日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ノーベル賞

今から200年前・・・1冊の小説が世に出ました。
科学に魅せられた若者が、理想の人間を作り出そうとして恐ろしい化け物を生み出してしまう・・・
小説の名は「フランケンシュタイン」・・・
科学は人類に夢を見せる一方で、時に残酷な結果を突き付ける・・・
科学は、誘惑する・・・!!

2019年、日本の吉野彰がノーベル化学賞を受賞しました。
化学の世界で最高の栄誉であるノーベル賞・・・
創設したのは、スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルでした。
ダイナマイトの発明で得た莫大な財産は、賞の基金となりました。
鉱山や土木工事に革命をもたらし、人類の発展に大きく貢献しました。
しかし、その破壊力は、戦争にも使用されました。
ノーベルは、ダイナマイトが戦争に使われることを承知で、世界中に売りさばき、巨万の富を築きました。
ノーベルは、死の間際、財産の使い道を遺言します。
人類に最大の貢献をしたものに与えられるノーベル賞・・・それは爆薬王・ノーベルの最後の償いだったのか・・・??

スウェーデンの首都・ストックホルム・・・
1833年、アルフレッド・ノーベルは、発明家の父の三男としてストックホルムの小さなアパートに生れました。
生まれつき喘息で病弱だったノーベル・・・隙間風が入る部屋の中で、震えながら暮らしました。
ノーベルの家は、とても貧しく、息子たちは町でマッチ売りをするほどでした。
ノーベルが1歳の時、発明家だった父が、事業の失敗と火事で破産しました。
子供の時の飢餓体験は強烈で、後に裕福になった時もいつ破産するかわからないという恐怖にとらわれていました。

ノーベル家の窮状を救ったのは戦争でした。
当時のヨーロッパは、帝国主義の時代・・・フランス・イギリス・オーストリアなどの列強各国は軍備を拡大し、より強力な武器や弾薬を求めていました。
中でもロシアは、黒海沿岸の覇権をめぐり、オスマン帝国と対立!!
ロシア皇帝・ニコライ1世は、武器の発明家を国の内外を問わず起用しました。
そんな時、ノーベルの父イマニュエル・ノーベルの発明した機雷がロシア軍に採用されます。
敵艦隊の侵入を防ぐなど、軍の信用を得たため、武器の注文が相次ぎます。
一家は、ノーベルが9歳の時にロシア・サンクトペテルブルクに移住。

食べる物にも困った生活から、馬車を持つほど裕福になりました。
ノーベルは、4人の家庭教師から、母国語であるスウェーデン語をはじめ、ロシア語・英語・フランス語・ドイツ語・・・物理・科学などの英才教育を受けます。
中でも、興味を持ったのは、化学でした。
当時は物質の構造や特性を化学的に解き明かそうとしていた時代・・・
ノーベルも、物質を組み合わせることで、まるで違うものに変化する化学反応に夢中になりました。
兵器を作るための工作機械や、火薬が並ぶ父親の工場は最高の実験室でした。
ノーベルは後年、こう証言しています。

「父が機雷の製造を手掛けていたので、私が爆発物に興味を持ったのは、当然だったわけです」

一方、病弱で友達のいないノーベルの心は、文学にも引き付けられました。
詩を書くのが大好きで、一時は本格的に文学者を目指すほどでした。
1853年、ロシアとオスマン帝国の衝突をきっかけに、クリミア戦争が勃発・・・
イギリスやフランスも参戦する大規模な戦いに発展しました。
父の工場は、戦争特需となって生産を拡大・・・たちまち従業員1000人以上の大工場となりました。
20歳になったノーベルは、文学者の道をあきらめて父の道を手伝うことになります。
この時期の経験が、ノーベルに大きな影響を与えました。
兵器を作ることで、大儲けできることを目の当たりにしたのです。
クリミア戦争が始まって2年後の1855年・・・
ノーベルの人生を変える出来事が起こります。
知り合いの化学者ニコライ・ジーニンから興味深いものを見せられます。
それは少しとろみのある不思議な液体・・・教授がガーゼにその液体を数滴たらし、ハンマーでたたくとパーン!!・・・これがニトログリセリンでした。
これが、7年前に発明されたばかりの物質で、その破壊力は従来の黒色火薬の5倍以上!!

1856年クリミア戦争が終結すると、軍の注文は激減・・・父の工場は、たちまち破産に追い込まれます。
ストックホルムに戻り、一からやり直しとなったノーベル・・・
起死回生の切り札と考えたのが、あのニトログリセリンでした。
しかし、ニトログリセリンには大きな問題がありました。
極めて危険だったのです。
ニトログリセリンは、わずかな衝撃で爆発する一方、狙った時に爆発しないという気まぐれな性質があります。
だから、世界中の科学者の誰もが爆薬として使うのは不可能だと諦めていました。

どうしたら、ニトログリセリンを確実に爆発させることができるのか・・・??

他の薬品と混ぜたり、圧力や温度を変えたり・・・試行錯誤です。
その結果、急激に圧力をかけて、180度以上の熱・・・確実に爆発することが分かりました。
ノーベルは、あるアイデアを考え出します。
ニトログリセリンの上にカプセルに入れた火薬をおきます。
導火線でこの火薬を爆発させることで、一気に圧力をかけ、ニトログリセリンを爆発させようというのです。
火薬を使ったこの起爆装置は雷管と呼ばれ、その後、世界中で使われることになります。

しかし・・・1864年9月・・・ニトログリセリンの製造中に爆発事故が起き、弟を含む5人の死傷者を出す大惨事となりました。
ノーベルは、確実に爆発させる条件を見つけたが、不安定なニトログリセリンを安全に取り扱うことはまだできなかったのです。
弟が死んだ次の日、更なる研究に取り掛かります。
弟が死んでも決してあきらめませんでした。
彼は化学者として、ニトログリセリンという暴れ馬を手なずける可能性がほんの少しでもあるのならば、何としてもその方法を見つけたいと考えていました。

爆発事故は、ストックホルム市民を恐怖に陥れました。
警察からも、市街地でのニトログリセリン製造はおろか実験も禁止されました。
しかし、その一方で、爆発力の大きさは逆に宣伝となります。
事故から1か月後、電鉄会社からトンネル工事にニトログリセリンを使いたいという注文が舞い込みました。
そこでノーベルは、ドイツに新しい工場を建て、ニトログリセリンを製造しながら、安全に取り扱う研究を続けます。

