日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ヒトラー

1945年4月、ベルリン・・・ドイツ第三帝国最後の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません。
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、最期までその約束を守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・そのゆるぎない忠誠心は、どのようにして培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのか・・・??
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

1920年代の結成されたナチ党の青少年団・ヒトラーユーゲント・・・ヒトラーの首相就任以降は、全ての青少年がこの組織への加入を義務付けられ、軍事訓練とイデオロギー教育を受けます。
第二次大戦がはじまると、彼らの身も心も万全でした。

1943年、ヒトラーユーゲントは対空防衛に動員されます。
サーチライトと高射砲を連合軍の爆撃機へ向け、ドイツの町を守る任務です。
学校に通わなくて済むため、子供たちは大喜びでした。
青少年の気持ちは高ぶっていました。
本物の兵器を使い、総統のため、ドイツのため、兵士として、男として戦うのです。

空襲の合間に、若い兵士たちは子供らしい時間を取り戻します。
しかし、水空力で勝る連合軍に、勝利は見込みませんでした。
寝不足で疲れ切り、耳に防具をつけないため聴力が低下・・・
彼等は、使い捨ての戦力でした。
連合軍は、ドイツの激しい空襲を行いました。
降り注ぐ爆弾の下で、少年たちは生き地獄を味わいます。
彼等は、空襲の被害者を助ける民間防衛活動に加わりました。

戦況が劣勢になるほど、プロパガンダは激しくなります。
プロパガンダは功を奏し、1943年秋・・・ヒトラーユーゲントメンバーの年長者のうち1万6000人が武装親衛隊の新しい組織第12SS 装甲師団に入ります。
親衛隊の指導者ハインリヒ・ヒムラーによって創設されたこの装甲師団は、別名ヒトラーユーゲントと呼ばれるようになります。
団員は、16歳と17歳で、喫煙と飲酒は禁じられていましたが、殺人は許されていました。
政権は、若者の大胆さと恐れのなさを利用しました。

「敵は知るべきで、我が国では子供であっても最期まで戦うこと」byゲッペルス

ベルギーでの訓練を終えた、第12SS装甲師団は、ノルマンディーへ向かいます。
1944年5月の時点で、ドイツ軍はノルマンディーを戦略上の要所とは考えず、連合軍が上陸するのはカレーだとみていました。
6月6日、連合軍はノルマンディーに上陸、しかし、この攻撃は装甲師団ヒトラーユーゲントをパニックに陥れるものではありませんでした。
翌日、ヒトラーユーゲント師団は、連合軍が占領を狙ったカーンの町へ派遣されます。
連合軍は、町は24時間以内に陥落するとみていました。
10代の兵士たちは、砲撃の洗礼を受けます。
しかし、ユーゲントの果敢な反撃によって、6週間の激戦となります。
装甲師団は、町の入り口で、イギリス軍とカナダ軍の攻撃を食い止め、多くの捕虜を捕まえました。
ドイツ軍のカメラは、死を目前にした連合国軍兵士たちの姿を捕らえています。
武装親衛隊のクルトマイヤーの命令で、青少年兵たちは、捕虜を次々に処刑しました。

カーンの西の修道院では連合軍の兵士18人、シャトードーデュリューの中庭では、45人のカナダ人兵士が処刑されました。
装甲師団・ヒトラーユーゲントは、全部で150人以上の捕虜を殺害しました。
第三帝国の子供達は、戦争犯罪人となったのです。
戦争犯罪・・・大虐殺・・・暴力行為・・・長年にわたるナチスの洗脳教育の結果です。
連合軍は、第12SS装甲師団ヒトラーユーゲントをベビー師団と呼びました。
その無謀さと野蛮さで、連合軍にとって手ごわい敵となります。
戦場の若い兵士は、情け容赦ない兵器でした。
自己犠牲は厭いません。
野蛮な行為にも関わらず、ヒトラー政権は彼らを称賛します。
政権は、これまで通り、バラ色を約束しますが、現実は全く違いました。
ドイツ国防軍は、ノルマンディーの戦いに敗れ、数十万の兵士が捕虜となります。
その中には、多数の青少年が混ざっていました。
かつて片手を突き出し、「ハイル」と叫んだ彼らが、両手をあげて降伏しました。
しかし、敗北にもめげず、ユーゲント師団は一旦撤退しては違う戦線へと向かいました。

「最後の砦は自分達しかいない!!」

ヒトラーユーゲントは、総統と帝国のために結束し、従軍を志願しました。
歴史的な場所での式典で、16歳の志願兵たちが総統に披露されます。

「本日、皆に発表する
 この旗のもとで戦うために、ヒトラーユーゲントからは1928年生まれの団員の7割が志願した
 若者たちの積極的な態度は、戦場の部隊の士気を高めるであろう」

前線の兵士の士気は、高まりませんでした。
彼等は少年たちの戦闘能力を疑っていたのです。
ドイツが必ず勝利するという幻想は消えつつありました。
若い兵士たちは、連合軍の前進を止められなかったのです。

西部戦線でも、東部戦線でも、ヒトラーユーゲントは戦闘に加わりました。
降伏は禁じられ、脱走兵は射殺され、外に道はありませんでした。

「ヒトラーユーゲントの指導者アクスマンと、国を守ったユーゲントの兵士20人が招待され、鉄十字勲章が与えられました。」

日々徒然〜歴史とニュース?社会科な時間〜 - にほんブログ村

1945年3月20日、大虐殺の命令を実行した若者に祝意を伝えるアドルフ・ヒトラー・・・
ニュース映像に残る最後の姿です。
ナチス総統は言いました。

「今の諸君の戦いは、貴重な経験となる
 ドイツ国民にとって生きるか死ぬかの極めて厳しいこの試練を乗り越え、我々は勝利を手にするであろう
 その勝利は、この国の若者にかかっているからだ」

ヒトラーは、パーキンソン病を患っていたともいわれ、手の動きをコントロールできなくなっていました。
56歳にして既に老人のような姿ですが、後悔や辞世の様子はありません。
彼等は、周りを見る力を完全に失っていました。
ドイツ国民がどうなるかなど気にかけてもいなかったのです。
ヒトラーはこう言い放っています。

「ドイツ人が絶滅したら、それは国民全体の責任だ!!」と。

1945年4月、降伏の1か月前にもナチスはまだなお少年兵を戦場に送り込んでいました。
通りには、自分の町を守るように市民に呼び掛けるポスターが張られました。
下は、10歳の子供までもが招集されます。

4月16日、ソビエト軍がベルリンに向けて大規模な攻撃を始めます。
123万発を越える砲弾が、撃ち込まれました。
10万トンの鋼鉄が、住民の上に降り注いだのです。
4月25日、ソビエト軍はベルリンに入ります。
町じゅうが戦場となり、ヒトラーユーゲントの少年兵は、死をそこに意識します。
少年兵の多くが戦う意欲を失くします。
戦争が終わらないでほしいと願っていた子供たちも、戦争から逃げたいと思っていました。
ヒトラーユーゲントは、僅かな武器を手にソビエト軍の戦車と戦いました。
ソビエト兵は、少年兵を鼠のようにあぶり出し、捕らえました。
多くの若者が死んでいく中、ヒトラーは地下壕に隠れていましたが、地上では至る所で待ち伏せ攻撃、銃撃戦、接近戦が行われました。

ソビエト軍は、ヒトラーユーゲントの兵士600人が守る橋へ大砲の砲身を向けます。
大虐殺でした。
生き残った者はほとんどなく、4月30日、ソビエト軍はドイツ議事堂への攻撃を開始、この日ヒトラーは、地下壕で自殺しました。
総統の子供だと誓ったユーゲントの青少年たちは、みなしごになったのです。

1945年5月、ベルリン郊外でドイツ第三帝国は無条件降伏の文書に署名します。
権力と栄光の夢に吸い寄せられたヒトラーユーゲントの若者たち・・・与えられたのは、戦争の恐怖と敗北だけでした。 

ヨーロッパは戦争で荒れ果てました。
連合軍がドイツを分割占領する中、膨大な数の避難民は故郷に戻ろうとしていました。
ヒトラーユーゲントにとって、帝国の崩壊は自由を意味しませんでした。
彼等の多くは、連合軍によって捕虜収容所に収容されます。
連合軍は、若者たちがヒトラーを崇拝するよう洗脳され、一部は今もナチ党員であることを知っていました。
学校の教室と捕虜収容所で、若者たちへの再教育が始まります。

ドイツ人捕虜は、特別授業を受け、帰国後の役割に備えます。
”ゲシュタポやファシストはドイツ再建から排除”と教わります。
ヒトラーの子供達は、新しい言葉と出会います。
”民主主義”です。
ナチスの洗脳から解き放つための手段は、映画の上映でした。
かつてのナチス同様、今度は連合軍がナチスの犯罪を見せつけたのです。
”アウシュビッツ”・・・
最後まで信じようとしない人たちに、連合軍は死の収容所をじかにみせて納得させます。

ヒトラーユーゲントの若者たちは、自分たちの国に戻ります。
国家再建が進む新しいドイツで、多くの人がナチスに青春を奪われたことを理解しました。
しかし、長い年月を経ても、一つの疑問が彼らについて回ります。

どうして私たちは踊らされたのか・・・??

