日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ニコライ2世

明治24年・・・ロシア皇太子ニコライ・・・後の皇帝ニコライ2世の訪日。
奈良訪問は、5月12日、13日の2日間でした。
昼は東大寺、興福寺、法隆寺など、有名寺院を観光。
夜は宿泊する旅館の庭で、仕掛け花火を披露するなど手厚いもてなしが予定されていました。
しかし、この歓迎は実現することなく終わります。
奈良訪問の前日・・・ニコライの身に重大な事件が起きてしまいました。
滋賀県大津で・・・ニコライは、沿道警備に当たっていた警察官に突如襲われ負傷。
世にいう大津事件です。
事件は即座に国際社会が注目する処となりました。
当時のロシアは、ローロッパの大国・・・その陸軍は、世界最強と謳われていました。
日本が対応を誤れば、巨額の賠償金や領土割譲を要求される恐れがありました。
この時、明治政府の中心人物として事態の収拾に当たったのが伊藤博文でした。
伊藤に突き付けられたのは・・・
刑法を曲げて犯人を死刑にすべきか??
しかし、大日本帝国憲法を制定したばかりの日本にとって、これは近代国家としての看板を自ら汚しかねない選択でもありました。

近代日本が初めて直面した外交危機・・・大津事件の実像と伊藤博文の苦渋の決断とは・・・??

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1891年、日本は空前絶後の大歓迎に沸いていました。
ロシア皇帝ニコライの訪日・・・それは、シベリア鉄道の起工式が行われるウラジオストクに向かう旅の途上で実現したものでした。
明治政府がニコライを国賓として招待し、1年ほど前から準備が進められました。
京都・安養寺・・・ニコライが滞在したホテルの客室が、この寺に移され今も大切に保存されています。
ニコライには、当時京都で評判を呼んだ常盤ホテルの最高級の和室が用意されました。
鶴やクジャクなどが描かれた緊迫の襖絵・・・初めて訪れる日本をニコライは心から楽しみました。
はじめは洋館に泊まる予定でしたが、ニコライのたっての希望で、日本の情緒を味わいたいということで、日本間の方に泊まることとなりました。

ロシアは、東ヨーロッパから極東に至る大国で、当時軍隊の規模は世界最大でした。
さらにこの年、首都サンクトペテルブルクから極東のウラジオストクまでを結ぶシベリア横断鉄道の建設が決定。
ロシアのアジア進出が懸念されていました。
明治政府は、ニコライを歓待することで、ロシアと友好関係を築こうとしていました。
ニコライは、長崎→鹿児島→神戸→京都の各地を訪れ、名勝を楽しみます。
5月11日、滋賀県大津に到着しました。
琵琶湖見学を終えたニコライ一行は京都に向かいました。
そして・・・午後1時50分ごろ旧東海道である大津市京町2丁目にかかったところで事件は起きました。
この時の顛末を、ニコライは日記に記しています。

”私を乗せた人力車は、狭い道路を左へと曲がった
 その時、右のこめかみに強烈な衝撃を覚えた
 振り返ると、醜く顔をしかめた巡査が、両手でサーベルを握って、私に再び襲い掛かろうとしていた
 咄嗟に「貴様、何をするのか!!」と怒鳴り、人力車から舗装道路に飛び降りた
 この変質的な犯人は、尚も私を追いかけ、傷口から流れる血を手で押さえながら、私は一目散に逃げだした”

事件の凄惨さを物語る貴重な資料が今も保管されています。
事件直後、ニコライが応急処置を受けた民家に残されていたもの・・・
ニコライ皇太子が斬られた後、自ら血をぬぐったハンカチです。
ニコライの血の跡がはっきりと残っています。
一命はとりとめたものの、ニコライは頭部に二カ所深い傷を負いました。
そしてもうひとつ・・・犯行に使われたサーベル・・・中身は日本刀の脇差です。
犯行に使われたサーベル・・・刃渡りおよそ58㎝、所々にある刃こぼれは、凶行の際に出来たものと思われます。
目釘には桜の紋章が・・・警察から官給された物品ということを表しています。

ニコライを襲ったのは、よりによって警備に当たっていた滋賀県の巡査・津田三蔵でした。
動機については、ニコライは日本侵略を意図するロシアのスパイだと信じたことや、精神錯乱も疑われましたが、真相は不明です。
すぐさま、大津から東京に電報がもたらされます。
明治政府は大混乱に陥ります。
急遽、閣僚会議が行われ、松方正義総理大臣をはじめ、主だった閣僚が対応策を協議しました。
ロシアから賠償金の請求や、領土の割譲が求められるのではないか??
明治政府始まって以来の外交危機に、誰もが不安を口にしました。
事件当日、政界の実力者・伊藤博文は箱根に逗留していました。
松方は、すぐさま電報を送り、ロシア通でも知られる伊藤の助力を仰ぎます。
自らロシアを視察し、目にした首都サンクトペテルブルクの巨大で壮麗な建築物・・・
さらに、当時世界最強と謳われた陸軍。
伊藤は、ロシアの国力と軍事力を身をもって知っていました。
知らせを聞いた伊藤は、東京へと急ぎました。
深夜1時過ぎに到着すると、皇居に参内・・・明治天皇に謁見しました。
深夜に異例のことでした。
明治天皇は、ニコライを見舞うため、自ら京都に赴く考えでした。
伊藤には、ロシアとの関係が破綻せぬよう、万全の手を打つように命じます。
その後、伊藤は夜通しで閣僚たちと協議をかさねます。
そのまま朝を迎えた5月12日早朝・・・
ニコライが療養している京都に向かう明治天皇を、新橋駅で見送りました。
明治天皇と政府は、異例の皇室外交で事態の収拾を図ろうとしたのです。
明治天皇が、ニコライと面会できたのは、13日でした。
場所は、京都・常盤ホテル!!
この時の明治天皇の様子を、ニコライは記しています。

”午前11時に天皇にお目にかかった
 ご心労のあまり、顔色が悪く、醜く見えるほどやつれていた”

ニコライは、この事件で日本を恨むようなことはないと明治天皇に告げました。

”日本に来てから、いたるところで予想以上の丁寧な歓待を受け、日本国民の温かいもてなしに感謝の意を持っていることは、負傷以前と何ら異なることはありません”

これを知った伊藤と明治政府は、事件発生以来初めてひとまず一安心したといいます。
しかし、ロシア本国の正式な見解はまだ発表されておらず、伊藤博文は更なる対応を迫られることになります。

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ロシア皇太子が極東の島国で襲われたという衝撃的なニュースは、事件翌日の夕方にはヨーロッパ中を駆け巡りました。
第一報がもたらされたロシアでは、大きな混乱が生じていました。

”1万人以上の市民が心配し、王宮を取り囲んだ”
”皇后陛下は気絶”
”犯人は排外主義のサムライか?”

事件を起こした津田三蔵への非難の声は、日本でも異様な高まりを見せました。
山形県のある村では・・・犯人・津田三蔵の姓名を名乗ることを禁じた条例が出来ました。
こうした条例が、遠く離れた東北の一農村で作られているということに、ロシアへの恐怖が国民感情の奥深いところにあったと伺えます。

総理官邸では緊急会議が開かれ、松方正義や伊藤博文らが集まります。
議題の中心は、犯人・津田三蔵の処罰についてです。
当時の法律では、被害者が死亡していなければ”謀殺未遂罪”による”無期徒刑”までが限度でした。
そこで、刑法第116条・・・すなわち、天皇三后皇太子に対して危害を加え、また加えんとしたものは死刑に処す・・・という大逆罪の適用が議題に上ります。
ロシアとの関係悪化を恐れた伊藤をはじめ、出席者全員がこれに賛同し、犯人・津田三蔵は死刑と意見がまとまりました。
会議後、松方総理は現在の最高裁判所に当たる大審院の院長・児島惟謙と面会し、大逆罪適用の方針を伝えました。
すると・・・児島院長は大反発!!