ニトログリセリンが危険な原因は、振動や衝撃が伝わりやすい液体だからだと考えたノーベル・・・
固形化することを考えます。
黒色火薬にしみこませてみる・・・しかし、失敗・・・爆発力が著しく落ちてしまったのです。
それは、火薬がニトログリセリンを十分に吸収できなかったためです。
ノーベルは、ニトログリセリンをしっかり吸収できる物質をいろいろ試します。
おがくず・・・風が吹いただけで爆発
炭・煉瓦の粉・・・爆発すらしない
試行錯誤を続けていたある日、ノーベルは不思議な光景を目にします。
水辺に浮いた油が、見る見るうちに土にしみ込んでいました。
この土は、珪藻土と呼ばれるものです。
ケイソウが化石化して堆積したもので、細かな穴が無数にあるので吸収性に富んでいました。
ノーベルは、この珪藻土がニトログリセリンと混ぜるのにとても適していると気づきます。
ニトログリセリンを珪藻土に吸収させることで、衝撃や摩擦に対する反応が抑えられます。
そうすることで、安全性が格段に増すのです。
珪藻土を試していると、その吸収度はすさまじく・・・3杯の重量のニトログリセリンを吸い込むことができました。
ノーベルは、珪藻土とニトログリセリンを1:3の割合で固形化。
実験をすると、ニトログリセリンとそん色ない破壊力を見せました。
しかも、衝撃を与えても爆発しませんでした。
追い求めていた安全でかつ強力な爆薬が完成したのです。
ノーベルはこの爆薬をギリシャ語で力を意味するディナミスからダイナマイトと名付けました。

1867年9月19日、特許取得・・・
そこにはダイナマイトと共に、ノーベルの火薬と明記した上で、衝撃や火花で爆発しないこと、安全に運搬や貯蔵ができることを強調しています。
ダイナマイトは、それまで不可能だと思われていた、アルプス山脈を貫く全長15キロのトンネルを可能にしました。
鉱山や油田などの資源開発、鉄道やダムなどのインフラ整備に・・・ダイナマイトがあって初めて実現できたのです。

従来の火薬の5倍の破壊力を持つダイナマイト・・・強力な兵器といても使われていきます。
1870年普仏戦争・・・
軍事大国フランスに、ドイツ連邦の一部に過ぎない新興国プロイセンがどこまで戦えるのかと世界が注目しました。
ところが、開戦からわずか2か月で、プロイセンがフランスを圧倒・・・
この時、プロイセンが初めて戦争で使ったのが、ダイナマイトでした。
要塞や補給路となる橋の爆破、塹壕を作るために威力を発揮します。
プロイセン軍の勝利に貢献しました。
敗れたフランスは、ダイナマイトの威力に注目・・・

当時最大の発行部数を誇った新聞が、トップ記事で紹介しました。

”最も驚異的で最も恐ろしい破壊力を持つ製品”

”殺人の道具として利用できる”

兵器として知れ渡ったダイナマイト・・・ノーベルは、カバンにダイナマイトを詰め込んで、ヨーロッパ中に売り込みました。
名付けて”ダイナマイト旅行”
ノーベルは、発明家であり優秀なビジネスマンでもありました。
ノーベルのキャリアは、ロシア時代、クリミア戦争で大もうけした父の軍需工場からスタートしています。
兵器でお金を稼ぐことに対し、何の抵抗もなかったのです。
ノーベルは、母国スウェーデンをはじめ、ドイツ、アメリカ、イギリス、フランスなど世界13か国に17の工場を建設していきます。
ダイナマイトの生産量・・・特許を取得した1867年11トンでしたが、6年後には2020トン・・・200倍近くの急成長を遂げます。
ノーベルは、名実ともに爆薬王として巨万の富を築いていきます。
1876年、43歳になったノーベルは、パリを拠点に更なる一歩を歩み出します。
新兵器の開発です。
ノーベルが興味を持っていたのは無煙火薬です。
当時、たくさんの科学者がこの無煙火薬を研究していました。
従来の黒色火薬を使った大砲や銃は、発射後大量の煙が出るため、敵に発射位置を悟られやすかったのです。
また、砲身にすすが溜まり、連続して使えないという欠陥もありました。
その為、世界中の科学者と火薬製造会社が無煙火薬の開発にしのぎを削っていました。

ノーベルは、ダイナマイトを開発した自信があったので、自分なら無煙火薬も開発できると考えていました。
彼はパリに住んでいたので、フランス政府に声を掛けましたが、それにとどまらず、イギリスやロシアにも売り込もうとしていました。
ノーベルの提案に飛びついたのは、普仏戦争でダイナマイトの威力に驚いたフランスでした。
ノーベルは、大砲の実験場を自由に使わせてもらうなど、フランス軍の全面協力の元、無煙火薬の研究に取り組みました。
注目したのは一瞬で燃える杯も煙も出ない素材・・・ニトロセルロースです。
1884年、このニトロセルロースにニトログリセリンとショウノウを混合し、無煙火薬バリスタイトを完成させました。
バリスタイトを使った大砲は、わずかに水蒸気が出るもののその差は一目瞭然でした。
煙やススが格段に減ったため、連射が可能となったうえに、威力が強かったのです。
新兵器の完成でした。
これで他の火薬は必要ない・・・
ノーベルが作った無煙火薬バリスタイトは、民間利用には必要のないものです。
しかし、兵器である大砲にはもってこいでした。
戦争で使われるためだけに作られたものなのです。
ノーベルは、明らかに一線を越えたのです。
バリスタイトを開発したその年、フランス最高の栄誉レジオンドヌール勲章を受章します。
ノーベル51歳・・・人生の絶頂を迎えていました。

勲章受章の4年後・・・55歳になったノーベルの人生に翳り見え始めます。
1888年・・・この年、一番仲の良かった兄が死去・・・
しかも、兄の死をノーベル本人と間違えた記事が新聞の死亡欄に載りました。

”人類に貢献したとはいいがたい男が死亡した
 ダイナマイトを発明したムッシュ ノーベルである”

本来、死去した人を称える死亡欄で、ノーベルはその功績を否定されていました。
翌1889年、兄に続き最愛の母が死去・・・さらに、事業でも不運が続きます。
フランス軍がライバル会社の無煙火薬を採用、ノーベルのバリスタイトは生産中止に追い込まれます。
窮地に立ったノーベルは、1890年、イタリアとバリスタイトの売買契約を結びました。
これに対し、フランスの新聞が一斉に攻撃!!

”信じがたいことに外国人化学者が、フランスで研究開発した無煙火薬をイタリアで製造させている”

”あえて名を挙げるなら、アルフレッド・ノーベルだ!!裏切り者!!”

ノーベルは、逃げるようにイタリアのサンレモに移り住みます。
次々と襲う逆風・・・追い打ちをかけるように、持病の心臓病が悪化します。
そんな時、ある1冊の本に出会います。
「武器を捨てよ!」
反戦をテーマにした小説でした。
作者は、平和活動家のベルダ・フォン・ズットナー。
ノーベルは、ズットナーとは10年来の知り合いでした。
5か国語でビジネスレターを書けるほど語学に堪能だったズットナー・・・
かつて短い期間でしたが、ノーベルの秘書として働いていました。
出会った時、ノーベルはズットナーの美貌と知性に一目惚れ・・・
仕事の合間を縫って、公園やレストランに連れ出しました。
ノーベルは数回のデートの後、彼女に好きな人がいるかどうかを聞こうとしましたが、シャイな彼にはできませんでした。
彼女には、結婚の予定があったのでノーベルのもとで働いたのは1週間ほどでしたが、その後も二人の友人関係は長く続きました。
敬愛するズットナーの書いた「引きを捨てよ」
戦争の悲惨さを訴えるこの小説を読んで、ノーベルは平和について考え始めました。
ノーベルが平和について語ることは、それまでありませんでした。
しかし、彼女の本を読んでから、突然世界平和を夢見るようになったといいます。

