日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ヒトラー

ヒトラーは、1933年~1945年ドイツの首相となり、12年間独裁者として君臨しました。
彼が国民を一つにまとめる原動力としたのが演説でした。

「国のため献身的に奉仕する諸君の姿に、ドイツは誇りと喜びと共に見い出すだろう
 ドイツの息子たちが、力強く前進する姿を!!」

情熱的で、雄弁な言葉の持ち主でした。

「我々の敵は雄たけびを上げている
 ”ドイツは破滅するべきだと!!”
 彼等に対するドイツの答えはただ一つ
 ”ドイツは生き続ける!”
 ”ドイツは勝利するのだ!”」

ヒトラーは、第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパをこの世の地獄に変えました。
ユダヤ人を迫害し、600万もの人々を強制収容所で殺害しました。
ドイツ国民をこうした狂喜に駆り立てて行ったのも、演説でした。

「私はこれまで度々予言者であったが、今日もまた予言者となろう
 ユダヤ人のたくらみ通り、このまま世界が戦争へと突入すれば、その結末はヨーロッパに暮らすユダヤ人の絶滅に終わるだろう」

演説に魅了され、ヒトラーを熱烈に支持したのは、ごく普通のドイツ人でした。
あの時代、人々はなぜヒトラーの言葉に己の運命を委ねてしまったのでしょうか??
稀代の演説家ヒトラーと、その言葉にうんめうぃお翻弄された人々の物語です。

演説家としてのヒトラーのキャリアは、ドイツ南部・ミュンヘンから始まりました。
街の広場などで行われていた彼の演説は、当時大人気でした。
ドイツの首相になったばかりのヒトラー・・・
ミュンヘンの人々を熱狂させたヒトラーの演説とはどのようなものだったのでしょうか?

1933年11月8日・・・
ヒトラーは、駆け出しの政治家だったころから、自分を支持してくれた人々に向けて話しかけました。

「私の古くからの親衛隊たちよ
 あれから10年が過ぎ、私はこの上ない幸福に包まれている
 かねてからの私の希望がかなったからだ
 我々はともに集い、遂に国民は一つになった
 ドイツは二度と、この団結を失うことはないだろう」

過ぎ去った10年を懐かしく振り返り、ドイツは団結したと語るヒトラー・・・
演説の丁度10年前、この広場には市民に反乱を呼び掛けるヒトラーの声が響き渡っていました。

1923年11月9日、自らが党首を務めるナチ党を率いて武装蜂起を起こしたのです。
第一次世界大戦の敗戦国であるドイツは、混乱の中にありました。
イギリス、フランスなど戦勝国から極めて重い賠償金を課せられ、国の経済が破たん寸前にまで追い込まれていました。
ヒトラーは、国家の危機を前に無力な政府に不満を募らせナチ党を立ち上げます。
そして、同じ不満を持つ人々に向け、武装蜂起を呼び掛けたのです。
ヒトラーの呼びかけに、多くの市民が答え、大群衆となってミュンヘンの街を行進しました。
反乱軍の先頭が、広場の入り口に差し掛かった時、事件は起きました。

警察は、反乱軍を食い止めるのに、格好の場所だと考えました。
ここで待ち構え、銃弾を放ったのです。
ナチ党員14名が命を落としました。
こうして武装蜂起は失敗に終わります。
だからこそ、この広場はヒトラーにとって特別な場所なのです。

ヒトラーは捕らえられ、1924年4月、ランツベルク刑務所に収監・・・半年余り過ごしました。
この獄中でヒトラーが記したのが、「わが闘争」です。
そこに、再起にかける思い綴られています。

~歴史上、永遠の昔から、この世界に最も偉大な変革をもたらしたのは語られる言葉の魔力である~

武力による国家の転覆に失敗したヒトラーは、今度は演説の力により合法的に政権を奪おうと考えていました。
その再出発の舞台に選んだのが、庶民の集うビアホールでした。
ホフブロイハウス・・・ここは、ミュンヘンでもっとも伝統のあるビアホールで、ヒトラーが反乱を起こす3年前、ナチ党を立ち上げた場所でもありました。
ヒトラーは常に敵を探していました。
そうすることで、ドイツを結束させられると考えたのです。

なかでも、彼が敵として名指ししたのがユダヤ人でした。
出獄して3年後、公園での演説が撮影されています。
1927年8月21日のナチス党大会です。
ヒトラーは、全国から集まった党員たちに、こう訴えました。

「国境を越えて暗躍するユダヤ人により、2000年の歴史を持つ偉大なヨーロッパ文明が滅亡のふちにある事実から人々は目を背けている
 この内なる敵に対し、我々はあらゆる形で戦うことを宣言する
 我々を支配する感情はただふたつ
 ドイツ民族および祖国の敵への憎しみ
 そして、我がドイツに対する溢れるほどの愛である」 

ユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々のことを意味します。
彼等は、1000年以上にわたり、ヨーロッパ各地で差別を受けてきました。
その為、キリスト教徒が卑しい職業とする金貸しや商人になるものが多く、巨万の富を持つ者もあらわれました。
ヒトラーは、こうしたユダヤ人を国から締め出し、ドイツ人のためのドイツを作ろうと訴えました。

ヒトラーの大衆扇動術

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”ドイツ人のためのドイツ”という考えに共感したのは、どのような人たちだったのでしょうか??

ドイツ人のためのドイツを唱えるヒトラーの最大のライバルが、左翼の共産党でした。
労働者は国を越えて団結すべきだと唱え、急速に支持を拡大していました。
ヒトラーは、自分こそがドイツの救世主だという印象付けるため、ドラマティックな演出をします。
当時はまだ珍しかった航空機を使って、全国を遊説し始めたのです。
1日にいくつもの都市を飛び回りながら、演説を繰り返す・・・
今では当たり前のこの思想を、ドイツで初めて取り入れました。

ケーニヒスベルク15万人・・・

時に遅れて期待感を煽ってみたり、田舎の小さな村を訪れたときは親しみ深さを演出。
人々の心をつかんでいきました。

「親愛なる国民の皆さん
 皆さんもお気づきのように、我が国では次の選挙を控え、新たな機運が高まっています」

この日の演説のテーマは、少数政党が乱立し、行き詰った議会政治をどう打開するか・・・
ヒトラーは、演説の序盤、聴衆の反応を確かめるかのように穏やかに語り始めました。
話が確信に近づくにつれ、ボルテージが上がっていきます。

「私はこのドイツにはびこる30もの政党をすべて排除するつもりだ!
 私はドイツ国民に証明して見せる
 国が生き残っていくのに必要なのは”正義”であり、その”正義”に必要なのは”力”であり、その”力”の源は国民ひとりひとりの強さなのだと!」

選挙を重ねていく中で、ヒトラーの演説はより多くの人の心をつかむように進化していきます。

558回に及ぶヒトラーの演説を集計し、150万語からなるビックデータから分析すると・・・
1930年を境に、それまで高い頻度で使われていた言葉の多くが急速に姿を消しています。
その最たるものが、”ユダヤ人”です。
きっかけは、その前年・・・1929年にアメリカで起こった世界大恐慌でした。
ドイツでも失業者の数が急増し、国の先行きに不安が高まっていました。
 
ユダヤ人という言葉が使われなくなった代わりに、国家が多くなってきます。 
その時代にナチ党にとって重要だったのが、国民共同体を作り上げることでした。
国家、憲法・・・が多く使われています。
ナチ党は、1932年に行われた選挙で、地滑り的な勝利を収めて230議席を獲得し、第一党に躍り出ました。
そして翌年・・・1033年1月、ヒトラーはドイツの首相に就任しました。

ヒトラーの演説には、聴衆を引き付けるさらにおおっくの秘訣があります。
それが最もわかりやすく見られるのが”首相就任演説”です。

「親愛なる国民の皆さん・・・」

冒頭、感情が高まらないように手を前に合わせ、いつものように穏やかに語り掛けます。
そして、開始から20分以上が過ぎ、

「国の再建には国民ひとりひとりの努力が必要だ」

という確信にいたると、一気にヒートアップしていきます。

「外国から助けてもらえると決して信じてはならない
 自分の国と国民以外からのいかなる助けも期待してはならない
 ドイツ民族の未来は、我々だけに帰属するのだから
 国民ひとりひとりが国を発展させるのだ
 自らの努力で、自らの勤勉さで、自らの決意で、自らの意地で、自らの根気で行うならば、我々は再び勝利を収めるだろう
 この国を自らの力で築き上げた祖先たちと同じように」

自らの・・・と、5回・・・
人は5回聞けば焼き付く・・・そんな形でメッセージを伝えていきます。

ヒトラーはこの手法を、様々な演説で使っていました。 

1933年4月8日のナチス親衛隊への演説では
「敵の憐みによるものではなく、自らの力で、自らの意思と行為で、自らの運命の主人として立ち上がる時が来たのだ!」

1936年10月6日・・・慈善募金を呼び掛ける演説では
「あらゆる者が助け合わねばならない
 貧しい者も、富める者も、あらゆる者が考えねばならない
 ”私より貧しい同胞を助けたい”と
 礼儀をわきまえ、気骨あるあらゆるドイツ人が、この隊列に加わると期待している」

さらに、演説の中の言葉を聴衆の頭の中に焼き付けるため、効果的に使われいたのがジェスチャーでした。
これによって、メッセージがさらに有効に伝わります。

首相就任の日の夜、ベルリンの目抜き通りは松明を持った男たちで埋め尽くされました。
ナチ党の武装組織突撃隊です。
沿道のベルリン市民は、この様子を期待と不安の入り混じった思いで見つめていました。

政権を握ったヒトラーは、国民にさらに広く演説を届けるための大きな武器を手にすることになります。
政府の管轄下にあったラジオ電波を、自由に利用できるようになったのです。
この頃ラジオは、庶民にとっては高級品でした。
そこで、安いラジオの開発を命じ、半年後に国見受信機として発売しました。
ヒトラーは、歓声や拍手の入った臨場感ある音声を届けることで、ドイツ中の家庭を演説会場に変えました。

さらに、ヒトラーが利用したのが庶民の娯楽・映画でした。
選挙で約束した国家の再建が、実行に移されていることを、国民に知らせました。
その中でも演説が効果的に行われています。