かつてヒトラーの子供と名乗り、今人生の終わりに近づいた人たち・・・
自分達が生き残ったのは、体験を次の時代の人々に伝えるためだと思っています。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

1/35 第12SS師団 ヒトラーユーゲント擲弾兵【AM35061】 アルパイン

価格:1,870円
(2020/7/1 10:46時点)
感想(0件)

独裁者ヒトラーの時代を生きる 演説に魅入られた人びとと「 つまずき石 」 [ 大島 隆之 ]

価格:1,980円
(2020/7/1 10:47時点)
感想(0件)

1945年4月・・・ベルリン・・・
ドイツ第三帝国の最期の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません・・・
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、その約束を最後まで守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・
そのゆるぎない精神は、どのように培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのでしょうか?
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

ナチス・・・そしてヒトラーユーゲントの歴史は、1920年代に遡ります。
当時のドイツは、第1次世界大戦の敗戦の深い傷を負っていました。
ベルサイユ条約によって厳しい制裁を科され、領土の一部を失ったのです。
敗戦国にとって屈辱的なこの条約を改めようとした男・・・それが、アドルフ・ヒトラーでした。
1923年、クーデターに失敗したヒトラーは、選挙による政権奪取を目指します。
ナチ党は、党の軍事組織SA・・・突撃隊を始め、少年たちを選挙活動に動員しました。
若い活動員たちは組織を結成し、ヒトラーユーゲントと名乗ります。
年齢は14歳から18歳、まだ少人数でした。
1920年代のドイツでは、共産党やカトリック教会が独自に青少年団体を組織していました。
イギリスではじまったボーイスカウトを手本に作られ、子供たちにレクリエーションの機会を与えていました。
ヒトラーユーゲントも人気のあるイベントを催し、あらゆる階級の子供を参加させていました。
多くの子供たちにとって、それは夢のような時間でした。

当時、労働者階級はギリギリの生活をしていました。
青少年向けのレクリエーションは特別で、喜んで参加していたのです。
ヒトラーユーゲントと共に出かけることは、日常とは違う生活を送ることのできる素晴らしい体験でした。
ボーイスカウト同様、メンバーには制服の着用が義務づけられ、見た目には階級の違いは判りませんでした。
ナチ党と共に、ヒトラーユーゲントも急速に勢いを増していきます。
当初ヒトラーは、投票権もない彼らが自分の役に立つとは考えていませんでした。
しかし、1932年、ポツダムのスタジアムに7万の青少年が集まり、ヒトラーを盛大に迎えます。
その力の結集を見たヒトラーは、若者こそが自分の理想を実現する要だと考えます。
ヒトラーは側近に打ち明けました。

「我々は年を食った・・・しかし、この若者たちの力を借りれば新しい世界を作れる・・・!!」

経済危機に乗じて政権を奪取!!
1933年、ヒトラーはついに首相となります。
民主主義は葬られ、ナチ党以外の政党は活動を禁止させられます。
ヒトラーは、最高指導者に全権をゆだねられる民族主義国家をつくることを目指します。
900万人のドイツの子供達を狂信的なナチ党員に育て上げるために、ヒトラーは、脅迫と誘惑を使い分けます。
まず脅迫・・・
対立する政党の全ての青少年組織は解体され、ヒトラーユーゲントに統合されました。
次は誘惑です。
少年たちが一年で一番楽しみにしているサマーキャンプ・・・ヒトラーユーゲントはこのイベントを独占したのです。
親の目の届かない環境は、ナチスのイデオロギー教育に最適でした。
野外活動を通じて、幸せな将来が約束されていると子供たちに思い込ませます。
多くの子供達は、これまでにない楽しい経験をしました。
ユーゲントのメンバーの数は、1年で10万人から200万人以上に爆発的に増えました。
ユダヤ人や野党の党員でない限り、第三帝国の国民は快適な人生を送れたのです。
ユーゲントには女子も男子もいましたが、ヒトラーが計画を成し遂げるためには男子が重要でした。
将来、帝国の兵士となる男子には、特別なプログラムが用意されました。
本格的な戦争ゲームです。
少年たちは、敵の陣地にコンパスと地図をもって潜入し、偽装工作を続けながら標的に接近します。
アドベンチャーゲームは、少年たちの心を掻き立てました。

まるで、ドイツ版西部劇のような宣伝映画も作られました。
映画は劇場公開され、新しいメンバーの入団を促しました。

「ドイツの若き男たちよ!今一度野獣となり、美しさを求める軟弱より、無学な野獣の方がいいのだ!!」

腕っぷしが何より大事です。
ひ弱な子供は笑い者にされ、屈辱を受けました。
ナチスの理念の下では、強い者だけが優遇され、期待に応えられない人間は落伍者として扱われたのです。
いじめの余りのひどさに、若者の中には精神を病み、自殺を図るものまで現れました。
しかし、第三帝国では都合の悪い出来事は覆い隠され、ヒトラーユーゲントは全員勇猛果敢な戦士でした。
徐々に教会や様々な団体が運営する青少年組織は、ヒトラーユーゲントに吸収されていきました。
1937年までヒトラーユーゲントのへの加入は、法律で義務付けられます。
子供達は、幼いころから名誉あるメンバーとして、街頭のパレード行事に招かれました。
行進の練習をすることで、団結したのです。
その足並み同様、少年たちの考え方も統一されていきます。
大人たちに褒め称えられ、政権の宣伝の道具とされた彼らは、高揚感に包まれていきます。
大規模集会では、イベントが最高潮に達すると総統ヒトラーが登場することがありました。
第三帝国の将来を担う者と、その創始者との対面です。
若者たちは我を忘れ、ヒトラーをスターのように褒め称えます。

「我が若きドイツ人たちよ
 君たちがドイツの将来を保証する

 君たちは我々の血であり、肉であり、魂だ
 そして、我が国民の将来である

 君たちの中にある国の未来が、称賛されんことを!!」byヒトラー

ナチスのプロパガンダは、ドイツの若者に、君たちは成功し、強くなり、幸せな暮らしをすると思い込ませました。
若者は喜んで、その魔法にかかりました。
1936年には、500万人以上の若者が、ヒトラーに傾倒し、大きな歌声を響かせました。
国民の洗脳を徹底するため、日常生活にもナチス的敬礼が組み込まれます。
一日に何十回も「ハイルヒットラー」を繰り返す中で、ヒトラーユーゲントは、国家社会主義を刷り込まれました。
イデオロギーの強制は、さらに厳しさを増します。
ナチスは子供と接する大人全てに監視の目を・・・!!
協会の活動は、礼拝だけが許され、サマーキャンプの間に親の影響が取り除かれました。
ナチスは、学校の教育課程も変えました。
子供達は、ユダヤ人と共産主義者を憎むように教えられます。
民族を差別する法律も制定されます。
愛国的な歌は、徐々に憎しみの歌に代わりました。
何度も歌ったため、今でも歌えるといいます。
ひとたび憎しみに感染すると、行動に移すのは簡単です。
ヒトラーユーゲントは、親衛隊SSや、突撃隊SAと共に、ユダヤ排斥運動を大々的に展開していきます。

1936年までに、ドイツは不況から脱します。
ヒトラーは、軍備拡張と、大規模な公共事業を行うことで失業率を低下させ、ドイツをヨーロッパ内の強国に押し上げます。
1938年には、対外攻勢を加速させ、周辺の国や地域を次々とドイツに併合!!
戦争の足音が聞こえてきます。
ナチスにとって、将来の兵士となるヒトラーユーゲントはより重要になりました。
ヒトラーは、自分の望む戦士に仕立て上げるために彼らを厳しく鍛えようと考えます。
スポーツや遊びに加えて、若者たちは本格的な軍事訓練を始めます。
競争心を煽られ、16歳の少年が8キロのリュックを背負って20キロ以上の道程を歩きます。
恐怖心を克服し、戦士にならなければなりません。
ヒトラーユーゲントでは、夢で見た大人の世界のあらゆるものに手が届きます。
射撃訓練も行います。
海軍への入隊に備えた海上訓練・・・空軍の入隊を夢見る少年には、グライダーを使った飛行訓練を、こうした大きすぎるおもちゃを使ってヒトラーユーゲントの子供達は真剣な戦争ごっこをしました。
そして徹底させるために、宣誓をさせました。
年齢を問わず、帝国と総統に忠誠を誓います。

10歳が唱える宣誓・・・

「赤い血の旗の前で私は自分のエネルギーと力の全てを、我が国の救世主アドルフ・ヒトラーに捧げることを誓います。
 総統のためならば、命を捨てる意思と覚悟があります。
少年たちは動じることなく、この言葉を受け入れました。

ヒトラーユーゲントは、恐るべき大組織となります。
1929年に1万7000人だった団員の数は、10年後にはドイツの全ての青少年の98%にあたる800万人以上に達していました。
この頃、ヒトラーユーゲントへの参加は義務となっていましたが、招集に応じない家族には重い罰金が科され、逮捕されることもありました。
徴兵の年齢に達した若者は、国防軍やSS親衛隊に競って入隊しました。
1939年9月1日、戦争が勃発!!
ドイツは、先に攻撃されたという嘘を口実にポーランドに侵攻。
その進軍は、電光石火の早業でした。

ポーランド侵攻から8か月後の1940年5月、ドイツは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻します。
ドイツ国民にとって、ヒトラーは史上もっとも偉大な戦略家でした。
ヒトラーユーゲントは、ドイツ軍の進軍ぶりを信じられない思いで見ていました。
ドイツ国防軍は、フランスとの戦いを6週間で決着させ、勝利しました。
ヒトラーは攻勢を続けます。
1941年6月には、ソビエトに対して奇襲を仕掛けました。
長年の訓練が実を結び、ヒトラーユーゲント育ちの若い兵士たちが至る所で立派な戦士であることを証明します。
前線から戻ると、将来の兵士たちへ英雄となった体験を語ります。

ドイツ軍が東部戦線で進撃を続ける中、後方ではヒトラーユーゲント育ちのメンバーの多い特殊部隊アインザッツグルッペンに、ユダヤ人殺害の任務が与えられました。

前線の戦いが激しさを増す中、ヒトラーユーゲントには体を鍛える授業や、イデオロギー教育が続けられていました。
民族的優位についての授業では、頭蓋骨を奥行き、幅、高さの比率や、髪の毛と目の色が調べられ、ナチスの科学者が決めた基準で分類されます。

1942年の暮れには、ドイツは劣勢となり北アフリカ戦線や東部戦線の戦いは膠着状態となります。
成人男性の殆どが戦場に送られたドイツでは、ヒトラーユーゲントが前線の活動に動員されました。
14歳以上の少年は、一軒一軒家を回って、古着や金属などを集めました。
郵便配達、路面電車の運転、道路や線路の工事、収穫などの畑仕事に駆り出されたメンバーもしました。
戦時の経済を支えるうえで、若者の力は欠かせなくなりました。
プロパガンダ映像は、青少年の強い意志を掲げますが、実際には辛い思いをし、疑問を抱く者が続出します。
工場や鉱山での社会奉仕活動は、強制労働に近いものがありました。

1943年の冬、ヒトラーユーゲントは想定外の事態に直面しました。
劣った人間と呼ぶように教えられてきたロシア人が、ドイツが誇る屈強な軍人たちに反撃を始めたと伝わったのです。
スターリングラードの攻防戦で、ドイツ側は数十万の兵力を失いました。
モスクワ占領も、赤の広場の行進も、もはや夢物語です。

