日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ノルマンディー

史上最も壮大にして複雑な軍事作戦・・・
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始!!
第二次世界大戦で、連合軍に勝利の道をもたらしました。
しかし、一歩間違えば、大惨事となる危険な賭け・・・万全の準備が必要でした。
ノルマンディー上陸を成功に導いたのは、ある大掛かりな嘘でした。
連合国は、欺瞞作戦フォーティテュード作戦を展開し、決行の時期と上陸の地点について偽の情報を流し、ヒトラーを出し抜いたのです。

イギリスの諜報機関が架空の部隊を作り上げ、その情報をスパイたちがドイツに流しました。
この作戦で活躍したのが、スペイン人の二重スパイ・・・コードネームはガルボです。
ガルボの活躍なしには、成功はありませんでした。
連合軍は、どうしてドイツの諜報機関を欺くことができたのでしょうか?
見事にヒトラーの裏をかいた謀略の立役者は、いかなる人物だったのでしょうか?

1944年6月・・・連合軍のフランス上陸は、失敗の許されない危険な賭けでした。
フランスをナチスドイツから解放すべく、イギリス・アメリカ・カナダ軍の将兵13万人以上が、ノルマンディーに殺到しました。
この作戦を成功に導いたのは何だったのでしょうか?
連合軍は、少なくとも数の上でははるかに劣る兵力で、4年にわたって敵の配下にあった地域に乗り込んでいきました。
イギリスからの距離・・・わずか160キロとはいえ、ノルマンディー地方の上陸には様々な困難が予想されました。
イギリス海峡は波が荒いことで有名・・・完璧な兵力で、船酔いもなく到着することが必須条件でした。
1942年8月19日、連合軍はディエップの戦いで、上陸作戦に失敗・・・負傷兵1800人を失っていました。
敗因は、ドイツ軍による港の防御が予想以上に堅かったことでした。
この失敗を踏まえて、今度は港から離れた場所に狙いを定めます。
ドイツ軍は、連合軍は次も港を狙ってくると思っていました。
連合軍は、港を避けます。
アメリカの参戦以来、連合軍はフランス上陸への新たな機会をうかがっていました。
1943年連合国首脳は相次いで会談し、年末のテヘラン会談では、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソビエトのスターリンが顔をあわせます。
この時、ノルマンディー地域への上陸を目指すオーバーロール作戦が、具体化しました。
しかし、フランスへの上陸を見越して準備を進めていたのは、連合国側だけではありませんでした。

ヒトラーは、1940年にイギリスとの航空戦に敗れ、ソ連との戦いにもてこずっていました。
連合軍のフランス上陸は、もはや避けられないと感じていました。
問題は連合軍が、どこを、いつ、攻めて来るのか??でした。
ドイツははるかに戦闘経験豊かな部隊が、連合軍を待ち構えていました。
ヒトラーは、連合軍は必ず主要な港を攻めてくると考えていました。
中でも、自分がかつてイギリス侵攻への足掛かりにしようとしたパ・ド・カレーは最も近く、その距離は、50キロ足らずでした。
空軍が、燃料を保ちながら最大限に闘うためには、近い距離が必須でした。
もちろん、連合軍もパ・ド・カレーが一番でした。
しかし、連合軍は、最短距離のパ・ド・カレーではなく、ノルマンディーに・・・。
敵の不意を突き、時間を稼ごうとしたのです。
上陸作戦は、往々にして最初の数時間が勝敗を決します。

初日の課題は、最初の陣地となる橋頭堡を築くことでした。
しかし、橋頭堡は格好の標的になります。
連合軍は、巨大な港の建築を試みました。
この港から、兵士や物資を海岸に送ることができるのです。
しかし、連合軍の行く手には、大西洋の壁という強大な障壁がありました。
1941年、ヒトラーは、第三帝国の威信をかけた難攻不落の砦を作っていたのです。
ノルウェー北部からフランススペイン国境まで、およそ4300キロにわたり、8000を超える防御陣地、鉄条網、機関銃座や火炎放射台、対戦車砲、通信傍受施設を供えます。
しかし、防御施設の大半は作りかけで、人員、物資・・・不足していました。

1943年末、ヒトラーは、ロンメル元帥を大西洋の壁の補強に当たらせます。
進んでいない補強・・・ロンメルは全力でその強化に努め、改善します。
ロンメルは、フランスとオランダの海岸に、12の要塞を築きました。
中でも力を入れたのが、パ・ド・カレーの防御です。
ドイツ軍は、連合軍がパ・ド・カレーを狙ってくるとわかっていました。
人員や物資をこの地域に集中させ、防御を固めようとします。
そのことが災いして、それ以外は手薄なままでした。

