日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:バルチック艦隊

東京原宿の東郷神社・・・ここに祀られているのは、明治時代、連合艦隊司令長官だった東郷平八郎です。
さらに、東郷神社からおよそ3キロ・・・乃木神社には、陸軍第三軍司令官・乃木希典が祀られています。
この二人が、神とあがめられる活躍をしたのが、今から116年前の1904年2月10日に始まった日露戦争でした。
明治という新しい時代が始まって40年足らず・・・東アジアの新興国だった日本は、その無謀ともいえる戦争でロシアに勝利することになりました。
その国力は・・・
歳入   日本・・・・・約2億5000万円
      ロシア・・・約20億円
兵力   日本陸軍の常備兵・・・・・約20万人
      ロシア陸軍の常備兵・・・約120万人
圧倒的軍事力の差でした。
それにもかかわらず、日本はどうして勝てたのでしょうか?
そこには3人の男がいました。

1800年代末~1900年代初頭
日露戦争が始まる前、ニコライ2世治めるロシア帝国が、中国・清から遼東半島にある大連・旅順を租借、南下政策を進めていました。
北極圏に近いロシアは、冬になると領土に面する港がほとんど凍ってしまうために、不凍港を確保したかったのです。
そこで狙われたのが日本海・・・制海権の掌握を狙います。
ロシアは、太平洋艦隊の主力戦艦をウラジオストク港以南の旅順に移し、増強を図ります。
さらに、ロシア陸軍も満州に次々と基地を築き、遂には朝鮮半島北部にも進出!!
日本列島の背後にも迫ってきていました。
この危機的状況を打破するため、日本は1904年2月10日、ロシアに宣戦布告します。

出来るだけ、短期に勝って講和に持ち込みたい・・・!!
綱渡りのような戦いでした。
短期決戦を目指す日本の連合艦隊が、旅順港に奇襲攻撃・・・!!
陸軍部隊が朝鮮半島の仁川に上陸します。
戦いの火蓋が切られました。
日本が戦いを挑んだ相手は、超大国ロシア・・・それはまさに、ギリギリの戦いでもありました。
どうやって短期決戦に勝利し、講和に持ち込むのか・・・?

①旅順攻略・・・その作戦のTOPは、陸軍第三軍司令官・乃木希典!!
当時54歳。

②世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊と戦った日本海海戦・・・それを指揮したのは、乃木の1歳年上・・・連合艦隊司令長官・東郷平八郎でした。

2人の司令官がどのように決断し、どのような戦いを繰り広げたのでしょうか?

①乃木希典の決断・・・203高地攻略
日露戦争で、最も激戦となった旅順の攻防戦・・・
日本軍15万のうち、死傷者数8万人・・・
未曽有の犠牲を余儀なくされました。
どうしてこれほどの犠牲を出してまで、旅順を攻略しなければならなかったのでしょうか?

中国・遼東半島の先端に位置する港町・旅順は、港の入り口が狭く港内が広いのが特徴で、軍港として最適でした。
そのため、ロシアは南下政策の新たな拠点として、ここに太平洋艦隊を配備、また旅順港を守るために市街の周辺100カ所以上に砲台を設置、要塞化していました。
そんな旅順を、日本軍は当初、海軍の連合艦隊による海からの攻撃で落とそうとしますが、激しい砲撃にあい、撤退を余儀なくされます。
そこで、海軍は自分たちの戦艦をあえて港の入り口に沈め、敵艦を港に封じ込める作戦に出ますが、これも失敗・・・
開戦から3か月たっても、手も足も出ない状態となっていました。
そんな中、追い打ちをかけるような情報が日本軍にもたらされます。
ロシアがバルト海に配備していた世界最強の艦隊・バルチック艦隊を日本海に向かわせる準備を始めたというものでした。

バルチック艦隊が来る前に旅順を落とさなければ・・・!!
タイムリミットが迫っていました。
もし、連合艦隊が敗北すれば、ロシアに日本海の制海権を奪われ、大陸への兵士の移送や物資の運搬ができなくなり、日本の敗戦は明らかでした。
そうなる前に、旅順の太平洋艦隊を撃滅しなければ、日本海の制海権を奪われ敗戦濃厚になるのです。

そこで日本軍を統括する最高機関・大本営は、海からの攻撃を諦め、陸から旅順要塞を攻める作戦に切り替えます。
その指揮を任せたのが、日本陸軍第三軍司令・乃木希典です。
10年前の日清戦争の際、清国の基地だった旅順をわずか1日で落とした乃木の実績が買われたのです。

「乃木なら、また旅順を落としてくれる・・・!!」

大本営や、国民の期待が寄せられました。
乃木は、その期待に応えるべく、作戦を立てます。
それは、旅順港に近いロシア軍の陣地を集中攻撃し、守りを崩し、歩兵を突撃させ要塞を突破、港を攻めるというものでした。

「これで一気に旅順を落とす・・・!!」

1904年8月19日、日本軍は攻撃を開始、5万1000の兵で総攻撃をかけました。
それが、惨劇の始まりになるとは知らずに・・・。
どれだけ攻撃しても、旅順要塞はびくともしませんでした・・・。
ロシア軍は、守りの要である旅順要塞を徹底的に増強・・・乃木が10年前に落としたものとは全く違っていました。
防護壁は厚さ1.3mのコンクリート、その壁の裏には、ロシア兵が攻撃をかわしながら自由に動ける通路が作られていました。
更には、防護壁の周囲には幅7mの堀が張り巡らされ、敵が容易に近づけないようになっていたのです。
この要塞の情報は、乃木には知らされていませんでした。
突撃した兵が敵の攻撃を潜り抜けても、堀の中へ落ち、先に進めず作戦失敗。
乃木はこの戦闘で、総兵力5万人のおよそ1/3にあたる、5000人の戦死者と1万人の負傷者を出してしまうのです。

この旅順の戦いはすさまじいものでした。
多数の死傷者が出ていきます。
乃木は、無能な司令官として国民から大きな非難を受けます。
要塞の情報が乃木に伝えられなかったことが失敗の原因でしたが、国民はそんなこととは知らず無能な司令官という汚名を着せたのです。
政府には、辞職や切腹を求める投書も殺到し、自宅には投石が相次ぎました。
窮地に立たされた乃木をさらに追いつめる最悪の知らせが届きます。
1904年10月15日、バルチック艦隊、バルト海のリバウ港を出港!!
ロシアから日本海に到着するまでは早ければ3か月・・・乃木に旅順攻略のタイムリミットが課せられたのです。

そんな中、日本軍を統括する大本営は、作戦の変更を要請・・・
旅順要塞を攻めるのではなく、その背後にある通称203高地と呼ばれる丘を占領し、そこから港を停泊する太平洋艦隊を砲撃する作戦に変えろというのです。
しかし・・・乃木はそれを受け入れませんでした。
乃木はどうして受け入れなかったのでしょうか?
203高地の攻略は、乃木の第三軍内での検討され、既に実行されていました。
その際、203高地が兵士たちの身を隠す場所が全くない斜面だったため、ロシア軍の反撃をまともに食らい、2500人もの死傷者を出していたのです。
また、ロシア軍は203高地を重要と判断し、砲台を増強していました。
そのため乃木は、
「次に203高地を攻めたら、もっと多くの者が犠牲になる・・・!!」
乃木は、多くの兵士の犠牲を出すことが予想されたので、大本営からの203高地攻略作戦の要請を受け入れなかったのです。
その代わりに乃木がとった作戦は・・・
兵士たちが身を隠せる塹壕を掘って、旅順要塞の近くまで進み、そこから突撃するというものでした。
そして作戦を決行・・・!!
ところが、要塞からの反撃に耐えられずにまたも作戦中止に・・・。
このままでは敗戦必至・・・!!
しかし、203高地攻略に固執する大本営は、天皇を動かし、天皇の勅語を得ることに成功します。