「第116条にある”天皇三后皇太子”なる称号は、我陛下を尊称し、奉る言辞なれば、法律の精神に反する解釈には断じて応ずるを得ず」

法律の精神に反して、第116条を拡大解釈し、津田を死刑にすることはできないと主張したのです。
松方総理は声を荒らげ、本意を迫ります。

「国家存在して初めて法律存在し、国家存続せずんば法律も生命なし
 国家の大事に臨みては 区々の文字論に拘泥せずして国家生存の維持を計るべし」

国家会っての法律だと主張する松方と、司法の正義を守ろうとする児島の会談は、平行線をたどりました。
実はこの時、政府には津田の死刑に固執せざる事情があったことが、後の外務大臣・林董の回顧録に記されています。

”外国皇族に対し、危害を加えんとする者に、刑法116条の制裁を加ふる法律を定むるとを約したる”

公的な記録は残されていませんが、林によれば青木外務大臣と在日ロシア公使ドミトリー・シェービチの間でニコライ皇太子の身に何かあった場合は、刑法116条の大逆罪を適用するという密約があったというのです。
その頃、伊藤はニコライを見舞う明治天皇と合流するべく京都に向かっていました。
この時、伊藤はジレンマに陥っていました。
1889年大日本帝国憲法発布され、明治日本は近代国家として第一歩を踏み出しました。
最大の課題は、列強各国と結んだ不平等条約の改正でした。
井上毅が伊藤に送った書簡には・・・

”日本刑法116条は、外国の君主及び皇族に援引すべからず
 刑法を曲げることあらば、将来永久に刑法を以て外国人を統御する特権を失う”

法律を拡大解釈して津田を死刑にすれば、欧米諸国は日本を近代国家ではないとみなし、条約改正に悪影響を及ぼすというのです。
日本の動向に世界が注目が集まる中、大津事件をどのように使うのか??
伊藤に選択が迫られました。

世界有数の強国ロシア・・・
ここで対応を誤れば、賠償金や領土の割譲を要求されるだろう・・・
最悪の場合、戦争になる可能性も・・・それだけは何としても避けなければ・・・!!
それにロシア公使とは、密約を交わしてしまっている・・・
今更約束は守れないなどと、ロシアにいえようか・・・??
政府の誰もが、死刑しかないという意見・・・中には、過激な意見を言い出す者までいる!!

伊藤の手記によれば、事件の翌日、閣僚の後藤象二郎と陸奥宗光が伊藤にこう進言しています。

「裁判で死刑にするのが難しければ一作ある
 金を当時、刺客を使って犯人を殺し、病死だと発表すれば簡単に済む!!」

これに対し伊藤は答えています。

「そのような無法は許さん!!
 人に語るだけでも恥ずかしいと思え!!」

流石に獄中で暗殺するなどもってのほかだが、やはり津田は死刑にする以外に道はない!!
それには、大逆罪を適用するしかないのか・・・??
 
しかし、児島の主張が正しいことは明白!!
大逆罪の適用は、法律を曲げなくてはできない!!
大日本帝国憲法を発布してまだ二年・・・
あれほど心血注いだ立憲国家への道を、私自身が曲げることになるまいか??
なんとか法律の範囲内で、処理できないものか???

戒厳令を出して軍法会議で裁く、あるいは天皇陛下の緊急勅令による処分という手もあるかもしれない・・・!!
もし、ここで大逆罪を強引に適用すれば、欧米諸国はどう思うのか・・・??
日本は、自ら決めた法律すら守らない、見せかけだけの近代国家だと信頼を失い条約改正にも悪影響を及ぼすかもしれない・・・
別の道を探るべきなのか・・・??

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1891年5月16日、ロシア本国からの情報が伊藤にもたらされました。
ロシア皇帝アレクサンドル3世は、今回の事件に関して日本政府に一切賠償請求を要求しないというのです。
伊藤はすぐさま、駐日ロシア公使シェービチに使いを送ります。
そこで、犯人の処遇についてロシア公使としての意見を求めると、シェービチは・・・

「無期徒刑を以て処するならば、私はロシアと日本の間にどんな重大なことが起きても保証できない」

シェービチの返事を聞いた伊藤は、こう書き残しています。

”死刑にあらざれば、到底この事変の結局を、満足に了すること難かるべしとの意なりしなり”

伊藤が選んだのは、大逆罪の適用でした。
京都御所の重臣会議で大逆罪適用の方針が決定します。
大津地方裁判所から審理が取り上げられ、大逆罪を裁くことのできる大審院で裁ける手続きを薦められました。
伊藤は、松方総理を通じて児島惟謙に、大逆罪を適用し津田を死刑にすると通告しました。
同時に、政府により担当裁判官たちを司法省に呼び出し、大逆罪の適用を説得します。
遂に、裁判官たちは政府の要求い従うことを決めます。
5月19日、場所は、大津地方裁判所のまま、異例の大審院法廷が開かれることとなりました。

ところがこの時、児島惟謙が密かに巻き返しに出ます。
大津へと乗り込み、政府に屈しないよう担当裁判官たちを直に説得して回りました。
児島は、裁判長の堤正己を宿泊先に呼び出しこう語ります。

「今回の裁判は、我が国の法率の威信を決めるものだ
 政府の圧力に屈するのか、司法の独立を守るのか、君たちの判断にかかっている
 熟慮を願いたい」

児島の熱意に圧され、担当裁判官たちは次々と同意しました。
児島の介入を知った明治政府は、慌てて内務大臣・西郷従道を派遣します。
西郷は声を荒らげました。

「ロシアの艦隊が品川沖に現れ、砲撃すれば、日本は壊滅する
 これでは、法律は国家の平和を保つものではなく、国家を破壊するものとなってしまう」

しかし、児島は頑として聞き入れませんでした。

5月27日、午後0時30分・・・
ロシア皇太子ニコライの襲撃犯人・津田三蔵の裁判が始まりました。
争点は、刑法116条・・・すなわち大逆罪を適用し、死刑にするか否かです。

午後6時40分・・・注目の判決が下されました。

”判決 その所為は謀殺未遂の犯罪にして被告三蔵を無期徒刑に処するものなり”

東京で判決を知らされた伊藤らには、もはやなす術はありませんでした。
止む無く結果をロシアに伝えます。
6月3日、ロシアからの返答が届きます。

”判決は、ロシア皇帝陛下はもちろん、一般人民 十分に満足ありたり”

どうしてロシアは判決をすんなり受け入れたのでしょうか?
おそらくニコライの心証が、日本に対してよかったこと・・・日本側のもてなしが効いたようです。
明治天皇のお見舞いも含めて、日本の皇族が事件の解決に奔走、こうした皇族外交が、通常の外交ルートとは違う効果を発揮したのです。
大津事件の直前に、ドイツとロシアの独露再保障条約が切れました。
フランスに同盟相手を乗り換えるのですが、大津事件はその端境期・・・
ヨーロッパで同盟国がないときに、アジアでロシアは戦争を起こしたくなかったのです。

判決から3日後、大逆罪が適用されなかったことを支持する記事が、横浜居留地のイギリス英字新聞・ジャパンウィークリーメールに掲載されました。

”もし、刑法の明文を曲げて無理な解釈を下していれば、日本は世界の信用をさらに大きく失うところだった
 そうならなかったのは幸いである”
  
奇しくも、大津事件の判決は、日本が立憲体制を運用する近代国家であることを示す結果となりました。
判決の2週間後・・・6月11日、児島と偶然顔を合わせた伊藤は冗談交じりにこう語りました。

「裁判官は随分無鉄砲をやるものだ
 しかし、今度は僥倖にも大当たりだ」

僥倖・・・思いがけない幸運だったと伝え、児島と別れた伊藤。。。
大津事件から3年後の1894年7月16日、日英通商航海条約調印。
念願の不平等条約改正への糸口をつかみます。

一等国として世界の仲間入りを目指し、漕ぎ出していくのでした。

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「明治日本を襲った試練 ~伊藤博文とロシア皇太子襲撃事件~」

 

