日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ナチ党

90年前・・・催眠術や交霊術を発揮し、世界一の予言者と呼ばれた霊能力者がいました。
その名は、第三帝国の予言者エリック・ヤン・ハヌッセン!!
予言者ハヌッセンは、あやしい霊能力を使い、ヒトラーの黒幕と噂された謎の男・・・
ナチス・ドイツを支持すれば、幸せな未来が来ると、民衆の期待を煽り続けた時代の申し子です。



1932年アメリカ・・・子ヤギに布をかける怪しげな男女・・・大勢の観客が見守る中、魔法の呪文でヤギが人間に・・・!!
観客が大喜びのイリュージョンです。
20世紀前半、欧米を興奮の渦に巻き込んだ男エリック・ヤン・ハヌンセン。
ステージに立てば、常に満員!!
交霊術で死者の声を告げれば、トランス状態であらゆる未来を予測・・・

「ハヌンセン!!世界一有名な予言者」

1930年、41歳の時に出版した自叙伝”私の生命線”の序文には、
”透視能力や催眠術師として名を馳せた男の人生”
自信に満ちた謎の霊能力者はどこから来たのでしょうか?

ハヌンセンが生まれたのは、1989年6月2日、芸術の都ウィーン、かつて栄華を誇ったオーストリア帝国が衰退を迎えていた時代です。
ハヌンセンが育ったオッタクリングは、当時のウィーンの西のはずれ・・・労働者が暮らす貧しい地域でした。
本名ヘルマン・シュタインシュナイダー・・・ハヌッセンは、後に北欧風の芸名をつけたものです。
父ジークフリートは、ヨーロッパ各地を巡業する旅役者で、母ジュリーも同じステージに立つ歌手でした。
旅芸人の暮らしは不安定・・・食卓にはパンとスープだけだったといいます。

”父親は何の役にも立たない貧しい悪魔だった
 私の子供時代は決して楽ではなかった
 私は英雄になりたかった”

自伝によると、ハヌッセンは9歳の頃、近所の人々を前に初めて予言をしたといいます。

「この工場に指名手配のギャングが潜んでいるというお告げがありました
 僕がこれから火をつけて、ヤツを追い出して見せます」

そして、工場に火を・・・すると、なんと本当にギャングが逃げ出してきたのです。
予言者ハヌッセンの始まりでした。
ところが、アメリカのハヌッセン研究者によると・・・実際にあった話ではないのではないのか??
彼は幼いころ、ウィーンの貧しい環境で暮らしていたので、裕福な人々と自分とのギャップをとても感じていました。
その体験から、彼が目指していたのは富と名声を手に入れること・・・そして、認められることでした。
人から注目されることに飢えていたのです。

ハヌッセンは、14歳の時、自分の力で一旗揚げようと親元を離れました。
サーカスの猛獣使い、歌手、マジックショー・・・あらゆるステージテクニックを学びます。
しかし・・・一向に目が出ません。
さらに25歳の時、第1次世界大戦が勃発・・・ハヌッセンは、半年で33万人の死者を出したポーランドの激戦地ゴルリツェに派遣されました。
いつ死ぬかもわからぬ日々・・・ハヌッセンは、自分の才能に目覚めます。

直属の上官の未来を超能力で予言します。

「赤ん坊が見えます 男の子・・・そう、元気な男の子が・・・!!」

言われた上官も半信半疑・・・ところが5日後、

「妻に子供が生まれたんだ
 しかも男の子だ!!
 予言が当たったよ!!」

大喜びした上官は、ハヌッセンを危険な前線任務から外しました。
ところが・・・この霊能力予言には種がありました。
前線近くの野戦郵便局・・・そこで働く友人を買収し、予言する相手あての手紙を前もってのぞき見していたのです。



1918年第1次世界大戦終了・・・
ハヌッセン30歳、ドイツの首都ベルリンに拠点を移し、再びステージへ!!
そこで、今まで学んだステージテクニックを花開かせます。
霊能力を駆使したテレパシーショーです。
ステージ上のハヌッセンは、まず、目と耳を完全にふさぎます。
その間に、観客の一人が、他の観客にわかるように客席のどこかにマッチ箱や煙草入れを隠します。
続いて、無作為に選んだ協力者の心をテレパシーで読み取ります。

「隠したものの形、材質、しっかり心の中でイメージしてください」
そして、協力者の腕を握り、その目と心を通して隠し場所探り当てるのです。

これぞ本物の神秘の力・・・!!

ハヌッセンの霊能力ショーは、大ヒット、チケットは完売し、4万6000人以上を動員。
噂は瞬く間に広がり、ステージの依頼が殺到!!
月収は1000万円!!
セレブ相手の交霊術や、個人占いも始めます。
料金は1回で労働者の月給の4倍・・・30万円という荒稼ぎでした。
金と名誉を獲得したハヌッセンは、あらゆる欲望へと手を広げ、週末ごとに自分の高級ヨットにセレブを集め、いかがわしいパーティー三昧・・・
そんな彼のヨットに世間がつけたあだ名は「七つの大罪」号でした。
傲慢、強欲、色欲、暴食・・・欲望の赴くまま・・・ハヌッセンは、子供の頃からあこがれ続けていた世界へとなりあがったのです。

ハヌッセンは本当に霊能力の持ち主だったのでしょうか??
整理心理学の一種の応用的な手法を用いたと考えられます。
通常では気が付かない程度の僅かな反応を、彼が手を握ることによって読み取った可能性があります。
人力ウソ発見器です。

人間は、緊張すると無意識に脈拍が上がり、汗がにじみ、筋肉がこわばります。
テレパシーショーの場合、ハヌッセンが隠し場所に近づくと協力者は緊張し、このような生理現象が出ます。
そのまま通りすぎたりすればホッとして生理現象が弱まります。
ハヌッセンは、握った協力者の腕から微妙な変化を読み取りながら隠し場所に向かったとされます。
筋肉リーディングという高等テクニックです。

必要なものは観察眼、共感性です。
それをエンターテインメントでうまくパッケージングしたものなのです。

「僕は英雄になりたかった」

貧しかった時代から抜け出し、富と名声を手に入れたハヌッセン。
しかし、1度火が付いた野望は、治まることを知らず、更なる野望へと突き進んでいくのです。

霊能力ショーで成功したハヌッセン・・・種も仕掛けもあったとはいえ、並外れた才能がありました。
ステージが始まる前、ハヌッセンは助手を使って今日の観客の情報をリサーチしていました。
それを本番直前に暗記することで、どんな観客が相手でも言い当てることができるようにしていました。
観客は、ワンステージで数百人分・・・公演のたびに記憶をしていました。
数か月たっても完璧に覚えていたといいます。
しかし、彼はステージの成功だけでは満足しません。
さらなる富と名声を求めて近づいていったのは、あのナチスでした。

1930年初頭・・・ハヌッセンが活躍したドイツ・ベルリンは混乱の中にありました。
1929年に襲った世界好況によって、ドイツの失業者は600万人に膨れ上がっていました。
失業率は、実に30%・・・未曽有の危機・・・!!
そんな中、ドイツ議会では二つの政党が人気を集め、急成長をしていました。
ひとつは低賃金労働者層に支持され、富と権力を独占する富裕層打倒を目指すドイツ共産党、もうひとつは・・・

「他の政党をドイツから追い出すことが第一の目的だ!!」byヒトラー

アドルフ・ヒトラーを当主とするナチ党・・・国民社会主義ドイツ労働者党です。
話し合いばかりで問題解決ができない議会民主制ではなく、即断できる独裁制で新時代を切り開こうと訴えて人気を集めている勢力でした。
ナチ党と共産党は、お互いを宿敵と憎み、労働者層の占拠票を奪い合い、乱闘騒ぎを起こしていました。
そんなある日、ハヌッセンはベルリンの社交界でナチ党の幹部と友人になります。
ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ伯爵です。
ナチ党突撃隊ベルリン支部の指揮官でした。
突撃隊は、ナチ党が政敵を排除するための暴力専門集団で、その幹部へルドルフも強硬派の恐ろしい男・・・
ただし、ギャンブル好きという弱点を持っていました。
借金がなんと1億6000万円・・・そのうち半分をハヌッセンが肩代わりしたといいます。
ハヌッセンは、へルドルフの人脈を生かし、名だたるナチ党幹部に接近します。
ナチ党幹部に資金提供をすることで、上り調子の政治権力に食い込むことを狙いました。