「我が民族の勤勉さ、能力、結束力を6年間で示すのだ」

経済政策の目玉が、世界初の高速道路網アウトバーンの建設でした。
機械の使用を極力抑えることで、一人でも多くの失業者を雇いあげました。
また、第1次世界大戦の敗戦により、持つことを制限されていた軍を再編成し、多くの若者を兵士として雇いあげました。
ヒトラーが政権についたときに、500万近くいた失業者は、わずか2年で半分以下にまで減少しました。
目に見える成果を上げたことで、当初は懐疑的だった人々までもがヒトラー支持に傾いていきました。

どの家にもヒトラーの肖像がありました。
彼はアイドルだったのです。

ヒトラーが国民にいかに支持されていたのかがわかる町があります。
ドイツの南の端、アルプスのふもとにあるベルヒテスガーデンです。
別荘に向かう時、ここをよく通りました。
ヒトラーの別荘の様子を写した映像も残っています。
ヒトラーの恋人エーファ・ブラウンが残したプライベート・フィルムです。
ヒトラーは、この別荘からの眺めを気に入り、年に何度もベルリンからやってきました。
そんな彼を一目見ようと全国からファンが押し寄せ、ヒトラーもまた気さくに言葉を交わしました。

国民からの信望を一心に集めていくヒトラー・・・
そんな彼は国民をさらに魅了する為に作り上げた部隊が、ニュルンベルク郊外に残っています。
毎年9月にここで行われるようになったナチスの党大会では、連日10万人規模の大演説会が行われました。

その一角に集められたのは・・・ナチス少年団ヒトラー・ユーゲントです。
ヒトラー・ユーゲントは、週末ごとに屋外での運動やキャンプなど、子供たちが喜ぶ催しが行われました。
そうした活動を通じ、子供の頃からナチスの思想を植え込むのが目的でした。
年に1度の党大会には、ドイツ全土の少年団の中から、特に優秀と認められた者だけが集められ、演説を直接聞くことを許されました。

「諸君らドイツの少年少女に、切に願うことがある
 我々が未来のドイツに託す期待のすべてを担ってもらいたい
 我々の前にドイツの未来があり、我々は国家と共に歩み、我々の後に輝かしいドイツができるのだ」

ナチスが制作した党大会のプロパガンダ映画「意志の勝利」が各地の映画館で上映され、記録的な動員を達成しました。
これを見た当時の少年たちは、ヒトラーへの憧れをますます強くしていきました。

1935年9月15日、ヒトラーが行った演説・・・

「ユダヤ人の唯一にして最大の罪・・・それはドイツ人でありたいと願ったことだ
 もし、ユダヤ人の排斥が進まない場合、この排斥法案はナチ党の力で最終解決されるものとする」

ヒトラーは、1930年以来、控えてきた反ユダヤのヘイトスピーチを再び解き放ちます。
この演説は、それまで平穏に暮らして来たヨーロッパ全体を翻弄していきます。

ドイツ国内に住む70万を超えるユダヤ系ドイツ民が、選挙権などの市民権を剥奪されました。
かつて首相になる前、ヒトラーはユダヤ人を国から追放すべきだと主張したものの、広く支持を得られませんでした。
そこで、経済的な豊かさを取り戻したドイツにとって、その富を狙うユダヤ人こそが脅威であると訴えました。

1939年1月30日のラジオ演説は・・・
「ユダヤ人が豊かなのは、正直者のドイツ人の富を横取りするるからだ
 善良なドイツ人が、働いて節約して得た蓄えは、あくどいユダヤ人により奪われるのだ
 ドイツには、知性の高い農民や労働者の子供がたくさんいる
 彼等を我々は教育している
 彼らに国の指導者的立場を占めてほしい
 よその民族の子供などではなしにだ
 ドイツ文化とは、ドイツ人のもので、ユダヤ人のものではない」

そしてその憎しみは、ヒトラーを崇拝するごく普通のドイツ人によって増幅していきました。
子供たちは、学校の教師や父親から反ユダヤ主義を教えられ、素直にその差別意識を吸収していきます。

ヒトラーは、ナチスの幹部を前にこう語っています。
1938年12月2日ナチス党幹部への演説

「大ドイツの誕生は、ドイツ国民の意思に基づいている
 国民の全男性、全女性がそれに従う
 若者たちを労働奉仕団で鍛え上げる
 ドイツ国家のシンボルである鋤を使ってだ
 それでも高慢は階級意識が残っていれば、軍が引き受けて鍛え上げる
 彼等は一生自由になることはない
 彼等はそれで幸福なのである」

ヒトラーが国内のユダヤ人に対して牙をむいた1935年以降、外交政策を語る演説にも大きな変化が見えてきました。
国民に向けて平和を訴え始めたのです。

「我々が望むのは平和だけだ
 我々はすでに戦争を経験した
 我々は周りの国々に和解の手を差し出したい
 我々は彼等と共に働きたい
 我々は彼等に敵意は持っておらず、憎しみを感じない」

ビックデータからは・・・ヒトラーが平和を語る時期には大きな偏りが見られることが分かります。
ひとつは1935年から36年にかけて・・・
これは、ヒトラーが大規模な軍備拡張を取り出した時期と重なります。
もうひとつは、1939年・・・ヒトラーが第2次世界大戦を引き起こすときです。
平和を語る演説を丹念に見ていくと、ヒトラーの本当の狙いが浮かび上がってきました。

1935年5月21日、ドイツの国会で行った演説で、ヒトラーは心から平和を望むと述べる一方で、次のように主張しています。

「第1次世界大戦以前のドイツは、その生存圏の中で富を蓄積することができた
 だが、大戦によりドイツ経済が破壊され、領土も狭められ、ドイツ国民は生存圏の狭さゆえ、食料と原料の不足に悩まされている
 だからこそ、我々はこの不当な状況を打破しなければならない」

この時ヒトラーは、ドイツには生存圏・・・つまり、領土が足りずにこのままの状況が続けば実力行使に出ざるを得ないと訴えていました。
平和を声高に訴えることで、領土拡大の野心を覆い隠し、言葉巧みに国民を戦争へ導こうとしていたのです。
平和を求めるというヒトラーの言葉が、偽りだったことが多くの歴史学者によって証明されています。

1939年のかけての政治のすべてが戦争準備のためのものでした。 
経済的合理性を顧みることなく、借金をして軍備に大金をつぎ込み、その額は膨れ上がっていました。
戦争を起こさなければ、体制そのものが崩壊するしかありませんでしたが、もちろん、ヒトラーにそんなつもりはありませんでした。
彼にとって戦争に踏み切る以外、選択肢はありませんでした。

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまりました。
ヒトラーは、開戦を伝える演説の中ですら平和を訴えていました。

「私は協議を通じて平和的な提案をし、問題を解決しようとした
 彼等が我々の領土割譲要求に応じさえすればよかったのだ
 平和を望む私の忍耐や私の愛を、弱さや臆病と混同してはならない!!」

そして開戦のきっかけは、ポーランド側にあるとでっち上げました。

「本日5時45分、我が軍は、敵からの発砲に反撃を開始した!!
 今日からは、爆弾には爆弾で報いてやる!!」

ポーランドを一月で破ったドイツ軍は、勢いに乗ってフランスまで占領し、西ヨーロッパの大部分を支配下に治めていきました。第1次世界大戦の屈辱を晴らす大勝利に、国民は酔い、いつしか平和のための戦争という建前すら忘れていきました。
国民の熱狂に迎えられたヒトラーは、その野望をさらに膨らませていきます。

「我が軍は、ミンスクへと突進する」

1941年6月22日、ソビエト侵攻開始。

ヒトラーの命を受け、突如300万のドイツ軍がソビエトに侵攻を開始しました。

”我が軍は6月22日から27日の間に、2233両のソビエト軍戦車を撃破、捕獲
 大胆は攻撃で、敵陣を奪い、何千人もの捕虜を得た”
 
しかし、一方で国民の多くは、広大な国土を持つソビエトを屈服させるのは難しいのではないか??と不安を抱いていました。
そんな不安を払しょくし、人々を戦争に駆り立てた言葉があることが分かってきました。
それは、「価値の低い人間」という言葉です。
ロシア人など、スラブ系の人々は、人種的に価値が低く、彼等を打ち負かすことなどたやすいのだとヒトラーが言ったのです。
ロシア人は、ポーランド人よりさらに価値が低く、汚いとされました。
ロシアを全滅せねばならないといいました。
ロシア人は共産主義者で、価値の低い人間だと・・・!!
ドイツ人のような人間ではなく、根絶やしにすべきだと・・・!!

”捕虜、それは、野蛮な人種ども
 こいつらは、原始的で頭が鈍く、数ばかりが多い、安い道具だ”
 
この後、4年間に及ぶ戦争で、2000万人にも及ぶソビエトの人が命を落とすことになります。
一方、ドイツ国内でも異変が起きていました。
同じく価値の低い人間だとされたユダヤ人が、次々と姿を消し始めたのです。
強制収容所という言葉が多く聞かれるようになってきました。
そして、何が起きているかもうすうす気づいていました。
ひどいことが起きていると・・・

1943年2月18日ベルリン・・・
開戦以来、最大規模の演説会がベルリンで開かれ、ラジオで全国に中継されました。

「諸君は総戦力を望むか!?」

戦争が長引き、国民の戦意を鼓舞するのが、狙いでした。
しかし、この日、演台に立ったのは、ヒトラーではなく忠実な僕・・・宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッペルスでした。
 
「勝利を勝ち取るため、総統に従っていく決意はあるか!?
 苦難を共にし、最も重い負担に耐える覚悟があるか!?」

このころを境に、人々を戦争にたきつけてきヒトラーは、演説の表舞台から姿を消していきます。
きっかけは、第2次世界大戦の天王山といわれるスターリングラード攻防戦で、大敗北を喫したことがきっかけでした。
ソビエト侵攻の主力部隊を失ったドイツ軍は、これ以降、敗退を重ねていくことになります。

1943年3月24日のドイツ週刊ニュース
戦死した将兵の追悼式典にヒトラーが出席した時の映像があります。
ヒトラーの声は一切使われず、背中を丸め、原稿を読み上げる様子が映し出されているだけです。
しかし、かつてその演説に魅了された若者たちは、ヒトラーは偉大な指導者であるという幻想にとらわれ続けていました。