1892年、ノーベルは、ズットナーが主催する平和会議に参加しました。
しかし、平和を実現する方法については、ノーベルとズットナーはまるで違っていました。
世界各国が武器を捨てれば平和になるというズットナーに対し、ノーベルは、強力な兵器こそが平和を生むという考え方でした。

「たった1秒で完全に相手を破壊できるような時代が到来すれば、全ての文明国は驚異のあまり戦争を放棄し、軍隊を解散させるだろう」byノーベル

1894年、ノーベルは自らの考えを推し進めるかのようにスウェーデンの兵器工場を買収・・・
爆薬だけでなく、大砲などの生産に乗り出します。
ノーベルは、国家はお互いに強い軍隊と強力な武器を持たなければならないと考えていました。
彼にとって、大事なのはバランスです。
武器は敵を倒すためのものではなく、戦う相手を威嚇し、そしてお互いをけん制するためのものなのです。
ノーベルは、兵器という恐怖が、平和実現のために必要だと考えていました。

1896年12月10日・・・ノーベルは63歳で人生の幕を閉じます。
脳出血でした。
生涯独身で、看取ったのは使用人一人だけでした。
親族も友人もいない最期でした。
死の前年、ノーベルは遺書を書き残しています。
ストックホルムにあるノーベル財団・・・
このビルの一室にその遺書が残されています。
遺書の中でノーベルは、自分の遺産について細かく指示をしています。

”資産は安全確実な有価証券に替え、その年利を賞として、前年に人類に対して最も偉大な貢献をした人物に授与するものとする”

”賞の対象は、地域や国籍を問わない”

ノーベルが、授与する分野として書いていたのは、物理学・化学・生理学及び医学・文学でした。
この4つの賞は、彼が若い時から興味を持っていた分野で、ノーベルという人間を作ってきたものです。
そして、もうひとつ・・・ノーベルが指定した賞があります。
”平和賞”です。

”国家間の友好及び武器兵器の廃棄削減”などに貢献したものに与えられます。
どうしてノーベルが平和賞を作ったのか・・・??
兵器産業で大もうけしたのに、兵器の廃棄や削減をしたものに賞を与えるというのは、矛盾しています。
ノーベルという人間を、一つの枠だけで語ることは不可能です。
平和賞は、謎なのです。

ノーベルが賞のために残したのは、現在の日本円でおよそ250億円・・・それは、総資産の実に94%にものぼるものでした。
ノーベルの遺言の内容が報じられると、スウェーデンのみならず、海外から大きな反響がありました。

”スウェーデン文化史の一大事件”
”ノーベル氏の科学への惜しみない贈り物”
”博愛主義に基づいた記念碑的な慈善行為”

人類初となる試みに対し、最大級の賛辞が贈られました。
この賞は、ノーベル賞と名付けられ、1901年から毎年彼の命日である12月10日に授賞式が開催されることになりました。

第1回・・・レントゲンを発見したレントゲンが物理学賞を
      国際赤十字を創設したアンリ・デュナンが平和賞を
女性初は、第3回の物理学賞のマリー・キューリー
ズットナーは第5回の平和賞を受賞しました。

これまでに900を超える個人と団体が受賞しています。
      
1945年、第2次世界大戦が終結したその年、ノーベル賞の記念晩さん会に招かれたアインシュタインはこう語りました。

「ノーベルは、かつてないほど強力な爆薬を発明し、破壊への扉を開きました
 同様に、史上最悪の兵器製造に参加した現在の科学者も、罪悪感と責任感に悩まされています
 科学者は常にノーベルと同じ苦境に立たされているのです」byアインシュタイン

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京都の夏を彩る祇園祭、豪華な仮面をつけたイタリアの人々が行き交うベネチアカーニバル・・・
この二つの祭り、同じ起源を持っています。
共に伝染病を追い払い、悲惨な光景を後世に伝える儀式・・・
人類を太古の昔から、苦しめてきた見えない悪魔・・・細菌やウイルスは、今も私たちの生活を脅かしています。
今からおよそ120年前、科学を武器に伝染病に挑んだ日本人がいました。

医学者・北里柴三郎です。

未知の病を解明し、多くの命を救った北里・・・
しかし、その道のりは平たんなものではありませんでした。
2024年から1000円札の新しい顔となる北里柴三郎・・・明治の日本で、世界に認められる研究を成し遂げ、予防医学の礎を築きました。
1886年、北里は、医学先進国だったドイツに留学、ひたすら研究に明け暮れる日々を送りました。

「人に熱と誠があれば何事でも達成する」by北里柴三郎

その努力が実を結び、破傷風などの道の病を解明・・・治療法を確立し、医学の進歩に貢献しました。
明治の半ばごろには、北里の名はヨーロッパに広まり、日本人初のノーベル賞候補に・・・!!
しかし、帰国した北里を待っていたのは、苦難の連続でした。
己の信念を貫く余り、国の方針と対立!!
研究と治療の場を失い、孤立した北里を救ったのは、日本を代表する教育者でした。

”国民の衛生状態を向上させたい!!”

日本細菌学の父とされる北里柴三郎・・・ところが、少年時代に憧れたのは、軍人でした。
そればかりか・・・

「医者は一人前の人間がすることではない」by北里柴三郎

そんな少年が、どうして医学者になったのでしょうか?

1853年、北里は、小さな村の9人兄弟の長男として熊本で誕生
庄屋の息子だった北里は、ガキ大将で、肥後もっこすそのもので、一度言い出したら聞かない頑固者でした。
その頃の日本は、西洋の技術や制度を積極的に採用し、近代化を図っていました。
ところが、同時に厄介なものももたらされます。
コレラや赤痢といった未知の伝染病です。
100万人以上暮らす江戸では、コレラだけで10万人の犠牲者が出たと言われています。
北里は、5歳の時に弟と妹を疫病で失いました。
当時の医者には、手立てがなく、隔離したり看取ることしかできませんでした。

「医者と坊主は一人前の人間がすることではない」by北里

北里は18歳になると将来の夢を抱きます。
それは、職業軍人になることでした。
その為、陸軍学校に進もうと考えていました。
ところが、両親は猛反対・・・医者になることを望んだ父親は、地元にできた医学校(現在の熊本大学医学部)への進学を強く勧めました。
心ならずも地元の医学校に入学した北里・・・しかし、ここでの出会いが、北里を医学の道へと誘いました。

オランダ人講師のマンスフェルトです。
北里が、授業で唯一興味を持ったのは、軍人になっても役立つ語学でした。
マンスフェルトは、北里を気に入り、やがて授業以外でも個人的に教えるようになります。
そんなある日、北里はマンスフェルトに聞かれます。

「君は本当に医者になるつもりがあるのか?」byマンスフェルト

「両親に言われて、そのように装っていますが、実はここで語学だけを学び、将来は軍人になりたいのです」by北里

「ならば、今日一日も無駄にしてはいけない
 だがな、医学も決して無用な学問ではないぞ」byマンスフェルト

それからしばらくすると、マンスフェルトは北里にある物を見せました。
当時、日本ではまだ珍しかった顕微鏡です。
見えたのは、無数の細菌でした。
肉眼では見えないミクロの世界に、北里は異常な興奮を覚えました。

