日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ナチスドイツ

1969年、人類初の月面着陸・・・
「人類にとっては偉大な飛躍である」byニール・アームストロング
この偉業を成功に導いた世界的なヒーロー、ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウン・・・しかし、彼にはもう一つの顔がありました。
第二次世界大戦時、ナチスドイツのもとで、世界初の弾道ミサイルV2を開発、ロンドン⇔パリを震撼させました。
夢の実現のためなら殺人兵器を作り、そして母国ドイツを捨ててアメリカに技術を売りました。
しかし、最期まで自らの罪を認めませんでした。

宇宙開発の父フォン・ブラウン・・・その光と闇とは・・・??
我々が暮らす太陽系の40光年先に、地球に似た惑星が7つあります。
アメリカ航空宇宙局NASAが発表しました。

「第二の地球を発見するのは時間の問題だ!!」

アメリカの民間会社が、2024年に火星旅行を実現させると発表・・・費用は2000万円です。
人々の夢を乗せて進む宇宙開発の礎を築いた男がいます。

ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンです。
50年前、初めて人類を月に送ったアポロ計画の中心人物です。
フォン・ブラウンは、1912年、ドイツに生れました。
両親はともに貴族の家柄で、父マグヌス・フォン・ブラウンは農業大臣を務めました。
何不自由ない生活、天真爛漫で好奇心旺盛な少年でした。
丁度その頃、ドイツはロケットブームに沸いていました。
第一次大戦後、疲弊したドイツの工業を活性化させるため、自動車メーカーがロケットカーを開発、猛スピードで走る姿は注目を浴びました。
さらに、映画「月世界の女」が大ヒット、月へ向かうロケットや、無重力状態で人が宙に浮く様子にフォン・ブラウンは夢中になりました。
ロケットを造って月に・・・物理や数学の勉強を始めました。

フォン・ブラウンの欲望は、少年の頃から月に到達することでした。
月依存症・・・月へ行くためなら、彼はどんなことでもしました。

1930年、ベルリン工科大学に入学しドイツ宇宙旅行協会に入会、ヨーロッパ各地から500人以上の優秀な工学者が集まった宇宙ロケットの研究者集団です。
全長およそ2m、重さ20キロのロケットを造り実検を重ねます。
しかし、38万キロ先の月に行くには程遠い・・・
フォン・ブラウンは、夢の実現のためには莫大な資金が必要だと考えました。
民間企業の寄付で運営していた宇宙旅行協会では、宇宙ロケットの開発は勧められないのは明白でした。
2mほどのロケットでは、月へ行くなんて到底無理です。
フォン・ブラウンが目をつけたのは、ドイツ軍でした。
第一次世界大戦敗戦後のヴェルサイユ条約で、ドイツは、戦車・潜水艦・軍用機などの兵器の製造を禁止されていました。
その条約の抜け穴が、それまで存在していなかった新兵器弾道ミサイルだったのです。
弾道ミサイルと宇宙ロケットは、技術的に同じ仕組みを持っています。
共にロケットエンジンで宇宙空間に打ち上げる・・・
宇宙ロケットは目的の軌道に乗せる、一方の弾道ミサイルは宇宙空間へ飛ばし、地球の引力を利用して目標に落とす・・・
フォン・ブラウンは、ドイツ軍に自分のロケット技術を売り込みました。
話を聞いた陸軍大尉は、彼の豊富な知識に圧倒されると技術者として陸軍の採用を約束しました。

フォン・ブラウンにとって、ロケットを造るために軍に協力するのは当然のことでした。
彼は、軍がミサイル兵器を望んでいることは百も承知でした。
全てわかったうえで、兵器開発に協力したのです。
それが、”月依存症”フォン・ブラウンが、夢をかなえるための唯一の手段でした。
フォン・ブラウンは、宇宙旅行協会の研究者たちに声をかけました。

「宇宙旅行を実現するためには、軍の資金に頼るしか道はない」byフォン・ブラウン

仲間たちは、軍に協力することを躊躇しました。
自分達のロケット技術が兵器として利用されるのを嫌がりました。

1932年10月、フォン・ブラウンはたった一人でドイツ陸軍兵器局に民間技術者として採用されます。
3か月後の1933年1月30日、ヒトラー政権誕生、再軍備を推し進めます。
人類初の弾道ミサイルを目指すフォン・ブラウンは、まず、広大な実験場の建設を提案します。
目をつけたのは、ドイツ北部、バルト海に面するペーネミュンデ・・・広大な海に向けてより大きなミサイルの発射実験ができると考えました。
フォン・ブラウンは、沼や森に囲まれたペーネミュンデなら、秘密裏に実検を行うことも可能だと説得・・・
建設のための莫大な予算を獲得します。
フォン・ブラウンが中心となり、実験場を設計・・・鉄道や工場なども作らせました。
かつては陸軍に入ることに躊躇した宇宙旅行協会の仲間を含め、新たに120人以上の科学者や技術者を呼び寄せました。

1937年7月、フォン・ブラウンは25歳で開発部のリーダーとなります。
フォン・ブラウンが目指したのは、1トンの弾頭を搭載し、250km先の目標に僅か数分で着弾させる弾道ミサイル・・・
エンジンを燃焼させて、ミサイルを高度28km地点にあげ、そこでエンジンを止める・・・すると、ミサイルはそのままの角度で成層圏を越え高度80kmに到達、その後、地球の重力に従い攻撃目標へ落ちる!!
落下のスピードは、音速をはるかに超えるマッハ6!!
当時、迎撃することは到底不可能でした。
しかし、問題は・・・スピードが速くなると、空気抵抗によってミサイルの揺れが大きくなる・・・
ミサイルは、姿勢を保てなくなり、軌道を外れます。
狙った目標に、正確に打ち込むためには、姿勢の制御が必要不可欠でした。
人類が経験したことのないスピードで動く物体を、どうすれば安定した姿勢に保つことが出来るのか・・・??
開発は困難を極めました。

フォン・ブラウンは、問題を克服する為に、ある実験装置の導入を思いつきます。
超音速風洞です。
音速を越えた状態で起こる空気の流れを人工的に発生させ、空気抵抗を調べる装置です。
これを使えば、弾道ミサイルが超音速でどう動くのか、シミュレーションできます。
風洞実験を繰り返し、改良を加え、飛行の安定性を高めることに成功しました。

25歳の若者が、科学者やエンジニアたちをまとめる偉大なリーダーとなりました。
フォン・ブラウンには、組織を大きくし、優秀な人材を発掘し、科学者やエンジニアたちのやる気を引き出すプロジェクトリーダーとしての素質がありました。
彼の力で、プロジェクトはどんどん大規模になり、多くの予算を獲得しました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻・・・第二次世界大戦が勃発しました。
ドイツ軍は、オランダ、フランスを次々に撃破、しかし、1942年当時のソビエト連邦スターリングラードで激しい抵抗にあい、形勢が逆転します。
そんな中、フォン・ブラウンが開発した弾道ミサイルの最終実験が行われました。
A4ロケット・・・全長14m、総重量13トン・・・高度80キロを超え、190キロ先にある目標に到達しました。
フォン・ブラウンは、実験の成功をヒトラーに報告しました。
実検の映像を見せると、ヒトラーは興奮して叫びました。