「いまや陸海両軍の状況は、旅順攻略の期を緩ふするを許さざるものあり
 此時にあたり 第三軍総攻撃の拳あるを聞き 成功を望むの情 甚だ切なり」

「陛下が期待されている・・・失敗は許されない・・・!!」

乃木に、旅順攻略の重圧がかかります。
さらに・・・日本海を目指すバルチック艦隊が、11月上旬にアフリカ沖まで到達、早ければ2か月後に日本海に到着する・・・!!
乃木に旅順攻略のタイムリミットが迫っていました。
しかし、それでも乃木は、要塞の間近にまで塹壕を掘り進める攻略作戦を続行!!
あくまでも兵士たちの犠牲を最小限に抑えたかったのです。
今度は塹壕を要塞の防護壁の真下まで到達させ、防護壁を爆破、突入を試みますが・・・頑丈な壁を壊すことができず、ロシア軍の反撃を浴びて突入部隊は全滅してしまいました。

「間近で爆破しても、要塞の壁は崩せぬのか・・・!!」

乃木に決断が迫られんす。
塹壕を掘り進む攻略は、着実とはいえ長期戦になりバルチック艦隊が日本海に到着までに落とせるかわかりません。
一方203高地の攻略は、敵の守りが旅順要塞よりも薄いが、身を隠す場所が全くないため多くの犠牲を出すのは明らか・・・
そして、11月27日午前10時・・・

「第三軍はこれより203高地を攻略する・・・!!」

日本が勝つために、乃木は苦渋の決断をするのでした。
203高地に配備されたロシア軍の砲台に対し、2300発もの砲弾を一斉に撃ち込みます。
そしてロシア軍がひるんだうちに兵士たちは203高地を一気に駆け上っていったのです。
戦闘は熾烈を極め、辺りは兵士たちの累々たる屍に覆われていきました。
その時の様子をある兵士はこう語っています。

「ああ惨劇 虐殺以上の惨劇 
 数十メートルの地面は瞬時にして
 一面我が兵の死体を持って蔽われ
 尺寸の地をも余さざるに至った」

日本軍の絶えまない攻撃は9日間に及び、12月5日、ついに203高地攻略!!
日本軍はすぐさま旅順港の太平洋艦隊を攻撃します。
次々と艦船を沈め、バルチック艦隊が日本海に到着する前に、太平洋艦隊を壊滅させたのです。
この203高地の戦いでの死傷者数は・・・ロシア軍4600人に対し、日本軍は1万7000人。
兵士の命と引き換えに得た勝利でした。
そのため乃木は、

「皆すまぬ・・・この責任は死んでとる・・・」

日露戦争が終わって、明治天皇のもとに参内した乃木は、切腹して罪を謝りたいといっています。
しかし、明治天皇は「死ぬならば私が死んでからにしろ」と止めたといいます。
その後、明治天皇が崩御された後に、1912年9月13日、乃木は妻と共に殉死しています。


②東郷平八郎の決断・・・日本海海戦

日本海軍連合艦隊の指揮を任された東郷平八郎は、日露戦争での海での戦いについてこう考えていました。

「ロシアの太平洋艦隊を、運よく叩くことができても、ヨーロッパに展開するバルチック艦隊が参戦すれば、日本に勝ち目なし
 ただし、唯一の作戦を除いて・・・!!」

東郷の懸念通り、1904年10月15日、バルチック艦隊がバルト海のリバウ港を出港。
一方、日本軍は乃木希典率いる陸軍第三軍の奮戦によって、旅順港にいたロシアの太平洋艦隊を壊滅させました。
これで、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊と太平洋艦隊に挟み撃ちにされることは回避されます。
それでも、当時世界最強を誇ったバルチック艦隊との一騎打ちは大苦戦が予想されました。
そして遂に、翌年の1905年5月・・・バルチック艦隊が、ベトナム沖までやってきたのです。
世界最強の艦隊が、まもなく日本海に・・・
東郷は、バルチック艦隊に勝てる唯一の作戦に備えます。
その作戦とは”丁字戦法”・・・トウゴウターンです。
丁字戦法とは、正面からやってくる敵艦隊に向かって攻撃することなく突進
攻撃の射程に入ったところで、船首の方向を一気に変える大回頭を行い、敵の戦闘に対し、主砲と側面の副砲から集中して砲撃を加え、1艦づつ順次に撃滅するという戦法です。
船の向き合う形が、漢字の”丁”の字を描くため、こう呼ばれました。
これは、「坂の上の雲」の主人公秋山真之が考案したといわれています。
秋山の頭脳と、東郷の決断力・・・これがあっての戦法でした。
しかし、この戦法には大きな問題点がありました。
大きく大回頭している間、日本軍は敵から攻撃されやすい・・・きわめて危険な方法で、一か八かの戦法でした。
しかも、敵から離れていると逃げられるため、危険を冒してでもギリギリまで敵船に近づく必要がありました。
そしてこの戦法で最大の問題だったのが、バルチック艦隊がどの航路でやってくるのか?ということでした。
丁字戦法は、艦隊同士が真正面から向き合わなくては使うことができないからです。

「こちらの待ち伏せを敵に外されたら、その時点で我々は負けだ」

旅順が陥落しているため、バルチック艦隊が向かうのはウラジオストク・・・!!
そこに向かうルートは対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3つ!!
東郷は最初の決断を下します。

「我が艦隊は、対馬海峡で待つ!!」

どうして東郷は対馬海峡を選んだのでしょうか?

東郷は相当迷い、最後は軍人の感だったようです。
東郷は、バルチック艦隊委は長旅で疲れているので、来るならば最短距離でウラジオストクに入ってくるだろうと考えました。
東郷の決断により、連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾でバルチック艦隊を持ち撫せることに・・・
しかし、待てど暮らせど、バルチック艦隊はやってきません・・・。
対馬海峡で待つという東郷の決断は間違っていたのでしょうか??
この時、司令部からはバルチック艦隊は津軽海峡を通過するのでは・・・??という意見が強かったのです。
津軽海峡に異動するのか??このまま対馬海峡で待つのか??
東郷の下した2つ目の決断は・・・??

「もう1日対馬海峡で待つ!!」

すると・・・1905年5月27日4時45分!!
偵察に出ていた信濃丸が長崎の五島列島沖で濃霧の中を進むバルチック艦隊を発見!!
信濃丸は、すぐさま連合艦隊に打電します。

「敵艦隊 対馬東水道ニ向カウ」

東郷の決断は、間違っていませんでした。
この時、連合艦隊は大本営に向けてこう打電しています。

「敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊はただちに出動
 これを撃滅せんとす
 本日天気晴朗なれども波高し」

連合艦隊が鎮海湾から対馬海峡へ向かうと・・・
13時39分!!
そこに姿を現したバルチック艦隊を確認!!
遂に決戦の時!!
先頭を行く旗艦「三笠」に乗艦した東郷は、四色のZ旗を掲げました。
その旗に込められた意味は・・・??

「皇国ノ興廃 此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」

連合艦隊は、攻撃することなくバルチック艦隊にひたすら近づいていき、8000mを切った時、14時05分!!

