日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:パークス

江戸無血開城: 本当の功労者は誰か? (歴史文化ライブラリー)

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1868年3月・・・江戸の町はえもいわれぬ緊張感の中にありました。
二人の男の話し合い如何によっては、江戸八百八丁が火の海に包まれる可能性があったからです。
その二人とは・・・清背OFF軍・東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧江戸幕府陸軍総裁・勝海舟です。
15代将軍だった徳川慶喜の首をとるべく京都から江戸へと乗り込んできた西郷、江戸での戦いだけは阻止したかった勝!!
勝はこの絶体絶命の危機を数々の知略で脱していきます。
いかにして江戸漂無血開城は行われたのでしょうか?

1867年10月、15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、260年に及ぶ江戸幕府が幕を閉じます。
すると、藩幕府派の長州藩と薩摩藩がクーデターを起こし、12月9日明治天皇隣席のもと、王政復古の大号令を発布。
新政府樹立を宣言します。
1868年1月、慶喜を擁する旧幕府軍が反撃すべく新政府軍と京都で激突!!鳥羽伏見の戦いの戦いです。
結果は、新政府軍の圧勝に終わり、慶喜は朝敵となって大坂から江戸へと逃げ帰ります。
2月15日、新政府は慶喜を追討すべく、軍を派遣!!
京都を出発した軍勢は、北陸道、東海道、中山道を通って、進軍します。
その実質的な指揮を任されたのが、薩摩藩東征大総督府下参謀・西郷隆盛でした。

徳川を新政権から排除するのが目的でした。
というのも、700万石を有する旧幕府は、国内最大勢力だったのです。
西郷はこの時、慶喜を切腹させるつもりだったのです。
新政府軍が江戸へ攻め込んでくる・・・!!
慶喜に残されていた選択肢は二つ!!
①再び戦いを挑む
②恭順の意を表す
でした。
陸軍奉行並の小栗忠順らは主戦論・・・徹底抗戦を主張しました。
しかし、慶喜は恭順することを選びます。
そして、歓待する小栗を罷免!!人事を刷新する中、勝海舟を陸軍総裁に抜擢します。
さらに、その勝に新政府軍との交渉をさせることになります。

勝海舟は、慶喜との関係はいまひとつ悪かったといいます。
鳥羽伏見の後、江戸城に帰ってきた慶喜と幕臣たちに対し・・・
「こんな事態を招いて、あなた方はどうするおつもりか!!」と。
世が世なら、勝はその場で切られてもおかしくなかったのです。
そんな勝がどうして交渉役に・・・??

1823年勝海舟は、江戸本所で、禄高僅か41石の旗本の家に生まれます。
若き日に打ち込んだのは蘭学でしたが、家が貧しくオランダ語の辞書を買うことができません。
借りてきて、まず、それを写し二部作成、その一部を売り辞書の借り賃に宛てたといいます。
蛍雪の功を積み、会得した語学力でオランダの兵学所を読み漁り、28歳の時に西洋式兵学の私塾を開校。
諸藩の藩士たちが通ってくるようになると、勝の名が知れるようになっていきます。
そんな勝の大きな転機となったのが、1853年ペリー来航です。
アメリカから開国を迫られた幕府は、大名だけでなく旗本にも広く意見を求めました。
勝も意見書を提出。
その提案は・・・
江戸湾に台場の建設、軍艦を購入したうえで軍隊を西洋式に変えるべきである。
この具体的な意見が幕府の目に留まり、長崎に開設された海軍伝習所の候補生に・・・。
そして、3年以上にわたり、オランダ人仕官から指導を受けます。

1858年日米修好通商条約が締結されると、遣米使節団として咸臨丸で渡米。
アメリカ西海岸に滞在した勝は、見聞を広め西洋の脅威を実感。
日本の海防の強化の必要性を確信するのです。
勝は、”幕藩体制に代わる政治形態”を模索し始めました。
帰国後、勝は軍艦奉行並を命じられます。
大阪湾の防衛のために、神戸海軍操練所を作ることを提案します。
その準備として開港した私塾には、最新式の海軍技術を学ぼうと、全国各地から多くの若者がやってきました。
その中には、坂本龍馬の姿もありました。
弟子入りを志願する龍馬・・・。

1864年・・・薩摩藩士・西郷隆盛も勝のもとを訪れていました。
西郷は、勝に質問します。
「もし、大阪湾に外国船が攻めてきたらどうするのか??」by西郷
「私は最早、幕府の力を見限っている。
 これからは、いくつかの諸大名が連合して、強力な軍事力を保持したうえで、諸外国との談判に当たらなければ、対等な交渉は行えない!!」by勝
幕府の人間とは思えない発言に驚く西郷。

そして、同じ薩摩藩士の大久保利通への手紙にこう書きます。
”勝海舟という人は、どれだけ知略のある人かわからない
 ひどく惚れ申した”
勝は、様々な藩の藩士と交流!!
中には、長州藩の木戸孝允など、明治維新の中心人物となるものも沢山いました。
その人脈の広さをかわれ、江戸幕府滅亡後の旧幕府側の代表者として新政府との交渉を任されたのです。