「医学もまた学ぶに足りる!!」by北里

1874年、21歳でマンスフェルトの勧めで東京医学校(後の東京大学医学部)に入学します。
学生寮に入り、学費を稼ぐために牛乳の販売会社でアルバイトにも励みます。
北里は、実にバンカラな学生生活を送りました。
肥後もっこすの性格そのままに、頑固で正義感が強かった北里・・・学生のリーダーとして、演説会や討論会を開き、時にはストライキをして暴れ回ったといいます。
校長は、やりたい放題の寮生を抑え込もうと、2人の屈強な男を監督として送り込みます。

「諸君の乱暴は、真に甚だしい
 今後、学生の本文に背いたものは、少しも容赦しない」

「貴君は、今日、就任したばかりではないですか
 生徒の行動が不良とどのように知ったのですか?」by北里

「校長などから聞いておる」

「他人の話だけで、人間を判断するのか」by北里

そう畳みかけると、男は二度と口を出しませんでした。

もちろん、医学も熱心に学びます。
しかし、北里は、疑問を感じるようになっていました。
当時、日本の医学では、病にかかった患者を治す治療医学がほとんどでした。

1878年、25歳の時に書いた「医道論」・・・演説の原稿には、北里がどんな医学を目指したいのかが記されています。
”人民に健康法を説いて、身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐ
 これが、医道の基本である”

当時、伝染病の原因がわかりませんでした。 
ただ、人にうつるということが、わかっているだけ・・・
伝染病の感染拡大を防ぐには、自分たちの命を一番に考えて、摂生保健=日々の生活の中で健康に気を配ることで病を未然に防ぎましょう・・・これが、医道論でした。

小説 北里柴三郎: ドンネルの男

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1883年30歳で東大医学部を卒業・・・
卒業と同時に、バイト先の社長の姪・乕(とら)と結婚しました。
社長が、北里の人間性に惚れ込んですすめたと言われています。
二人は仲睦まじく、後に4男3女を設けました。
同級生のほとんどは、地方病院の院長など、人もうらやむ高給取りになります。
しかし、北里が進んだのは、内務省の衛生局でした。
地方病院の院長210円
内務省衛生局  70円・・・
給料は、同級生のわずか1/3でした。

衛生局は、全国の病院や衛生環境を調査でき、さらに、ヨーロッパへの留学も可能でした。
北里に迷いはありませんでした。

「学術を研究し、国民の衛生状態を向上させたい・・・!!」

2年後、32歳の北里は、医学先進国・ドイツに留学を命じられます。

ドイツに来た時、北里は東洋の片隅からやってきた無名の留学生にすぎませんでした。
しかし、ここで画期的な研究論文を次々と発表し、第1回ノーベル賞の最終候補にまでなります。
どうしてそんなことが出来たのでしょうか??

1886年、32歳の時、ベルリン大学(現フンボルト大学)の衛生研究室に留学しました。
研究室を率いていたのは、ローベルト・コッホ・・・伝染病の原因となる細菌を次々と発見し、細菌学の世界的権威として知られていました。
コッホの元には、世界中から優秀な研究者が集まっており、新入りの北里は、特に目立つ存在ではありませんでした。

「私はその時、ドイツ語の上手い日本人が来たという印象しかなかった」byコッホ

しかし、北里は、自分の評判など気にしなかったといいます。
とにかく熱心に研究に取り組みました。
留学して最初の1年間は、下宿と研究室の間の道しか知らないほどでした。
ある時、コッホは部下から報告を受けます。

「北里は珍しい男です
 我々ドイツ人にも、彼ほどの勉強家は見当たらない」

コッホに目をかけられるようになった北里は、やがて重要な研究を任され、中心メンバーとなります。
ところが、思いもよらないことが・・・
内務省から突然、ドイツの他の研究室へと移動を命じられたのです。
北里は、この一方的な移動にカチンときました。

「細菌学は最新の学問で、1年2年では学びえないことだけはお分かりでしょう
 細菌学研究に関しては、私に一任していただきたい」by北里

しかし、どうあっても国の方針は変えられないという・・・
この時、北里を救ったのはコッホでした。
コッホは、内務省の担当者に直接会って、北里が必要な人材であることを伝えました。
おかげで北里は、研究室に留まることが出来たのです。
その後、北里は、世界的な研究を成し遂げます。

それが、破傷風の解明です。
破傷風とは、伝染病の一種で、傷口から体内に破傷風菌が入ると、筋肉がこわばり、最後にはけいれんし、身体が反り返ってしまう・・・現在でも感染者の半数が死に至る恐ろしい病です。
破傷風菌・・・北里が研究したのは、特定の金だけを取り出して培養する純粋培養でした。
当時、破傷風菌だけを増やすのは、出来なかったのです。
多くの研究者が、純粋培養に挑みましたが、成功者はいませんでした。
しかし、北里は、何度失敗しても諦めませんでした。

「人に熱と誠があれば何事でも達成する」by北里

研究を始めて1年後、北里ははしょうふう菌のある特徴に気付きました。
他の菌とは違い、破傷風菌はどんな時も空気から遠いところに集まっていたのです。

破傷風菌は酸素を嫌っているのか??
なんとか酸素がない状況を作れないものか??

そこで北里は、亀の子シャーレを開発します。
破傷風菌をシャーレの中に入れます。
そしてそこに水素を送り込み、空気中の酸素を追い出します。
最後にシャーレの口を閉じ、酸素がない状況を保ちます。
そうすると、破傷風菌は見る見るうちに増殖しました。

1889年、36歳の時、北里は、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功しました。
このことは、新聞でも報道され、北里の名は、ヨーロッパじゅうに轟きました。
さらに北里は、これに満足せず、破傷風の治療法の確立に取り掛かります。
実験に使ったのは、破傷風菌そのものではなく破傷風菌が出す毒素・・・
北里は、動物の体内に、この毒素を少しずつ注入していきます。
すると、同じグループの中で、致死量の毒素を入れても病気を発症せずに生きる個体がいました。
これは、動物の体内の血液中に、毒素を消す抗体が生まれ、免疫の役目をはたしていたためです。
この抗体を含む血清を、破傷風の患者に注射すると、たちまち症状が回復しました。
これは、血清療法と呼ばれ、北里が世界で初めて確立した治療法です。
伝染病に対する治療法がほとんどなかった当時は画期的なものでした。
この治療法は、同じコッホ研究室のベーリングとの共同論文として発表され、大きな話題を呼びました。
これによって北里は、11年後の1901年、第1回ノーベル医学生理学賞最終候補に選ばれます。
しかし、その栄冠に輝くのは、共同開発者のエミール・フォン・ベーリングでした。
彼は後にこう語っています。

