日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ヒトラー

BS歴史館、昨日見たのは、

私はヒトラーの愛人じゃない「レニ・リーフェンシュタール」です。

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1933年から12年間、独裁者として君臨した、アドルフ・ヒトラー。彼の絶大な権力の元、プロパガンダ映画を作り、協力者として非難され続けた女性です。

彼女はヒトラーの依頼で、「ナチ党党大会記録映画」を三本作ります。「信念の勝利」「意思の勝利」「自由の日」です。

なかでも「意思の勝利」はその出来栄えから、ヒトラーの神格化に最も効果を発揮したといわれています。

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また、ヒトラーに気に入られたレニは、1936年、ベルリン五輪の記録映画「オリンピア(民族の祭典・美の祭典)」を二年がかりで作ります。この時ヒトラーは、ベルリン五輪を利用して、ナチスの残虐な政策から国民の目をそらそうとしたのです。その狙い通り、レニは、差別のない自由な世界を見事に表現します。「オリンピア」は、今でも記録映画の最高峰とされています。

映画監督として最高の地位を手に入れたレニ、しかし、その多くの成功の裏にはヒトラーの影がつきまといます。

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1945年ナチス崩壊後、政治責任を取らされ、また、101歳まで生きたものの、ヒトラーの協力者として非難され続けます。

彼女は、プロパガンダ映画監督となったしたたかな女性だったのでしょうか?それとも、類稀な才能の持ち主、芸術家だったのでしょうか?

レニは、1923年、第一次世界大戦後、21歳でダンサーとしてデビューし、エンターテイメントの世界に登場します。この、1920年代は、ドイツ表現主義の草創期ででした。が、ひざを故障し、ダンサーを諦めます。

地下鉄で、「アルプス征服」というポスターを見て衝撃をうけます。彼女の運命が変わった瞬間でした。

その後、彼女は女優に転換。「こんなことは出来ない」なんて、絶対に言わない、根性のある努力家でした。そんな彼女を撮っていた監督、ファンクは、彼女の監督としての才能を見出します。

「青の光」では、監督・制作・脚本・主演の四役をこなします。類稀な才能があったのです。そんな彼女は、共演する数多くの男達を魅了してきました。

この頃、ヒトラーの勢力は拡大し、1932年、ヒトラーが主催する集会に出席するのです。これが、運命の出会いでした。

彼女はヒトラーに感銘を受け、ヒトラーもまた、彼女に興味を持ちます。というのも、ヒトラーはもともと絵描きになりたかったし、芸術に興味があったにもかかわらず、周りの人は芸術に興味がなく、とうの芸術家達からは何の反応も得られなかったからです。

だから、レニの存在は有難かったのです。そして、運命共同体となるのです。

レニは、ヒトラーに好かれて彼の権力と資金を借り、大規模な映画を作り、その中で自分の才能を開花させていくのです。当時の女性としては稀に見る野心家であり、芸術家でした。

1933年、ヒトラー首相に就任。宣伝大臣ゲッペルスに会い、映画制作を依頼されます。自分はヒトラーにそそのかされた?本当はやりたくなかった?でも、彼女にとってヒトラーの映画の製作はチャンスだったのです。

ヒトラーのための映画製作が始まります。それは、1933年の党大会の記録映画でした。彼女にとって初めてでしたが、それは同時にヒトラーにとっても始めてのことでした。そうしてつくられた映画が「信念の勝利」でした。が、これは、ヒトラー自身がまだ慣れておらず、かっこよく仕上がらなかったため闇に葬られ、作り直されます。

1934年、10日間しか準備期間がない中、「意思の勝利」が作られます。この「意思の勝利」は、映画史上最大のプロパガンダ映画とされ、ナチスの強大さを示すことが出来ました。主役は只ひとり、ヒトラー。国民はそのヒトラーを見上げ、見下され・・・。という構図は、人々を熱狂させます。
この「意思の勝利」は、完成度が高く、陶酔するため、教育を目的とする解説なしに上映することは禁じられています。
人々に対して、余りにもインパクトが強く、影響を受けかねないからです。
どうしてここまでの作品が出来たのか?それは、芸術に対する熱意とナチ信仰によるところが多く、だからこそこれだけの作品を作ることが出来たのでは?と、思わざるを得ません。