1943年になると、アメリカやイギリスは、地上部隊の損失を最小限に止めるために、大規模な空襲をドイツの工業施設や都市で繰り返しました。
戦争へ行きたいと願っていたヒトラーユーゲントのもとへ、戦争がやってきました。
ドイツは大きな打撃を受けます。
瓦礫の中で、ユーゲントは即席の消防隊員や救急隊員となります。
10年以上にわたってナチスに洗脳され、明るい未来を約束されたヒトラーユーゲント・・・
しかし、彼らは今、連合軍の空襲を受け、悪夢のただ中にいました。
そして、事態はさらに悪化・・・ドイツが敗戦に向かう中、完全な崩壊に至るまで、本土防衛が、この青少年たちに押し付けられたのです。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

独裁者ヒトラーの時代を生きる 演説に魅入られた人びとと「 つまずき石 」 [ 大島 隆之 ]

価格:1,980円
(2020/6/24 21:53時点)
感想(0件)

1/35 第12SS師団 ヒトラーユーゲント擲弾兵【AM35061】 アルパイン

価格:1,597円
(2020/6/24 21:54時点)
感想(0件)

現在、世界中で飛行機に乗る人の数は、1年間で約45億!!
地球上のどこでも気軽に飛んでいけます。
旅客機の時代は、一人の若者の快挙から始まりました。
チャールズ・リンドバーグ・・・およそ100年前、ニューヨーク⇔パリ間の5800キロの無着陸飛行に初めて成功しました。

1929年にアメリカで公開されたウォルト・ディズニーの初期作品「プレーン・クレイジー」・・・飛行機に夢中になった主人公が、パイロットにチャレンジする物語です。
主人公が、その髪型を真似するほど憧れたその人物・・・それがリンドバーグでした。

1927年5月20日、ニューヨーク⇔パリ間を大西洋単独無着陸飛行という世界初の快挙に成功したリンドバーグ・・・
ニューヨークの凱旋パレードでは、400万人もの人が祝福、一夜にして世界中のヒーローとなりました。
しかし、その後リンドバーグを待っていたのは、英雄ゆえの悲劇の連続でした。

20世紀は飛行機と共に始まりました。
1903年、ライト兄弟が世界初の友人動力飛行に成功します。
1914年、第1次世界大戦で、飛行機が戦闘に投入されます。
飛行機の運動性能は瞬く間に向上し、その後は如何に長く飛ぶか・・・飛行距離を競う時代となりました。
そして1919年、アメリカで世界最大の航空レースが催されます。
ニューヨーク⇔パリ間の5800キロ・・・大西洋を横断し、しかも無着陸のレースです。
1番乗りの賞金は、2万5000ドル・・・現在の価値でおよそ4000万円でした。
前人未到のこのレースに挑み、初の偉業達成した若者こそ、リンドバーグでした。

リンドバーグは、どのようにして大西洋無着陸横断に成功したのでしょうか?
1902年、リンドバーグは、ミシガン州デトロイトで生まれました。
父は弁護士、母は教師・・・しかし、両親はリンドバーグが5歳の時に別居します。
母に引き取られたリンドバーグ・・・しかし、母が仕事に出かけると、リンドバーグはひとり・・・。
ひとり遊びが好きな内気な少年でした。

「私は部屋の中で生白い顔をして何時間もずっとあれこれつまらないことを考えて過ごした」

時折会いに来る父は、友達のいないリンドバーグをこう励ましました。

「一人は一人前の仕事をする
 二人では半人前の仕事をする
 三人になると何も達成できない・・・ということわざがある
 他人を頼り過ぎてはいけないよ」

そんなリンドバーグは心を惹かれたのは機械でした。
近くに住んでいた祖父は、歯科医で発明家。
リンドバーグは祖父の研究室に入り浸り、様々な工具や機械に夢中になりました。

「科学はあらゆる謎を解き明かす鍵なんだ!」

やがてリンドバーグの興味は、最先端のメカ・飛行機に向いてきます。
10歳の時、母と共に試験飛行を見学しました。
リンドバーグの目の前で、飛行機が大空へと駆け上がっていきます。

「僕も空を飛びたい!!」

20歳になったリンドバーグは、パイロットを目指して飛行学校へ入学。
1週間後、初めて飛行機に乗せてもらいました。

「美しさと危険に満ち 生と死を超越した永遠の空間の中に生きている気がした」

在学中、リンドバーグはアルバイトして稼いだ金をつぎ込んで中古の飛行機を手に入れます。
その目的は、プロの曲芸飛行士!!
第1次世界大戦が終わり、仕事にあぶれたパイロットが始めたこのショーは、全米で大人気でした。
リンドバーグは、”命知らずの空中軽業師”というキャッチフレーズで、各地を回り、操縦の腕を磨いて行きました。
その後、リンドバーグは、22歳で陸軍飛行学校に入学。
曲芸飛行で磨いた操縦の腕前は、教官を凌ぐほどだったといいます。
翌年、リンドバーグは首席で卒業、航空産業の中心だったセントルイスに移住します。
セントルイスでは、全米に先駆けて、民間の航空郵便が発足、リンドバーグはその会社のチーフパイロットに採用されました。
嵐でも、闇夜でも、たった一人で飛ぶ航空郵便・・・
それは、孤独を苦にしないリンドバーグにうってつけでした。
しかし、当時、航空郵便のパイロットは、最も危険な職業でした。
墜落死亡事故が後を絶たなかったのです。
リンドバーグも、2度墜落事故をに遭いましたが、その度にパラシュートで脱出し、生還しました。
そんな頃、耳にしたレースが、大西洋横断レースでした。
ニューヨーク⇔パリ間、5800kmの無着陸飛行です。
それまで大西洋横断の最長記録は3000km・・・
今回のレースは、その2倍近い前人未到の距離でした。
名だたるパイロットが挑戦したものの、次々と失敗、6人の犠牲者が出ていました。
しかし、リンドバーグに迷いはありませんでした。

「賞金よりコースを飛んでみたい」

リンドンバーグは、他の挑戦者が考えもしなかったアイデアを次々と実行していきます。
大西洋横断は、30時間以上の長距離飛行です。
操縦を後退するため、他の挑戦者は2人乗りの飛行機を使っていました。
しかし、リンドバーグは・・・

「僕はひとりだけで飛ぼう」

狙いは、軽量化でした。
2人乗り用の飛行機では、どうしても重くなり、長距離に適しません。
一人乗りならば劇的に減る・・・
しかし、その代わりにリンドバーグは飛行中一睡もできない!!
さらにリンドバーグは、無線機も非常用のパラシュートも積みませんでした。
命の危険と引き換えに、ギリギリまで軽くしたのです。

リンドバーグは、飛行機の設計の時点で細かく常識外れの注文をつけます。
操縦席の前に、巨大なガソリンタンクを設置しろと言うのです。
操縦席からは、全く前が見えなくなってしまう・・・

「前が見えないと危険だ」と、技術者は猛反対・・・しかし、リンドバーグは反対を押し切ります。
その設計にした理由は、飛行機に燃料を一番多く積める方法だったからです。
彼の飛行技術であれば、前方の視界は必要ありませんでした。
航空郵便では闇夜に飛ぶことも多く、彼にとって飛行は感覚的なものでした。
航路はわかっていて、メーターで高度も解り、飛行の状況をちゃんと把握できたのです。
完成した飛行機の名は、”スピリット・オブ・セントルイス号”でした。
地図には大西洋上空を吹く季節風なども計算し、1時間で飛べる距離・・・すなわち100マイルごとに方向を細かく書き込みます。

「正確であることは、とても重要なことだ
 ぼくの職業は、命そのものが正確さに依存しているから」

1927年5月20日・・・大西洋横断飛行出発当日・・・。
入念に準備をしてきたリンドバーグでしたが、大きなミスを犯していました。
記者たちの取材攻勢で眠ることができず、フライトを前に24時間も眠っていない状態でした。
積んでいた食料は、サンドイッチ5食分だけ・・・
「それで足りるのか?」と聞かれたリンドバーグは、

「パリに着けばサンドイッチはいらない
 パリに到着しなければやはりサンドイッチはいらない」

午前7時54分離陸・・・
ところが燃料が満タンで重かったうえ、滑走路が雨でドロドロにぬかるんでいたため、なかなか離陸ができない・・・
なんとか機体を持ち上げた飛行機・・・パリへの長い旅が始まりました。
離陸から14時間・・・飛行機は大西洋上空へ・・・!!
リンドバーグの最大の敵は、睡魔でした。
飛行前からの睡眠不足と疲労で、激しい睡魔に襲われ、幻覚まで見えたといいます。

「なんとかして気を張り詰めておく方法を見つけなくてはならない
 この分では、死か失敗しかない」

窓から顔を出し、プロペラからの熱風を浴びてなんとか眠気を覚ましたといいます。
ニューヨークを出発してから33時間30分・・・リンドバーグの目に映ったのは・・・

「星空の下に星がきらめくような大地がある・・・ パリの灯だ!!」

空港には、15万人のパリ市民がリンドバーグを一目見ようと殺到しました。
アメリカに帰国後、大統領からは勲章が与えられました。
その後、リンドバーグは全米の82都市を訪問、熱烈な歓迎と祝福を受けました。
リンドバーグ25歳の時でした。

前人未到の偉業を成し遂げ、一躍世界のヒーローとなったリンドバーグ・・・
しかし、その僅か8年後、リンドバーグ一家は祖国アメリカを去りイギリスに移住します。
英雄となったリンドバーグを待っていたのは、祝賀行事の分刻みのスケジュールでした。
行く先々で、待ち構えるマスコミから猛烈な取材攻勢を受けます。
端正な顔立ちも、人気に益々火をつけます。
多くの女性が、独身のリンドバーグに熱い視線を送ります。
しかし、彼は何の関心も示しませんでしたが・・・

メキシコシティ・・・1927年、アメリカ政府の要請で親善大使としてメキシコへ
そして、アメリカ大使館のクリスマスパーティーに出席します。
そこでリンドバーグを迎えたのが、大使の娘アン・モローでした。
文学を愛する物静かな女性にリンドバーグは一目ぼれします。
大西洋横断から2年後、27歳になったリンドバーグはアンと結婚。
リンドバーグは、しばしばアンを飛行機に乗せて空を飛びました。
そしてこんな夢を語りました。

「僕が今、興味があるのはね 国と国の間にある偏見を打ち破って、飛行機を通じてお互いを結びつけることなんだ」

リンドバーグは、航空会社の技術顧問に就任。
ニューヨークから西海岸への航路の開発に乗り出します。
当時、ニューヨークから西海岸までは、大陸横断鉄道・・・一番早い汽車でも丸3日かかりました。
このルートを飛行機が飛ぶようになれば、客が殺到するのは確実だ!!
リンドバーグは、安全で効率的なルートを探すため、何度も大空に飛び立ちました。
なんと、妻のアンも一緒でした。