東京原宿の東郷神社・・・ここに祀られているのは、明治時代、連合艦隊司令長官だった東郷平八郎です。
さらに、東郷神社からおよそ3キロ・・・乃木神社には、陸軍第三軍司令官・乃木希典が祀られています。
この二人が、神とあがめられる活躍をしたのが、今から116年前の1904年2月10日に始まった日露戦争でした。
明治という新しい時代が始まって40年足らず・・・東アジアの新興国だった日本は、その無謀ともいえる戦争でロシアに勝利することになりました。
その国力は・・・
歳入   日本・・・・・約2億5000万円
      ロシア・・・約20億円
兵力   日本陸軍の常備兵・・・・・約20万人
      ロシア陸軍の常備兵・・・約120万人
圧倒的軍事力の差でした。
それにもかかわらず、日本はどうして勝てたのでしょうか?
そこには3人の男がいました。

1800年代末~1900年代初頭
日露戦争が始まる前、ニコライ2世治めるロシア帝国が、中国・清から遼東半島にある大連・旅順を租借、南下政策を進めていました。
北極圏に近いロシアは、冬になると領土に面する港がほとんど凍ってしまうために、不凍港を確保したかったのです。
そこで狙われたのが日本海・・・制海権の掌握を狙います。
ロシアは、太平洋艦隊の主力戦艦をウラジオストク港以南の旅順に移し、増強を図ります。
さらに、ロシア陸軍も満州に次々と基地を築き、遂には朝鮮半島北部にも進出!!
日本列島の背後にも迫ってきていました。
この危機的状況を打破するため、日本は1904年2月10日、ロシアに宣戦布告します。

出来るだけ、短期に勝って講和に持ち込みたい・・・!!
綱渡りのような戦いでした。
短期決戦を目指す日本の連合艦隊が、旅順港に奇襲攻撃・・・!!
陸軍部隊が朝鮮半島の仁川に上陸します。
戦いの火蓋が切られました。
日本が戦いを挑んだ相手は、超大国ロシア・・・それはまさに、ギリギリの戦いでもありました。
どうやって短期決戦に勝利し、講和に持ち込むのか・・・?

①旅順攻略・・・その作戦のTOPは、陸軍第三軍司令官・乃木希典!!
当時54歳。

②世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊と戦った日本海海戦・・・それを指揮したのは、乃木の1歳年上・・・連合艦隊司令長官・東郷平八郎でした。

2人の司令官がどのように決断し、どのような戦いを繰り広げたのでしょうか?

①乃木希典の決断・・・203高地攻略
日露戦争で、最も激戦となった旅順の攻防戦・・・
日本軍15万のうち、死傷者数8万人・・・
未曽有の犠牲を余儀なくされました。
どうしてこれほどの犠牲を出してまで、旅順を攻略しなければならなかったのでしょうか?

中国・遼東半島の先端に位置する港町・旅順は、港の入り口が狭く港内が広いのが特徴で、軍港として最適でした。
そのため、ロシアは南下政策の新たな拠点として、ここに太平洋艦隊を配備、また旅順港を守るために市街の周辺100カ所以上に砲台を設置、要塞化していました。
そんな旅順を、日本軍は当初、海軍の連合艦隊による海からの攻撃で落とそうとしますが、激しい砲撃にあい、撤退を余儀なくされます。
そこで、海軍は自分たちの戦艦をあえて港の入り口に沈め、敵艦を港に封じ込める作戦に出ますが、これも失敗・・・
開戦から3か月たっても、手も足も出ない状態となっていました。
そんな中、追い打ちをかけるような情報が日本軍にもたらされます。
ロシアがバルト海に配備していた世界最強の艦隊・バルチック艦隊を日本海に向かわせる準備を始めたというものでした。

バルチック艦隊が来る前に旅順を落とさなければ・・・!!
タイムリミットが迫っていました。
もし、連合艦隊が敗北すれば、ロシアに日本海の制海権を奪われ、大陸への兵士の移送や物資の運搬ができなくなり、日本の敗戦は明らかでした。
そうなる前に、旅順の太平洋艦隊を撃滅しなければ、日本海の制海権を奪われ敗戦濃厚になるのです。

そこで日本軍を統括する最高機関・大本営は、海からの攻撃を諦め、陸から旅順要塞を攻める作戦に切り替えます。
その指揮を任せたのが、日本陸軍第三軍司令・乃木希典です。
10年前の日清戦争の際、清国の基地だった旅順をわずか1日で落とした乃木の実績が買われたのです。

「乃木なら、また旅順を落としてくれる・・・!!」

大本営や、国民の期待が寄せられました。
乃木は、その期待に応えるべく、作戦を立てます。
それは、旅順港に近いロシア軍の陣地を集中攻撃し、守りを崩し、歩兵を突撃させ要塞を突破、港を攻めるというものでした。

「これで一気に旅順を落とす・・・!!」

1904年8月19日、日本軍は攻撃を開始、5万1000の兵で総攻撃をかけました。
それが、惨劇の始まりになるとは知らずに・・・。
どれだけ攻撃しても、旅順要塞はびくともしませんでした・・・。
ロシア軍は、守りの要である旅順要塞を徹底的に増強・・・乃木が10年前に落としたものとは全く違っていました。
防護壁は厚さ1.3mのコンクリート、その壁の裏には、ロシア兵が攻撃をかわしながら自由に動ける通路が作られていました。
更には、防護壁の周囲には幅7mの堀が張り巡らされ、敵が容易に近づけないようになっていたのです。
この要塞の情報は、乃木には知らされていませんでした。
突撃した兵が敵の攻撃を潜り抜けても、堀の中へ落ち、先に進めず作戦失敗。
乃木はこの戦闘で、総兵力5万人のおよそ1/3にあたる、5000人の戦死者と1万人の負傷者を出してしまうのです。

この旅順の戦いはすさまじいものでした。
多数の死傷者が出ていきます。
乃木は、無能な司令官として国民から大きな非難を受けます。
要塞の情報が乃木に伝えられなかったことが失敗の原因でしたが、国民はそんなこととは知らず無能な司令官という汚名を着せたのです。
政府には、辞職や切腹を求める投書も殺到し、自宅には投石が相次ぎました。
窮地に立たされた乃木をさらに追いつめる最悪の知らせが届きます。
1904年10月15日、バルチック艦隊、バルト海のリバウ港を出港!!
ロシアから日本海に到着するまでは早ければ3か月・・・乃木に旅順攻略のタイムリミットが課せられたのです。

そんな中、日本軍を統括する大本営は、作戦の変更を要請・・・
旅順要塞を攻めるのではなく、その背後にある通称203高地と呼ばれる丘を占領し、そこから港を停泊する太平洋艦隊を砲撃する作戦に変えろというのです。
しかし・・・乃木はそれを受け入れませんでした。
乃木はどうして受け入れなかったのでしょうか?
203高地の攻略は、乃木の第三軍内での検討され、既に実行されていました。
その際、203高地が兵士たちの身を隠す場所が全くない斜面だったため、ロシア軍の反撃をまともに食らい、2500人もの死傷者を出していたのです。
また、ロシア軍は203高地を重要と判断し、砲台を増強していました。
そのため乃木は、
「次に203高地を攻めたら、もっと多くの者が犠牲になる・・・!!」
乃木は、多くの兵士の犠牲を出すことが予想されたので、大本営からの203高地攻略作戦の要請を受け入れなかったのです。
その代わりに乃木がとった作戦は・・・
兵士たちが身を隠せる塹壕を掘って、旅順要塞の近くまで進み、そこから突撃するというものでした。
そして作戦を決行・・・!!
ところが、要塞からの反撃に耐えられずにまたも作戦中止に・・・。
このままでは敗戦必至・・・!!
しかし、203高地攻略に固執する大本営は、天皇を動かし、天皇の勅語を得ることに成功します。

「いまや陸海両軍の状況は、旅順攻略の期を緩ふするを許さざるものあり
 此時にあたり 第三軍総攻撃の拳あるを聞き 成功を望むの情 甚だ切なり」

「陛下が期待されている・・・失敗は許されない・・・!!」

乃木に、旅順攻略の重圧がかかります。
さらに・・・日本海を目指すバルチック艦隊が、11月上旬にアフリカ沖まで到達、早ければ2か月後に日本海に到着する・・・!!
乃木に旅順攻略のタイムリミットが迫っていました。
しかし、それでも乃木は、要塞の間近にまで塹壕を掘り進める攻略作戦を続行!!
あくまでも兵士たちの犠牲を最小限に抑えたかったのです。
今度は塹壕を要塞の防護壁の真下まで到達させ、防護壁を爆破、突入を試みますが・・・頑丈な壁を壊すことができず、ロシア軍の反撃を浴びて突入部隊は全滅してしまいました。

