日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ヒトラーユーゲント

1945年4月、ベルリン・・・ドイツ第三帝国最後の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません。
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、最期までその約束を守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・そのゆるぎない忠誠心は、どのようにして培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのか・・・??
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

1920年代の結成されたナチ党の青少年団・ヒトラーユーゲント・・・ヒトラーの首相就任以降は、全ての青少年がこの組織への加入を義務付けられ、軍事訓練とイデオロギー教育を受けます。
第二次大戦がはじまると、彼らの身も心も万全でした。

1943年、ヒトラーユーゲントは対空防衛に動員されます。
サーチライトと高射砲を連合軍の爆撃機へ向け、ドイツの町を守る任務です。
学校に通わなくて済むため、子供たちは大喜びでした。
青少年の気持ちは高ぶっていました。
本物の兵器を使い、総統のため、ドイツのため、兵士として、男として戦うのです。

空襲の合間に、若い兵士たちは子供らしい時間を取り戻します。
しかし、水空力で勝る連合軍に、勝利は見込みませんでした。
寝不足で疲れ切り、耳に防具をつけないため聴力が低下・・・
彼等は、使い捨ての戦力でした。
連合軍は、ドイツの激しい空襲を行いました。
降り注ぐ爆弾の下で、少年たちは生き地獄を味わいます。
彼等は、空襲の被害者を助ける民間防衛活動に加わりました。

戦況が劣勢になるほど、プロパガンダは激しくなります。
プロパガンダは功を奏し、1943年秋・・・ヒトラーユーゲントメンバーの年長者のうち1万6000人が武装親衛隊の新しい組織第12SS 装甲師団に入ります。
親衛隊の指導者ハインリヒ・ヒムラーによって創設されたこの装甲師団は、別名ヒトラーユーゲントと呼ばれるようになります。
団員は、16歳と17歳で、喫煙と飲酒は禁じられていましたが、殺人は許されていました。
政権は、若者の大胆さと恐れのなさを利用しました。

「敵は知るべきで、我が国では子供であっても最期まで戦うこと」byゲッペルス

ベルギーでの訓練を終えた、第12SS装甲師団は、ノルマンディーへ向かいます。
1944年5月の時点で、ドイツ軍はノルマンディーを戦略上の要所とは考えず、連合軍が上陸するのはカレーだとみていました。
6月6日、連合軍はノルマンディーに上陸、しかし、この攻撃は装甲師団ヒトラーユーゲントをパニックに陥れるものではありませんでした。
翌日、ヒトラーユーゲント師団は、連合軍が占領を狙ったカーンの町へ派遣されます。
連合軍は、町は24時間以内に陥落するとみていました。
10代の兵士たちは、砲撃の洗礼を受けます。
しかし、ユーゲントの果敢な反撃によって、6週間の激戦となります。
装甲師団は、町の入り口で、イギリス軍とカナダ軍の攻撃を食い止め、多くの捕虜を捕まえました。
ドイツ軍のカメラは、死を目前にした連合国軍兵士たちの姿を捕らえています。
武装親衛隊のクルトマイヤーの命令で、青少年兵たちは、捕虜を次々に処刑しました。

カーンの西の修道院では連合軍の兵士18人、シャトードーデュリューの中庭では、45人のカナダ人兵士が処刑されました。
装甲師団・ヒトラーユーゲントは、全部で150人以上の捕虜を殺害しました。
第三帝国の子供達は、戦争犯罪人となったのです。
戦争犯罪・・・大虐殺・・・暴力行為・・・長年にわたるナチスの洗脳教育の結果です。
連合軍は、第12SS装甲師団ヒトラーユーゲントをベビー師団と呼びました。
その無謀さと野蛮さで、連合軍にとって手ごわい敵となります。
戦場の若い兵士は、情け容赦ない兵器でした。
自己犠牲は厭いません。
野蛮な行為にも関わらず、ヒトラー政権は彼らを称賛します。
政権は、これまで通り、バラ色を約束しますが、現実は全く違いました。
ドイツ国防軍は、ノルマンディーの戦いに敗れ、数十万の兵士が捕虜となります。
その中には、多数の青少年が混ざっていました。
かつて片手を突き出し、「ハイル」と叫んだ彼らが、両手をあげて降伏しました。
しかし、敗北にもめげず、ユーゲント師団は一旦撤退しては違う戦線へと向かいました。