ドイツの主要な都市は、イギリスから飛んでくる爆撃機により、次々と焼き尽くされていきました。

1945年1月30日、東からソビエト軍、西からアメリカを主力とする連合軍がベルリンに迫る中、ラジオからヒトラーの声が響いてきました。

「親愛なる国民の皆さん」

この日は、ヒトラーが首相に就任して12年目の記念日でした。
そしてこれが、ヒトラー最期の演説となります。
ベルリンの地下壕の中、一人の観客もいない演説・・・
ヒトラーは、ドイツを導く予言者として人々に語り掛けました。

「立派に戦う者は、自らの命と愛する者の命を救うだろう
 だが、怖気づき、無節操に国家を裏切者は、必ず唾棄すべき死を迎えるだろう!!」

そして、ドイツ勝利のため更なる犠牲を国民に求めました。

「私は健康な者一人一人が、この闘争に命をかけることを望む
 私は疾病人や苦しむ者一人一人が最後の力を振り絞って働くことを望む
 私は夫人と少女たち一人一人が今まで同様最高の熱意をもって闘いを援護することを望む
 私はここで格別の信頼をドイツ青少年へ寄せる
 我々は、かくも団結した共同体を形成しているがゆえに、全能の神の前に進み、憐みと祝福を乞う資格を得るのである」

1945年5月1日・・・ラジオから臨時ニュースが流れます。
”総統大本営より通知がありました
 総統は4月30日、デーニッツ元帥を後継者に指名しました”

4月30日・・・ヒトラーは、ベルリンの地下壕で自ら命を絶ち、1週間後ドイツは降伏しました。
生き残った人々は、ヒトラーの言葉に熱狂し、信じ、従ったという事実と向き合いながら、長い戦後を生きていきます。
ソビエト軍の捕虜になった者は、過酷な労働を強いられていました。
破壊された町の修復を命じられ、ヒトラーの言葉がもたらした現実と向き合うことを求められました。

ドイツ人は偉大な民族であるというヒトラーの言葉に踊らされ、戦場で命を落とした若者が500万を数えます。
言葉は、時として普通の人々を狂気に駆り立てていくのです。

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「独裁者ヒトラー 演説の魔力」(前編)

独裁者 (字幕版)

戦闘機、戦車、マシンガン・・・人類は、自らを守り、他社を殺戮するため、あらゆる武器を生み出してきました。
そうした中、世界経済を崩壊する可能性を秘めた紙の兵器が存在します。
偽札・・・!!
この偽札を兵器としたのが、ナチス・ドイツ!!
通称・・・ヒトラーの偽札です。

第2次世界大戦のさ中、禁断の極秘戦略を発動させました。
敵国イギリスの偽札の大量生産です。
経済を破たんさせ、世界を我が物にせよ!!

オーストリア・トプリッツ湖・・・
ここに、ナチスの財宝伝説が存在しました。
1959年8月・・・大勢の報道陣が詰めかけます。
噂の財宝が引き上げられました。
19個の木箱・・・中には、イギリスの紙幣ポンド札が!!
種類は、5ポンド、10ポンド、20ポンド、50ポンド・・・その数22万枚、現在でおよそ25億円あまり!!
しかし、すべて偽札!!
長年、謎に包まれ、姿を現した通称ヒトラーの偽札!!

独裁者アドルフ・ヒトラーの野望の元、ドイツが国家として極秘に製作した偽札・・・
1939年9月1日、ヒトラー率いるドイツ軍は、150万の兵力で突如ポーランド侵攻!!
これに、9月3日、イギリス・フランスが宣戦布告!!
第2次世界大戦がはじまりました。
ただちに、イギリスとドイツとの間で熾烈な国際スパイ戦が展開します。
ヒトラーの偽札情報が、財所にキャッチされたのは、ギリシャのアテネでした。
大戦翌月の10月、ここで逮捕された謎のロシア人から地元の警察がドイツの極秘情報を記した手帳を押収しました。
この情報をイギリス公使が手にし、直ちに本国に送付しました。
その極秘情報とは・・・??

”今年9月18日、ドイツ財務省で開かれた会議で以下の計画が全会一致で可決された
 イギリスポンドへの攻撃と国際通貨としての破壊”

この会議で計画された偽札の量は、イギリス市場のポンド紙幣流通量の30倍・・・300億ポンドでした。
それを外国へ運び、各国のドイツ領事館員がタダ同然で市場にばらまき、ポンドの価値を崩壊させる!!
世界の基軸通貨・イギリスのポンドの信頼を完全に破壊すれば、ドイツの通貨・マルクが世界の支城を支配できる!!

紙幣に流通量の0.03%の偽札が入ってくると、お金に対する信用が失われます。
1%混入しただけで、経済は壊滅的な打撃を受けるのです。
第2次世界大戦の開始からわずか2週間・・・
ドイツは、ヨーロッパの戦場を越え、世界市場の支配への動き出していたのです。
偽札作戦・・・アンドレアス作戦を任されたのは、ナチスのエリート部隊である親衛隊・・・通称SSです。
責任者となったのは、親衛隊保安諜報部アルフレート・ナウヨックス大尉!!
1939年8月31日、ナウヨックスの指揮した部隊がドイツ領の放送局を襲撃しています。
ドイツのポーランド侵攻の口実を作るために、ポーランド人のドイツ放送局襲撃事件をでっち上げた闇の工作活動のプロでした。
ナウヨックスは、偽造の専門ではありませんが、精力的な男です。
そしてヒトラー総統からの命令をもらっていたともいわれています。
人殺しも厭わない人間です。
偽札作戦は、容易だと考えたでしょう。
この偽札作戦に、ドイツ内で強硬に反対する人物がいました。
ドイツ帝国銀行総裁ヴァルター・フンクです。

「偽札づくりは、国際条約に違反している!!」byフンク

1929年、スイス・ジュネーブで締結された「ぎっぞう通貨防止のための国際条約」では、外国の偽札製造に次のように禁止しています。

”国内通貨に関連する偽造行為と外貨に関連する偽造行為とを区別してはならない”

ナウヨックスは、フンクの反対により帝国銀行の協力が得られないため、国内の大学の研究者や、印刷職員を集め、ポンド札偽造の研究を始めます。
紙幣づくり・・・それは、4つの大きな工程に分かれています。

①原料選び
②透かし入れ
③原版づくり
④印刷

通常、このすべての段階で、偽造防止の工夫が凝らされています。

お札の製造技術は、国の最高技術を取り入れています。
一連の技術が相まって、偽造ができない紙幣となっています。

ナウヨックスがまず挑んだのが5ポンド札・・・現在の価値で今の2万5000円に当たる高額紙幣です。
1853年発行開始されています。
100年前の技術なら、偽造は簡単では??と踏んだのです。

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①原料選び
ナウヨックスは、大学の研究機関で5ポンド札を研究させました。
すると、わざわざトルコ産の亜麻(40%)、ハンガリー産の苧麻(60%)の割合で混ぜていることが判明します。
ナウヨックスは、早速同じ原料を取り寄せて紙づくりを開始します。
これで第一段階クリア??
紙幣を鑑定する際の基本・・・手触りが全く違いました。
本物ははるかに滑らかな手触りだったのです。
そして、紫外線の商社を行うと、ナウヨックスたちの紙は反応しないが、本物の5ポンド札は青く発光しました。
つまり、蛍光物質が混ぜられていたのです。
ドイツの偽札作戦の情報がもたらされたとき、イングランド銀行の副総裁は自慢げにこう言ったといいます。

「そんな計画、まるでおとぎ話のようですな」

一見古臭そうに見えながら、大英帝国の威信をかけた偽造防止の工夫がなされた5ポンド札・・・!!
ナウヨックスの偽札づくりは、紙づくりという最初の段階から大きな壁に行き当たったのです。

ドイツの首都ベルリン郊外の住宅街・・・
1939年12月、親衛隊が借り上げた邸宅に何台もの印刷機が運び込まれました。
実はここは、ポンド札の原板や印刷の研究施設・・・アンドレアス作戦は、普通の屋敷に偽装した印刷工場で極秘に進められました。
ナウヨックスは、印刷段階前のポンド札の分析に難航・・・

②透かし入れも難航していました。
透かしは、紙を作る工程でくわえられる・・・すかして見ると、インクを使わずに立体的な表現がなされています。
5ポンド紙幣の透かしは、ほぼ全面に・・・さらに、細部に濃く見える透かしが施されていました。
薄く見える白透かしと、濃く見える黒透かし・・・この違いは、凹凸のある網で、原料を溶かした繊維をすき上げたときに生じる紙の厚みの差・・・
光を当てると、薄いところは光を多く通して白透かしに、厚いところは透過光が少なく黒透かしになります。
そこで、この透かしをドイツの最も古い製紙工場のすき入れ職人に再現させたところ・・・
ポンド紙幣のようなシャープな透かしにはならず、輪郭がぼけた印章にしかなりません・・・
手触りも、紫外線反応も、すかしも・・・偽物とバレる状態でした。
減量が同じで技術力も高いはずなのに、何が間違っているのか??