「間近で爆破しても、要塞の壁は崩せぬのか・・・!!」

乃木に決断が迫られんす。
塹壕を掘り進む攻略は、着実とはいえ長期戦になりバルチック艦隊が日本海に到着までに落とせるかわかりません。
一方203高地の攻略は、敵の守りが旅順要塞よりも薄いが、身を隠す場所が全くないため多くの犠牲を出すのは明らか・・・
そして、11月27日午前10時・・・

「第三軍はこれより203高地を攻略する・・・!!」

日本が勝つために、乃木は苦渋の決断をするのでした。
203高地に配備されたロシア軍の砲台に対し、2300発もの砲弾を一斉に撃ち込みます。
そしてロシア軍がひるんだうちに兵士たちは203高地を一気に駆け上っていったのです。
戦闘は熾烈を極め、辺りは兵士たちの累々たる屍に覆われていきました。
その時の様子をある兵士はこう語っています。

「ああ惨劇 虐殺以上の惨劇 
 数十メートルの地面は瞬時にして
 一面我が兵の死体を持って蔽われ
 尺寸の地をも余さざるに至った」

日本軍の絶えまない攻撃は9日間に及び、12月5日、ついに203高地攻略!!
日本軍はすぐさま旅順港の太平洋艦隊を攻撃します。
次々と艦船を沈め、バルチック艦隊が日本海に到着する前に、太平洋艦隊を壊滅させたのです。
この203高地の戦いでの死傷者数は・・・ロシア軍4600人に対し、日本軍は1万7000人。
兵士の命と引き換えに得た勝利でした。
そのため乃木は、

「皆すまぬ・・・この責任は死んでとる・・・」

日露戦争が終わって、明治天皇のもとに参内した乃木は、切腹して罪を謝りたいといっています。
しかし、明治天皇は「死ぬならば私が死んでからにしろ」と止めたといいます。
その後、明治天皇が崩御された後に、1912年9月13日、乃木は妻と共に殉死しています。


②東郷平八郎の決断・・・日本海海戦

日本海軍連合艦隊の指揮を任された東郷平八郎は、日露戦争での海での戦いについてこう考えていました。

「ロシアの太平洋艦隊を、運よく叩くことができても、ヨーロッパに展開するバルチック艦隊が参戦すれば、日本に勝ち目なし
 ただし、唯一の作戦を除いて・・・!!」

東郷の懸念通り、1904年10月15日、バルチック艦隊がバルト海のリバウ港を出港。
一方、日本軍は乃木希典率いる陸軍第三軍の奮戦によって、旅順港にいたロシアの太平洋艦隊を壊滅させました。
これで、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊と太平洋艦隊に挟み撃ちにされることは回避されます。
それでも、当時世界最強を誇ったバルチック艦隊との一騎打ちは大苦戦が予想されました。
そして遂に、翌年の1905年5月・・・バルチック艦隊が、ベトナム沖までやってきたのです。
世界最強の艦隊が、まもなく日本海に・・・
東郷は、バルチック艦隊に勝てる唯一の作戦に備えます。
その作戦とは”丁字戦法”・・・トウゴウターンです。
丁字戦法とは、正面からやってくる敵艦隊に向かって攻撃することなく突進
攻撃の射程に入ったところで、船首の方向を一気に変える大回頭を行い、敵の戦闘に対し、主砲と側面の副砲から集中して砲撃を加え、1艦づつ順次に撃滅するという戦法です。
船の向き合う形が、漢字の”丁”の字を描くため、こう呼ばれました。
これは、「坂の上の雲」の主人公秋山真之が考案したといわれています。
秋山の頭脳と、東郷の決断力・・・これがあっての戦法でした。
しかし、この戦法には大きな問題点がありました。
大きく大回頭している間、日本軍は敵から攻撃されやすい・・・きわめて危険な方法で、一か八かの戦法でした。
しかも、敵から離れていると逃げられるため、危険を冒してでもギリギリまで敵船に近づく必要がありました。
そしてこの戦法で最大の問題だったのが、バルチック艦隊がどの航路でやってくるのか?ということでした。
丁字戦法は、艦隊同士が真正面から向き合わなくては使うことができないからです。

「こちらの待ち伏せを敵に外されたら、その時点で我々は負けだ」

旅順が陥落しているため、バルチック艦隊が向かうのはウラジオストク・・・!!
そこに向かうルートは対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3つ!!
東郷は最初の決断を下します。

「我が艦隊は、対馬海峡で待つ!!」

どうして東郷は対馬海峡を選んだのでしょうか?

東郷は相当迷い、最後は軍人の感だったようです。
東郷は、バルチック艦隊委は長旅で疲れているので、来るならば最短距離でウラジオストクに入ってくるだろうと考えました。
東郷の決断により、連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾でバルチック艦隊を持ち撫せることに・・・
しかし、待てど暮らせど、バルチック艦隊はやってきません・・・。
対馬海峡で待つという東郷の決断は間違っていたのでしょうか??
この時、司令部からはバルチック艦隊は津軽海峡を通過するのでは・・・??という意見が強かったのです。
津軽海峡に異動するのか??このまま対馬海峡で待つのか??
東郷の下した2つ目の決断は・・・??

「もう1日対馬海峡で待つ!!」

すると・・・1905年5月27日4時45分!!
偵察に出ていた信濃丸が長崎の五島列島沖で濃霧の中を進むバルチック艦隊を発見!!
信濃丸は、すぐさま連合艦隊に打電します。

「敵艦隊 対馬東水道ニ向カウ」

東郷の決断は、間違っていませんでした。
この時、連合艦隊は大本営に向けてこう打電しています。

「敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊はただちに出動
 これを撃滅せんとす
 本日天気晴朗なれども波高し」

連合艦隊が鎮海湾から対馬海峡へ向かうと・・・
13時39分!!
そこに姿を現したバルチック艦隊を確認!!
遂に決戦の時!!
先頭を行く旗艦「三笠」に乗艦した東郷は、四色のZ旗を掲げました。
その旗に込められた意味は・・・??

「皇国ノ興廃 此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」

連合艦隊は、攻撃することなくバルチック艦隊にひたすら近づいていき、8000mを切った時、14時05分!!

「左150度 回頭!!」

東郷の命により、連合艦隊が大回頭を開始、これを見たバルチック艦隊はここぞとばかりに猛攻撃を開始します。
東郷が乗った三笠は、敵弾を一手に浴びながら、猛攻に耐えました。
14時10分、連合艦隊は回頭を終えるとバルチック艦隊の先頭を進むスワロフに、一斉に砲撃を開始。
連合艦隊の猛攻により、スワロフに乗艦していたバルチック艦隊の司令官が負傷!!
さらに、散り散りとなったバルチック艦隊を次々と撃沈していきました。

5月28日、激戦は2日に及び、バルチック艦隊に壊滅的な被害を与えた日本の連合艦隊が世界最強の艦隊に勝利したのです。
どうしてリスクの高い丁字戦法が成功したのでしょうか?
そこには、連合艦隊の徹底的な作戦方針がありました。
基本的には複数の艦船で敵艦一隻を長時間攻撃を浴びせる方針を・・・隊列を崩さないで攻撃するという方針をとりました。
バルチック艦隊は遠くからきているので、小さな船は連れてこれません。
大きな船ばかりでした。
日本は中小の艦船で、小回りが利いたのです。
長期間の航海で、ロシア側はフジツボ、カキなどの貝が船底について抵抗になり、速力が上がらなかったことが原因です。
そのため、連合艦隊はバルチック艦隊の動きよりも早く、丁字の体勢をとることができました。
連合艦隊の徹底された作戦と速力が、バルチック艦隊の攻撃力を上回ったことが、作戦成功の大きな要因でした。

