日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ハリス

令和元年11月27日・・・即位の礼と大嘗祭を終えた天皇皇后両陛下が京都を訪問されました。
令和という新たな時代・・・その代替わりを160年前の激動の時代の一人の天皇に報告するためです。
その天皇とは、明治天皇の父・孝明天皇・・・江戸時代最後の天皇です。

攘夷派が台頭し、京を舞台に相次ぐテロを実行・・・暴力を武器に時代を動かしていました。
1963年、攘夷派は天皇を巻き込んだある計画を企てます。
”大和国行幸”です。

大和行幸は、表向きは天皇が奈良にある神武陵などを参拝し攘夷を祈願するというものです。
しかし、そこには恐ろしい計画が隠されていました。
それは、行幸先の大和で軍議を開き、攘夷を天皇が指揮することを表明するというものでした。
天皇の決断次第では、幕府を敵に回す可能性も・・・
欧米列強との戦争、幕府との内戦・・・かつてない危機が迫っていました。
江戸から明治へのターニングポイントで、苦悩の選択を迫られた孝明天皇・・・その知られざる実像とは・・・??

孝明天皇が皇位を継いだのは1863年・・・父・仁孝天皇が突然崩御し、16歳で皇位を継ぎました。
時あたかも時代の激変がこの国を飲み込もうとしていました。
1840年、アヘン戦争が勃発!!
隣国清が、イギリスの圧倒的な軍事力の前に敗北、港や領土の割譲を強いられていました。
列強の触手は、日本にも伸び始めていました。
孝明天皇が皇位を継いだ年、英仏の軍艦が琉球に来航・・・
さらに、浦賀や長崎など日本本土の港にも相次いで姿を現しました。
報告を受けた若き天皇は、朝廷は外交には口を出さないという慣例を破ってまで幕府に命令を下します。

異国船来航があまりに頻繁なので心配である。
海防を強化し、清国の瑕瑾とならぬよう処置するように。

攘夷を命じたのです。

ところが、幕府の対応は、天皇の意に反するものでした。

1853年ペリーが浦賀に来航。
圧倒的な軍事力を前に、幕府は和親条約を締結。
下田と箱館で水と燃料を供給することを認めたこの条約を天皇は事後承認するほかありませんでした。
それから1月ほど後、事件が起きました。

1854年4月6日、突然黒い煙が京の町に・・・!!
天皇が住む御所が炎上したのです。
その場に居合わせた公家の日記によると・・・

贅を尽くした大和絵の絵や調度が燃え上がる中、公家たちは口々に天皇に避難を促しました
5,6人がかりで板輿に乗せられた天皇は、炎に追われるように御所の外に逃れ出ました
この時天皇は、生れてはじめて民衆の姿を目の当たりにしました。
はだしのまま供をしていた公家に草履を与える者、手桶に水を汲んで焼け出された女官に飲ませる者・・・人々の情けを受けながら、一行はようやく避難所の下賀茂神社にたどり着きました。

この頃に詠まれた孝明天皇の歌に・・・

あさふゆに 民安かれと 思ふ身の 
             こころにかかる 異国の船

とあります。

この国土に住む民衆を、自分が天皇として守らなければならない・・・!!
この時、孝明天皇は伊勢神宮など畿内22社、畿外11社に異国船退去の祈祷を繰り返し命じます。
神々の力で攘夷を実現せんと願ったのです。
しかし、開国への流れはさらに加速していきます。

1857年、ハリスが日米通商条約締結を要求。
外国人が日本に滞在し、通商を行うという”開国”を求める内容でした。
武力を背景にしたハリスの主張の前に、幕府は条約締結しかないと判断。
1858年2月、老中・堀田正睦が京に赴き、朝廷に条約締結への許可を求めます。

「もし、条約を拒んで戦となっても勝ち目はない・・・」

しかし、堀田に対して孝明天皇はこれを拒絶。

「私の代より開国することになっては後々までの恥の恥である」

代々守ってきた鎖国を、自分の代で放棄するのは、断じて許せないことだったのです。
ところが、この年の4月、井伊直弼が大老に就任するや、事態は急変・・・
天皇の許しのないまま・・・1858年6月、日米修好通商条約調印に踏み切ったのです。
さらに、井伊は反対勢力への大弾圧・安政の大獄を断行します。
それは朝廷にまで及び、公家たちは震え上がりました。
一方これと並行して井伊は、老中を京に派遣、孝明天皇に対してこう弁明させます。

