明治24年・・・ロシア皇太子ニコライ・・・後の皇帝ニコライ2世の訪日。
奈良訪問は、5月12日、13日の2日間でした。
昼は東大寺、興福寺、法隆寺など、有名寺院を観光。
夜は宿泊する旅館の庭で、仕掛け花火を披露するなど手厚いもてなしが予定されていました。
しかし、この歓迎は実現することなく終わります。
奈良訪問の前日・・・ニコライの身に重大な事件が起きてしまいました。
滋賀県大津で・・・ニコライは、沿道警備に当たっていた警察官に突如襲われ負傷。
世にいう大津事件です。
事件は即座に国際社会が注目する処となりました。
当時のロシアは、ローロッパの大国・・・その陸軍は、世界最強と謳われていました。
日本が対応を誤れば、巨額の賠償金や領土割譲を要求される恐れがありました。
この時、明治政府の中心人物として事態の収拾に当たったのが伊藤博文でした。
伊藤に突き付けられたのは・・・
刑法を曲げて犯人を死刑にすべきか??
しかし、大日本帝国憲法を制定したばかりの日本にとって、これは近代国家としての看板を自ら汚しかねない選択でもありました。
近代日本が初めて直面した外交危機・・・大津事件の実像と伊藤博文の苦渋の決断とは・・・??
1891年、日本は空前絶後の大歓迎に沸いていました。
ロシア皇帝ニコライの訪日・・・それは、シベリア鉄道の起工式が行われるウラジオストクに向かう旅の途上で実現したものでした。
明治政府がニコライを国賓として招待し、1年ほど前から準備が進められました。
京都・安養寺・・・ニコライが滞在したホテルの客室が、この寺に移され今も大切に保存されています。
ニコライには、当時京都で評判を呼んだ常盤ホテルの最高級の和室が用意されました。
鶴やクジャクなどが描かれた緊迫の襖絵・・・初めて訪れる日本をニコライは心から楽しみました。
はじめは洋館に泊まる予定でしたが、ニコライのたっての希望で、日本の情緒を味わいたいということで、日本間の方に泊まることとなりました。
ロシアは、東ヨーロッパから極東に至る大国で、当時軍隊の規模は世界最大でした。
さらにこの年、首都サンクトペテルブルクから極東のウラジオストクまでを結ぶシベリア横断鉄道の建設が決定。
ロシアのアジア進出が懸念されていました。
明治政府は、ニコライを歓待することで、ロシアと友好関係を築こうとしていました。
ニコライは、長崎→鹿児島→神戸→京都の各地を訪れ、名勝を楽しみます。
5月11日、滋賀県大津に到着しました。
琵琶湖見学を終えたニコライ一行は京都に向かいました。
そして・・・午後1時50分ごろ旧東海道である大津市京町2丁目にかかったところで事件は起きました。
この時の顛末を、ニコライは日記に記しています。
”私を乗せた人力車は、狭い道路を左へと曲がった
その時、右のこめかみに強烈な衝撃を覚えた
振り返ると、醜く顔をしかめた巡査が、両手でサーベルを握って、私に再び襲い掛かろうとしていた
咄嗟に「貴様、何をするのか!!」と怒鳴り、人力車から舗装道路に飛び降りた
この変質的な犯人は、尚も私を追いかけ、傷口から流れる血を手で押さえながら、私は一目散に逃げだした”
事件の凄惨さを物語る貴重な資料が今も保管されています。
事件直後、ニコライが応急処置を受けた民家に残されていたもの・・・
ニコライ皇太子が斬られた後、自ら血をぬぐったハンカチです。
ニコライの血の跡がはっきりと残っています。
一命はとりとめたものの、ニコライは頭部に二カ所深い傷を負いました。
そしてもうひとつ・・・犯行に使われたサーベル・・・中身は日本刀の脇差です。
犯行に使われたサーベル・・・刃渡りおよそ58㎝、所々にある刃こぼれは、凶行の際に出来たものと思われます。
目釘には桜の紋章が・・・警察から官給された物品ということを表しています。
ニコライを襲ったのは、よりによって警備に当たっていた滋賀県の巡査・津田三蔵でした。
動機については、ニコライは日本侵略を意図するロシアのスパイだと信じたことや、精神錯乱も疑われましたが、真相は不明です。
すぐさま、大津から東京に電報がもたらされます。
明治政府は大混乱に陥ります。
急遽、閣僚会議が行われ、松方正義総理大臣をはじめ、主だった閣僚が対応策を協議しました。
ロシアから賠償金の請求や、領土の割譲が求められるのではないか??