「感謝する!
 このロケットを使えば、戦争を終わらせることが出来るだろう」

ヒトラーは、この弾道ミサイルを秘密兵器とし、大量生産を命令します。
その数、1万2000基・・・ペーネミュンデの工場だけでは到底製造が追いつきませんでした。
フォン・ブラウンは、ドイツ中央部にあるミッテルバウ=ドーラ強制収容所の目をつけました。
収容されているフランスやロシアの捕虜・・・およそ1万人を利用しようと考えたのです。
収容所そばの炭鉱跡に工場を建設・・・捕虜たちに弾道ミサイルを作らせました。
新鮮な空気も水もない、劣悪な環境の中、肺炎や赤痢が流行・・・捕虜たちは次々と死んでいきました。
逆らえば、処刑されました。
労働力が不足すると、他の収容所から調達しました。
強制労働の犠牲者は、2万人に及びました。
1944年、ドイツは連合国側に取り囲まれ配色が濃厚となっていました。
9月8日、フォン・ブラウンの開発した弾道ミサイルがロンドンに発射されました。
ミサイルはおよそ6分で300キロ先のロンドンに着弾、マッハ6で落ちてくるミサイルにロンドン市民はパニックに陥ります。
ミサイルは報復という意味の頭文字をとって、V2ロケットと名付けられました。
V2ロケットは、ロンドンやパリで1万3000人もの命を奪います。
フォン・ブラウンは、V2ロケットの開発について後にこう語っています。

「その時はまさか、兵器が作られるなんて思ってもいませんでした」

1945年ドイツが敗戦に向かう中、フォン・ブラウンは新たな弾道ミサイルの開発を進めていました。
目指したのは、アメリカに到達する大陸弾道ミサイルです。
飛距離を伸ばすことは、彼にとって月に近づくことでもありました。
実はこの時、フォン・ブラウンは母国ドイツを捨てることを考え始めていました。
ナチス親衛隊に入隊していたにもかかわらず・・・!!
日和見主義者のフォン・ブラウンは、ナチスに協力しました。
親衛隊の制服に身を包みますが、それは、見せかけの忠誠心を示すためです。

「ドイツは2階の大戦で敗北した
 今度は勝者の側につきたい」byフォン・ブラウン

当時、連合国側の二つの大国、アメリカとソビエト連邦は、兵器開発に携わる優秀な科学者をドイツから獲得しようともくろんでいました。
この情報を掴んだフォン・ブラウンは、信頼できる部下20人を集め密かに集会を開きました。

「ドイツは負ける
 しかし、我々のロケットなが宇宙にたどり着くのはあと一歩だ!!
 我々は宇宙旅行が現実になると信じてきた
 この信念をとめることはできない」byフォンブラウン

フォンブラウンは、連合国の中で宇宙開発ができる経済力があるのはアメリカだけだと考えていました。

「アメリカとソ連、どちらも我々の能力と技術を欲しがっている
 我々は、アメリカ軍に投降した方がよいのではないか」byフォン・ブラウン

反対する者はいませんでした。
520人の技術者たちが、フォン・ブラウンに賛同しました。
一方、ドイツに侵攻したアメリカも、フォン・ブラウンを血眼に探していました。
V2ロケットに核弾頭を搭載すれば、世界最強の兵器になると考えていたのです。
1945年2月、ミサイル開発の拠点ペーネミュンデの東160キロにまでソ連軍が迫っているという情報が・・・!!
フォン・ブラウンはすぐに決断します。
520人の技術者とその家族全員を運ぶという世紀の大脱出!!
1000台のトラックを用意し、V2ロケット100基分の部品と重要書類を積み込ませました。
通行証は、偽造しました。

1945年2月17日、ペーネミュンデを出た一行は、南へおよそ600キロ離れたブライヒェローデへ向かいました。
ナチスに見つかれば裏切り者として処刑される・・・決死の逃亡でした。

4月30日、ヒトラー自殺!!

その2日後、フォン・ブラウンたちはアメリカ軍に投降・・・母国ドイツを捨てました。
第二次世界大戦が終わると、フォン・ブラウンたち工学者126人はアメリカのテキサス州フォードブリスに移住します。
ミサイル実験場でした。
フォン・ブラウンは、アメリカ軍に元ナチスの戦争犯罪人として形式的な尋問にかけられる一方、V2ロケットを組み立てるように命令されます。
その後、アメリカとソ連の冷戦が激化、1949年ソ連が原爆実験に成功。
その翌年の1950年、朝鮮戦争が勃発。
アメリカは、急速に軍備拡大を進めていきます。
フォン・ブラウンは、アメリカ軍から核弾頭を搭載できるミサイルの開発を命じられます。
フォン・ブラウンには、何の躊躇もありませんでした。
ロケットが核兵器になることは必然だと考えていました。
ソ連を敵とみなし、アメリカが西側の救世主になるために・・・!!
核兵器を持つことは正しいと信じ、弾道ミサイル開発に全面的に協力したのです。

日々徒然〜歴史とニュース?社会科な時間〜 - にほんブログ村

1953年、2トンの核弾頭を搭載できる弾道ミサイルの発射実験に成功します。
320キロの射程距離を持つこのミサイルは、レッドストーンと名付けられました。
後の大陸間弾道ミサイルICBMへと発展していきます。

この頃、共産主義者や独裁主義者をアメリカから追放しようという動きがおこりました。
フォン・ブラウン・・・元ナチスの親衛隊だった過去を暴かれます。
しかし、彼は命令に従うしかなかったと弁明し続けました。
フォン・ブラウンは、繰返し何もなかったといい、陸軍もマスコミにそのように報道させました。
彼がナチスの親衛隊だったという事実は封印されたのです。

1955年、軍の計らいによりフォン・ブラウンは、アメリカの市民権を取得し、名実ともにアメリカの国民となりました。
アメリカ軍は、フォン・ブラウンらドイツ人科学者たちをアメリカ国民にし、冷戦の兵器開発競争に利用したのです。
フォン・ブラウンのレッドストーンは、その後、核実験のために何度も打ち上げられました。
彼はナチス・ドイツのためだけでなく、アメリカでもロケット兵器の開発に邁進しました。

「人道的な立場に立てばロケットの研究を中止すべきだったかもしれない
 しかし、私の宇宙への夢は、あまりにも強かった
 実現できるなら、悪魔に心を渡してもいいとさえ思っていた」byフォン・ブラウン

1957年10月4日、アメリカに激震が走りました。
ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功!!
戦後、科学技術で常にトップを走ってきたアメリカのプライドが打ち砕かれました。
そんな中、フォン・ブラウンは国務長官にこう言います。

「私に任せていただけるなら、60日で必ず人工衛星を打ち上げてお目にかけます」byフォン・ブラウン

当時、フォン・ブラウンは新たに強力な弾道ミサイルを開発していました。
爆弾の代わりに人工衛星を搭載すれば、軌道に乗せることが出来ると確信していました。
スプートニクの成功は、彼に、非常に大きな挫折と怒りをもたらしました。
フォン・ブラウンは世界で一番最初に人工衛星を打ち上げるという野望を持っていたのですから・・・!!

