さらに、東郷神社からおよそ3キロ・・・乃木神社には、陸軍第三軍司令官・乃木希典が祀られています。
この二人が、神とあがめられる活躍をしたのが、今から116年前の1904年2月10日に始まった日露戦争でした。
明治という新しい時代が始まって40年足らず・・・東アジアの新興国だった日本は、その無謀ともいえる戦争でロシアに勝利することになりました。
その国力は・・・
歳入 日本・・・・・約2億5000万円
ロシア・・・約20億円
兵力 日本陸軍の常備兵・・・・・約20万人
ロシア陸軍の常備兵・・・約120万人
圧倒的軍事力の差でした。
それにもかかわらず、日本はどうして勝てたのでしょうか?
そこには3人の男がいました。
1800年代末~1900年代初頭
日露戦争が始まる前、ニコライ2世治めるロシア帝国が、中国・清から遼東半島にある大連・旅順を租借、南下政策を進めていました。
北極圏に近いロシアは、冬になると領土に面する港がほとんど凍ってしまうために、不凍港を確保したかったのです。
そこで狙われたのが日本海・・・制海権の掌握を狙います。
ロシアは、太平洋艦隊の主力戦艦をウラジオストク港以南の旅順に移し、増強を図ります。
さらに、ロシア陸軍も満州に次々と基地を築き、遂には朝鮮半島北部にも進出!!
日本列島の背後にも迫ってきていました。
この危機的状況を打破するため、日本は1904年2月10日、ロシアに宣戦布告します。
出来るだけ、短期に勝って講和に持ち込みたい・・・!!
綱渡りのような戦いでした。
短期決戦を目指す日本の連合艦隊が、旅順港に奇襲攻撃・・・!!
陸軍部隊が朝鮮半島の仁川に上陸します。
戦いの火蓋が切られました。
日本が戦いを挑んだ相手は、超大国ロシア・・・それはまさに、ギリギリの戦いでもありました。
どうやって短期決戦に勝利し、講和に持ち込むのか・・・?
①旅順攻略・・・その作戦のTOPは、陸軍第三軍司令官・乃木希典!!
当時54歳。
②世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊と戦った日本海海戦・・・それを指揮したのは、乃木の1歳年上・・・連合艦隊司令長官・東郷平八郎でした。
2人の司令官がどのように決断し、どのような戦いを繰り広げたのでしょうか?
①乃木希典の決断・・・203高地攻略
日露戦争で、最も激戦となった旅順の攻防戦・・・
日本軍15万のうち、死傷者数8万人・・・
未曽有の犠牲を余儀なくされました。
どうしてこれほどの犠牲を出してまで、旅順を攻略しなければならなかったのでしょうか?
中国・遼東半島の先端に位置する港町・旅順は、港の入り口が狭く港内が広いのが特徴で、軍港として最適でした。
そのため、ロシアは南下政策の新たな拠点として、ここに太平洋艦隊を配備、また旅順港を守るために市街の周辺100カ所以上に砲台を設置、要塞化していました。
そんな旅順を、日本軍は当初、海軍の連合艦隊による海からの攻撃で落とそうとしますが、激しい砲撃にあい、撤退を余儀なくされます。
そこで、海軍は自分たちの戦艦をあえて港の入り口に沈め、敵艦を港に封じ込める作戦に出ますが、これも失敗・・・
開戦から3か月たっても、手も足も出ない状態となっていました。
そんな中、追い打ちをかけるような情報が日本軍にもたらされます。
ロシアがバルト海に配備していた世界最強の艦隊・バルチック艦隊を日本海に向かわせる準備を始めたというものでした。
バルチック艦隊が来る前に旅順を落とさなければ・・・!!