ドイツ側のスパイが仕掛けます。
ロンドンのイングランド銀行に潜入していた親衛隊諜報部員が重要な情報を手に入れたのです。

”5ポンド紙幣は、使用済みのボロ布を材料としている”
 
知らせを受けたナウヨックスは、原料の麻を布にし、機械掃除などでボロボロになるまで使用・・・
そのボロ布を裁断し、改めて紙をすき上げました。
すると・・・本物と同じ柔らかさになりました。
ポイントは、布の摩耗による麻の戦意の変化でした。
また、透かしも、繊維が細かくなることで微細な表現化可能になる、本物同様のシャープな仕上がりに!!
さらに、使い古された汚れた繊維を白くするため、5ポンド札には蛍光増白剤が入っていることも判明しました。
これが、紫外線検査で青く光る秘密だったのです。

ナウヨックスは、第一段階の原料選びと第二段階の透かし入れを同時に突破します。

③原版づくり
原版は、通常、原図を書く→金属板を彫る
当然この段階でも偽造防止の罠が仕掛けられています。
ポンド紙幣の原板のなかで、最も偽造が難しいのはイギリスを象徴する女神・ブリタニア像。
ここには、微細印刷が施され、これを偽造すると細かな部分がくっついて黒くなるのです。
ナウヨックスたちが作ったものは、部分的に黒く潰れてしまいます。

さらに・・・
④印刷の工程ではさらに最大の難関が待っていました。
ブリタニアの衣装の影・・・微細なところをマイナーチェンジをしてあるのです。
イングランド銀行は、5ポンド札の図柄を10万枚で原版を改変していました。
その数、紙幣全体100カ所に及ぶと言われています。
いつ、どのような改変をしたかの情報を持っているイングランド銀行側は、それらを照合すれば本物か偽物か、簡単に判断できるのです。
時間ごとに改編されるワナ・・・
これほど膨大なポイントには、対応のしようがありません。

そこでナウヨックスは、1940年4月、諜報部員をスイスの銀行に派遣・・・
そこで大きな賭けに出ます。
諜報部員は、窓口で偽札の試作品を差し出し、こう申告したのです。

「このポンド札は、闇市場で入手した
 おそらく偽物だと思います
 鑑定してもらえますか?」

ただちに鑑定され・・・ところが、「正真正銘の本物ですね」

実は、イングランド銀行の艦艇システムには大きな欠陥がありました。
イングランド銀行では、国内では持ち込まれたお札の偽造防止のポイントをチェックしますが、外国の銀行に対しては、機密漏洩を防ぐために教えていなかったのです。
つまり、イングランド銀行自体の偽造防止のシステムが厳重でしたが、海外の銀行ではほとんど機能していなかったのです。
多少不完全な出来であっても、イギリス以外の銀行を通せば偽ポンド札の流通は可能・・・アンドレアス作戦は、発動に向け大きく前進しました。

しかし、その矢先・・・ナウヨックス突然の失脚!!
偽札製造の責任者から外されました。
原因は、上官である親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒとの対立が噂されていますが、真相は不明です。

1941年の秋、アンドレアス作戦休止

しかし、ナチスの偽ポンド札製造のへの野望はこれで終わったわけではなかったのです。

策謀のプロ・・・ナウヨックスが失脚したことで、一旦休止となったナチスの偽ポンド札作戦・・・
再会するにあたっても、機密保持にも力を入れないとドイツ国内にいる連合軍のスパイにバレてしまいます。
やがて、ナチスドイツは偽札づくりを行っても、絶対に秘密が漏れない場所を思いつきます。
それは、ユダヤ人たちの強制収容所でした。

1941年6月、ソビエト侵攻・・・わずか4か月後、首都モスクワ近くまで・・・その後戦線は膠着。
1942年5月8日、親衛隊は、再び偽ポンド計画を再開しました。
責任者は、書類偽造課長ベルンハルト・クリューガーでした。
ベルンハルト作戦とされた計画は、前回から目的を変更、イギリス経済の破綻ではなく、偽ポンドを大量に印刷し、武器・物資を購入、戦線拡大と長期戦による戦力の不足を補うためでした。
ベルンハルトはこの大規模プロジェクトを誰にも知られずに進められるとっておきの場所を思いつきます。
そこが、ナチスに拘束された多くのユダヤ人たちの送り先・・・強制収容所でした。
ベルリンから北に30キロ離れたザクセンハウゼン強制収容所・・・最大で4万7000人以上収容したと言われる巨大施設です。
ベルンハルトはこの一角・・・バラック18・19に、2代の印刷機などを持ち込み、極秘の偽札印刷所にしました。
秘密裏に作戦を実行できる場所を見つけたベルンハルトは、印刷工、彫金師、グラフィックアーティストなど印刷技術を持つユダヤ人囚人25人をザクセンハウゼンに集め、偽札づくりの職人として働かせました。
さらにベルンハルトはユダヤ人職人のために一人ずつベッドを用意して十分な睡眠を与え、栄養のある食事、さらに防寒のための服まで与えることで、作業に集中できるようにしました。

そして何度も囚人に言い聞かせます。

「いい仕事をすれば、報酬と命の保証があります
 しかし、働かない者は容赦なく撃ち殺します」

囚人を使った理由・・・それは、いざという時、簡単に口封じができることでした。
1942年12月、ザクセンハウゼン強制収容所で偽札製造が開始されます。

③④の工程に進みます。

原版・・・本物のポンド紙幣の画像紙幣をスクリーンに拡大、肉眼では見えなかった細やかな点や線を見つけ出し、原版をより正確に修正します。
最後に出来上がった原版で印刷・・・そして、イングランド銀行が仕掛けた100以上の罠などは、精巧に偽造できているか、検査が命じられます。

アンドレアス作戦の偽札と比較すると・・・??
黒くぼやけた部分がはっきりと・・・顔や影もしっかりと書かれていました。
本物と見まがうほどの品質となった偽札・・・
しかし、高品質の偽札を完成させた囚人たちは葛藤の中にいました。
その一人・・・ユダヤ人印刷工のアドルフ・ブルガー・・・
ブルガーは、戦後生き残り、ナチスの偽札作戦を記録して世に伝えた男です。
ブルガーは、当時の心境をこう書き残しています。

「ユダヤ人を紙幣偽造に駆り出すというアイデアは、まさに悪魔でないと思いつかないだろう
 我々は、第三帝国最高機密の担い手になってしまったのだ」

1942年8月・・・スロバキア出身のブルガーは、ドイツ占領下のチェコスロバキアで妻とともに逮捕・・・
その後、妻のギゼラは、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、殺されました。
最愛の人をナチスに奪われ、偽札づくりに素直に従うことなどできない・・・!!
ブルガーは抵抗を始めました。
印刷のローラーをわざと汚す・・・
原版に傷をつけたりして偽札の増産のペースを落とすように工作。
また、イギリスでは紙幣をピンでとめて保管することから偽札に流通しているかのように穴を開けていましたが、ブルガーはイギリス人が避けるようなブリタニアに穴をあけました。
それを手にした誰かが違和感を感じるように仕込んだのです。
しかし、職員はさらに集められ、141人もの囚人が昼夜二交代制で偽札を大量に生み出していきます。
ブルガーの水面下での抵抗は、あまりにも微力でした。

製造された偽札の額は、1億3400万ポンド!!
少なくとも1000万ポンドは使用したといいます。
それは、現在の価値にして560億円!!偽札は、武器購入や、スパイの報酬に利用され、やがてヨーロッパ全土に流通していったのです。

1944年6月6日、ノルマンディ上陸
ソビエト軍による本格的な反撃を開始!!
東西からの侵攻を受け、ドイツは敗色濃厚となっていました。
しかし、その年の秋・・・ザクセンハウゼン強制収容所の印刷職員たちに新鋭隊から意外な命令を受けます。
ドル札の偽造作戦です。

ヒムラー長官から命令があったという説もありますが、そいつ敗戦前の1944年後半から始まった偽ドル製造は、戦後のナチス逃亡の資金のためだったのは明白です。
偽ドル紙幣づくりは、もはや戦争の勝ち負けは関係なく、敗戦後のナチス幹部たちの国外逃亡用の資金だったのです。
妻を収容所で殺され、すべてを奪われた印刷工ブルガーは、ポンド札の時以上に偽ドル作戦への水面下での抵抗を決意します。
ブルガーは、機械の調子が悪くなるようにして完成を遅らせます。
ところが、これを怪しいとにらんだベルンハルトは、直接囚人たちの元を訪れ問いただします。

「作業が遅れている理由は何だ??」

「少佐殿、作業の遅れは、非常に細い線を書かなくてはならないためです
 進めるためには、中国筆が必要です」byペーター・エーデル

「お前たち、本当か??
 嘘をつくものは、即刻、処刑する!!」

「本当です!!」

なんと、その場にいた囚人たちは、嘘をついて全員ブルガーをかばったのです。
ドイツ兵のラジオなどから、戦況を知った彼らは、偽ドルづくりをドイツ敗北まで引き延ばすことで何とか生きのびようと意見が一致していたのです。

「私たちには義務があった
 なんとしても、
 ここで行われている恐るべき犯罪を世界に知らさなければならない
 自由の身になった暁には、この目で見たことをすべて証言しよう
 私たちは沈黙してはならない
 女性や子供がガス室に送られる様子を見た人、死にゆく者の悲鳴を聞いた人は、沈黙してはならないのだ
 忘れてもならないのだ」byブルガー
 
1945年3月13日、ザクセンハウゼン強制収容所にベルリンから電報が届きます。

「作業を停止せよ!!」

連合国軍の接近に伴い、偽紙幣製造の拠点は別の場所に移動・・・
印刷機と共に、囚人たちを乗せたドイツの列車は、東西から迫る敵の目を逃れながら、オーストリアを南へと移動・・・
1月後には、レードル=ツィプフ強制収容所へと向かいました。
囚人たちは、5月から強制収容所で偽札製造が再開されると聞かされました。
ところが・・・
4月23日、ソビエト軍がベルリンに突入、市街戦が始まりました。
4月30日、総統アドルフ・ヒトラー自殺!!
ナチスの指揮命令系統は崩壊しました。
ただちに偽札づくりの現場でも異変が起きます。
刷り上がった偽札や印刷機がトラックで移送・・・。
印刷途中のもの、出来の悪い偽札は、次々に燃やされました。
親衛隊が、証拠隠滅を始めたのです。
さらに5月3日、囚人たちは50キロ離れたエーベンゼー強制収容所へと移送されます。
偽札印刷に関わった囚人138人・・・口封じのために全員処刑されようとしていました。
ナチスの犯罪を暴露する為に、屈辱に耐え、これまで時間稼ぎをして生き延びてきたのに・・・

1945年5月5日、エーベンゼー強制収容所に歓喜の声が響き渡りました。
囚人を処刑するはずだった新鋭隊員たちは逃亡・・・収容所は囚人たちの手で自由となったのです。
5月7日、ドイツ無条件降伏!!
やがて奇跡的に生き延びたブルガーたちの証言によって、ナチス・ドイツの偽札づくりが明らかになっていくのです。

「解放された後、私は警察に行き事情を話した
 すると、プラハの中央銀行にある230枚のポンド札の確認を求められた
 銀行員はすべて本物と鑑定しましたが、私には1/3が偽物だとわかった
 ブリタニアに穴があいていたからね」byブルガー

出回っている偽札の額は、少なくとも日本円にして560億円・・・
ナチスが作り出した巨額の偽札は、戦後、各国の金融機関を困らせ続けたといいます。

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「闇の世界戦略“ヒトラーのニセ札”事件 ・・あなたの知らない紙幣の秘密・・」

1945年4月、ベルリン・・・ドイツ第三帝国最後の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません。
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、最期までその約束を守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・そのゆるぎない忠誠心は、どのようにして培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのか・・・??
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