1944年初頭、フランスにはドイツ軍150万人が駐留し、連合軍の侵攻への備えをはじめていました。
作戦の成功は、ドイツ軍の不意を突けるか??というところにかかっていました。
ヒトラーは、戦線が西になることは確信していたものの、パ・ド・カレーと思い込んでいました。
イギリスは、その思い込みを長引かせて、ノルマンディーから頭を外させなければなりません。
イギリスは、偽の情報を流して欺瞞作戦に力を入れます。
1942年には、北アフリカ戦線で効果をあげています。
イギリスの首相・チャーチルは、上陸作戦をドイツに悟られないために、軍の幹部たちに情報戦を指示します。

ロンドンでは、欺瞞作戦に特化した”ロンドン諜報司令部”が設置されました。
チャーチル自らがトップを選びます。
頭脳明晰で入隊まで金融機関で活躍していたイギリス陸軍ジョン・べヴァン中佐です。
作戦全体の管理を行いました。
彼は、欺瞞作戦の全貌を把握していました。
チャーチルはこの助言を頼りにし、そのオフィスを内閣戦時執務室の近くに置きました。
べヴァンは、国内での諜報活動が専門のMI6と、国土安全保障を担当するMI5の統括も任されます。
こうして、コードネーム・フォーティテュード(不屈の精神)作戦が始動・・・
作戦に関わる全ての人々にとって、膨大な挑戦の始まりでした。
フォーティテュード作戦は、二段構えの大掛かりなものでした。
ひとつは、フォーティテュード・ノース・・・
スカンジナビア侵攻をほのめかし、そこにいるドイツ軍をくぎ付けにし、西部戦線に加わるのを防ぎます。
そしてフォーティテュード・サウス・・・
連合軍がいつどこに上陸するのかを悟られないように、敵をかく乱します。
イギリス南東部に連合軍の部隊が集結していると情報を流すと、ヒトラーはパ・ド・カレーを目指していると思うはず・・・
この情報のために、本物の部隊を投入するわけにもいかないので、連合軍はアメリカ軍第一軍集団という架空の部隊を作り上げます。
当時の地図のケント州一帯には、架空の師団の配備位置が記されています。
どうやって信憑性を持たせたのでしょうか?
ヒトラーの注意をひくような、実在の人物を司令官にします。
連合軍総司令官アイゼンハワーが指名したのは、アメリカ陸軍のパットン将軍でした。
パットンなら申し分ありませんでした。
パットンの名前を聞いたドイツ軍は、「あのパットンが率いるのだから、連合軍の精鋭部隊に違いない!!」と考えたのです。

パットンは、かつてダンケルクからの撤退作戦で拠点となったドーバー城の地下に司令部を置きました。
ドーバー城に司令部を置くことで、連合軍の目標はパ・ド・カレーだと思わせます。
実際の司令部は、ポーツマスにありました。
上陸作戦の実行を決めてから、連合国は並行してフォーティテュード作戦を具体化させてきました。
1943年11月の極秘文書から、当時すでに作戦の詳細が検討されていたことがわかります。
第一段階は、架空の軍隊の装備を整えることでした。
ロンドン諜報司令部は、相当な費用を投じ、航空機や船舶などの木製のダミーを作らせます。
何百という艀や上陸用舟艇が作られました。
航空機が偽物の滑走路に・・・
しかし、問題が・・・戦時中、木材は高価だったので、費用が膨大なものに・・・!!
おまけに木製のダミーは重く、移動する部隊としては不向きでした。
低コスト、軽量で敵を威圧するためには・・・??
アメリカ軍の士官が、秀逸なアイデアにたどり着きました。
ニューヨークの感謝祭パレードののバルーンを思い出したのです。
ゴムなら軽くて丈夫、様々な形に作ることができます。
1944年の3月以降、アメリカのタイヤメーカーが中心となって、ダミーの戦車づくりを始めました。
空気で膨らませるゴム製の戦車が何百と作られ、イギリスに送り込まれたのです。
イギリス南東部の沿岸部に255台のゴム製の戦車が置かれました。
こうしてダミーの航空機や戦車が設置されていきました。
あとは、ドイツ軍の偵察飛行を待つだけでした。

その効果は抜群でした!!

ロンドンの映画スタッフも参加します。
ドーバー近郊に、燃料貯蔵庫を造れ!!
手に入るものを・・・ガラクタをかき集めて・・・ダミーを作ります。
タンカー、石油ポンプ・・・連合軍は、設備に至るまで細かく作り上げました。
国王ジョージ6世も現地を視察します。
連合国は、総力を挙げて一芝居を撃ちます。
あらゆる産業が協力します。
当時、イギリス南東部には数千人の兵しかいませんでしたが、それを100万人規模に見せる必要があったのです。
ドーバーには多くの人や車が行き交うようになりました。
アメリカ軍第一軍集団司令部の標識が立ち、地元の人々もそれを信じていました。
しかも、ドイツの諜報員が見ることを見越して、新聞社を巻き込んだプロパガンダが展開されます。
新聞には架空の記事が・・・!!