明治政府始まって以来の外交危機に、誰もが不安を口にしました。
事件当日、政界の実力者・伊藤博文は箱根に逗留していました。
松方は、すぐさま電報を送り、ロシア通でも知られる伊藤の助力を仰ぎます。
自らロシアを視察し、目にした首都サンクトペテルブルクの巨大で壮麗な建築物・・・
さらに、当時世界最強と謳われた陸軍。
伊藤は、ロシアの国力と軍事力を身をもって知っていました。
知らせを聞いた伊藤は、東京へと急ぎました。
深夜1時過ぎに到着すると、皇居に参内・・・明治天皇に謁見しました。
深夜に異例のことでした。
明治天皇は、ニコライを見舞うため、自ら京都に赴く考えでした。
伊藤には、ロシアとの関係が破綻せぬよう、万全の手を打つように命じます。
その後、伊藤は夜通しで閣僚たちと協議をかさねます。
そのまま朝を迎えた5月12日早朝・・・
ニコライが療養している京都に向かう明治天皇を、新橋駅で見送りました。
明治天皇と政府は、異例の皇室外交で事態の収拾を図ろうとしたのです。
明治天皇が、ニコライと面会できたのは、13日でした。
場所は、京都・常盤ホテル!!
この時の明治天皇の様子を、ニコライは記しています。
”午前11時に天皇にお目にかかった
ご心労のあまり、顔色が悪く、醜く見えるほどやつれていた”
ニコライは、この事件で日本を恨むようなことはないと明治天皇に告げました。
”日本に来てから、いたるところで予想以上の丁寧な歓待を受け、日本国民の温かいもてなしに感謝の意を持っていることは、負傷以前と何ら異なることはありません”
これを知った伊藤と明治政府は、事件発生以来初めてひとまず一安心したといいます。
しかし、ロシア本国の正式な見解はまだ発表されておらず、伊藤博文は更なる対応を迫られることになります。
ロシア皇太子が極東の島国で襲われたという衝撃的なニュースは、事件翌日の夕方にはヨーロッパ中を駆け巡りました。
第一報がもたらされたロシアでは、大きな混乱が生じていました。
”1万人以上の市民が心配し、王宮を取り囲んだ”
”皇后陛下は気絶”
”犯人は排外主義のサムライか?”
事件を起こした津田三蔵への非難の声は、日本でも異様な高まりを見せました。
山形県のある村では・・・犯人・津田三蔵の姓名を名乗ることを禁じた条例が出来ました。
こうした条例が、遠く離れた東北の一農村で作られているということに、ロシアへの恐怖が国民感情の奥深いところにあったと伺えます。
総理官邸では緊急会議が開かれ、松方正義や伊藤博文らが集まります。
議題の中心は、犯人・津田三蔵の処罰についてです。
当時の法律では、被害者が死亡していなければ”謀殺未遂罪”による”無期徒刑”までが限度でした。
そこで、刑法第116条・・・すなわち、天皇三后皇太子に対して危害を加え、また加えんとしたものは死刑に処す・・・という大逆罪の適用が議題に上ります。
ロシアとの関係悪化を恐れた伊藤をはじめ、出席者全員がこれに賛同し、犯人・津田三蔵は死刑と意見がまとまりました。
会議後、松方総理は現在の最高裁判所に当たる大審院の院長・児島惟謙と面会し、大逆罪適用の方針を伝えました。
すると・・・児島院長は大反発!!