1920年代の結成されたナチ党の青少年団・ヒトラーユーゲント・・・ヒトラーの首相就任以降は、全ての青少年がこの組織への加入を義務付けられ、軍事訓練とイデオロギー教育を受けます。
第二次大戦がはじまると、彼らの身も心も万全でした。

1943年、ヒトラーユーゲントは対空防衛に動員されます。
サーチライトと高射砲を連合軍の爆撃機へ向け、ドイツの町を守る任務です。
学校に通わなくて済むため、子供たちは大喜びでした。
青少年の気持ちは高ぶっていました。
本物の兵器を使い、総統のため、ドイツのため、兵士として、男として戦うのです。

空襲の合間に、若い兵士たちは子供らしい時間を取り戻します。
しかし、水空力で勝る連合軍に、勝利は見込みませんでした。
寝不足で疲れ切り、耳に防具をつけないため聴力が低下・・・
彼等は、使い捨ての戦力でした。
連合軍は、ドイツの激しい空襲を行いました。
降り注ぐ爆弾の下で、少年たちは生き地獄を味わいます。
彼等は、空襲の被害者を助ける民間防衛活動に加わりました。

戦況が劣勢になるほど、プロパガンダは激しくなります。
プロパガンダは功を奏し、1943年秋・・・ヒトラーユーゲントメンバーの年長者のうち1万6000人が武装親衛隊の新しい組織第12SS 装甲師団に入ります。
親衛隊の指導者ハインリヒ・ヒムラーによって創設されたこの装甲師団は、別名ヒトラーユーゲントと呼ばれるようになります。
団員は、16歳と17歳で、喫煙と飲酒は禁じられていましたが、殺人は許されていました。
政権は、若者の大胆さと恐れのなさを利用しました。

「敵は知るべきで、我が国では子供であっても最期まで戦うこと」byゲッペルス

ベルギーでの訓練を終えた、第12SS装甲師団は、ノルマンディーへ向かいます。
1944年5月の時点で、ドイツ軍はノルマンディーを戦略上の要所とは考えず、連合軍が上陸するのはカレーだとみていました。
6月6日、連合軍はノルマンディーに上陸、しかし、この攻撃は装甲師団ヒトラーユーゲントをパニックに陥れるものではありませんでした。
翌日、ヒトラーユーゲント師団は、連合軍が占領を狙ったカーンの町へ派遣されます。
連合軍は、町は24時間以内に陥落するとみていました。
10代の兵士たちは、砲撃の洗礼を受けます。
しかし、ユーゲントの果敢な反撃によって、6週間の激戦となります。
装甲師団は、町の入り口で、イギリス軍とカナダ軍の攻撃を食い止め、多くの捕虜を捕まえました。
ドイツ軍のカメラは、死を目前にした連合国軍兵士たちの姿を捕らえています。
武装親衛隊のクルトマイヤーの命令で、青少年兵たちは、捕虜を次々に処刑しました。

カーンの西の修道院では連合軍の兵士18人、シャトードーデュリューの中庭では、45人のカナダ人兵士が処刑されました。
装甲師団・ヒトラーユーゲントは、全部で150人以上の捕虜を殺害しました。
第三帝国の子供達は、戦争犯罪人となったのです。
戦争犯罪・・・大虐殺・・・暴力行為・・・長年にわたるナチスの洗脳教育の結果です。
連合軍は、第12SS装甲師団ヒトラーユーゲントをベビー師団と呼びました。
その無謀さと野蛮さで、連合軍にとって手ごわい敵となります。
戦場の若い兵士は、情け容赦ない兵器でした。
自己犠牲は厭いません。
野蛮な行為にも関わらず、ヒトラー政権は彼らを称賛します。
政権は、これまで通り、バラ色を約束しますが、現実は全く違いました。
ドイツ国防軍は、ノルマンディーの戦いに敗れ、数十万の兵士が捕虜となります。
その中には、多数の青少年が混ざっていました。
かつて片手を突き出し、「ハイル」と叫んだ彼らが、両手をあげて降伏しました。
しかし、敗北にもめげず、ユーゲント師団は一旦撤退しては違う戦線へと向かいました。

「最後の砦は自分達しかいない!!」

ヒトラーユーゲントは、総統と帝国のために結束し、従軍を志願しました。
歴史的な場所での式典で、16歳の志願兵たちが総統に披露されます。

「本日、皆に発表する
 この旗のもとで戦うために、ヒトラーユーゲントからは1928年生まれの団員の7割が志願した
 若者たちの積極的な態度は、戦場の部隊の士気を高めるであろう」

前線の兵士の士気は、高まりませんでした。
彼等は少年たちの戦闘能力を疑っていたのです。
ドイツが必ず勝利するという幻想は消えつつありました。
若い兵士たちは、連合軍の前進を止められなかったのです。

西部戦線でも、東部戦線でも、ヒトラーユーゲントは戦闘に加わりました。
降伏は禁じられ、脱走兵は射殺され、外に道はありませんでした。

「ヒトラーユーゲントの指導者アクスマンと、国を守ったユーゲントの兵士20人が招待され、鉄十字勲章が与えられました。」

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1945年3月20日、大虐殺の命令を実行した若者に祝意を伝えるアドルフ・ヒトラー・・・
ニュース映像に残る最後の姿です。
ナチス総統は言いました。

「今の諸君の戦いは、貴重な経験となる
 ドイツ国民にとって生きるか死ぬかの極めて厳しいこの試練を乗り越え、我々は勝利を手にするであろう
 その勝利は、この国の若者にかかっているからだ」

ヒトラーは、パーキンソン病を患っていたともいわれ、手の動きをコントロールできなくなっていました。
56歳にして既に老人のような姿ですが、後悔や辞世の様子はありません。
彼等は、周りを見る力を完全に失っていました。
ドイツ国民がどうなるかなど気にかけてもいなかったのです。
ヒトラーはこう言い放っています。

「ドイツ人が絶滅したら、それは国民全体の責任だ!!」と。

1945年4月、降伏の1か月前にもナチスはまだなお少年兵を戦場に送り込んでいました。
通りには、自分の町を守るように市民に呼び掛けるポスターが張られました。
下は、10歳の子供までもが招集されます。

4月16日、ソビエト軍がベルリンに向けて大規模な攻撃を始めます。
123万発を越える砲弾が、撃ち込まれました。
10万トンの鋼鉄が、住民の上に降り注いだのです。
4月25日、ソビエト軍はベルリンに入ります。
町じゅうが戦場となり、ヒトラーユーゲントの少年兵は、死をそこに意識します。
少年兵の多くが戦う意欲を失くします。
戦争が終わらないでほしいと願っていた子供たちも、戦争から逃げたいと思っていました。
ヒトラーユーゲントは、僅かな武器を手にソビエト軍の戦車と戦いました。
ソビエト兵は、少年兵を鼠のようにあぶり出し、捕らえました。
多くの若者が死んでいく中、ヒトラーは地下壕に隠れていましたが、地上では至る所で待ち伏せ攻撃、銃撃戦、接近戦が行われました。

ソビエト軍は、ヒトラーユーゲントの兵士600人が守る橋へ大砲の砲身を向けます。
大虐殺でした。
生き残った者はほとんどなく、4月30日、ソビエト軍はドイツ議事堂への攻撃を開始、この日ヒトラーは、地下壕で自殺しました。
総統の子供だと誓ったユーゲントの青少年たちは、みなしごになったのです。

1945年5月、ベルリン郊外でドイツ第三帝国は無条件降伏の文書に署名します。
権力と栄光の夢に吸い寄せられたヒトラーユーゲントの若者たち・・・与えられたのは、戦争の恐怖と敗北だけでした。 

ヨーロッパは戦争で荒れ果てました。
連合軍がドイツを分割占領する中、膨大な数の避難民は故郷に戻ろうとしていました。
ヒトラーユーゲントにとって、帝国の崩壊は自由を意味しませんでした。
彼等の多くは、連合軍によって捕虜収容所に収容されます。
連合軍は、若者たちがヒトラーを崇拝するよう洗脳され、一部は今もナチ党員であることを知っていました。
学校の教室と捕虜収容所で、若者たちへの再教育が始まります。

ドイツ人捕虜は、特別授業を受け、帰国後の役割に備えます。
”ゲシュタポやファシストはドイツ再建から排除”と教わります。
ヒトラーの子供達は、新しい言葉と出会います。
”民主主義”です。
ナチスの洗脳から解き放つための手段は、映画の上映でした。
かつてのナチス同様、今度は連合軍がナチスの犯罪を見せつけたのです。
”アウシュビッツ”・・・
最後まで信じようとしない人たちに、連合軍は死の収容所をじかにみせて納得させます。

ヒトラーユーゲントの若者たちは、自分たちの国に戻ります。
国家再建が進む新しいドイツで、多くの人がナチスに青春を奪われたことを理解しました。
しかし、長い年月を経ても、一つの疑問が彼らについて回ります。

どうして私たちは踊らされたのか・・・??