1868年2月12日、勝海舟に新政府との交渉を任せた徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居。
自らが謹慎することで恭順の意を示そうとしました。
実は慶喜は、松平春嶽、山内容堂など新政府に顔が利く人物に仲介を頼みましたが、どこからもいい返事をもらうことができずにいました。
そこで、何とかことを収めようと謹慎した慶喜でしたが・・・
新政府側の気持ちは収まりのつかないところまで来ていました。
慶喜の頼みの綱は、勝海舟のみでした。
交渉役を任された勝は、大役を引き受けるにあたって慶喜に言います。
「わが軍の武器をもってすれば、新政府軍に勝てる可能性もまだございます。
 それでも上様は、恭順の道を・・・??」by勝

新政府軍と戦うにあたって、勝つ可能性もあったのにどうして恭順の道を選んだのか??
それは、新政府軍との戦いが長期化すれば、欧米列強に侵略される可能性があったからです。
日本を守るためにとも考えられます。
そして、勝も同じ気持ちでした。

「最早、内乱などしている暇はない!!」by勝

慶喜の覚悟を聞いた勝は、動き出しました。
まず、御内である旧幕府側の人間に、新政府への恭順を徹底させることでした。
まだ・・・一部で主戦論が燻っていたからです。
そこで勝は、幕府が築いて来ていたフランスとの良好な関係を解消。
フランスは、幕府が倒れる前から軍事顧問団を派遣、幕府軍の西洋化に協力していましたが、その一方で親密になっていた陸軍奉行並の小栗忠正らに新政府軍と戦うことを焚きつけていました。
勝は、自らフランス公使のもとへ・・・軍事顧問の解雇を申し渡します。
しかし、この行動が、旧幕府軍で反感を買うこととなり、勝は孤立・・・命を狙われる羽目に・・・。

この時勝は、新政府軍に対し、無条件降伏するつもりではありませんでした。
そこには、一歩も譲れない条件がありました。
この時、勝が望んでいたのは・・・
①徳川慶喜の命の保証
②徳川家家臣団の生活の保障
でした。

もし守られない場合は、新政府軍と戦う覚悟があったともいわれています。
和平交渉がまとまったとしても、新政府への恨みが後々まで残ってしまうからです。
勝はそう考えていました。
この後勝は、徳川のため、日本のために邁進していくことになります。

しかし、この時、その交渉の足掛かりさえありませんでした。
そこで目をつけたのが、西郷隆盛でした。
西郷はこの時、新政府軍を率いて東へと向かっていました。
そして、2月28日、駿府に到着!!
勝は、ここに手紙を届けるのです。

その内容は驚くべきものでした。
”徳川の軍艦を東海道筋の要所に配置すれば、新政府軍を撃退することができる
 それをしないのは、朝廷に恭順の姿勢を貫いているからだ。
 然るに、慶喜追討の姿勢を崩さないのはいかがなものか。
 箱根の西に軍をとどめておいていただきたい。”
と、強気なものでした。

これを読んだ西郷は、当然激怒!!
軍艦からの方が優勢・・・この作戦は、新政府軍の最大の弱点でした。
新政府軍の弱点を指摘し、西郷を怒らせた勝・・・。
勝は、一刻も早く江戸には行ってほしかったのかもしれません。
新政府軍の力を借りて、江戸の町を統治しようとしていた可能性もあります。
勝自身が江戸で西郷に時期談判しなければ、新政府軍は止められない!!
そして、新政府軍を江戸の町へ入れることで、政権が交代したことを民衆に実感させたのです。
大政奉還、王政復古の大号令は京都で行われ、江戸の人々は政権交代を実感していなかったのです。

1868年3月6日駿府・・・
新政府軍司令部は、3月15日に江戸総攻撃を決定!!
新政府軍の実質的な指揮官にあった西郷は、京都にいた薩摩藩士に手紙を送っています。
”徳川方には、軍略に優れた勝海舟らがいる
 この知勇に優れた男を相手に、雌雄を決するのは男子としては快事”
西郷は、勝海舟との戦いを待ち望んでいました。
同じころ、勝海舟の元を一つ里の男が訪れます。
旗本・山岡鉄舟です。
山岡はこの時、剣の腕を買われ、寛永寺で謹慎生活を送っていた慶喜の護衛をしていました。
慶喜が恭順の意を示しても、新政府軍に伝わらないことに歯がゆさを感じ、自分が新政府軍と交渉するとやってきたのです。
そんな山岡に勝は尋ねます。
「どうやって新政府軍の陣営に乗り込むつもりか?」by勝
「新政府軍の陣営に入ったら、まず自分の刀を差し出し、敵が縄で縛るというなら、言われるがままになりましょう。
 敵とて、私を斬り殺すなどという不条理なことはしてこないでしょうから・・・」by山岡
勝は、この覚悟に感服し、西郷のもとへ送ります。
3月6日、3日後には駿府に到着。
3月9日・10日、西郷との会談を取り付けます。
そこで、西郷から慶喜助命の条件を引き出すことに成功!!
しかし、提示された内容は・・・
①慶喜の身柄を備前藩に預ける
②江戸城を明け渡す
③旧幕府軍すべての軍艦・武器を没収する
という・・・事実上、無条件降伏のようでした。

