2014年4月・・・セウォル号沈没・・・韓国史上最悪の海難事故。
304人が犠牲となり、その多くが修学旅行中の高校生でした。
事故の原因の一つが、貨物の過積載とされます。
船が旋回した時、容量オーバーの貨物が崩れ、バランスを失った・・・
しかし、それが大惨事につながったのは、その後の救助の失敗によるものです。
船長や船員は、乗客に避難命令を出さず、咲に脱出!!
多くの乗客が取り残されていましたが、海洋警察は船内に入っての救助は行いませんでした。
しかし、沈没するまでの101分、悲劇に抗い、勇気ある行動を起こした人々がいました。
乗っていた乗客433人のうち、およそ7割が命を落とし、その大半が修学旅行中の高校生でした。
韓国でも屈指の大きさを誇る旅客船・・・しかし、あの日は出発から12時間後、大きな船体が急激に左に傾きました。
その時間が運命の分岐点・・・2014年4月16日、午前8時49分!!
突然、30度ほど傾いた船内は、パニック状態に陥りました。
①最初の通報者・・・チェ・ドクハ
逼迫する現場で、沈着冷静に行動した少年でした。
高校2年生だったドクハ・・・初めての修学旅行を楽しみにしていました。
修学旅行から帰らぬ人となったドクハ。
しかし、彼の勇気がなければ、悲劇はさらに大きかったかもしれません。
2014年4月15日、セウォル号はインチョン港から出航しました。
観光地・済州島へのナイトクルーズ・・・翌朝8時の到着予定でした。
この日、霧の為、他の便はすべて欠航・・・しかし、セウォル号だけが出航を検討していました。
貨物の運送が主な収入源・・・なんとか出発できないか、ギリギリまで判断を保留していました。
待つこと2時間・・・ドクハから両親に電話が入りました。
「お母さん、霧で修学旅行に行けないかもと言っていたけど出発できるんだって!!」
「良かったね、気を付けてね」
それが最後の電話でした。
予定より2時間半遅れた夜9時出航。
船上ではドクハが楽しみにしていた花火パーティーも行われ笑い声が溢れていました。
翌朝・・・セウォル号は済州島まであと3時間のところに来ていました。
少し曇っていはいたものの、海は穏やかでした。
朝食を済ませ、部屋で友達と会話をしていた時・・・お菓子の缶が左右に行ったり来たり・・・船が急に傾きました。
そして、午前8時49分!!
突然船が30度ほど傾きました。
進路を変えようとしたところ、船が横転・・・傾いたまま立て直すことができなくなりました。
船が傾いて3分後、
「現在の位置で動かず、手すりをもって待機してください」by船内放送
以後、10回以上にわたってその場で待機の船内放送が・・・!!
結果的に乗客が逃げ遅れる最大の原因となります。
この放送で高校生たちは安心しました。
しかし、この時、船員たちはパニックを起こし、外部に緊急連絡すらも行っていませんでした。
そんな中、単独で緊急通報センター119に通報したのがドクハでした。
事故発生からわずか3分・・・8時52分!!
それはセウォル号が発した初めてのSOSでした。
「119です」
「助けてください!」
「もしもし」
「もしもし
ここ船の中なんですけど、沈没しています」
「沈没ですか」
「はい 済州島に向かっていたのに、船が傾いて・・・」
「ちょっと待ってください
今乗っている船ですか?
それとも近くの他の船が沈没するってことですか?」
「乗っている船です」
パニックの船内で、冷静に行動したドクハ・・・小さいころから落ち着いた少年でした。
本来ならば、支持をするはずの船員たちは、この時、何をしていたのでしょうか?
船員たちは、船が傾いて動くことができなかったと言っています。
しかし、その後、携帯を取りに部屋に帰ったり、三階に下りたりしているので言い訳にしか聞こえません。
遅れて操舵室に入ってきた1等航海士が、ようやく8時55分に済州島管制センターに連絡しました。
ドクハに遅れること3分・・・航海士も無線で連絡・・・しかし、つないだ先は、現場から遠い済州島でした。
しかも、救助を直接担当する海洋警察ではなく管制センターに連絡していました。
一方、日本の消防に当たる119へのドクハの通報は、現場近くのモッポの海洋警察に繋がりました。
しかし、担当者はドクハには答えられない質問を繰り返しました。
海洋警察「モッポ海洋警察です
位置を教えてください」
ドクハ 「良く聞こえません」
海洋警察「位置!