「開港 貿易を好むものは、幕府重役に一人もおりませぬ
 軍事力が整えば以前の国法(鎖国)に引き戻す」

いずれ鎖国に戻すという約束に、天皇は次のように返答。

「以前の通りに戻されるとの事、条約締結のやむ終えざる事情については疑念は氷解した」

攘夷を実行しない幕府にいら立ちながらも、井伊の強権政治をまえに、天皇は妥協せざるを得なかったのです。

1860年3月・・・
開国を推し進めていた井伊直弼が水戸藩浪士らの手によって暗殺されました。
世に言う桜田門外の変です。
時の最高指導者が、江戸城の目と鼻の先で暗殺されたことで、幕府の威信は地に落ちました。
失地回復を図るために幕府が打ち出したのが公武合体でした。
そのために幕府は、孝明天皇の妹・和宮の将軍・家茂への輿入れを要請します。
1861年和宮は江戸に下り、朝廷と幕府が手を携える体制が確立しました。

ところが、これに反発したのが、尊王攘夷派でした。
急進的な浪士たちが次々と京に集結します。
幕府の出先機関の襲撃や、要人の暗殺など倒幕に向けた武装蜂起をし動き出しました。
京に不穏な空気が立ち込める中、孝明天皇に接近する勢力が・・・薩摩藩!!
1862年、島津久光は、1000人もの軍隊を率いて上洛。
朝廷に取り入り、その権威を背景に幕府政治に参画しようとしました。
一方、この接近は、天皇にとっても渡りに船でした。
上洛した久光に対し、孝明天皇は命じます。

「今日に滞在し、浪士共の蜂起を抑えるように」

攘夷の実現を目指す浪士たちを取り締まろうとした理由は・・・??
孝明天皇は、基本的に秩序を守る、維持するという立場でした。
そこに浪士たちがやってくるのは孝明天皇にとっては有難迷惑なことでした。
そこに、1000人の藩兵を連れてやってきた久光・・・頼りになる存在でした。
久光はすぐに行動を移します。
1862年4月、寺田屋事件
久光は、伏見寺田屋で、尊王攘夷派を粛正させました。
京での武装蜂起は未然に防がれ、孝明天皇は安堵しました。
ところが・・・その年の8月、予期せぬ事件が起こります。
久光の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が切り捨てた生麦事件です。
イギリスの報復に備えるため、久光は急遽薩摩へと帰国。
そして薩摩不在の京では、尊王攘夷派が再び勢いを取り戻します。
公武合体のために働いた公家の家臣から京都奉行所の与力までを標的に、テロの嵐が吹き荒れます。
この情勢の中、急速に朝廷に接近したのが藩を挙げて攘夷を掲げる長州藩でした。
久坂玄瑞、桂小五郎と言った弁舌に秀でた藩士が、三条実美ら公家を次々と取り込んでいきます。
朝廷の主導権は、完全に長州藩に握られました。

1862年11月、三条実美が、勅使として江戸へ・・・幕府にこう通告します。

「攘夷期限を決めて朝廷に報告すべし」

対応を迫られた幕府は、1863年3月、将軍・徳川家茂上洛。
実に229年ぶりの将軍の上洛でした。
これに合わせて天皇の周囲では、ある計画が進められていました。
京都市北区上賀茂神社・・・3月11日、孝明天皇加茂行幸。
孝明天皇は、楼門から中門に輿に乗り進み、中で攘夷祈願をされました。
天皇自ら神社に赴き攘夷祈願を行うのは、極めて異例のことです。
この行幸で、人々はさらに前代未聞の状況を目にしました。

孝明天皇が乗る鳳輦・・・その前後を将軍・家茂をはじめ武士たちが警護しながら神社に向けて進んでいきます。
天皇が将軍を従えて行幸し、攘夷を祈願する・・・これは、他ならない長州藩によって仕組まれたことでした。
さらに家茂は、尊攘派に押し切られるかのように5月10日をもって攘夷の実行を約束します。
猶予は3週間足らずでした。
孝明天皇が望む攘夷へ・・・時代は急速に旋回していきました。

