、人々を魅了していきます。

ヒトラーが25歳の時、運命の出来事が・・・第一次世界大戦勃発!!
オーストリア出身のヒトラーでしたが、ドイツに志願兵として参加します。
前線で戦うも敗戦し、ドイツは巨額の賠償金を支払わなければならなくなりました。
国内は極度のインフレ、大不況となって失業者であふれます。
国が崩壊していきます・・・ドイツ民族の栄光を取り戻す!!

ホフブライハウス・・・1589年に宮廷の醸造所として設立されたこの場所、ビアホールで、1920年反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党。。。ナチスが結成されます。

「我々が再び立ち上がるためには天才的な独裁者が必要である!!」
「ユダヤ人は嘘つきで寄生虫だ!!」

結成当初、党員は7人でした。

1923年ナチスが政権奪取を試みるミュンヘン一揆が起こります。
ビアホールのビュルガー・ブロイケラーで、武力蜂起したのです。
政府高官を人質にしたものの、警官隊によって鎮圧。。。逮捕・・・クーデターは失敗に終わりました。

8か月間のランツベルク刑務所で、「我が闘争」を口述筆記、ここで、自分の考え方、政策の基本をまとめます。
我が闘争には、アーリア人至上主義、共産主義の打倒、ユダヤ人排斥などが書かれて・・・後にナチスのバイブルとなり・・・ドイツの家庭には、必ず1冊ありました。
1929年世界大恐慌が起こります。
失業者が600万人となったドイツ・・・これが追い風となります。
新しいドイツが、民衆の心をとらえていきます。

ヒトラーは暴力ではなく、選挙で政権を握ろうとします。
そこには革新的な戦略が・・・
大量のビラをまき、街中に自分の顔や鍵十字のポスターを張り、巧みなプロパガンダで民衆を掌握していきます。
大衆の心を掴み・・・1933年1月、ついに首相に任命されます。

ヒトラーの野望・・・それは、ドイツ帝国の復活、反ユダヤ主義、共産主義打倒でした。

しかし、経済政策も魅力的でした。
大規模な公共事業・・・アウトバーンの建設によって、失業者は600万人から50万人に減少、フォルクスワーゲン
(国民車)の設計によって車に乗れる人が増えていきます。
大統領と首相を兼ね総統に就任します。

当時ドイツには、世界一民主的な憲法・・・ワイマール憲法がありました。
そこで権力をとり、1933年全権委任法をヒトラー内閣は制定し、国会が立法権を政府に譲位します。

ヒトラー専属のカメラマンが様々なヒトラーを撮ります。
大袈裟なアクションは、オペラ歌手からの指導・・・街がナチスに染まっていきます。
1934年の第6回ナチス党大会は「意志の大会」とも呼ばれ、100万人が参加したとも言われています。
その映像は「意志の勝利」としてレニ・リーフェンシュタールによって映画化されます。

「レニ・リーフェンシュタール」はこちら
人生にYESと言いなさい~レ二・絶賛と非難の101年~はこちら

カリスマに演出されていくヒトラー、平和のための独裁!!
平和という言葉を何度も使います。

党大会は夜に頻繁に行われましたが・・・
夜の幻想的な演出も、民衆を熱狂させていきます。

最初に作られたナチス・ドイツの強制収容所は「ダッハウ強制収容所」で、親衛隊の残虐行為の訓練所とまで言われました。
たくさんのユダヤ人が・・・多くの人が命を絶たれます。

ナチスに立ち向かった学生たちがいました。
またもやミュンヘンで・・・1943年ハンス、ゾフィー兄妹らがペンで反ナチスを訴えます。
白バラ抵抗運動です。
ビラを配ったり、党大会への不参加を呼びかけます。
しかし逮捕されると・・・わずか4日で斬首刑となりました。

第2次世界大戦が勃発した翌年に、チャップリンは「独裁者」を作ります。
ヒトラーを痛烈に批判したラストシーン・・・

「申し訳ないが  私は皇帝になどなりたくない
 それは私には関わりのないことだ
 だれも支配も征服もしたくない 
 できることなら皆を助けたい・・・
 ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も

 私の声が聞こえる人たちに言う
 絶望してはいけない
 憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪い取られた権力は、人々のもとに返されるだろう
 兵士よ 奴隷を作るために闘うな 自由のために闘え
 君たち人々は、機会を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ
 君たち人々は、人生を自由に美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ
 
 だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか
 みんなでひとつになろう
 新しい世界のために」

ヒトラーが首相に就任してかあら12年・・・ドイツの敗北が決定的になります。
1945年になると、連合国による攻撃が激しさをまし・・・ベルリンは廃墟と化します。
その4月・・・総統官邸の地下壕で、愛人のエバ・ブラウンと共に自ら命を絶つのでした。

ヒトラーの影法師と言われた男はこちら
「ヒトラー 独裁者という名の怪物」はこちら
チャップリンの「独裁者」観ました。はこちら
苦しいからこそ笑う~チャップリン天国と地獄を見た喜劇王~はこちら

そして戦後・・・
敗戦国の日本とドイツは、戦争をしていません。
アメリカが沢山の戦いに関わってることは周知の事実です。

史上最年少の43歳でアメリカ大統領となったケネディ大統領・・・
東西冷戦が始まり、アメリカなどの自由主義陣営と、ソビエトなどの社会主義陣営が対立していきます。
ベトナム戦争・・・
第二次世界大戦後、フランスとの戦いに勝利し独立したベトナムは、北(ベトナム民主共和国)と南(ベトナム共和国)に分断されます。
社会主義陣営は北ベトナムを支持し、自由主義陣営は南ベトナムを支持します。
南北の対立が激しくなり・・・アイゼンハワー大統領は、軍事顧問団を南ベトナムに派遣。
ケネディ大統領はそれを増強していきます。代理戦争となっていくベトナム。。。

1961年8月13日には・・・東ドイツによってベルリンの壁が築かれます。
193年11月テキサス州ダラスにて、大勢の目の前でケネディ大統領が凶弾に斃れました。
後を継いだジョンソンの時代、ベトナムの北爆を開始します。
50万人を超える兵士を導入しますが、戦争は泥沼化・・・。

世論によって反戦運動が起こってきます。
1975年サイゴンが陥落し、15年続いたベトナム戦争終結しました。

日本にとっては・・・
1950年朝鮮戦争が勃発したので、アメリカ兵が朝鮮に引っ張られ・・・警察予備隊が作られました。
憲法9条で軍隊を持つことができなかった日本だったので・・・「警察予備隊」なのです。
これが今の自衛隊へとなっていくのです。

もちろん戦争には参加していませんが、後方支援はやっています。
1991年湾岸戦争、ペルシャ湾での機雷の除去、2001年アフガニスタン戦争で・・・インド洋での燃料補給、2008年イラク戦争でイラクで給水などの復興支援・・・。
戦闘に於いては一人も亡くなることはなく戦後70年を過ごしてきました。

世界のどこかで今も戦争は続いています。
日本にもその危機が訪れるかもしれません。
過去から学ぶ・・・そのことが必要なのです。

「ジョン・F・ケネディ “弱さを力に変えたジャック”」はこちら
リンドン・ジョンソン~ケネディの後を継いだ男~はこちら


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戦争の20世紀

そこには、民主主義の危うさがありました。
第1次大戦後、1919年にドイツではワイマール憲法が出来ます。
主権在民や男女平等の普通選挙などを規定し、当時世界で最も民主的憲法と言われましたが。。。
民主ドイツ元年と言われるこの年に、ナチスの前進であるドイツ労働者党が労働者を中心に結党されます。
同じくこの年に、ベルサイユ条約が締結され、第1次世界大戦のドイツに多額の賠償金が課せられ、植民地も失いました。
厳しい軍備制限と、多額の・・・天文学的賠償金の負担・・・
政府は紙幣を大量に発行し、深刻なインフレに陥ります。
1923年11月のドイツの為替レートは・・・1ドル=4兆2000億マルクでした。

そこで、アメリカの金融支援で財政の立て直しを図ります。
インフレを治めて、経済が徐々に回復、そこに1929年世界恐慌がやってきます。
この世界恐慌が、ナチス躍進のきっかけになってしまうのです。

ナチスは・・・1928年12議席だったのが、1930年には107議席。
1932年には、230議席獲得し、第1党に躍進します。
この時、ドイツ国民がナチスに期待したことは???
・強力な指導者への期待
ワイマール共和政では、強力な指導者は出てきませんでした。
・厳しい軍備制限への不満感
 空軍や潜水艦は禁止。
・ヒトラーは女性に大人気