無線通信は傍受される可能性がありましたが、それを逆手に取ります。
ドーバーの無線室から、軍の動向を知らせるメッセージを大量に送ります。
ここに大規模な部隊がいるとドイツ軍に思わせるために・・・!!
こうして、実在しない部隊に命が吹き込まれていきました。
架空の師団に割り当てる徽章まで・・・!!

しかし、ドイツ側が気付かなければ意味がない・・・
どれだけ把握していたのでしょうか?
ドイツには、架空の師団の配置を正確に伝わっていました。
1944年当時、ドイツ軍によるイギリス本土の偵察飛行はほぼ不可能でした。
当時、イギリス上空を飛ぶドイツ軍機は、連合軍にことごとく撃ち落されていて、写真を持ち帰ることができませんでした。
そこで、あえてドイツ軍機を誘い込み、イギリス南部に集中させている様子をわざと撮影させます。
ドイツ軍は1944年1月~3月まで、一度もイギリスの偵察飛行を行いませんでした。
4月~5月にかけては成功しています。
そこには、ハッキリとダミーの上陸用舟艇が映っています。

架空の部隊、架空の無線通信、偵察機の誘導・・・しかし、数回の偵察飛行をしただけで、ドイツ軍が詳しく情報を入手することができたのか・・・??

そこにはスパイの存在が・・・
イギリスには2つの諜報機関MI5と、MI6があります。
国土安全保障を目的とするMI5の戦時中の方針は明確でした。
敵国のスパイは、協力させたうえで本土に帰らせ、それを拒むものは処刑しました。
潜入したドイツのスパイは、たちまちあぶり出され・・・ドイツ国防軍の諜報機関アプヴェーアは、イギリスで確かな情報源を一人も確保することができませんでした。

二重スパイ・・・ウソにウソを重ね・・・イギリスは、目標を達成するためには大掛かりに展開します。
しかし、ドイツにはそんな発想はありませんでした。
二重スパイを使って、偽の情報を流します。
ドイツが其れに騙されていることをどうやって確認したのか・・・??
イギリスは、1941年以降・・・ドイツの暗号エニグマの解読に成功していたのです。
暗号解読によって手に入れた情報は、最高機密とされました。
エニグマの解読・・・それによって、ドイツ軍司令部の通信内容を把握することができました。
暗号解読の拠点だったブレッジリーパーク・・・1944年には、難解の暗号も、8時間程度で解読可能でした。
相手の反応をリアルタイムで把握し、敵のスパイも把握していたのです。

一方、ドイツ国防軍諜報機関アプヴェーアは、自分たちのスパイ網に自信を持っていました。
イギリス各地にスパイを配置させ、通信傍受で得た情報の裏付けをとっていました。
ところが、ネットワークを統括していた人物こそが・・・二重スパイ、フアン・プジョルです。
フォーティテュード作戦に欠かせない人物でした。
ドイツの分析結果を裏付けるような情報を提供するのが彼の役目でした。
しかし、どうしてスペイン人のプジョルがイギリスの作戦に加わることになったのでしょうか?

バルセロナ出身のプジョルは、スペイン内戦を経験し、独裁者フランコやファシストを憎悪していました。
第二次世界大戦が激化する中、連合軍のスパイになることを決意します。
ヨーロッパの文明が、ヒトラーによって破壊されてしまう・・・!!
しかし、イギリスは門前払いします。
敵の諜報機関の回し者かもしれない・・・!!
プジョルは大胆なプランを考えます。
イギリスの関心をひくために、ドイツのスパイとして働くことにしました。
ドイツ側の信頼を得ることで、イギリスの興味をひきたかったのです。
1941年、プジョルはマドリードでドイツ軍のスパイにスカウトされます。
こうして中立国スペインで、ドイツのスパイとして活動し、連絡係のキューレンタールとも信頼を得ていきます。
プジョルは、ドイツにイギリスの入国許可証を持っていると嘘をつきます。
当時、ドイツはイギリスにスパイを潜入させるのに大変苦労していました。
この機会に飛びつき、プジョルに秘密の連絡手段を教えます。
報酬も与えます。
41年の夏・・・プジョルはロンドンに渡ったと思わせながら、実際にはポルトガルのリスボンに到着。
スパイの多かったこの町で、活動を始めました。
彼はイギリスに行ったこともありませんでした。
リスボンの図書館で時刻表を見て到着・・・あたかもイギリスにいるようにしてやり取りを始めます。
ドイツ側にはアラリックというコードネームで呼ばれたプジョルは、巧妙にウソをつきました。
そもそも、ドイツに有利な情報を渡すつもりはなかったため、様々な話をでっち上げ、永遠と描写させたのです。