ハヌッセンとへルドルフは、持ちつ持たれつの仲でした。
へルドルフはお金が必要で、ハヌッセンは上級階級のコネを求めていたからです。
ハヌッセンは更なる名誉と権力を得ようとしていたのです。

1932年1月・・・ハヌッセンは、世間への新たなアピールに打って出ます。
印刷所を買収し、新聞を発行!!
その名も「週刊ハヌッセン新聞」です。
記事の中身は、
”10分の瞑想が3時間の睡眠に匹敵”
”自ら愛用のインド式数珠をPR”
”催眠による若返り療法”
大衆受けする健康情報や、お役立ち情報などをハヌッセンのオカルトチックな味付けで打ち出します。
これが大ヒット!!
創刊時の発行部数8000部が、1年後には15万部、さすが世間の空気を読むヒットメーカーです。

ところが、4か月後の5月、別の新聞から攻撃を受けます。
ドイツ共産党の機関紙「ベルリン・アム・モルゲン」です。
”ベルリンを支配する詐欺師”
”高級車、高級ヨット、印刷工場、全て詐欺まがいの商法で得た富”
”霊能力商売で荒稼ぎをし、欲望をむさぼるハヌッセンは、金持ちの堕落そのもの”
と叩かれたのです。
これに対し7月、ハヌッセンは自らの新聞で反撃!!
”ヒトラーに政権を”
”ヒトラーの首相就任やいかに?ゴール間近!”
予言や占いという形で、ヒトラーが政権を取るべきだと応援をはじめました。
ハヌッセンにとって、有力な人脈を作ってきたナチ党は、同じ共産党を敵とする仲間同士でした。
そこで、「ヒトラーがもうすぐ大統領から任命され首相になるはず」と世間にアピールします。
そして、共産党の勢力を削ぎ、攻撃から身を守ろうちしたのです。
一方ナチ党にとっても、人気者ハヌッセンによる「ヒトラーが政権を取る」予言は好都合でした。
黙っていても、プロパガンダをするハヌッセンは、利用価値がありました。
予言者ハヌッセンと扇動者ヒトラー・・・過激な方法で、大衆心理を掴む二人が今、歩み寄ろうとしていました。



ヒトラーに接近し、更なる栄光を目指すハヌッセン・・・そのハヌッセンを利用して、政権の獲得を目指すヒトラー・・・この二人には、多くの共通点がありました。

同じオーストリアの出身で生まれた歳も同じ1889年、2人とも孤独な幼少期を送り、若い頃はヒトラーは画家になろうとして挫折、ハヌッセンはショービジネスで失敗続き・・・
一方で、成功のきっかけは、ヒトラーは人の心をつかみ過激な演説で、ハヌッセンは人の心を操る怪しげなショーで・・・。
これは運命なのか??混ぜてはいけない危険な二人が、ドイツの未来を闇へといざないます。

1932年7月、ナチ党は第1党に・・・!!
”選挙戦に向けて星占い”
”ナチ党と突撃隊、そしてヒトラーなしでは国民の勝利とドイツの復活は不可能”
1932年後半、ハヌッセンは予言によるヒトラー応援にさらに力を入れていました。
一方、別の出版社からはハヌッセンとヒトラーのつながりを掻き立てる本が・・・!!

”ヒトラーが手を伸ばすとハヌッセンは手相を注意深く見てこう伝えた
 「あなたはいつかドイツのアイドルになるでしょう
  あなたが政府のかじ取りをする素晴らしい日がいよいよやってきます」”byハヌッセン ドイツのラスプーチン

大人気霊能力者のヒトラーへのいれあげぶりに、世間では引っこ抜くと声をあげる魔法植物マンドラゴラをハヌッセンがヒトラーに贈ったという噂も出ました。
アメリカCIAの機密文書では、諜報機関(OSS)によるヒトラー分析で、黒幕にハヌッセンがいると指摘しています。

”ヒトラーは、ハヌッセンという人物から定期的に演説や大衆心理のレッスンを受けていた”

ハヌッセンは、本当にヒトラーのアドバイザーだったのでしょうか?
ハヌッセンとヒトラーがあっていたという確証はありません。
世間の人々は、エゴやカリスマ性という共通点を持つハヌッセンとヒトラーがたがいにひかれ、繋がっていると信じたかったのかもしれません。
2人の実際の交流を勘繰るほど、ヒトラーの首相就任に期待をかけ、予言を続けるハヌッセン・・・!!
しかし、応援を初めて数か月・・・現実はなかなか予言通りにはいきませんでした。
8月・・・ドイツ政府の内部で「大衆に人気があるヒトラーを首相に任命するべきでは?」という意見が上がります。
しかし、大統領ヒンデンブルクはこれを拒否。
しかも、3か月後の11月6日、選挙でナチスは議席数を230→196と大きく減らします。
ヒトラーとナチ党の銃成長が行き詰ったのです。

さらにハヌッセン自身にも危機が訪れます。
12月12日、ある一般新聞のスクープ記事に、ハヌッセンは驚愕します。
”予言者の闇・・・ハヌッセン・・・本名ヘルマン・シュタインシュナイダーはユダヤ人である”
ハヌッセンの結婚式の証明書には・・・ユダヤ人教会で行われたと司祭が書き記しています。
ハヌッセンはこれまでユダヤ人という事実をひた隠しにしてきました。
この報道に、友人へルドルフは激怒!!
「君がユダヤ人だというのは本当なのか??」
彼が所属するナチ党は、設立当初からユダヤ人をドイツ民族の敵とみなす反ユダヤ主義を掲げていました。
しかも、へルドルフは、突撃隊幹部としてベルリンでのユダヤ人迫害に積極的にかかわる強硬派・・・!!
ハヌッセンがユダヤ人だとしたら、ただで済ますわけにはいかない・・・!!

「それは全くのでたらめだ・・・ 
 俺の両親は、デンマークの貴族だったが、早くに亡くなってしまい親切なユダヤ人夫婦の養子になった」byハヌッセン

ステージで鍛え上げた度胸と機転で、とっさに過去をでっち上げ、なんとかその場を取り繕いました。
ユダヤ人でありながら、ナチ党の幹部たちと付き合い、さらにはヒトラーの政権獲得を応援するハヌッセン・・・
どうして、このような危険な行動をとったのでしょうか??
知人に語っています。

「私は、ナチの反ユダヤ主義は、ナチ党が選挙で大衆の支持を得るためのトリックに過ぎないと思っていた」byハヌッセン

ハヌッセンは、ナチ党の行動の真意を、完璧に読み取れていると自信を持っていました。
さらに・・・彼は、ナチの寄付金の領収書、借金の借用書を大量に持っていました。
これが世間に出ると、ナチはユダヤ人のハヌッセンを頼りにしているとバレてしまいます。
ナチは、自分になついているし、この切り札がある限りは安全だと考えていたのです。

多少のリスクは乗り越えられる・・・ハヌッセンは自分の未来をヒトラーの成功に賭けました。
その賭けは、ある日突然決着を迎えます。
1933年1月28日・・・内閣が突如総辞職・・・
2日後の1月30日、ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーを首相に任命しました。
ヒトラー政権が誕生したのです。
予言がついに現実となりました。

”ハヌッセン新聞、世界史を先取り”
 