ヒトラーは理想の指導者として表現され、自分自身を演じます。しかし、この映画に、軍は不満でした。そこで制作されたのが「自由の日」です。これは、軍からの要望に応じ、軍事力を誇示する映画で、次々と兵器が登場します。そうして、この新兵器は、4年後実際に使われるのです。

しかし、政治に対しては無関心だったのかも知れません。年齢から行くとマレーネ・ディートリッヒと同年代です。彼女は戦争に反対で、ドイツ人なのにアメリカ軍の最前線へ慰問に行くなど、ポリシーがあるというか、ドイツの人種差別に反対を唱えていました。確か、ヒトラーは、マレーネを強制送還させるように依頼していたような・・・。彼女は老後もドイツには入国さえ拒否される時代が続き、パリで生涯を終えたように思います。


そうして、ヒトラーの人種差別政策・ユダヤ人迫害政策は日増しに激しくなり、本格化していきます。ヒトラーは、ベルリンを世界の首都にしようと目論んでいました。レニが恋人と噂されていましたが、本当のことはわかりません。ただ、寵愛を受けていたことは事実です。

レニは、ヒトラーの悪しき政策を知りつつも、フランスとの戦いに勝利すると「祝電」を打っています。

1944年、ヒトラーと別荘で会うも、これが最後になります。連合国は勝利し、共犯者・協力者は逮捕されていきます。当然レニも入っていました。

彼女は、映画でヒトラーを神格化したという罪を否定し続けたものの、ナチの同調者という判決を受けます。この判決には、主犯罪者・中度の犯罪者・軽度の犯罪者・同調者・免除者に別れていましたが、その判断は難しいのです。同調者、国民の殆どはここに入りました。というのも、当時はヒトラーに反対すること自体難しいからです。

彼女にしては、いい映画を作った以外に、逮捕されるなどとは夢にも思っていませんでした。

1950年ごろ、罪を受けた殆どの人が復帰しているものの、レニだけは戻れませんでした。何故自分だけ、批判されなければならないのか?それは、作った作品が他のものとは比較にならないぐらい・・・「下らない映画ではなく、影響力が強かったから」なのです。

また、ナチは男性社会で、その中でいるレニは浮いた存在でした。そんな、嫉妬、集団ヒステリーなんかがあったのかもしれません。

70歳を過ぎて、1973年センセーショナルに写真家として復帰します。

彼女は自分に対する批判に「ナチを否定」しています。
ヒトラーがユダヤ人に対して行ったことを悪いとは思っているが、反論も批判もしませんでした。彼女の才能は眠ることはなく、また、謝罪もすることはありませんでした。

2003年9月 死去  享年101歳。。。

今でも、ヒトラーは影響力があるというのに・・・。当時は凄かったのでしょうね。だって、日本は軍部が突っ走って太平洋戦争に突入したと言われていますが、ヒトラーは選挙で選ばれているんだからな・・・。


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ヒトラーの影法師と言われた男
BS歴史館。やっと見ることができました。

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今回は、側近が見た独裁者ヒトラー(1)ヒトラーの影法師と呼ばれた男でした。でも、側近が見たヒトラーって。。。ヒトラーの事はあまりしなかったな・・・。どちらかというと、ナンバー2みたいな内容でした。

この主人公は、ルドルフ・へスです。この人は、ゲーリングやゲッペルスと違って、あんまり有名ではないようです。

ヘスは、ヒトラーの首相就任と共に、副総統に任命され、強大な力を手に入れますが、実質的な権力は与えられず、反ユダヤ主義暴動やポーランド侵攻では、ヘスが采配を振るうことはありませんでした。