1929年、ニューヨークロサンゼルス間を48時間で結ぶ大陸横断旅客航路、就航。
リンドバーグ・ラインと呼ばれるこの航路は、誰もが飛行機に乗って旅をする先駆けとなりました。
私生活も充実し、この頃、長男チャールズが誕生します。
リンドバーグは、静かな環境を求めてニューヨークから車で2時間ほど離れた郊外に移り住みます。
航空ルート開拓の仕事は、子供が生まれても続けました。
アンと二人でアラスカからベーリング海、日本に至る北太平洋航路の開発の旅に出ます。

1931年8月、夫妻は茨城県霞ヶ浦に到着。
日本での滞在はおよそ1か月・・・東京、大阪、福岡と訪問し、各地で熱烈な歓迎を受けます。
その後、アメリカに戻ったリンドバーグ・・・しかし、その6か月後悲劇が・・・。
1932年3月1日、自宅で一家団らんを過ごした夜9時すぎ・・・当時1歳8か月の長男チャールズが2階の寝室から忽然と姿を消したのです。
部屋には脅迫状が残されていました。

「5万ドルを用意しろ
 警察には知らせるな」

世界的な英雄を襲った誘拐事件・・・!!
静かな森は、報道陣と警察で騒然となりました。
妻アンはリンドバーグの母への手紙にこう書いています。

「恐ろしく非現実的な状況に私の感覚は麻痺しています」

リンドバーグは、身代金5万ドルを用意します。
犯人から受け渡しに指定された墓地・・・
リンドバーグは、離れたところから身代金受け渡しに立ち会いました。
しかし・・・金を渡したもののチャールズは帰らず、犯人からの連絡も途絶えました。
事件から70日後・・・自宅から5キロほど離れた松林で、変わり果てた我が子が発見されました。

「抑えようのない感情がこみ上げてくる
 今はこの悲しみを受け入れることができない」

事件から2年半後、身代金の紙幣を使った男が逮捕されました。
ドイツ系移民のブルーノ・ハウプトマン・・・不法入国者で逮捕歴もありました。
裁判でハウプトマンは、無罪を訴えました。
その内容をリンドバーグは欠かさず傍聴したといいます。
リンドバーグは、ハウプトマンの声を聞いてこう証言しました。

「あの晩に聞いたのと同じ声です」

リンドバーグの証言が決め手となり、ハウプトマンは死刑となりました。
しかし、判決の後、リンドバーグへの取材攻勢はやむこともなく・・・さらに、事件後に生れた次男のジョンを誘拐するという予告状まで舞い込み、リンドバーグ一家の忍耐力は限界に達していました。
1935年、妻と次男と共にイギリスに移住・・・33歳の時でした。

第2次世界大戦が起きると、リンドバーグは英雄から一転、国民の批判にさらされることとなります。
どうして英雄の座から転げ落ちたのでしょうか?
1935年、イギリスに移住したリンドバーグ一家・・・ロンドンの郊外で、おだやかな日々を過ごしていました。
1年後・・・リンドバーグのもとに、アメリカ政府から1通の手紙が届きます。
ヒトラー率いるナチスドイツの空軍を視察する依頼でした。
1936年7月、34歳のリンドバーグは、妻のアンと共にベルリンに飛びます。
ドイツを視察訪問・・・リンドバーグの名声は、ドイツでも絶大でした。
ヒトラーの右腕で、ドイツ空軍総司令官だったゲーリングは、リンドバーグを大歓迎・・・
軍事機密である戦闘機の視察も特別に許可されます。
ドイツ空軍の戦闘機を見たリンドバーグは、高い技術力に感銘を受けます。
第1次世界大戦の負け、兵器を破壊されてから20年足らず・・・
驚異のスピードでドイツを復興し、軍備を整えたヒトラーを高く評価しました。
リンドバーグは、日記にこう記しています。

「彼に対して批判はあるが、偉大な人物であることに間違いない
 若干の狂信的行為はあるが、ある程度の狂信性がないと、これほどまでのことは達成できなかっただろう」

その後、リンドバーグにはドイツに貢献した外国人に与えられるという荒鷲十字勲章が与えられました。
リンドバーグは、意味を深く考えずに勲章を受け取ったといいます。
彼は決して”親ナチス”ということではありませんでした。
しかし、彼は間違いなく、ナチスドイツの技術の進歩、そしてヒトラーが作り上げた空軍に感銘を受けていました。

1939年4月・・・3年半ぶりにアメリカに帰国。
その9月、第2次世界大戦が勃発!!
ナチスドイツがポーランドに侵攻したのです。
これを受けアメリカでは、ナチスドイツを批判するローズベルト大統領がアメリカも参戦すべきだと主張していました。
リンドバーグは、この主張に真っ向から対立!!
中立を訴えました。

「私は皆さんにアメリカの中立を訴えたい
 戦争に介入すれば、私たちは大変な損害を受けます
 我が国の指導者の判断は間違っています」

リンドバーグの主張は、大きな支持を集め、次期大統領の有力候補という声まで聞かれるようになっていました。
1940年、ナチスドイツがロンドンを空爆開始、アメリカの世論は一気に参戦に傾きます。
それでも参戦に反対し続けるリンドバーグに、民衆は失望していきました。

「アメリカを戦争へと駆り立てるのは、ローズベルト大統領に他ならない」

風刺画にはナチスの手先として描かれ・・・ドイツの勲章を持っていたことも、ナチスとの関わりの証拠だとされ、国中から大バッシングを受けたのです。

リンドバーグの立場がさらに悪くなる事態に・・・
1941年、日本がハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃、太平洋戦争が勃発しました。
こうなっては、リンドバーグも反戦の主張を撤回する以外にありませんでした。

「我が国に対して武力を行使された今、武力によって報復せねばなりません」

自らも参戦したいと希望したリンドバーグ・・・
しかし、ローズベルト大統領と廃立している時に軍籍を返上していました。
軍には戻れない・・・そこで、戦闘機を作る民間会社の技術顧問として参戦します。
太平洋のニューギニアへ・・・!!
到着すると、軍法を無視して爆撃機に搭乗します。
米軍は、日本軍の拠点ラバウルの爆撃を計画、パイロットにはニューギニアからラバウルを往復する長距離飛行の技術が必要でした。
すでに40歳を超えていたリンドバーグ・・・しかし、長距離飛行で彼の右に出る者はいませんでした。
最高司令官マッカーサーは、リンドバーグの参戦を黙認。
若いパイロットの指導役として燃料の節約教えます。
ゼロ戦の激しい攻撃をかわしながら、日本軍に爆撃を続けたリンドバーグ・・・
しかし、爆撃後地上に降りて日本兵の死体を見た時、大きな衝撃を受けました。

「自分がボタンを押すことで死が落下していく
 爆弾が落ちたところに人がいたら、その人の命を奪ったのは自分なのだ」

1945年5月、首都ベルリンが陥落・・・ドイツは降伏しました。

1960年代、60歳を過ぎてからリンドバーグはそれまでと全く違う活動を始めます。

「もしどちらかを選ぶとするならば、今の私は飛行機よりも鳥を選ぶだろう」

それは、絶滅危惧動物の保護でした。
飛行機という最先端の文明とは真逆の自然に生きがいを見つけたのです。

1945年5月、ドイツの敗戦から1か月後・・・ドイツ空軍の技術調査のためにドイツを訪問。
そして調査の一環として、ナチスの強制収容所を訪れます。
そこで、多くのユダヤ人が虐殺された生々しい現場を目の当たりにします。

「これこそ、人間の生と死が堕落の極みに達した場所・・・
 このような施設を正当化することは絶対に不可能だ」

太平洋戦争の終結から3年後、今度は日本へと飛んでいき広島を上空から眺めました。

「よく目を凝らすと、眼下には爆破され、放射能を浴び、焼けただれた広島の土が見えた」

そして1953年、リンドバーグは1冊の本を発表します。
タイトルは「翼よ、あれがパリの灯だ」。
ニューヨーク⇔パリ間の無着陸飛行を中心に書かれた青春の自叙伝です。
あれから26年経った今、リンドバーグは快挙に酔いしれた当時とは全く違う気持ちだと語りました。

「私たちは飛行機というものに命を捧げてきたが、それを作り出した文明を、いま私たちは破壊しているのだ」

60歳を過ぎたリンドバーグは、世界自然保護基金の団体と連携し、絶滅が心配される生き物の保護するため、世界中を飛び回るようになります。
フィリピンのミンドロ島にだけ生息する野生のタマラオ・・・この牛も、絶滅危惧種の一つでした。
リンドバーグは、その知名度を生かし、マルコス大統領の直談判、フィリピン政府を動かして、保護区を作らせました。
他にも、シロナガスクジラ・ハクトウワシ・ホッキョクグマ・マウンテンゴリラなど、世界中を飛び回りながら、その後の人生を動物たちを救うことに捧げました。

ハワイ・マウイ島・・・豊かな自然のこの島に、リンドバーグが晩年家族と過ごした家があります。
文明から遠ざかるように、電気もガスもひかず、ランプと薪の生活を送っていたといいます。
末の娘によると・・・

「父は優しくもあり厳しくもありました
 子供の頃には私を抱き上げて高く投げてくれたり、家ではロープで素敵なものを色々と作ってくれました
 機械であろうとお金であろうと、日常使うものの管理にはとても厳しかった
 車に乗る前には、私たちにもタイヤを蹴らせ、オイルの点検もさせました
 突然車を停めて、私たちにタイヤの交換をさせたりもしました
 まだ交換の必要が無くてもです」

そんな父が晩年、自然の保護活動に打ち込んだのも分かる気がするといいます。

「父は飛行機の技術が、世界中の自然を破壊していると考えたのです
 ”人類が生き残るには自然とテクノロジーのバランスをとらなくてはならない”と言っていました」

71歳の時、リンドバーグは悪性リンパ腫に侵され、ニューヨークの病院に入院します。
しかし、都会で死を迎えることをかたくなに拒み、医師の反対を押し切って島へ戻りました。

「マウイ島で死に、その地で埋葬される・・・
 そのことが、父にとって大事なことでした
 亡くなる10日前とか、1週間前に、死に向けて全ての準備が整っているか確認したかったのです
 父はどのようにお墓が建てられるかも知りたがりました
 自分の葬式で、母に讃美歌を歌ってほしいと希望したのに、”あれはダメ””これはダメ””他の賛美歌にして”と注文を付け、自分で決めようとしていました
 本当に父らしいと思います
 父は非常に細かいプランナーでした」