その上、ハヌッセンは、ヒトラーに自分を売り込むかのような熱烈なメッセージを 

”帝国首相閣下!
 私は閣下の時代の到来を予見し、それを信じてきた人たちに真実をそのまま告げました
 これまで私は閣下の成功を予言するたびに、嘲笑され、風刺画を描かれ、イカサマ予言者と呼ばれました
 それでも自分が再興の社会「閣下の社会」に属しているという思いこそが、私の慰めとなったのです”

ヒトラー政権誕生と時を同じく・・・1933年1月、ハヌッセンはベルリン中心街の高級アパートに入居します。
内装に2000万円以上かけた部屋を披露します。
通称オカルト宮殿・・・友人たちを招いて交霊術や占星術を行う特注テーブル。
セラピーを行う帆船を模した巨大な像
全ての客室には盗聴器がつけられ、ゲストの占いやショーに当たっての情報収集も万全でした。
我はヒトラーの予言者・・・ハヌッセンは栄華の絶頂にありました。


ヒトラー政権誕生から1か月・・・2月27日、謎の大事件が起きます。
午後9時30分ごろ・・・民主主義政治の中心・国会議事堂が炎上します。
真赤な炎と黒煙に包まれました。
駆けつけたヒトラー首相は、これは共産党による国家転覆の陰謀だとまくし立てました。

「まさに今、ドイツの新たなる章の幕開けを目撃している
 この炎が始まりだ!
 共産党の活動家は、全員射殺だ!!」byヒトラー

一方、国会炎上前夜・・・
あのオカルト宮殿にセレブや新聞記者を招き交霊会を行っていたハヌッセン・・・
ハヌッセンは翌日のヒトラーと同じようなことを口走っていました。

「炎が見える、巨大な炎・・・火事だ・・・大きな火災が発生している
 放火魔が、罪を働いている」byハヌッセン

それはまさに、国会議事堂放火の予言でした。

実は、この国会議事堂放火事件は、ナチの自作自演と言われています。
自ら国会に放火した上で、共産主義者を犯人に仕立て、クーデターをでっち上げたのだという・・・
ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領に依頼し、緊急事態に対応する法令を布告。
事件翌日には、国民の基本的人権のほとんどを停止、共産主義者の徹底弾圧を強行しました。
逮捕者2万5000人以上・・・ヒトラーはわずか1日で、敵とみなす相手を一掃する手段を手に入れたのです。
遂に、恐怖政治の本性をむき出しにしたヒトラー・・・
国会放火事件を予言したハヌッセンは、ヒトラーの陰謀を事前にリークしたことになります。
ハヌッセンは、特別なセンセーションを見せたかったのでしょう。
自分がいかに予知能力を持っているか・・・実行直前の国会議事堂放火に関する情報は、へルドルフから得ていたと思われます。
ハヌッセンのこの予言が浅はかで、行き過ぎだったのは言うまでもありません。

この直後から、ハヌッセンは何者かの影におびえるような発言を友人に語るようになります。

「私の頭上には、暗い雲が浮かんでいて、それが覆いかぶさっている
 自分に残された時間はわずか
 自分には大きな災難が近づいている
 ここ数週間、気分が乱れていて、武装した護衛なしには劇場へ向かいたくない
 できるだけ早くアメリカに腰を下ろすつもりだ」byハヌッセン

1か月後の4月からは、ウィーンでの公演を控えていました。
これを機に、海外脱出を目指そうとしたのか・・・??
しかし、一方で、ハヌッセンの秘書は近証言をしています。

「ハヌッセンの部屋には、ナチ党員の証明書がありました」

追い詰められたハヌッセンは、ベルリンでキリスト教に改宗して、ナチ党に入党しています。
これは、ハヌッセンの最後の悪あがきだったのです。
このままベルリンでナチとの良好な関係を期待するのか?
それとも海外へ脱出した方が安全なのか??

しかし、ウィーン公演へ向かう10日ほど前・・・ハヌッセンは再びあってはならないミスを犯します。
1933年3月19日、ある出版社の買収に参加したハヌッセンは、売り手側の裏切りに遭います。
へルドルフの部下の突撃隊幹部ヴィルヘルム・オーストが、買収に割り込んできたというのです。

「それなら、おーすとはこれまで私が貸してきた金をすべて返すべきだ」

ナチが、ユダヤ人のハヌッセンから借金をしていることは、借金証書をハヌッセンが切り札にするほど重大な秘密でした。
それを、おーすとにつながる人物の前で、口走ってしまったのです。


1933年3月24日夜10時・・・スカラ劇場・・・
いつものステージ・・・出演時間の夜10時になってもハヌッセンは姿を見せませんでした。

その2時間前・・・オカルト宮殿を訪ねたのは、4人のナチ突撃隊員でした。
オーストもいました。

「借用証書全てを渡してもらおう」

もはや、友人の顔ではありませんでした。

「それは渡せない」

抵抗するハヌッセン・・・しかし借用証書も寄付金の領収書もすべて奪われました。
ハヌッセンは車に乗せられました。
2週間後の1933年4月7日・・・ベルリン郊外の森で遺体が発見されました。
背後から3発の銃撃を受けた遺体は、野生動物の餌食となっていました。

ハヌッセンが連れ去られる前日の3月23日、臨時の国会議事堂をナチ突撃隊が包囲する中、全権委任法が成立。
ヒトラーは、国会を通さず、自由に法律を作る権限を手に入れました。
もはや、予言者など不要でした。
やがて、独裁政治を確立していくヒトラーによって、ドイツ支配下のユダヤ人は、財産も、人権も、そして命を奪われていきます。

ベルリン中心部から南西に30キロ・・・ハヌッセンは、遺体発見の勅語、ドイツ・朱ターンすドルフの南西教会霊園に埋葬されました。
墓碑銘には、エリック・ヤン・ハヌッセンとだけ・・・華やかな肩書も、ユダヤ人としての本名もない・・・。
埋葬の時、参列者はわずか7人でした。

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ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー・・・第2次世界大戦中、ユダヤ人虐殺など20世紀を血塗られた歴史にした人物です。
そのヒトラーの側近としてあらゆるメディアを牛耳ったのが、ヨーゼフ・ゲッベルスです。
嘘をばらまき、憎しみと暴力を煽って、人々を戦争へと動かしました。
彼が信じたのはヒトラーだけでした。
独裁者・ヒトラー・・・最大850万人もの党員を抱えたナチ党を率いる彼には、多くの側近たちがいました。
中でも異彩を放ったのが、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスです。

「プロパガンダには秘訣がある
 何より人々にプロパガンダと気付かれてはならない」byゲッベルス



プロパガンダとは、特定の主義・思想に導く宣伝戦略のことです。
これを駆使したゲッベルスは、地方の弱小政党に過ぎなっかったナチ党をドイツ有数の大政党に育て上げました。
ナチ党の名を広めるためには・・・わざと大乱闘を起こす
大統領選挙では、ヒトラーを飛行機に乗せ、ドイツ全土で演説させました。
これは、世界初の試みでした。
政権成立後は、ラジオ放送、映画・・・すべてのメディアをヒトラーのために利用しました。
そして・・・

「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」byゲッベルス

煽られた国民は、ユダヤ人排斥の道へ突き進んでいきました。
しかし、第2次世界大戦の終盤・・・ナチス・ドイツは敗北をかさね、
側近たちはヒトラーのもとを去っていきました。
しかし・・・ゲッベルスだけは、ヒトラーのそばを離れませんでした。
ヒトラーのいない人生など考えられませんでした。

ゲッベルスは、1929年に出版した自伝的小説の中で、ヒトラーについてこう述べています。

「僕は新しいキリストを見た」

ゲッベルスは、どうしてヒトラーを救世主と崇めるようになったのでしょうか?
1897年、ドイツ西部、人口3万人の工業都市ライトで生まれました。
父親は、ガス燈を作る会社の支配人で、両親は敬虔なカトリック信者でした。
ゲッベルスは、6人兄弟の4番目、幼いころからコンプレックスを抱いていました。
学校での休み時間・・・楽しそうに遊ぶ同級生の輪の中に入っていくことはできませんでした。
その訳は・・・足の長さが異なるため、右側には整形用の靴を履き、足を引きずっていました。
4歳の時にかかった小児まひの後遺症でした。