タイムリミットが迫っていました。
もし、連合艦隊が敗北すれば、ロシアに日本海の制海権を奪われ、大陸への兵士の移送や物資の運搬ができなくなり、日本の敗戦は明らかでした。
そうなる前に、旅順の太平洋艦隊を撃滅しなければ、日本海の制海権を奪われ敗戦濃厚になるのです。
そこで日本軍を統括する最高機関・大本営は、海からの攻撃を諦め、陸から旅順要塞を攻める作戦に切り替えます。
その指揮を任せたのが、日本陸軍第三軍司令・乃木希典です。
10年前の日清戦争の際、清国の基地だった旅順をわずか1日で落とした乃木の実績が買われたのです。
「乃木なら、また旅順を落としてくれる・・・!!」
大本営や、国民の期待が寄せられました。
乃木は、その期待に応えるべく、作戦を立てます。
それは、旅順港に近いロシア軍の陣地を集中攻撃し、守りを崩し、歩兵を突撃させ要塞を突破、港を攻めるというものでした。
「これで一気に旅順を落とす・・・!!」
1904年8月19日、日本軍は攻撃を開始、5万1000の兵で総攻撃をかけました。
それが、惨劇の始まりになるとは知らずに・・・。
どれだけ攻撃しても、旅順要塞はびくともしませんでした・・・。
ロシア軍は、守りの要である旅順要塞を徹底的に増強・・・乃木が10年前に落としたものとは全く違っていました。
防護壁は厚さ1.3mのコンクリート、その壁の裏には、ロシア兵が攻撃をかわしながら自由に動ける通路が作られていました。
更には、防護壁の周囲には幅7mの堀が張り巡らされ、敵が容易に近づけないようになっていたのです。
この要塞の情報は、乃木には知らされていませんでした。
突撃した兵が敵の攻撃を潜り抜けても、堀の中へ落ち、先に進めず作戦失敗。
乃木はこの戦闘で、総兵力5万人のおよそ1/3にあたる、5000人の戦死者と1万人の負傷者を出してしまうのです。
この旅順の戦いはすさまじいものでした。
多数の死傷者が出ていきます。
乃木は、無能な司令官として国民から大きな非難を受けます。
要塞の情報が乃木に伝えられなかったことが失敗の原因でしたが、国民はそんなこととは知らず無能な司令官という汚名を着せたのです。
政府には、辞職や切腹を求める投書も殺到し、自宅には投石が相次ぎました。
窮地に立たされた乃木をさらに追いつめる最悪の知らせが届きます。
1904年10月15日、バルチック艦隊、バルト海のリバウ港を出港!!
ロシアから日本海に到着するまでは早ければ3か月・・・乃木に旅順攻略のタイムリミットが課せられたのです。
そんな中、日本軍を統括する大本営は、作戦の変更を要請・・・
旅順要塞を攻めるのではなく、その背後にある通称203高地と呼ばれる丘を占領し、そこから港を停泊する太平洋艦隊を砲撃する作戦に変えろというのです。
しかし・・・乃木はそれを受け入れませんでした。
乃木はどうして受け入れなかったのでしょうか?
203高地の攻略は、乃木の第三軍内での検討され、既に実行されていました。
その際、203高地が兵士たちの身を隠す場所が全くない斜面だったため、ロシア軍の反撃をまともに食らい、2500人もの死傷者を出していたのです。
また、ロシア軍は203高地を重要と判断し、砲台を増強していました。
そのため乃木は、
「次に203高地を攻めたら、もっと多くの者が犠牲になる・・・!!」
乃木は、多くの兵士の犠牲を出すことが予想されたので、大本営からの203高地攻略作戦の要請を受け入れなかったのです。
その代わりに乃木がとった作戦は・・・
兵士たちが身を隠せる塹壕を掘って、旅順要塞の近くまで進み、そこから突撃するというものでした。
そして作戦を決行・・・!!
ところが、要塞からの反撃に耐えられずにまたも作戦中止に・・・。
このままでは敗戦必至・・・!!
しかし、203高地攻略に固執する大本営は、天皇を動かし、天皇の勅語を得ることに成功します。
「いまや陸海両軍の状況は、旅順攻略の期を緩ふするを許さざるものあり
此時にあたり 第三軍総攻撃の拳あるを聞き 成功を望むの情 甚だ切なり」
「陛下が期待されている・・・失敗は許されない・・・!!」
乃木に、旅順攻略の重圧がかかります。
さらに・・・日本海を目指すバルチック艦隊が、11月上旬にアフリカ沖まで到達、早ければ2か月後に日本海に到着する・・・!!
乃木に旅順攻略のタイムリミットが迫っていました。
しかし、それでも乃木は、要塞の間近にまで塹壕を掘り進める攻略作戦を続行!!