かつてヒトラーの子供と名乗り、今人生の終わりに近づいた人たち・・・
自分達が生き残ったのは、体験を次の時代の人々に伝えるためだと思っています。

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1945年4月・・・ベルリン・・・
ドイツ第三帝国の最期の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません・・・
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、その約束を最後まで守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・
そのゆるぎない精神は、どのように培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのでしょうか?
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

ナチス・・・そしてヒトラーユーゲントの歴史は、1920年代に遡ります。
当時のドイツは、第1次世界大戦の敗戦の深い傷を負っていました。
ベルサイユ条約によって厳しい制裁を科され、領土の一部を失ったのです。
敗戦国にとって屈辱的なこの条約を改めようとした男・・・それが、アドルフ・ヒトラーでした。
1923年、クーデターに失敗したヒトラーは、選挙による政権奪取を目指します。
ナチ党は、党の軍事組織SA・・・突撃隊を始め、少年たちを選挙活動に動員しました。
若い活動員たちは組織を結成し、ヒトラーユーゲントと名乗ります。
年齢は14歳から18歳、まだ少人数でした。
1920年代のドイツでは、共産党やカトリック教会が独自に青少年団体を組織していました。
イギリスではじまったボーイスカウトを手本に作られ、子供たちにレクリエーションの機会を与えていました。
ヒトラーユーゲントも人気のあるイベントを催し、あらゆる階級の子供を参加させていました。
多くの子供たちにとって、それは夢のような時間でした。

当時、労働者階級はギリギリの生活をしていました。
青少年向けのレクリエーションは特別で、喜んで参加していたのです。
ヒトラーユーゲントと共に出かけることは、日常とは違う生活を送ることのできる素晴らしい体験でした。
ボーイスカウト同様、メンバーには制服の着用が義務づけられ、見た目には階級の違いは判りませんでした。
ナチ党と共に、ヒトラーユーゲントも急速に勢いを増していきます。
当初ヒトラーは、投票権もない彼らが自分の役に立つとは考えていませんでした。
しかし、1932年、ポツダムのスタジアムに7万の青少年が集まり、ヒトラーを盛大に迎えます。
その力の結集を見たヒトラーは、若者こそが自分の理想を実現する要だと考えます。
ヒトラーは側近に打ち明けました。

「我々は年を食った・・・しかし、この若者たちの力を借りれば新しい世界を作れる・・・!!」

経済危機に乗じて政権を奪取!!
1933年、ヒトラーはついに首相となります。
民主主義は葬られ、ナチ党以外の政党は活動を禁止させられます。
ヒトラーは、最高指導者に全権をゆだねられる民族主義国家をつくることを目指します。
900万人のドイツの子供達を狂信的なナチ党員に育て上げるために、ヒトラーは、脅迫と誘惑を使い分けます。
まず脅迫・・・
対立する政党の全ての青少年組織は解体され、ヒトラーユーゲントに統合されました。
次は誘惑です。
少年たちが一年で一番楽しみにしているサマーキャンプ・・・ヒトラーユーゲントはこのイベントを独占したのです。
親の目の届かない環境は、ナチスのイデオロギー教育に最適でした。
野外活動を通じて、幸せな将来が約束されていると子供たちに思い込ませます。
多くの子供達は、これまでにない楽しい経験をしました。
ユーゲントのメンバーの数は、1年で10万人から200万人以上に爆発的に増えました。
ユダヤ人や野党の党員でない限り、第三帝国の国民は快適な人生を送れたのです。
ユーゲントには女子も男子もいましたが、ヒトラーが計画を成し遂げるためには男子が重要でした。
将来、帝国の兵士となる男子には、特別なプログラムが用意されました。
本格的な戦争ゲームです。
少年たちは、敵の陣地にコンパスと地図をもって潜入し、偽装工作を続けながら標的に接近します。
アドベンチャーゲームは、少年たちの心を掻き立てました。

まるで、ドイツ版西部劇のような宣伝映画も作られました。
映画は劇場公開され、新しいメンバーの入団を促しました。

「ドイツの若き男たちよ!今一度野獣となり、美しさを求める軟弱より、無学な野獣の方がいいのだ!!」

腕っぷしが何より大事です。
ひ弱な子供は笑い者にされ、屈辱を受けました。
ナチスの理念の下では、強い者だけが優遇され、期待に応えられない人間は落伍者として扱われたのです。
いじめの余りのひどさに、若者の中には精神を病み、自殺を図るものまで現れました。
しかし、第三帝国では都合の悪い出来事は覆い隠され、ヒトラーユーゲントは全員勇猛果敢な戦士でした。
徐々に教会や様々な団体が運営する青少年組織は、ヒトラーユーゲントに吸収されていきました。
1937年までヒトラーユーゲントのへの加入は、法律で義務付けられます。
子供達は、幼いころから名誉あるメンバーとして、街頭のパレード行事に招かれました。
行進の練習をすることで、団結したのです。
その足並み同様、少年たちの考え方も統一されていきます。
大人たちに褒め称えられ、政権の宣伝の道具とされた彼らは、高揚感に包まれていきます。
大規模集会では、イベントが最高潮に達すると総統ヒトラーが登場することがありました。
第三帝国の将来を担う者と、その創始者との対面です。
若者たちは我を忘れ、ヒトラーをスターのように褒め称えます。

「我が若きドイツ人たちよ
 君たちがドイツの将来を保証する

 君たちは我々の血であり、肉であり、魂だ
 そして、我が国民の将来である

 君たちの中にある国の未来が、称賛されんことを!!」byヒトラー

ナチスのプロパガンダは、ドイツの若者に、君たちは成功し、強くなり、幸せな暮らしをすると思い込ませました。
若者は喜んで、その魔法にかかりました。
1936年には、500万人以上の若者が、ヒトラーに傾倒し、大きな歌声を響かせました。
国民の洗脳を徹底するため、日常生活にもナチス的敬礼が組み込まれます。
一日に何十回も「ハイルヒットラー」を繰り返す中で、ヒトラーユーゲントは、国家社会主義を刷り込まれました。
イデオロギーの強制は、さらに厳しさを増します。
ナチスは子供と接する大人全てに監視の目を・・・!!
協会の活動は、礼拝だけが許され、サマーキャンプの間に親の影響が取り除かれました。
ナチスは、学校の教育課程も変えました。
子供達は、ユダヤ人と共産主義者を憎むように教えられます。
民族を差別する法律も制定されます。
愛国的な歌は、徐々に憎しみの歌に代わりました。
何度も歌ったため、今でも歌えるといいます。
ひとたび憎しみに感染すると、行動に移すのは簡単です。
ヒトラーユーゲントは、親衛隊SSや、突撃隊SAと共に、ユダヤ排斥運動を大々的に展開していきます。

1936年までに、ドイツは不況から脱します。
ヒトラーは、軍備拡張と、大規模な公共事業を行うことで失業率を低下させ、ドイツをヨーロッパ内の強国に押し上げます。
1938年には、対外攻勢を加速させ、周辺の国や地域を次々とドイツに併合!!
戦争の足音が聞こえてきます。
ナチスにとって、将来の兵士となるヒトラーユーゲントはより重要になりました。
ヒトラーは、自分の望む戦士に仕立て上げるために彼らを厳しく鍛えようと考えます。
スポーツや遊びに加えて、若者たちは本格的な軍事訓練を始めます。
競争心を煽られ、16歳の少年が8キロのリュックを背負って20キロ以上の道程を歩きます。
恐怖心を克服し、戦士にならなければなりません。
ヒトラーユーゲントでは、夢で見た大人の世界のあらゆるものに手が届きます。
射撃訓練も行います。
海軍への入隊に備えた海上訓練・・・空軍の入隊を夢見る少年には、グライダーを使った飛行訓練を、こうした大きすぎるおもちゃを使ってヒトラーユーゲントの子供達は真剣な戦争ごっこをしました。
そして徹底させるために、宣誓をさせました。
年齢を問わず、帝国と総統に忠誠を誓います。

10歳が唱える宣誓・・・

「赤い血の旗の前で私は自分のエネルギーと力の全てを、我が国の救世主アドルフ・ヒトラーに捧げることを誓います。
 総統のためならば、命を捨てる意思と覚悟があります。
少年たちは動じることなく、この言葉を受け入れました。

ヒトラーユーゲントは、恐るべき大組織となります。
1929年に1万7000人だった団員の数は、10年後にはドイツの全ての青少年の98%にあたる800万人以上に達していました。
この頃、ヒトラーユーゲントへの参加は義務となっていましたが、招集に応じない家族には重い罰金が科され、逮捕されることもありました。
徴兵の年齢に達した若者は、国防軍やSS親衛隊に競って入隊しました。
1939年9月1日、戦争が勃発!!
ドイツは、先に攻撃されたという嘘を口実にポーランドに侵攻。
その進軍は、電光石火の早業でした。

ポーランド侵攻から8か月後の1940年5月、ドイツは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻します。
ドイツ国民にとって、ヒトラーは史上もっとも偉大な戦略家でした。
ヒトラーユーゲントは、ドイツ軍の進軍ぶりを信じられない思いで見ていました。
ドイツ国防軍は、フランスとの戦いを6週間で決着させ、勝利しました。
ヒトラーは攻勢を続けます。
1941年6月には、ソビエトに対して奇襲を仕掛けました。
長年の訓練が実を結び、ヒトラーユーゲント育ちの若い兵士たちが至る所で立派な戦士であることを証明します。
前線から戻ると、将来の兵士たちへ英雄となった体験を語ります。

ドイツ軍が東部戦線で進撃を続ける中、後方ではヒトラーユーゲント育ちのメンバーの多い特殊部隊アインザッツグルッペンに、ユダヤ人殺害の任務が与えられました。

前線の戦いが激しさを増す中、ヒトラーユーゲントには体を鍛える授業や、イデオロギー教育が続けられていました。
民族的優位についての授業では、頭蓋骨を奥行き、幅、高さの比率や、髪の毛と目の色が調べられ、ナチスの科学者が決めた基準で分類されます。

1942年の暮れには、ドイツは劣勢となり北アフリカ戦線や東部戦線の戦いは膠着状態となります。
成人男性の殆どが戦場に送られたドイツでは、ヒトラーユーゲントが前線の活動に動員されました。
14歳以上の少年は、一軒一軒家を回って、古着や金属などを集めました。
郵便配達、路面電車の運転、道路や線路の工事、収穫などの畑仕事に駆り出されたメンバーもしました。
戦時の経済を支えるうえで、若者の力は欠かせなくなりました。
プロパガンダ映像は、青少年の強い意志を掲げますが、実際には辛い思いをし、疑問を抱く者が続出します。
工場や鉱山での社会奉仕活動は、強制労働に近いものがありました。

1943年の冬、ヒトラーユーゲントは想定外の事態に直面しました。
劣った人間と呼ぶように教えられてきたロシア人が、ドイツが誇る屈強な軍人たちに反撃を始めたと伝わったのです。
スターリングラードの攻防戦で、ドイツ側は数十万の兵力を失いました。
モスクワ占領も、赤の広場の行進も、もはや夢物語です。

1943年になると、アメリカやイギリスは、地上部隊の損失を最小限に止めるために、大規模な空襲をドイツの工業施設や都市で繰り返しました。
戦争へ行きたいと願っていたヒトラーユーゲントのもとへ、戦争がやってきました。
ドイツは大きな打撃を受けます。
瓦礫の中で、ユーゲントは即席の消防隊員や救急隊員となります。
10年以上にわたってナチスに洗脳され、明るい未来を約束されたヒトラーユーゲント・・・
しかし、彼らは今、連合軍の空襲を受け、悪夢のただ中にいました。
そして、事態はさらに悪化・・・ドイツが敗戦に向かう中、完全な崩壊に至るまで、本土防衛が、この青少年たちに押し付けられたのです。