「第116条にある”天皇三后皇太子”なる称号は、我陛下を尊称し、奉る言辞なれば、法律の精神に反する解釈には断じて応ずるを得ず」
法律の精神に反して、第116条を拡大解釈し、津田を死刑にすることはできないと主張したのです。
松方総理は声を荒らげ、本意を迫ります。
「国家存在して初めて法律存在し、国家存続せずんば法律も生命なし
国家の大事に臨みては 区々の文字論に拘泥せずして国家生存の維持を計るべし」
国家会っての法律だと主張する松方と、司法の正義を守ろうとする児島の会談は、平行線をたどりました。
実はこの時、政府には津田の死刑に固執せざる事情があったことが、後の外務大臣・林董の回顧録に記されています。
”外国皇族に対し、危害を加えんとする者に、刑法116条の制裁を加ふる法律を定むるとを約したる”
公的な記録は残されていませんが、林によれば青木外務大臣と在日ロシア公使ドミトリー・シェービチの間でニコライ皇太子の身に何かあった場合は、刑法116条の大逆罪を適用するという密約があったというのです。
その頃、伊藤はニコライを見舞う明治天皇と合流するべく京都に向かっていました。
この時、伊藤はジレンマに陥っていました。
1889年大日本帝国憲法発布され、明治日本は近代国家として第一歩を踏み出しました。
最大の課題は、列強各国と結んだ不平等条約の改正でした。
井上毅が伊藤に送った書簡には・・・
”日本刑法116条は、外国の君主及び皇族に援引すべからず
刑法を曲げることあらば、将来永久に刑法を以て外国人を統御する特権を失う”
法律を拡大解釈して津田を死刑にすれば、欧米諸国は日本を近代国家ではないとみなし、条約改正に悪影響を及ぼすというのです。
日本の動向に世界が注目が集まる中、大津事件をどのように使うのか??
伊藤に選択が迫られました。
世界有数の強国ロシア・・・
ここで対応を誤れば、賠償金や領土の割譲を要求されるだろう・・・
最悪の場合、戦争になる可能性も・・・それだけは何としても避けなければ・・・!!
それにロシア公使とは、密約を交わしてしまっている・・・
今更約束は守れないなどと、ロシアにいえようか・・・??
政府の誰もが、死刑しかないという意見・・・中には、過激な意見を言い出す者までいる!!
伊藤の手記によれば、事件の翌日、閣僚の後藤象二郎と陸奥宗光が伊藤にこう進言しています。
「裁判で死刑にするのが難しければ一作ある
金を当時、刺客を使って犯人を殺し、病死だと発表すれば簡単に済む!!」
これに対し伊藤は答えています。
「そのような無法は許さん!!
人に語るだけでも恥ずかしいと思え!!」
流石に獄中で暗殺するなどもってのほかだが、やはり津田は死刑にする以外に道はない!!
それには、大逆罪を適用するしかないのか・・・??
しかし、児島の主張が正しいことは明白!!
大逆罪の適用は、法律を曲げなくてはできない!!
大日本帝国憲法を発布してまだ二年・・・
あれほど心血注いだ立憲国家への道を、私自身が曲げることになるまいか??
なんとか法律の範囲内で、処理できないものか???
戒厳令を出して軍法会議で裁く、あるいは天皇陛下の緊急勅令による処分という手もあるかもしれない・・・!!
もし、ここで大逆罪を強引に適用すれば、欧米諸国はどう思うのか・・・??
日本は、自ら決めた法律すら守らない、見せかけだけの近代国家だと信頼を失い条約改正にも悪影響を及ぼすかもしれない・・・
別の道を探るべきなのか・・・??