あくまでも兵士たちの犠牲を最小限に抑えたかったのです。
今度は塹壕を要塞の防護壁の真下まで到達させ、防護壁を爆破、突入を試みますが・・・頑丈な壁を壊すことができず、ロシア軍の反撃を浴びて突入部隊は全滅してしまいました。
「間近で爆破しても、要塞の壁は崩せぬのか・・・!!」
乃木に決断が迫られんす。
塹壕を掘り進む攻略は、着実とはいえ長期戦になりバルチック艦隊が日本海に到着までに落とせるかわかりません。
一方203高地の攻略は、敵の守りが旅順要塞よりも薄いが、身を隠す場所が全くないため多くの犠牲を出すのは明らか・・・
そして、11月27日午前10時・・・
「第三軍はこれより203高地を攻略する・・・!!」
日本が勝つために、乃木は苦渋の決断をするのでした。
203高地に配備されたロシア軍の砲台に対し、2300発もの砲弾を一斉に撃ち込みます。
そしてロシア軍がひるんだうちに兵士たちは203高地を一気に駆け上っていったのです。
戦闘は熾烈を極め、辺りは兵士たちの累々たる屍に覆われていきました。
その時の様子をある兵士はこう語っています。
「ああ惨劇 虐殺以上の惨劇
数十メートルの地面は瞬時にして
一面我が兵の死体を持って蔽われ
尺寸の地をも余さざるに至った」
日本軍の絶えまない攻撃は9日間に及び、12月5日、ついに203高地攻略!!
日本軍はすぐさま旅順港の太平洋艦隊を攻撃します。
次々と艦船を沈め、バルチック艦隊が日本海に到着する前に、太平洋艦隊を壊滅させたのです。
この203高地の戦いでの死傷者数は・・・ロシア軍4600人に対し、日本軍は1万7000人。
兵士の命と引き換えに得た勝利でした。
そのため乃木は、
「皆すまぬ・・・この責任は死んでとる・・・」
日露戦争が終わって、明治天皇のもとに参内した乃木は、切腹して罪を謝りたいといっています。
しかし、明治天皇は「死ぬならば私が死んでからにしろ」と止めたといいます。
その後、明治天皇が崩御された後に、1912年9月13日、乃木は妻と共に殉死しています。
②東郷平八郎の決断・・・日本海海戦
日本海軍連合艦隊の指揮を任された東郷平八郎は、日露戦争での海での戦いについてこう考えていました。
「ロシアの太平洋艦隊を、運よく叩くことができても、ヨーロッパに展開するバルチック艦隊が参戦すれば、日本に勝ち目なし
ただし、唯一の作戦を除いて・・・!!」
東郷の懸念通り、1904年10月15日、バルチック艦隊がバルト海のリバウ港を出港。
一方、日本軍は乃木希典率いる陸軍第三軍の奮戦によって、旅順港にいたロシアの太平洋艦隊を壊滅させました。
これで、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊と太平洋艦隊に挟み撃ちにされることは回避されます。
それでも、当時世界最強を誇ったバルチック艦隊との一騎打ちは大苦戦が予想されました。
そして遂に、翌年の1905年5月・・・バルチック艦隊が、ベトナム沖までやってきたのです。
世界最強の艦隊が、まもなく日本海に・・・
東郷は、バルチック艦隊に勝てる唯一の作戦に備えます。
その作戦とは”丁字戦法”・・・トウゴウターンです。
丁字戦法とは、正面からやってくる敵艦隊に向かって攻撃することなく突進
攻撃の射程に入ったところで、船首の方向を一気に変える大回頭を行い、敵の戦闘に対し、主砲と側面の副砲から集中して砲撃を加え、1艦づつ順次に撃滅するという戦法です。
船の向き合う形が、漢字の”丁”の字を描くため、こう呼ばれました。
これは、「坂の上の雲」の主人公秋山真之が考案したといわれています。
秋山の頭脳と、東郷の決断力・・・これがあっての戦法でした。
しかし、この戦法には大きな問題点がありました。
大きく大回頭している間、日本軍は敵から攻撃されやすい・・・きわめて危険な方法で、一か八かの戦法でした。
しかも、敵から離れていると逃げられるため、危険を冒してでもギリギリまで敵船に近づく必要がありました。
そしてこの戦法で最大の問題だったのが、バルチック艦隊がどの航路でやってくるのか?ということでした。
丁字戦法は、艦隊同士が真正面から向き合わなくては使うことができないからです。
「こちらの待ち伏せを敵に外されたら、その時点で我々は負けだ」
旅順が陥落しているため、バルチック艦隊が向かうのはウラジオストク・・・!!
そこに向かうルートは対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3つ!!
東郷は最初の決断を下します。
「我が艦隊は、対馬海峡で待つ!!」
どうして東郷は対馬海峡を選んだのでしょうか?