③小村寿太郎の決断・・・日露講和条約

1904年2月10日、日露戦争開戦。
旅順攻略や、日本海海戦など次々と日本が大国ロシアに勝利し、優位に進めていました。
しかし、日本の実情は・・・
日露戦争開始から1年半の日本の戦費は約15億2000万円・・・日清戦争の7倍、国家予算の5年分でした。
また動員兵力は、1年半で、動員兵力約110万人、戦死者は8万8000人に及んでいました。
日本がこれ以上、戦争を続けることは財力的にも、兵力的にも限界でした。

それに対し、国力に勝るロシア帝国は、本国に精鋭部隊を温存していました。
そのため、戦争が長引けばロシアが優位になるのは明らか・・・
日本は戦況が優位なうちに、出来るだけ早い講和を望んでいました。
そんな切羽詰まった講和交渉に臨んだのが外務大臣・小村寿太郎でした。
小村は、ロシアとの仲介を第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに依頼します。
というのも、日本は、日露戦争の開戦直後から、元司法大臣の金子堅太郎をアメリカに派遣し、ルーズベルトに接触していたからです。
金子はルーズベルト大統領とハーバード大学で学友でした。
最初から講和を早期に持ち込もうという準備をしていたのです。
この準備が功を奏しました。
日本海海戦での日本の勝利からわずか13日後の6月9日・・・
ルーズベルトは、日本とロシアに対して講和会議をアメリカで開くことを提案します。
もちろん、日本はすぐに受諾。
ロシア皇帝ニコライ2世は、この戦争に負けたと思っていなかったので、講和に反対します。
しかし、ロシア国内で社会主義が台頭!!
ロシア国内での情勢の悪化で戦争どころではなく、止む無く講和会議への参加を受け入れました。

日本側のロシアへの講和条件は・・・
・朝鮮半島における日本の優越権を認める
・満州からロシアが撤退する
・遼東半島の租借権と鉄道の権利を日本に譲り渡す

この時、小村が政府から任された条件です。

さらに・・・

・樺太の割譲
・賠償金15億円の支払い

要求も命じられていました。

小村は、こんな講和条件をロシアが丸々飲むわけがない・・・と考えていました。

国民は、勝ったんだから・・・と、期待していたのです。
小村は、こうした国や国民の期待には応えられず、交渉の非難を浴びることを覚悟してアメリカに渡りました。

そして、8月9日、アメリカの東海岸ポーツマスで講和会議が始まります。
小村の交渉相手となったのは、ロシア全権大使セルゲイ・ウィッテです。
小村の孤独な戦いが始まりました。

「満州は本来、清国の領土
 すみやかな撤退は、当然と考える」by小村

「そんなものは認められん!
 ロシアを何だと思っておるのか!!」byウィッテ

「賠償金については、これは日本が戦いのために使った実費に過ぎない」by小村

「ロシアは、日本語時に1ルーブルも支払うつもりはない!!
 もし、日本軍が我が国を占領できたなら、払ってもいいがなぁ」byウィッテ

何ともふてぶてしい態度で交渉に臨むウィッテ・・・
実は、それには理由がありました。
戦争に負けたと思っていないウィッテは、予めどんなことがあってもロシアが講和を望むような態度を見せない、自分はロシアの全権大使であると大きく構えて相手を威圧することという交渉方針を立てていたのです。
全てはウィッテの演技・・・高圧的な態度をとることで、日本を怯ませ交渉をロシアペースで進めようともくろんでいたのです。
しかし、ロシアに駐在経験のある小村はそれを見抜き、ウィッテの術中にはまることなく
”なぜ日本は満州からの撤退を求めるのか、なぜ遼東半島の租借権を譲り渡せといっているのか”と、理詰めで交渉を進めたのです。
それによって、ウィッテは日本の求めた主な条件に付いては認める姿勢を見せます。
しかし、樺太の割譲と賠償金の支払いは、断固拒否、それどころか

「日本は賠償金欲しさに戦争を続けようとしている」byウィッテ

と、国際世論に訴えたため、日本は非難を浴びるようになったのです。
このままでは日本が悪者になって、交渉が決裂する可能性が・・・!!
小村は悩みます。

「交渉が決裂すれば、戦争が続く・・・
 そうなれば日本は負ける・・・!!」by小村

そんな中、アメリカの水面下の交渉により、ロシア皇帝ニコライ2世が樺太の南半分の割譲を承認・・・
という情報が入ってきました。
それを受け、小村は決断しました。

1905年8月29日、10回目の講和本会議・・・
小村はウィッテに対し、こう切り出します。

「日本政府が樺太の南半分の割譲を条件に、ロシアの賠償金支払いの要求を撤回する」by小村

小村は、講和交渉の決裂を避けるべく、賠償金を諦める決断をします。
するとウィッテは、皇帝が認めた条件で納まったことで、日本の講和条件をおおむね受け入れました。

日本は資金も兵力もない状態で、本来ならば戦争に勝ったといえるかどうかも微妙な状態でした。
この条件を手に入れたというだけで、小村のすごさが分かります。
そして9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)締結。

1年7か月に及んだ日露戦争は、日本の勝利で終結したのです。
しかし、日露講和条約が締結された同じ日に、東京日比谷公園で賠償金のない日露講和条約に反対する人々の集会が開かました。
それは、大臣の官邸や交番、新聞社が襲撃されるなどの大暴動に発展します。
東京は数日間にわたって無法地帯と陥ったのです。
帰国した全権大使・小村寿太郎も、罵倒を持って国民に迎えられたのです。
賠償金なしでも講和できたことのありがたさを知らずに・・・

日本が勝利した日露戦争・・・アジアの小さな国でもヨーロッパの大国に勝てる・・・
この大きな自信、大きな過信が、やがて大局を見誤ることにつながってしまいます。
この後、日本は新たな大きな戦争に向かって、突き進んでいくことになるのです。

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豪華絢爛たるエルミタージュ美術館・・・もともと王宮だったこの建物は、ロシア帝国の繁栄を今に伝えています。
そのロシアで、100年前の12月、一人の男が死にました。
帝国崩壊の一因となったと言われる男です。

この絢爛豪華な宮殿に、崩壊間際、一人の怪しい男が出入りしていました。
悪魔とも、怪僧ともいわれたその男の名はラスプーチン。
シベリアの貧しい農村に生まれ、文字を書くことも、読むこともできませんでした。
しかし、28歳の時、突如信仰の道へ・・・!!
そしていつしか、一農民だった男が皇帝や皇后に取り入り、国の政治にまで影響を及ぼすようになっていきます。

ラスプーチン・・・今では悪の代名詞となっていますが、その実像は・・・??

第1次世界大戦のさなか、ラスプーチンは暗殺されます。
その直後、ロシア革命がおこり・・・勝利した革命政府はラスプーチンを知る関係者から調書をとりましたが、公表されたのは敵対勢力の調書のみ・・・支持者たちの証言は闇に葬られました。
1995年、ロンドンで、支持者たちの調書が発見されます。
そこからラスプーチンの新たな一面が・・・!!

フランスのベルサイユ宮殿、オーストリアのシェーンブルン宮殿と並び、世界三大宮殿の一つとされるロシアの冬宮・・・今は、300万点もの美術品を所蔵するエルミタージュ美術館となっています。
ここはもともと、栄華を誇ったロシア帝国・ロマノフ王朝の王宮でした。

そのロマノフ王朝の時代・・・ピョートル1世、エカチェリーナ2世のもと、ロシアはヨーロッパ列強に匹敵する大国となりました。
しかし、300年を祝った4年後に滅亡してしまいます。
ロシア革命の勃発によって!!
時の皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラは、幽閉されたのちに処刑されます。
この帝国滅亡の一因となったと言われているのがラスプーチンです。
元々はシベリアの田舎で放蕩生活を送る荒くれものでした。
そんな彼がどうして信仰の道へ・・・??