「左150度 回頭!!」

東郷の命により、連合艦隊が大回頭を開始、これを見たバルチック艦隊はここぞとばかりに猛攻撃を開始します。
東郷が乗った三笠は、敵弾を一手に浴びながら、猛攻に耐えました。
14時10分、連合艦隊は回頭を終えるとバルチック艦隊の先頭を進むスワロフに、一斉に砲撃を開始。
連合艦隊の猛攻により、スワロフに乗艦していたバルチック艦隊の司令官が負傷!!
さらに、散り散りとなったバルチック艦隊を次々と撃沈していきました。

5月28日、激戦は2日に及び、バルチック艦隊に壊滅的な被害を与えた日本の連合艦隊が世界最強の艦隊に勝利したのです。
どうしてリスクの高い丁字戦法が成功したのでしょうか?
そこには、連合艦隊の徹底的な作戦方針がありました。
基本的には複数の艦船で敵艦一隻を長時間攻撃を浴びせる方針を・・・隊列を崩さないで攻撃するという方針をとりました。
バルチック艦隊は遠くからきているので、小さな船は連れてこれません。
大きな船ばかりでした。
日本は中小の艦船で、小回りが利いたのです。
長期間の航海で、ロシア側はフジツボ、カキなどの貝が船底について抵抗になり、速力が上がらなかったことが原因です。
そのため、連合艦隊はバルチック艦隊の動きよりも早く、丁字の体勢をとることができました。
連合艦隊の徹底された作戦と速力が、バルチック艦隊の攻撃力を上回ったことが、作戦成功の大きな要因でした。

③小村寿太郎の決断・・・日露講和条約

1904年2月10日、日露戦争開戦。
旅順攻略や、日本海海戦など次々と日本が大国ロシアに勝利し、優位に進めていました。
しかし、日本の実情は・・・
日露戦争開始から1年半の日本の戦費は約15億2000万円・・・日清戦争の7倍、国家予算の5年分でした。
また動員兵力は、1年半で、動員兵力約110万人、戦死者は8万8000人に及んでいました。
日本がこれ以上、戦争を続けることは財力的にも、兵力的にも限界でした。

それに対し、国力に勝るロシア帝国は、本国に精鋭部隊を温存していました。
そのため、戦争が長引けばロシアが優位になるのは明らか・・・
日本は戦況が優位なうちに、出来るだけ早い講和を望んでいました。
そんな切羽詰まった講和交渉に臨んだのが外務大臣・小村寿太郎でした。
小村は、ロシアとの仲介を第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに依頼します。
というのも、日本は、日露戦争の開戦直後から、元司法大臣の金子堅太郎をアメリカに派遣し、ルーズベルトに接触していたからです。
金子はルーズベルト大統領とハーバード大学で学友でした。
最初から講和を早期に持ち込もうという準備をしていたのです。
この準備が功を奏しました。
日本海海戦での日本の勝利からわずか13日後の6月9日・・・
ルーズベルトは、日本とロシアに対して講和会議をアメリカで開くことを提案します。
もちろん、日本はすぐに受諾。
ロシア皇帝ニコライ2世は、この戦争に負けたと思っていなかったので、講和に反対します。
しかし、ロシア国内で社会主義が台頭!!
ロシア国内での情勢の悪化で戦争どころではなく、止む無く講和会議への参加を受け入れました。

日本側のロシアへの講和条件は・・・
・朝鮮半島における日本の優越権を認める
・満州からロシアが撤退する
・遼東半島の租借権と鉄道の権利を日本に譲り渡す

この時、小村が政府から任された条件です。

さらに・・・

・樺太の割譲
・賠償金15億円の支払い

要求も命じられていました。

小村は、こんな講和条件をロシアが丸々飲むわけがない・・・と考えていました。

国民は、勝ったんだから・・・と、期待していたのです。
小村は、こうした国や国民の期待には応えられず、交渉の非難を浴びることを覚悟してアメリカに渡りました。

そして、8月9日、アメリカの東海岸ポーツマスで講和会議が始まります。
小村の交渉相手となったのは、ロシア全権大使セルゲイ・ウィッテです。
小村の孤独な戦いが始まりました。

「満州は本来、清国の領土
 すみやかな撤退は、当然と考える」by小村

「そんなものは認められん!
 ロシアを何だと思っておるのか!!」byウィッテ

「賠償金については、これは日本が戦いのために使った実費に過ぎない」by小村

「ロシアは、日本語時に1ルーブルも支払うつもりはない!!
 もし、日本軍が我が国を占領できたなら、払ってもいいがなぁ」byウィッテ

何ともふてぶてしい態度で交渉に臨むウィッテ・・・
実は、それには理由がありました。
戦争に負けたと思っていないウィッテは、予めどんなことがあってもロシアが講和を望むような態度を見せない、自分はロシアの全権大使であると大きく構えて相手を威圧することという交渉方針を立てていたのです。
全てはウィッテの演技・・・高圧的な態度をとることで、日本を怯ませ交渉をロシアペースで進めようともくろんでいたのです。
しかし、ロシアに駐在経験のある小村はそれを見抜き、ウィッテの術中にはまることなく
”なぜ日本は満州からの撤退を求めるのか、なぜ遼東半島の租借権を譲り渡せといっているのか”と、理詰めで交渉を進めたのです。
それによって、ウィッテは日本の求めた主な条件に付いては認める姿勢を見せます。
しかし、樺太の割譲と賠償金の支払いは、断固拒否、それどころか

「日本は賠償金欲しさに戦争を続けようとしている」byウィッテ

と、国際世論に訴えたため、日本は非難を浴びるようになったのです。
このままでは日本が悪者になって、交渉が決裂する可能性が・・・!!
小村は悩みます。

「交渉が決裂すれば、戦争が続く・・・
 そうなれば日本は負ける・・・!!」by小村

そんな中、アメリカの水面下の交渉により、ロシア皇帝ニコライ2世が樺太の南半分の割譲を承認・・・
という情報が入ってきました。
それを受け、小村は決断しました。

1905年8月29日、10回目の講和本会議・・・
小村はウィッテに対し、こう切り出します。

「日本政府が樺太の南半分の割譲を条件に、ロシアの賠償金支払いの要求を撤回する」by小村

小村は、講和交渉の決裂を避けるべく、賠償金を諦める決断をします。
するとウィッテは、皇帝が認めた条件で納まったことで、日本の講和条件をおおむね受け入れました。

日本は資金も兵力もない状態で、本来ならば戦争に勝ったといえるかどうかも微妙な状態でした。
この条件を手に入れたというだけで、小村のすごさが分かります。
そして9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)締結。

1年7か月に及んだ日露戦争は、日本の勝利で終結したのです。
しかし、日露講和条約が締結された同じ日に、東京日比谷公園で賠償金のない日露講和条約に反対する人々の集会が開かました。
それは、大臣の官邸や交番、新聞社が襲撃されるなどの大暴動に発展します。
東京は数日間にわたって無法地帯と陥ったのです。
帰国した全権大使・小村寿太郎も、罵倒を持って国民に迎えられたのです。
賠償金なしでも講和できたことのありがたさを知らずに・・・

日本が勝利した日露戦争・・・アジアの小さな国でもヨーロッパの大国に勝てる・・・
この大きな自信、大きな過信が、やがて大局を見誤ることにつながってしまいます。
この後、日本は新たな大きな戦争に向かって、突き進んでいくことになるのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング           

乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す (PHP新書) [ 桑原岳 ]

価格:1,012円
(2020/4/13 22:35時点)
感想(0件)

【中古】 勝つ司令部負ける司令部 東郷平八郎と山本五十六 / 生出 寿 / 新人物往来社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】

価格:240円
(2020/4/13 22:36時点)
感想(0件)

日本海海戦の真実 (読みなおす日本史)

新品価格
¥2,376から
(2018/8/21 06:19時点)



今回は、昭和の選択です。

牙を剝き、人々に襲い掛かる自然災害。
災害を予測し、注意を促す天気予報は、私たちの生活に欠かせないものです。
天気予報の育ての親は、岡田武松。
明治から大正・昭和にかけて、日本の気象事業の礎を築いた科学者です。
武松は、台風という言葉の名付け親で、梅雨の原因を解明。
富士山測候所の建設も行いました。
日露戦争では、日本海海戦の気象予報官として活躍。
見事予想を的中させ、歴史的勝利に貢献しました。
武松は、中央気象台のTOPとして紛争しました。
そんな武松に時代の荒波が・・・太平洋戦争です。

近代日本の天気予報は、どこで始まったのでしょうか?
その舞台は、皇居・・・ここにかつて中央気象台はありました。
江戸城の天守を支えていた石垣には、気象台のシンボル・・・大きな風速計が回っていました。
中央気象台は明治8年に発足しています。
お雇い外国人の指導の下、気温、気圧、雨量の計測など地道な作業が行われていました。

1884年天気予報開始。
全国22カ所の観測を元に、街の交番などに張り出されました。
しかし、的中率は低く・・・マスコミの非難の的となります。
そんな中央気象台に1899年就職した岡田武松。
東京帝大で、気象学を学び、日本の気象事業の発展を志していました。