「猛烈な痛み、長い処置、足は一生麻痺・・・」

同級生や周りの大人は、彼に同情したが、ゲッベルスはそれが嫌でした。
ゲッベルスは、友達を作らず、家に帰っても屋根裏に閉じこもっていました。
1914年、16歳の時・・・第1次世界大戦が勃発。
ゲッベルスの同級生たちは、先を争うように兵隊に志願!!
ゲッベルスも志願しましたが・・・兵役不適合とされました。

「みんなは旗の元へ、一緒に行けないのはつらい」
 


その後、ひたすら勉強に打ち込み、優秀な成績で高校を卒業。
その頃の夢は、ジャーナリストか小説家でした。
親元を離れ、大学では文学を専攻、文学の博士号を取得しました。
卒業後は、新聞に記事を投稿するなど、ライターとして身を立てようとしました。
しかし、記事は没ばかり・・・心血をかけ書いた小説も、全く評価されませんでした。 
その頃、ドイツは第1次世界大戦に敗北、戦勝国から課せられた巨額の賠償金のため、ドイツ経済は深刻な打撃を受けました。
苦しい暮らしを強いられた人々の不満は、敗戦でワイマール共和制となった政府に向けられました。
若者たちの多くは、反政府運動へ身を投じていきます。
そんなある日、ゲッベルスはある新聞記事を読みます。
ナチ党という小さな党が、政府の打倒を掲げてミュンヘンで武装蜂起したという・・・!!
指導者は、アドルフ・ヒトラー、34歳。
共和国政府を否定して、強いドイツの復活を訴えるヒトラーに惹かれたゲッベルス・・・。
武装蜂起は失敗に終わり、ヒトラーは逮捕されます。
しかし、ゲッベルスは、ヒトラーこそ新しいドイツのリーダーと確信し、手紙を送ります。

「あなたは奇跡を行い、我々の心にかかる雲を取り除かれた
 いつの日か、全てのドイツ人があなたに感謝するでしょう」

ゲッベルスは、ヒトラーをキリストの使いだと書いています。
武装蜂起で自らの命を懸けて、犯罪者扱いされても食い下がって、民族の覚醒を訴える大胆さ・・・
これは、他の政治家にはありませんでした。
1925年、27歳の時、ナチ党地方支部に加入、宣伝活動に従事しました。
そこで、文学で培った才能が開花します。
それが演説です。
演説の上手さを買われてか、ゲッベルスは入党してわずか1年の間に180回以上の演説を行っています。
ゲッベルスの活躍が、ヒトラーに伝わります。
2人は面会することに・・・
ゲッベルスは、その時のことを日記に綴っています。

「この人は、王となるにふさわしい
 生まれながらの指導者、未来の独裁者」

この時、ゲッベルス28歳でした。

わずか50人ほどから始まったナチ党・・・
結党14年で政権の座に就いたとき、党員は85万人になっていました。
その後も増え続け、第2次世界大戦が終わるころには、党員数は850万人に達していました。
ヒトラーはこう述べています。

「宣伝は組織に先行する
 そして、その宣伝のためには有意な人材を獲得せねば
 ゲッベルスこそ、私が待ち望んだ人間だ」byヒトラー

ゲッベルスは、どのようにしてナチ党を大きくしたのでしょうか??

1926年、ゲッベルスの姿は首都ベルリンにありました。
ヒトラーからベルリンのナチ党大管区長に任命されたのです。
ナチ党の地元はミュンヘン・・・遠く離れたベルリンでは知名度は低く、党員は400~500名。
ここでは、共産党が最大勢力でした。
ヒトラーは、首都ベルリンでの勢力拡大という大仕事をゲッベルスに託したのです。
そこで彼の取った手段は・・・乱闘騒ぎでした。
共産党の支持基盤である労働者地区で演説、共産党をののしり、挑発します。
すると、大乱闘となりました。
ゲッベルスはそこに突撃隊員を突入させ、乱闘騒ぎをさらに大きくしました。
多くの負傷者が出たため、こうした事件はナチ党の名前と共に新聞に大きく取り上げられました。

「ベルリンは、魚が水を必要とするように、センセーションを必要としている」

その結果、悪名にもかかわらず入党志願者が殺到・・・狙い通りでした。
しかし、あまりに流血騒ぎを起こしたことで、ナチ党は警察から集会・演説が禁止されます。
すると、ゲッベルスはすぐに次の手を打ちます。
新聞の発行です。
その名も「攻撃」。
ゲッベルスがこの新聞を作ったのは、ナチ党の首都進出を阻むベルリン市政府を攻撃し、徹底的にこき下ろすためです。
罵詈雑言を浴びせ、事実を捏造してもセンセーションを巻き起こす!!
ゲッベルスは、当局の介入は不当だと訴えます。
そして、読者の共感を得ていきます。
ゲッベルスがベルリンに来て2年後・・・1928年、国会議員選挙が行われ、国会の議席を初めて獲得します。
491議席中わずか12議席でしたが、ゲッベルスはこう語っています。

「我々は敵として乗り込むのだ
 羊の群れにオオカミが襲い掛かるように、敵として乗り込むのだ」

さらに、この後、ナチ党が大躍進する事件が起きます。

1929年、ニューヨーク・ウォール街での株の大暴落に端を発する世界恐慌・・・
第1次世界大戦の痛手から立ち直りかけていたドイツでも、次々と企業が倒産・・・。
数百万人もの失業者が街に溢れました。
そんな中、ナチ党が目をつけたのが、都会ではなく疲弊の激しい農村地帯でした。
農民が、民族の美徳と伝統の担い手・・・と訴え、貧しい農民たちの心をとらえていきました。
一方で、貧困は、ドイツ共産党にも追い風となりました。
共産党は、失業者の支持を得て急成長。
ナチ党にとっては、目の上のタンコブでした。
その為、都市部ではナチ党と共産党が衝突!!
そんな矢先・・・1930年1月、ナチ党員が、共産党員に撃たれ死亡する事件が起きました。
実はこの事件は、政治とは直接関係のない女性を巡るトラブルでした。
ところが、ゲッベルスは、共産党員によるナチ党員への銃撃事件と・・・巧みに利用しました。
プライベートな争いを、政党の争いのように掻き立てて、共産党への憎悪を煽ったのです。
彼の葬儀では、”旗を高く掲げよ”という曲をナチ党の党歌として歌うように命じました。

”赤色戦線に殺された同志は、魂となって我らとともに行進する”

この事件の宣伝効果もあって、ナチ党への支持はますます広がっていきました。
ゲッベルスは後に、プロパガンダの手法についてこう語っています。

「プロパガンダには秘訣がある
 何より人にプロパガンダと気付かれてはならない
 相手の知らぬ間に、たっぷり思想をしみ込ませるのだ」

1930年9月、再び行われた国会議員選挙・・・
ナチ党は、12議席から107議席へと大躍進!!
次の目標は、いよいよ政権獲得でした。

「正午、長時間ヒトラーと打ち合わせ
 彼は、大統領選挙に対する考えを述べ、出馬を決意した」



1932年の春・・・大統領選挙では、現職のヒンデンブルクとヒトラーの一騎打ちとなりました。
ゲッベルスはこの時、とっておきのアイデアを実行します。
それは・・・飛行機でした。
飛行機で、全国を遊説しながらドイツ上空をのヒトラーというスローガンを人々にアピール!!
さらに、膨大な量のビラまき、数百万枚のポスター、ヒトラーの演説の映画フィルムを全国の市町村で上映しました。
しかし、ヒトラーは選挙に敗れました。
ところが、翌年、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命します。
常識では考えられない行為でした。
ヒンデンブルク大統領は、ワイマール共和国(当時のドイツ)をあまり快く思っていませんでした。
特に、ワイマール共和国憲法が定めた共和国の政治秩序を。
ナチ党は危険だが、うまく利用すれば共和国の在り方を変えられると考えたのです。
ヒトラーに首相の座を与えるが、その脇を保守派が固めることで、ヒトラーを懐柔することができると考えたのです。
この時、ゲッベルス36歳。