山岡はひとまず預かり、勝のもとへ急ぎます。

山岡鉄舟が江戸に戻る前に、続々と新政府軍が江戸に入ってきました。
3月11日、板垣退助率いる部隊が八王子に布陣!!
12日には別部隊が板橋到着!!そして、この日、ようやく山岡鉄舟が江戸に戻ってきました。
この条件を勝が聞いたのは、江戸城総攻撃の僅か3日前でした。
その翌日、13日には東海道を進軍してきた西郷隆盛率いる部隊が池上に布陣。
江戸の町は包囲されました。
様々な手を打ってきた勝・・・実際のところ、この交渉がまとまるかどうかの保証はありません。
最悪の事態も想定していました。

対抗策は・・・江戸焦土作戦でした。
交渉が決裂し、新政府軍との戦いとなった場合、新政府軍もろとも江戸の町を焼き払おうと考え、密かに進めていました。
自ら町火消やとび職の親分のもとを訪ね、もし新政府軍が攻撃しだしたら合図をするので、そこかしこに火を放ってもらいたいと説きました。
どうして徳川軍で真っ向から戦おうとしなかったのでしょうか?
徳川軍の中には、新政府への抵抗を唱え、江戸から離れるものが多くいました。
勝は、庶民の力を借りて、新政府軍を迎え撃とうとしたのです。
近隣の漁師たちに江戸の民衆を船で救出してくれるようにも要請!!
しかし、勝とて江戸を焦土にしたくはありません。
新政府軍との交渉に・・・!!

3月13日、京都から進軍してきた新政府軍が江戸を包囲!!
異様なまでの緊張感に包まれます。
そんな非常事態を収拾すべく、勝海舟は西郷隆盛のもとを訪れます。
4年ぶりの再会でした。
会談は13日と14日に行われたといいます。が、場所は・・・??
池上本門寺説、薩摩藩蔵屋敷説、愛宕山の山頂説・・・
会談は勝が待ち望んだものでしたが、初日は慶喜助命の条件に付いての質問だけでした。
会談前日に江戸に戻ってきた山岡の持ち帰った条件を西郷に確かめたかったのです。
会談を終えた勝は、江戸城に戻り、嘆願書をまとめ上げます。
そして、14日会談に臨みます。
勝は、嘆願書を提出・・・!!
それは、新政府軍の条件をほとんど無視したものでした。

慶喜を備前藩に預ける→兄の水戸藩での謹慎
軍艦・武器をすべて新政府軍に差し出す→処分が下った後、徳川家に必要な分以外を差し出す

条件を認めたのは、江戸城を明け渡すことぐらいでした。
当然西郷は激怒し、突き返すと思いきや・・・
即決できないと預かり・・・結論が出るまでは江戸城総攻撃は延期するとし、朝廷のある京都へと戻っていきました。
どうして西郷は嘆願書を拒否しなかったのでしょうか?
それは、13日に、西郷にとって不測の事態が起きていました。
この日、横浜で・・・新政府軍の木梨精一郎は、ハリー・パークスに会いに行っていました。
薩英戦争後、薩摩藩は最新の武器を擁してもらうなどイギリスと親密な関係にありました。
イギリスに新政府の後ろ盾になってももらっていました。
そこで、江戸城総攻撃をかけるとパークスに報告すると・・・
「恭順の意を表している慶喜公を攻撃する必要などないのでは・・・」と、江戸総攻撃に反対したのです。
その裏には、勝の根回しがありました。
4日前の3月9日江戸で・・・
勝はパークスの通訳であるアーネスト・サトウと会っていました。
勝はサトウに訴えます。
「慶喜の命と、家臣たちの生活の保障があれば、どんな条件にも応じる用意があります。
 さもなければ、戦いも辞さない!!
 そのような事態を、貴国の力で未然に防いでもらえないだろうか??」と。

新政府が江戸を攻めると、イギリス人にも犠牲・損害が出る恐れがありました。
戦争を避けたいイギリスを利用して、新政府軍の西郷に圧力をかけていたのです。
イギリスの意向を無視できない西郷は、旧幕府軍の嘆願書を受け取らざるを得なかったのです。
イギリスという薩摩藩と新政府が逆らえない相手を利用した勝海舟渾身の一手でした。

篤姫は、旧知の西郷に、長さ3メートルの手紙を認めます。
徳川家のことを願って・・・!!
”私の一命にかけて何卒お頼み申し上げます”
徳川家を必死に守ろうとした篤姫の手紙に、西郷は涙を流したといいます。
一説には、勝が篤姫にこの手紙を書かせたともいわれていますが、真相はやぶの中・・・。

朝廷の判断如何では危険になる可能性が残っていたので・・・
勝は、イギリス公使パークスのもとへ出向き・・・
「イギリスに帰国するであろう貴国の軍艦を、もう一月だけ停泊しておいてもらいたい・・・!!」と。
勝はその理由を、山岡鉄舟に明かしています。
”慶喜公の命が危なくなったら、イギリスの軍艦にお乗せする計画がある。”と・・・!!