3か月後の1958年1月31日、人工衛星”エクスプローラー1号”を搭載した巨大ロケットが打ち上げられました。
95分後、見事、衛星軌道に乗り、アメリカ初の人工衛星となりました。
この成功によって、アメリカは国家の威信を回復、フォン・ブラウンは一躍アメリカのヒーローとなりました。
10月1日、アメリカ航空宇宙局NASAが発足!!
フォン・ブラウンは、マーシャル宇宙飛行センター所長に就任します。
宇宙ロケット開発のTOPに立ちました。

しかし、1961年4月12日、またしてもソ連に先を越されます。
ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行です。
1961年5月25日、ケネディ大統領は、すぐに声明を出しました。

「60年代のうちに人間を月に着陸させ、無事地球に帰還させるという目標の達成を目指す」byケネディ

アポロ計画です。
フォン・ブラウンは副大統領に、「ソ連より先に月に行くロケットを開発できる」と主張していました。
それを聞いたケネディ大統領が、彼の言葉を信じ、すかさず動いたのです。
地球から月へはおよそ38万キロ・・・月に到達し、地球に帰還させるためには正確な軌道を導き出すことが最重要課題となります。
まずは、ロケットを月の軌道に乗せ、月の引力を使って着陸させる・・・
帰りは地球の引力で戻る・・・途方もない計画でした。
フォン・ブラウンが開発したのは、宇宙飛行士を月に運ぶための3つの円陣を持つ世界初の三段式ロケット・サターンⅤです。
フォン・ブラウンは、アポロ計画の最重要部分であるロケットエンジン開発のリーダーに任命されました。
アポロ計画の最重要人物の一人となったのです。

アメリカ政府は、アポロ計画に年間60億ドル(2兆1600億円)を投じ、それは国家予算の予算のおよそ4%にも上りました。 
予算獲得のためには、国民の支持が必要だと考えたフォン・ブラウンは、マスコミを利用しました。
当時人気のあったウォルト・ディズニーと宇宙ロケットを開発する番組を制作します。
宇宙旅行を描いた小説やエッセイをわかりやすくイラスト共に雑誌に掲載、さらに、ケネディ大統領との親密さをアピールし、アメリカ国民に月面着陸は夢ではないと印象付けました。
アポロ計画スタートから8年後・・・1969年7月16日、三人の宇宙飛行士を乗せたサターンⅤが打ち上げられます。
全長110m、総重量3000トンを超える巨大なロケットが飛び立ちました。
そして4日後・・・7月20日、アポロ11号は、人類初の月面着陸に成功しました。

「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」byアームストロング

世界中の人々は、テレビにくぎ付けとなり熱狂!!

「アームストロングが月面に降り立った時、まさに人生最高の瞬間だった」byフォン・ブラウン

人類初の大偉業を成し遂げたフォン・ブラウンは、英雄として歴史に名を刻みました。

アポロ11号による月面着陸成功後、フォン・ブラウンが生み出したロケットによって、宇宙開発は飛躍的に進みます。
アメリカNASAは、現在、火星への有人飛行を目指し、巨大なロケットの開発を進めています。
民間企業では、月旅行を実施すると発表・・・
その一方で、フォン・ブラウンが開発したロケットの技術でスカッドミサイルなどが世界各国に広まりました。
現在、およそ50か国が大陸間弾道ミサイルの開発を進めています。
射程距離は1万キロ・・・およそ1分で宇宙空間へ到達し、最高速度はマッハ20にもなります。

フォン・ブラウンのV2ロケットは、技術革命でした。
大陸間弾道ミサイルと、新たな宇宙ロケット両方を可能にしました。
アメリカ、ロシア、イギリス・・・そして中国など、世界各国のロケット開発を飛躍的に進歩させたのです。
現在、地球の周りには、4400以上の人工衛星が稼働中。
少なくともおよそ300基は軍事衛星だといわれています。
日本はこれまでに延べ11基の情報収集衛星を打ち上げました。

宇宙は果てしない・・・この瞬間も膨張を続けています。 
人類はどこまでたどり着けるのか・・・??

1972年、アポロ計画の打ち切りが決まると、フォン・ブラウンもNASAをさりました。
その3年後、63歳の時ガンが見つかります。
1977年6月16日、すい臓がんで死去・・・
死の底でフォン・ブラウンは、まるで宇宙の中を漂っているようなうわごとを発したといわれています。

「私は今、銀河系を脱出しようとする
 10万光年・・・10億光年・・・」

最期の言葉は・・・「ノバ(新星)」・・・65歳の生涯でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

岡田斗司夫ゼミ#250「フォン・ブラウン~ロケットを作った男は神?悪魔? 来年、確実にやってくるアポロ50周年ブームをいまから先取り!」

新品価格
¥1,000から
(2020/7/3 09:26時点)

これからはじまる宇宙プロジェクト2019-2033 (エイムック)

新品価格
¥1,540から
(2020/7/3 09:26時点)

独裁者アドルフ・ヒトラー・・・彼には唯一心を許した正式な妻がいました。
その名はエヴァ・ブラウン・・・ヒトラーより23歳年下の女性です。
しかし、その存在はドイツ国民に知らされることはありませんでした。
秘密の関係を続けたエヴァとヒトラー・・・二人が結婚式を挙げたのは、共に命を絶つ前日でした。
独裁者アドルフ・ヒトラーが愛した一人の女性・・・エヴァ・ブラウン。
幼いころから自由奔放、政治には関心がなく、ハリウッド女優になることを夢見ていました。
やがてヒトラーと恋人となると、エヴァはヒトラーが用意した豪華な山荘で暮らしました。
ファッションを楽しみ、大好きな動物を飼い、気ままに過ごす日々・・・
第二次世界大戦が勃発し、ドイツ国内が戦火に包まれる中でも、身の危険や貧困からは無縁の暮らしでした。
ヒトラーをはじめ、ナチスドイツの高官と他愛もない会話で周囲を和ませたエヴァ・・・
多くの召使に囲まれ、山荘の女主人と称しました。
しかし、その裏では家族との確執を抱えていました。
ヒトラーの過激な言動に反発し、別れを勧める父・・・
ナチスドイツの反ユダヤ政策に反対する姉・・・
そしてヒトラーには常に何人もの女性の影が付きまといました。
その一方でエヴァの存在は極秘・・・山荘という鳥かごに閉じ込められていました。
しかし、ナチスドイツが滅びる2か月前・・・
エヴァは自ら鳥かごを出てヒトラーがいる戦火のベルリンに向かいました。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが出会ったのは1929年。
17歳のエヴァは、ミュンヘンにある写真館で働いていました。
そこへ店主に連れられて一人の男がやってきました。

「おかしな口ひげを生やし、大きなフェルトの帽子をかぶった中年紳士が入ってきたの
 私の足を見つめていて、あまりいい気がしなかったわ」

「君は、あの方が誰だかわからないのか?」

「さあ・・・」

この男こそ、アドルフ・ヒトラー。
当時40歳、急激に勢力を伸ばしていたナチ党の党首・・・すでにメディアを賑わす有名人でした。
エヴァにとっては、この中年男の初対面の印象はよくありませんでした。
しかし、後にエヴァとヒトラーは恋人同士になします。
どうして惹かれていったのでしょうか?