東郷は相当迷い、最後は軍人の感だったようです。
東郷は、バルチック艦隊委は長旅で疲れているので、来るならば最短距離でウラジオストクに入ってくるだろうと考えました。
東郷の決断により、連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾でバルチック艦隊を持ち撫せることに・・・
しかし、待てど暮らせど、バルチック艦隊はやってきません・・・。
対馬海峡で待つという東郷の決断は間違っていたのでしょうか??
この時、司令部からはバルチック艦隊は津軽海峡を通過するのでは・・・??という意見が強かったのです。
津軽海峡に異動するのか??このまま対馬海峡で待つのか??
東郷の下した2つ目の決断は・・・??
「もう1日対馬海峡で待つ!!」
すると・・・1905年5月27日4時45分!!
偵察に出ていた信濃丸が長崎の五島列島沖で濃霧の中を進むバルチック艦隊を発見!!
信濃丸は、すぐさま連合艦隊に打電します。
「敵艦隊 対馬東水道ニ向カウ」
東郷の決断は、間違っていませんでした。
この時、連合艦隊は大本営に向けてこう打電しています。
「敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊はただちに出動
これを撃滅せんとす
本日天気晴朗なれども波高し」
連合艦隊が鎮海湾から対馬海峡へ向かうと・・・
13時39分!!
そこに姿を現したバルチック艦隊を確認!!
遂に決戦の時!!
先頭を行く旗艦「三笠」に乗艦した東郷は、四色のZ旗を掲げました。
その旗に込められた意味は・・・??
「皇国ノ興廃 此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」
連合艦隊は、攻撃することなくバルチック艦隊にひたすら近づいていき、8000mを切った時、14時05分!!
「左150度 回頭!!」
東郷の命により、連合艦隊が大回頭を開始、これを見たバルチック艦隊はここぞとばかりに猛攻撃を開始します。
東郷が乗った三笠は、敵弾を一手に浴びながら、猛攻に耐えました。
14時10分、連合艦隊は回頭を終えるとバルチック艦隊の先頭を進むスワロフに、一斉に砲撃を開始。
連合艦隊の猛攻により、スワロフに乗艦していたバルチック艦隊の司令官が負傷!!
さらに、散り散りとなったバルチック艦隊を次々と撃沈していきました。
5月28日、激戦は2日に及び、バルチック艦隊に壊滅的な被害を与えた日本の連合艦隊が世界最強の艦隊に勝利したのです。
どうしてリスクの高い丁字戦法が成功したのでしょうか?
そこには、連合艦隊の徹底的な作戦方針がありました。
基本的には複数の艦船で敵艦一隻を長時間攻撃を浴びせる方針を・・・隊列を崩さないで攻撃するという方針をとりました。
バルチック艦隊は遠くからきているので、小さな船は連れてこれません。
大きな船ばかりでした。
日本は中小の艦船で、小回りが利いたのです。
長期間の航海で、ロシア側はフジツボ、カキなどの貝が船底について抵抗になり、速力が上がらなかったことが原因です。
そのため、連合艦隊はバルチック艦隊の動きよりも早く、丁字の体勢をとることができました。
連合艦隊の徹底された作戦と速力が、バルチック艦隊の攻撃力を上回ったことが、作戦成功の大きな要因でした。
③小村寿太郎の決断・・・日露講和条約
1904年2月10日、日露戦争開戦。
旅順攻略や、日本海海戦など次々と日本が大国ロシアに勝利し、優位に進めていました。
しかし、日本の実情は・・・
日露戦争開始から1年半の日本の戦費は約15億2000万円・・・日清戦争の7倍、国家予算の5年分でした。
また動員兵力は、1年半で、動員兵力約110万人、戦死者は8万8000人に及んでいました。
日本がこれ以上、戦争を続けることは財力的にも、兵力的にも限界でした。
それに対し、国力に勝るロシア帝国は、本国に精鋭部隊を温存していました。
そのため、戦争が長引けばロシアが優位になるのは明らか・・・
日本は戦況が優位なうちに、出来るだけ早い講和を望んでいました。
そんな切羽詰まった講和交渉に臨んだのが外務大臣・小村寿太郎でした。
小村は、ロシアとの仲介を第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに依頼します。
というのも、日本は、日露戦争の開戦直後から、元司法大臣の金子堅太郎をアメリカに派遣し、ルーズベルトに接触していたからです。
金子はルーズベルト大統領とハーバード大学で学友でした。
最初から講和を早期に持ち込もうという準備をしていたのです。
この準備が功を奏しました。
日本海海戦での日本の勝利からわずか13日後の6月9日・・・
ルーズベルトは、日本とロシアに対して講和会議をアメリカで開くことを提案します。
もちろん、日本はすぐに受諾。
ロシア皇帝ニコライ2世は、この戦争に負けたと思っていなかったので、講和に反対します。
しかし、ロシア国内で社会主義が台頭!!