「私が短期間で研究を改正できたのは、北里の感嘆すべき破傷風の研究結果と彼の協力があったからである」

北里は、1901年に日本に帰国していて、コレラ・赤痢に対する対策に非常に忙しくしていました。
あまりノーベル賞については頓着していなかったのでは??といわれています。
この研究によって北里は、世界の医学者と肩を並べる存在となりました。
欧米中の研究機関から、好待遇のオファーが次々と舞い込みます。
しかし、北里はこれらの誘いを丁重に断ります。

「学び得た全ての術で我が同胞の苦しみを救いたい」by北里

北里は、6年の留学を終え、39歳で日本に帰国しました。

世界的な功績を挙げたことで、内務省では北里を中心に伝染病の研究所を計画する話が持ち上がります。
しかし、これに横やりを入れてきたのが、文部省でした。
東京帝国大学内に、伝染病研究室を開設するべきだと国に提案します。
北里潰しとも取れる行為でした。
これは、北里と帝大の間でもたらされていた確執が、原因の一つでした。
確執の始まりは、数年前の脚気論争・・・
脚気とは、ビタミンB1の欠乏によって下半身のしびれや心不全を起こす疾患です。
ビタミンの概念のない当時は、伝染病の一つとして考えられていました。
1885年、帝大の教授・緒方正規が、脚気の原因は脚気菌という細菌によるものだという論文を発表しました。
しかし、北里は、脚気の原因は菌ではないと強く否定したのです。
北里の反論に、帝大側は激怒!!
何故ならその教授は、留学前の北里を指導していた恩師だったからです。
しかし、北里には関係ありませんでした。

「その説に非があるとすれば、たとえ親子兄弟師弟といえども、批判すべきなのが学者の一大義務と考える」by北里

当然帝大は、北里の行動を恩知らずと非難・・・
内務省と文部省の綱引きで計画は進まず、北里は研究の場すら持てずにいました。
そんな北里に救いの手を差し伸べた人物がいました。
慶應義塾の創設者・福沢諭吉です。

「すぐれた学者がいるのに、それを無駄にするのは国の恥である」by諭吉

福沢は、自らの土地と私財を投じ、北里のために私立伝染病研究所を設立します。
ここで北里は、日本で初めて血清療法を行います。
子供の死因の一つだった感染症・ジフテリア治療は、成功率90%でした。
恩師コッホのように伝染病研究所の所長となった北里は、しかし、若手の指導では肥後もっこすを貫きます。
しかし、怒った後は、からっとしていてわだかまりを残すことはありませんでした。
所員達は北里を、敬愛を込めてこう呼びました。
”ドンネル”・・・ドイツ語で雷の事です。

「北里先生のところに行きますと、なんだか威圧された、おっかぶせられた感じが致しました
 しかし、どういうものか甘えてみたいという気分も致しました」

北里のもとでは、黄熱病の研究で知られる野口英世や赤痢菌を発見した志賀潔など、優秀な研究者が育っていきました。
志賀は、赤痢菌を発見した当時のことをこう振り返っています。

「私は大学を出たばかりの若僧だったから、先生の研究助手というのが本当であった
 しかるに論文を発表するに当たり、先生は私一人の名前で書くように言われた
 赤痢菌発見の手柄を、若僧の助手一人に譲った宣誓を、私はまことにありがたきものと思うのである」志賀

1894年、41歳の時、北里のもとに衝撃的なニュースが舞い込みます。
香港で、ペストが猛威を振るっているという・・・
皮膚が黒ずむ症状から黒死病とも呼ばれたペスト・・・
中世のヨーロッパで大流行し、全人口の1/3を奪ったといいます。
極めて危険な伝染病でした。
当時すでに、香港と日本の間で盛んに貿易船が行き来していました。
船を経由してペストが上陸してくるのは時間の問題・・・!!
強い危機感を抱いた明治政府は、北里をリーダーに6人の調査団を香港に派遣しました。
命の保証などありませんでした。
香港に到着した北里たちの目には、病院から溢れんばかりの人が・・・その致死率は、9割近くにのぼっていました。
北里たちは、ペスト患者たちがいる病院の物置を即席の研究室としました。
そこに遺体を運んでペストの原因を探ります。
棺の蓋が、解剖台の代わりでした。
締め切られた部屋の温度は、40度近くに達しました。
死と隣り合わせの作業・・・この調査で、2面の研究者がペストに感染しましたが、なんとか一命はとりとめました。
研究開始から5日目・・・
北里は、日本に1本の電報を打ちました。

”今回、黒死病の病原を発見せり”

北里は、数百年にわたって人類を苦しめてきた伝染病の原因・・・ペスト菌を世界で初めて発見したのです。
この偉業は、世界中で報道され、称賛を集めました。
帰国した北里が行ったのは、ペストの予防対策でした。
全国から医師を集め、講演会を実施。
感染予防や消毒の方法などを説いて回りました。
同時に、ペスト治療のための血清の開発も進めました。
さらに、自ら内務省衛生局のTOPの掛け合い、伝染病対策の指針となる法律の制定に着手します。
こうして、1897年、43歳の時に伝染病予防法制定。
ペストは、国の伝染病に指定され、以下のような予防策が決められました。
感染者の隔離、上下水道の整備、外国船の検疫・・・
この法律は、1997年に改正されるまで、100年近くにわたって施行されることになります。
北里の功績を認め、1899年、46歳の時に内務省管轄の国立伝染病研究所となりました。

「学問や知識は、人々に普及させなけれ世のためにならない
 ことに、医学衛生においては、学問と生活を結びつけるのが学者の責務である」by北里

研究所が国立となった年、ついにペストが日本に上陸します。
しかし、北里たちの尽力で、大規模な感染に至ることはありませんでした。

国立伝染病研究所は、ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と共に、世界三大研究所と呼ばれました。
ところが北里は、61歳の時に研究所を退職し、私財を投じて新たな研究所を作ります。

1914年10月、北里は突然文部省から呼び出されます。
それは、伝染病研究所の管轄が、内務省から文部省へと移る通達でした。
伝染病研究所は研究機関なので、文部省が監督すべきであるという理由です。
また、更なる発展のため、研究所は帝大の傘下に入れるということでした。
これは、北里にとっては受け入れがたいことでした。
内務省が所管している研究機関であれば、自分たちの研究結果はすぐに実践できる・・・
しかし、文部省だと教育研究の現場なので、人々に向けての保健衛生的な段取りができなくなるのです。
自分達がやっている伝染病の封じ込めに、大きな支障になるのではないか??
このままでは、予防医学の実践ができなくなるかもしれない・・・
しかも、確執のあった帝大の傘下に入れば、研究所が嫌がらせを受ける可能性もある・・・

6日後・・・1914年10月20日、北里は、研究所の全員を集めてこう告げました。

「私は昨日、きっぱりとこの職を辞した
 しかし、諸君らにはまだ開かれた未来がある
 一路研究に励み、国家のため、学問のために、ますます奮励されることを望む」by北里