エヴァ・ブラウンは、1912年、ドイツ・ミュンヘンの中流家庭で誕生します。
エヴァは三姉妹の次女で、教員だった父のフリードリヒと母フランツィスカの元、娘たちは厳しく教育されました。
学校の成績は優秀でしたが、いたずら好きの問題児・・・教師たちに手を焼かせる生徒でした。
エヴァは思春期を迎えると、父の監視は益々厳しくなります。
父は娘たちの手紙すべてに目を通します。
門限を設けて夜10時には床につくように・・・。
1928年、16歳になるとカトリック修道会の女学院に入学させ、模範的な淑女に育てようとしました。
しかし、この頃エヴァが夢中になったのは恋愛小説と映画。
特に学芸会では演劇に熱心に取り組みます。
いつしか、ハリウッド女優として成功することを夢見るようになっていました。

教師の父親が一番重要視していたのは、娘たちに一流の専門教育を受けさせること・・・。
しかし、エヴァ達娘は、反抗的でした。
17歳になったエヴァは、近所の写真館で働き始めます。
これが、彼女の運命を大きく変えることとなります。

この頃ドイツは、第1次世界大戦で敗戦し荒廃していました。
戦争を再び起こさないように軍備を制限され、戦後賠償で経済はどん底・・・町には失業者が溢れていました。
そんな時、経済復興と失業問題の解決を掲げ、支持を集めたのがヒトラー率いるナチ党でした。
エヴァが働く写真館の店主は、熱烈なナチ党員・・・ヒトラーの専属写真家も務めていたため、店はヒトラーの写真で埋め尽くされていました。
ヒトラーと出会った夜、エヴァは父に聞いてみました。

「アドルフ・ヒトラーってどんな人?」

「ヒトラー?
 あいつは自分が万能だと思い上がっている青二才だ!!」

父親はもちろん心配していました。
なぜなら、当時のナチ党は、極めて暴力的で殺人を犯すこともありました。
しかし、エヴァは、父への反抗としてヒトラーに近づきました。
一方、ヒトラーは、エヴァを気に入りました。

「彼女は私を和ませるんだ」

ヒトラーは、周りを側近や気の置けない人で固める傾向にありました。
そういった狭い交友関係の中で女性も選んでしまうのです。
その後、ヒトラーは写真館を訪れるたびにエヴァへプレゼントを持ってくるようになりました。

「エヴァさん・・・オペラに招待してもよろしいですかな?」

23歳年上の男からの紳士的な誘いに魅了されていったエヴァ・・・
出会いから2年がたったころには姉にこう打ち明けています。

「絶対にあなたもヒトラーに会うべき!
 会えばあの人のイメージも変わるから・・・!!」

ヒトラーの女性に対するマナーには、うっとりとするものがありました。
夢中になってしまったのは、エヴァからでした。
しかし、この頃のヒトラーには特別に親密な女性がいました。
姪のゲリ・ラウバル(23歳)です。
ヒトラーの姉の娘で、エヴァより4歳年上でした。
ヒトラーとゲリは、2年の同居生活を送り、叔父と姪を超えた深い関係だったといいます。

「私は姪のゲリを愛している
 だが、結婚は出来ない」

タイプとしては、エヴァとおなじように非常に快活で行動的な女性でした。
そんな中、ヒトラーとエヴァが急速に近づく事件が起こります。
1931年ゲリが自ら命を絶ちました。
一説ではヒトラーの束縛が原因ともいわれています。
ヒトラーは憔悴しきっていました。
ゲリを失ってしまったショックがあまりにも大きかったのです。
それを見たエヴァは・・・

「ヒトラーにとってあの女は、きっと特別な人だったのね」

この直後、エヴァは思いがけない行動に出ます。
髪型や風貌、話し方まで自分をゲリそっくりに真似たのです。
いつしか二人は恋人同士になりました。
エヴァ19歳、ヒトラー42歳の時でした。

自ら望んでヒトラーの恋人となったエヴァ・ブラウン・・・しかし、わずか2年の間に2度も自殺を企てます。
何が原因だったのでしょうか?
エヴァがヒトラーと出会って3年後、1932年7月、ヒトラー率いるナチ党は、ドイツ国会選挙で第1党に躍進します。
ますます政治活動に力を入れるヒトラー・・・
エヴァをミュンヘンに残し、ドイツ中を飛び回ります。
以前より会う時間は減っても二人の関係は続いていました。
当時ヒトラーは、側近にこう漏らしています。

「私はミュンヘンにいる一人の娘を愛している」

しかし、エヴァの存在は、限られた一部の人だけの秘密でした。
それは、ヒトラーの結婚に対する考えからでした。

「私には既に花嫁がいる
 私はドイツと結婚したのだ!」

独身であることで、女性の支持が得られるという考え方がヒトラーにはありました。
結局最後まで、ヒトラーはエヴァと言う存在を国民の目からひた隠しにしました。
ヒトラーにとっては、女性よりも政治の方が大事だったのです。

この時、エヴァ・ブラウンは20歳・・・ミュンヘンの実家でヒトラーからの連絡を待つだけの生活でした。
そんな中、ある事件を引き起こします。
エヴァは、ヒトラーに別れの手紙を投函・・・そして・・・銃弾は首をかすめ、一命をとりとめました。
知らせを聞いたヒトラーは、すぐに病院へ駆けつけました。
そして医師にこうただしました。
 
「彼女は本気で自殺しようとしていたのか・・・??」

「彼女は心臓を狙っていましたが、なんとか助けられました」

エヴァは、ヒトラーとの関係が終わるのではないかと深く絶望していました。
これからは、この娘を気にかけてやらなければ・・・
2度とこんなことが起きてはならない・・・
ヒトラーは、いつでも連絡が取れるようエヴァの部屋に電話を設置しました。
自殺未遂の翌年・・・1933年1月にヒトラーは首相に就任。
一層政局に謀殺されていきます。
21歳の誕生日を迎えたエヴァの元には、ヒトラーから指輪やネックレス、ブレスレットが届きました。
しかし、肝心のヒトラー本人は現れませんでした。

「彼が殊勝になったところで、私に何の関係があるの??
 彼に会えない日が増えるだけだわ」

翌年ヒトラーは、ナチ党の党首・首相・大統領と全ての権限を持つ総統に就任し、独裁色を強めていきます。
武力を背景に、反対勢力を排除していきます。
しかし、エヴァは、ヒトラーの政治には関心を示さず、生涯ナチ党に入りませんでした。
そんなエヴァにとっての最大の関心ごとは、ヒトラーの周りの女性たちでした。
絶大な人気を誇るヒトラーの周りには、有名女優や歌手、映画監督などが集まりました。
青年時代は画家志望だったヒトラーは、芸術的才能を持つ女性たちと積極的に触れ合います。
それに対して、エヴァの存在はあくまで秘密にされ、公の行事に参加する事さえ許されませんでした。
エヴァは、ヒトラーに寄ってくる女性たちに、激しい嫉妬心を抱いていたといいます。
ヒトラーは、多くの著名な女性と出会っては、彼女たちの機嫌を取るため贈り物までしていました。
しかし、エヴァは、自分がとても難しい立場にいることも自覚していて、すべてを受け入れるしかありませんでした。