プジョルは自分の身を護るために、イギリス国内に大勢の情報源を確保したように装います。
数か月のうちにプジョルのネットワークはイギリス全土に広がります。
情報が偽物だとバレてもその情報源のせいにして、難を逃れることができます。
イギリスMI5も動き始めます。
彼等はアラリック・・・プジョルの暗号の内容をすべて解読していました。
情報はマドリードのキューレンタール少佐を通じて、ベルリンに送られていました。
アラリックとは何者なのか・・・??どうして本土にスパイ網を巡らすことができたのか??
奇妙だったのは、彼の情報の殆どが全くデタラメだったこと・・・。
イギリスの諜報機関は、リバプールにいたスパイが送った情報を入手しました。
輸送船団がマルタ島を目指して出発したという情報・・・そんな事実はありませんでした。
その情報を受けたドイツは、迎え討とうと空軍と海軍から数多くの航空機を動員したのです。
ベルリンにこれほどまでの影響力を持つスパイ網を持つ人間がMI5の目を逃れて展開している・・・それを取り仕切っているのはアラリック・・・

アラリックとフアン・プジョルが重なり出しました。
1942年4月・・・MI5の諜報員が、プジョルに接触・・・
プジョルはドイツのスパイとして1年間活動していたと証言。
それは、イギリス側に認めてもらうためだったと告白します。
ついにプジョルは二重スパイとしてイギリスに採用され、コードネームはガルボ!!
1942年、プジョルはイギリスにわたりました。
偽の情報を流し続けてきたことを当局に認めます。
各地にいるはずのスパイは、全部架空の人物だと明かしたのです。
つまり、プジョルのイギリスでの組織自体も存在しませんでした。
偽のスパイ網は拡大し、1944年には27人にもなっていました。
ドイツが偽の情報を信じなければ、フォーティテュード作戦は失敗する・・・!!
全てはプジョルと架空のスパイたちにかかっていました。
プジョルは報告をロンドンから諜報機関アプヴェーアのマドリード支部に送ります。
支部長のキューレンタールは、そのままベルリンに転送します。

イギリスはエニグマの解読に成功していたので、プジョルが送った全ての情報がベルリンに転送されていることも解っていました。
ドイツ側がプジョルを高く評価していることも解っていました。
ヒトラーは、イギリスが南部に兵力を集中させていると確信するようになります。
1942年4月~44年8月まで、プジョルは毎日のように大量の情報をドイツ側に送っています。
中継係のキューレンタールは、プジョルを少しも疑わなかったのでしょうか??
彼を採用した自分に傷をつける・・・時間がたつにつれて、プジョルを切り捨てることができなくなってきていました。

ドイツ国防軍のアプヴェーアは、完全にヒトラーに従っていたわけではなく、北アフリカや南イタリアへの連合軍上陸を予想できなかったアプヴェーアに、ヒトラーは不信感を募らせ、強硬手段に出ます。
1944年2月、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリス長官を、故意に情報を改ざんしたとして更迭しました。
1920年代初頭に創設されたアプヴェーアは、ナチス傘下ではなく、国防軍の諜報機関です。
カナリス長官は愛国者でしたがナチスには反発していました。
レジスタンスに肩入れし、強く批判していたのです。
カナリスが更迭されたあとも、任務は続行されます。
キューレンタールはユダヤ系であり、ヒトラーが政権を握ると同時に、ベルリンを離れていました。
彼は、プジョルの情報を嘘だとしても見逃していたのでしょうか?
連合軍は、敵の諜報機関から思いがけない恩恵を受けていたのでしょうか?

プジョルは、架空のスパイ網を駆使し、ドイツ側に偽の情報を流し続けます。
上陸作戦を控えた5月・・・なぜかヒトラーはノルマンディーを強く警戒します。
しかし、ロンメルは不可能だと・・・ほとんどの部隊をパ・ド・カレーに集中させていたのです。

上陸作戦決行前夜・・・イギリスはまたもや名案を思い付きます。
上陸直前にドイツに本物の情報を伝えたのです。
朝の4時ごろ・・・プジョルは暗号化した情報をマドリードに送り、ベルリンに転送されます。
連合軍がノルマンディーに上陸・・・という情報です。
まだ海岸に部隊は到着していませんでしたが・・・

ドイツ軍のプジョルに対する信頼は劇的に高まります。
プジョルが見事に連合国の動向を読んだことを称賛し、情報が遅れたのは技術的な問題のせいだと思ったのです。
ついに6月6日・・・遂に連合軍はノルマンディーに上陸!!
しかし、プジョルの任務はまだ終わっていません。
パ・ド・カレーの装甲師団が、ノルマンディーに行くことを防がなければなりませんでした。
ここからがフォーティテュード作戦の山場・最大の快挙でした。
彼等は、ノルマンディー攻撃は陽動作戦にすぎず、本当の狙いはパ・ド・カレーだとヒトラーに思い込ませたのです。
ドイツをだまし続けます。
桟橋を組み立て、陣地を守るための物資を降ろすために時間稼ぎが必要でした。
プジョルの本当の任務はここからでした。
ドイツに情報を送ります。
イギリス南部で部隊の動きが活発化している・・・
第二の上陸作戦の目標はパ・ド・カレーだ!!