イギリスに亡命させることまで考えていたのでは??
あらゆる可能性を考え、リスクを抑え、次の新しい時代に、命、文明、すべてを譲ろうとしていました。
しかし、勝の心配は杞憂に終わりました。
おおむね、朝廷が承諾してくれたのです。

そこには西郷隆盛の尽力があったといいます。
西郷は、勝の想いに応えてくれようとしたのかもしれません。
共に新しい時代を作ろう!!と。
そして・・・4月11日、江戸城が新政府に明け渡されました。
血を流すことなく・・・!!

その後、西郷隆盛、勝海舟も、高い能力を買われ新政府で要職を任されました。
しかし、西郷は征韓論で新政府と対立し下野!!
そして西南戦争で反乱軍を指揮したとして、朝敵の汚名を着せられ亡くなります。
そんな西郷の汚名を回復しようと誰よりも動いたのは、勝でした。
上野の銅像を建てる運動にも積極的に参加したといいます。

勝は解っていたのです。
西郷無くして江戸無血開城は果たせなかったと・・・!!
そして、西郷無くして、明治という新しい時代は迎えられなかったと・・・!!


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西郷隆盛とは何者か1 西郷は実像以上に美化されている

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ひとつ前の記事で・・・「西郷と龍馬 薩長同盟の真相」を書いていて思いました。
「この記事の方がよっぽど面白い!!」と。
ほんと、幕末は、ただなぞるだけでも面白いのになあ・・・なんでこうなっちゃったんだろ・・・??

ということで、「糸の誓い」って、何誓うんだろなあ・・・
風雲急を告げなきゃいけないのに、またキンチョー感ゼロか・・・。

薩長同盟から2日後・・・慶応2年1月23日・・・寺田屋事件ですな・・・。
お龍、龍馬の命がかかってるんだから、もっと急げよ・・・
いくらNHKとはいえ、愛加那があれだけ裸になったんだから、お龍は素っ裸で龍馬を助けに行かないとダメだろう??

don4















いや・・・素っ裸=緊張感じゃないのよ・・・。
なんだか空気がまったりしていて緊迫感に欠けるのよ~~!!
襦袢着て・・・キンチョー・・・切羽詰まってないんだよ~~!!
龍馬も呑気やしな・・・!!

銃で応戦するも、両手を負傷した薩摩藩邸に逃げ込んだ龍馬でした。
薩摩屋敷に逃げ込んだ龍馬とお龍・・・
両手を怪我してるからなんだろうけど・・・みんなの前で、「あ~ん!!」なんてある??

don3















もう嫌だ・・・カッコいいお龍が、音を立てて崩れて行って・・・
その音のせいで、台詞が頭に入ってこないわ・・・。
キャピキャピしているお龍・・・どこに需要があるねん・・・??!!

とにかく、薩摩に行くことが決定!!

家に来た時、お龍を見た糸がやきもち焼くとか・・・そんなんも辟易~~!!
ほんま、どうでもええわ・・・!!

寺田屋事件のことを自慢する龍馬にもなあ・・・

いろんな話を聞いて、「近くで旦那様を助けられるお龍が羨ましい」みたいなことを糸が言います。
龍馬に関しては、乙女ねえやんもぶっ飛んだ姉でしたし、そんな気の強いぶっ飛んだ女性が好きだったんでしょうね。
きっと、色眼鏡で見られていたであろうその性格を、羨ましいというなんて、そこが現代的で大嫌いです~~!!
でもって、子供ができないことを気にする・・・なんて話になっていきます。

「試してみなわかりまへん・・・
 下手な鉄砲も何とやらて言いますやろ?
 西郷はん、せっかく薩摩にお戻りになったんやし・・・今夜も明日も、おきばりやす!!」と、子宮をたたくお龍。。。。
やめてください・・・こんなかっこ悪いお龍見たくありません。
気風がよくってカッコいい!!そんなお龍が見たいんですよ。
これじゃあ・・・空気読めない満載のただのセクハラ!!
下品だ~~~!!
女性に受ける大河がこれなのかっ!!??

ああ・・・見てられん!!
もう、ビデオ、飛ばしちゃいましょ!!

飛ばしていたら、いきなり吉之助&龍馬がパークスの話に・・・!!
そんな話をまたもや襖の向こうで盗み聞きしている糸でした。

場面は変わって・・・長州征討出兵をみんなの前で断る大久保一蔵!!
大義がないとか、なんとか、長州藩の肩を持っています。
この時点で、やっぱり薩摩は日和見・・・というか、長州に斃れられたら次のターゲットは自分達だと思っていました。
だから、征討して長州を失くすのではなく、温存しておく・・・基本的には、幕府の条件をのんでもらって、薩摩の楯になっていてもらおうというある意味卑怯な?考え方でした。
外交的には上手く立ち回っているって言った方がいいのかな?
なので、上手く立ち回る・・・=こんなに面と向かって断るのはどうなのかなあ・・・
基本、幕府の味方で、まだ、悩んでいたと思うんですが・・・??