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現在、世界中で飛行機に乗る人の数は、1年間で約45億!!
地球上のどこでも気軽に飛んでいけます。
旅客機の時代は、一人の若者の快挙から始まりました。
チャールズ・リンドバーグ・・・およそ100年前、ニューヨーク⇔パリ間の5800キロの無着陸飛行に初めて成功しました。

1929年にアメリカで公開されたウォルト・ディズニーの初期作品「プレーン・クレイジー」・・・飛行機に夢中になった主人公が、パイロットにチャレンジする物語です。
主人公が、その髪型を真似するほど憧れたその人物・・・それがリンドバーグでした。

1927年5月20日、ニューヨーク⇔パリ間を大西洋単独無着陸飛行という世界初の快挙に成功したリンドバーグ・・・
ニューヨークの凱旋パレードでは、400万人もの人が祝福、一夜にして世界中のヒーローとなりました。
しかし、その後リンドバーグを待っていたのは、英雄ゆえの悲劇の連続でした。

20世紀は飛行機と共に始まりました。
1903年、ライト兄弟が世界初の友人動力飛行に成功します。
1914年、第1次世界大戦で、飛行機が戦闘に投入されます。
飛行機の運動性能は瞬く間に向上し、その後は如何に長く飛ぶか・・・飛行距離を競う時代となりました。
そして1919年、アメリカで世界最大の航空レースが催されます。
ニューヨーク⇔パリ間の5800キロ・・・大西洋を横断し、しかも無着陸のレースです。
1番乗りの賞金は、2万5000ドル・・・現在の価値でおよそ4000万円でした。
前人未到のこのレースに挑み、初の偉業達成した若者こそ、リンドバーグでした。

リンドバーグは、どのようにして大西洋無着陸横断に成功したのでしょうか?
1902年、リンドバーグは、ミシガン州デトロイトで生まれました。
父は弁護士、母は教師・・・しかし、両親はリンドバーグが5歳の時に別居します。
母に引き取られたリンドバーグ・・・しかし、母が仕事に出かけると、リンドバーグはひとり・・・。
ひとり遊びが好きな内気な少年でした。

「私は部屋の中で生白い顔をして何時間もずっとあれこれつまらないことを考えて過ごした」

時折会いに来る父は、友達のいないリンドバーグをこう励ましました。

「一人は一人前の仕事をする
 二人では半人前の仕事をする
 三人になると何も達成できない・・・ということわざがある
 他人を頼り過ぎてはいけないよ」

そんなリンドバーグは心を惹かれたのは機械でした。
近くに住んでいた祖父は、歯科医で発明家。
リンドバーグは祖父の研究室に入り浸り、様々な工具や機械に夢中になりました。

「科学はあらゆる謎を解き明かす鍵なんだ!」

やがてリンドバーグの興味は、最先端のメカ・飛行機に向いてきます。
10歳の時、母と共に試験飛行を見学しました。
リンドバーグの目の前で、飛行機が大空へと駆け上がっていきます。

「僕も空を飛びたい!!」

20歳になったリンドバーグは、パイロットを目指して飛行学校へ入学。
1週間後、初めて飛行機に乗せてもらいました。

「美しさと危険に満ち 生と死を超越した永遠の空間の中に生きている気がした」

在学中、リンドバーグはアルバイトして稼いだ金をつぎ込んで中古の飛行機を手に入れます。
その目的は、プロの曲芸飛行士!!
第1次世界大戦が終わり、仕事にあぶれたパイロットが始めたこのショーは、全米で大人気でした。
リンドバーグは、”命知らずの空中軽業師”というキャッチフレーズで、各地を回り、操縦の腕を磨いて行きました。
その後、リンドバーグは、22歳で陸軍飛行学校に入学。
曲芸飛行で磨いた操縦の腕前は、教官を凌ぐほどだったといいます。
翌年、リンドバーグは首席で卒業、航空産業の中心だったセントルイスに移住します。
セントルイスでは、全米に先駆けて、民間の航空郵便が発足、リンドバーグはその会社のチーフパイロットに採用されました。
嵐でも、闇夜でも、たった一人で飛ぶ航空郵便・・・
それは、孤独を苦にしないリンドバーグにうってつけでした。
しかし、当時、航空郵便のパイロットは、最も危険な職業でした。
墜落死亡事故が後を絶たなかったのです。
リンドバーグも、2度墜落事故をに遭いましたが、その度にパラシュートで脱出し、生還しました。
そんな頃、耳にしたレースが、大西洋横断レースでした。
ニューヨーク⇔パリ間、5800kmの無着陸飛行です。
それまで大西洋横断の最長記録は3000km・・・
今回のレースは、その2倍近い前人未到の距離でした。
名だたるパイロットが挑戦したものの、次々と失敗、6人の犠牲者が出ていました。
しかし、リンドバーグに迷いはありませんでした。

「賞金よりコースを飛んでみたい」

リンドンバーグは、他の挑戦者が考えもしなかったアイデアを次々と実行していきます。
大西洋横断は、30時間以上の長距離飛行です。
操縦を後退するため、他の挑戦者は2人乗りの飛行機を使っていました。
しかし、リンドバーグは・・・

「僕はひとりだけで飛ぼう」

狙いは、軽量化でした。
2人乗り用の飛行機では、どうしても重くなり、長距離に適しません。
一人乗りならば劇的に減る・・・
しかし、その代わりにリンドバーグは飛行中一睡もできない!!
さらにリンドバーグは、無線機も非常用のパラシュートも積みませんでした。
命の危険と引き換えに、ギリギリまで軽くしたのです。

リンドバーグは、飛行機の設計の時点で細かく常識外れの注文をつけます。
操縦席の前に、巨大なガソリンタンクを設置しろと言うのです。
操縦席からは、全く前が見えなくなってしまう・・・

「前が見えないと危険だ」と、技術者は猛反対・・・しかし、リンドバーグは反対を押し切ります。
その設計にした理由は、飛行機に燃料を一番多く積める方法だったからです。
彼の飛行技術であれば、前方の視界は必要ありませんでした。
航空郵便では闇夜に飛ぶことも多く、彼にとって飛行は感覚的なものでした。
航路はわかっていて、メーターで高度も解り、飛行の状況をちゃんと把握できたのです。
完成した飛行機の名は、”スピリット・オブ・セントルイス号”でした。
地図には大西洋上空を吹く季節風なども計算し、1時間で飛べる距離・・・すなわち100マイルごとに方向を細かく書き込みます。

「正確であることは、とても重要なことだ
 ぼくの職業は、命そのものが正確さに依存しているから」

1927年5月20日・・・大西洋横断飛行出発当日・・・。
入念に準備をしてきたリンドバーグでしたが、大きなミスを犯していました。
記者たちの取材攻勢で眠ることができず、フライトを前に24時間も眠っていない状態でした。
積んでいた食料は、サンドイッチ5食分だけ・・・
「それで足りるのか?」と聞かれたリンドバーグは、

「パリに着けばサンドイッチはいらない
 パリに到着しなければやはりサンドイッチはいらない」

午前7時54分離陸・・・
ところが燃料が満タンで重かったうえ、滑走路が雨でドロドロにぬかるんでいたため、なかなか離陸ができない・・・
なんとか機体を持ち上げた飛行機・・・パリへの長い旅が始まりました。
離陸から14時間・・・飛行機は大西洋上空へ・・・!!
リンドバーグの最大の敵は、睡魔でした。
飛行前からの睡眠不足と疲労で、激しい睡魔に襲われ、幻覚まで見えたといいます。

「なんとかして気を張り詰めておく方法を見つけなくてはならない
 この分では、死か失敗しかない」

窓から顔を出し、プロペラからの熱風を浴びてなんとか眠気を覚ましたといいます。
ニューヨークを出発してから33時間30分・・・リンドバーグの目に映ったのは・・・

「星空の下に星がきらめくような大地がある・・・ パリの灯だ!!」

空港には、15万人のパリ市民がリンドバーグを一目見ようと殺到しました。
アメリカに帰国後、大統領からは勲章が与えられました。
その後、リンドバーグは全米の82都市を訪問、熱烈な歓迎と祝福を受けました。
リンドバーグ25歳の時でした。

前人未到の偉業を成し遂げ、一躍世界のヒーローとなったリンドバーグ・・・
しかし、その僅か8年後、リンドバーグ一家は祖国アメリカを去りイギリスに移住します。
英雄となったリンドバーグを待っていたのは、祝賀行事の分刻みのスケジュールでした。
行く先々で、待ち構えるマスコミから猛烈な取材攻勢を受けます。
端正な顔立ちも、人気に益々火をつけます。
多くの女性が、独身のリンドバーグに熱い視線を送ります。
しかし、彼は何の関心も示しませんでしたが・・・

メキシコシティ・・・1927年、アメリカ政府の要請で親善大使としてメキシコへ
そして、アメリカ大使館のクリスマスパーティーに出席します。
そこでリンドバーグを迎えたのが、大使の娘アン・モローでした。
文学を愛する物静かな女性にリンドバーグは一目ぼれします。
大西洋横断から2年後、27歳になったリンドバーグはアンと結婚。
リンドバーグは、しばしばアンを飛行機に乗せて空を飛びました。
そしてこんな夢を語りました。

「僕が今、興味があるのはね 国と国の間にある偏見を打ち破って、飛行機を通じてお互いを結びつけることなんだ」

リンドバーグは、航空会社の技術顧問に就任。
ニューヨークから西海岸への航路の開発に乗り出します。
当時、ニューヨークから西海岸までは、大陸横断鉄道・・・一番早い汽車でも丸3日かかりました。
このルートを飛行機が飛ぶようになれば、客が殺到するのは確実だ!!
リンドバーグは、安全で効率的なルートを探すため、何度も大空に飛び立ちました。
なんと、妻のアンも一緒でした。

1929年、ニューヨークロサンゼルス間を48時間で結ぶ大陸横断旅客航路、就航。
リンドバーグ・ラインと呼ばれるこの航路は、誰もが飛行機に乗って旅をする先駆けとなりました。
私生活も充実し、この頃、長男チャールズが誕生します。
リンドバーグは、静かな環境を求めてニューヨークから車で2時間ほど離れた郊外に移り住みます。
航空ルート開拓の仕事は、子供が生まれても続けました。
アンと二人でアラスカからベーリング海、日本に至る北太平洋航路の開発の旅に出ます。