ドイツはまたもや偽の情報に惑わされ・・・連合軍は時間を稼ぐことができました。
ノルマンディーへの上陸が成功し、足がかりができ、大規模な追撃が可能となりました。
これが戦争の流れを変え、退局を余儀なくされたドイツ軍はこの後勝機を見出すことができませんでした。
偽の情報を掴まされたドイツは、プジョルを問いただします。

「パ・ド・カレーへの攻撃などなかったではないか?」
「ノルマンディーの攻撃が予想以上の成果をあげたので、連合軍はパ・ド・カレーへの攻撃を取りやめたのだ」

ドイツ軍は納得します。
壮大な謀略作戦は成功をおさめました。
皮肉にも、ヒトラーは1944年7月、プジョルの功績をたたえ、鉄十字章を授与しました。
4か月後、イギリスからも大英帝国勲章を授かったプジョルは、敵対する2つの国から勲章を授与されたことになります。
第二次世界大戦が終わり、冷戦の時代になると、イギリスの諜報機関はフォーティテュード作戦を覆い隠してしまいます。
この作戦について多くが語られなかった背景には、人道的な理由もあります。
連合軍はパ・ド・カレーへの上陸に信憑性を持たせるために、一帯を爆撃・・・
何百というフランス市民が命を失いました。

非人道的な行為もやむ終えないと考えていました。
どんな犠牲を払っても目的を果たさなければ・・・!!
フランスのレジスタンス組織も犠牲になりました。
ドイツの諜報員が潜入していることを知ったイギリスが事前に通告しませんでした。
レジスタンスメンバーも騙され・・・フォーティテュード作戦の全体図を知っていたのは、イギリスとアメリカの諜報機関のみでした。
イギリスとアメリカが保管されている文書が全て公開されるためにはあと10年・・・もしくはあと35年必要です。
作戦の真相はまだ闇の中です。
第二次世界大戦が終わって70年以上たった今も、秘密は秘密のままなのです。

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世界の経営者が尊敬するリーダーは・・・??
ある会社の調査の1位は、第61代イギリス首相ウィンストン・チャーチルです。
ナチスドイツに勝った不屈の精神、イギリス国民を鼓舞するスピーチ力、そのチャーチルの人生は、失敗と挫折、敗北と失望の連続でした。
イギリス屈指の政治家とされるチャーチルは、政治家以外にも様々な顔がありました。
権威あるロイヤルアカデミーで展覧会を開いた画家の顔、生涯で30冊以上の本を書きノーベル賞を受賞したノーベル賞作家、レンガ職人の組合に加入し、自らの家の壁を作ったレンガ職人の顔・・・。
失敗と挫折を繰り返し、それでも首相を目指したチャーチル!!

イギリス国民にウィニーという愛称で親しまれたチャーチル・・・
半世紀以上が過ぎた今でも、そのドラマや映画が作られています。
第二次世界大戦でイギリスの首相として国の命運を握ったチャーチル。
ヒトラー率いるナチスと和平交渉をするか?それとも徹底抗戦するか??決断を迫られます。

「我々は野原や市街で戦い丘で戦う
 断じて降伏はしない・・・!!」

チャーチルのこの一言で、ドイツが優勢だった戦いを変えることとなります。
この時、チャーチル65歳、初めて首相になった遅咲きの政治家でした。
若い頃のチャーチルは、親も見放すほどの・・・親も見放すほどの不良の落ちこぼれでした。

イギリス、オックスフォード郊外にあるブレナム宮殿・・・チャーチル家の屋敷です。
チャーチル家は、150年続いた貴族の家柄でした。
1874年、チャーチルはこの宮殿で生まれました。
父・ランドルフは後に財務大臣を務めた政界の貴公子。
母・ジャネットは、ロンドンの社交界でも有名な美人でした。

1881年7歳で名門貴族の通う寄宿学校に入れられたチャーチル。
通信簿には遅刻20回・・・恥ずべきこと
常にトラブルの元凶で、喧嘩が絶えない・・・
無ず子の通信簿を見た父は・・・
「お前は負け犬のひとりとなり、みすぼらしく不幸で不毛な存在に堕落するだろう」と言ったといいます。
しかし、どんなに冷たくされてもチャーチルは父を尊敬し、憧れていました。
演説原稿を読んだり、父ののった新聞を集めたり・・・どうしたら父のようになれるのか考えました。
父親から突き放された息子・・・しかし、優しく接してくれるはずの母も冷淡でした。