あ・・・寺田屋事件で龍馬が置いていった書簡に書かれていた薩長同盟の記録を幕府が見たから、もう倒幕になってるのかな・・・??
よくわからん。

なんてことはどうでもいいようで、龍馬の新婚旅行の話に・・・。
女人禁制の高千穂にお龍が登った話になって・・・あそこは男しか入れない=そういえば、昔糸どんも男の格好をして走った、って話になります。
女性を書く大河なのに、糸どんの話はこの子供の頃に走った話だけです。
毎回同じでうんざりです・・・

糸に「3番目の奥さんなんやてね・・・」なんて、不躾なことをいうお龍もサイテーです。
縁側でシェリー酒を飲みながら、ニッポンのことを話している龍馬&西郷と思いきや、「久し振りなんやからもっと仲良くせえ」とか、「恥ずかしいんか?」とか、龍馬の口から、そんなこと言わすんじゃないよ!!

そこへ小松帯刀登場!!
って・・・家老本人が来るか・・・??
幕府軍が長州征討に乗り出すというものでした。
龍馬、お龍をほって、内緒で長州に出立するそうですよ。
でも・・・言ってしまう糸なのでした。
なんじゃこりゃ・・・??
もっと政治に時間を割いてくれよ・・・。

「お互い・・・難儀な男に惚れたもんやな・・・」byお龍

「お前が難儀だよ!!」って突っ込んでやりたいわっ!!

龍馬を追いかけるお龍なのでした。

幕府軍が10万の兵で長州へ襲い掛かります。
う~ん・・・ここまで長州を丁寧にやる必要がどこに・・・??
イギリス公使・パークスが薩摩にやってきました。
ナマコでおもてなしする薩摩です。
って言うか、そんな食事でおもてなしシーンを入れる必要性が全く感じないよ・・・。
だから緊張感がないんだろうなあ・・・。

ここもビデオを飛ばそう!!

でも、数日にわたって盛大に行われたそうです。
ま、数日にわたって行われた交渉なんて、今までも沢山あったはずだよ・・・。
薩長同盟だってそうだしね・・・。
いろんな数日にわたった会議をほとんど書かずに、このパークスの接待を・・・しかも、接待に時間を割くなんてなあ・・・。

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なんと、パークスが激怒!!
なんで??
その話は、吉之助の家族のもとにも・・・!!
そりゃあ、もう、大騒ぎさ!!

突然、交渉を打ち切ると言ったパークスの説得に、英国軍艦・プリンセスロイヤルに向かう吉之助。
・・・だから・・・なんで、突然交渉を打ち切られたのかが全くわかりません。
もっと丁寧に書けよ・・・。
家族を出さずにさっ!!


誰かも知らない西郷との交渉が始まりました。
藩主にしか会わないというパークスに・・・
なんだか、こんな「軍艦に女王陛下が来ますか??」と、食い下がり交渉が始まりました。
ああ・・・ぬるいなあ・・・。

「宴会ばかりで、どうして大事な話をしないのか??」そのことに怒っているようです。
当たってる・・・。
自虐的ギャグなのか・・・??

イギリスと協力したいと言い出した吉之助。
説明する吉之助だけど、パークスはバカなのか??
吉之助が説明するうわべだけの政治のあれやこれやを聞いて、「どうすればいいのか」と、怒りだしました。
知っているはずだよ・・・日本の内情なんて!!
幕府とテロリスト側・・・どちらにつくか、フランスも、イギリスも、干渉したいんですよ!!
すべて解って、最後には自分たちの良いようにしたいから干渉したいのに、何にも知らないパークスってあり??

なのに、「やっと議論のできる人物に会えた。」と、吉之助の株が急上昇です。
ちなみに、本当のパークスは久光大絶賛なのでした。

「ナマコはいかん!!」byパークス

って・・・必要なのかっ!!

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帰ってきた吉之助に大喜びの家族たち。

ああ・・・なんだか心配して怒っている糸・・・
このパートももうええわ・・・飛ばそう・・・。
で・・・あんなこんなで心が通じたのか、妊娠して終わるのでした。

一生惚れ通すそうですよ・・・糸。
最初っからその腹づもりではなかったのかっ!!と言ってやりたい!!

don2















みんなに話すと、これだから女は恐ろしいとか言われてしまいます。
なんで妊娠するのが恐ろしいんだよ・・・
言葉間違えてないかっ!!

とかいろいろ家族の話で盛り上がって、今回も終了!!
「糸の誓い」ってなんだよ・・・
一生吉之助についていくのは、すでに結婚した時に決めてたんじゃないの!?