「最後の砦は自分達しかいない!!」

ヒトラーユーゲントは、総統と帝国のために結束し、従軍を志願しました。
歴史的な場所での式典で、16歳の志願兵たちが総統に披露されます。

「本日、皆に発表する
 この旗のもとで戦うために、ヒトラーユーゲントからは1928年生まれの団員の7割が志願した
 若者たちの積極的な態度は、戦場の部隊の士気を高めるであろう」

前線の兵士の士気は、高まりませんでした。
彼等は少年たちの戦闘能力を疑っていたのです。
ドイツが必ず勝利するという幻想は消えつつありました。
若い兵士たちは、連合軍の前進を止められなかったのです。

西部戦線でも、東部戦線でも、ヒトラーユーゲントは戦闘に加わりました。
降伏は禁じられ、脱走兵は射殺され、外に道はありませんでした。

「ヒトラーユーゲントの指導者アクスマンと、国を守ったユーゲントの兵士20人が招待され、鉄十字勲章が与えられました。」

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1945年3月20日、大虐殺の命令を実行した若者に祝意を伝えるアドルフ・ヒトラー・・・
ニュース映像に残る最後の姿です。
ナチス総統は言いました。

「今の諸君の戦いは、貴重な経験となる
 ドイツ国民にとって生きるか死ぬかの極めて厳しいこの試練を乗り越え、我々は勝利を手にするであろう
 その勝利は、この国の若者にかかっているからだ」

ヒトラーは、パーキンソン病を患っていたともいわれ、手の動きをコントロールできなくなっていました。
56歳にして既に老人のような姿ですが、後悔や辞世の様子はありません。
彼等は、周りを見る力を完全に失っていました。
ドイツ国民がどうなるかなど気にかけてもいなかったのです。
ヒトラーはこう言い放っています。

「ドイツ人が絶滅したら、それは国民全体の責任だ!!」と。

1945年4月、降伏の1か月前にもナチスはまだなお少年兵を戦場に送り込んでいました。
通りには、自分の町を守るように市民に呼び掛けるポスターが張られました。
下は、10歳の子供までもが招集されます。

4月16日、ソビエト軍がベルリンに向けて大規模な攻撃を始めます。
123万発を越える砲弾が、撃ち込まれました。
10万トンの鋼鉄が、住民の上に降り注いだのです。
4月25日、ソビエト軍はベルリンに入ります。
町じゅうが戦場となり、ヒトラーユーゲントの少年兵は、死をそこに意識します。
少年兵の多くが戦う意欲を失くします。
戦争が終わらないでほしいと願っていた子供たちも、戦争から逃げたいと思っていました。
ヒトラーユーゲントは、僅かな武器を手にソビエト軍の戦車と戦いました。
ソビエト兵は、少年兵を鼠のようにあぶり出し、捕らえました。
多くの若者が死んでいく中、ヒトラーは地下壕に隠れていましたが、地上では至る所で待ち伏せ攻撃、銃撃戦、接近戦が行われました。

ソビエト軍は、ヒトラーユーゲントの兵士600人が守る橋へ大砲の砲身を向けます。
大虐殺でした。
生き残った者はほとんどなく、4月30日、ソビエト軍はドイツ議事堂への攻撃を開始、この日ヒトラーは、地下壕で自殺しました。
総統の子供だと誓ったユーゲントの青少年たちは、みなしごになったのです。

1945年5月、ベルリン郊外でドイツ第三帝国は無条件降伏の文書に署名します。
権力と栄光の夢に吸い寄せられたヒトラーユーゲントの若者たち・・・与えられたのは、戦争の恐怖と敗北だけでした。 

ヨーロッパは戦争で荒れ果てました。
連合軍がドイツを分割占領する中、膨大な数の避難民は故郷に戻ろうとしていました。
ヒトラーユーゲントにとって、帝国の崩壊は自由を意味しませんでした。
彼等の多くは、連合軍によって捕虜収容所に収容されます。
連合軍は、若者たちがヒトラーを崇拝するよう洗脳され、一部は今もナチ党員であることを知っていました。
学校の教室と捕虜収容所で、若者たちへの再教育が始まります。