1932年1月22日、ゲッベルスはヒトラーとこんなやり取りをしています。

「ヒトラーと遠い将来について話す
 特に将来、私が就く官職の任務、権限の範囲をかなりのところまで煮詰める
 考えているのは国民教育省というようなもので、映画・放送・芸術・文化・宣伝、それに新しい教育機関などを統括することになるだろう」

1933年3月、国民啓蒙・宣伝省という史上かつてない省庁が作られました。
ボスはもちろん、宣伝大臣のゲッベルスでした。

1933年5月10日夜、ナチ党を支持する学生たちが、ユダヤ人の書いた本を焼き払う焚書が行われました。
物理学者・アインシュタインや、精神病理学者・フロイトの本などが次々と燃やされました。

「ユダヤ人による極端な知性主義の時代は終わった」

彼の標的は、学者だけではありませんでした。
ドイツ国内の全てのユダヤ人を、国家の敵と見るように国民を煽ります。
ユダヤ人排斥です。
ゲッベルスも、ヒトラーも、初めから反ユダヤ主義者であったかどうか・・・そうではないと考えます。
世界でも、ユダヤ人を嫌う風潮が存在していました。
そこに働きかけることで、支持者を増やし、大衆運動をすすめる・・・と、反ユダヤ主義を添加していきました。
ゲッベルスが国民を扇動した方法は、非常に洗練され、巧みなプロパガンダでした。
プロパガンダの強力な武器となったのは、ラジオ放送でした。

「人々の憎悪や闘争は、ある特定の者によって育まれる
 やつらは民衆を対立に駆り立て、平和を求めない
 どこでも金儲けを始めるユダヤ人どもこそ、国際的な不穏分子だ」byヒトラー

定期的に放送を流し、それを集団で聴取させます。
内容を国民にしみこませました。
最も効果的な宣伝手段・・・それは映画でした。
映画の製作は、脚本や撮影内容など、ゲッベルスの許可なくして何一つできませんでした。
こうしたゲッベルスの仕事ぶりを讃えて、ヒトラーが賛辞を送ります。

「10年前、ゲッベルス博士は私からナチスの旗を受け取った
 その旗は、ゲッベルス博士によりドイツ国家の首都で掲げられ、今や国家を象徴する旗として翻っている
 ゲッベルス博士に最大の謝意を表する
 我らがゲッベルス博士に!!ハイル!!」byヒトラー 

1934年8月、ヒトラーは、首相と大統領の権力を一手に握り、自らを総統としました。
大衆を巻き込んだゲッベルスのプロパガンダ・・・憎悪を煽るだけでなく、人々の暮らしや家庭に入り込み、感情の奥に訴えかけるものもあります。
ゲッベルスは34歳の時、マグナという女性と結婚、6人の子供に恵まれます。
ゲッベルスは、自らの家族をドイツの理想的家庭として撮影させ、全土で公開しました。
ゲッベルスは実際に、出来るだけ時間を割いて、良きパパであることを心掛けました。
しかし、その裏では、個人的な欲望を追い求めます。
ゲッベルスは、しばしば撮影所を訪れます。
仕事というよりは、女優を物色するためです。
気に入った女性には、権力をちらつかせて次々と関係を迫っています。
その中で、ゲッベルスがぞっこんになった女優がいました。
チェコ出身のリダ・バーロヴァ・22歳です。
バーロヴァは、ゲッベルスについてこんな言葉を残しています。

「湖のそばの隠れ家で、彼は私を”愛している”と告白しました
 ”こんなに愛した女性は、これまでに一人もいなかった”と
 私たちは、完璧に恋に落ちました
 彼が家族を置き去りにするくらいに」



しかし、この恋は、呆気なく破局を迎えます。
ヒトラーの逆鱗に触れたのです。
ドイツの理想的家族の父親であるゲッベルスに、不倫などあってはならない!!
ヒトラーは、ゲッベルスを別荘に呼びつけ、バーロヴァと円を切るように厳しく迫りました。
しかし、ゲッベルスは、
「バーロヴァと別れるぐらいなら、宣伝大臣をやめ、バーロヴァと一緒になります」
この返答に、ヒトラーは激高!!

「国家に対する義務か、バーロヴァか、どちらを取るか、よく考えることだ」

その結果、ゲッベルスは・・・

「私は義務に屈しよう つらい 残酷な
 ただ義務に服した生活、青春は今終わった」

しかし、その矢先、ゲッベルスに失態を取り戻すチャンスが巡ってきました。
ユダヤ人青年によるドイツ大使館員射殺事件が起こります。
ゲッベルスは、ユダヤ人を敵視する演説を行いました。
これを引き金に、ナチ党の若者たちは、ドイツ中のユダヤ教会ユダヤ人商店を焼き討ちします。
この時の迫害は、ゲッベルスにとっては点数稼ぎにすぎなかったのかもしれません。
ナチス・ドイツは、こうして反ユダヤ政策を加速させていくのです。

1945年4月、ベルリンに向けてソ連軍の総攻撃が始まりました。
敗戦が濃厚となる中、ヒトラーの側近たちは、次々と彼の元を逃げ去っていきました。
しかし、ゲッベルスだけは、最期までヒトラーと生死を共にしました。

1935年、ヒトラーは、第1次世界大戦の敗北によって定められていたドイツの軍備制限を破棄すると宣言・・・ドイツ再軍備宣言!!
これをきっかけに、世界は再び戦争へと突き進みます。
ヨーロッパ諸国と対立し、孤立が深まる中、ヒトラーは日本との同盟を模索します。
日本は、ドイツと同じくソ連を仮想敵国としていました。
そこで、ゲッベルスは、国民への日本のイメージアップのため、あるプロパガンダを実行します。
日独合作映画「侍の娘」です。
これを、ドイツ国内で、大々的に公開しました。
日本人の恋人と日本を訪れたドイツ人の女性が、日本文化を体験するストーリーです。
この作品は、俳優・原節子の初主演映画でもありました。
ドイツでの封切には、ゲッベルスをはじめ、ナチ党幹部が出席するほどの力の入れようでした。

1939年9月、ナチスドイツはポーランドに侵攻。
さらに、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、そしてフランスを、1年足らずで占領します。
しかし、戦線を拡大しすぎたドイツ軍は、1943年スターリングラード攻防戦でソ連軍に敗北します。



そんな流れを断ち切ろうと、国民を鼓舞する演説会が大々的に開かれました。
この時、ヒトラーはあまり表に姿を見せなくなっていました。
戦局が悪化していたからと言われています。
壇上に立ったのは、ゲッベルス!!
ヒトラーの代わりに1万5000人の聴衆に訴えたのです。
彼にとって、一世一代の演説でした。

「諸君は総力戦を望むか?
 諸君に問う、勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか?
 苦難を共にし、最も重い負担に耐える覚悟はあるか?」