チャーチルが寄宿舎から母に書いた手紙が残っています。

「どうぞ、ぜったいぜったいぜったいぼくに会いに来てください
 ぜったいです」byチャーチル

そんなチャーチルの心の孤独を癒したのが、おもちゃの兵隊でした。
チャーチルは人形の兵士を動かしている時だけは夢中になれました。
その姿を見た父・ランドルフは、軍人よりも向いているのでは??と、軍人を勧めます。
なんとか、士官学校に入学することのできたチャーチルは、19歳になったある日・・・
父・ランドルフが演説の途中で言葉に詰まります。
原因は、脳に至る重い病気でした。
1895年、ランドルフ、45歳で死去。
目標とする偉大な父が、突然消え去りました。

「私はいまや己自身が運命の主人となった」

士官学校を卒業したチャーチル・・・初めて自らの意思で選んだのは、戦争でした。
イギリスは、大英帝国として栄華を極めていましたが・・・19世紀末から植民地の独立運動が勃発!!
武力反乱もしばしば起きていました。
チャーチルはその反乱を抑えるべく、インド・スーダンなど戦地を転々とします。
最前線で、敵の弾丸をよけない命知らずな行動で、頭角を現していきます。
チャーチルを突き動かしていたものは、亡き父に自分の実力を証明したいという願望でした。
そしてチャーチルは、リスクを冒すことを恐れない人物でした。
彼は、地震の名をあげることに強い意志を持っていて、それが一番大事で、身の安全、経済的な安定は二の次でした。
戦線を転々としながら夢中で読んだ本は父も愛読していた「ローマ帝国衰亡史」でした。
大英帝国の行く末に危機を抱くチャーチルにとって、ローマ帝国の衰退は他人事ではありませんでした。

「我が人種の力と活気は衰えることなく、先祖から引き継いだ帝国を保持していくことを我々は決意ぢている」byチャーチル

大英帝国を保持する為に自分はどうすればいいのか??
戦場から帰ってきたチャーチルは軍陣をやめ、父と同じ政治家を志します。
24歳で下院議員に立候補!!
しかし、実績も知名度もないチャーチルは落選!!
とにかく知名度をあげなくては・・・!!

その時、チャーチルが目をつけたのは、南アフリカでおきていたボーア戦争でした。
イギリスが新たな植民地獲得のためにオランダ系のボーア人に対して起こしたものです。
チャーチルは新聞社と契約し、従軍記者として現地へ!!
ところが、チャーチルは現地で捕らえられ捕虜となってしまいます。
3週間が過ぎた頃・・・仲間と脱獄を試みます。
しかし、看守の目を脱獄できたのはチャーチルだけ・・・
敵地でのたった一人での逃亡が始まりました。
チャーチルは密かに列車に乗り込んで・・・目指すは500キロ先のポルトガル領モザンビーク!!
脱走してすぐチャーチルには追手がかかり、懸賞金もかけられます。
このまま易に行ってはあぶない・・・列車から飛び降り・・・脱走から2日間眠れず、何も食べていない・・・
一か八か、一軒のドアをたたきました。

「私はイギリスの特派員です。
 捕虜収容所から逃げてきました。
 助けてください。」byチャーチル

「君は家に来てよかった。
 うちだけだ、子の辺りで君を敵に引き渡さない家は・・・!!」

男は現地に帰化した元イギリス人・・・この地で数少ない味方でした。
捕虜の身から脱獄し、イギリスに生還したチャーチル・・・
イギリスではこぞって英雄として取り上げられました。
図らずも抜群に知名度を上げたチャーチルは、立候補し、下院議員に初当選しました。
1900年、25歳の時でした。

亡き父の背中を追って政治家となったチャーチル・・・
しかし、65歳で首相になるまで何度も失敗を犯し、政治生命を絶たれかけます。
33歳の時、人生を変える女性が表れます。
1908年クレメンティーンと結婚
9歳年下と妻は、生涯チャーチルに安らぎを与えてくれました。
そして5人の子供に恵まれます。
チャーチルとクレメンティーンの関係は非常に重要で、妻は彼にとって岩のような存在でした。
世界が変わりゆく中で安定した存在でした。
そして彼が誤った選択をしたとき、過ちをはっきり指摘することができる数少ない人物でした。
益々仕事に打ち込んだチャーチル・・・
1911年36歳で海軍大臣に抜擢されます。
1914年第1次世界大戦勃発!!
イギリスは連合国としてドイツに宣戦布告します。
チャーチルはドイツに大打撃を与えるべくガリポリ作戦を発案します。
目標はトルコ・イスタンブールの占領。
黒海とエーゲ海を繋ぐ要所を押さえてドイツの補給路を断つ作戦でした。
ところが・・・イスタンブールを望むガリポリ半島に上陸しようと試みた英仏連合軍は、6万もの犠牲者を出して大敗・・・。
この事態を受けて作戦の立案者のチャーチルに避難が殺到します。
チャーチルは戦争にもかかわらず、海軍大臣を辞任!!
妻への手紙に、不可解な文章を書いています。