攘夷決行の期日とされた1863年5月10日、長州藩は下関海峡でアメリカ船を砲撃!!
ついに攘夷の火ぶたが切られました。
しかし、列強との軍事力の差は歴然でした。
砲撃から20日後・・・6月にはアメリカ軍艦が聴衆に報復!!
長州の軍艦や砲台に壊滅的な打撃を与えました。
この時、長州にとって計算外だったのは・・・長州以外にどの藩も攘夷を行わなかったのです。
孤立した窮状を打開するため、長州は朝廷を動かし、ある秘策を打ち出します。
大和行幸です。
孝明天皇が、攘夷祈願のために大和の神武天皇陵などに行幸し、そこで軍議を開くという計画でした。
天皇が先頭に立って攘夷を行う・・・
天皇の権威によって、攘夷実行を各藩に強制していく・・・!!
極めて巧妙な秘策でした。

1863年8月13日、大和行幸の詔発布。

出発は1か月後・・・。
大和行幸を実行する??
この時、大和行幸を阻止するべく動き始めていたのが薩摩藩でした。
早くから異国の脅威にさらされてきた薩摩藩は、攘夷の危険性を痛感していました。
島津久光は、京都藩邸に使者を送り、工作を開始。
行幸の詔の出た8月13日、薩摩藩士高崎正風は、会津藩邸を訪問し、連携を図ります。
尊攘派から主導権を奪うため、京都守護職を務める会津藩900人の兵力を当てにしたのです。
御所を舞台にした大胆不敵な政変計画。
会津藩の回答は・・・??
”中川宮が決意されたのであれば如何様にでもご尽力する”
中川宮朝彦親王は、孝明天皇が兄とも慕う皇族です。
公武合体派の重鎮で、この時薩摩と共に政変計画に動いていました。
8月15日、高崎は、中川宮に政変計画を説明。
中川宮ら同志が参内したのち、御所の全ての門の出入りを厳重に差し止め、過激派公卿を退職、逼塞せしめる・・・御所封所計画です。
これに賛同した中川宮は、孝明天皇のもとに参内、天皇の判断を仰ぎました。

政変計画を承認して大和行幸を中止??

薩摩の島津久光に宛てた孝明天皇の宸翰には・・・
朕の存意はいささかも貫徹せず・・・尊攘派が牛耳る朝廷では、天皇の意見は何一つ通らないというのです。
尊王攘夷派の勢いに任せて、大和行幸を行うのか?
政変計画を認めて行幸を取りやめるのか・・・??
孝明天皇に選択の時が迫っていました。

1863年8月16日、孝明天皇は中川宮に密勅を下しました。
”会津中将に命じて処理せしむるのほかない
 よろしく命令して処分せよ”
天皇は、薩摩会津の政変計画を承認しました。
これによって、八月十八日の政変の幕が切って落とされたのです。
8月18日午前1時、中川宮をはじめとする政変の中心人物が密かに参内。
早朝4時ごろには、会津藩兵を中心とする兵力が御所の門を固めました。
公家たちは、正論、暴論の2つのグループに分けられ、暴論・・・長州と結託した尊攘派公家は、一歩たりとも御所に入れない警護が敷かれました。
次いで中川宮を中心に協議が行われ、尊攘派には過酷な処分が下されました。
三条実美ら尊攘派公家の官位剥奪、長州藩は御所の警備から外され追放!!
ともに長州に落ち延びていきました。
尊攘派は都から一掃されたのです。
この政変は、幕末の大きな転換点となりました。
長州藩はこれを機に武力闘争に舵を切り、1864年、京都で会津・薩摩と激突!!
禁門の変です。
長州が御所に向けて発砲したことに孝明天皇は激怒、以後2度にわたる長州征討を幕府に命じました。
ところが、1866年、第二次長州征討において、最新兵器を装備した長州に幕府が敗北。
その権威は地に落ちました。
一方、政変の筋書きを描いた薩摩の存在感は増大!!
幕末政治のキープレイヤーにのし上がっていきます。

1867年12月9日、御所を舞台に王政復古のクーデター
王政復古の大号令が行われ、天皇中心の中央集権国家が誕生しました。
孝明天皇の選択に端を発した一連の動きが、明治維新の道筋を決めたのです。
しかし、孝明天皇自身は、新たな時代を見ることなく1866年12月、36歳で崩御。
公式発表は、天然痘による病死・・・しかし、政治の渦中にいた天皇の早過ぎる死は、当時から噂がささやかれていました。
イギリス外交官アーネスト・サトウは、こう記しています。
天皇は毒殺された・・・??