この、ナチ党副総統、ルドルフ・へスの数奇な運命を、彼が人生を捧げたナチスドイツの知られざる側面を振り返ります。

ルドルフ・へスは、ナチスの中では目立たないですが、ヒトラーに次ぐ地位を持っていました。かれは、ヒトラーに何かあったら、次の指導者になる立場であったのに、ヒトラー個人に仕えた従僕だったのです。

何故目立たなかったのか?それは、例えばゲーリングは空軍、ゲッペルスは宣伝、でも、へスでないと語れないものはありませんでした。

もともとナチスは、トゥーレ教会のひとつのドイツ労働者党から、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)ヒトラーと共に大きくなりました。その大きくなり方、何故国民がヒトラーに惹かれ支持していったのか・・・。

ヘスは、1894年エジプトのアレキサンドリアに生まれます。裕福な貿易商の家に長男としてうまれ何不自由ない生活、父ヨハンは祖国ドイツに忠誠を誓っていました。

14歳で全寮制のドイツの学校に進学、父は貿易商を継がせたかったのですが、1914年8月ドイツが第一次世界大戦に参戦。国中が高揚感に包まれる中、親の反対を押し切って、西部戦線へ行きます。この経験が世界観を変えたのです。航空隊へ入りましたがドイツは敗戦。それを機にミュンヘン大学へ進学します。

1919年5月、暴力闘争の果てにドイツ義勇軍が共産主義者からミュンヘンを奪取。学生だったヘスはこの反共産主義闘争に加わり、人生を捧げることとなるヒトラーと会うのです。

1920年、ヒトラーのナチ党に、創立メンバーとして参加。学生を勧誘します。ヒトラーが蜂起していたミュンヘン一揆でも、最前線で戦い、二人は投獄。この、ランツベルグ刑務所で「わが闘争」を書き上げるのです。

当時のドイツは第一次世界大戦に敗戦。ベルサイユ条約で、ドイツ帝国は戦争を引き起こした責任を取らされ1320億マルクという賠償金の支払いと、領土の割譲が課せられます。

ヒトラーは、時代の不安感につけこむ天才でした。国民は、この課せられた多額の借金に苦しんでいました。この不満に乗って・・・。ヒトラーがやったミュンヘン一揆は、バイエルン州に臨時政府を樹立し国家の転覆を図るクーデターでした。失敗したものの、ドイツ国民にヒトラーを印象付けるには十分でした。

そこでのヒトラーの演説。彼の演説は天才的で、みな心酔し救世主のようにあがめるようになるのです。そこにはヒトラーの、一か八か、生か死かの鬼気迫る世界観があったのです。ヒトラーの意思の強いところに引かれる・・・「意思の勝利」でした。

そうして、帝国国民は党の方針を一切疑わず、従うようになっていったのです。党こそがヒトラーの権力の土台でした。

この頃すでに、副総裁にもかかわらず、ヘスには発言権はありませんでした。ヒトラーは、人の意見など取り入れず、独断で国を支配するようになっていったのです。その結果、帝国は独裁国家へと突き進んで行きます。

そうして、誰もが認めるヘスの誠実さは利用されていきます。

1938年11月9日、ドイツ各地で反ユダヤ主義暴動が起きますが、ヘスは権力の中枢にいたにもかかわらず、知らされていなかったこと、また、止められなかったことにショックを受けます。

しかし・・・。戦争は迫っていました。にもかかわらず、ヘスはヒトラーを信じ、「ドイツは平和を築く義務があると、総統は常に強調してこられた」と、ヒトラーが平和を演説していると訴えます。