1931年8月、夫妻は茨城県霞ヶ浦に到着。
日本での滞在はおよそ1か月・・・東京、大阪、福岡と訪問し、各地で熱烈な歓迎を受けます。
その後、アメリカに戻ったリンドバーグ・・・しかし、その6か月後悲劇が・・・。
1932年3月1日、自宅で一家団らんを過ごした夜9時すぎ・・・当時1歳8か月の長男チャールズが2階の寝室から忽然と姿を消したのです。
部屋には脅迫状が残されていました。

「5万ドルを用意しろ
 警察には知らせるな」

世界的な英雄を襲った誘拐事件・・・!!
静かな森は、報道陣と警察で騒然となりました。
妻アンはリンドバーグの母への手紙にこう書いています。

「恐ろしく非現実的な状況に私の感覚は麻痺しています」

リンドバーグは、身代金5万ドルを用意します。
犯人から受け渡しに指定された墓地・・・
リンドバーグは、離れたところから身代金受け渡しに立ち会いました。
しかし・・・金を渡したもののチャールズは帰らず、犯人からの連絡も途絶えました。
事件から70日後・・・自宅から5キロほど離れた松林で、変わり果てた我が子が発見されました。

「抑えようのない感情がこみ上げてくる
 今はこの悲しみを受け入れることができない」

事件から2年半後、身代金の紙幣を使った男が逮捕されました。
ドイツ系移民のブルーノ・ハウプトマン・・・不法入国者で逮捕歴もありました。
裁判でハウプトマンは、無罪を訴えました。
その内容をリンドバーグは欠かさず傍聴したといいます。
リンドバーグは、ハウプトマンの声を聞いてこう証言しました。

「あの晩に聞いたのと同じ声です」

リンドバーグの証言が決め手となり、ハウプトマンは死刑となりました。
しかし、判決の後、リンドバーグへの取材攻勢はやむこともなく・・・さらに、事件後に生れた次男のジョンを誘拐するという予告状まで舞い込み、リンドバーグ一家の忍耐力は限界に達していました。
1935年、妻と次男と共にイギリスに移住・・・33歳の時でした。

第2次世界大戦が起きると、リンドバーグは英雄から一転、国民の批判にさらされることとなります。
どうして英雄の座から転げ落ちたのでしょうか?
1935年、イギリスに移住したリンドバーグ一家・・・ロンドンの郊外で、おだやかな日々を過ごしていました。
1年後・・・リンドバーグのもとに、アメリカ政府から1通の手紙が届きます。
ヒトラー率いるナチスドイツの空軍を視察する依頼でした。
1936年7月、34歳のリンドバーグは、妻のアンと共にベルリンに飛びます。
ドイツを視察訪問・・・リンドバーグの名声は、ドイツでも絶大でした。
ヒトラーの右腕で、ドイツ空軍総司令官だったゲーリングは、リンドバーグを大歓迎・・・
軍事機密である戦闘機の視察も特別に許可されます。
ドイツ空軍の戦闘機を見たリンドバーグは、高い技術力に感銘を受けます。
第1次世界大戦の負け、兵器を破壊されてから20年足らず・・・
驚異のスピードでドイツを復興し、軍備を整えたヒトラーを高く評価しました。
リンドバーグは、日記にこう記しています。

「彼に対して批判はあるが、偉大な人物であることに間違いない
 若干の狂信的行為はあるが、ある程度の狂信性がないと、これほどまでのことは達成できなかっただろう」

その後、リンドバーグにはドイツに貢献した外国人に与えられるという荒鷲十字勲章が与えられました。
リンドバーグは、意味を深く考えずに勲章を受け取ったといいます。
彼は決して”親ナチス”ということではありませんでした。
しかし、彼は間違いなく、ナチスドイツの技術の進歩、そしてヒトラーが作り上げた空軍に感銘を受けていました。

1939年4月・・・3年半ぶりにアメリカに帰国。
その9月、第2次世界大戦が勃発!!
ナチスドイツがポーランドに侵攻したのです。
これを受けアメリカでは、ナチスドイツを批判するローズベルト大統領がアメリカも参戦すべきだと主張していました。
リンドバーグは、この主張に真っ向から対立!!
中立を訴えました。

「私は皆さんにアメリカの中立を訴えたい
 戦争に介入すれば、私たちは大変な損害を受けます
 我が国の指導者の判断は間違っています」

リンドバーグの主張は、大きな支持を集め、次期大統領の有力候補という声まで聞かれるようになっていました。
1940年、ナチスドイツがロンドンを空爆開始、アメリカの世論は一気に参戦に傾きます。
それでも参戦に反対し続けるリンドバーグに、民衆は失望していきました。

「アメリカを戦争へと駆り立てるのは、ローズベルト大統領に他ならない」

風刺画にはナチスの手先として描かれ・・・ドイツの勲章を持っていたことも、ナチスとの関わりの証拠だとされ、国中から大バッシングを受けたのです。

リンドバーグの立場がさらに悪くなる事態に・・・
1941年、日本がハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃、太平洋戦争が勃発しました。
こうなっては、リンドバーグも反戦の主張を撤回する以外にありませんでした。

「我が国に対して武力を行使された今、武力によって報復せねばなりません」

自らも参戦したいと希望したリンドバーグ・・・
しかし、ローズベルト大統領と廃立している時に軍籍を返上していました。
軍には戻れない・・・そこで、戦闘機を作る民間会社の技術顧問として参戦します。
太平洋のニューギニアへ・・・!!
到着すると、軍法を無視して爆撃機に搭乗します。
米軍は、日本軍の拠点ラバウルの爆撃を計画、パイロットにはニューギニアからラバウルを往復する長距離飛行の技術が必要でした。
すでに40歳を超えていたリンドバーグ・・・しかし、長距離飛行で彼の右に出る者はいませんでした。
最高司令官マッカーサーは、リンドバーグの参戦を黙認。
若いパイロットの指導役として燃料の節約教えます。
ゼロ戦の激しい攻撃をかわしながら、日本軍に爆撃を続けたリンドバーグ・・・
しかし、爆撃後地上に降りて日本兵の死体を見た時、大きな衝撃を受けました。

「自分がボタンを押すことで死が落下していく
 爆弾が落ちたところに人がいたら、その人の命を奪ったのは自分なのだ」

1945年5月、首都ベルリンが陥落・・・ドイツは降伏しました。

1960年代、60歳を過ぎてからリンドバーグはそれまでと全く違う活動を始めます。

「もしどちらかを選ぶとするならば、今の私は飛行機よりも鳥を選ぶだろう」

それは、絶滅危惧動物の保護でした。
飛行機という最先端の文明とは真逆の自然に生きがいを見つけたのです。

1945年5月、ドイツの敗戦から1か月後・・・ドイツ空軍の技術調査のためにドイツを訪問。
そして調査の一環として、ナチスの強制収容所を訪れます。
そこで、多くのユダヤ人が虐殺された生々しい現場を目の当たりにします。

「これこそ、人間の生と死が堕落の極みに達した場所・・・
 このような施設を正当化することは絶対に不可能だ」

太平洋戦争の終結から3年後、今度は日本へと飛んでいき広島を上空から眺めました。

「よく目を凝らすと、眼下には爆破され、放射能を浴び、焼けただれた広島の土が見えた」

そして1953年、リンドバーグは1冊の本を発表します。
タイトルは「翼よ、あれがパリの灯だ」。
ニューヨーク⇔パリ間の無着陸飛行を中心に書かれた青春の自叙伝です。
あれから26年経った今、リンドバーグは快挙に酔いしれた当時とは全く違う気持ちだと語りました。

「私たちは飛行機というものに命を捧げてきたが、それを作り出した文明を、いま私たちは破壊しているのだ」

60歳を過ぎたリンドバーグは、世界自然保護基金の団体と連携し、絶滅が心配される生き物の保護するため、世界中を飛び回るようになります。
フィリピンのミンドロ島にだけ生息する野生のタマラオ・・・この牛も、絶滅危惧種の一つでした。
リンドバーグは、その知名度を生かし、マルコス大統領の直談判、フィリピン政府を動かして、保護区を作らせました。
他にも、シロナガスクジラ・ハクトウワシ・ホッキョクグマ・マウンテンゴリラなど、世界中を飛び回りながら、その後の人生を動物たちを救うことに捧げました。

ハワイ・マウイ島・・・豊かな自然のこの島に、リンドバーグが晩年家族と過ごした家があります。
文明から遠ざかるように、電気もガスもひかず、ランプと薪の生活を送っていたといいます。
末の娘によると・・・

「父は優しくもあり厳しくもありました
 子供の頃には私を抱き上げて高く投げてくれたり、家ではロープで素敵なものを色々と作ってくれました
 機械であろうとお金であろうと、日常使うものの管理にはとても厳しかった
 車に乗る前には、私たちにもタイヤを蹴らせ、オイルの点検もさせました
 突然車を停めて、私たちにタイヤの交換をさせたりもしました
 まだ交換の必要が無くてもです」

そんな父が晩年、自然の保護活動に打ち込んだのも分かる気がするといいます。

「父は飛行機の技術が、世界中の自然を破壊していると考えたのです
 ”人類が生き残るには自然とテクノロジーのバランスをとらなくてはならない”と言っていました」

71歳の時、リンドバーグは悪性リンパ腫に侵され、ニューヨークの病院に入院します。
しかし、都会で死を迎えることをかたくなに拒み、医師の反対を押し切って島へ戻りました。

「マウイ島で死に、その地で埋葬される・・・
 そのことが、父にとって大事なことでした
 亡くなる10日前とか、1週間前に、死に向けて全ての準備が整っているか確認したかったのです
 父はどのようにお墓が建てられるかも知りたがりました
 自分の葬式で、母に讃美歌を歌ってほしいと希望したのに、”あれはダメ””これはダメ””他の賛美歌にして”と注文を付け、自分で決めようとしていました
 本当に父らしいと思います
 父は非常に細かいプランナーでした」

「どうせ死と対面するならば、前もって知っておきたいのだ
 死こそ人生における最後の、そして最大の冒険だろうから」

1974年8月26日、チャールズ・リンドバーグ死去・・・72歳の生涯でした。
今、リンドバーグは、マウイ島の自然の中で静かに眠っています。

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