武松が生まれたのは、千葉県我孫子市布佐。
台風や大雨によって度々氾濫した利根川・・・
武松は、自然の猛威に翻弄される人々を目に焼き付けていました。
気象台に入った武松は、正確な観測を徹底、技師たちの再教育を徹底します。
気象の法則性を・・・分析し、測候所を増やすことを提案します。

武松は、勤め始めてわずか5年・・・1904年には中央気象台の予報課長となります。
そして、その直後、重責を担うこととなるのです。
日露戦争の天気予報です。
1905年、日本海軍は世界最強のロシア・バルチック艦隊を迎え討つ準備を進めていました。
決戦の地は対馬海峡!!
その天気予報を、武松が任されたのです。
しかし、問題が・・・日本の気象は、西から東へ移り変わります。
予報するには、西の観測データが不十分でした。
そこで気象台は、朝鮮半島と大陸沿岸に測候所を増設、技師たちを派遣し、観測網を一気に拡大します。
ロシアに負ければ日本の未来はない・・・
善戦からのデータに集中する武松。
5月26日未明、バルチック艦隊が出現!!
明日には戦いが始まる!!
天気は・・・??
戦いの前日、対馬沖は低気圧に覆われ、雨が降っていました。
集められた観測データから低気圧を予想します。

”天気晴朗ナレドモ 波高カルベシ”

低気圧は去り、強風と高波の中、天候は回復すると予想しました。
翌日・・・予報は見事的中!!
連合艦隊は、大本営に向け決意の電報を送ります。

”敵艦見ユトノ警報ニ接シ 
 連合艦隊ハ直チニ出動
 コレヲ撃滅セントス
 本日は天気晴朗ナレドモ波高シ”

この知らせは、日本軍の戦意を大いに上げました。
波が高く、船が揺れる闘いは、砲撃の技術が勝る日本にとって有利!!
バルチック艦隊を撃滅させる大勝利へと繋がりました。
気象観測にかける武松の努力を証明した戦い・・・。
この勝利をきっかけに、気象台への信頼は一気に高まりました。

自分達の予報を国民に役立てたい!!
武松は新しい取り組みを始めます。
それが海難事故でした。
政府は予算不足を理由に計画に反対するであろう読み、

「建設費はこちらで用意します。
 施設の運営費だけ承認してください。」

と、海運業で成功した船成金から寄付金を獲得。
建設費用を自前で用意して政府の許可を得ます。
こうして誕生したのが、1920年海洋気象台です。
天気予報は、3000km離れたパラオまで届きました。
船乗りたちの心の支えになります。

1923年中央気象台長に就任。
予報の伝え方に心を砕くようになります。
天気図を新聞社に提供し、ラジオにも情報を提供します。
より正確に、より分かりやすく・・・人々の支持を集めていきます。
それを支えたものこそ、武松の薫陶を受けた職員たちによって365日、休むことなく行われた観測でした。

「気象人たるもの いかなる天変地災があろうと、観測を放棄してはならない。
 たった一度の観測の誤りが、将来の大きな過ちにつながるのである。」by武松

気象事業の更なる発展を目指した武松・・・
課題は山積みで・・・その一つが、台風でした。
いつどこで発生し、どうどう接近するのか??
正確な予測ができません。
東北の冷害・・・やませ襲来の予測長期予報の確立!!
地球規模で起こる気象現象の解明には、他の国との連携が欠かせません。
武松は、海外の気象台や学者たちと情報を頻繁に交換し、自ら国際会議にも参加。
国際協力体制を築きます。

国際協力のために武松が開発に取り組んだのが、現在も続く上空の気象観測です。
小型センサーを風船につけて高度1万メートル近くの気温や気圧、湿度などを計測し、電波で地上に届ける仕組みです。
そのデータは、世界各国で共有される予定でした。
この観測が長期にわたってできれば、地球規模で起こる気象現象の解明に期待できました。
武松の仕事・・・それは、国境を越えて、各国と協力し、地球、人類全体を見つめることを必要とされました。

しかし・・・時代は・・・。
1931年満州事変。
1933年日本は国際連盟脱退。
第1次世界大戦後の軍縮条約を破棄し、軍備拡充の道へと進み始めました。
そんな中、軍部が重視したのが気象技術でした。
航空機という新しい兵器が出現し、作戦遂行のため、上空の観測データが欠かせませんでした。
第1次世界大戦で登場し、日本でも開発が進んでいた毒ガス兵器・・・ガスを効果的に拡散するためには、気象学が必須でした。
こうして気象学は、軍事分野と密接な関係となっていきます。

そして・・・1937年日中戦争。
日本軍が宣戦を拡大する一方、中国は拠点を内陸の重慶に移し徹底抗戦!!
戦いは泥沼化していきます。
1938年陸軍は、陸軍気象部創設。
しかし、人材が不足していたことから、武松らに人材派遣を要求します。
手塩に育てた人材を、やすやすと手放すわけにはいかない・・・
武松は、希望するのもに限るとします。

戦争の出口が見えない中・・・軍部は中央気象台を陸軍省の管轄下に置こうとします。
設備も、人材も・・・!!
湯治気象台の観測網は、北は満州、南はパラオまで広がっていました。
こうしたインフラや観測技師たちを、軍は利用しようとしたのです。
しかし、武松はこれを突っぱねます。
当時、中央気象台は、文部省に所属していました。
気象は、衛生、土木、農業、航海など、様々な分野の利益のためにあり、軍部に独占させるものではありませんでした。
武松の遺品から手帳が発見されています。
そこには・・・虫のいい・・・軍部への不満が書かれていました。
測候事業の危機・・・苦悩する武松・・・。

忠君愛国は、軍人だけではない。
我々だって、国のため尽くしている。
必要な資料や予報は、軍はもとより各省に提供している。
いま、移管する必要など見当たらない。

武松は、協力できるところは協力したものの、軍の組織となることだけは、頑なに拒み続けました。
抵抗をつづける武松に、陸軍の圧力は日に日に高まります。
命の危険が迫る中、武松の戦いは続いていました。
武松は、あくまで気象台の独立にこだわり続け、陸軍の要請を断り続けていました。
しかし、昭和14年、軍用資源秘密保護法が公布。
外国への情報漏洩を避けるためにできたこの法律、気象に関する情報も秘密とされました。
陸海軍大臣の一存によって、気象情報の取扱いが制限されるようになり・・・気象台は、国家有事の際には、軍の下に置かれることとなったのです。
昭和16年7月30日、岡田武松は中央気象台を退職・・・68歳でした。
その年・・・1941年12月8日太平洋戦争開戦!!
真珠湾への飛行ルートは、軍部が中央気象台に分析を依頼したといいます。
同じ開戦の日、気象台に指令が届きます。
それは、天気予報などを外部などに発表することを禁止する気象報道管制の実施を命じるものでした。
その日を境に、全ての気象情報は極秘となり、観測は続けられたものの外に出すことは固く禁じられました。

国民に伝えられない天気予報が、悲劇につながります。
1942年8月27日周防灘台風では、死者行方不明者、1000名を超える甚大な被害となりました。
被害にあった人の殆どは、台風が来ることも知りませんでした。

そして・・・日本は戦争に負けました。
1週間後、焼け野原となった東京に嬉しい知らせが・・・
それは、禁じられていたラジオ天気予報の復活でした。
天気予報の声が、人々に平和が戻ったことを実感させました。
予報の早期復活には理由がありました。
中央気象台は文部省から運輸省に移管されたものの、最後まで軍部の傘下には入っていなかったのです。
気象台では戦時中も武松の教えが語られていました。

”自然は単純でありながら、複雑でもある
 ゆえにかえって正確なものだ
 熱心に観測していれば、自然の法則がいかに高く険しいものであり、人間がいかに浅はかであるかを知ることになるだろう”