ドイツ人捕虜は、特別授業を受け、帰国後の役割に備えます。
”ゲシュタポやファシストはドイツ再建から排除”と教わります。
ヒトラーの子供達は、新しい言葉と出会います。
”民主主義”です。
ナチスの洗脳から解き放つための手段は、映画の上映でした。
かつてのナチス同様、今度は連合軍がナチスの犯罪を見せつけたのです。
”アウシュビッツ”・・・
最後まで信じようとしない人たちに、連合軍は死の収容所をじかにみせて納得させます。

ヒトラーユーゲントの若者たちは、自分たちの国に戻ります。
国家再建が進む新しいドイツで、多くの人がナチスに青春を奪われたことを理解しました。
しかし、長い年月を経ても、一つの疑問が彼らについて回ります。

どうして私たちは踊らされたのか・・・??

かつてヒトラーの子供と名乗り、今人生の終わりに近づいた人たち・・・
自分達が生き残ったのは、体験を次の時代の人々に伝えるためだと思っています。

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1945年4月・・・ベルリン・・・
ドイツ第三帝国の最期の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません・・・
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、その約束を最後まで守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・
そのゆるぎない精神は、どのように培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのでしょうか?
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

ナチス・・・そしてヒトラーユーゲントの歴史は、1920年代に遡ります。
当時のドイツは、第1次世界大戦の敗戦の深い傷を負っていました。
ベルサイユ条約によって厳しい制裁を科され、領土の一部を失ったのです。
敗戦国にとって屈辱的なこの条約を改めようとした男・・・それが、アドルフ・ヒトラーでした。
1923年、クーデターに失敗したヒトラーは、選挙による政権奪取を目指します。
ナチ党は、党の軍事組織SA・・・突撃隊を始め、少年たちを選挙活動に動員しました。
若い活動員たちは組織を結成し、ヒトラーユーゲントと名乗ります。
年齢は14歳から18歳、まだ少人数でした。
1920年代のドイツでは、共産党やカトリック教会が独自に青少年団体を組織していました。
イギリスではじまったボーイスカウトを手本に作られ、子供たちにレクリエーションの機会を与えていました。
ヒトラーユーゲントも人気のあるイベントを催し、あらゆる階級の子供を参加させていました。
多くの子供たちにとって、それは夢のような時間でした。

当時、労働者階級はギリギリの生活をしていました。
青少年向けのレクリエーションは特別で、喜んで参加していたのです。
ヒトラーユーゲントと共に出かけることは、日常とは違う生活を送ることのできる素晴らしい体験でした。
ボーイスカウト同様、メンバーには制服の着用が義務づけられ、見た目には階級の違いは判りませんでした。
ナチ党と共に、ヒトラーユーゲントも急速に勢いを増していきます。
当初ヒトラーは、投票権もない彼らが自分の役に立つとは考えていませんでした。
しかし、1932年、ポツダムのスタジアムに7万の青少年が集まり、ヒトラーを盛大に迎えます。
その力の結集を見たヒトラーは、若者こそが自分の理想を実現する要だと考えます。
ヒトラーは側近に打ち明けました。

「我々は年を食った・・・しかし、この若者たちの力を借りれば新しい世界を作れる・・・!!」

経済危機に乗じて政権を奪取!!
1933年、ヒトラーはついに首相となります。
民主主義は葬られ、ナチ党以外の政党は活動を禁止させられます。
ヒトラーは、最高指導者に全権をゆだねられる民族主義国家をつくることを目指します。
900万人のドイツの子供達を狂信的なナチ党員に育て上げるために、ヒトラーは、脅迫と誘惑を使い分けます。
まず脅迫・・・
対立する政党の全ての青少年組織は解体され、ヒトラーユーゲントに統合されました。
次は誘惑です。
少年たちが一年で一番楽しみにしているサマーキャンプ・・・ヒトラーユーゲントはこのイベントを独占したのです。
親の目の届かない環境は、ナチスのイデオロギー教育に最適でした。
野外活動を通じて、幸せな将来が約束されていると子供たちに思い込ませます。
多くの子供達は、これまでにない楽しい経験をしました。
ユーゲントのメンバーの数は、1年で10万人から200万人以上に爆発的に増えました。
ユダヤ人や野党の党員でない限り、第三帝国の国民は快適な人生を送れたのです。
ユーゲントには女子も男子もいましたが、ヒトラーが計画を成し遂げるためには男子が重要でした。
将来、帝国の兵士となる男子には、特別なプログラムが用意されました。
本格的な戦争ゲームです。
少年たちは、敵の陣地にコンパスと地図をもって潜入し、偽装工作を続けながら標的に接近します。
アドベンチャーゲームは、少年たちの心を掻き立てました。