緯度と経度を教えてください」
119 「この人は乗客なんです」
ドクハ 「携帯?」
海洋警察「もしもし、モッポ海洋警察です
いま沈没中ということですが、船の位置はどこですか?」
ドクハ 「位置はよくわかりません
いまここは・・・」
海洋警察「位置がわからない?
GPSに出てないですか?
緯度と経度・・・」
ドクハ 「ここから島が見えているんですけど・・・」
海洋警察「え?」
ドクハ 「よくわかりません」
海洋警察は、相手を船員だと思い込み、専門的な質問を続けました。
それでもドクハは、出来るだけの情報を伝えようとしました。
海洋警察「どこから出航しましたか?」
ドクハ 「きのう・・・」
海洋警察「きのう出航しました?」
ドクハ 「きのう8時ぐらいに出航したと思います」
海洋警察「8時ですね、どこから?」
ドクハ 「インチョン港からです」
海洋警察「インチョン港ですか?」
ドクハ 「はい」
海洋警察「船の名前は何ですか?」
ドクハ 「セウォル号です セウォル号!」
海洋警察「セウォル?」
ドクハ 「はい」
海洋警察「セウォル号?商船ですか?どういう船ですか?」
ドクハ 「え??」
海洋警察「船の種類は?旅客船ですか?漁船ですか?」
ドクハ 「旅客船だと思います」
海洋警察「旅客船ですね?」
ドクハ 「はい」
音声記録は4分17秒・・・ここで途切れます。
証言によると、この後ドクハは高校生が350人ほど乗船していることを伝えています。
さらに、船員がいたら変わってくださいと言われましたが、探したけどこのあたりに這いませんと言って電話が終わっています。
ドクハの通報を受け、海洋警察が出動!!
事故発生から40分後には現場に到着しました。
一刻を争う事態・・・船員より9分も早かったドクハの通報は、どれほど貴重なものだったでしょう。
しかし、1週間後、ドクハは遺体で両親のもとへ帰ってきました。
高校生ドクハのもたらした事故現場からの貴重なSOS・・・しかし、救助は一向に進まないまま・・・
船はさらに傾き、事態は緊迫していきます。
その中、独自の救助を行った男がいました。
②救助に駆けつけた男・・・パク・スンギ
事故当時、40キロ離れた場所にいたにもかかわらず、全力で駆けつけ28人の命を救いました。
事故現場からほど近い港町モッポ・・・
パク・スンギは、ここで不法な漁業を取り締まる漁業指導船に乗っています。
あの朝も、スンギはいつも通り不法漁船の取り締まりを行っていました。
事故の連絡を受けたとき、40キロも離れた場所にいたものの全力で駆けつけました。
ヘルメットのカメラのスイッチを入れます。
このカメラは、漁船の不法行為を証拠として残すために使っているものです。
現場についたのは、事故発生の77分後・・・10時6分ごろでした。
まもなく、奇妙な光景が目に飛び込んできました。
周囲に大きな船があるにもかかわらず、救助には参加せず待機していました。
スンギはそれを不思議に思いながら、傾く船に近づいていました。
「周りの船は危ないと思ったのか、待機しろと言われていたのか・・・」
スンギは驚きます。
救助を始めると間もなく、船の中から思いがけず大勢の人があらわれたのです。
「船の後方から学生たちが出てきたことで、中に乗客がいることを知りました
とても緊張しました
そうするうちに、周りの船も救助に加わったんです
私たちのボートを見てついてきたと後から聞きました」byスンギ
セウォル号沈没まで残り25分!!
その時、船内はどうなっていたのでしょうか??