気象台を退職したのち、故郷の安孫子に戻った武松・・・しかし、気象学への情熱が衰えることはありませんでした。
自ら設立に尽力した養成所で教壇に立ち続けます。
気象学の基礎となる物理学から観測機器の扱い方、気象人の心得まで、多岐にわたりました。
養成所は、気象大学校と名を変え、今も気象学を志す若者が集います。
大学校は原則全寮制で、共同生活を送りながら専門知識を学びます。

寮の名は「智明寮」・・・名付け親は武松です。

「青年に最も禁物は自己陶酔である
 老子の言葉に
 ”他人を知るものは智なり
 自分を知るものは明なり”とある
 この”智”と”明”が大切だ
 これさえ心得ておれば、自己陶酔に陥ることもあるまい」 

確かな目を持った人材を育てることが、気象事業の未来につながる・・・そう武松は語っています。

国民の暮らしと共にある気象事業・・・その発展と普及に力を尽くした岡田武松は、1936年9月2日、83年の生涯を閉じたのでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 DVD BOX (新価格)

新品価格
¥9,235から
(2018/8/21 06:20時点)

太平洋戦争 全10巻セット [マーケットプレイスDVDセット商品]

新品価格
¥19,800から
(2018/8/21 06:20時点)

金子堅太郎と国際公法会 日本の条約改正問題と国際社会 [ 堀口修(1949-) ]

価格:4,320円
(2017/6/12 16:56時点)
感想(0件)



近代の幕開け以来、太平洋を挟むアメリカの存在は、日本の命運を大きく左右してきました。
1904年日露戦争勃発・・・その時、日本存亡のカギを握っていたのはアメリカでした。

政府の戦費の見積もりは4億5000万円・・・当時の国家予算のおよそ2倍・・・。
戦い続けられるのは1年・・・戦況が有利なうちに講和に持ち込め無以外にない限定戦争・・・。
そのためには、どちらの戦いにも参加していないアメリカの仲介が必要不可欠でした。
この時、単身アメリカに渡り、交渉をしたのが金子堅太郎です。

1904年2月4日、元老伊藤博文のもとに呼び出されたのは、貴族院議員・金子堅太郎。
伊藤は・・・「これから至急アメリカに行ってもらいたい!!」
まさに、この日、日本は大国・ロシアとの戦争・・・日露戦争を決断していました。
伊藤には狙いが・・・
もし、戦いが長期に及んだら、アメリカに日露の間を調停してもらう・・・国運をかけ、対米工作を任された金子・・・
その生涯は、日本の近代国家の船出とともに始まりました。

1853年ペリー来航・・・その年、九州福岡藩の下級武士の家に生まれました。
幼いころから秀才で、将来を嘱望されていました。
1871年、18歳で藩の留学生としてアメリカへ・・・!!
行先はボストン・・・5年間かけて英語を習得し、1876年ハーバード大学へ!!
模擬裁判などをし、実践的な英米法を学びます。
力を注いだのは勉学だけではなく社交界へも・・・。
金子は日本の文化をアメリカに紹介した最初の日本人のひとりでした。
文学、日本の社会を中心に話しました。
日本という異質な国をアメリカに紹介したのです。
1878年、25歳で日本に帰国・・・しかし、当時の要職は、薩摩や長州などの藩閥勢力が独占・・・
福岡出身の金子が活躍する場はありませんでした。
不遇の金子を見出したのは伊藤博文。
当時取り組んでいた憲法制定メンバーに迎えたのです。
1887年、伊藤の別荘で、憲法の草案作りに参加。
英米法に通じ語学が堪能な金子に、全幅の信頼を置くようになります。
この頃、金子に運命的な出会いが・・・
1889年議会制度調査の欧米歴訪で・・・出会ったのがセオドア・ルーズベルト!!
同じハーバード出身で年も近い二人は、手紙やクリスマスカードをやり取りする関係になっていきます。

1901年ルーズベルト大統領に就任。
伊藤は二人の関係を頼りに、アメリカを仲裁を要請しようと考えていました。
しかし、金子の見通しは絶望的・・・。
その頃のロシアは大帝国、人口・GDPともに日本の3倍!!
その野心は19世紀後半から極東へ向かっていました。
1900年満州を10万以上の大軍で制圧。
アメリカは門戸開放を訴えて撤兵を要求するも、ロシアは満州に居座り続けて3年・・・
1903年ロシア軍は、朝鮮半島に侵入、軍事施設建設を開始しました。
日本はロシアに朝鮮半島からの撤兵を要求するも、ロシアの回答は更なる極東への兵力増強でした。
もはや一刻の猶予もない・・・!!

「國を賭しての戦いであるならば、金子も身を賭して君臣のために尽くしましょう!!」

194年2月24日金子堅太郎、個人での渡米!!
日本の運命を左右する秘密工作が始まり・・・3月11日サンフランシスコに上陸し、情報収集を始めました。
アメリカ到着後2週間後の3月26日、ルーズベルト大統領と会見!!
14年ぶりの再会を喜んだルーズベルトは・・・

「ロシアは大国だが、老朽の機械だ。
 日本は東洋全体を指導する国となるだろう。」byルーズベルト

この時、金子が手渡したのが、4年前に出版された新渡戸稲造の「武士道」です。
この本に、ルーズベルトは非常な感銘を受けます。
日本の武士道とルーズベルトの考え方には共通点がありました。
それは、勇敢廉潔!!
しかし、金子には不安材料が・・・アジアに対する黄禍論です。
”地球上の白人4億に対し、有色人種の人口は3倍!!
 最終的にアジアが経済上の派遣を握るのではないか??”
中でも反日感情が強かったのが、アメリカ最大級の工業都市・シカゴ!!
シカゴ市民は日本に対してきわめて冷淡・・・この地からは、ロシア側の旅順やウラジオストクへ物資が大量に輸出されていたのです。

1891年ロシアはシベリア鉄道の敷設を開始!!
この時、アメリカの企業がロシアに資材を提供!!
カーネギーも、親ロシア派でした。
両国は、経済で強く結びついていたのです。
ルーズベルトもこの現実は無視できません。
1904年3月10日の大統領令には・・・厳正中立が謳われていました。

今後、いかなる対米工作をするべきか・・・??
ワシントンで政界工作・・・??それともニューヨークで輿論喚起??

外務省への報告には・・・ニューヨークを拠点とする!!
金子は世論を動かそうとします。
4月14日、五番街に残るユニバーシティークラブで、広報外交の第一歩をしるす演説を行います。

「私も、我が国も、実に多くをアメリカに負っています。
 私たちは決して、領土的野心のために、戦っているのではありません。
 51年前、ペリー総督が授けてくれた門戸開放を守るために、戦っているのです。」

翌日の新聞は、こぞって金子の演説を書き立てます。
アメリカの国是である門戸開放の為に戦う日本!!
中でも新聞が飛びついたのは・・・数日前に旅順港で戦死した名将・マカロフ提督の追悼。。。

「マカロフ提督は世界有数の戦術家です。
 その名声は、ロシア海軍史に永世不滅に輝くでしょう。 
 私はここに、哀悼の意を表します。」by金子堅太郎

一人の人間として、フェアな・・・武士道外交でした。
戦争終結後までの1年間を、母校・ハーバード大学やカーネギーホールなどで・・・7都市・30回も講演します。
新聞や雑誌にも精力的に寄稿します。
そして開戦から4か月後の6月7日・・・ホワイトハウスのルーズベルトが・・・
「日本のため、終戦の労をとる」と・・・こぎつけたのです。
日本が文明のために、民主主義のために戦っているから・・・!!