1891年5月16日、ロシア本国からの情報が伊藤にもたらされました。
ロシア皇帝アレクサンドル3世は、今回の事件に関して日本政府に一切賠償請求を要求しないというのです。
伊藤はすぐさま、駐日ロシア公使シェービチに使いを送ります。
そこで、犯人の処遇についてロシア公使としての意見を求めると、シェービチは・・・
「無期徒刑を以て処するならば、私はロシアと日本の間にどんな重大なことが起きても保証できない」
シェービチの返事を聞いた伊藤は、こう書き残しています。
”死刑にあらざれば、到底この事変の結局を、満足に了すること難かるべしとの意なりしなり”
伊藤が選んだのは、大逆罪の適用でした。
京都御所の重臣会議で大逆罪適用の方針が決定します。
大津地方裁判所から審理が取り上げられ、大逆罪を裁くことのできる大審院で裁ける手続きを薦められました。
伊藤は、松方総理を通じて児島惟謙に、大逆罪を適用し津田を死刑にすると通告しました。
同時に、政府により担当裁判官たちを司法省に呼び出し、大逆罪の適用を説得します。
遂に、裁判官たちは政府の要求い従うことを決めます。
5月19日、場所は、大津地方裁判所のまま、異例の大審院法廷が開かれることとなりました。
ところがこの時、児島惟謙が密かに巻き返しに出ます。
大津へと乗り込み、政府に屈しないよう担当裁判官たちを直に説得して回りました。
児島は、裁判長の堤正己を宿泊先に呼び出しこう語ります。
「今回の裁判は、我が国の法率の威信を決めるものだ
政府の圧力に屈するのか、司法の独立を守るのか、君たちの判断にかかっている
熟慮を願いたい」
児島の熱意に圧され、担当裁判官たちは次々と同意しました。
児島の介入を知った明治政府は、慌てて内務大臣・西郷従道を派遣します。
西郷は声を荒らげました。
「ロシアの艦隊が品川沖に現れ、砲撃すれば、日本は壊滅する
これでは、法律は国家の平和を保つものではなく、国家を破壊するものとなってしまう」
しかし、児島は頑として聞き入れませんでした。
5月27日、午後0時30分・・・
ロシア皇太子ニコライの襲撃犯人・津田三蔵の裁判が始まりました。
争点は、刑法116条・・・すなわち大逆罪を適用し、死刑にするか否かです。
午後6時40分・・・注目の判決が下されました。
”判決 その所為は謀殺未遂の犯罪にして被告三蔵を無期徒刑に処するものなり”
東京で判決を知らされた伊藤らには、もはやなす術はありませんでした。
止む無く結果をロシアに伝えます。
6月3日、ロシアからの返答が届きます。
”判決は、ロシア皇帝陛下はもちろん、一般人民 十分に満足ありたり”
どうしてロシアは判決をすんなり受け入れたのでしょうか?
おそらくニコライの心証が、日本に対してよかったこと・・・日本側のもてなしが効いたようです。
明治天皇のお見舞いも含めて、日本の皇族が事件の解決に奔走、こうした皇族外交が、通常の外交ルートとは違う効果を発揮したのです。
大津事件の直前に、ドイツとロシアの独露再保障条約が切れました。
フランスに同盟相手を乗り換えるのですが、大津事件はその端境期・・・
ヨーロッパで同盟国がないときに、アジアでロシアは戦争を起こしたくなかったのです。
判決から3日後、大逆罪が適用されなかったことを支持する記事が、横浜居留地のイギリス英字新聞・ジャパンウィークリーメールに掲載されました。
”もし、刑法の明文を曲げて無理な解釈を下していれば、日本は世界の信用をさらに大きく失うところだった
そうならなかったのは幸いである”
奇しくも、大津事件の判決は、日本が立憲体制を運用する近代国家であることを示す結果となりました。
判決の2週間後・・・6月11日、児島と偶然顔を合わせた伊藤は冗談交じりにこう語りました。
「裁判官は随分無鉄砲をやるものだ
しかし、今度は僥倖にも大当たりだ」
僥倖・・・思いがけない幸運だったと伝え、児島と別れた伊藤。。。
大津事件から3年後の1894年7月16日、日英通商航海条約調印。
念願の不平等条約改正への糸口をつかみます。
一等国として世界の仲間入りを目指し、漕ぎ出していくのでした。
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ロシアは、東ヨーロッパから極東に至る大国で、当時軍隊の規模は世界最大でした。
さらにこの年、首都サンクトペテルブルクから極東のウラジオストクまでを結ぶシベリア横断鉄道の建設が決定。
ロシアのアジア進出が懸念されていました。
明治政府は、ニコライを歓待することで、ロシアと友好関係を築こうとしていました。
ニコライは、長崎→鹿児島→神戸→京都の各地を訪れ、名勝を楽しみます。
5月11日、滋賀県大津に到着しました。
琵琶湖見学を終えたニコライ一行は京都に向かいました。
そして・・・午後1時50分ごろ旧東海道である大津市京町2丁目にかかったところで事件は起きました。