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北海道宗谷岬から見えるのは、サハリン・・・樺太です。
1869年、ここで日本とロシアが緊張関係になりました。
ロシア軍が、樺太南部に上陸!!
日本人たちの目の前で、軍事基地を築き上げ、それに抗議する役人たちを連行したのです。
当時、樺太は、日本とロシアの雑居地・・・つまり国境がありませんでした。
主に北部でロシアが、南部で日本が活動していました。
そこに、ロシア軍が南部まで進出!!
ロシアは樺太全域を支配すべく行動を起こしたのです。
この問題を解決すべく、日本を代表してロシアと交渉したのが榎本武揚です。
当時、日本で数少ない外交のプロフェッショナルでした。


明治初期の千島列島・・・
ウルップ島に日本人は僅か30人ほど・・・。
千島列島の寒さは厳しく、島々にクラスのは、先住民と限られたロシア人のみでした。
農作物にも適さない島々・・・狩猟や漁業、産物の交易が主な産業でした。
1874年より1年間、その千島列島をロシアから譲り受ける外交交渉を行ったのが、特命全権公使・榎本武揚です。

榎本は、明治政府の中でも異色の男・・・。
1863年・・・榎本28歳・・・
幕末の激動が高まる中、日本を離れて世界的な海洋国家オランダに留学していました。
徳川家の家臣だった榎本は、海軍の幹部候補に選ばれ、軍事技術を学んでくるように命じられました。
この留学中、榎本は学問・・・海に関わる国際法の研究所「海律全書」に出会います。
ヨーロッパの海洋国家が積み上げてきた国際ルールの解説書です。
外国との接触の多い港や船で、国際問題になるようなことがあった場合に、どのような権利、義務が発生するのか?平和時と、戦争時に分けて解説したものです。

榎本は、この海の国際法によって、西洋列強の強さの土台には、軍事力だけでなく法律に基づく力があることを学びます。
これが榎本の大きな武器となるのです。

1867年、榎本32歳・・・
およそ5年間の留学を経て、日本の大転換期に・・・!!
徳川幕府が消え去り、後の明治新政府が樹立。。。
しかし、榎本は時代の流れに抵抗し、日本最強の軍艦・開陽丸での艦長となると、新政府の支配下にはいることを拒絶し、旧幕府艦隊を率いて江戸を離れ北へ・・・!!

当時、蝦夷地と言われた北海道の国際貿易港・箱館。。。
榎本は西洋式の城・五稜郭を拠点に、海軍と旧幕府勢力を結集、明治政府に対抗する政権を打ち立てようとしました。
箱館の政権を守るために榎本が用いたのは、軍事力だけでなく、国際法を最大限に駆使!!

諸外国に対し・・・「我らを交戦団体として認めよ!!」
交戦団体とは、政府と同じ政治や外交能力、国家に準ずる地位を国際的に認めさせようとしました。
これを認めれば、外国勢力は中立をしなければならず、明治政府に肩入れすることはできない・・・。

しかし、外国勢力・・・イギリス公使・パークスは、既に明治政府を後押ししているので、榎本の要求をはねのけます。
ここで榎本は・・・国際法の隙をつきます。
榎本は、箱館にいるイギリスやフランスの軍艦の艦長に通告します。
「我等には、外国の商船に対して、臨検が認められる。
 そのために、船に乗り込ませよ。」
臨検・・・函館を訪れる外国船に対し、積荷の検査ができるというものです。
密貿易の取締のため、イギリス・フランスの艦長は、その一部を認めます。
しかし、、、榎本の真の狙いは臨検ではなく・・・臨検は「交戦団体」に与えられる権利でした。
つまり、箱館政権は、臨検の権利を得たことで、
「交戦団体」と主張することができるようになるのです。

国際法を熟知しした、榎本の交渉が・・・巧みな外交手腕が、西洋列強を相手に発揮されたのです。
しかし・・・
1869年5月、榎本34歳の時・・・夢は、軍事力によって潰されます。
開陽丸を事故によって失った箱館政府に対し、明治政府軍は総攻撃をかけ、五稜郭の軍勢は降伏・・・
榎本は、反乱の首謀者として捕らえられてしまいました。

国のため、人々のために、自分が学んできたことは、本来尽くさなくてはいけない・・・

胸に秘めた新国家建設・・・それがかなわない現実・・・榎本は、国家への反逆者として明治の代を過ごすはずでした。
1872年、37歳の時、榎本は反乱の罪を許され出獄!!
豊富な国際知識を惜しまれてのことでした。
まもなく政府首脳の呼び出しで中央政界に・・・!!
招いたのは、明治政府を率いる内務卿・大久保利通でした。
背景には、この時幕府が抱えていた外交危機がありました。