エヴァの23歳の日記には・・・ヒトラーと自分の関係が・・・その時々の気持ちが書かれています。

「昨日は思いがけなく彼が来て、うっとりとするような夜になったわ」

それから2週間後には・・・

「彼はもう、14日間も来ていない
 私は彼がなぜ怒っているのかわからない」

さらに12日後には・・・

「今は政治的にいろんなことが起きているから彼が私に興味を示さないのは当然のことよ
 ただ静かに待っていればいいのよ」

この日記が書かれた1935年3月16日、ヒトラーは第1次世界大戦後に禁止されていたドイツの再軍備を宣言しました。

エヴァの日記に書かれているのは、ありふれた日常ばかり・・・
国がひっくり返って、世界が崩壊するかもしれない中で、エヴァがはヒトラーが自分のために時間があるかどうかという観点からしか見ていませんでした。

翌月のエヴァの日記には・・・

「愛なんてものは彼の計画から外されてしまったんだわ」

そしてエヴァは再び事件を起こします。
自宅で大量の睡眠薬を飲み、2度目の自殺を図ったのです。

「親愛なる神様、今日中に彼と話すことができるようにお力をお貸しください
 明日では遅いのです
 私は35錠飲むことに決めました」

しかし、姉がすぐに発見して手当てをしたため、命はとりとめました。
この時姉は、エヴァの自殺の原因を両親に知られるのを恐れ、日記の一部を破りとりました。
エヴァの日記は後になくなりますが、姉が破った4か月分だけが偶然残りました。
再び自殺を図ったエヴァに対し、ヒトラーは驚くとともに心打たれたといいます。
ヒトラーは、自分に絶対的な忠誠心を誓った仲間に非常に温情をかけるような面があります。
自分の命をかけてまで、自分に忠誠を示してくれたというのが、ヒトラーの気持ちを動かしました。
2度目の自殺未遂から3か月後、ヒトラーは公式行事にエヴァも参加することを許しました。

1935年秋、ニュルンベルク党大会・・・ヒトラーのもとに10万もの人が集まるのをエヴァは初めて目の当たりにしました。
この党大会中にヒトラーはある重要な法案を可決しました。
ニュルンベルク法と呼ばれるユダヤ人の市民権を奪う人種差別法です。
エヴァは日記にこうつづっています。

「地球でもっとも偉大な人の恋人の私」

エヴァ・ブラウン23歳の秋のことでした。

エヴァとヒトラーが出会って6年が経った1935年、父・フリードリヒはヒトラーに手紙を送ろうとしました。
恋人とはいえ、秘密で結婚もしようとしないというエヴァとの中途半端な関係を心配したからです。
「子供達は結婚して初めて両親のもとから離れるもの」
これ以上付き合うなら、エヴァと結婚してほしいと遠回しに迫っています。
この手紙はヒトラーに届けられる前に、エヴァに見つかり破り捨てられてしまいます。
しかし、父が手紙の写しを持っていたため、どんな内容だったのかわかっています。

もちろん、エヴァは結婚したかったのです。
しかし、自分の立場を受け入れ、一度たりともヒトラーの邪魔をしようとはしませんでした。
常にヒトラーの言われたように動きました。
だから、あのような関係が長く続いたのです。
ミュンヘン近郊・・・自然に囲まれたオーバーザルツベルクの山荘・・・ここを気に入ったヒトラーは、山荘を買い取って改築しました。
改築が完成すると、エヴァ・ブラウンは実家から出て山荘で暮らすようになります。
この時、24歳・・・山荘には巨大な大広間をはじめ、30以上の部屋があり、最高級の木材などが使われていました。
人里離れた山荘は、関係を公にできない二人にとって絶好の隠れ家でした。
この山荘で、エヴァに仕えていた女性の証言が残っています。

「”ハッキリ言っておくわ”と初日に言われたの
 ”あれがヒトラーの部屋で、こっちがエヴァの部屋、利口ならば2人の関係はわかるわね
 あともうひとつ
 何を見ても、何が起こっても、絶対口外したり、書き留めたりしないこと
 エヴァの存在は極秘よ”とね
 だから、2人がどこまで進展しているのかは分からなかった」

エヴァとヒトラーは、人前では仲のいい友人として振る舞い、決して親密な態度は見せませんでした。
そんな2人が楽しみにしていたのが夜の映画鑑賞です。
その日何を見るか決めるのはエヴァ、特に好きだったのはハリウッド映画「風と共に去りぬ」でした。
エヴァは、主役のスカーレット・オハラを真似た衣装を着て、映画の一シーンを再現するほどお気に入りでした。

エヴァが山荘に移って3年が経った1939年、第2次世界大戦勃発。
9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。
戦争が始まると、山荘は総統大本営となりました。
ヒトラーは、ここで日夜作戦会議を開いて戦略を立てました。

戦争中でも、エヴァの暮らしにはほとんど変わりはありませんでした。
しかし・・・エヴァ自身にはある変化が起きていました。
ヒトラーが山荘を離れるとエヴァはそれを待っていたかのようにいそいそとパーティーの準備を始めるようになります。

「それまでおとなしくしていた彼女が一瞬で豹変した
 すぐに様々なお楽しみの準備が始まった
 はめを外し、まるで子供だった」

さらに、エヴァは家族も山荘に呼んで一緒に優雅な生活を送るようになりました。
そこには、ヒトラーをかつての青二才と嫌っていたフリードリヒの姿もありました。
この頃には、父もナチ党に入党しています。
いつしかエヴァは、自らを山荘の女主人と名乗るようになっていました。

開戦当初、ヒトラー率いるドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にはパリを占領するなどヨーロッパ中を震え上がらせました。
戦争を拡大する裏で、ナチスは数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ります。
こうしたユダヤ人迫害など、ヒトラーの政策を批判していたのは姉のルイゼでした。
山荘で公然とヒトラーを批判する姉に対して、エヴァはこう言いました。

「総統が、あなたを強制収容所送りにしても私は助けないわよ!」

第2次世界大戦末期の1945年4月30日・・・
ナチスドイツの総統官邸でエヴァはヒトラーと共に命を絶ちました。
一体どうして・・・??
1944年、ヒトラー率いるナチスに開戦当初の勢いはありませんでした。
6月には連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功。
ドイツ国内では市街地への空襲が激化!!
山荘にいたエヴァは、故郷ミュンヘンから立ち上る炎をじっと見つめていたといいます。
更に翌月には、ヒトラー自身に衝撃的な事件が起こります。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件・・・会議中、ヒトラーの傍に置かれていたカバンが爆発・・・戦争の敗北を悟った側近たちのクーデターでした。
この爆発で4人が命を落としたものの、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで済みました。
この時、エヴァのもとにヒトラーからあるものが届けられました。
爆発の衝撃でボロボロになった軍服です。
エヴァはヒトラーにこう返事を書きました。