「どうせ死と対面するならば、前もって知っておきたいのだ
 死こそ人生における最後の、そして最大の冒険だろうから」

1974年8月26日、チャールズ・リンドバーグ死去・・・72歳の生涯でした。
今、リンドバーグは、マウイ島の自然の中で静かに眠っています。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング 

【中古】 翼よ、あれがパリの灯だ 下 / チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ, 佐藤 亮一 / 旺文社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】

価格:6,142円
(2020/5/18 15:50時点)
感想(0件)

【中古】 20世紀の巨人 偉人列伝 空と宇宙 /ルイ・ブレリオ,チャールズ・リンドバーグ,アンドレ・タルカ,ユーリー・ガガーリン,クリストフ・タルシェスキー(監督) 【中古】afb

価格:500円
(2020/5/18 15:51時点)
感想(0件)

史上最も壮大にして複雑な軍事作戦・・・
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始!!
第二次世界大戦で、連合軍に勝利の道をもたらしました。
しかし、一歩間違えば、大惨事となる危険な賭け・・・万全の準備が必要でした。
ノルマンディー上陸を成功に導いたのは、ある大掛かりな嘘でした。
連合国は、欺瞞作戦フォーティテュード作戦を展開し、決行の時期と上陸の地点について偽の情報を流し、ヒトラーを出し抜いたのです。

イギリスの諜報機関が架空の部隊を作り上げ、その情報をスパイたちがドイツに流しました。
この作戦で活躍したのが、スペイン人の二重スパイ・・・コードネームはガルボです。
ガルボの活躍なしには、成功はありませんでした。
連合軍は、どうしてドイツの諜報機関を欺くことができたのでしょうか?
見事にヒトラーの裏をかいた謀略の立役者は、いかなる人物だったのでしょうか?

1944年6月・・・連合軍のフランス上陸は、失敗の許されない危険な賭けでした。
フランスをナチスドイツから解放すべく、イギリス・アメリカ・カナダ軍の将兵13万人以上が、ノルマンディーに殺到しました。
この作戦を成功に導いたのは何だったのでしょうか?
連合軍は、少なくとも数の上でははるかに劣る兵力で、4年にわたって敵の配下にあった地域に乗り込んでいきました。
イギリスからの距離・・・わずか160キロとはいえ、ノルマンディー地方の上陸には様々な困難が予想されました。
イギリス海峡は波が荒いことで有名・・・完璧な兵力で、船酔いもなく到着することが必須条件でした。
1942年8月19日、連合軍はディエップの戦いで、上陸作戦に失敗・・・負傷兵1800人を失っていました。
敗因は、ドイツ軍による港の防御が予想以上に堅かったことでした。
この失敗を踏まえて、今度は港から離れた場所に狙いを定めます。
ドイツ軍は、連合軍は次も港を狙ってくると思っていました。
連合軍は、港を避けます。
アメリカの参戦以来、連合軍はフランス上陸への新たな機会をうかがっていました。
1943年連合国首脳は相次いで会談し、年末のテヘラン会談では、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソビエトのスターリンが顔をあわせます。
この時、ノルマンディー地域への上陸を目指すオーバーロール作戦が、具体化しました。
しかし、フランスへの上陸を見越して準備を進めていたのは、連合国側だけではありませんでした。

ヒトラーは、1940年にイギリスとの航空戦に敗れ、ソ連との戦いにもてこずっていました。
連合軍のフランス上陸は、もはや避けられないと感じていました。
問題は連合軍が、どこを、いつ、攻めて来るのか??でした。
ドイツははるかに戦闘経験豊かな部隊が、連合軍を待ち構えていました。
ヒトラーは、連合軍は必ず主要な港を攻めてくると考えていました。
中でも、自分がかつてイギリス侵攻への足掛かりにしようとしたパ・ド・カレーは最も近く、その距離は、50キロ足らずでした。
空軍が、燃料を保ちながら最大限に闘うためには、近い距離が必須でした。
もちろん、連合軍もパ・ド・カレーが一番でした。
しかし、連合軍は、最短距離のパ・ド・カレーではなく、ノルマンディーに・・・。
敵の不意を突き、時間を稼ごうとしたのです。
上陸作戦は、往々にして最初の数時間が勝敗を決します。

初日の課題は、最初の陣地となる橋頭堡を築くことでした。
しかし、橋頭堡は格好の標的になります。
連合軍は、巨大な港の建築を試みました。
この港から、兵士や物資を海岸に送ることができるのです。
しかし、連合軍の行く手には、大西洋の壁という強大な障壁がありました。
1941年、ヒトラーは、第三帝国の威信をかけた難攻不落の砦を作っていたのです。
ノルウェー北部からフランススペイン国境まで、およそ4300キロにわたり、8000を超える防御陣地、鉄条網、機関銃座や火炎放射台、対戦車砲、通信傍受施設を供えます。
しかし、防御施設の大半は作りかけで、人員、物資・・・不足していました。

1943年末、ヒトラーは、ロンメル元帥を大西洋の壁の補強に当たらせます。
進んでいない補強・・・ロンメルは全力でその強化に努め、改善します。
ロンメルは、フランスとオランダの海岸に、12の要塞を築きました。
中でも力を入れたのが、パ・ド・カレーの防御です。
ドイツ軍は、連合軍がパ・ド・カレーを狙ってくるとわかっていました。
人員や物資をこの地域に集中させ、防御を固めようとします。
そのことが災いして、それ以外は手薄なままでした。

1944年初頭、フランスにはドイツ軍150万人が駐留し、連合軍の侵攻への備えをはじめていました。
作戦の成功は、ドイツ軍の不意を突けるか??というところにかかっていました。
ヒトラーは、戦線が西になることは確信していたものの、パ・ド・カレーと思い込んでいました。
イギリスは、その思い込みを長引かせて、ノルマンディーから頭を外させなければなりません。
イギリスは、偽の情報を流して欺瞞作戦に力を入れます。
1942年には、北アフリカ戦線で効果をあげています。
イギリスの首相・チャーチルは、上陸作戦をドイツに悟られないために、軍の幹部たちに情報戦を指示します。

ロンドンでは、欺瞞作戦に特化した”ロンドン諜報司令部”が設置されました。
チャーチル自らがトップを選びます。
頭脳明晰で入隊まで金融機関で活躍していたイギリス陸軍ジョン・べヴァン中佐です。
作戦全体の管理を行いました。
彼は、欺瞞作戦の全貌を把握していました。
チャーチルはこの助言を頼りにし、そのオフィスを内閣戦時執務室の近くに置きました。
べヴァンは、国内での諜報活動が専門のMI6と、国土安全保障を担当するMI5の統括も任されます。
こうして、コードネーム・フォーティテュード(不屈の精神)作戦が始動・・・
作戦に関わる全ての人々にとって、膨大な挑戦の始まりでした。
フォーティテュード作戦は、二段構えの大掛かりなものでした。
ひとつは、フォーティテュード・ノース・・・
スカンジナビア侵攻をほのめかし、そこにいるドイツ軍をくぎ付けにし、西部戦線に加わるのを防ぎます。
そしてフォーティテュード・サウス・・・
連合軍がいつどこに上陸するのかを悟られないように、敵をかく乱します。
イギリス南東部に連合軍の部隊が集結していると情報を流すと、ヒトラーはパ・ド・カレーを目指していると思うはず・・・
この情報のために、本物の部隊を投入するわけにもいかないので、連合軍はアメリカ軍第一軍集団という架空の部隊を作り上げます。
当時の地図のケント州一帯には、架空の師団の配備位置が記されています。
どうやって信憑性を持たせたのでしょうか?
ヒトラーの注意をひくような、実在の人物を司令官にします。
連合軍総司令官アイゼンハワーが指名したのは、アメリカ陸軍のパットン将軍でした。
パットンなら申し分ありませんでした。
パットンの名前を聞いたドイツ軍は、「あのパットンが率いるのだから、連合軍の精鋭部隊に違いない!!」と考えたのです。

パットンは、かつてダンケルクからの撤退作戦で拠点となったドーバー城の地下に司令部を置きました。
ドーバー城に司令部を置くことで、連合軍の目標はパ・ド・カレーだと思わせます。
実際の司令部は、ポーツマスにありました。
上陸作戦の実行を決めてから、連合国は並行してフォーティテュード作戦を具体化させてきました。
1943年11月の極秘文書から、当時すでに作戦の詳細が検討されていたことがわかります。
第一段階は、架空の軍隊の装備を整えることでした。
ロンドン諜報司令部は、相当な費用を投じ、航空機や船舶などの木製のダミーを作らせます。
何百という艀や上陸用舟艇が作られました。
航空機が偽物の滑走路に・・・
しかし、問題が・・・戦時中、木材は高価だったので、費用が膨大なものに・・・!!
おまけに木製のダミーは重く、移動する部隊としては不向きでした。
低コスト、軽量で敵を威圧するためには・・・??
アメリカ軍の士官が、秀逸なアイデアにたどり着きました。
ニューヨークの感謝祭パレードののバルーンを思い出したのです。
ゴムなら軽くて丈夫、様々な形に作ることができます。
1944年の3月以降、アメリカのタイヤメーカーが中心となって、ダミーの戦車づくりを始めました。
空気で膨らませるゴム製の戦車が何百と作られ、イギリスに送り込まれたのです。
イギリス南東部の沿岸部に255台のゴム製の戦車が置かれました。
こうしてダミーの航空機や戦車が設置されていきました。
あとは、ドイツ軍の偵察飛行を待つだけでした。

その効果は抜群でした!!

ロンドンの映画スタッフも参加します。
ドーバー近郊に、燃料貯蔵庫を造れ!!
手に入るものを・・・ガラクタをかき集めて・・・ダミーを作ります。
タンカー、石油ポンプ・・・連合軍は、設備に至るまで細かく作り上げました。
国王ジョージ6世も現地を視察します。
連合国は、総力を挙げて一芝居を撃ちます。
あらゆる産業が協力します。
当時、イギリス南東部には数千人の兵しかいませんでしたが、それを100万人規模に見せる必要があったのです。
ドーバーには多くの人や車が行き交うようになりました。
アメリカ軍第一軍集団司令部の標識が立ち、地元の人々もそれを信じていました。
しかも、ドイツの諜報員が見ることを見越して、新聞社を巻き込んだプロパガンダが展開されます。
新聞には架空の記事が・・・!!