いまだに多くの謎に満ちているラスプーチン・・・
1869年1月9日・・・翌日、洗礼を受けた1月10日が聖グレゴリーの日であったことから、グレゴリーと名付けられました。
シベリアの農家に生まれたラスプーチンは、周りの子よりもひ弱で夢見がちだったので、「バカのグリーシカ」と呼ばれていました。
しかし、女の子とは仲が良くいじめられました。
青年になると、打って変わって乱暴者に豹変し、喧嘩、放蕩、大酒・・・酒代に困って盗みを働き制裁を受けることもありました。
「私は満たされないでいた。
 多くのことに答えを見つけられず、酒を飲むようになった。
 これで本当に生きていると言えるのだろうか?
 生きるとはいったいどういう事なのか?」
1897年、28歳で結婚。
それでも虚しさをかき消すことはできませんでした。
そんなある日・・・
農作業のほかに御者の仕事もしていたラスプーチンは、神学生を乗せます。
「放蕩の限りを尽くし、どん底に落ち込んだ息子が帰るべきは、父のところだと気づき、家路につきました。
 帰ってくる息子を見た父は、走り寄って抱き寄せました。
 息子の罪を許したのです。」
この話をした後、神学生は・・・
「罪深き者が神の元に帰るのに、遅いなどということはありません。
 行きなさい。そうすれば救われるのです。」
衝撃を受けたラスプーチンは、もっと神の教えを知りたいと思いました。
そして、結婚したての妻を残し、700キロ離れた修道院へ・・・。
旅の途中、不思議な体験をします。

ある時、聖母マリアの絵が飾ってある部屋に泊まった。
夜中に目を覚ますと、その絵が涙を流しながら語りかけてきた。

「グレゴリーよ、私は人々の罪を思って涙を流しています。
 放浪の旅に出て、人々を罪から清めなさい。」

ラスプーチンは、巡礼の旅に出ることを決意します。
ロシア各地の修道院をまわることに・・・!!
道程は数千キロに及びました。
また、酒もたばこも止め、肉や甘いものも口にしないようになります。
ラスプーチンは、行く先々の修道院で、質素に暮らす長老に出会います。
彼らから、人の気持ちを汲み取る術、愛情のこもったしゃべり方を学んでいきます。

ある日ラスプーチンは、ひどい片頭痛に悩む女性に祈りを捧げます。
すると・・・片頭痛は・・・痛みが消えました。奇跡です。
いつの間にか、ラスプーチンの周りには信者が増え、集まっていきました。

巡礼を続ける中・・・変わった宗派・鞭身派と出会います。
元々はキリストが鞭で打たれたように・・・自らを鞭打つ禁欲的なものでしたが、いつしか踊りまくった上で乱交する・・・あえて罪を犯すことで、体内から罪を追い払い、清らかな体になる・・・という独特な考え方がありました。
ロシア正教からすると異端であるこの鞭身派・・・ラスプーチンは惹かれていきます。

「ロシア正教の主教の話には何の価値もない。。。
 信仰にとって学識がなんだ。
 文字のせいで、彼らの頭は混乱し、足がもつれ、救世主のあとについて行くことができない。
 人々が耳を傾けるのは、私の単純な言葉なのだ。」

巡礼を始めて5年・・・
1902年、33歳の時にペテルブルクに到着。
ロシアで最も美しいと言われる町・・・皇帝を頂点に貴族たちが贅を尽くした華やかな生活を送っていました。

ラスプーチンは、ペテルブルク神学大学のフェオファン主教を尋ねます。
はじめて会った学生たちの病気を見抜いたり、抱える問題を言い当てます。
さらに日露戦争の見通しも・・・
「わが艦隊は沈むでしょう。
 私はそれを心で感じます。」byラスプーチン

彼の洞察は強く、まるで千里眼のようでした。
このフェオファン主教のつてで、ラスプーチンは皇帝に謁見する機会を得ました。
それから1年・・・皇帝に手紙を送ります。
「父なる皇帝。
 シベリアから来た私は、奇跡を起こした聖シメオンの聖像画を献上したいと願っております。」
そして面会に臨んだラスプーチン・・・
巧みな話術によって、皇帝、皇后を魅了していきます。
予定していた5分をはるかに上回る1時間以上も続きました。
この頃・・・二人は厄介な問題をいくつも抱えていました。

①民衆の不満
1861年の農奴解放によって、農民たちはますます貧乏になっていきます。
仕事を求めて都市へ流入するものが後を絶ちません。
しかし、ロクな仕事はありませんでした。
首都ペテルブルクで10万人のデモが発生!!
その時、突然警備隊が発砲し、子供や女性、多くの命が失われました。(1950年1月血の日曜日事件)

この時、皇帝はペテルブルクを離れていて、全く実情を知りませんでしたが・・・民衆の怒りは皇帝へ!!

②1905年9月日露戦争敗北
追いつめられた皇帝と皇后は、神秘主義へと傾倒していきます。
当時、ロシアでは、多くの人々が神秘主義に取りつかれていました。
奇跡を望んでいたのです。
そして・・・救い主の登場を望んでいました。

③5人目にしてようやくできた男の子・・・皇太子アレクセイの血友病
ある日、皇太子は鼻血を出して止まらなくなりました。
医師たちも成すすべなし!!
皇后は藁にも縋るつもりでラスプーチンを呼びます。

「イエス様をみてごらん。
 ほら、傷があるだろう。
 苦悩に耐えることで、強くなったんだ。
 君も同じように強くなって、みんなと一緒に幸せに暮らそう。
 主よ、お救いください。。。」byラスプーチン

皇太子さまは、もう大丈夫です。

皇太子の病をいやしたラスプーチンは、皇帝、皇后から”私たちの友人”と呼ばれるようになります。

しかし、生活は楽ではありませんでした。
「そんなに皇后と親しいのに金に困っているのか?」by友人
「けちなんだよ、皇后は。」byラスプーチン
皇后は倹約家でしたが、徐々にラスプーチンに褒美や金を与えようとしますが・・・ラスプーチンは、金に困っていながらその申し出を断っていました。
申し出を断ると、皇后がどれだけ喜ぶか知っていたからです。
こうして皇帝一家・・・とりわけ皇后から信頼を得ていったラスプーチンは、上流階級に基盤を築いていきます。
彼の言葉に耳を傾けたのは、ほとんどは女性でした。

いつしかラスプーチンは、上流階級の夫人たちと二人っきりで朝まで過ごすようになります。
ラスプーチンを皇室に紹介したフェオファン主教は、こうした悪行を見逃すわけにはいきません。
「ラスプーチンの行いはますますひどくなっている。 
 女たちをはべらせ、浴場にまで行っているのだ。」
遂に、主教は皇帝に訴えることに・・・!!
しかし、対応したのは皇后で・・・
「そんなことは全てうそで、誹謗中傷です。」と言い放ちました。
この後・・・フェオファン主教は左遷されたのです。

ラスプーチンの時代、ロシアは常に戦争と隣り合わせでした。
しかし、ラスプーチンは、戦争に反対をし続けます。
皇帝一家の信頼を得たラスプーチンの元には、多くの人が来るようになっていました。
1日200人もの嘆願も・・・。
来るものは拒まず・・・たいていのことは叶えます。
しかし、見返りに報酬をもらう訳ではなく、金持ちの金を貧乏人に分け与えました。
一方、この頃ロシアは重大な問題に・・・
オーストリア・ハンガリー帝国が、ボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻・・・
そこには、ロシアと同じ正教会の信者が沢山暮らしていました。
正教会の仲間を守るべきだ・・・!!と、開戦の機運が高まっていきます。
皇帝も戦争に傾いていました。
しかしこの戦争を食い止めたかったのは、アレクサンドラ。
皇后はドイツ出身だったので、ドイツ・ハンガリー帝国と戦うということは、必然的に故国ドイツと戦うことを意味していました。
王宮にラスプーチンが現れて・・・

「戦ってはいけません。
 戦争をすべきだという人は、お金とか地位とか、自分の事しか考えていません。
 自分たちは血を流すこともなく、国民を犬死にさせるのです。
 
 日本との戦争が終わり、人々は日常を取り戻したばかりです。
 戦争となれば、多くの儀税が出ます。
 人々は陛下を憎むでしょう。
 政治家たちも、陛下が自分の息子を地獄に送ったと非難するでしょう。

 そして私が殺され、陛下と陛下の王朝も・・・」byラスプーチン

皇帝は、戦争を断念。
ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国に併合されました。
政治家たちは憤り・・・その矛先はラスプーチンに・・・!!