「あなたの身に万一のことがあったら、私は生きていくことができません
 たとえ死んでもあなたについていくと誓ってまいりました
 あなたを愛することが私の全てです・・・あなたのエヴァ」

1944年10月、エヴァは細かい遺書を書きます。
遺書には現金や車、買いそろえた毛皮のコートやじゅうたんなど、家族や友人の誰に渡すか・・・事細かに記されていました。

1945年1月、連合軍は首都ベルリンに迫っていました。
ヒトラーは、総統官邸の地下に作られた地下壕に籠り、ベルリン防衛を指揮。
エヴァに対しては、戦火から遠く離れた山荘に留まるように指示していました。
しかし、3月7日、ベルリンの戦火を抜けて走る一台の車が・・・
エヴァ・ブラウンでした。
ヒトラーは、彼女が言いつけに背いてやってきたことを心から喜んだといいます。
その後も連合軍の猛攻は続き、地下壕の側近たちにも不安が募っていきます。
しかし、エヴァは、地下壕に家具一式を運び込んで、美しく着飾って、山荘にいるのと同じように過ごしました。
エヴァは、ヒトラーが部下の前で弱みを見せることを許さず、時には軍服の乱れを注意することもありました。

「そんな薄汚れた格好で歩き回ってはいけないわ」

1945年4月、連合軍は総統官邸の目前まで迫ってきました。

「1日ごと、いや1時間ごとに最後が私たちに近づいてきています
 総統は、この戦争の全ての希望を失いました
 けれど、私たちは生きて捕らわれるつもりはありません」

敗戦が濃厚となり、逃亡する兵士が続出・・・
その中にエヴァの妹の夫・・・義理の弟もいました。
逃亡先で捕まった義理の弟には、処刑命令が下りました。
しかし、エヴァは救いの手を差し伸べませんでした。
すでに地下壕は絶望的な状況・・・連合軍がいつ押し寄せてもおかしくありませんでした。
そして、4月29日未明・・・
エヴァは、ヒトラーと結婚式をあげようとしていました。
写真館の出会いから16年が経っていました。
エヴァは、光沢を帯びたロングドレスに身を包み、美しい宝石で着飾ります。
式は、ナチスドイツの婚姻条例に従ってベルリン市役員立会いの下で行われました。
結婚証明書に署名する際、エヴァはブラウンと書きそうになり、慌ててエヴァ・ヒトラーと書き直しました。
朝になるとエヴァは使用人にこう言います。

「私のことをヒトラー夫人と呼んでもいいのよ」

結婚式の翌日・・・1945年4月30日午後3時・・・
ヒトラー夫妻はそろって部屋へと入っていきました。
そして銃声が・・・こうして、エヴァ・ヒトラー33年の生涯に幕を下ろしました。

2人の遺体は地下壕の外に運び出され、焼却されました。
2日後ベルリンが陥落し、ドイツは敗戦を迎えます。

 
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

ヒトラーの大衆扇動術 [ 許 成準 ]

価格:750円
(2020/3/11 21:30時点)
感想(0件)

NHKスペシャル デジタルリマスター版 映像の世紀 第4集 ヒトラーの野望 人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した [ (ドキュメンタリー) ]

価格:3,300円
(2020/3/11 21:31時点)
感想(0件)

ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男【Blu-ray】 [ ゲイリー・オールドマン ]

価格:3,585円
(2019/1/5 10:18時点)
感想(0件)



世界の経営者が尊敬するリーダーは・・・??
ある会社の調査の1位は、第61代イギリス首相ウィンストン・チャーチルです。
ナチスドイツに勝った不屈の精神、イギリス国民を鼓舞するスピーチ力、そのチャーチルの人生は、失敗と挫折、敗北と失望の連続でした。
イギリス屈指の政治家とされるチャーチルは、政治家以外にも様々な顔がありました。
権威あるロイヤルアカデミーで展覧会を開いた画家の顔、生涯で30冊以上の本を書きノーベル賞を受賞したノーベル賞作家、レンガ職人の組合に加入し、自らの家の壁を作ったレンガ職人の顔・・・。
失敗と挫折を繰り返し、それでも首相を目指したチャーチル!!

イギリス国民にウィニーという愛称で親しまれたチャーチル・・・
半世紀以上が過ぎた今でも、そのドラマや映画が作られています。
第二次世界大戦でイギリスの首相として国の命運を握ったチャーチル。
ヒトラー率いるナチスと和平交渉をするか?それとも徹底抗戦するか??決断を迫られます。

「我々は野原や市街で戦い丘で戦う
 断じて降伏はしない・・・!!」

チャーチルのこの一言で、ドイツが優勢だった戦いを変えることとなります。
この時、チャーチル65歳、初めて首相になった遅咲きの政治家でした。
若い頃のチャーチルは、親も見放すほどの・・・親も見放すほどの不良の落ちこぼれでした。

イギリス、オックスフォード郊外にあるブレナム宮殿・・・チャーチル家の屋敷です。
チャーチル家は、150年続いた貴族の家柄でした。
1874年、チャーチルはこの宮殿で生まれました。
父・ランドルフは後に財務大臣を務めた政界の貴公子。
母・ジャネットは、ロンドンの社交界でも有名な美人でした。

1881年7歳で名門貴族の通う寄宿学校に入れられたチャーチル。
通信簿には遅刻20回・・・恥ずべきこと
常にトラブルの元凶で、喧嘩が絶えない・・・
無ず子の通信簿を見た父は・・・
「お前は負け犬のひとりとなり、みすぼらしく不幸で不毛な存在に堕落するだろう」と言ったといいます。
しかし、どんなに冷たくされてもチャーチルは父を尊敬し、憧れていました。
演説原稿を読んだり、父ののった新聞を集めたり・・・どうしたら父のようになれるのか考えました。
父親から突き放された息子・・・しかし、優しく接してくれるはずの母も冷淡でした。

チャーチルが寄宿舎から母に書いた手紙が残っています。

「どうぞ、ぜったいぜったいぜったいぼくに会いに来てください
 ぜったいです」byチャーチル

そんなチャーチルの心の孤独を癒したのが、おもちゃの兵隊でした。
チャーチルは人形の兵士を動かしている時だけは夢中になれました。
その姿を見た父・ランドルフは、軍人よりも向いているのでは??と、軍人を勧めます。
なんとか、士官学校に入学することのできたチャーチルは、19歳になったある日・・・
父・ランドルフが演説の途中で言葉に詰まります。
原因は、脳に至る重い病気でした。
1895年、ランドルフ、45歳で死去。
目標とする偉大な父が、突然消え去りました。