ルーズベルトは、皇帝の独裁国家であるロシアよりも、民主国家な日本の方が、西洋文明を早く吸収して同じ文明の基盤に立っていると判断しました。
中国大陸では、死闘が続いていました。
1905年3月奉天開戦!!
日本はこの戦いにかろうじて勝利したものの弾薬は底をつき、撤退するロシア軍を追撃することもできませんでした。
開戦から1年で戦死者8万人、戦費は当初の予想を超えて17億円!!
しかし、ルーズベルトの度重なる勧告にもかかわらず、皇帝ニコライ2世は和平に応じません。
日本は瀬戸際まで追いつめられていました。

運命の5月27日・・・日本海海戦!!
日本海軍はバルチック艦隊に対し大勝利を納めました。
まさに起死回生の一撃でした。
皇帝はついに講和のテーブルに着くことに・・・!!
大勝利の興奮も冷めやらぬ5月30日、一通の書簡が届きました。
差出人はルーズベルト!!
金子の国の存亡をかけた使命が成就した瞬間でした。

1905年8月ニューハンプシャー州の小さな港町ポーツマスに、日露の代表団が到着しました。
ロシアの全権は元蔵相セルゲイ・ウィッテ。
日本側は、外相・小村寿太郎。
日露戦争の決着をつけるポーツマス講和会議が始まりました。
個人での活動をしていた金子に参加資格はありませんでした。
そんな中、小村が委ねたのは”連鎖の任”でした。
ルーズベルトと日本政府の影の連絡役です。
この後、金子が報道陣に口を開くことはなく・・・それが交渉に大きな影響を与えることとなります。

8月10日に始まった和平交渉・・・賠償金支払い問題を巡って紛糾します。
膨大な戦費を使った日本にとって、賠償金を手にすることは死活問題。
しかし、ウィッテの元には、「一寸の領土も1ルーブルの金銭も支払ってはならない」と、皇帝からの訓令が届けられていました。
交渉が難航する中・・・小村が突破口としたのが樺太です。
戦争終結間際に日本が占領したこの島を、南北に分割し、北半分をロシアが買い戻すという名目で12億円を支払わせようとしたのです。
しかし、ウィッテはあくまで頑強・・・
「それでは賠償金支払いと同じだ。
 もし、ロシアが樺太全島を譲れば、日本は金銭要求を撤回するのか??」byウィッテ
小村は答えざるを得ない・・・
「支払い要求を引き下げることはできない。」by小村
ウィッテはこれを待っていました。
会議終了後、詰めかけた報道陣にこれを暴露したのです。
翌日の新聞には、小村の発言が踊りました。
日本は金銭の為ならば戦争継続も辞さないともとれる報道をしたのです。
世論の風向きが大きく変わりました。
そしてルーズベルトも・・・
連絡役の金子が受け取った書簡には・・・
「巨額の金銭を得るために戦争を継続することは理にかなっていない・・・」と書かれています。
背後にはルーズベルトの冷静な政治判断がありました。
ここで戦争をやめることがアメリカにとって一番いい・・・!!

9月5日ポーツマス講和条約締結。
樺太の南半分は日本の物となったものの、賠償金要求は取り下げられました。
金子はこの講和をどう受け取っていたのでしょうか?

講和は完全な成功となり、巷の人々は歓喜の声を上げている
臣終了・・・

講和にこぎつけたことに大きな意義を見出していた金子。
しかし、日本国内では犠牲の割にあまりにも見返りが少ない・・・と感じた民衆は、暴徒と化し、役所や交番などを次々と襲いました。
日本にすでに余力がなかったことを知らせなかったことが、大きな齟齬を生んだのです。




↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

金子堅太郎 槍を立てて登城する人物になる (ミネルヴァ日本評伝選) [ 松村正義 ]

価格:3,780円
(2017/6/12 16:57時点)
感想(0件)

【新品】【本】欧米議院制度取調巡回記 金子堅太郎/著 大淵和憲/校注

価格:3,564円
(2017/6/12 16:57時点)
感想(0件)

小村寿太郎 若き日の肖像

価格:1,944円
(2014/11/9 05:57時点)
感想(0件)




 日露戦争・・・大国ロシアを相手に国家の存亡をかけて戦った戦争でした。
諸外国からも無謀と思われていましたし、日本も絶体絶命の危機に陥っていました。
背景には、国家予算の7倍もの戦費がありました。
政府の借金・・・12億9300万円・・・財政は破綻状態でした。

もはや戦争を継続できなかった日本は、辛くもロシアとの講和に持ち込むことができました。
”ポーツマス講和会議”です。
komura

日本の全権を担って交渉したのが外務大臣・小村寿太郎。
この時、小村がこだわったのが賠償金でした。
断固拒否するロシア皇帝・・・これ以上戦いを続けられない日本は、賠償金を断念するのもやむおえない状況でした。

一方国民は、実情も知らずに賠償金をとらずには!!と、不満が爆発!!

賠償金獲得こそが国益!!と、会議に臨んだ小村。
小村は秘策を練っていました。
それは、一旦会議を決裂させるというものでした。


小村の執念が引き出したロシアの妥協案とは???

1905年に行われたポーツマス講和会議・・・全権代表は小村寿太郎。

日露戦争直前から戦中の電報のほとんどは・・・各国公使や領事と小村寿太郎が交わした記録でした。
戦費を調達するのは容易なことではなかったようです。

1904年2月10日・・・
ロシアに宣戦布告し、ロシア戦争勃発!!
当時の中国の混乱に応じ、ロシアは、満州へ17万の軍隊を派兵、影響力を強めていました。
朝鮮王朝にもロシア寄りの政権を樹立させようとしていました。

この動きに、安全保障上の危機を感じた日本は、ロシアを撤退させようと宣戦布告したのです。
しかし、経済力、人口共に、ロシアは日本の3倍・・・。
政府は、1年の限定戦争と位置付けていました。
それでも、国家予算の2倍、4億5000万円を予定していました。

その不足は外債・・・その指揮を執ったのが外務大臣・小村寿太郎でした。
小村は日銀副総裁の高橋是清を世界の経済の中心ロンドンに派遣。
しかし、資金調達は困難を極めました。
開戦目前になると・・・交際価格は暴落・・・新規に公債を発行しようにも買い手がつかなくなっていました。

当時交際にかかる利率・償還期間は・・・
イギリスで2.5%、50年でしたが、日本に突き付けられたのは・・・6.0%で10年でした。
この劣悪な条件でなければ発行できない・・・!!

おまけに予想を超えて膨れ上がる戦費・・・。
最終的には国家予算のおよそ7倍の約18億円・・・。
現在に直すと400兆円です。

「私債でもいいので、早急に資金調達せよ!!」by小村寿太郎

その大きな要因は・・・開戦半年後に開通したシベリア鉄道にありました。
鉄道によって大量の兵士を送り込むことができるようになったロシア。。。
それに対抗し、日本も兵士を増強しなければならず・・・最終的には94万人を送ることになりました。
大規模な戦争へ・・・!!
近代兵器の大量導入!!
戦費を押し上げますが・・・
日本軍はロシアを鴨緑江から撤退させます。

日本軍優勢の風は、高橋是清に追い風となり、資金調達に成功!!
しかし、戦費が膨れ上がるにつけ、外債も増大し、8億円!!

また、1年以上の激戦で、日本は8万人を超える戦死者・・・もはや戦いは続けられない・・・!!

そんな状況に、陸軍参謀総長・山県有朋が桂首相・小村に意見書を出します。
「我はすでに有らん限りの兵力を使い尽くしており、敵に致命傷を与えておらず、ロシアが未だにわかに和を求めるに至っていない。」

ロシアと講和に持ち込みたかった日本・・・しかし、決定的な打撃は与えておらず、講和には持ち込めずにいました。
それから2か月、絶好の機会が・・・!!
1905年5月27日、日本海海戦。
バルチック艦隊を撃破、21隻を喪失させることに成功します。
講和へ・・・!!

日本ともロシアとも同盟を結ばない中立の国・アメリカに入ってもらおうとします。
セオドア・ルーズベルト大統領が、日本に好意的だと掴んでいた小村は、仲裁を依頼します。
会議は8月にアメリカで行われることになりました。

閣議決定されたのは・・・??
絶対的必要条件として「韓国の支配権」「ロシア軍の満州からの撤退」「遼東半島の租借権」「鉄道の一部譲渡」がありました。
比較的必要条件として、「軍備の賠償」があったのです。
あまりにも疲弊しきっていたので、早く戦争を終わらせることが最優先。。。
そして、植民地経営をして長期的にプラスになるのではないか?と、思っていたようです。

しかし、それを知らされていない日本国民は、勝利に酔っていました。
新聞も、賠償金30億円・・・と、国民を煽ります。

1905年7月8日、小村寿太郎は、全権代表としてポーツマス講和会議へ・・・!!
政府の目的と、国民の期待を胸に・・・!!