ところが、
「北里先生が去られて、我々だけが留まるわけにはいきません」

志賀潔をはじめとする北里の直弟子の研究者35名も辞表を提出・・・
さらに、守衛や事務員、女性職員に至るまで、ほぼ全員が研究所をやめました。

「私を慕ってくれる気持ちは嬉しい・・・しかし、彼等の生活をどうやって守るのか・・・??」by北里

新たに研究所を作って、彼らを雇うしかない・・・
北里は、妻と子を集めてこう切り出しました。

「今度、自分は伝研をやめ、若い者に意志を継がせたいと再三話したが、どうしても行動を共にすると言って聞き入れてくれない・・・
 皆の熱意を無視するのも忍びないので、それに伴う資金に貯金の大部分を当てたいが・・・」by北里

「どうぞ、役立てていただきましょう」by乕

翌1915年、北里は、私財を投じて北里研究所を設立・・・
その額は30万円、現在の価値でおよそ3億円でした。
この研究所で、北里が取り組んだのは、スペイン風邪と結核の対策でした。

1918年、65歳の時、第1次世界大戦のさ中、ヨーロッパでスペイン風邪が大流行・・・
同じ年、日本にも上陸し、およそ38万人もの死者を出しました。
スペイン風邪は、ウイルス性のインフルエンザ・・・ウイルスが小さすぎて、当時の顕微鏡では見ることが出来ず、解明は出来ていませんでした。
北里研究所では、スペイン風邪の重症化を防ぐ治療薬を開発します。
期待した効果はありませんでしたが、それでも蔓延を防ごうと懸命に取り組みました。

もう一つ・・・北里が力を入れたのが、当時は不治の病とされた結核の対策でした。
「結核退治絵解」 

etoki
















現在では当たり前となった公衆衛生の基本を説いています。

1931年、北里柴三郎はもう一決に倒れ、その生涯に幕を下ろしました。
78歳でした。

その後、北里研究所は、大学や病院を抱える一大研究機関として今も活躍しています。

2015年、北里研究所の大村智さんが、ノーベル医学生理学賞を受賞・・・授賞理由は、”線虫感染症の新しい治療法の発見”でした。
北里が、第1回ノーベル賞候補に選ばれてから100年以上経っての栄誉でした。

「第1回ノーベル賞の受賞は、本来なら北里先生も入るか、単独で貰うべきだったと(先輩の)北里の門下生は言う
 私が首相したら、その先輩が本当に涙を流してくれました
 これが、北里研究所の職員たちの思いだったんだなっていうことを思いました
 北里先生の求められたものって、深くて幅が広いんですね
 私の生涯、一生頑張っても到達できない
 若手を美優文に育成して、北里先生の求めたるところを求めてもらう
 これが、私のこれからの希望です」by大村智

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 ノーベル平和賞に隠された真実。

マララ・ユスフザイ17歳。
パキスタン出身の彼女は、女の子の教育の大切さを訴え続け、最年少17歳でノーベル平和賞を受賞しました。
その17歳の壮絶な人生とは??

パキスタンは、欧米とも仲がいい穏やかな国でした。
しかし、北部では、イスラム過激派が台頭、政府機関を追い出し・・・極端な宗教解釈によって支配し始めました。
女性の教育は許さない!!
多くの学校が爆破されました。

学校を経営する父の影響で11歳からブログを始めた彼女は・・・
過激派批判をします。
恐怖におびえながら生きる女子学生の日常を訴えます。
勇気ある少女と政府は表彰し、海外のテレビの取材にも堂々と登場しました。

「私には教育を受ける権利がある
 遊ぶ権利がある
 歌う権利、しゃべる権利、市場に行く権利、話す権利がある」

そしてあの悲劇が・・・!!

学校からの帰宅のバスで・・・
マララは銃弾に斃れます。
顔と首の二発!!撃ったのは過激派!!
イギリスの病院で大手術を受け・・・奇跡的に一命をとりとめました。

この事件によって、過激派と戦う少女として一躍時の人に!!
しかし過激派は、命を狙い続けると宣言しました。

しかし、声を上げ続け・・・
2013年7月国連で・・・世界に向けて堂々とスピーチ!!
教育を受ける権利を・・・!!
命の危険を抱えながらの堂々とした演説で。。。
2014年のノーベル平和賞を受賞しました。


そこには隠された真実が・・・??その光と影とは・・・??

過去にはノーベル平和賞を拒否したり、反発を生んだり、運動がおかしくなってしまったことがたくさんありました。

17歳、歴代最年少での受賞・・・その活動は世界中から称賛されました。
しかし、パキスタンや一部のインターネット上では??
「茶番だ!」「操り人形!!」「国民の恥!!」
どうしてでしょうか?

アメリカの無人機のパキスタン爆撃!!
ここに光と影がありました。
爆撃と批判はどのように繋がっているのでしょうか?

9.11をきっかけに、2004年からパキスタン北部に潜むイスラム過激派を撲滅するために、アメリカ軍は空爆を実施しています。
それに全く関係のない住民が巻き添えになって、死んでいるのです。
パキスタン政府はアメリカとの関係を大切にしたいようで・・・
自分達の国がアメリカに爆撃され、罪もない人々が死んでいるという現状に不満を抱く国民。
空爆の正当化のために、アララさんが受賞したのでは・・・??という人がいるのです。

ノーベル委員会がマララさんを選んだ理由は??
マララさんと一緒に受賞したのは、インドのカイラシュ・サティヤルティ氏。
彼は、世界中の奴隷のように働か去れている何百万という子供たちに対する活動で受賞しました。
インドでは、今でも学校に行けずに働いている・・・4000万人の児童労働があります。

サティヤルティさんは、1989年「南アジア子供奴隷解放連合」を設立。
学校にも行けずに働かされてきた子供たちを解放する活動を、30年以上続けてきました。
暴力、脅迫にも屈せずに・・・!!

マララさんが受賞するので、同じく選ばれたともささやかれています。その理由は・・・??
パキスタンとインドは隣同士ですが、昔から仲が良くありません。
60年以上の領土問題・・・カシミール地方を抱えているのです。
カシミール地方は、イスラム教徒とヒンドゥー京都が混在しています。
銃撃戦が度々発生し、終わりの見えない戦いをしているのです。

授賞式にお互いが、首相を呼びましょうという話にもなっています。
カシミール問題の解決策が出るかもしれません。


あげなければよかったノーベル平和賞。

1976年受賞したのは、北アイルランド市民のベティ・ウィリアムズさんとマイレッド・コリガン・マグワイアさんです。
1960年代後半から90年代にかけて北アイルランド紛争、イギリスからの分離独立を求める宗教対立による地域紛争がありました。
立ち上がった二人の市民が署名活動を開始、平和組織を結成し活動しました。
政治家でも、学者でもない・・・普通の市民の活動でした。
評価され受賞しますが、彼女たちの生活が一変します。
当時の賞金は3500万円程度、うらやまれる大金でした。
身に覚えのない噂が・・・。
他の組織から妬まれ、大喧嘩に発展します。
二人は活動を停止してしまい、組織は崩壊状態となってしまいました。


2009年受賞したのは、オバマ大統領でした。
大統領に就任して3か月の頃・・・
チェコ・プラハで、核兵器のない世界の平和と安全の実現に取り組む!!と、核保有国トップの発言でした。
このスピーチが評価され受賞したのですが・・・。