済州島での仕事のため、セウォル号に乗っていたキム・ソンムク。
ソンムクはこの時、4階のデッキ付近で救助を待っていました。
水面とは反対側で、救助のヘリコプターが飛んでいました。
しかし・・・
「ヘリは来ましたが、誰かおりてきたり、船内に入って救助するという気配はありませんでした」byソンムク
この時、ソンムクの頭をよぎったのは、まだ中に取り残されている他の乗客のことでした。
直前に見た廊下には、高校生たちが大勢いました。
そこで、彼は決意します。
「まず、中の廊下にいる人たちを助けようと思いました。
引っ張り出せばヘリに乗せることができると・・・」byソンムク
まず、船内に消防ホースをたらし、中の人たちをデッキに引っ張り上げました。
次にソンムクは、中央ホールの横に・・・そこで中を見て愕然とします。
「たくさんの人がいたんです
高校生も、大人も・・・小さな子供も・・・
ホースを投げて救助しようと思ったけど、その時にはもう、90度ぐらいまで傾いていて・・・
引っ張り上げるには、とても危険な状態でした」byソンムク
床は垂直になり、出口まで消防ホースで登るのは高校生の体力では困難でした。
他の男性と協力して救助を続けますが、引き揚げることはできませんでした。
外に出てはいけないという船内放送に従わなければならないと思っていた高校生たち・・・
しかし、電気が消え、雰囲気がガラッと変わります。
急に深刻になり、外に出なければと思ったのは足元に水が来てからでした。
中央ホールでは、ソンムクたちの懸命な救助が続いていました。
しかし間もなく、すさまじい勢いで船に水が入ってきました。
「手あたり次第、人を引っ張っていたけど、水の勢いで何人か外に投げ出されました
本当に、あっという間の出来事でした
最後、どうやって脱出したのかは覚えていません」byソンムク
事故発生から86分後、セウォル号は急速に沈み始めます。
沈む直前、スンギは二人の少年を救助。
この時ようやく船内放送に従っていてはいけないと思った高校生たちがたくさんいました。
生存者の証言によれば、流れ込む水流で泳いでもなかなか前に進まなかったといいます。
出られなくなってしまった生徒・・・悲鳴、鳴き声、ため息・・・
なんとか外に出ることができた高校生もいました。
水面に浮かんだ高校生に気付いたスンギ・・・全速力で彼のもとに・・・!!
彼は最後の生存者となりました。
「救命胴衣を掴んでただ空を見ながらボーっとしていた時に、漁業指導船の人が救ってくれました
そして、あの中にまだ数十人いると伝えたら、何も言わず私の背中を軽くたたきました」
「とにかく、彼に言いたいことは、助かったのは私たちの力ではなく、自分の力だということです
彼には、これからの人生もしっかりと生きてほしいです」byスンギ
事故発生から101分・・・セウォル号は海の底に沈みました。
中には、300人以上が取り残されていました。
「船が傾いたときは、乗客をすぐ助けるのが当然なのに、なぜそうしなかったのか
周りにも船がいっぱいいたじゃないですか
私には理解できません」byスンギ
「私はただ脱出を手伝っただけで、救助してあげたとは思っていません
誰一人・・・1秒も、そこには”救助”というものは存在しませんでした
私はこの事故は虐殺だと思います」byソンムク
あの日、なぜ304人もの尊い命が奪われたのでしょうか?
③事故の真相究明を追う記者・・・チョン・ウンジュ
彼女が暴いた真実は、海洋警察の責任を問い、裁判の結果を変えることとなります。
何が彼女を掻き立てるのか??