この時の顛末を、ニコライは日記に記しています。
”私を乗せた人力車は、狭い道路を左へと曲がった
その時、右のこめかみに強烈な衝撃を覚えた
振り返ると、醜く顔をしかめた巡査が、両手でサーベルを握って、私に再び襲い掛かろうとしていた
咄嗟に「貴様、何をするのか!!」と怒鳴り、人力車から舗装道路に飛び降りた
この変質的な犯人は、尚も私を追いかけ、傷口から流れる血を手で押さえながら、私は一目散に逃げだした”
事件の凄惨さを物語る貴重な資料が今も保管されています。
事件直後、ニコライが応急処置を受けた民家に残されていたもの・・・
ニコライ皇太子が斬られた後、自ら血をぬぐったハンカチです。
ニコライの血の跡がはっきりと残っています。
一命はとりとめたものの、ニコライは頭部に二カ所深い傷を負いました。
そしてもうひとつ・・・犯行に使われたサーベル・・・中身は日本刀の脇差です。
犯行に使われたサーベル・・・刃渡りおよそ58㎝、所々にある刃こぼれは、凶行の際に出来たものと思われます。
目釘には桜の紋章が・・・警察から官給された物品ということを表しています。
ニコライを襲ったのは、よりによって警備に当たっていた滋賀県の巡査・津田三蔵でした。
動機については、ニコライは日本侵略を意図するロシアのスパイだと信じたことや、精神錯乱も疑われましたが、真相は不明です。
すぐさま、大津から東京に電報がもたらされます。
明治政府は大混乱に陥ります。
急遽、閣僚会議が行われ、松方正義総理大臣をはじめ、主だった閣僚が対応策を協議しました。
ロシアから賠償金の請求や、領土の割譲が求められるのではないか??
明治政府始まって以来の外交危機に、誰もが不安を口にしました。
事件当日、政界の実力者・伊藤博文は箱根に逗留していました。
松方は、すぐさま電報を送り、ロシア通でも知られる伊藤の助力を仰ぎます。
自らロシアを視察し、目にした首都サンクトペテルブルクの巨大で壮麗な建築物・・・
さらに、当時世界最強と謳われた陸軍。
伊藤は、ロシアの国力と軍事力を身をもって知っていました。
知らせを聞いた伊藤は、東京へと急ぎました。
深夜1時過ぎに到着すると、皇居に参内・・・明治天皇に謁見しました。
深夜に異例のことでした。
明治天皇は、ニコライを見舞うため、自ら京都に赴く考えでした。
伊藤には、ロシアとの関係が破綻せぬよう、万全の手を打つように命じます。
その後、伊藤は夜通しで閣僚たちと協議をかさねます。
そのまま朝を迎えた5月12日早朝・・・
ニコライが療養している京都に向かう明治天皇を、新橋駅で見送りました。
明治天皇と政府は、異例の皇室外交で事態の収拾を図ろうとしたのです。
明治天皇が、ニコライと面会できたのは、13日でした。
場所は、京都・常盤ホテル!!
この時の明治天皇の様子を、ニコライは記しています。
”午前11時に天皇にお目にかかった
ご心労のあまり、顔色が悪く、醜く見えるほどやつれていた”
ニコライは、この事件で日本を恨むようなことはないと明治天皇に告げました。
”日本に来てから、いたるところで予想以上の丁寧な歓待を受け、日本国民の温かいもてなしに感謝の意を持っていることは、負傷以前と何ら異なることはありません”
これを知った伊藤と明治政府は、事件発生以来初めてひとまず一安心したといいます。
しかし、ロシア本国の正式な見解はまだ発表されておらず、伊藤博文は更なる対応を迫られることになります。
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ロシア皇太子が極東の島国で襲われたという衝撃的なニュースは、事件翌日の夕方にはヨーロッパ中を駆け巡りました。
第一報がもたらされたロシアでは、大きな混乱が生じていました。
”1万人以上の市民が心配し、王宮を取り囲んだ”
”皇后陛下は気絶”
”犯人は排外主義のサムライか?”
事件を起こした津田三蔵への非難の声は、日本でも異様な高まりを見せました。
山形県のある村では・・・犯人・津田三蔵の姓名を名乗ることを禁じた条例が出来ました。
こうした条例が、遠く離れた東北の一農村で作られているということに、ロシアへの恐怖が国民感情の奥深いところにあったと伺えます。
総理官邸では緊急会議が開かれ、松方正義や伊藤博文らが集まります。
議題の中心は、犯人・津田三蔵の処罰についてです。
当時の法律では、被害者が死亡していなければ”謀殺未遂罪”による”無期徒刑”までが限度でした。
そこで、刑法第116条・・・すなわち、天皇三后皇太子に対して危害を加え、また加えんとしたものは死刑に処す・・・という大逆罪の適用が議題に上ります。
ロシアとの関係悪化を恐れた伊藤をはじめ、出席者全員がこれに賛同し、犯人・津田三蔵は死刑と意見がまとまりました。
会議後、松方総理は現在の最高裁判所に当たる大審院の院長・児島惟謙と面会し、大逆罪適用の方針を伝えました。
すると・・・児島院長は大反発!!