日本とロシアの講和交渉が始まりました。
小村寿太郎に対峙したのは、ロシアの全権代表セルゲイ・ウィッテ。
政府要職を歴任している強者でした。

日本の絶対条件を提示します。

①韓国支配権の容認
②日露両軍の満州からの撤退
③満州の清国への返還
④満州の門戸開放の保障
⑤東清鉄道南部支線に関わる権利の譲渡
⑥満州横断鉄道の利用を商用に限定
⑦旅順・大連租借権の譲渡

会議から7日後・・・おおよそは合意となりました。

これによって日本の戦争目的であった安全保障は確保されました。
その後の交渉では・・・

・日本への賠償金支払い
・日本への樺太割譲

となりました。

小村は・・・
賠償金の獲得が大切・・・財政の問題、植民地経営の問題からも賠償金をとっておきたかったのです。
しかし・・・賠償金と領土割譲の要求は拒否されます。

「ここに戦勝国などない。
 したがって敗戦国もないのだ。」byウィッテ。

このままでは交渉が進まない・・・!!
妥協案として・・・占領した樺太の北半分を諦める代わりに12億円の支払いを要求します。
皇帝ニコライ2世は・・・
「1寸の土地も1ルーブルの金も譲ってはならない」という厳しいものでした。

ロシア本国では・・・皇帝の力が揺らいでいました。
サンクトペテルブルクで行われた労働者の請願でもにたいする発砲事件・血の日曜日事件によって、政情不安定となっていたのです。

しかし、ロシアは強気で、戦争継続も辞さない勢いでした。

満州・ハルピンには、たくさんのロシア兵士が・・・戦闘態勢を整えていました。
おまけに、小村には批判が!!
”日本の強情と強欲が戦争を継続させようとしている”と、アメリカの新聞が書きたてたのです。

日本に好意的だったアメリカ世論が・・・ウィッテが新聞を誘導し、アメリカ世論をロシア寄りにしていたのです。
追い込まれていく小村寿太郎。。。

講和成立を優先??

満州軍総参謀長・児玉源太郎は、賠償金の要求に対し・・・
「桂の馬鹿が、償金を取る気になっている。
 朝鮮にのしをつけて、露に進上するようになるかもしれぬぞ。」
下手をすると、朝鮮半島での権益も失いかけない・・・。
児玉たち軍部は講和を望んでいました。

しかし、このまま妥協して、賠償金をもらわなければ、財政は破綻してしまう・・・!!

すでに、開戦前よりも税金は2倍に膨らんでいました。
これ以上の負担は・・・!!


決裂も辞さず??

賠償金は譲れない・・・!!
頼みになるのはルーズベルト大統領!!
小村は交渉を決裂させたと見せかけて、ニューヨークへ引き返し、大統領を説き、再度仲介に入ってもらおうと考えていました。

世論はロシア・・・ルーズベルトは引き受けてくれるのか??


ルーズベルトは、日本側にも妥協を求め始めていました。

「このまま賠償金を要求し続ければ、他の国々はロシアへの同情を傾け、ロシアに金銭の援助にまわるであろう。」

そうなれば戦争は継続され、多大な血が流れることとなる・・・!!
頼みのルーズベルトからの圧力!!

どうする??

膠着状態のポーツマス会議・・・
1905年8月26日、妥協しないウィッテに対し、小村は政府に打電します。
”談判を断絶するほか道はない!!”と、会議決裂を覚悟までして賠償金にこだわったのでした。

しかし、政府は・・・
”賠償金と領土の要求を放棄し、講和成立を目指せ。”と、戦争の終結を望みました。

8月29日交渉最終日・・・
思わぬ情報を日本政府から受け取ります。
ロシアは南樺太を割譲しそうだ・・・!!

ロシア皇帝は、賠償金の支払いは認めないものの、捕虜経費の支払いには応じる。
サハリンの南半分は日本の領土に・・・というものでした。
ロシアの敗北を認めたのは、小村の粘りに譲歩したからでした。

9月5日に調印・・・1年半にも及ぶ日露戦争は終結しました。

そこには、日本の譲れない絶対的必要条件、南樺太の割譲、そして7万人にも及ぶ捕虜引き渡しの経費の支払いが記されていました。

この捕虜経費は、486万440ポンド、2年後の1907年11月23日に日本側に支払われました。
およそ5000万円でした。
結局、賠償金の獲得は果たせなかったのです。

9月1日、新聞は一斉に講和条約の非難を。。。!!
国民は怒りを爆発させ、日比谷焼打ち事件が・・・!!
戦争を継続できないことを知らない民衆は、契約破棄、戦争継続を望んで暴徒と化します。
警察署、交番は焼き討ちにあい、負傷者1000人以上、死者17人を出す大惨事となりました。

小村は絶対条件を果たしたにもかかわらず、戦犯扱いされたのです。
賠償金を得られなかったことで、日本は財政難となります。
政府が内外に実施した借金は・・・12億9300万円・・・。

政府は毎年、一般会計の歳出の30%を国債費に充てなければならなくなっていました。
自転車操業で・・・多重債務者となってしまいました。
講和会議で手に入れた満州の鉄道・・・。
政府はアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンの資本を導入し共同経営を画策していましたが、小村はこれを反対し、南満州鉄道の経営を独占を推し進めます。
しかし、大陸政策は軌道に乗ることはありませんでした。

30年後の資料によると・・・あれだけの損失を出しておいて、経済的には全くお話にならない損をしている、国家にもっと利益をもたらすべきだと苦言を呈しています。

小村が心血を注いだ講和条約・・・その後の大陸経営には、禍根を残す結果となりました。

陸奥宗光・・・第2次伊藤博文内閣に於いて外務大臣を務め、日英通商航海条約を結び、条約改正に成功し、日清戦争と三国干渉の処理に当たった男。。。
恩氏である陸奥宗光を越えたい!!
という気持ちが、それが恩返しであると考えていたのかもしれません。

失敗した??
しかし、小村は一等国としての確固たる日本の地位をきっちりと手に入れました。

賠償金なしの講和条約が日本に与えた影響は??
一等国としてのレールを敷いた小村。

外交の本質、多面性、複雑性、現実的な妥協点・・・
私たちはその外交の複雑さを理解しているのでしょうか??
もっと理解する必要が、安全に繋がるのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。


にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

韓国併合 小村寿太郎の外交信念 (文庫ぎんが堂) (文庫) / 木村勝美/著

価格:864円
(2014/11/9 05:58時点)
感想(0件)

写真日露戦争 [ 小沢健志 ]

価格:1,404円
(2014/11/9 05:59時点)
感想(1件)

【新品】【書籍・コミック 人文・思想・社会】人間東郷平八郎と乃木希典

価格:750円
(2014/1/30 11:34時点)
感想(0件)


1905年、明治38年5月27日・・・
対馬沖で・・・日本連合艦隊は圧倒的なロシアのバルチック艦隊を撃破!!
日露戦争の勝敗を喫した日本海海戦。
小国日本が大国ロシアを破ったニュースは、世界をびっくりさせます。
連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、TIME紙の表紙を飾った最初の日本人となりました。
世界が認めた英雄の誕生でした。

heihati
日本海海戦の勝利は、東郷の信念にあると思われていました。
が・・・やはり悩んでいたようです。
そこには、国の存亡がかかっていました。

大勝利の裏で隠された真実とは・・・???