授賞式のスピーチで衝撃の発言が・・・!!
「戦争による武力は、人道的に正当化できると考えている。
 戦争がこれからもあると知りつつ、平和への努力を続けなければならない。」
平和賞に相応しくない・・・!!とも言われています。

世界で戦っているアメリカ軍の最高司令官として、言わざるを得なかったのかもしれませんが・・・。


ノーベル平和賞を500億円で買ったと言われた大統領。
2000年に受賞したのは、韓国・金大中大統領です。
北朝鮮に対し、武力よりも経済援助などの対話を重視し文化交流。
太陽政策をし、南北融和を目指しました。
2000年に北朝鮮・平壌で南北首脳会談をし、歴史的会談を実現しました。
授賞理由は、対北朝鮮の緊張緩和、韓国の民主主義推進でした。

しかし・・・南北会談直前に、事業対価として5億ドル送金し・・・首脳会合開催に寄与したのです。
会談実現のためのお金と言われ、500億円でノーベル賞を買った男と批判されました。


1973年平和賞最大の事件。
「ノーベル平和賞なんて要らないよ」と、はじめての受賞辞退です。
この時選ばれたのは、ベトナム戦争終結に導いた男、アメリカ・キッシンジャー大統領補佐官と、北ベトナムのレ・ドゥク・ト政治局員です。
冷戦時に南北に分かれていたベトナム。
アメリカが北ベトナムを攻撃、激しい空爆、枯葉剤を使い一般市民を巻き込みました。
そんな悲惨な戦争を終わらせたとして平和交渉をしたふたりが選ばれたのです。

レ・ドゥク・ト氏は辞退すると・・・
平和賞総設から今年で114年、後にも先にもこの1回だけです。
その理由とは???

そもそも戦争をしかけてきたのはアメリカで・・・
それを止めたら平和賞受賞って、おかしくない??ということなのです。
ベトナムは平和になったのではないと辞退したのです。


スウェーデン出身のアルフレッド・ノーベルの遺言として始まったノーベル賞。
現在、物理学・化学、生理学医学、文学、平和、経済学と、6部門ある中で平和賞だけ違う国・・・ノルウェーが決めています。
これもノーベルの遺言です。
1814年~1905年まで、スウェーデンがノルウェーに支配されていました。
独立をかけて、険悪なムードになっていたのです。
戦争か平和か・・・その瀬戸際にいるノルウェーに、ノーベル平和賞を選んでもらおうと思ったのです。

平和賞は、世界中から届く推薦状をもとにノルウェーのもと国会議員ら5人によって決められています。
推薦できるのは、各国の国会議員や大学教授などです。
誰が推薦されたかは、50年間非公開です。


過去にもらえなかった大物は・・・??

インド建国の父、マハトマ・ガンジー。
イギリスの植民地だったインドを暴力に頼らない平和活動で独立させたのです。
世界の平和活動家のお手本となりました。
ダライ・ラマ14世や、アウンサン・スー・チーも影響を受けたと言われています。
5回も候補となっていたものの全て落選。
そこには、当時のノーベル委員会の思惑が・・・
イギリスに対して逆らっている人・・・
第2次世界大戦当時、国王は、ナチス・ドイツから逃れるためにイギリスに亡命していました。
なので・・・イギリスに逆らっている人には・・・と、遠慮した?と言われています。

1939年に候補となったのは・・・アドルフ・ヒトラー。
推薦した人の思惑は??
1939年は、第2次世界大戦が始まった年です。
独裁者が候補となったわけは?
”ノーベル平和賞を与えてしまえば、戦争を始められないのではないか?”という思惑が働いたのです。


世界を変える後押しになったノーベル平和賞。
南アフリカで・・・徹底的な黒人差別。
人種差別反対デモでは、白人警察官の容赦ない取り締まり!!
アパルトヘイト・・・人種隔離政策です。
黒人たちの支えとなったのが、デズモンド・ツツ司教です。
白人からも尊敬されていたツツ司教は・・・白人に堂々と説教師、先進諸国に直談判します。

「我が南アフリカに対し、経済制裁措置をしてほしい・・・!!
 経済制裁で、新しい南アフリカの設立を支援していただきたい!!」と。

このお願いによって、世界に南アフリカの実情が理解されたのでした。

1984年人種差別に立ち向かった英雄の受賞。。。
これが、世界的な人種差別の反対運動を過熱化させます。
10年後のアパルトヘイトの撤廃へと繋がっていくのです。


2010年の受賞。。。
授賞式に出席できなかったのは・・・天安門事件のリーダー的存在の人権活動家・中国の劉暁波。
事実上共産党の一党独裁の中国にあって、民主化や基本的人権を訴え続けています。
2008年国家政権転覆扇動罪で逮捕されてしまいました。
しかし、その活動は世界に評価されたのです。

中国はノルウェーに対し・・・
「平和賞を授与すれば、両国の関係は悪化するだろう」と、通告しています。
委員会のメッセージは・・・??
言論の自由、表現の自由がない中国を世界に知らしめるためのメッセージだったのです。


1901年から、128の人と団体が受賞してきた平和賞。
初期の頃は、戦争を終結した人が受けることが多かったのですが・・・
80年代以降は、人権問題に取り組んだ人たちが多く受賞しています。
最近では、環境問題・・・時代と共に変化を遂げる平和賞。

地球環境問題に取り組めば・・・干ばつが無くなり・・・戦争が無くなる・・・??
新しい紛争を防止することに繋がるとしています。

2006年に受賞したのは、バングラデシュの銀行。
バングラデシュでは、3割が貧困層で、1日100円で生活しています。
グラミン銀行は、貧困撲滅の後押しをしています。
銀行に賞を与えた理由は??
経済的に自立し、貧困から脱出することが、戦いを防ぐ結果に繋がるということです。

思惑の光と影を知ったうえで、ノーベル平和賞を考えてみましょう。

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知られざるノーベル賞の真実です。


1901年アルフレッド・ノーベルの遺言のよって創設されました。
受賞者には多額の賞金とメダルが授与されます。
その賞は、物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞の五部門に分かれています。
112年の歴史の中で、839の個人と24の組織に賞が与えられてきました。
そのうち日本人は19人で、世界第8位です。

ノーベル賞・・・いったい誰がどのようにして決めているのでしょうか?

まずは推薦が必要です。
5つの部門ごとに選考機関があり、世界中から300通程度の推薦状が集まります。
最終決定は、選考機関で投票が行われます。


しかし、それ以上は解りません。秘密のベールに包まれています。
全てのことがわかるのは、受賞50年後に航海される冊子によってです。
そこには選考過程の全てが記載されています。
しかし、それも、研究者の証明がないとみることは出来ません。ジャーナリストは閲覧できないのです。

一切公開されないその内容・・・
50年後に航海される選考過程の資料にも、議事録は記載されていません。

文学賞は、政治的要素が強く、毎年地域的に候補者が絞られると言われています。

ノーベル賞各部門の日本人受賞者たち、その栄光の陰にあった知られざるドラマとは・・・?
そこでは、当時の世界情勢を伺うことが出来ます。

1901年に始まったノーベル賞。
極秘資料が公開されたのは、1974年でした。
そこに、一人の日本人候補者の名前がありました。
北里柴三郎です。

第一回ノーベル賞候補北里柴三郎の生涯
第一回ノーベル賞候補北里柴三郎の生涯

破傷風の培養の研究の成功をはじめ、動物の免疫や血清療法の研究で世界的にも有名です。
しかし、第1回ノーベル生理学・医学賞を取ったのは、共同研究者だったベーリング(ドイツ)でした。

その共同研究は、北里が牽引していたのに・・・???