ロシア国内での情勢の悪化で戦争どころではなく、止む無く講和会議への参加を受け入れました。
日本側のロシアへの講和条件は・・・
・朝鮮半島における日本の優越権を認める
・満州からロシアが撤退する
・遼東半島の租借権と鉄道の権利を日本に譲り渡す
この時、小村が政府から任された条件です。
さらに・・・
・樺太の割譲
・賠償金15億円の支払い
要求も命じられていました。
小村は、こんな講和条件をロシアが丸々飲むわけがない・・・と考えていました。
国民は、勝ったんだから・・・と、期待していたのです。
小村は、こうした国や国民の期待には応えられず、交渉の非難を浴びることを覚悟してアメリカに渡りました。
そして、8月9日、アメリカの東海岸ポーツマスで講和会議が始まります。
小村の交渉相手となったのは、ロシア全権大使セルゲイ・ウィッテです。
小村の孤独な戦いが始まりました。
「満州は本来、清国の領土
すみやかな撤退は、当然と考える」by小村
「そんなものは認められん!
ロシアを何だと思っておるのか!!」byウィッテ
「賠償金については、これは日本が戦いのために使った実費に過ぎない」by小村
「ロシアは、日本語時に1ルーブルも支払うつもりはない!!
もし、日本軍が我が国を占領できたなら、払ってもいいがなぁ」byウィッテ
何ともふてぶてしい態度で交渉に臨むウィッテ・・・
実は、それには理由がありました。
戦争に負けたと思っていないウィッテは、予めどんなことがあってもロシアが講和を望むような態度を見せない、自分はロシアの全権大使であると大きく構えて相手を威圧することという交渉方針を立てていたのです。
全てはウィッテの演技・・・高圧的な態度をとることで、日本を怯ませ交渉をロシアペースで進めようともくろんでいたのです。
しかし、ロシアに駐在経験のある小村はそれを見抜き、ウィッテの術中にはまることなく
”なぜ日本は満州からの撤退を求めるのか、なぜ遼東半島の租借権を譲り渡せといっているのか”と、理詰めで交渉を進めたのです。
それによって、ウィッテは日本の求めた主な条件に付いては認める姿勢を見せます。
しかし、樺太の割譲と賠償金の支払いは、断固拒否、それどころか
「日本は賠償金欲しさに戦争を続けようとしている」byウィッテ
と、国際世論に訴えたため、日本は非難を浴びるようになったのです。
このままでは日本が悪者になって、交渉が決裂する可能性が・・・!!
小村は悩みます。
「交渉が決裂すれば、戦争が続く・・・
そうなれば日本は負ける・・・!!」by小村
そんな中、アメリカの水面下の交渉により、ロシア皇帝ニコライ2世が樺太の南半分の割譲を承認・・・
という情報が入ってきました。
それを受け、小村は決断しました。
1905年8月29日、10回目の講和本会議・・・
小村はウィッテに対し、こう切り出します。
「日本政府が樺太の南半分の割譲を条件に、ロシアの賠償金支払いの要求を撤回する」by小村
小村は、講和交渉の決裂を避けるべく、賠償金を諦める決断をします。
するとウィッテは、皇帝が認めた条件で納まったことで、日本の講和条件をおおむね受け入れました。
日本は資金も兵力もない状態で、本来ならば戦争に勝ったといえるかどうかも微妙な状態でした。
この条件を手に入れたというだけで、小村のすごさが分かります。
そして9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)締結。
1年7か月に及んだ日露戦争は、日本の勝利で終結したのです。
しかし、日露講和条約が締結された同じ日に、東京日比谷公園で賠償金のない日露講和条約に反対する人々の集会が開かました。
それは、大臣の官邸や交番、新聞社が襲撃されるなどの大暴動に発展します。
東京は数日間にわたって無法地帯と陥ったのです。
帰国した全権大使・小村寿太郎も、罵倒を持って国民に迎えられたのです。
賠償金なしでも講和できたことのありがたさを知らずに・・・
日本が勝利した日露戦争・・・アジアの小さな国でもヨーロッパの大国に勝てる・・・
この大きな自信、大きな過信が、やがて大局を見誤ることにつながってしまいます。
この後、日本は新たな大きな戦争に向かって、突き進んでいくことになるのです。
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