それは・・・北方の島をめぐるロシアとの問題でした。
宗谷岬から海を挟んで僅か40キロ・・・そこに北海道に匹敵する島・サハリン・・・樺太が・・・!!
この樺太は、江戸時代後期には、主に北部はロシア人が、南部では日本人が先住民と交易や漁業を行っていました。
特定の領土にはなっておらず、日露両国がともに治めあう雑居地に位置付けられていたのです。
国境もないままでした。
ところが明治初期・・・状況が急変。
樺太の南端・・・宗谷海峡に面した函泊は日本の影響下でしたが・・・
そこに大砲の収蔵庫、火薬庫・・・ロシアが突然築いた軍事基地が・・・!!
数百人の兵士が駐屯し、海上交通の要衝・宗谷海峡を監視しました。
ロシアは、樺太に国境がないことを口実に、軍を南部に進め、志摩すべてを手に入れようとしたのです。
この緊急事態に、明治政府は外交交渉を行い、樺太の領有について明確にする必要がありました。
そこで、ロシアとの大切な交渉を、大久保は榎本に任せたのです。
日本の命運が、榎本の外交手腕に任されたのです。

1874年3月5日、榎本に下された政府の命令書には・・・
ロシアとの交渉方針が明確に描かれていました。
①樺太の雑居を排し、境界を定ること。
②樺太で境界が定められず、島すべてをロシアが有する時、樺太と同等の釣り合う地を日本に譲らせること。
③その釣り合うべき地とは・・・「ウルップ島」よりカムチャッカ」に連なる「キュリル」諸島である。

まず、樺太の中で日本とロシアとの国境画定を目指す!!
次に国境画定が失敗し、ロシア領となり日本が手放さなくてはならなくなると、日本が樺太から失う権益の代償として、ロシアから千島列島すべてを譲らせるということです。

ここに、明治政府が国内で抱える深刻な問題がありました。
それが、不平士族の存在でした。
新しい国づくりが進む明治の世・・・士族は特権を次々と失っていっていました。
明治政府に不満を抱く氏族たちは・・・政府がロシアとの間で弱腰外交を行えば、怒りを爆発させて大きな反乱が予想されていました。
一方、樺太と千島列島を交換し、ロシアと対等な条約を結んだとすれば、明治政府の権威は守られる!!
しかし、この要求をロシアが飲むかどうかは未知数でした。
極めて実現困難な外交交渉・・・

1874年6月、榎本は、ロシアの都サンクトペテルブルクへ・・・
11月14日・・・外務省の一室で、日露国境交渉が始まりました。
榎本は、樺太の権利について・・・
「我が国は、樺太島の上で、両国、公平な教会を定めることを望んでいる。」
ロシアの代表は、ロシア外務省アジア局長のストレモウーホフ。
「全島を所望!!」
ロシアは、樺太で国境をひくのではなく、樺太すべてを主張しました。
そして・・・
「日本には、代償を用意する。」
好かざす榎本はかみつきます。
「帰国がいう代償とは、ウルップ島と1,2の小島だけであろう。
 これでは樺太ととても釣り合いませんぞ!!」by榎本

幕末、江戸幕府が国境交渉を行った際に、ロシア側が樺太の代償としてウルップ島案を提示していました。
幕府は拒絶していたのです。
榎本は、このことを思い、先手を打って、ウルップ島の名前がロシア側から出るのを拒否!!
ストレモウーホフは、思わず黙り込む・・・
榎本は、あくまで樺太で国境を!!
「私は、樺太で国境をひくこと以外、本国の命令を受けておりません。」

相手から妥協案を引き出そうとします。
国交交渉の初日、榎本は終始議論をリード・・・
樺太で国境をひく案を、ロシア側に持ち帰らせることに成功!!

ロシアが樺太国境案を受け入れるかどうか・・・
皇帝アレクサンドル2世にかかっていました。

1875年1月2日、第2回国交交渉。
ロシア側は、榎本が求めていた樺太で国境をひくということに対する皇帝の答えを・・・
「皇帝陛下は、海峡をもって両国の境とせよとの仰せであった。」
海峡とは・・・宗谷海峡のこと・・・樺太全島をロシアが領有するということです。
ここに・・・ロシアの野望、世界戦略が秘められていました。
ロシアは、不凍港の獲得と、勢力拡大を目指すため、南下してきていました。
これに反発したのが、世界各地に植民地を持つイギリスでした。

1853年ロシアはイギリスとクリミア戦争で激突!!
この戦いで、ロシアはイギリス軍に敗北・・・
10万以上の犠牲者を出し、南下政策を挫折していました。
この時のイギリスに対する苦手意識が、ロシアの東アジア政策にも影響していました。

イギリスは中国に植民地を持ち、東アジアに強大な影響力を持っていました。
明治政府の後ろ盾にもなっていました。
イギリスへの恐れが、樺太全土を・・・ということになったのです。

ロシアは、分割案を断固拒否!!
そこで・・・日本が雑居状態の樺太で得ていた権益を失うとなるとロシアは何をしてくれるのか・・・??
榎本の要求は・・・
「千島のうち、ウルップ島と近隣の3つの小島を日本のものとしたい。」
前回断っていたウルップ島と近隣の島を要求・・・。
この案ならば、ロシアとしても妥結可能・・・。
しかし、榎本が付けた言葉は想定外でした。

「加えて帰国の軍艦も樺太の価値に見合うだけ頂きたい。」by榎本

ロシア側にとってまさかの要求でした。
ロシアの海軍力を削減して、日本に軍艦を与えれば、南下政策に大きな影響が・・・しかも、樺太の価値に見合う軍艦の数は見当もつかない・・・
榎本の要求を受け入れるわけにはいかない・・・!!
ストレモウーホフは・・・樺太の代償となる領土としてロシア側の考えを伝えます。

「ウルップ島から500キロ北にある温ネコタン島までを譲る」というものでした。
樺太の価値を重大にアピールし続けた榎本の戦術に、千島列島のほとんどを手放すことに・・・!!