無線通信は傍受される可能性がありましたが、それを逆手に取ります。
ドーバーの無線室から、軍の動向を知らせるメッセージを大量に送ります。
ここに大規模な部隊がいるとドイツ軍に思わせるために・・・!!
こうして、実在しない部隊に命が吹き込まれていきました。
架空の師団に割り当てる徽章まで・・・!!

しかし、ドイツ側が気付かなければ意味がない・・・
どれだけ把握していたのでしょうか?
ドイツには、架空の師団の配置を正確に伝わっていました。
1944年当時、ドイツ軍によるイギリス本土の偵察飛行はほぼ不可能でした。
当時、イギリス上空を飛ぶドイツ軍機は、連合軍にことごとく撃ち落されていて、写真を持ち帰ることができませんでした。
そこで、あえてドイツ軍機を誘い込み、イギリス南部に集中させている様子をわざと撮影させます。
ドイツ軍は1944年1月~3月まで、一度もイギリスの偵察飛行を行いませんでした。
4月~5月にかけては成功しています。
そこには、ハッキリとダミーの上陸用舟艇が映っています。

架空の部隊、架空の無線通信、偵察機の誘導・・・しかし、数回の偵察飛行をしただけで、ドイツ軍が詳しく情報を入手することができたのか・・・??

そこにはスパイの存在が・・・
イギリスには2つの諜報機関MI5と、MI6があります。
国土安全保障を目的とするMI5の戦時中の方針は明確でした。
敵国のスパイは、協力させたうえで本土に帰らせ、それを拒むものは処刑しました。
潜入したドイツのスパイは、たちまちあぶり出され・・・ドイツ国防軍の諜報機関アプヴェーアは、イギリスで確かな情報源を一人も確保することができませんでした。

二重スパイ・・・ウソにウソを重ね・・・イギリスは、目標を達成するためには大掛かりに展開します。
しかし、ドイツにはそんな発想はありませんでした。
二重スパイを使って、偽の情報を流します。
ドイツが其れに騙されていることをどうやって確認したのか・・・??
イギリスは、1941年以降・・・ドイツの暗号エニグマの解読に成功していたのです。
暗号解読によって手に入れた情報は、最高機密とされました。
エニグマの解読・・・それによって、ドイツ軍司令部の通信内容を把握することができました。
暗号解読の拠点だったブレッジリーパーク・・・1944年には、難解の暗号も、8時間程度で解読可能でした。
相手の反応をリアルタイムで把握し、敵のスパイも把握していたのです。

一方、ドイツ国防軍諜報機関アプヴェーアは、自分たちのスパイ網に自信を持っていました。
イギリス各地にスパイを配置させ、通信傍受で得た情報の裏付けをとっていました。
ところが、ネットワークを統括していた人物こそが・・・二重スパイ、フアン・プジョルです。
フォーティテュード作戦に欠かせない人物でした。
ドイツの分析結果を裏付けるような情報を提供するのが彼の役目でした。
しかし、どうしてスペイン人のプジョルがイギリスの作戦に加わることになったのでしょうか?

バルセロナ出身のプジョルは、スペイン内戦を経験し、独裁者フランコやファシストを憎悪していました。
第二次世界大戦が激化する中、連合軍のスパイになることを決意します。
ヨーロッパの文明が、ヒトラーによって破壊されてしまう・・・!!
しかし、イギリスは門前払いします。
敵の諜報機関の回し者かもしれない・・・!!
プジョルは大胆なプランを考えます。
イギリスの関心をひくために、ドイツのスパイとして働くことにしました。
ドイツ側の信頼を得ることで、イギリスの興味をひきたかったのです。
1941年、プジョルはマドリードでドイツ軍のスパイにスカウトされます。
こうして中立国スペインで、ドイツのスパイとして活動し、連絡係のキューレンタールとも信頼を得ていきます。
プジョルは、ドイツにイギリスの入国許可証を持っていると嘘をつきます。
当時、ドイツはイギリスにスパイを潜入させるのに大変苦労していました。
この機会に飛びつき、プジョルに秘密の連絡手段を教えます。
報酬も与えます。
41年の夏・・・プジョルはロンドンに渡ったと思わせながら、実際にはポルトガルのリスボンに到着。
スパイの多かったこの町で、活動を始めました。
彼はイギリスに行ったこともありませんでした。
リスボンの図書館で時刻表を見て到着・・・あたかもイギリスにいるようにしてやり取りを始めます。
ドイツ側にはアラリックというコードネームで呼ばれたプジョルは、巧妙にウソをつきました。
そもそも、ドイツに有利な情報を渡すつもりはなかったため、様々な話をでっち上げ、永遠と描写させたのです。

プジョルは自分の身を護るために、イギリス国内に大勢の情報源を確保したように装います。
数か月のうちにプジョルのネットワークはイギリス全土に広がります。
情報が偽物だとバレてもその情報源のせいにして、難を逃れることができます。
イギリスMI5も動き始めます。
彼等はアラリック・・・プジョルの暗号の内容をすべて解読していました。
情報はマドリードのキューレンタール少佐を通じて、ベルリンに送られていました。
アラリックとは何者なのか・・・??どうして本土にスパイ網を巡らすことができたのか??
奇妙だったのは、彼の情報の殆どが全くデタラメだったこと・・・。
イギリスの諜報機関は、リバプールにいたスパイが送った情報を入手しました。
輸送船団がマルタ島を目指して出発したという情報・・・そんな事実はありませんでした。
その情報を受けたドイツは、迎え討とうと空軍と海軍から数多くの航空機を動員したのです。
ベルリンにこれほどまでの影響力を持つスパイ網を持つ人間がMI5の目を逃れて展開している・・・それを取り仕切っているのはアラリック・・・

アラリックとフアン・プジョルが重なり出しました。
1942年4月・・・MI5の諜報員が、プジョルに接触・・・
プジョルはドイツのスパイとして1年間活動していたと証言。
それは、イギリス側に認めてもらうためだったと告白します。
ついにプジョルは二重スパイとしてイギリスに採用され、コードネームはガルボ!!
1942年、プジョルはイギリスにわたりました。
偽の情報を流し続けてきたことを当局に認めます。
各地にいるはずのスパイは、全部架空の人物だと明かしたのです。
つまり、プジョルのイギリスでの組織自体も存在しませんでした。
偽のスパイ網は拡大し、1944年には27人にもなっていました。
ドイツが偽の情報を信じなければ、フォーティテュード作戦は失敗する・・・!!
全てはプジョルと架空のスパイたちにかかっていました。
プジョルは報告をロンドンから諜報機関アプヴェーアのマドリード支部に送ります。
支部長のキューレンタールは、そのままベルリンに転送します。

イギリスはエニグマの解読に成功していたので、プジョルが送った全ての情報がベルリンに転送されていることも解っていました。
ドイツ側がプジョルを高く評価していることも解っていました。
ヒトラーは、イギリスが南部に兵力を集中させていると確信するようになります。
1942年4月~44年8月まで、プジョルは毎日のように大量の情報をドイツ側に送っています。
中継係のキューレンタールは、プジョルを少しも疑わなかったのでしょうか??
彼を採用した自分に傷をつける・・・時間がたつにつれて、プジョルを切り捨てることができなくなってきていました。

ドイツ国防軍のアプヴェーアは、完全にヒトラーに従っていたわけではなく、北アフリカや南イタリアへの連合軍上陸を予想できなかったアプヴェーアに、ヒトラーは不信感を募らせ、強硬手段に出ます。
1944年2月、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリス長官を、故意に情報を改ざんしたとして更迭しました。
1920年代初頭に創設されたアプヴェーアは、ナチス傘下ではなく、国防軍の諜報機関です。
カナリス長官は愛国者でしたがナチスには反発していました。
レジスタンスに肩入れし、強く批判していたのです。
カナリスが更迭されたあとも、任務は続行されます。
キューレンタールはユダヤ系であり、ヒトラーが政権を握ると同時に、ベルリンを離れていました。
彼は、プジョルの情報を嘘だとしても見逃していたのでしょうか?
連合軍は、敵の諜報機関から思いがけない恩恵を受けていたのでしょうか?

プジョルは、架空のスパイ網を駆使し、ドイツ側に偽の情報を流し続けます。
上陸作戦を控えた5月・・・なぜかヒトラーはノルマンディーを強く警戒します。
しかし、ロンメルは不可能だと・・・ほとんどの部隊をパ・ド・カレーに集中させていたのです。

上陸作戦決行前夜・・・イギリスはまたもや名案を思い付きます。
上陸直前にドイツに本物の情報を伝えたのです。
朝の4時ごろ・・・プジョルは暗号化した情報をマドリードに送り、ベルリンに転送されます。
連合軍がノルマンディーに上陸・・・という情報です。
まだ海岸に部隊は到着していませんでしたが・・・

ドイツ軍のプジョルに対する信頼は劇的に高まります。
プジョルが見事に連合国の動向を読んだことを称賛し、情報が遅れたのは技術的な問題のせいだと思ったのです。
ついに6月6日・・・遂に連合軍はノルマンディーに上陸!!
しかし、プジョルの任務はまだ終わっていません。
パ・ド・カレーの装甲師団が、ノルマンディーに行くことを防がなければなりませんでした。
ここからがフォーティテュード作戦の山場・最大の快挙でした。
彼等は、ノルマンディー攻撃は陽動作戦にすぎず、本当の狙いはパ・ド・カレーだとヒトラーに思い込ませたのです。
ドイツをだまし続けます。
桟橋を組み立て、陣地を守るための物資を降ろすために時間稼ぎが必要でした。
プジョルの本当の任務はここからでした。
ドイツに情報を送ります。
イギリス南部で部隊の動きが活発化している・・・
第二の上陸作戦の目標はパ・ド・カレーだ!!