「第116条にある”天皇三后皇太子”なる称号は、我陛下を尊称し、奉る言辞なれば、法律の精神に反する解釈には断じて応ずるを得ず」
法律の精神に反して、第116条を拡大解釈し、津田を死刑にすることはできないと主張したのです。
松方総理は声を荒らげ、本意を迫ります。
「国家存在して初めて法律存在し、国家存続せずんば法律も生命なし
国家の大事に臨みては 区々の文字論に拘泥せずして国家生存の維持を計るべし」
国家会っての法律だと主張する松方と、司法の正義を守ろうとする児島の会談は、平行線をたどりました。
実はこの時、政府には津田の死刑に固執せざる事情があったことが、後の外務大臣・林董の回顧録に記されています。
”外国皇族に対し、危害を加えんとする者に、刑法116条の制裁を加ふる法律を定むるとを約したる”
公的な記録は残されていませんが、林によれば青木外務大臣と在日ロシア公使ドミトリー・シェービチの間でニコライ皇太子の身に何かあった場合は、刑法116条の大逆罪を適用するという密約があったというのです。
その頃、伊藤はニコライを見舞う明治天皇と合流するべく京都に向かっていました。
この時、伊藤はジレンマに陥っていました。
1889年大日本帝国憲法発布され、明治日本は近代国家として第一歩を踏み出しました。
最大の課題は、列強各国と結んだ不平等条約の改正でした。
井上毅が伊藤に送った書簡には・・・
”日本刑法116条は、外国の君主及び皇族に援引すべからず
刑法を曲げることあらば、将来永久に刑法を以て外国人を統御する特権を失う”
法律を拡大解釈して津田を死刑にすれば、欧米諸国は日本を近代国家ではないとみなし、条約改正に悪影響を及ぼすというのです。
日本の動向に世界が注目が集まる中、大津事件をどのように使うのか??
伊藤に選択が迫られました。
世界有数の強国ロシア・・・
ここで対応を誤れば、賠償金や領土の割譲を要求されるだろう・・・
最悪の場合、戦争になる可能性も・・・それだけは何としても避けなければ・・・!!
それにロシア公使とは、密約を交わしてしまっている・・・
今更約束は守れないなどと、ロシアにいえようか・・・??
政府の誰もが、死刑しかないという意見・・・中には、過激な意見を言い出す者までいる!!
伊藤の手記によれば、事件の翌日、閣僚の後藤象二郎と陸奥宗光が伊藤にこう進言しています。
「裁判で死刑にするのが難しければ一作ある
金を当時、刺客を使って犯人を殺し、病死だと発表すれば簡単に済む!!」
これに対し伊藤は答えています。
「そのような無法は許さん!!
人に語るだけでも恥ずかしいと思え!!」
流石に獄中で暗殺するなどもってのほかだが、やはり津田は死刑にする以外に道はない!!
それには、大逆罪を適用するしかないのか・・・??
しかし、児島の主張が正しいことは明白!!
大逆罪の適用は、法律を曲げなくてはできない!!
大日本帝国憲法を発布してまだ二年・・・
あれほど心血注いだ立憲国家への道を、私自身が曲げることになるまいか??
なんとか法律の範囲内で、処理できないものか???
戒厳令を出して軍法会議で裁く、あるいは天皇陛下の緊急勅令による処分という手もあるかもしれない・・・!!
もし、ここで大逆罪を強引に適用すれば、欧米諸国はどう思うのか・・・??
日本は、自ら決めた法律すら守らない、見せかけだけの近代国家だと信頼を失い条約改正にも悪影響を及ぼすかもしれない・・・
別の道を探るべきなのか・・・??