自己から2週間ほどたったころ、真っ白な表紙の雑誌が出版されました。
「ハンギョレ21」・・・セウォル号事故特集号
政府や船会社の杜撰さを、多方面から指摘しています。
記事を書いたのは、記者チョン・ウンジュ。
「表紙を白紙にしたのは、この事故を表す言葉なんてなかったからです」byウンジュ
彼女は当時、週刊誌「ハンギョレ21」の社会部のチーム長でした。
ウンジュが現場に入ったのは、事故の3日後でした。
子供の帰りを待つ家族たちは、まだ生きている可能性があると信じていました。
「今、総動員で創作活動を行っています」byパク・クネ
「現在500人の潜水士を投入しています」by海洋警察庁長
「嘘つくんじゃない!!」
家族は事件現場で、ほんのわずかな救助隊員しか動員されていない様子を目撃していました。
事実と異なる発表を繰り返す政府に、家族は泣き、怒りました。
ウンジュは、遺族たちの様子をまとめ、記事にし始めます。
その時、ひとりの母親が語った言葉が忘れられないという・・・
「お母さんは、天国で亡くなった子供に気っと会えると信じています
そしてその時、子供に必ず伝えなければならないと思っていることがあります
それは”お母さんはね、あなたのために戦って事故の真実をちゃんと明らかにしたんだよ”ということです
そんな遺族のために、私の記事が1%でも力になればと思いました」byウンジュ
そして、事故から1年が経った頃、ウンジュは、遅々として進まない事故の真相究明に乗り出します。
当時、船員や海洋警察の責任を問う裁判の真っ最中でした。
しかし、証言に矛盾や間違いが多く、裁判は混迷を極めていました。
ウンジュは3人のメンバーと共に、15万枚の資料を読み込み、証言を一つ一つ確認していきました。
「当事者に同じ質問をしても、裁判によっては全く違う証言をしていたのです
そこで、私はパズルをあわせるように、その共通点や相違点を比較することで、あの日の真相に近づくことができると思いました」byウンジュ
ウンジュが特に注目したのは、救助を指揮した海洋警察の現場責任者の裁判です。
犠牲者304人のうち海洋警察が責任を負うのは56人のみ・・・残りは責任が意図される判決が下されていました。
どうしてか??
海洋警察の主張は・・・
通報を受け、救助船が現場に到着したのは9時30分ごろ・・・
しかし、船内にあれほどの乗客がいるとは知らなかった。
それを知り、無線を報告したのは9時44分・・・この時点で避難命令を出したとしても、助けられたのは56人だ。
しかし、納得できないウンジュは、徹底的に資料を読み返し、ある記録を見つけ出します。
「海洋警察は、現場とのやり取りを無線で行っていたと主張していましたが、私は携帯電話も使われていたことに気付きました
その履歴を調べてみたら、9時36分まで遡ることが分かったんです」byウンジュ
携帯電話の記録から、9時36分には船内に乗客がいることに気付いていたと立証。
それは、直ちに避難命令を出せばほぼ全員を助けられたはずの時間でした。
裁判での趣味レーションは、助けられたのは303人となります。
この事実は、後に続く控訴審でも採用されることとなります。
「国の間違いで、多くの人が亡くなったということです
国は、303人の命の責任があるんです」byウンジュ
結局、海洋警察の現場責任者は、業務上過失致死で懲役3年が確定しました。
そして、乗客を残して脱出したセウォル号の船長は・・・殺人罪で無期懲役が下されました。
彼女はその後も、スクープを連発します。
”船員を先に救助した事実を海洋警察は知っていた”
”セウォル号を管制していなかった管制センター”
そして、世間を最も驚かせた記事が・・・
”セウォル号最後の交信記録”
それによればなんと・・・”あの船では全員は助かりません”
乗組員は、救助の船が小さく、全員は乗れないことに気付いていたのです。
だからこそ、避難命令を出さず、自分たちだけで逃げたのではないか??
その疑惑を突き付けます。
自己から7年・・・裁判は、まだ続いています。
ウンジュと遺族の戦いは終わらない・・・!!
「何より大事なのは、あの日に一体何があって、なぜ助けられなかったのか?
それを徹底的に明らかにすることだと思います
政府はそれをする事で、国民も韓国が抱える問題をしっかり再認識できるんです
セウォル号事件が、韓国社会に教訓を残せるとしたら、それしかありません」byウンジュ
自己から3年が過ぎた2017年4月・・・慰霊祭に、最後に救出されたパク・ジュンヒョクの姿がありました。
20歳を迎え、兵役を控えていました。
将来の進路は未定だが、一つだけ決めたことがある・・・
「少なくとも、自分がやるべきこと、責任を負うべきことを出来る人間になりたいです」byジュンヒョク
悲劇から何を学ぶのか・・・その問いかけが終わることはない。。。
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304人が犠牲となり、その多くが修学旅行中の高校生でした。
事故の原因の一つが、貨物の過積載とされます。
船が旋回した時、容量オーバーの貨物が崩れ、バランスを失った・・・
しかし、それが大惨事につながったのは、その後の救助の失敗によるものです。
船長や船員は、乗客に避難命令を出さず、咲に脱出!!