「私はいまや己自身が運命の主人となった」

士官学校を卒業したチャーチル・・・初めて自らの意思で選んだのは、戦争でした。
イギリスは、大英帝国として栄華を極めていましたが・・・19世紀末から植民地の独立運動が勃発!!
武力反乱もしばしば起きていました。
チャーチルはその反乱を抑えるべく、インド・スーダンなど戦地を転々とします。
最前線で、敵の弾丸をよけない命知らずな行動で、頭角を現していきます。
チャーチルを突き動かしていたものは、亡き父に自分の実力を証明したいという願望でした。
そしてチャーチルは、リスクを冒すことを恐れない人物でした。
彼は、地震の名をあげることに強い意志を持っていて、それが一番大事で、身の安全、経済的な安定は二の次でした。
戦線を転々としながら夢中で読んだ本は父も愛読していた「ローマ帝国衰亡史」でした。
大英帝国の行く末に危機を抱くチャーチルにとって、ローマ帝国の衰退は他人事ではありませんでした。

「我が人種の力と活気は衰えることなく、先祖から引き継いだ帝国を保持していくことを我々は決意ぢている」byチャーチル

大英帝国を保持する為に自分はどうすればいいのか??
戦場から帰ってきたチャーチルは軍陣をやめ、父と同じ政治家を志します。
24歳で下院議員に立候補!!
しかし、実績も知名度もないチャーチルは落選!!
とにかく知名度をあげなくては・・・!!

その時、チャーチルが目をつけたのは、南アフリカでおきていたボーア戦争でした。
イギリスが新たな植民地獲得のためにオランダ系のボーア人に対して起こしたものです。
チャーチルは新聞社と契約し、従軍記者として現地へ!!
ところが、チャーチルは現地で捕らえられ捕虜となってしまいます。
3週間が過ぎた頃・・・仲間と脱獄を試みます。
しかし、看守の目を脱獄できたのはチャーチルだけ・・・
敵地でのたった一人での逃亡が始まりました。
チャーチルは密かに列車に乗り込んで・・・目指すは500キロ先のポルトガル領モザンビーク!!
脱走してすぐチャーチルには追手がかかり、懸賞金もかけられます。
このまま易に行ってはあぶない・・・列車から飛び降り・・・脱走から2日間眠れず、何も食べていない・・・
一か八か、一軒のドアをたたきました。

「私はイギリスの特派員です。
 捕虜収容所から逃げてきました。
 助けてください。」byチャーチル

「君は家に来てよかった。
 うちだけだ、子の辺りで君を敵に引き渡さない家は・・・!!」

男は現地に帰化した元イギリス人・・・この地で数少ない味方でした。
捕虜の身から脱獄し、イギリスに生還したチャーチル・・・
イギリスではこぞって英雄として取り上げられました。
図らずも抜群に知名度を上げたチャーチルは、立候補し、下院議員に初当選しました。
1900年、25歳の時でした。

亡き父の背中を追って政治家となったチャーチル・・・
しかし、65歳で首相になるまで何度も失敗を犯し、政治生命を絶たれかけます。
33歳の時、人生を変える女性が表れます。
1908年クレメンティーンと結婚
9歳年下と妻は、生涯チャーチルに安らぎを与えてくれました。
そして5人の子供に恵まれます。
チャーチルとクレメンティーンの関係は非常に重要で、妻は彼にとって岩のような存在でした。
世界が変わりゆく中で安定した存在でした。
そして彼が誤った選択をしたとき、過ちをはっきり指摘することができる数少ない人物でした。
益々仕事に打ち込んだチャーチル・・・
1911年36歳で海軍大臣に抜擢されます。
1914年第1次世界大戦勃発!!
イギリスは連合国としてドイツに宣戦布告します。
チャーチルはドイツに大打撃を与えるべくガリポリ作戦を発案します。
目標はトルコ・イスタンブールの占領。
黒海とエーゲ海を繋ぐ要所を押さえてドイツの補給路を断つ作戦でした。
ところが・・・イスタンブールを望むガリポリ半島に上陸しようと試みた英仏連合軍は、6万もの犠牲者を出して大敗・・・。
この事態を受けて作戦の立案者のチャーチルに避難が殺到します。
チャーチルは戦争にもかかわらず、海軍大臣を辞任!!
妻への手紙に、不可解な文章を書いています。

もし私の黒い犬が戻ってきたら、今のところはずいぶんと遠くに行っているようで、それにはほっとしている

チャーチルは犬を飼っていませんでした。
チャーチルは、彼にしか見えない黒い犬に怯え、悩まされます。
この黒い犬とは・・・??
1915年、彼は非常に気が動転し、落ち込みました。
彼の精神状態を言い表すなら、死別とか、喪失とか、悲観・・・
これらは、うつのような症状ですが、病気ではありません。
海軍大臣という要職を奪われたことが、彼の心を砕き、落ち込ませたのです。
大臣の座を追われたチャーチルは、妻の勧めもあって、田舎で静養します。
やがて、目に映る自然や風景を描き始めました。
無心に何枚もの絵をかきます。
後にその心境を表現しています。

「絵の女神が私を救いに訪れた」

気力を取り戻し、ロンドンに戻ったチャーチル・・・この時40歳。
大臣を辞任し、政治生命を絶たれたに同然でした。
今の自分にできることは・・・一兵士として再び戦場へ・・・!!
大臣まで務めた人物が最前線に行くのは異例のことでした。
死と隣り合わせの塹壕の中で不思議な高揚感に襲われます。

「防衛区域のただ中では、土から死者の足やら服が飛び出していて、広範囲に墓が散らばっているようだし、どちらを見ても水や泥だらけだ。
 これに、湿気、寒さ、あらゆるささいな不便が加わっているが、私はこの数か月感じたことのない幸せと充足を感じている。」

1918年11月ドイツの降伏で終戦。
イギリスは勝利したものの90万人の戦死者を出し、膨れ上がる戦費が生活を圧迫し、4年後の選挙ではチャーチルの所属する自由党は大敗し、議席を失うことに・・・!!
それでもチャーチルは諦めません。
2年後の1924年恥も外聞もなく敵の保守党に鞍替えして出馬、下院議員に当選!!
そして、チャーチルが生涯最もうれしかったのが父・ランドルフと同じ財務大臣に就任します。
この時、49歳でした。

1939年第二次世界大戦勃発!!
イギリスは再び連合国としてナチスドイツと対決します。
その大戦のさ中・・・イギリスの首相となったのがチャーチルでした。
対戦当初、ドイツは破竹の勢いで各地を侵攻、フランス・パリも占領し、英仏海峡までやってきました。
イギリスが降伏すれば、ヨーロッパ全体がヒトラーの手に落ちるかもしれない・・・!!
絶体絶命の危機の中、チャーチルはどうやってイギリスを勝利に導いたのでしょうか??