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1891年5月16日、ロシア本国からの情報が伊藤にもたらされました。
ロシア皇帝アレクサンドル3世は、今回の事件に関して日本政府に一切賠償請求を要求しないというのです。
伊藤はすぐさま、駐日ロシア公使シェービチに使いを送ります。
そこで、犯人の処遇についてロシア公使としての意見を求めると、シェービチは・・・
「無期徒刑を以て処するならば、私はロシアと日本の間にどんな重大なことが起きても保証できない」
シェービチの返事を聞いた伊藤は、こう書き残しています。
”死刑にあらざれば、到底この事変の結局を、満足に了すること難かるべしとの意なりしなり”
伊藤が選んだのは、大逆罪の適用でした。
京都御所の重臣会議で大逆罪適用の方針が決定します。
大津地方裁判所から審理が取り上げられ、大逆罪を裁くことのできる大審院で裁ける手続きを薦められました。
伊藤は、松方総理を通じて児島惟謙に、大逆罪を適用し津田を死刑にすると通告しました。
同時に、政府により担当裁判官たちを司法省に呼び出し、大逆罪の適用を説得します。
遂に、裁判官たちは政府の要求い従うことを決めます。
5月19日、場所は、大津地方裁判所のまま、異例の大審院法廷が開かれることとなりました。
ところがこの時、児島惟謙が密かに巻き返しに出ます。
大津へと乗り込み、政府に屈しないよう担当裁判官たちを直に説得して回りました。
児島は、裁判長の堤正己を宿泊先に呼び出しこう語ります。
「今回の裁判は、我が国の法率の威信を決めるものだ
政府の圧力に屈するのか、司法の独立を守るのか、君たちの判断にかかっている
熟慮を願いたい」
児島の熱意に圧され、担当裁判官たちは次々と同意しました。
児島の介入を知った明治政府は、慌てて内務大臣・西郷従道を派遣します。
西郷は声を荒らげました。
「ロシアの艦隊が品川沖に現れ、砲撃すれば、日本は壊滅する
これでは、法律は国家の平和を保つものではなく、国家を破壊するものとなってしまう」
しかし、児島は頑として聞き入れませんでした。
5月27日、午後0時30分・・・
ロシア皇太子ニコライの襲撃犯人・津田三蔵の裁判が始まりました。
争点は、刑法116条・・・すなわち大逆罪を適用し、死刑にするか否かです。
午後6時40分・・・注目の判決が下されました。
”判決 その所為は謀殺未遂の犯罪にして被告三蔵を無期徒刑に処するものなり”
東京で判決を知らされた伊藤らには、もはやなす術はありませんでした。
止む無く結果をロシアに伝えます。
6月3日、ロシアからの返答が届きます。
”判決は、ロシア皇帝陛下はもちろん、一般人民 十分に満足ありたり”
どうしてロシアは判決をすんなり受け入れたのでしょうか?
おそらくニコライの心証が、日本に対してよかったこと・・・日本側のもてなしが効いたようです。
明治天皇のお見舞いも含めて、日本の皇族が事件の解決に奔走、こうした皇族外交が、通常の外交ルートとは違う効果を発揮したのです。
大津事件の直前に、ドイツとロシアの独露再保障条約が切れました。
フランスに同盟相手を乗り換えるのですが、大津事件はその端境期・・・
ヨーロッパで同盟国がないときに、アジアでロシアは戦争を起こしたくなかったのです。
判決から3日後、大逆罪が適用されなかったことを支持する記事が、横浜居留地のイギリス英字新聞・ジャパンウィークリーメールに掲載されました。
”もし、刑法の明文を曲げて無理な解釈を下していれば、日本は世界の信用をさらに大きく失うところだった
そうならなかったのは幸いである”
奇しくも、大津事件の判決は、日本が立憲体制を運用する近代国家であることを示す結果となりました。
判決の2週間後・・・6月11日、児島と偶然顔を合わせた伊藤は冗談交じりにこう語りました。
「裁判官は随分無鉄砲をやるものだ
しかし、今度は僥倖にも大当たりだ」
僥倖・・・思いがけない幸運だったと伝え、児島と別れた伊藤。。。
大津事件から3年後の1894年7月16日、日英通商航海条約調印。
念願の不平等条約改正への糸口をつかみます。
一等国として世界の仲間入りを目指し、漕ぎ出していくのでした。
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