多くの乗客が取り残されていましたが、海洋警察は船内に入っての救助は行いませんでした。
しかし、沈没するまでの101分、悲劇に抗い、勇気ある行動を起こした人々がいました。
乗っていた乗客433人のうち、およそ7割が命を落とし、その大半が修学旅行中の高校生でした。
韓国でも屈指の大きさを誇る旅客船・・・しかし、あの日は出発から12時間後、大きな船体が急激に左に傾きました。
その時間が運命の分岐点・・・2014年4月16日、午前8時49分!!
突然、30度ほど傾いた船内は、パニック状態に陥りました。
①最初の通報者・・・チェ・ドクハ
逼迫する現場で、沈着冷静に行動した少年でした。
高校2年生だったドクハ・・・初めての修学旅行を楽しみにしていました。
修学旅行から帰らぬ人となったドクハ。
しかし、彼の勇気がなければ、悲劇はさらに大きかったかもしれません。
2014年4月15日、セウォル号はインチョン港から出航しました。
観光地・済州島へのナイトクルーズ・・・翌朝8時の到着予定でした。
この日、霧の為、他の便はすべて欠航・・・しかし、セウォル号だけが出航を検討していました。
貨物の運送が主な収入源・・・なんとか出発できないか、ギリギリまで判断を保留していました。
待つこと2時間・・・ドクハから両親に電話が入りました。
「お母さん、霧で修学旅行に行けないかもと言っていたけど出発できるんだって!!」
「良かったね、気を付けてね」
それが最後の電話でした。
予定より2時間半遅れた夜9時出航。
船上ではドクハが楽しみにしていた花火パーティーも行われ笑い声が溢れていました。
翌朝・・・セウォル号は済州島まであと3時間のところに来ていました。
少し曇っていはいたものの、海は穏やかでした。
朝食を済ませ、部屋で友達と会話をしていた時・・・お菓子の缶が左右に行ったり来たり・・・船が急に傾きました。
そして、午前8時49分!!
突然船が30度ほど傾きました。
進路を変えようとしたところ、船が横転・・・傾いたまま立て直すことができなくなりました。
船が傾いて3分後、
「現在の位置で動かず、手すりをもって待機してください」by船内放送
以後、10回以上にわたってその場で待機の船内放送が・・・!!
結果的に乗客が逃げ遅れる最大の原因となります。
この放送で高校生たちは安心しました。
しかし、この時、船員たちはパニックを起こし、外部に緊急連絡すらも行っていませんでした。
そんな中、単独で緊急通報センター119に通報したのがドクハでした。
事故発生からわずか3分・・・8時52分!!
それはセウォル号が発した初めてのSOSでした。
「119です」
「助けてください!」
「もしもし」
「もしもし
ここ船の中なんですけど、沈没しています」
「沈没ですか」
「はい 済州島に向かっていたのに、船が傾いて・・・」
「ちょっと待ってください
今乗っている船ですか?
それとも近くの他の船が沈没するってことですか?」
「乗っている船です」
パニックの船内で、冷静に行動したドクハ・・・小さいころから落ち着いた少年でした。
本来ならば、支持をするはずの船員たちは、この時、何をしていたのでしょうか?
船員たちは、船が傾いて動くことができなかったと言っています。
しかし、その後、携帯を取りに部屋に帰ったり、三階に下りたりしているので言い訳にしか聞こえません。
遅れて操舵室に入ってきた1等航海士が、ようやく8時55分に済州島管制センターに連絡しました。
ドクハに遅れること3分・・・航海士も無線で連絡・・・しかし、つないだ先は、現場から遠い済州島でした。
しかも、救助を直接担当する海洋警察ではなく管制センターに連絡していました。
一方、日本の消防に当たる119へのドクハの通報は、現場近くのモッポの海洋警察に繋がりました。
しかし、担当者はドクハには答えられない質問を繰り返しました。
海洋警察「モッポ海洋警察です
位置を教えてください」
ドクハ 「良く聞こえません」
海洋警察「位置!