もし私の黒い犬が戻ってきたら、今のところはずいぶんと遠くに行っているようで、それにはほっとしている

チャーチルは犬を飼っていませんでした。
チャーチルは、彼にしか見えない黒い犬に怯え、悩まされます。
この黒い犬とは・・・??
1915年、彼は非常に気が動転し、落ち込みました。
彼の精神状態を言い表すなら、死別とか、喪失とか、悲観・・・
これらは、うつのような症状ですが、病気ではありません。
海軍大臣という要職を奪われたことが、彼の心を砕き、落ち込ませたのです。
大臣の座を追われたチャーチルは、妻の勧めもあって、田舎で静養します。
やがて、目に映る自然や風景を描き始めました。
無心に何枚もの絵をかきます。
後にその心境を表現しています。

「絵の女神が私を救いに訪れた」

気力を取り戻し、ロンドンに戻ったチャーチル・・・この時40歳。
大臣を辞任し、政治生命を絶たれたに同然でした。
今の自分にできることは・・・一兵士として再び戦場へ・・・!!
大臣まで務めた人物が最前線に行くのは異例のことでした。
死と隣り合わせの塹壕の中で不思議な高揚感に襲われます。

「防衛区域のただ中では、土から死者の足やら服が飛び出していて、広範囲に墓が散らばっているようだし、どちらを見ても水や泥だらけだ。
 これに、湿気、寒さ、あらゆるささいな不便が加わっているが、私はこの数か月感じたことのない幸せと充足を感じている。」

1918年11月ドイツの降伏で終戦。
イギリスは勝利したものの90万人の戦死者を出し、膨れ上がる戦費が生活を圧迫し、4年後の選挙ではチャーチルの所属する自由党は大敗し、議席を失うことに・・・!!
それでもチャーチルは諦めません。
2年後の1924年恥も外聞もなく敵の保守党に鞍替えして出馬、下院議員に当選!!
そして、チャーチルが生涯最もうれしかったのが父・ランドルフと同じ財務大臣に就任します。
この時、49歳でした。

1939年第二次世界大戦勃発!!
イギリスは再び連合国としてナチスドイツと対決します。
その大戦のさ中・・・イギリスの首相となったのがチャーチルでした。
対戦当初、ドイツは破竹の勢いで各地を侵攻、フランス・パリも占領し、英仏海峡までやってきました。
イギリスが降伏すれば、ヨーロッパ全体がヒトラーの手に落ちるかもしれない・・・!!
絶体絶命の危機の中、チャーチルはどうやってイギリスを勝利に導いたのでしょうか??

第一次世界大戦で敗れたドイツは、壊滅的な打撃を受け国民の生活は困窮を極めました。
そんな中、ヒトラーのナチ党が台頭します。
1933年ヒトラーはドイツの首相に就任。
2年後、再軍備を宣言します。
この時、イギリスは一旦抗議するものの、ドイツの再軍備を追認しました。
ドイツを封じ込めるのではなく、譲歩することで取り込もうとしたのです。
しかし、チャーチルは違いました。
1932年にドイツを訪問し、ナチ党が独裁の道を着々と歩んでいることを目の当たりにしていたからです。

「私にはドイツ再軍備は冷酷で不気味さを帯びているように思われた。
 それはきらめき、そしてギラギラと光っていた。」

チャーチルはイギリスの政治家の中で、アドルフ・ヒトラーの脅威に最初に気付いた一人でした。
ヒトラーがヨーロッパのバランスを崩して、再び世界を戦争状態に戻そうとしていると早くから感じ取っていました。
1939年9月、ナチスドイツがポーランド侵攻
イギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、チャーチルはまたもや海軍大臣に就任します。
そのわずか9か月後、ドイツはオランダ・ベルギーに侵攻。
チャーチルが指摘した脅威は本物となっていました。
1940年5月・・・ヒトラーの危険性をいち早く唱えたチャーチルが首相に任命されました。
65歳の時でした。

「ついに私は、全局面にわたって指導していく権力を握ったのだ。
 私は運命と共に歩いているかのように感じた。
 そして、過去の私の生涯は、全てただこの時、この試練のための準備に過ぎなかった。」

ナチスドイツの対抗するためには、国民の士気を高め、野党を取り込む必要がありました。
イギリスを一つにまとめ上げる!!
チャーチルは、演説の準備を周到に行います。
6月4日、下院の議場に立ち、野党の議員を前に演説をはじめました。

「我々はいかなる犠牲を払っても、英国を守り抜く
 海岸で上陸地点で戦い 野原や市街で 丘で戦う
 断じて降伏はしない!!」

議場は歓喜に包まれたといいます。
チャーチルの就任後、それまでは入閣を拒否していた議員たちも政権に参加!!
パリを占領したナチスは、遂にイギリス本土に本格的な攻撃をはじめました。
爆撃機にとるロンドンの無差別空襲!!
多くの市民が犠牲となりました。
瓦礫と化したロンドンを歩くチャーチル・・・みなを励まして回ります。
チャーチルは、どんな場所でも帽子、葉巻、ステッキを崩すことはなく、その姿に国民は「イギリスはまだ大丈夫!!」と感じたといいます。