賞の価値を上げるために、当時世界の医学界をリードしていたドイツから受賞者を選んだと言われています。
その後も、野口英世などがノミネートされたものの・・・日本人が受賞するのはこれから50年近く後のことでした。


日本人初のノーベル物理学賞は、湯川秀樹。
1949年敗戦の傷跡が残る日本に・・・希望の光となるニュースが・・・日本人初のノーベル部移り楽章受賞のニュースが舞い込みました。

京都大学物理学部教授の湯川秀樹です。

そもそも、この物理学賞の選考は、スウェーデン王立科学アカデミー5名の委員会が候補を絞り、約350人で投票され決定します。

1934年湯川秀樹は27歳、画期的な理論を発表します。
「中間子の存在」です。

それは驚くべきことに、原子核のメカニズムを知るヒントとなり、世界中が注目しました。

しかし、第二次世界大戦勃発、当時最先端だった核兵器の開発に各国が躍起になります。これに巻き込まれていく、世界の物理学者たち。。。

湯川秀樹も本意ではなかったものの、また巻き込まれていきます。
1945年、その残虐性から研究者たちの猛反対があったにもかかわらず、広島と長崎に原爆が投下されます。

初めに原子核の謎を解いた湯川秀樹の故郷、日本に落ちたのです。

湯川秀樹は、物理学が人類に大きな被害をもたらす兵器を生み出してしまったことを嘆きます。
敗戦から4年後、ノーベル物理学賞を受賞。
湯川秀樹がノーベル賞を取るということ・・・そこには、アインシュタイン、オッペンハイマーなどの、原爆の開発に携わった多くのアメリカ人物理学者たちの願いが込められていました。
湯川が受賞とするということは、軍事目的ではない・・・物理学者に戻れるということなのです。
アインシュタインは、湯川秀樹にこういったと言います。
「原爆投下を食い止めきれず、申し訳ない。」と。

湯川秀樹とアインシュタイン 戦争と科学の世紀を生きた科学者の平和思想
湯川秀樹とアインシュタイン 戦争と科学の世紀を生きた科学者の平和思想


日本人初のノーベル文学賞・川端康成。

雪国
雪国

1968年です。
文学は、読み手の感覚によって大きく左右されます。
その上、18人で構成されるスウェーデン・アカデミーが選考するのですが、その選考基準が見えにくいため、疑惑が付きまといます。

舞姫
舞姫

ことし(2012年)受賞した莫言に関しても、中国政府がお金で買ったのでは?という疑惑が流れました。
というのも、今年2月温家宝首相が、産業育成のため1088億円もの投資を約束したからです。あまりに突然で、巨額の投資が、ノーベル賞の選考を意識したのでは?と思われているのです。

伊豆の踊子 改版 [ 川端康成 ]
伊豆の踊子 改版 [ 川端康成 ]

しかし、1950年代前半は、日本とは無縁のものでした。
そこには言葉の壁が・・・
ノーベル賞に選ばれるためには、欧米のメジャーな言語に翻訳されていなければならないのです。

1950年代後半に入り、日本文学が翻訳され始めます。
そして、1967年・・・次のノーベル賞は日本人だ・・・という噂が流れます。
その有力候補が、川端康成と三島由紀夫。この二人は25年間の師弟関係にありました。
日本としては、重鎮の川端康成を推していました。

古都改版 [ 川端康成 ]
古都改版 [ 川端康成 ]

そして、川端康成は、ノーベル賞の推薦文を三島由紀夫にお願いします。
その依頼を快諾した三島は、川端康成の作品がいかに素晴らしいかを説きます。

そして、1968年10月17日、日本人初のノーベル文学賞に選ばれたのです。
そして、祝福する三島がそこにはいました。

その後、三島は政治活動に力が入り・・・
政治組織「楯の会」を結成。
親密だった2人は、急激に疎遠に・・・

1970年、三島由紀夫は、国を憂いて割腹自殺を図ります。
その後の川端康成は・・・ノーベル賞の重みからか思うように執筆活動が進まずに・・・三島の死から2年後、自殺してしまいました。

ノーベル文学賞のお祝いに向かうタクシーの中で三島由紀夫は・・・
「これで、次にノーベル賞が来るのは10年先か・・・」
「でも、次は三島先生ですね。」
「いや・・・大江君だよ。。。」

三島由紀夫の予言どおりに26年後、大江健三郎が受賞することとなります。


山極勝三郎・・・
世界が認める医学博士です。

まぼろしのノーベル賞 山極勝三郎の生涯
まぼろしのノーベル賞 山極勝三郎の生涯

20世紀初頭に現研究を始めました。
ガン発生の原因を突き止めるべく・・・
当時、ガン発生のメカニズムの解明は、世界で最重要テーマの一つでした。
山極は、ヨーロッパの煙突掃除人にガン患者が多いことを突き止めます。

もしかしてコールタール???
ウサギの耳に、コールタールを塗る作業をします。
東大教授をはじめ、みんながバカにしていました。

そんななか、1913年、デンマークのフィビゲル博士が寄生虫によってネズミの胃にガンが発生したのを発見します。

しかし、まだまだ地道に実験します。

「絶対、あの統計には意味がある!!」

そんななか、1年半が経ちました。

ウサギの耳に・・・異変が起こり始めました。
その後、60羽のウサギのうち10羽からガンが発見、この画期的な発見は、世界中を驚かせます。
1926年、ノーベル生物学・物理学賞の最終候補に残ります。
日本人初の、ノーベル生理学・物理学賞なるか???

しかし、結果はフィビゲルが受賞。

山極は、その後もガン研究に勤しんで・・・1930年67歳で亡くなります。

35年後・・・アメリカが、フィビゲルが作り出したのはガンではないと発表します。研究成果が完全な間違いだと発表します。
ノーベル賞最大の汚点です。

翌年、ノーベル生理学・医学賞選考機関の名誉教授は・・・
来日した際、
「日本で初めて人工ガンを作った日本のドクター・ヤマギワにノーベル賞を受賞させなかったのは、今でもノーベル賞選考委員会が残念に思っていることです。
 ノーベル賞を授与したかったヤマギワ、許してください・・・」
と言ったと言います。

さらに3日後・・・世界がん研究の権威・ハドゥ博士は、
「世界のがん研究は、日本人のドクター・ヤマギワによって開発されたものです。」
と、発表したとか。

幻の日本人ノーベル賞第1号は、山極・・・。
しかし、彼は、世界中からガン研究の父として・・・誰もが認める功績を残したのでした。


ノーベル賞のことも、知らないことも多いですね。
世界のいろいろな方面で活躍している日本人、すごいですね。
でも、やっぱり外国の方に比べると控えめなのかなあ???

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