ドイツはまたもや偽の情報に惑わされ・・・連合軍は時間を稼ぐことができました。
ノルマンディーへの上陸が成功し、足がかりができ、大規模な追撃が可能となりました。
これが戦争の流れを変え、退局を余儀なくされたドイツ軍はこの後勝機を見出すことができませんでした。
偽の情報を掴まされたドイツは、プジョルを問いただします。

「パ・ド・カレーへの攻撃などなかったではないか?」
「ノルマンディーの攻撃が予想以上の成果をあげたので、連合軍はパ・ド・カレーへの攻撃を取りやめたのだ」

ドイツ軍は納得します。
壮大な謀略作戦は成功をおさめました。
皮肉にも、ヒトラーは1944年7月、プジョルの功績をたたえ、鉄十字章を授与しました。
4か月後、イギリスからも大英帝国勲章を授かったプジョルは、敵対する2つの国から勲章を授与されたことになります。
第二次世界大戦が終わり、冷戦の時代になると、イギリスの諜報機関はフォーティテュード作戦を覆い隠してしまいます。
この作戦について多くが語られなかった背景には、人道的な理由もあります。
連合軍はパ・ド・カレーへの上陸に信憑性を持たせるために、一帯を爆撃・・・
何百というフランス市民が命を失いました。

非人道的な行為もやむ終えないと考えていました。
どんな犠牲を払っても目的を果たさなければ・・・!!
フランスのレジスタンス組織も犠牲になりました。
ドイツの諜報員が潜入していることを知ったイギリスが事前に通告しませんでした。
レジスタンスメンバーも騙され・・・フォーティテュード作戦の全体図を知っていたのは、イギリスとアメリカの諜報機関のみでした。
イギリスとアメリカが保管されている文書が全て公開されるためにはあと10年・・・もしくはあと35年必要です。
作戦の真相はまだ闇の中です。
第二次世界大戦が終わって70年以上たった今も、秘密は秘密のままなのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

史上最大の決断 「ノルマンディー上陸作戦」を成功に導いた賢慮のリー [ 野中郁次郎 ]

価格:2,376円
(2019/9/27 20:32時点)
感想(0件)

2019 フランス ノルマンディー上陸作戦75周年 金貨(フェアマインド) 1/4オンス プルーフ 箱とクリアケース付き 新品未使用

価格:174,050円
(2019/9/27 20:33時点)
感想(0件)

秘密の闇に隠されたお宝ロマン・・・現代に残された巨大な謎・・・それはナチス黄金列車でした。
2015年8月、ポーランド・ワルシャワにて・・・衝撃のニュースが発信されます。
「私が思うには、列車は99%埋まっています」byポーランド文化・国家遺産省・ジュコフスキ副大臣
ポーランドで地下に埋められた列車・・・
謎のナチス黄金列車発見か??
ヒトラーの秘密の黄金列車??!!
第二次世界大戦末期、黄金など300tの財宝を積んだ列車をナチスドイツがどこかに隠したのか??
その幻の列車の隠し場所は、戦後70年を経て判明したのか??

黄金列車発見か?となった発信地は、ポーランドのバウブジフ。
この町は、第二次世界大戦のさ中、ナチスの支配下にありました。
その頃に生まれ、語り継がれているのがナチスの黄金列車伝説です。

バウブジフを通る鉄道路線・・・線路わきの土手に・・・??
第二次世界大戦の終わりごろ、その辺りで列車を埋める作業に関わったとある老人が証言を残したのです。
その証言をもとに、レーダーなどで調査したところ、地中に列車のような反応を確認・・・
ここに、長さ100m級の列車が埋まっていると発表されたのです。

トレジャーハンターに聞いてみると・・・
レーダーで確認すると、自然の物体ではなく左右対称の人工のものが埋まっている・・・!!
その形は、第二次世界大戦の装甲列車が軍用列車のようにも見えました。
車両の大きさや、レーダー画像と一致するというのです。
ここに黄金や宝石など高価なものを載せていた可能性があるというのです。
100mもの列車をどのようにして埋めるのか??
現場には、元々トンネルが存在し、そこに列車を引き込んで、トンネルを爆破して丸々埋めてしまう!!
こんな大胆な隠蔽工作が、本当にあり得るのでしょうか?
ここから3㎞ほど離れたクションシュ城で、大工事が行われていました。

アドルフ・ヒトラー・・・自ら率いるナチ党を、ドイツ国家と一体化させ、独裁者として君臨。
ヨーロッパで領土拡大を重ね、第二次世界大戦を引き起こした張本人・・・
ナチス・ドイツは、このクションシュ城を第二次世界大戦中手に入れ、秘密基地として改修工事を行っていました。

城内のヒトラーの部屋から通じる秘密の扉・・・
その向こうに作られていたのは、専用のエレベーター・・・2基のエレベーターは、1944年に作られました。
完成すれば、地下50mまで降りることができました。
その地下には、巨大なトンネルが・・・現在残っているトンネルの長さは1km。
一説によると、ベルリンまで直通の専用列車を計画していたともいわれています。
これほどの大工事があったのなら、列車を丸ごと埋めたというのも信じられる・・・??

しかも財宝を満載した黄金列車・・・という伝説を裏付ける根拠がもう一つあります。
ナチスドイツがヨーロッパに作った巨大な鉄道網です。
ナチスドイツは、多数の物資を一度に運べる列車に注目・・・
1937年、鉄道を国家直営とし、あらゆる輸送を可能にしました。
大勢の兵士や武器を前線に送り届ける軍用列車、ヒトラー自身も専用の特別列車を作らせ動く司令本部としました。
莫大な金銀など財宝を運ぶ黄金列車が存在したのか??
ナチスの財宝は、ヨーロッパ各地で数多く隠されているという。
現代のポーランドで俄によみがえったナチス黄金列車と秘密の財宝伝説・・・その謎は・・・??

ナチスが略奪した財宝・・・
琥珀の間は、現在の価値で数百億円と言われ、財宝の中の財宝です。
ソビエトのエカチェリーナ宮殿に置かれていたものを、1941年ドイツ軍が略奪しました。
その後、空襲で燃え尽きてしまったが・・・密かに運び出され、人知れずどこかに眠っているという噂は絶えません。
そして、今でもヨーロッパでは、ナチスの財宝が発見され続けています。

2014年ドイツ北部のリューネブルク。
かつて岩塩の採掘で栄えた古い町並みの残る地方都市です。
ナチスの財宝を発見した人は、金属探知機で文化財の調査をしていました。
地元の考古学者から、古いお墓と思われる場所の調査をされたのです。
ある木の根元付近で金属探知機が反応・・・しかし、たいていは金属のゴミのことが多いのですが・・・
そこには1枚の見慣れない金貨がありました。
そして立て続けに9枚も・・・!!
翌日、役場の担当者、考古学者と調べてみると・・・2mほど掘り進んだところに・・・!!
金貨を集めるのに10日ほど・・・発掘されたのは19世紀から20世紀初頭にかけての古い金貨217枚!!
現在の価値にして550万円に当たります。
更に金貨入りの袋を閉じていたと思われるアルミ製の封印には、ナチスの鉤十字が!!
まさに、ナチスの財宝だったのです。

ナチスの財宝の多くは、1945年第二次世界大戦のドイツ敗北の頃に続々と発見されました。
チューリンゲン州メルカースの岩塩を採掘した穴には、金塊が8000個以上・・・全部で100tも隠されていました。
現在の価格でなんと5000億円!!
大量の指輪は、チューリンゲン州の強制収容所近くで発見されました。
囚人たちから奪ったものと思われます。
国家予算に匹敵するほどの隠し財産の多くは、ナチス・ドイツが略奪によって手に入れたものだとされています。
ナチスドイツが他国を占領した目的の一つは、その国が貯蓄している金を略奪することでした。
ドイツの利益のためというよりも、戦争を行う資金を調達するためです。
略奪と戦争・・・ヨーロッパ制圧の野望を実現する為に・・・!!

1939年9月1日、ドイツ軍は突然、隣国ポーランド侵攻。
第二次世界大戦がはじまりました。
周辺の国々を瞬く間に侵略する圧倒的な軍事力・・・
それを支えたのが、戦争を始める前から段階的に行ってきた略奪経済でした。
戦争開始の1年半前の1938年3月、ドイツは隣国オーストリアを外交圧力によって併合。
この時、オーストリアの国立銀行をドイツが吸収するという法令を出し、金1800億円をドイツへ!!
合法的にドイツの国家財産としました。
1939年にはチェコを保護領とすると、チェコ国立銀行の取締役を脅迫し、800億円相当の金をドイツへ譲渡させます。
こうして他国からの奪略を財源とし、第二次世界大戦を開始するや否や、占領したオランダ、ルクセンブルク、ベルギーからも金を略奪。
国家資産を1兆円以上も増やし、戦線を拡大させていきます。
略奪と戦争を一体化させた経済政策という恐ろしい国家運営を進めたのです。
更にナチス・ドイツは戦争の費用を生み出すために、個人・・・特定の民族から財産を略奪していきます。
狙われたのは、憎しみの対象となっていたユダヤ人でした。

1938年11月9日、11月ポグロム・・・
ドイツ全土で、ナチ党の党員や一般市民がユダヤ人に対し、暴動を起こしました。
数百ものユダヤ教教会堂に火が放たれ、7500ものユダヤ人商店が襲撃されるというすさまじいものでした。
これをナチ党の指導者たちは悪用します。
暴動の原因はユダヤ人側にあるとし、10億マルクの税金をユダヤ人社会全体に課しました。
依田屋人は全財産の25%を税金として納めよ!!
という法令まで発布!!
合法的な略奪を行っていきます。
新たな法律によって・・・
1938年11月 宝石美術品
1939年 2月 貴金属
1940年11月 カメラ、望遠鏡
1942年  1月 毛皮、ウール
貴重な財産をユダヤ人から奪い続けます。

ポーランドにあるアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所・・・ナチスドイツはこのような6カ所の強制収容所に財産を絞り尽したユダヤ人たちを送り込みます。
ここでは最後の略奪が行われました。
ユダヤ人の遺体から抜き取った金歯の山・・・金塊へと加工し、国家財産へ!!
ヨーロッパ隠されに隠され、伝説として私たちを引き付けるナチスの財宝は、こうして生み出されたものなのです。

ナチスドイツの略奪は、極めて合法的、組織的に行われました。
ナチスドイツの考え方としては、ユダヤ人の富は、ドイツ人に寄生して蓄えたと考えています。
だから、ユダヤ人からドイツ人が取り返すとなるのです。
当時はアーリア化と呼ばれ、ユダヤ人の土地・事業を売却し、所有権をドイツに移行していくのです。

問題なのは、国家的に特定の集団を収奪したことで、その手段は、税金・・・。
ユダヤ人に特別税を課し、いくら不法・不当であっても国家が課す以上払わないといけない仕組みになっています。払わなければ処罰されるのです。
合法的にユダヤ人の富を吸い上げることが可能となるのです。



財産税は持っている財産の25%・・・出国税25%・・・すべて吸い上げて身ぐるみをはいで海外に移住させる・・・強制収容所に送るシステムでした。

普通の法律は倫理的に正しいのですが、しかし、ここにおける合法的は、非倫理的な法律を作り、合法的な行為をして国家が行っていたのです。
アウシュビッツへドイツの国鉄で連れてくる場合、1キロ当たり4ペニヒ(約20円)を取っていました。
それが、当時の国鉄の収入の5割を占めていました。
平時の経済の中に「収奪」がシステムとして入っていたのです。
従順なユダヤ人は収奪を手伝わされました。
嫌だけど・・・やっている間は生きていられるかもしれない・・・極限の状態でした。