「天脈拝診日記」・・・孝明天皇の侍医が残した日記をもとに子孫が発表したものです。
これによれば、天然痘の患者は発熱、発疹など五段階を経て快方に向かいます。
孝明天皇もその通りに順調に回復していました。
ところが・・・突然のたうち回って・・・手のつけようもなく・・・
”御九穴から御脱血”と書かれているものの、それが天然痘の症状とは思えない・・・。
図らずも江戸時代最後の天皇となった孝明天皇・・・
その死の真相については、論争は今も決着していません。

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1860年3月3日・・・江戸城桜田門外・・・
200年続いた鎖国政策を捨て、開国への道を開いた政治家が暗殺されました。
江戸幕府大老・井伊直弼です。

世界に覇権を広げていた西欧列強の時代・・・
日本の舵取りが井伊大老にゆだねられました。

異国船打ち払いを訴える大名達、異国人を忌み嫌う朝廷・・・
意見のまとまらない中・・・反対派に厳しい弾圧を加えていく井伊直弼。
赤鬼と恐れられた直弼、その知られざる姿とは・・・??

1853年6月3日・・・日本は激動の時代を迎えます。
江戸湾に4隻の黒船が来航・・・アメリカ東インド艦隊総司令長官マシュー・ペリーが日本に開国と通商を迫ってきました。
江戸は大混乱に陥ります。

幕府は諸大名を招集し、意見を求めました。
攘夷派130人に対し、開国派8人・・・攘夷派が圧倒的な中、”開国が日本を救う!!”と主張したのは、彦根藩主・井伊直弼でした。

その2か月後・・・直弼が幕府に出した意見書は斬新なものでした。
「別段存寄書下書」には・・・斬新な外交論が・・・
これからはジャカルタに船を送って交易すべきだ!!
軍備を整えて、海外に日本の力を海外に示せば、内外ともに充実し、皇国安躰となるでしょう。

直弼が目指していたのは、交易による軍備増強・・・富国強兵だったのです。
直弼の外交論の裏には、諸外国に対する豊富な知識がありました。
最新情報を手に入れていたのです。

彦根藩は、代々徳川に仕えてきた譜代大名の筆頭です。
幕府が危機に陥った時は、先陣を切って戦うことを誉としてきました。
直弼はその井伊家の14男に生まれ・・・一生日の当たることのない生活を覚悟していましたが・・・
嫡子が急死・・・ほかの者はみな養子に出されていたので、彦根35万石の藩主となったのでした。
直弼は、先代の遺産15万両をすべての家臣、領民に分け与え・・・凶作の年には救い米を1万俵を配るなど、領民を思いやる政治を行っていました。

遊学中の吉田松陰は井伊直弼のことを・・・
実に人君に相応しく、その徳の高さに感涙にむせんだと書き残しています。

直弼は・・・幕府の中枢へ・・・!!
そこに立ちはだかったのは、水戸藩前藩主・海防参与の徳川斉昭でした。
異国船を打ち払うために、大砲を74門鋳造し、幕府に献上しました。
斉昭は絶えず、西欧の書物を取り寄せて研究していました。
異国船を打ち払い、鎖国を貫く・・・それが斉昭の基本姿勢でした。
尊王攘夷・・・天皇を尊び、異国の穢れを打ち払い、鎖国を貫く・・・この考え方は斉昭のもとから日本中へと広がっていきました。