ゲッベルスは、渾身の演説でヒトラーの代役を完璧に演じました。
この演説は、ラジオでも全国に中継され、ソ連やアメリカとの戦いに総力戦が訴えられました。

「これより先、我々のスローガンはこうだ!
 ”人々よ、立ち上がれ、そして嵐を起こせ”」

しかし、ゲッベルスの演説の甲斐なく、ドイツ軍は次々と敗退していきました。
1945年4月、ソ連軍による首都ベルリンへの砲撃が始まりました。
ドイツの敗北は決定的となりました。
ヒトラーは、がらんとした総統官邸の地下壕で、最期の時を待っていました。
そばに付き従っていた高官は、もうゲッベルスしかいませんでした。
ヒトラーは、ゲッベルスにベルリンの防衛が敗れた場合は、ベルリンを去り、新内閣の首相になるように命じました。
そして・・・ヒトラーは、直前に結婚式を挙げたエヴァ・ブラウンと共に自ら命を絶ちました。
ヒトラーにドイツの将来を託されたゲッベルス・・・
しかし、

「私は生涯で初めて総統の命令に背かざるを得ない
 どんなことがあっても、総統の傍らで命を終える覚悟であることを断固として表明する
 総統のために奉仕することができなければ、私の命などもはや価値のないものだ」

ヒトラーの死の翌日、ゲッベルスは家族と共にヒトラーの後を追いました。
47年の生涯でした。

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ヒトラーは、1933年~1945年ドイツの首相となり、12年間独裁者として君臨しました。
彼が国民を一つにまとめる原動力としたのが演説でした。

「国のため献身的に奉仕する諸君の姿に、ドイツは誇りと喜びと共に見い出すだろう
 ドイツの息子たちが、力強く前進する姿を!!」

情熱的で、雄弁な言葉の持ち主でした。

「我々の敵は雄たけびを上げている
 ”ドイツは破滅するべきだと!!”
 彼等に対するドイツの答えはただ一つ
 ”ドイツは生き続ける!”
 ”ドイツは勝利するのだ!”」

ヒトラーは、第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパをこの世の地獄に変えました。
ユダヤ人を迫害し、600万もの人々を強制収容所で殺害しました。
ドイツ国民をこうした狂喜に駆り立てて行ったのも、演説でした。

「私はこれまで度々予言者であったが、今日もまた予言者となろう
 ユダヤ人のたくらみ通り、このまま世界が戦争へと突入すれば、その結末はヨーロッパに暮らすユダヤ人の絶滅に終わるだろう」

演説に魅了され、ヒトラーを熱烈に支持したのは、ごく普通のドイツ人でした。
あの時代、人々はなぜヒトラーの言葉に己の運命を委ねてしまったのでしょうか??
稀代の演説家ヒトラーと、その言葉にうんめうぃお翻弄された人々の物語です。

演説家としてのヒトラーのキャリアは、ドイツ南部・ミュンヘンから始まりました。
街の広場などで行われていた彼の演説は、当時大人気でした。
ドイツの首相になったばかりのヒトラー・・・
ミュンヘンの人々を熱狂させたヒトラーの演説とはどのようなものだったのでしょうか?

1933年11月8日・・・
ヒトラーは、駆け出しの政治家だったころから、自分を支持してくれた人々に向けて話しかけました。

「私の古くからの親衛隊たちよ
 あれから10年が過ぎ、私はこの上ない幸福に包まれている
 かねてからの私の希望がかなったからだ
 我々はともに集い、遂に国民は一つになった
 ドイツは二度と、この団結を失うことはないだろう」

過ぎ去った10年を懐かしく振り返り、ドイツは団結したと語るヒトラー・・・
演説の丁度10年前、この広場には市民に反乱を呼び掛けるヒトラーの声が響き渡っていました。

1923年11月9日、自らが党首を務めるナチ党を率いて武装蜂起を起こしたのです。
第一次世界大戦の敗戦国であるドイツは、混乱の中にありました。
イギリス、フランスなど戦勝国から極めて重い賠償金を課せられ、国の経済が破たん寸前にまで追い込まれていました。
ヒトラーは、国家の危機を前に無力な政府に不満を募らせナチ党を立ち上げます。
そして、同じ不満を持つ人々に向け、武装蜂起を呼び掛けたのです。
ヒトラーの呼びかけに、多くの市民が答え、大群衆となってミュンヘンの街を行進しました。
反乱軍の先頭が、広場の入り口に差し掛かった時、事件は起きました。

警察は、反乱軍を食い止めるのに、格好の場所だと考えました。
ここで待ち構え、銃弾を放ったのです。
ナチ党員14名が命を落としました。
こうして武装蜂起は失敗に終わります。
だからこそ、この広場はヒトラーにとって特別な場所なのです。

ヒトラーは捕らえられ、1924年4月、ランツベルク刑務所に収監・・・半年余り過ごしました。
この獄中でヒトラーが記したのが、「わが闘争」です。
そこに、再起にかける思い綴られています。

~歴史上、永遠の昔から、この世界に最も偉大な変革をもたらしたのは語られる言葉の魔力である~

武力による国家の転覆に失敗したヒトラーは、今度は演説の力により合法的に政権を奪おうと考えていました。
その再出発の舞台に選んだのが、庶民の集うビアホールでした。
ホフブロイハウス・・・ここは、ミュンヘンでもっとも伝統のあるビアホールで、ヒトラーが反乱を起こす3年前、ナチ党を立ち上げた場所でもありました。
ヒトラーは常に敵を探していました。
そうすることで、ドイツを結束させられると考えたのです。

なかでも、彼が敵として名指ししたのがユダヤ人でした。
出獄して3年後、公園での演説が撮影されています。
1927年8月21日のナチス党大会です。
ヒトラーは、全国から集まった党員たちに、こう訴えました。

「国境を越えて暗躍するユダヤ人により、2000年の歴史を持つ偉大なヨーロッパ文明が滅亡のふちにある事実から人々は目を背けている
 この内なる敵に対し、我々はあらゆる形で戦うことを宣言する
 我々を支配する感情はただふたつ
 ドイツ民族および祖国の敵への憎しみ
 そして、我がドイツに対する溢れるほどの愛である」 

ユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々のことを意味します。
彼等は、1000年以上にわたり、ヨーロッパ各地で差別を受けてきました。
その為、キリスト教徒が卑しい職業とする金貸しや商人になるものが多く、巨万の富を持つ者もあらわれました。
ヒトラーは、こうしたユダヤ人を国から締め出し、ドイツ人のためのドイツを作ろうと訴えました。

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”ドイツ人のためのドイツ”という考えに共感したのは、どのような人たちだったのでしょうか??

ドイツ人のためのドイツを唱えるヒトラーの最大のライバルが、左翼の共産党でした。
労働者は国を越えて団結すべきだと唱え、急速に支持を拡大していました。
ヒトラーは、自分こそがドイツの救世主だという印象付けるため、ドラマティックな演出をします。
当時はまだ珍しかった航空機を使って、全国を遊説し始めたのです。
1日にいくつもの都市を飛び回りながら、演説を繰り返す・・・
今では当たり前のこの思想を、ドイツで初めて取り入れました。

ケーニヒスベルク15万人・・・

時に遅れて期待感を煽ってみたり、田舎の小さな村を訪れたときは親しみ深さを演出。
人々の心をつかんでいきました。

「親愛なる国民の皆さん
 皆さんもお気づきのように、我が国では次の選挙を控え、新たな機運が高まっています」

この日の演説のテーマは、少数政党が乱立し、行き詰った議会政治をどう打開するか・・・
ヒトラーは、演説の序盤、聴衆の反応を確かめるかのように穏やかに語り始めました。
話が確信に近づくにつれ、ボルテージが上がっていきます。

「私はこのドイツにはびこる30もの政党をすべて排除するつもりだ!
 私はドイツ国民に証明して見せる
 国が生き残っていくのに必要なのは”正義”であり、その”正義”に必要なのは”力”であり、その”力”の源は国民ひとりひとりの強さなのだと!」

選挙を重ねていく中で、ヒトラーの演説はより多くの人の心をつかむように進化していきます。

558回に及ぶヒトラーの演説を集計し、150万語からなるビックデータから分析すると・・・
1930年を境に、それまで高い頻度で使われていた言葉の多くが急速に姿を消しています。
その最たるものが、”ユダヤ人”です。
きっかけは、その前年・・・1929年にアメリカで起こった世界大恐慌でした。
ドイツでも失業者の数が急増し、国の先行きに不安が高まっていました。
 