「大英帝国と共に、我々は降伏することなく戦い続けるだろう
 ヒトラーの呪いが人々の頭上から消え去るまで!!」

チャーチルはドイツ軍の具体的な策も実行します。
最新鋭のレーダーを配備!!ドイツ軍の爆撃機を迎え討つ体制を整えます。
1か月以上の戦闘で、イギリスはドイツ軍1,400機を撃墜!!
ロンドンの空からドイツ軍を追いだすことに成功しました。
ロンドンは守ったものの、大陸ではドイツ軍が優勢を誇っていました。
そこでチャーチルは、アメリカのルーズベルト大統領と会談!!
アメリカの参戦を要請します。

毎日の執務時間17時間、睡眠は3時間!!
自宅に帰っても外交文書の口述を続けました。
それでも、昼からシャンパンを欠かさず、日に10本の高級葉巻をくゆらし、夜にはウイスキーやブランデーを・・・
心臓発作で倒れても、生活は変えませんでした。

1941年12月アメリカが参戦し、ドイツに宣戦布告!!
形勢を一気に逆転させるためには・・・??
ノルマンディー上陸作戦!!

連合軍が英仏海峡のフランス・ノルマンディーに上陸し、ドイツの防御網を突破しようというものです。
この勝負に負ければ、イギリスは二度と立ち上がることはできないかもしれない・・・!!
チャーチルは、作戦実行前夜、イギリスの拠点・ポーツマスまで見送りに行ったといいます。
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦・・・4000隻を超える大艦隊、史上最大の上陸作戦が実行されます。
ドイツ軍との激しい戦闘の末、連合軍は上陸に成功!!
ここから反撃が始まりました。
連合軍はドイツ軍を次々と撃破!!そして、1945年5月、ベルリンが陥落し、ドイツは無条件降伏!!
チャーチルの戦争はようやく終わりました。

チャーチルはイギリスが勝利することで、戦う以前の大英帝国の状態に戻ることを期待していました。
ところが、戦勝国の会議で主導権を握ったのは、アメリカのルーズベルトとソ連のスターリンでした。

「私の左側には手足を思い切り伸ばしたロシアの大熊、右側にはアメリカの大きな象がいた
 二頭に挟まれ、哀れな英国の小さなロバはただ一人、正しい道を知っていた」

イギリスの領土要求は不調に終わったばかりか、かつての大英帝国の植民地も独立の道を歩み始めます。
チャーチルの目指した栄光は幻となってしまったのです。
更に選挙でも保守党は敗退・・・首相の座を追われたとき、70歳になっていました。
引退を考えてもおかしくないのに・・・野党の党首として働き続けます。

「いま、政界を引退したら、2度と戻ってくることは出来ない」

チャーチルは、地震の影響力で冷戦の緊張緩和が得られると信じていました。
東西冷戦の中で、イギリスの影響力を保持する為に、自分にできることがあると信じました。
第二次世界大戦後の世界は、ソ連を中心とする社会主義陣営とアメリカを中心とする資本主義陣営の冷戦状態にありました。

チャーチルは、東西の冷戦を「鉄のカーテン」と表現し、その西側にいる我々は団結するべきだ!!と、主張します。
現在のEU構想をいち早く唱えたと言われています。
活動を続けること6年・・・チャーチルに幸運が・・・政権与党への不満が爆発し、野党が政権をとり1951年、76歳にして再び首相に返り咲きます!!
しかし議会では、老害、引退すべき・・・との発言が・・・
新聞記者にいつ引退するのか聞かれたチャーチルは、
「私の健康が本当に衰えて、大英帝国が本当に元気を取り戻したらね。」と、答えました。

そんな中、思いもよらない出来事が・・・ノーベル文学賞の受賞!!
自らの著書、「第2次世界大戦」が戦争当事者の貴重な証言として高く評価されたのです。
チャーチルは序文に書いています。

「過去に深い考慮を払うことが来るべき日の手引きとなり、未来の恐るべき光景を抑制できることを私は心から願っている」

ノーベル賞の受賞で、まだまだ元気と思われていたチャーチルでしたが・・・耳が遠くなり、閣議の答弁も失敗するように・・・
1955年、80歳になったチャーチルは、周りに促され遂に引退を受け入れます。
首相官邸を去る前日・・・妻・クレメンティーンと共にエリザベス女王から直々に労いを受けたのです。
それから10年後の1965年1月24日、ウィンストン・チャーチルは90歳で激動の人生にピリオドを打ちました。 

奇しくも父親が死んだ人同じ日でした。
1月30日の国葬にはチャーチルを慕う30万人の国民が参加。
チャーチルは人生を振り返ってこうつぶやいています。

「いい旅だった
 旅に出た価値はあった・・・1度だけなら」byチャーチル

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