開国か鎖国か?直弼と斉昭が対立します。

1854年1月16日・・・日本を離れていたペリーが軍艦7隻でやって来ました。
軍事的に優位なアメリカを排除することは、もはや不可能でした。

幕府は・・・日米和親条約を締結。
そのことで、斉昭は海防参与を辞任し・・・直弼と真っ向から対立することになるのです。

その頃・・・自らの戒名を定めた直弼・・・
直弼は菩提寺に戒名を納めて江戸に・・・攘夷派との戦いに命を懸けた出発でした。
1856年7月・・・アメリカ総領事ハリスが下田に来航します。
臨時の領事館を開き、通商条約の交渉に着手します。
おまけに・・・西欧列強の嵐がアジアに迫っていました。

1857年10月・・・ハリスが江戸城に乗り込んできました。通商条約の調印を求めて・・・!!
直弼たちは、通商条約締結は避けられないと判断しました。
しかし・・・条約締結を妨げているのは・・・攘夷の声が静まっていなかったのです。
外国掛の岩瀬忠震は・・・天皇の権威を借りて条約反対の勢力を削ごうとします。
天皇にはいつも事後報告でしたが、この時ばかりは先に許可を得ようと考えたのです。

1858年2月9日・・・幕府は孝明天皇に勅許を願い出ます。
半月後の2月23日・・・幕府にとっては思いがけない結果に・・・
もう一度諸大名と考え直してから願い出る様にとのことで・・・勅許が下りなかったのは初めてのことでした。

ここに来て・・・4月23日直弼大老に就任。。。
大老は将軍の補佐役で、幕府の最高位でした。
代々譜代大名の筆頭としての井伊家を汚すことはできない!!
再び斉昭と対峙することになります。

6月17日・・・ハリスは突然会談を求めてきました。
直弼は、岩瀬忠震を派遣します。
ハリスは東アジアの状況が急変し、日本に危機が迫っていると言いました。

英仏連合軍が清国との戦いに勝利、次の標的は日本と定めて動き出したというのです。
英仏は武力で屈辱的な条約を結ばせるに違いない!!
アメリカといい条件で条約を結んでおけば、同じ条件で結ばざるを得なくなる・・・というのです。
直弼に残された時間はありませんでした。

英仏に蹂躙されないためにも・・・!!

勅許をもらって調印するか?
でなければ内乱が起こる・・・!!
そうなれば、斉昭の説得はどうする??


勅許を待たない??
清国のように支配下に置かれてしまう・・・!!
天皇の意に背けば、幕府の威信はなくなってしまう・・・??

どちらからも圧力をかけられる直弼・・・どうする??

6月19日・・・日米修好通商条約は締結されました。
天皇の勅許をえないままの条約調印でした。

この事で・・・”開国の英傑”と呼ばれるようになった直弼。
しかし、「公用方秘録 木俣本」が発見されました。
最近見つかったこの本は、あまり知らされることはありませんでした。
そう、直弼を傷つけないためにも・・・。

従来の公用方秘録では、全て自分が責任をとる言っていますが・・・。
そんなことは言っていない・・・激しく動揺していたようです。
彦根では神さま扱いだった直弼・・・
この本は、表に出せないものだったのです。

岩瀬たちは、昌平坂学問所の出身で・・・この中では、ペリー来航以来、日本がどのような立場をとっていったらいいか?をたくさん議論していました。
つまり・・・岩瀬たちは、条約締結しかありえない!!と、腹をくくっていたのです。

その結果として・・・直弼は、条約締結しかありえない!!と思っていた官僚を、抑えることができなかったということなのです。

条約調印を知った斉昭ら攘夷派の大名たちは・・・6月24日、無断で江戸城に押しかけます。
大名たりとも、無断の登城は御法度です。
水戸の斉昭、尾張の慶勝、越前・松平慶永・・・激しく糾弾されます。

無視されてしまったことに、孝明天皇も激怒!!
怒りにかられた孝明天皇は、幕府の改革を求めました。
孝明天皇は、この無断調印に対して、公武合体し、国内を治めるよう・・・
幕府より先に、水戸藩に命を下したのです。
立場の無くなった幕府・・・