ユダヤ人という言葉が使われなくなった代わりに、国家が多くなってきます。 
その時代にナチ党にとって重要だったのが、国民共同体を作り上げることでした。
国家、憲法・・・が多く使われています。
ナチ党は、1932年に行われた選挙で、地滑り的な勝利を収めて230議席を獲得し、第一党に躍り出ました。
そして翌年・・・1033年1月、ヒトラーはドイツの首相に就任しました。

ヒトラーの演説には、聴衆を引き付けるさらにおおっくの秘訣があります。
それが最もわかりやすく見られるのが”首相就任演説”です。

「親愛なる国民の皆さん・・・」

冒頭、感情が高まらないように手を前に合わせ、いつものように穏やかに語り掛けます。
そして、開始から20分以上が過ぎ、

「国の再建には国民ひとりひとりの努力が必要だ」

という確信にいたると、一気にヒートアップしていきます。

「外国から助けてもらえると決して信じてはならない
 自分の国と国民以外からのいかなる助けも期待してはならない
 ドイツ民族の未来は、我々だけに帰属するのだから
 国民ひとりひとりが国を発展させるのだ
 自らの努力で、自らの勤勉さで、自らの決意で、自らの意地で、自らの根気で行うならば、我々は再び勝利を収めるだろう
 この国を自らの力で築き上げた祖先たちと同じように」

自らの・・・と、5回・・・
人は5回聞けば焼き付く・・・そんな形でメッセージを伝えていきます。

ヒトラーはこの手法を、様々な演説で使っていました。 

1933年4月8日のナチス親衛隊への演説では
「敵の憐みによるものではなく、自らの力で、自らの意思と行為で、自らの運命の主人として立ち上がる時が来たのだ!」

1936年10月6日・・・慈善募金を呼び掛ける演説では
「あらゆる者が助け合わねばならない
 貧しい者も、富める者も、あらゆる者が考えねばならない
 ”私より貧しい同胞を助けたい”と
 礼儀をわきまえ、気骨あるあらゆるドイツ人が、この隊列に加わると期待している」

さらに、演説の中の言葉を聴衆の頭の中に焼き付けるため、効果的に使われいたのがジェスチャーでした。
これによって、メッセージがさらに有効に伝わります。

首相就任の日の夜、ベルリンの目抜き通りは松明を持った男たちで埋め尽くされました。
ナチ党の武装組織突撃隊です。
沿道のベルリン市民は、この様子を期待と不安の入り混じった思いで見つめていました。

政権を握ったヒトラーは、国民にさらに広く演説を届けるための大きな武器を手にすることになります。
政府の管轄下にあったラジオ電波を、自由に利用できるようになったのです。
この頃ラジオは、庶民にとっては高級品でした。
そこで、安いラジオの開発を命じ、半年後に国見受信機として発売しました。
ヒトラーは、歓声や拍手の入った臨場感ある音声を届けることで、ドイツ中の家庭を演説会場に変えました。

さらに、ヒトラーが利用したのが庶民の娯楽・映画でした。
選挙で約束した国家の再建が、実行に移されていることを、国民に知らせました。
その中でも演説が効果的に行われています。

「我が民族の勤勉さ、能力、結束力を6年間で示すのだ」

経済政策の目玉が、世界初の高速道路網アウトバーンの建設でした。
機械の使用を極力抑えることで、一人でも多くの失業者を雇いあげました。
また、第1次世界大戦の敗戦により、持つことを制限されていた軍を再編成し、多くの若者を兵士として雇いあげました。
ヒトラーが政権についたときに、500万近くいた失業者は、わずか2年で半分以下にまで減少しました。
目に見える成果を上げたことで、当初は懐疑的だった人々までもがヒトラー支持に傾いていきました。

どの家にもヒトラーの肖像がありました。
彼はアイドルだったのです。

ヒトラーが国民にいかに支持されていたのかがわかる町があります。
ドイツの南の端、アルプスのふもとにあるベルヒテスガーデンです。
別荘に向かう時、ここをよく通りました。
ヒトラーの別荘の様子を写した映像も残っています。
ヒトラーの恋人エーファ・ブラウンが残したプライベート・フィルムです。
ヒトラーは、この別荘からの眺めを気に入り、年に何度もベルリンからやってきました。
そんな彼を一目見ようと全国からファンが押し寄せ、ヒトラーもまた気さくに言葉を交わしました。

国民からの信望を一心に集めていくヒトラー・・・
そんな彼は国民をさらに魅了する為に作り上げた部隊が、ニュルンベルク郊外に残っています。
毎年9月にここで行われるようになったナチスの党大会では、連日10万人規模の大演説会が行われました。

その一角に集められたのは・・・ナチス少年団ヒトラー・ユーゲントです。
ヒトラー・ユーゲントは、週末ごとに屋外での運動やキャンプなど、子供たちが喜ぶ催しが行われました。
そうした活動を通じ、子供の頃からナチスの思想を植え込むのが目的でした。
年に1度の党大会には、ドイツ全土の少年団の中から、特に優秀と認められた者だけが集められ、演説を直接聞くことを許されました。

「諸君らドイツの少年少女に、切に願うことがある
 我々が未来のドイツに託す期待のすべてを担ってもらいたい
 我々の前にドイツの未来があり、我々は国家と共に歩み、我々の後に輝かしいドイツができるのだ」

ナチスが制作した党大会のプロパガンダ映画「意志の勝利」が各地の映画館で上映され、記録的な動員を達成しました。
これを見た当時の少年たちは、ヒトラーへの憧れをますます強くしていきました。

1935年9月15日、ヒトラーが行った演説・・・

「ユダヤ人の唯一にして最大の罪・・・それはドイツ人でありたいと願ったことだ
 もし、ユダヤ人の排斥が進まない場合、この排斥法案はナチ党の力で最終解決されるものとする」

ヒトラーは、1930年以来、控えてきた反ユダヤのヘイトスピーチを再び解き放ちます。
この演説は、それまで平穏に暮らして来たヨーロッパ全体を翻弄していきます。

ドイツ国内に住む70万を超えるユダヤ系ドイツ民が、選挙権などの市民権を剥奪されました。
かつて首相になる前、ヒトラーはユダヤ人を国から追放すべきだと主張したものの、広く支持を得られませんでした。
そこで、経済的な豊かさを取り戻したドイツにとって、その富を狙うユダヤ人こそが脅威であると訴えました。

1939年1月30日のラジオ演説は・・・
「ユダヤ人が豊かなのは、正直者のドイツ人の富を横取りするるからだ
 善良なドイツ人が、働いて節約して得た蓄えは、あくどいユダヤ人により奪われるのだ
 ドイツには、知性の高い農民や労働者の子供がたくさんいる
 彼等を我々は教育している
 彼らに国の指導者的立場を占めてほしい
 よその民族の子供などではなしにだ
 ドイツ文化とは、ドイツ人のもので、ユダヤ人のものではない」

そしてその憎しみは、ヒトラーを崇拝するごく普通のドイツ人によって増幅していきました。
子供たちは、学校の教師や父親から反ユダヤ主義を教えられ、素直にその差別意識を吸収していきます。

ヒトラーは、ナチスの幹部を前にこう語っています。
1938年12月2日ナチス党幹部への演説

「大ドイツの誕生は、ドイツ国民の意思に基づいている
 国民の全男性、全女性がそれに従う
 若者たちを労働奉仕団で鍛え上げる
 ドイツ国家のシンボルである鋤を使ってだ
 それでも高慢は階級意識が残っていれば、軍が引き受けて鍛え上げる
 彼等は一生自由になることはない
 彼等はそれで幸福なのである」