この機を見逃さず・・・

「樺太の代償として、カムチャッカまでの諸島をお譲りいただく。」by榎本

残りあと二つの島の譲渡を認めさせれば、樺太と千島列島を対等に交換という国内向けにもgood!!
しかし、「これは、軍が承知しない!!」
ロシアは、軍事的な理由で、榎本の追加要求を拒否!!
ロシア海軍は、オンネコタン島とパラムシル島の海峡を、太平洋への航路に利用していました。
これを日本に渡せば、海軍の航行の自由が奪われ、死活問題に・・・!!

「オンネコタン島までの案で妥結せよ!!」byストレモウーホフ

ここに榎本も策が尽き・・・あと一歩及ばず・・・。
オンネコタン島までで妥結するのか・・・??

領土問題を解決しなければ、日本とロシアはいずれ衝突する・・・
領土で妥協し、条約をまとめる・・・??
千島列島すべての獲得は断念する・・・??
国境が画定すれば、日露関係は安定する。
しかし、対等な領土交換だと国内にアピールできない・・・
政府に不満を持つ不平士族たちは、条約の破棄を訴えて反乱を起こすかも・・・??
別の妥結・・・??


明治政府の命令通り、領土の対等交換を求め続ける・・・??
ロシアに妥協しない・・・!!
千島列島すべての島を・・・!!
しかし、こんな要求をロシアが認めるのか・・・??
交渉決裂か・・・??
国境画定に失敗すれば、樺太南部、宗谷海峡などでロシアと軍事衝突・・・??

3月4日・・・大詰めを迎えた日露国境交渉・・・そこで榎本が選んだ道は・・・??

「キュリル全島をお譲りいただきたい。」

最後の局面で、再度千島列島すべてを譲るように迫ります。
前回、ロシアが拒否した案を、強硬に要求したのです。
榎本にはどんな勝算があったのでしょうか??

内々に他人より聞き込んだ事には、ロシア政府はもはや樺太の一案を早く片付けることを望んでいるとの事。。。

ロシアは、日本との国交交渉を早く解決したいと思っていました。
そんなロシア政府の機密情報を掴んでいたのです。
榎本が掴んだ機密情報の実態とは・・・??

当時のロシア政府は・・・2月5日、外務大臣のゴルチャコフが海軍に極秘の問い合わせを行っていました。
「どうしても必要な場合、ウルップ島からカムチャッカまでのクリル諸島を日本に渡すことができるだろうか?」と。
千島列島を重要航路とする海軍に、島をすべて日本に譲ってもいいか打診していたのです。
この案を飲めば、海軍は非常時に太平洋へ出る航路を失いかねない・・・
それでもゴルチャコフには、この交渉を早く終わらせなければならない理由がありました。

「今や皇帝陛下が日本との国境問題について速やかに解決するよう、おぼし召しである。」

皇帝アレクサンドル2世自ら、日本との国交交渉をすぐに妥結するよう求めていました。
皇帝がこの指示を出した背景には、日露交渉と同じ時期、国際情勢が急速に悪化していることがありました。
ロシアが忌まわしき宿敵・イギリスと再び激突する危険がある・・・!!

ヨーロッパでは、ロシアと結ぶドイツがフランスと開戦寸前でした。
背後に控えるイギリスとこれ以上関係を悪化させないよう、ロシア皇帝は働きかけようとしていました。
このことに全力で取り組むためには、日本との国交交渉をすぐにでも終わらせたい・・・
そんなロシアの内情を、榎本は的確につかんでいたのです。
ロシアに不利に働いている国際情勢を・・・!!
そんなロシア側に現れた焦りの様子を直接的に嗅ぎ取って、全千島の獲得に乗り出したのです。

3月24日、榎本に対し、ロシアの回答が示されました。

「ロシア国皇帝陛下は、クリル全島を日本国皇帝陛下に譲る・・・」

榎本は土壇場で、樺太放棄の代償として、ロシアから千島列島全島を譲らせることに成功したのです。
5月7日、交渉は最終的に妥結し、条約調印。

サンクトペテルブルク条約・・・日本では、樺太・千島交換条約と名付けられました。
大久保利通率いる政府は、「交換」という言葉を使い、条約の対等性を強調、国内の不満を抑え込んだのです。
こうして旧幕臣の榎本武揚は、日本政府の危機を救いました。

そして榎本はこの後も外務大臣などの要職を歴任し、近代国家の建設に身を捧げていくことになるのです。


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