「無学な農民が政治に口を出すなど、絶対に許してはならない・・・!!」

そんな中、スキャンダルが・・・!!

国会に一通の手紙が提出されました。

「私の愛しい忘れ得ぬ師よ。
 救い主よ、導き手よ・・・
 私が心安らぎ、休息できるのは、あなたのそばに座り、あなたの手にキスして、あなたの幸せに満ちた肩に、うっとり頭をもたれかけさせる時だけなのです。」

それは、皇后がラスプーチンに宛てた手紙でした。

政治家たちはラスプーチンを追い落とそうと、皇帝の元に手紙を持参します。
しかし、皇帝は、彼らの訴えを認めなかったばかりか、更迭してしまいました。
こうしたやり方に対し、皇帝の親族からも不満が・・・!!

「これほど恥ずべき時代は前代未聞です。
 今、ロシアを支配しているのは、皇帝ではなく山師ラスプーチンなのです」by将軍夫人

マスコミもラスプーチンを激しく攻撃します。
「あの男は”魂は肉体を通じて学ぶもの”だと説いている」
「ラスプーチンは、”神聖な宗教面談”と称して風呂に若い女性信者を連れ込んでいる」

それに対しラスプーチンは・・・
「あんたがたは、俺について作り話や嘘ばかり書いているが、俺は農民たちの味方だ。
 ロシアを支えているのは農民だ。
 そもそも、戦争などはするに値しない。
 戦争とは、お互いに命を奪い合い、キリストの遺訓を破り、自身の魂を時ならずして殺してしまう事だからだ。」

ラスプーチンに対する非難は、一向にとどまらず、さすがにラスプーチンを追いつめられていきます。

「主よ・・・私の敵は、なんと増えたことでしょう。
 多くの者たちが、私に戦いを仕掛けてきます。」

知人は証言します。

「彼は精神的に枯渇していました。
 人生の意味への不信と絶望の時代に入ったのです。」

そんな中、皇帝がラスプーチンに・・・

「世の中が騒がしいので、しばらく故郷の村で過ごしてはどうか?」

ラスプーチンは、故郷に戻りましたが、2週間後事件が・・・!!

突然見知らぬ女に刺されたのです。
ラスプーチンに敵対する勢力が放った刺客でした。

ラスプーチンは一命をとりとめたものの、静養を余儀なくされます。
そしてロシアにとって重大な事件が・・・

第1次世界大戦勃発!!

参戦するか否か??
ロシア国内が揺れます。
戦争を回避したい皇后は、ラスプーチンに電報を打ちます。
「事態緊迫、戦争の危険あり!!」

しかし、ラスプーチンは、ペテルブルクに駆け付けられる状態ではありませんでした。
皇帝は、周囲の声に押され、開戦に踏み切ります。
1914年8月2日、ロシア、第1次世界大戦に参戦!!

皇后はラスプーチンに伝えます。
「祈りたまえ・・・絶望している。」

その後、ラスプーチンは、長く断っていた酒におぼれるようになります。
ラスプーチンは、自らが堕落したことを意識し、そのために苦しまなければなりませんでした。
彼はむせび泣きながらこう言いました。

「俺は悪魔だ、鬼だ、罪深い奴だ。
 昔は聖者だったのに・・・。」

私生活はボロボロ・・・しかし、皇后の前では毅然としていました。
この頃、戦局は厳しさを増し・・・皇帝が前線で指揮していたものの、苦戦続き・・・
皇后は、秘密裏にドイツとの講和を結ぼうとします。
ラスプーチンも、気をよくしていました。

ある日、ラスプーチンは、この計画を親しい友人フェリックス・ユスーポフに打ち明けます。
貴族の青年で、ロシア屈指の大金持ちでした。
ラスプーチンが治療を行ったことで、知り合いとなり、毎日のように何でも話す間柄となっていました。
が・・・ユスーポフは、敵対する勢力と通じていたのです。
ドイツとの講和の動きを知った敵対勢力は強硬策に・・・!!
1916年12月30日、ユスーポフはラスプーチンを自宅に招きました。
そして銃声が・・・!!
二日後、ラスプーチンは変わり果てた姿で発見されたのでした。

社会や人々の欲望が、ラスプーチンという存在を作り上げたのか・・・??
その人生は、神の代弁者でありたかった「人間の業とは・・・」ということを探し求めた人生でした。

ラスプーチンの死から2か月後・・・
1917年2月ロシア革命が勃発。
生前ラスプーチンは語っていました。

「私が殺された場合、皇帝一家も非業の死を遂げるだろう。」

皇帝一家はとらえられ、その後、シベリアで処刑されます。1918年7月ニコライ2世一家処刑
皇后は首飾りにラスプーチンの肖像を入れていました。最後まで私たちの友人に深い信頼を寄せていたのです。
革命ののち、ロシアの地では、弾圧や粛正の嵐が吹き荒れました。
ラスプーチンは、そんな時代を予言するような言葉を残しています。

「暗雲がロシアを覆う。
 一条の光もささず、涙は海のごとく果てしなし。
 すべておびただしい血にまみれん。」



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 日露戦争・・・大国ロシアを相手に国家の存亡をかけて戦った戦争でした。
諸外国からも無謀と思われていましたし、日本も絶体絶命の危機に陥っていました。
背景には、国家予算の7倍もの戦費がありました。
政府の借金・・・12億9300万円・・・財政は破綻状態でした。

もはや戦争を継続できなかった日本は、辛くもロシアとの講和に持ち込むことができました。
”ポーツマス講和会議”です。
komura

日本の全権を担って交渉したのが外務大臣・小村寿太郎。
この時、小村がこだわったのが賠償金でした。
断固拒否するロシア皇帝・・・これ以上戦いを続けられない日本は、賠償金を断念するのもやむおえない状況でした。

一方国民は、実情も知らずに賠償金をとらずには!!と、不満が爆発!!

賠償金獲得こそが国益!!と、会議に臨んだ小村。
小村は秘策を練っていました。
それは、一旦会議を決裂させるというものでした。


小村の執念が引き出したロシアの妥協案とは???

1905年に行われたポーツマス講和会議・・・全権代表は小村寿太郎。

日露戦争直前から戦中の電報のほとんどは・・・各国公使や領事と小村寿太郎が交わした記録でした。
戦費を調達するのは容易なことではなかったようです。

1904年2月10日・・・
ロシアに宣戦布告し、ロシア戦争勃発!!
当時の中国の混乱に応じ、ロシアは、満州へ17万の軍隊を派兵、影響力を強めていました。
朝鮮王朝にもロシア寄りの政権を樹立させようとしていました。

この動きに、安全保障上の危機を感じた日本は、ロシアを撤退させようと宣戦布告したのです。
しかし、経済力、人口共に、ロシアは日本の3倍・・・。
政府は、1年の限定戦争と位置付けていました。
それでも、国家予算の2倍、4億5000万円を予定していました。

その不足は外債・・・その指揮を執ったのが外務大臣・小村寿太郎でした。
小村は日銀副総裁の高橋是清を世界の経済の中心ロンドンに派遣。
しかし、資金調達は困難を極めました。
開戦目前になると・・・交際価格は暴落・・・新規に公債を発行しようにも買い手がつかなくなっていました。

当時交際にかかる利率・償還期間は・・・
イギリスで2.5%、50年でしたが、日本に突き付けられたのは・・・6.0%で10年でした。
この劣悪な条件でなければ発行できない・・・!!

おまけに予想を超えて膨れ上がる戦費・・・。
最終的には国家予算のおよそ7倍の約18億円・・・。
現在に直すと400兆円です。

「私債でもいいので、早急に資金調達せよ!!」by小村寿太郎

その大きな要因は・・・開戦半年後に開通したシベリア鉄道にありました。
鉄道によって大量の兵士を送り込むことができるようになったロシア。。。
それに対抗し、日本も兵士を増強しなければならず・・・最終的には94万人を送ることになりました。
大規模な戦争へ・・・!!
近代兵器の大量導入!!
戦費を押し上げますが・・・
日本軍はロシアを鴨緑江から撤退させます。

日本軍優勢の風は、高橋是清に追い風となり、資金調達に成功!!
しかし、戦費が膨れ上がるにつけ、外債も増大し、8億円!!