第一次世界大戦で敗れたドイツは、壊滅的な打撃を受け国民の生活は困窮を極めました。
そんな中、ヒトラーのナチ党が台頭します。
1933年ヒトラーはドイツの首相に就任。
2年後、再軍備を宣言します。
この時、イギリスは一旦抗議するものの、ドイツの再軍備を追認しました。
ドイツを封じ込めるのではなく、譲歩することで取り込もうとしたのです。
しかし、チャーチルは違いました。
1932年にドイツを訪問し、ナチ党が独裁の道を着々と歩んでいることを目の当たりにしていたからです。

「私にはドイツ再軍備は冷酷で不気味さを帯びているように思われた。
 それはきらめき、そしてギラギラと光っていた。」

チャーチルはイギリスの政治家の中で、アドルフ・ヒトラーの脅威に最初に気付いた一人でした。
ヒトラーがヨーロッパのバランスを崩して、再び世界を戦争状態に戻そうとしていると早くから感じ取っていました。
1939年9月、ナチスドイツがポーランド侵攻
イギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、チャーチルはまたもや海軍大臣に就任します。
そのわずか9か月後、ドイツはオランダ・ベルギーに侵攻。
チャーチルが指摘した脅威は本物となっていました。
1940年5月・・・ヒトラーの危険性をいち早く唱えたチャーチルが首相に任命されました。
65歳の時でした。

「ついに私は、全局面にわたって指導していく権力を握ったのだ。
 私は運命と共に歩いているかのように感じた。
 そして、過去の私の生涯は、全てただこの時、この試練のための準備に過ぎなかった。」

ナチスドイツの対抗するためには、国民の士気を高め、野党を取り込む必要がありました。
イギリスを一つにまとめ上げる!!
チャーチルは、演説の準備を周到に行います。
6月4日、下院の議場に立ち、野党の議員を前に演説をはじめました。

「我々はいかなる犠牲を払っても、英国を守り抜く
 海岸で上陸地点で戦い 野原や市街で 丘で戦う
 断じて降伏はしない!!」

議場は歓喜に包まれたといいます。
チャーチルの就任後、それまでは入閣を拒否していた議員たちも政権に参加!!
パリを占領したナチスは、遂にイギリス本土に本格的な攻撃をはじめました。
爆撃機にとるロンドンの無差別空襲!!
多くの市民が犠牲となりました。
瓦礫と化したロンドンを歩くチャーチル・・・みなを励まして回ります。
チャーチルは、どんな場所でも帽子、葉巻、ステッキを崩すことはなく、その姿に国民は「イギリスはまだ大丈夫!!」と感じたといいます。

「大英帝国と共に、我々は降伏することなく戦い続けるだろう
 ヒトラーの呪いが人々の頭上から消え去るまで!!」

チャーチルはドイツ軍の具体的な策も実行します。
最新鋭のレーダーを配備!!ドイツ軍の爆撃機を迎え討つ体制を整えます。
1か月以上の戦闘で、イギリスはドイツ軍1,400機を撃墜!!
ロンドンの空からドイツ軍を追いだすことに成功しました。
ロンドンは守ったものの、大陸ではドイツ軍が優勢を誇っていました。
そこでチャーチルは、アメリカのルーズベルト大統領と会談!!
アメリカの参戦を要請します。

毎日の執務時間17時間、睡眠は3時間!!
自宅に帰っても外交文書の口述を続けました。
それでも、昼からシャンパンを欠かさず、日に10本の高級葉巻をくゆらし、夜にはウイスキーやブランデーを・・・
心臓発作で倒れても、生活は変えませんでした。

1941年12月アメリカが参戦し、ドイツに宣戦布告!!
形勢を一気に逆転させるためには・・・??
ノルマンディー上陸作戦!!

連合軍が英仏海峡のフランス・ノルマンディーに上陸し、ドイツの防御網を突破しようというものです。
この勝負に負ければ、イギリスは二度と立ち上がることはできないかもしれない・・・!!
チャーチルは、作戦実行前夜、イギリスの拠点・ポーツマスまで見送りに行ったといいます。
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦・・・4000隻を超える大艦隊、史上最大の上陸作戦が実行されます。
ドイツ軍との激しい戦闘の末、連合軍は上陸に成功!!
ここから反撃が始まりました。
連合軍はドイツ軍を次々と撃破!!そして、1945年5月、ベルリンが陥落し、ドイツは無条件降伏!!
チャーチルの戦争はようやく終わりました。

チャーチルはイギリスが勝利することで、戦う以前の大英帝国の状態に戻ることを期待していました。
ところが、戦勝国の会議で主導権を握ったのは、アメリカのルーズベルトとソ連のスターリンでした。

「私の左側には手足を思い切り伸ばしたロシアの大熊、右側にはアメリカの大きな象がいた
 二頭に挟まれ、哀れな英国の小さなロバはただ一人、正しい道を知っていた」

イギリスの領土要求は不調に終わったばかりか、かつての大英帝国の植民地も独立の道を歩み始めます。
チャーチルの目指した栄光は幻となってしまったのです。
更に選挙でも保守党は敗退・・・首相の座を追われたとき、70歳になっていました。
引退を考えてもおかしくないのに・・・野党の党首として働き続けます。

「いま、政界を引退したら、2度と戻ってくることは出来ない」

チャーチルは、地震の影響力で冷戦の緊張緩和が得られると信じていました。
東西冷戦の中で、イギリスの影響力を保持する為に、自分にできることがあると信じました。
第二次世界大戦後の世界は、ソ連を中心とする社会主義陣営とアメリカを中心とする資本主義陣営の冷戦状態にありました。

チャーチルは、東西の冷戦を「鉄のカーテン」と表現し、その西側にいる我々は団結するべきだ!!と、主張します。
現在のEU構想をいち早く唱えたと言われています。
活動を続けること6年・・・チャーチルに幸運が・・・政権与党への不満が爆発し、野党が政権をとり1951年、76歳にして再び首相に返り咲きます!!
しかし議会では、老害、引退すべき・・・との発言が・・・
新聞記者にいつ引退するのか聞かれたチャーチルは、
「私の健康が本当に衰えて、大英帝国が本当に元気を取り戻したらね。」と、答えました。

そんな中、思いもよらない出来事が・・・ノーベル文学賞の受賞!!
自らの著書、「第2次世界大戦」が戦争当事者の貴重な証言として高く評価されたのです。
チャーチルは序文に書いています。

「過去に深い考慮を払うことが来るべき日の手引きとなり、未来の恐るべき光景を抑制できることを私は心から願っている」

ノーベル賞の受賞で、まだまだ元気と思われていたチャーチルでしたが・・・耳が遠くなり、閣議の答弁も失敗するように・・・
1955年、80歳になったチャーチルは、周りに促され遂に引退を受け入れます。
首相官邸を去る前日・・・妻・クレメンティーンと共にエリザベス女王から直々に労いを受けたのです。
それから10年後の1965年1月24日、ウィンストン・チャーチルは90歳で激動の人生にピリオドを打ちました。 

奇しくも父親が死んだ人同じ日でした。
1月30日の国葬にはチャーチルを慕う30万人の国民が参加。
チャーチルは人生を振り返ってこうつぶやいています。

「いい旅だった
 旅に出た価値はあった・・・1度だけなら」byチャーチル

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

第二次世界大戦 合本版【電子書籍】[ W・S・チャーチル ]

価格:3,780円
(2019/1/5 10:19時点)
感想(0件)

チャーチル・ファクターたった一人で歴史と世界を変える力【電子書籍】[ ボリス・ジョンソン ]

価格:2,484円
(2019/1/5 10:19時点)
感想(0件)

このページのトップヘ