まるで、ドイツ版西部劇のような宣伝映画も作られました。
映画は劇場公開され、新しいメンバーの入団を促しました。

「ドイツの若き男たちよ!今一度野獣となり、美しさを求める軟弱より、無学な野獣の方がいいのだ!!」

腕っぷしが何より大事です。
ひ弱な子供は笑い者にされ、屈辱を受けました。
ナチスの理念の下では、強い者だけが優遇され、期待に応えられない人間は落伍者として扱われたのです。
いじめの余りのひどさに、若者の中には精神を病み、自殺を図るものまで現れました。
しかし、第三帝国では都合の悪い出来事は覆い隠され、ヒトラーユーゲントは全員勇猛果敢な戦士でした。
徐々に教会や様々な団体が運営する青少年組織は、ヒトラーユーゲントに吸収されていきました。
1937年までヒトラーユーゲントのへの加入は、法律で義務付けられます。
子供達は、幼いころから名誉あるメンバーとして、街頭のパレード行事に招かれました。
行進の練習をすることで、団結したのです。
その足並み同様、少年たちの考え方も統一されていきます。
大人たちに褒め称えられ、政権の宣伝の道具とされた彼らは、高揚感に包まれていきます。
大規模集会では、イベントが最高潮に達すると総統ヒトラーが登場することがありました。
第三帝国の将来を担う者と、その創始者との対面です。
若者たちは我を忘れ、ヒトラーをスターのように褒め称えます。

「我が若きドイツ人たちよ
 君たちがドイツの将来を保証する

 君たちは我々の血であり、肉であり、魂だ
 そして、我が国民の将来である

 君たちの中にある国の未来が、称賛されんことを!!」byヒトラー

ナチスのプロパガンダは、ドイツの若者に、君たちは成功し、強くなり、幸せな暮らしをすると思い込ませました。
若者は喜んで、その魔法にかかりました。
1936年には、500万人以上の若者が、ヒトラーに傾倒し、大きな歌声を響かせました。
国民の洗脳を徹底するため、日常生活にもナチス的敬礼が組み込まれます。
一日に何十回も「ハイルヒットラー」を繰り返す中で、ヒトラーユーゲントは、国家社会主義を刷り込まれました。
イデオロギーの強制は、さらに厳しさを増します。
ナチスは子供と接する大人全てに監視の目を・・・!!
協会の活動は、礼拝だけが許され、サマーキャンプの間に親の影響が取り除かれました。
ナチスは、学校の教育課程も変えました。
子供達は、ユダヤ人と共産主義者を憎むように教えられます。
民族を差別する法律も制定されます。
愛国的な歌は、徐々に憎しみの歌に代わりました。
何度も歌ったため、今でも歌えるといいます。
ひとたび憎しみに感染すると、行動に移すのは簡単です。
ヒトラーユーゲントは、親衛隊SSや、突撃隊SAと共に、ユダヤ排斥運動を大々的に展開していきます。

1936年までに、ドイツは不況から脱します。
ヒトラーは、軍備拡張と、大規模な公共事業を行うことで失業率を低下させ、ドイツをヨーロッパ内の強国に押し上げます。
1938年には、対外攻勢を加速させ、周辺の国や地域を次々とドイツに併合!!
戦争の足音が聞こえてきます。
ナチスにとって、将来の兵士となるヒトラーユーゲントはより重要になりました。
ヒトラーは、自分の望む戦士に仕立て上げるために彼らを厳しく鍛えようと考えます。
スポーツや遊びに加えて、若者たちは本格的な軍事訓練を始めます。
競争心を煽られ、16歳の少年が8キロのリュックを背負って20キロ以上の道程を歩きます。
恐怖心を克服し、戦士にならなければなりません。
ヒトラーユーゲントでは、夢で見た大人の世界のあらゆるものに手が届きます。
射撃訓練も行います。
海軍への入隊に備えた海上訓練・・・空軍の入隊を夢見る少年には、グライダーを使った飛行訓練を、こうした大きすぎるおもちゃを使ってヒトラーユーゲントの子供達は真剣な戦争ごっこをしました。
そして徹底させるために、宣誓をさせました。
年齢を問わず、帝国と総統に忠誠を誓います。