東郷平八郎は無口で・・・
母親でさえもよく分からない・・・とらえどころのない子供でした。

帝政ロシア時代の首都・サンクトペテルブルク・・・
無敵と恐れられたバルチック艦隊の一隻が・・・残っていました。

20世紀初め、ロシア帝国は強大な軍事力を以て満州を占領・・・
中国の旅順を拠点に南下政策を進めていました。
それを阻もうとする日本・・・
明治37年日露戦争勃発。

日本軍は、半年に及ぶ攻防で・・・莫大な犠牲を払って旅順を攻略します。
さらに・・・満州を北にあがる日本軍。。。しかし、兵力は消耗し、限界に達していました。

その頃・・・バルト海を出発したバルチック艦隊は、ウラジオストクを目指していました。
戦艦8隻を擁するバルチック艦隊がウラジオストクに配備されれば、日本の制海権が脅かされ・・・
大陸への補給路が絶たれることになり、陸軍は孤立してしまう・・・!!
おまけにロシアは開通したシベリア鉄道で、兵力を増強します。
戦争が長引けば、日本の負けは見えていました。
バルチック艦隊をウラジオストクに入れてはならない!!
東郷が背負ったのは・・・がけっぷちの戦いだったのです。

海軍との連絡がスムースにとれる場所・・・朝鮮半島南岸の鎮海湾でした。
ここは50隻を隠せるという内海は・・・韓国では今でも軍港となっています。
鎮海湾から対馬までおよそ50㎞。。。
対馬海峡でバルチック艦隊を迎撃する!!と決めて、作戦を練るのでした。

島を標的に・・・島の形が変わるまで大砲を撃ちこみます。
当時の倉庫や兵舎の跡も残されていました。

日露戦争には、最新式の通信技術が使われていました。
海底ケーブルが活躍しています。
日本海海戦に先立ち・・・本土から対馬に、対馬から鎮海湾に・・・ケーブルが引かれました。

戦艦三笠の停泊する入江の奥には電信局が置かれ、海底ケーブルが陸揚げされました。
東郷の元へ・・・!!
情報が次々と上がるようになっていたのです。

情報網を張り巡らし、練習を積んでいきます。
東郷の選んだ作戦参謀は・・・秋山真之。
この開戦の為に、手の込んだ作戦を立案しています。

その作戦の使命は・・・???

七段構えの2日間にわたる作戦でした。
水雷艇による奇襲に始まり、日中は戦艦戦、夜は駆逐艦!!
これを繰り返す七段構えの作戦です。
最後には・・・ウラジオストク近くの水雷艇に追い込む!!というものでした。

ウラジオストク入港は・・・ロシアの反撃を生む!!
この時、東郷平八郎の使命は、バルチック艦隊の殲滅でした。
日本は戦艦の数も少なく・・・1回の戦いで全てが終わるように・・・!!
そんな作戦、撃滅だったのです。

万全の態勢で待つ東郷・・・
しかし、敵の艦隊が消えてしまいました。
5月14日、インドシナ半島を出航して・・・消えてしまったのです。
バルチック艦隊は、戦艦18ノット、駆逐艦26ノット、運送船10ノットでした。

参謀・秋山は、10ノットと計算し、七日余りで対馬にやってくると計算しました。
5月22日には来るはずでした。。。23日になっても来ない。。。
東郷と参謀たちとの焦りと迷走が始まったのです。

「坂の上の雲」では、鎮海湾から動く気はなかった・・・ということになっていますが。。。
しかし・・・悩みぬいていた資料が出て来ました。
「極秘 明治三十七年海戦史」・・・日露戦争の膨大な記録です。
明治天皇献上されたひとつのみが残っています。

そこには・・・
鎮海湾以外の場所として・・・隠岐・能登・津軽海峡・・・本拠地候補として挙げられていました。
何処をとるか・・・!!国を挙げての大問題でした。

5月23日・・・三笠に電報が打電されました。
4日前・・・フィリピン沖で、ノルウェーの商船がバルチック艦隊に遭遇・・・対馬海峡に向かうと言っていたという。。。

①秋山はこれを敵の策略と考え・・・バルチック艦隊は太平洋を北上している!!
即刻北へ向かうべきだ!!!
これは、移動策。幕僚のほとんどがこれに賛成しました。
津軽海峡を通ることを見越して・・・連繋機雷が用意されます。
当時極秘の新兵器でした。
最大の難点は、津軽海峡とウラジオストクの近さでした。
ダメージを与えても・・・殲滅できないかもしれない!!

5月24日
東郷の命令は・・・北への移動と配置・・・密封命令を下しました。
この方針にびっくりし、異を唱えたのは・・・参謀長・藤井較一と司令官・島村速雄。

5月25日
②緊急に三笠に召集・・・!!
ふたりはこのまま対馬にとどまるべきだ・・・待機策を薦めます。
しかし、待機策では・・・津軽海峡に現れたバルチック艦隊に追いつくことは出来ない・・・!!!
待機策は理想的だが・・・敵に遭えるかどうかは賭けでした。

③もう一人の参謀・佐藤鉄太郎の意見は・・・隠岐・能登の両にらみ策。。。
敵の位置が不明な場合は、どこから来られても大丈夫な・・・柔軟な作戦でした。
しかし・・・日本海の全体を補足するので、散らばられると戦いにくい・・・。

決めるのは東郷平八郎・・・!!

津軽か・対馬か・中間か・・・
日本の将来を左右する決断に迫られたのでした。

5月25日午後・・・東郷の決断が行われました。
「明日正午まで当方面に敵影を見ざれば、夕刻より北海方面に移動す」
北へ向かう密封命令は、翌日まで延ばされたのでした。

現時点では待機策、待った後は移動策をとったのでした。
この、たった1日が、運命の1日となるのでした。

26日夜明け・・・
バルチック艦隊の燃料船が、上海に入港したという電報が・・・!!
敵はまだ東シナ海にいる!!
ここで運搬船を手放すということは、最短距離の対馬海峡に違いない!!
密封命令は廃棄されました。

27日午前4時45分。
五島列島にいた哨戒船から、待ちに待った一文が・・・!!

”敵艦見ゆ”・・・北に向かう石炭をすべて海に捨て・・・
身軽となって鎮海湾を出ます!!

三笠に乗る東郷は・・・敵艦隊をついに捕えました。
日本海海戦の始まりです。
直前まで訓練を積んでいた連合艦隊の砲弾は・・・敵艦に次々と命中・・・
通信システムを駆使し、ロシアを圧倒しました。

バルチック艦隊戦艦8隻のうち、6隻を撃沈!!2隻を捕獲し、1隻もウラジオストクに向かわせんでした。
東郷によって殲滅がなされたのです。
我慢の東郷の勝利でした。

既に国力の限界を超えていた日本は、アメリカに講和の斡旋を願います。
ロシアはこれに応じ、日露戦争は幕を閉じたのでした。

日本の命運を決めたのは・・・東郷のたった1日だったのです。

作戦に置いて・・・すべてに取り掛かれるようにしていたと思われます。
しかし、みんなを納得させるために1日待った・・・これが東郷の勝因だったのです。

東郷はこれを”奇跡”と語っています。

その後の日本にもたらしたものは・・・
メディアは勝利を神話に引き上げていきます。
英雄談に、民衆は熱狂していきます。

勝った戦いは反省しない。。。
脈々と日本海軍の伝統として残っていきます。

第1次世界大戦後のワシントン軍縮会議で・・・
日本は戦艦西欧の6割という条約に甘んじます。
これに不満を募らせた海軍は、大鑑巨砲主義を掲げ、やがて機運を高めていきます。
昭和10年・・・日露戦争30周年に当たり、多くの戦記本が出版され、神話に拍車がかかっていきます。

昭和11年以降・・・急速に国内も軍部も臨戦態勢に入っていきます。
昭和12年世界最大の戦艦大和寄港。
日露戦争の勝利をきっかけに、大国と肩を並べた日本は、リアリズムを失い・・・太平洋戦争への道を突き進んでいくのでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

勝つ司令部負ける司令部 東郷平八郎と山本五十六-【電子書籍】

価格:476円
(2014/1/30 11:34時点)
感想(0件)


【送料無料】 沈黙の提督 海将東郷平八郎伝 / 星亮一 【単行本】

価格:2,100円
(2014/1/30 11:32時点)
感想(0件)

このページのトップヘ