緯度と経度を教えてください」
119 「この人は乗客なんです」
ドクハ 「携帯?」
海洋警察「もしもし、モッポ海洋警察です
いま沈没中ということですが、船の位置はどこですか?」
ドクハ 「位置はよくわかりません
いまここは・・・」
海洋警察「位置がわからない?
GPSに出てないですか?
緯度と経度・・・」
ドクハ 「ここから島が見えているんですけど・・・」
海洋警察「え?」
ドクハ 「よくわかりません」
海洋警察は、相手を船員だと思い込み、専門的な質問を続けました。
それでもドクハは、出来るだけの情報を伝えようとしました。
海洋警察「どこから出航しましたか?」
ドクハ 「きのう・・・」
海洋警察「きのう出航しました?」
ドクハ 「きのう8時ぐらいに出航したと思います」
海洋警察「8時ですね、どこから?」
ドクハ 「インチョン港からです」
海洋警察「インチョン港ですか?」
ドクハ 「はい」
海洋警察「船の名前は何ですか?」
ドクハ 「セウォル号です セウォル号!」
海洋警察「セウォル?」
ドクハ 「はい」
海洋警察「セウォル号?商船ですか?どういう船ですか?」
ドクハ 「え??」
海洋警察「船の種類は?旅客船ですか?漁船ですか?」
ドクハ 「旅客船だと思います」
海洋警察「旅客船ですね?」
ドクハ 「はい」
音声記録は4分17秒・・・ここで途切れます。
証言によると、この後ドクハは高校生が350人ほど乗船していることを伝えています。
さらに、船員がいたら変わってくださいと言われましたが、探したけどこのあたりに這いませんと言って電話が終わっています。
ドクハの通報を受け、海洋警察が出動!!
事故発生から40分後には現場に到着しました。
一刻を争う事態・・・船員より9分も早かったドクハの通報は、どれほど貴重なものだったでしょう。
しかし、1週間後、ドクハは遺体で両親のもとへ帰ってきました。
高校生ドクハのもたらした事故現場からの貴重なSOS・・・しかし、救助は一向に進まないまま・・・
船はさらに傾き、事態は緊迫していきます。
その中、独自の救助を行った男がいました。
②救助に駆けつけた男・・・パク・スンギ
事故当時、40キロ離れた場所にいたにもかかわらず、全力で駆けつけ28人の命を救いました。
事故現場からほど近い港町モッポ・・・
パク・スンギは、ここで不法な漁業を取り締まる漁業指導船に乗っています。
あの朝も、スンギはいつも通り不法漁船の取り締まりを行っていました。
事故の連絡を受けたとき、40キロも離れた場所にいたものの全力で駆けつけました。
ヘルメットのカメラのスイッチを入れます。
このカメラは、漁船の不法行為を証拠として残すために使っているものです。
現場についたのは、事故発生の77分後・・・10時6分ごろでした。
まもなく、奇妙な光景が目に飛び込んできました。
周囲に大きな船があるにもかかわらず、救助には参加せず待機していました。
スンギはそれを不思議に思いながら、傾く船に近づいていました。
「周りの船は危ないと思ったのか、待機しろと言われていたのか・・・」
スンギは驚きます。
救助を始めると間もなく、船の中から思いがけず大勢の人があらわれたのです。
「船の後方から学生たちが出てきたことで、中に乗客がいることを知りました
とても緊張しました
そうするうちに、周りの船も救助に加わったんです
私たちのボートを見てついてきたと後から聞きました」byスンギ
セウォル号沈没まで残り25分!!
その時、船内はどうなっていたのでしょうか??