また、1年以上の激戦で、日本は8万人を超える戦死者・・・もはや戦いは続けられない・・・!!

そんな状況に、陸軍参謀総長・山県有朋が桂首相・小村に意見書を出します。
「我はすでに有らん限りの兵力を使い尽くしており、敵に致命傷を与えておらず、ロシアが未だにわかに和を求めるに至っていない。」

ロシアと講和に持ち込みたかった日本・・・しかし、決定的な打撃は与えておらず、講和には持ち込めずにいました。
それから2か月、絶好の機会が・・・!!
1905年5月27日、日本海海戦。
バルチック艦隊を撃破、21隻を喪失させることに成功します。
講和へ・・・!!

日本ともロシアとも同盟を結ばない中立の国・アメリカに入ってもらおうとします。
セオドア・ルーズベルト大統領が、日本に好意的だと掴んでいた小村は、仲裁を依頼します。
会議は8月にアメリカで行われることになりました。

閣議決定されたのは・・・??
絶対的必要条件として「韓国の支配権」「ロシア軍の満州からの撤退」「遼東半島の租借権」「鉄道の一部譲渡」がありました。
比較的必要条件として、「軍備の賠償」があったのです。
あまりにも疲弊しきっていたので、早く戦争を終わらせることが最優先。。。
そして、植民地経営をして長期的にプラスになるのではないか?と、思っていたようです。

しかし、それを知らされていない日本国民は、勝利に酔っていました。
新聞も、賠償金30億円・・・と、国民を煽ります。

1905年7月8日、小村寿太郎は、全権代表としてポーツマス講和会議へ・・・!!
政府の目的と、国民の期待を胸に・・・!!

日本とロシアの講和交渉が始まりました。
小村寿太郎に対峙したのは、ロシアの全権代表セルゲイ・ウィッテ。
政府要職を歴任している強者でした。

日本の絶対条件を提示します。

①韓国支配権の容認
②日露両軍の満州からの撤退
③満州の清国への返還
④満州の門戸開放の保障
⑤東清鉄道南部支線に関わる権利の譲渡
⑥満州横断鉄道の利用を商用に限定
⑦旅順・大連租借権の譲渡

会議から7日後・・・おおよそは合意となりました。

これによって日本の戦争目的であった安全保障は確保されました。
その後の交渉では・・・

・日本への賠償金支払い
・日本への樺太割譲

となりました。

小村は・・・
賠償金の獲得が大切・・・財政の問題、植民地経営の問題からも賠償金をとっておきたかったのです。
しかし・・・賠償金と領土割譲の要求は拒否されます。

「ここに戦勝国などない。
 したがって敗戦国もないのだ。」byウィッテ。

このままでは交渉が進まない・・・!!
妥協案として・・・占領した樺太の北半分を諦める代わりに12億円の支払いを要求します。
皇帝ニコライ2世は・・・
「1寸の土地も1ルーブルの金も譲ってはならない」という厳しいものでした。

ロシア本国では・・・皇帝の力が揺らいでいました。
サンクトペテルブルクで行われた労働者の請願でもにたいする発砲事件・血の日曜日事件によって、政情不安定となっていたのです。

しかし、ロシアは強気で、戦争継続も辞さない勢いでした。

満州・ハルピンには、たくさんのロシア兵士が・・・戦闘態勢を整えていました。
おまけに、小村には批判が!!
”日本の強情と強欲が戦争を継続させようとしている”と、アメリカの新聞が書きたてたのです。

日本に好意的だったアメリカ世論が・・・ウィッテが新聞を誘導し、アメリカ世論をロシア寄りにしていたのです。
追い込まれていく小村寿太郎。。。

講和成立を優先??

満州軍総参謀長・児玉源太郎は、賠償金の要求に対し・・・
「桂の馬鹿が、償金を取る気になっている。
 朝鮮にのしをつけて、露に進上するようになるかもしれぬぞ。」
下手をすると、朝鮮半島での権益も失いかけない・・・。
児玉たち軍部は講和を望んでいました。

しかし、このまま妥協して、賠償金をもらわなければ、財政は破綻してしまう・・・!!

すでに、開戦前よりも税金は2倍に膨らんでいました。
これ以上の負担は・・・!!


決裂も辞さず??

賠償金は譲れない・・・!!
頼みになるのはルーズベルト大統領!!
小村は交渉を決裂させたと見せかけて、ニューヨークへ引き返し、大統領を説き、再度仲介に入ってもらおうと考えていました。

世論はロシア・・・ルーズベルトは引き受けてくれるのか??


ルーズベルトは、日本側にも妥協を求め始めていました。

「このまま賠償金を要求し続ければ、他の国々はロシアへの同情を傾け、ロシアに金銭の援助にまわるであろう。」

そうなれば戦争は継続され、多大な血が流れることとなる・・・!!
頼みのルーズベルトからの圧力!!

どうする??

膠着状態のポーツマス会議・・・
1905年8月26日、妥協しないウィッテに対し、小村は政府に打電します。
”談判を断絶するほか道はない!!”と、会議決裂を覚悟までして賠償金にこだわったのでした。

しかし、政府は・・・
”賠償金と領土の要求を放棄し、講和成立を目指せ。”と、戦争の終結を望みました。

8月29日交渉最終日・・・
思わぬ情報を日本政府から受け取ります。
ロシアは南樺太を割譲しそうだ・・・!!

ロシア皇帝は、賠償金の支払いは認めないものの、捕虜経費の支払いには応じる。
サハリンの南半分は日本の領土に・・・というものでした。
ロシアの敗北を認めたのは、小村の粘りに譲歩したからでした。

9月5日に調印・・・1年半にも及ぶ日露戦争は終結しました。

そこには、日本の譲れない絶対的必要条件、南樺太の割譲、そして7万人にも及ぶ捕虜引き渡しの経費の支払いが記されていました。

この捕虜経費は、486万440ポンド、2年後の1907年11月23日に日本側に支払われました。
およそ5000万円でした。
結局、賠償金の獲得は果たせなかったのです。

9月1日、新聞は一斉に講和条約の非難を。。。!!
国民は怒りを爆発させ、日比谷焼打ち事件が・・・!!
戦争を継続できないことを知らない民衆は、契約破棄、戦争継続を望んで暴徒と化します。
警察署、交番は焼き討ちにあい、負傷者1000人以上、死者17人を出す大惨事となりました。

小村は絶対条件を果たしたにもかかわらず、戦犯扱いされたのです。
賠償金を得られなかったことで、日本は財政難となります。
政府が内外に実施した借金は・・・12億9300万円・・・。

政府は毎年、一般会計の歳出の30%を国債費に充てなければならなくなっていました。
自転車操業で・・・多重債務者となってしまいました。
講和会議で手に入れた満州の鉄道・・・。
政府はアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンの資本を導入し共同経営を画策していましたが、小村はこれを反対し、南満州鉄道の経営を独占を推し進めます。
しかし、大陸政策は軌道に乗ることはありませんでした。

30年後の資料によると・・・あれだけの損失を出しておいて、経済的には全くお話にならない損をしている、国家にもっと利益をもたらすべきだと苦言を呈しています。

小村が心血を注いだ講和条約・・・その後の大陸経営には、禍根を残す結果となりました。

陸奥宗光・・・第2次伊藤博文内閣に於いて外務大臣を務め、日英通商航海条約を結び、条約改正に成功し、日清戦争と三国干渉の処理に当たった男。。。
恩氏である陸奥宗光を越えたい!!
という気持ちが、それが恩返しであると考えていたのかもしれません。

失敗した??
しかし、小村は一等国としての確固たる日本の地位をきっちりと手に入れました。

賠償金なしの講和条約が日本に与えた影響は??
一等国としてのレールを敷いた小村。

外交の本質、多面性、複雑性、現実的な妥協点・・・
私たちはその外交の複雑さを理解しているのでしょうか??
もっと理解する必要が、安全に繋がるのです。

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