服従・・・「自分は不本意」の感覚がある
同調・・・やはり少し「不本意」の感覚がある
同一視・・・嫌なことを美に感じる

一般市民たちは、最初は「ユダヤ人気の毒」と思っていても、繰り返しているうちに「やっぱりユダヤ人は悪いし・・・」と変わって正当化されていくのです。

略奪によって集められた莫大な財宝を乗せてどこかにあるというナチス黄金列車伝説・・・
第二次世界大戦当時、実在した黄金列車がありました。
「ハンガリーの黄金列車」です。
50両の貨車に金塊や宝石類、財宝を積み込んで・・・その総額はおよそ3億ドル・・・なんと4700億円に当たるといいます。
しかし、その輝きとは逆に、ハンガリー黄金列車には、略奪の連鎖という人間の闇が隠されていたのです。

ハンガリー黄金列車の悲劇①
略奪されたユダヤ人の財宝
第二次世界大戦でハンガリーはドイツと共にソビエトと戦いました。
しかし、政治的にはドイツと距離を置いていました。
首都ブダペストの人口の1/5を超える16万7000人のユダヤ人は、経済活動に重要な役割を果たしていました。
そのため、ハンガリー政府は、ドイツからのユダヤ人引き渡し要請に協力を拒んでいたのです。
しかし、1944年1月、スターリン率いるソビエトは攻勢を開始すると、状態は一変!!
1944年3月、ハンガリーはソビエトへの寝返りを疑われ、ドイツによって軍事的に制圧されるのです。
ドイツの傀儡政権となった・・・ナチスの「略奪経済」を採用し、ユダヤ人財産の差し押さえを開始!!
従順なほどに提供するユダヤ人たち・・・「あとで戻す」・・・為政者が理不尽な略奪に人びとを従わせるカギがありました。
一連の法案の初期の段階では、財産の内容を報告することが義務づけられていました。
財産は管理され、戦争が終われば戻されるという印象を与えながら実際は押収・・・。
ユダヤ人も財産を手渡せば、これ以上のひどい目には遭わないと信じていました。
しかし、それは全くの幻想だったのです。

ナチスドイツの制圧からわずか4か月・・・およそ44万人のハンガリー系ユダヤ人はアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に移送・・・
今、理不尽な命令に従っておけば、あとで穏便に元の状態に戻れる・・・そう信じた人々にあとは来ませんでした。

持ち主の失われた莫大な宝石や貴金属・・・これら略奪品は、一旦ハンガリー政府に納められるものの、すぐに別の場所へ・・・。
その積み込まれた先は、黄金列車でした。

ハンガリー黄金列車の悲劇②
相次ぐ”略奪の連鎖”
1944年9月、ソビエト軍ハンガリーへ侵攻・・・首都ブダペストに近づいてきました。
ソビエト軍の略奪を恐れたハンガリー政府は、国家資産をドイツへ避難させ始めました。
工業製品など様々な国家資産を積んだ列車が次々とドイツに向かいます。
列車の便は1000本にも上りました。
そんな中、ハンガリー政府が秘密裏に用意した列車がありました。
ユダヤ人から略奪した財宝を非難させるための特別列車でした。
12月15日、金塊や宝石類、高価なじゅうたんなどの4700億円相当の財宝を積んだ48両の列車がブダペストを出発!!
その後、国境の町ブレンベルグバーニャに3か月停車。。。この停車中、財宝は仕訳けられ、周辺で略奪した財宝も運び込まれました。
ところがこの間に、戦争の状況は大きく進み、黄金列車は窮地に立たされます。
ソビエト軍はハンガリーの大部分を占領し、黄金列車に迫っていました。
一方西からはアメリカを中心とした連合軍が、ドイツ本国へ侵攻。
当初はドイツに逃げ込むはずだった黄金列車は、ヒトラーのアルプス要塞と噂されていたオーストリアのザルツブルク方面へと向かいます。
ところが・・・3月29日、最初の事件が起こります。
財宝のうち、仕訳けられたダイヤモンドや金などの高級品が多数持ち去られたのです。
持ち去ったのは、財宝の管理をしていたハンガリー憲兵隊のトルディ・アールバード大佐でした。
トルディ大佐は、自分が車で先行し、列車が進めるように段取りをつけてくると称し、なぜか40箱以上の財宝と共に姿を消したのです。
指揮官自らが財宝を持ちだしたのを皮切りに、黄金列車は人々の欲望を引き寄せるかのように略奪の危機にさらされます。
軍隊の襲撃・・・しかも味方であるはずのドイツ軍の兵でした。
一体どうして・・・??
1945年4月16日、ベルリン総攻撃!!
5月2日、ソビエト軍に攻め込まれ、遂に陥落!!
略奪経済で人々を従え、ヨーロッパを戦火に巻き込んだアドルフ・ヒトラーも4月30日に自殺!!
5月10日、国家の後ろ盾を失ったドイツ兵は、黄金列車へと群がったのです。
さらに・・・国破れ敗北者となって彷徨う列車には、民間人や鉄道員までが財宝に殺到!!
ユダヤ人から略奪した財宝は、略奪される側へと転落!!
その忌まわしい略奪の連鎖は、数十年後の現在まで影響を及ぼしていき、予想しない事態に発展していきます。

ハンガリー黄金列車の悲劇③
現代まで残る略奪の傷
1945年5月、ドイツ敗北!!
混乱の時代、ユダヤ人から略奪した財宝を乗せ国外脱出しながらも逆に略奪の的として狙われたハンガリー黄金列車・・・窮地に立たされた指揮官たちの苦渋の選択は・・・アメリカ軍への幸福でした。
ソビエト軍や敗残ドイツ兵に略奪されることよりも、アメリカ軍に平和的に保護を求めることで、ルールにのっとった管理下に置かれる道を選びました。
1945年5月11日、ハンガリー黄金列車はアメリカ軍が接収・・・財宝も連合国軍の管理下に入りました。
ところが・・・略奪の連鎖は止まりません。
アメリカ軍兵士たちが財宝を私物化!!
最後まで奪略を免れた財宝は、アメリカ駐留軍の推定によれば推定1990億円・・・
半分以上の財宝が消えていたのです。
それから50年近く・・・1998年アメリカ連邦議会で、ユダヤ人が奪われた財産の行方を調査する「ホロコースト資産委員会法」が制定。
これによってアメリカ合衆国第42代大統領ビル・クリントンを中心とする大統領諮問委員会が芸術や文化財、金融資産の分野で調査を開始。
ハンガリーの黄金列車も調査対象となり、アメリカ兵による略奪について報告がなされました。
「米軍の高官は、自分たちの個人的用途のために黄金列車から財産を盗み、さらにその財産は、陸軍取引所を通して売られました。
 黄金列車から財産が盗まれたことを示す明らかな証拠も存在します。」
アメリカ政府は、自国平氏の50年以上前の略奪、犯罪行為を認めたのです。
この後、アメリカに住むハンガリー系ユダヤ人からの集団訴訟に・・・アメリカ政府は2550万ドルを支払い、和解しました。
アメリカ政府は、略奪された被害者とその相続人に対する社会福祉のための基金設立に2550万ドルにあてられました。
しかし、「あとで戻す」という国家の偽りの言葉によって略奪された宝石、指輪、貴金属などの大切な宝物が、元の持ち主にかえることはありませんでした。

戦場で、勝った側が負けた側のものを持ち帰る・・・これは常にあり得ることです。
たとえ横領したとしても、そんなに悪いことをしているという感覚はないのです。
非常に短いタイムラグで課題をこなすことを繰り返していると、人間は思考が浅くなります。
なので、想像する心の動きが戦争によって失われていくのです。
「どうしてそんなことができるのか?」
そんな現代の日本の私たちの感覚・・・それは深い思考ができる状態で、静かな中で考えるからできることなのです。
戦争になったら論理は変わってしまうのです。
圧倒的多数が死亡している・・・その死亡した人の財産はどうするのか?
個人に返しようもないのです。

人から物を奪う略奪、そしてその略奪の連鎖・・・
戦争は、人が人を殺す以上のことがあります。
それは、人間が歴史の中に作り上げてきた「規範」を破壊する・・・人間の存在価値である規範、人間性が気付かないうちに破壊されることが怖いのです。
ホロコーストは、史上最大の強盗殺人・・・600万人という人間が死んでいます。
その背後では、物凄い額の財産が奪われていて、それについては討論してきていません。
もちろん、物より命の方が大切なのですが、物を失うこと・・・それは、そのもの自体の価値を越えた何かを失うこと・・・家族の思い出、歴史という付加価値が奪われているのです。
付加価値は対価がなく、奪われた人はお金を返してもらってもそれは同じではないのです。
ナチスの略奪は、たくさんのものを破壊しました。

財を奪うことが人間の根底、心理面も破壊し、命だけではなく、奥ある付加価値も奪う・・・その闇の部分が垣間見ることができます。
しかし、その「闇」は、人間みんなが持っているものなのです。

ポーランドの黄金列車は結局どうなったのでしょう?
2015年に世間をにぎわせたポーランドのナチスの黄金列車発見騒動・・・
地元大学の研究チームが地中を調査した結果、
「トンネルはあったとしても、そこに鉄製の構造物はないでしょう」
期待された100m級の列車は存在しない??という結果となりました。
列車のようなレーダー画像は、現場の上を通る電線の影響か??と指摘されました。
2016年とレジャーハンターが現場を掘ってみると・・・古い鉄道のレールを発見!!
隣の線路の廃材らしい・・・最終的に6mのところまでショベルカーで掘り、財宝を積んだ列車は発見されませんでした。
再び伝説の彼方へ消えた黄金列車・・・そのまばゆい輝きに心がひきつけられるとき、欲望の闇は私たちを争いへと引きずり込むのです。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

ホロコーストと国家の略奪 ブダペスト発「黄金列車」のゆくえ [ ロナルド・W.ツヴァイグ ]

価格:3,564円
(2019/4/16 07:23時点)
感想(0件)

ヒトラーの娘たち ホロコーストに加担したドイツ女性 [ ウェンディ・ロワー ]

価格:3,456円
(2019/4/16 07:25時点)
感想(0件)





このページのトップヘ