済州島での仕事のため、セウォル号に乗っていたキム・ソンムク。
ソンムクはこの時、4階のデッキ付近で救助を待っていました。
水面とは反対側で、救助のヘリコプターが飛んでいました。
しかし・・・
「ヘリは来ましたが、誰かおりてきたり、船内に入って救助するという気配はありませんでした」byソンムク
この時、ソンムクの頭をよぎったのは、まだ中に取り残されている他の乗客のことでした。
直前に見た廊下には、高校生たちが大勢いました。
そこで、彼は決意します。
「まず、中の廊下にいる人たちを助けようと思いました。
引っ張り出せばヘリに乗せることができると・・・」byソンムク
まず、船内に消防ホースをたらし、中の人たちをデッキに引っ張り上げました。
次にソンムクは、中央ホールの横に・・・そこで中を見て愕然とします。
「たくさんの人がいたんです
高校生も、大人も・・・小さな子供も・・・
ホースを投げて救助しようと思ったけど、その時にはもう、90度ぐらいまで傾いていて・・・
引っ張り上げるには、とても危険な状態でした」byソンムク
床は垂直になり、出口まで消防ホースで登るのは高校生の体力では困難でした。
他の男性と協力して救助を続けますが、引き揚げることはできませんでした。
外に出てはいけないという船内放送に従わなければならないと思っていた高校生たち・・・
しかし、電気が消え、雰囲気がガラッと変わります。
急に深刻になり、外に出なければと思ったのは足元に水が来てからでした。
中央ホールでは、ソンムクたちの懸命な救助が続いていました。
しかし間もなく、すさまじい勢いで船に水が入ってきました。
「手あたり次第、人を引っ張っていたけど、水の勢いで何人か外に投げ出されました
本当に、あっという間の出来事でした
最後、どうやって脱出したのかは覚えていません」byソンムク
事故発生から86分後、セウォル号は急速に沈み始めます。
沈む直前、スンギは二人の少年を救助。
この時ようやく船内放送に従っていてはいけないと思った高校生たちがたくさんいました。
生存者の証言によれば、流れ込む水流で泳いでもなかなか前に進まなかったといいます。
出られなくなってしまった生徒・・・悲鳴、鳴き声、ため息・・・
なんとか外に出ることができた高校生もいました。
水面に浮かんだ高校生に気付いたスンギ・・・全速力で彼のもとに・・・!!
彼は最後の生存者となりました。
「救命胴衣を掴んでただ空を見ながらボーっとしていた時に、漁業指導船の人が救ってくれました
そして、あの中にまだ数十人いると伝えたら、何も言わず私の背中を軽くたたきました」
「とにかく、彼に言いたいことは、助かったのは私たちの力ではなく、自分の力だということです
彼には、これからの人生もしっかりと生きてほしいです」byスンギ
事故発生から101分・・・セウォル号は海の底に沈みました。
中には、300人以上が取り残されていました。
「船が傾いたときは、乗客をすぐ助けるのが当然なのに、なぜそうしなかったのか
周りにも船がいっぱいいたじゃないですか
私には理解できません」byスンギ
「私はただ脱出を手伝っただけで、救助してあげたとは思っていません
誰一人・・・1秒も、そこには”救助”というものは存在しませんでした
私はこの事故は虐殺だと思います」byソンムク
あの日、なぜ304人もの尊い命が奪われたのでしょうか?
③事故の真相究明を追う記者・・・チョン・ウンジュ
彼女が暴いた真実は、海洋警察の責任を問い、裁判の結果を変えることとなります。
何が彼女を掻き立てるのか??