ヒトラーが国内のユダヤ人に対して牙をむいた1935年以降、外交政策を語る演説にも大きな変化が見えてきました。
国民に向けて平和を訴え始めたのです。

「我々が望むのは平和だけだ
 我々はすでに戦争を経験した
 我々は周りの国々に和解の手を差し出したい
 我々は彼等と共に働きたい
 我々は彼等に敵意は持っておらず、憎しみを感じない」

ビックデータからは・・・ヒトラーが平和を語る時期には大きな偏りが見られることが分かります。
ひとつは1935年から36年にかけて・・・
これは、ヒトラーが大規模な軍備拡張を取り出した時期と重なります。
もうひとつは、1939年・・・ヒトラーが第2次世界大戦を引き起こすときです。
平和を語る演説を丹念に見ていくと、ヒトラーの本当の狙いが浮かび上がってきました。

1935年5月21日、ドイツの国会で行った演説で、ヒトラーは心から平和を望むと述べる一方で、次のように主張しています。

「第1次世界大戦以前のドイツは、その生存圏の中で富を蓄積することができた
 だが、大戦によりドイツ経済が破壊され、領土も狭められ、ドイツ国民は生存圏の狭さゆえ、食料と原料の不足に悩まされている
 だからこそ、我々はこの不当な状況を打破しなければならない」

この時ヒトラーは、ドイツには生存圏・・・つまり、領土が足りずにこのままの状況が続けば実力行使に出ざるを得ないと訴えていました。
平和を声高に訴えることで、領土拡大の野心を覆い隠し、言葉巧みに国民を戦争へ導こうとしていたのです。
平和を求めるというヒトラーの言葉が、偽りだったことが多くの歴史学者によって証明されています。

1939年のかけての政治のすべてが戦争準備のためのものでした。 
経済的合理性を顧みることなく、借金をして軍備に大金をつぎ込み、その額は膨れ上がっていました。
戦争を起こさなければ、体制そのものが崩壊するしかありませんでしたが、もちろん、ヒトラーにそんなつもりはありませんでした。
彼にとって戦争に踏み切る以外、選択肢はありませんでした。

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまりました。
ヒトラーは、開戦を伝える演説の中ですら平和を訴えていました。

「私は協議を通じて平和的な提案をし、問題を解決しようとした
 彼等が我々の領土割譲要求に応じさえすればよかったのだ
 平和を望む私の忍耐や私の愛を、弱さや臆病と混同してはならない!!」

そして開戦のきっかけは、ポーランド側にあるとでっち上げました。

「本日5時45分、我が軍は、敵からの発砲に反撃を開始した!!
 今日からは、爆弾には爆弾で報いてやる!!」

ポーランドを一月で破ったドイツ軍は、勢いに乗ってフランスまで占領し、西ヨーロッパの大部分を支配下に治めていきました。第1次世界大戦の屈辱を晴らす大勝利に、国民は酔い、いつしか平和のための戦争という建前すら忘れていきました。
国民の熱狂に迎えられたヒトラーは、その野望をさらに膨らませていきます。

「我が軍は、ミンスクへと突進する」

1941年6月22日、ソビエト侵攻開始。

ヒトラーの命を受け、突如300万のドイツ軍がソビエトに侵攻を開始しました。

”我が軍は6月22日から27日の間に、2233両のソビエト軍戦車を撃破、捕獲
 大胆は攻撃で、敵陣を奪い、何千人もの捕虜を得た”
 
しかし、一方で国民の多くは、広大な国土を持つソビエトを屈服させるのは難しいのではないか??と不安を抱いていました。
そんな不安を払しょくし、人々を戦争に駆り立てた言葉があることが分かってきました。
それは、「価値の低い人間」という言葉です。
ロシア人など、スラブ系の人々は、人種的に価値が低く、彼等を打ち負かすことなどたやすいのだとヒトラーが言ったのです。
ロシア人は、ポーランド人よりさらに価値が低く、汚いとされました。
ロシアを全滅せねばならないといいました。
ロシア人は共産主義者で、価値の低い人間だと・・・!!
ドイツ人のような人間ではなく、根絶やしにすべきだと・・・!!

”捕虜、それは、野蛮な人種ども
 こいつらは、原始的で頭が鈍く、数ばかりが多い、安い道具だ”
 
この後、4年間に及ぶ戦争で、2000万人にも及ぶソビエトの人が命を落とすことになります。
一方、ドイツ国内でも異変が起きていました。
同じく価値の低い人間だとされたユダヤ人が、次々と姿を消し始めたのです。
強制収容所という言葉が多く聞かれるようになってきました。
そして、何が起きているかもうすうす気づいていました。
ひどいことが起きていると・・・

1943年2月18日ベルリン・・・
開戦以来、最大規模の演説会がベルリンで開かれ、ラジオで全国に中継されました。

「諸君は総戦力を望むか!?」

戦争が長引き、国民の戦意を鼓舞するのが、狙いでした。
しかし、この日、演台に立ったのは、ヒトラーではなく忠実な僕・・・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッペルスでした。
 
「勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか!?
 苦難を共にし、最も重い負担に耐える覚悟があるか!?」

このころを境に、人々を戦争にたきつけてきヒトラーは、演説の表舞台から姿を消していきます。
きっかけは、第2次世界大戦の天王山といわれるスターリングラード攻防戦で、大敗北を喫したことがきっかけでした。
ソビエト侵攻の主力部隊を失ったドイツ軍は、これ以降、敗退を重ねていくことになります。

1943年3月24日のドイツ週刊ニュース
戦死した将兵の追悼式典にヒトラーが出席した時の映像があります。
ヒトラーの声は一切使われず、背中を丸め、原稿を読み上げる様子が映し出されているだけです。
しかし、かつてその演説に魅了された若者たちは、ヒトラーは偉大な指導者であるという幻想にとらわれ続けていました。

ドイツの主要な都市は、イギリスから飛んでくる爆撃機により、次々と焼き尽くされていきました。

1945年1月30日、東からソビエト軍、西からアメリカを主力とする連合軍がベルリンに迫る中、ラジオからヒトラーの声が響いてきました。

「親愛なる国民の皆さん」

この日は、ヒトラーが首相に就任して12年目の記念日でした。
そしてこれが、ヒトラー最期の演説となります。
ベルリンの地下壕の中、一人の観客もいない演説・・・
ヒトラーは、ドイツを導く予言者として人々に語り掛けました。

「立派に戦う者は、自らの命と愛する者の命を救うだろう
 だが、怖気づき、無節操に国家を裏切者は、必ず唾棄すべき死を迎えるだろう!!」

そして、ドイツ勝利のため更なる犠牲を国民に求めました。

「私は健康な者一人一人が、この闘争に命をかけることを望む
 私は疾病人や苦しむ者一人一人が最後の力を振り絞って働くことを望む
 私は夫人と少女たち一人一人が今まで同様最高の熱意をもって闘いを援護することを望む
 私はここで格別の信頼をドイツ青少年へ寄せる
 我々は、かくも団結した共同体を形成しているがゆえに、全能の神の前に進み、憐みと祝福を乞う資格を得るのである」

1945年5月1日・・・ラジオから臨時ニュースが流れます。
”総統大本営より通知がありました
 総統は4月30日、デーニッツ元帥を後継者に指名しました”

4月30日・・・ヒトラーは、ベルリンの地下壕で自ら命を絶ち、1週間後ドイツは降伏しました。
生き残った人々は、ヒトラーの言葉に熱狂し、信じ、従ったという事実と向き合いながら、長い戦後を生きていきます。
ソビエト軍の捕虜になった者は、過酷な労働を強いられていました。
破壊された町の修復を命じられ、ヒトラーの言葉がもたらした現実と向き合うことを求められました。

ドイツ人は偉大な民族であるというヒトラーの言葉に踊らされ、戦場で命を落とした若者が500万を数えます。
言葉は、時として普通の人々を狂気に駆り立てていくのです。

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