10歳が唱える宣誓・・・

「赤い血の旗の前で私は自分のエネルギーと力の全てを、我が国の救世主アドルフ・ヒトラーに捧げることを誓います。
 総統のためならば、命を捨てる意思と覚悟があります。
少年たちは動じることなく、この言葉を受け入れました。

ヒトラーユーゲントは、恐るべき大組織となります。
1929年に1万7000人だった団員の数は、10年後にはドイツの全ての青少年の98%にあたる800万人以上に達していました。
この頃、ヒトラーユーゲントへの参加は義務となっていましたが、招集に応じない家族には重い罰金が科され、逮捕されることもありました。
徴兵の年齢に達した若者は、国防軍やSS親衛隊に競って入隊しました。
1939年9月1日、戦争が勃発!!
ドイツは、先に攻撃されたという嘘を口実にポーランドに侵攻。
その進軍は、電光石火の早業でした。

ポーランド侵攻から8か月後の1940年5月、ドイツは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻します。
ドイツ国民にとって、ヒトラーは史上もっとも偉大な戦略家でした。
ヒトラーユーゲントは、ドイツ軍の進軍ぶりを信じられない思いで見ていました。
ドイツ国防軍は、フランスとの戦いを6週間で決着させ、勝利しました。
ヒトラーは攻勢を続けます。
1941年6月には、ソビエトに対して奇襲を仕掛けました。
長年の訓練が実を結び、ヒトラーユーゲント育ちの若い兵士たちが至る所で立派な戦士であることを証明します。
前線から戻ると、将来の兵士たちへ英雄となった体験を語ります。

ドイツ軍が東部戦線で進撃を続ける中、後方ではヒトラーユーゲント育ちのメンバーの多い特殊部隊アインザッツグルッペンに、ユダヤ人殺害の任務が与えられました。

前線の戦いが激しさを増す中、ヒトラーユーゲントには体を鍛える授業や、イデオロギー教育が続けられていました。
民族的優位についての授業では、頭蓋骨を奥行き、幅、高さの比率や、髪の毛と目の色が調べられ、ナチスの科学者が決めた基準で分類されます。

1942年の暮れには、ドイツは劣勢となり北アフリカ戦線や東部戦線の戦いは膠着状態となります。
成人男性の殆どが戦場に送られたドイツでは、ヒトラーユーゲントが前線の活動に動員されました。
14歳以上の少年は、一軒一軒家を回って、古着や金属などを集めました。
郵便配達、路面電車の運転、道路や線路の工事、収穫などの畑仕事に駆り出されたメンバーもしました。
戦時の経済を支えるうえで、若者の力は欠かせなくなりました。
プロパガンダ映像は、青少年の強い意志を掲げますが、実際には辛い思いをし、疑問を抱く者が続出します。
工場や鉱山での社会奉仕活動は、強制労働に近いものがありました。

1943年の冬、ヒトラーユーゲントは想定外の事態に直面しました。
劣った人間と呼ぶように教えられてきたロシア人が、ドイツが誇る屈強な軍人たちに反撃を始めたと伝わったのです。
スターリングラードの攻防戦で、ドイツ側は数十万の兵力を失いました。
モスクワ占領も、赤の広場の行進も、もはや夢物語です。

1943年になると、アメリカやイギリスは、地上部隊の損失を最小限に止めるために、大規模な空襲をドイツの工業施設や都市で繰り返しました。
戦争へ行きたいと願っていたヒトラーユーゲントのもとへ、戦争がやってきました。
ドイツは大きな打撃を受けます。
瓦礫の中で、ユーゲントは即席の消防隊員や救急隊員となります。
10年以上にわたってナチスに洗脳され、明るい未来を約束されたヒトラーユーゲント・・・
しかし、彼らは今、連合軍の空襲を受け、悪夢のただ中にいました。
そして、事態はさらに悪化・・・ドイツが敗戦に向かう中、完全な崩壊に至るまで、本土防衛が、この青少年たちに押し付けられたのです。


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