自己から2週間ほどたったころ、真っ白な表紙の雑誌が出版されました。
「ハンギョレ21」・・・セウォル号事故特集号
政府や船会社の杜撰さを、多方面から指摘しています。
記事を書いたのは、記者チョン・ウンジュ。
「表紙を白紙にしたのは、この事故を表す言葉なんてなかったからです」byウンジュ
彼女は当時、週刊誌「ハンギョレ21」の社会部のチーム長でした。
ウンジュが現場に入ったのは、事故の3日後でした。
子供の帰りを待つ家族たちは、まだ生きている可能性があると信じていました。
「今、総動員で創作活動を行っています」byパク・クネ
「現在500人の潜水士を投入しています」by海洋警察庁長
「嘘つくんじゃない!!」
家族は事件現場で、ほんのわずかな救助隊員しか動員されていない様子を目撃していました。
事実と異なる発表を繰り返す政府に、家族は泣き、怒りました。
ウンジュは、遺族たちの様子をまとめ、記事にし始めます。
その時、ひとりの母親が語った言葉が忘れられないという・・・
「お母さんは、天国で亡くなった子供に気っと会えると信じています
そしてその時、子供に必ず伝えなければならないと思っていることがあります
それは”お母さんはね、あなたのために戦って事故の真実をちゃんと明らかにしたんだよ”ということです
そんな遺族のために、私の記事が1%でも力になればと思いました」byウンジュ
そして、事故から1年が経った頃、ウンジュは、遅々として進まない事故の真相究明に乗り出します。
当時、船員や海洋警察の責任を問う裁判の真っ最中でした。
しかし、証言に矛盾や間違いが多く、裁判は混迷を極めていました。
ウンジュは3人のメンバーと共に、15万枚の資料を読み込み、証言を一つ一つ確認していきました。
「当事者に同じ質問をしても、裁判によっては全く違う証言をしていたのです
そこで、私はパズルをあわせるように、その共通点や相違点を比較することで、あの日の真相に近づくことができると思いました」byウンジュ
ウンジュが特に注目したのは、救助を指揮した海洋警察の現場責任者の裁判です。
犠牲者304人のうち海洋警察が責任を負うのは56人のみ・・・残りは責任が意図される判決が下されていました。
どうしてか??
海洋警察の主張は・・・
通報を受け、救助船が現場に到着したのは9時30分ごろ・・・
しかし、船内にあれほどの乗客がいるとは知らなかった。
それを知り、無線を報告したのは9時44分・・・この時点で避難命令を出したとしても、助けられたのは56人だ。
しかし、納得できないウンジュは、徹底的に資料を読み返し、ある記録を見つけ出します。
「海洋警察は、現場とのやり取りを無線で行っていたと主張していましたが、私は携帯電話も使われていたことに気付きました
その履歴を調べてみたら、9時36分まで遡ることが分かったんです」byウンジュ
携帯電話の記録から、9時36分には船内に乗客がいることに気付いていたと立証。
それは、直ちに避難命令を出せばほぼ全員を助けられたはずの時間でした。
裁判での趣味レーションは、助けられたのは303人となります。
この事実は、後に続く控訴審でも採用されることとなります。
「国の間違いで、多くの人が亡くなったということです
国は、303人の命の責任があるんです」byウンジュ
結局、海洋警察の現場責任者は、業務上過失致死で懲役3年が確定しました。
そして、乗客を残して脱出したセウォル号の船長は・・・殺人罪で無期懲役が下されました。
彼女はその後も、スクープを連発します。
”船員を先に救助した事実を海洋警察は知っていた”
”セウォル号を管制していなかった管制センター”
そして、世間を最も驚かせた記事が・・・
”セウォル号最後の交信記録”
それによればなんと・・・”あの船では全員は助かりません”
乗組員は、救助の船が小さく、全員は乗れないことに気付いていたのです。
だからこそ、避難命令を出さず、自分たちだけで逃げたのではないか??
その疑惑を突き付けます。
自己から7年・・・裁判は、まだ続いています。
ウンジュと遺族の戦いは終わらない・・・!!
「何より大事なのは、あの日に一体何があって、なぜ助けられなかったのか?
それを徹底的に明らかにすることだと思います
政府はそれをする事で、国民も韓国が抱える問題をしっかり再認識できるんです
セウォル号事件が、韓国社会に教訓を残せるとしたら、それしかありません」byウンジュ
自己から3年が過ぎた2017年4月・・・慰霊祭に、最後に救出されたパク・ジュンヒョクの姿がありました。
20歳を迎え、兵役を控えていました。
将来の進路は未定だが、一つだけ決めたことがある・・・
「少なくとも、自分がやるべきこと、責任を負うべきことを出来る人間になりたいです」byジュンヒョク
悲劇から何を学ぶのか・・・その問いかけが終わることはない。。。
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