政治不信の国民は強い指導者を求め、選挙でナチスを選んだのです。
特に、当時としては珍しい女性の参政権、男女平等の選挙です。
ヒトラーは、女性に対し巧みな話術で票を稼ぎます。
ナチスを独裁政権にしたきっかけは、皮肉にも最も民主的な憲法の存在がありました。
ナチスは結果的に、選挙や住民投票によってさらに勢力を拡大します。

hito.png

ヒトラーとはどのような人物なのでしょうか?
ドイツ人ではなく、オーストリア=ハンガリー帝国に、1889年に中産階級に生まれます。
画家になりたかったのです。

第1次大戦も参加し・・・1919年9月ドイツ労働者党に入党します。
1920年「国民社会主義ドイツ労働者党」(ナチス)と、党名を変更。
1921年ナチスの党首に選ばれます。
1923年クーデターを計画しますが失敗。
この時獄中生活を送り、「わが闘争」を執筆します。

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ここに、ヒトラーの世界観や政策が書かれています。
その内容は・・・?
・再軍備の推進
・東方への勢力拡張
・ユダヤ人排斥

ベルサイユ条約で鬱屈していた国民の共感を得て、ベストセラーに!!
ヒトラーの名を世に知らしめることになります。
その後も、演説レコードや、宣伝映画などメディアを利用した選挙活動を展開、世論を味方にして・・・
独裁政権の確立に!!
ヒンデンブルク大統領の時に・・・1933年ヒトラー内閣に就任します。
全権委任法を成立、民族と国家の困難を除去することを理由に、政府に立法権を委ねるものです。
ナチス政権独裁の準備を進めていきます。

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政党新設禁止法を制定し、社会民主党や共産党などを追放、一党独裁へ突き進んでいきます。
1933年7月ナチス独裁政権が確立。
当時はヒンデンブルク大統領でしたが、大統領がなくなると、大統領・首相・党首の全権を持つ総統にヒトラーが就任します。
独裁者となり・・・ナチスが国内唯一の政党となりました。
ナチス一党独裁政権へ!!

領土拡張に動くナチス!!
軍備制限の中、1935年再軍備宣言を行います。
ベルサイユ条約を破棄し、国防軍を5.5倍にすることなどを宣言。
本格的再軍備を!!ベルサイユ条約で非武装地帯とされたラインラントを超え・・・1938年オーストリア併合。
第1次世界大戦で失った15%の領土の回復を!!
圧倒的な国民の支持のもとに動いていきます。
裏返せば・・・領土拡張は国民の支持を維持するために不可欠だったのかもしれません。

では、国際社会はどうしてナチスを抑えることが出来なかったのでしょうか?
1938年ミュンヘン会議が行われます。
チェコスロバキア・ズデーデン問題について、英・仏・伊・独の会議です。
ドイツはヒトラー、イタリアはムッソリーニ・・・イギリスとフランスは、譲歩してしまいます。チェコスロバキアをドイツに割譲することを認めてしまいます。

イギリスはドイツを重きにおいておらず、フランスは自国の内政問題が不安定、イタリアは後にドイツと手を組むこととなります。
ロシアは革命後の混乱を収拾するのに手がいっぱいの状態でした。
ヨーロッパ各国に余裕がなかったのです。

1939年9月ポーランド侵攻。
重い腰を上げイギリス・フランスは宣戦布告、第2次世界大戦がはじまりました。

今後、再びナチスのような独裁政権の生れる可能性はあるのでしょうか?
世界中にはいろいろな国があるので、今後二度とないとは言い切れません。

今は相互に助け合う社会となっています。
社会主義は別ですが、独裁者の出る可能性は低いと思われます。

どうして民主的な憲法下でナチスが生まれたのか???
第1次世界大戦後の国民の不満をヒトラーが利用したということ。
世界恐慌、領土拡張・・・すべてが民衆が期待していたということ。

大衆民主主義とは、人民投票型独裁者を生む土壌である・・・。
警戒すべきことだということでした。

ナチスドイツによって引き起こされた第2次世界大戦。
その後ドイツは、ヨーロッパ各地を占領、戦果は拡大の一途を取ります。
この勢いに乗ったのが日本・・・
1941年真珠湾を攻撃
領土拡張路線へと舵を切っていきます。。。


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