1939年9月、ポーランド侵攻に勝利したヒトラーが呼び寄せたのは、同士ゲーリングでした。ヘスは三番目に格下げされたのです。

ヘスに部下がいなかったり、発言権がないのは、独裁するためには自分が一手に引き受けたいとヒトラーが思っていたからでした。

1940年5月フランスに侵攻し、6週間で勝利。この西部戦線がヒトラーにとってゆるぎない自信となるのです。ヒトラーはますます、助言に耳を傾けなくなります。

イギリスとの戦争にあたり、誤解から生まれた戦争と信じていたヘス。でも、チャーチルもヒトラーも、和平は望んでいませんでした。
ヒトラーは和平に対して「これ以上私に何が出来るというのだ。私が向うに飛んで行き、ひざまずいて頼むことは出来ないのだ」と言ったといいます。

このことで、ヘスは自らイギリスへ行こうと決意をします。これは、国家に対する反逆の何物でもありません。しかし、ヘスはヒトラーを信じていました。ヒトラーに対する己の純粋な信念、ロマンチシズム。

1941年5月10日へスはイギリスに単独飛行を行います。そして捕らえられ、監禁されるのです。

そのときヒトラーは、「よくもこんな事をしてくれたな!」講和条約で、「ヘスの帰国を要求する。反逆罪で裁判にかけて処刑してやる」と言ったのです。

1941年6月ドイツはバルバロッサ作戦を遂行、東方の殲滅作戦を行います。副総統がいなくても、何の不都合も生じませんでした。

捕らえられたヘスは、このことをくよくよと悩んでいたといいます。

何故、単独飛行したのか?ヘスは、東方への殲滅作戦をしたら、ソ連が攻めてくる、アメリカも参加するかもしれない、早く和平をしないと第一次世界大戦のようになって負けてしまう。それだけはなんとしても避けなければ。という気持ちからだったようです。彼にとっては裏切りではなく、英雄になりたかったのです。しかし、これは、客観的にみるとまともではありません。敵に対しても、副総裁がこうでは、国家として戦争継続能力がないのではないか?と思われるからです。

ヘスの滅私奉公は、ヒトラー政権12年のうち8年間でした。

ドイツの降伏で、ヨーロッパ戦は終わり、ナチのニュルンベルグ裁判が始まります。ヘスは、ユダヤ人虐殺やソビエト侵攻にかかわっていないにもかかわらず、すべてにおいて起訴されます。

法廷では明らかに精神が病んでいるように見えましたが、2週間後「裁判を受ける能力がないと断定されないために、ここに宣言を行います。私は法廷での戦術として記憶喪失を装っていました。」と。その結果、終身刑を受けることになります。
しかし、こうも言っています。「わが民族の歴史が生んだ最も偉大な息子の下で、長年働くことが出来たのは、名誉なことでした。たとえ可能であっても、その年月を人生から消し去ろうとは思いません。国民にお対する義務を果たすことが出来て幸せでした。ドイツ人としての義務。国家社会主義者としての義務。総統の側近としての義務。すべてを果たすことが出来ました。何一つ後悔していません。」

終身刑に服したヘスは、連合国の監視下におかれました。1969年まで家族とも面会せず、イギリスへの単独飛行は沈黙しました。最も経費のかかる受刑者でしたが、彼の釈放を阻んでいたのはソ連でした。ベルリンにあるこの刑務所を前線基地として維持していたかったからだといわれています。ヘスの釈放を求める声が上がりますが、これは、ゴルバチョフになるまで応じてくれませんでした。

1987年刑務所内で自殺。遺族は自殺とは思っていず、遺書があったにもかかわらず、イギリスが秘密保持のため、暗殺したという噂もあります。他殺だったという証拠もないが、未解決事件となっています。

ヘスの葬儀はネオナチの支持により延期されます。ネオナチにとってヘスは、裁判においてもヒトラーを否定せずに生き抜いた、ネオナチにとって鏡のような人でした。

彼の信じ続けたナチズムは、まだ葬り去られていないのです。
ただ彼は、ヒトラーに依存しすぎました。

本当に、思い込みって怖いですよね。
太平洋戦争も然り、今のイスラムの聖戦も然りです。
チャップリンの「殺人狂時代」を思い出しました。有名なあの言葉です。

「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が神聖化する。」

洗脳教育は、本当に恐ろしいですね。



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