直弼は、反撃に出ます。
水戸藩による朝廷工作の証拠を探し始めました。
情け容赦ない探索と捕縛が繰り返されます。
これが、安政の大獄です。
直接斉昭が関与した証拠を掴みたい・・・!!
直弼の追及は、とどまることを知らず・・・
1年間で100人余りが刑を受け、8人が重罪の死罪となりました。
その半数が水戸藩士でした。
斉昭が朝廷と接触したという証拠は遂には見つからず・・・
幕府を批判したことを咎められ、永蟄居、これは終生にわたる謹慎だったのです。

直弼を名君と賞賛していた吉田松陰も・・・
斉昭との関わりは明らかにされないまま・・・しかし、幕府を強烈に批判し、老中暗殺を企てということで・・・刑に処せられたのです。
直弼に対する恨みは募るばかり・・・
水戸藩士たちが脱藩し・・・直弼暗殺計画が始まるのでした。
1860年3月3日・・・江戸城桜田門・・・季節外れの雪のなか・・・直弼は江戸城に向かっていました。
警備の侍・26人を伴っての登城でしたが・・・水戸浪士・薩摩藩士18人の襲撃・・・
わずか十数分の攻防で・・・直弼は凶刃に斃れたのでした。

その1年以上も前に・・・孝明天皇からは”叡慮氷解”がなされていました。
そう、孝明天皇は、無断調印を許してくれようとしていたのですが・・・そこには、”鎖国に戻しておく”という条件が付けられていたのです。
かえって混乱を招いてしまう・・・。

その事実は、直弼暗殺から2年・・・表に出ることはありませんでした。

しかし、将軍に仇名す者は自分が死のうが引き受ける・・・
たとえ殺されようとも・・・!!
それが、譜代大名・井伊家の務めだったのです。

通商条約調印の翌年、横浜に港が開き外国との交易が始まりました。
江戸の近くに港を置いて、利益を独占し、幕府の立て直しを図るのですが・・・
直弼の死から7年後・・・過熱した尊王上運動によって幕府は斃れるのです。

その後の日本は、直弼の描いたような交易による近代化を図っていくことになります。


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186033日・・・


銃声を合図に・・・前代未聞・・・白昼江戸城の前で最高権力者が殺されました。

雪景色は見る見るうちに赤く染まりました。

殺されたのは井伊直弼・・・桜田門外の変です。ii











幕末維新の政治家たちは・・・

「その責任を全く一人に帰化し隻手狂瀾を挽回せんとす」勝海舟

「国難に臨んで 天 英雄を生じ これ英断を為した」大隈重信

と褒めています。

その一方で、井伊の赤鬼と呼ばれていました。

はたして、近代化を導いた改革者?独断専行の鬼?どちらだったのでしょうか?


江戸幕府最後の大物政治家・井伊直弼、そのキャリアはわずか10年でした。
混乱・激変していた時代・・・

185011月彦根藩主に就任。

藩祖は、徳川四天王の井伊直政。赤備えの甲冑で有名です。

以来、譜代大名筆頭としてありました。

200年の徳川幕藩体制を根底から覆す事件が起こります。

185363日黒船来航。

老中首座の阿部正弘は政治改革の必要性を痛感します。

もともとは、御座の間・御用部屋・溜間(彦根・会津・高松藩)で行われていましたが・・・

門閥制度では、優秀な人間は育ちません。

家柄によらず、有能な人物を登用します。

開国・通商についても・・・今まで聞くことのなかった大名にも意見書を出させます。

それは外様でもです。

海岸防備には、薩摩や長州の協力も必要でした。

直接政治に意見する立場ではなかった御三家や家門にも伺いを立てます。



直弼たちの前に立ちはだかったのが、水戸藩・徳川斉昭でした。

「外国を断固打ち払うべきである!!」と、主張します。

他の大名たちも、攘夷・鎖国を主張する中、直弼は・・・開明的な意見を出します。

外国との戦争を避け、富国強兵を図り、日本を守る!!と。

翌年、ペリーがやってきて、通商条約の調印を迫ります。

緊急会議では、斉昭と直弼が真向から対立します。

他の奉行や老中は直弼に賛同し・・・斉昭を徹底的に退けます。

185433日日米和親条約調印。

ペリーの通商条約はかろうじて食い止めます。

が・・・上層部は、もはや開国は避けられないと、思っていました。


 

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