日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:フランク・シナトラ

ハーストがメディア界を支配していた1930年代、国民の娯楽となっていたニュース映画からヒーローが誕生しました。
犯罪と戦う正義の味方・・・FBIです。
ガバメントメン・・通称Gメンを率い、半世紀にわたってFBI長官に君臨したのが、ジョン・エドガー・フーバーです。
フーバーは、FBIの職員に絶対的な忠誠を求めました。
FBIの支局に掲げられた言葉・・・
「誰かの下で働くのなら ぜひ彼の下で働け
 彼が日々の糧をあがなえる給料を払ってくれるのなら、彼のために働け
 彼を讃え、彼を敬い、彼と彼が代表している組織に忠誠を尽くせ」

FBIは広報活動に力を入れ、フーバーは多くのニュース映画に登場しました。
「F(忠誠)B(勇気)I(誠実)・・・FBIの素晴らしい仕事の裏には、何か謎があるのでしょうか?
 1924年にGメンのTOPとなったフーバー氏に聞いてみましょう」

「FBIの仕事に謎などありません
 とても単純です
 過酷なトレーニング、緻密な捜査、優秀な人員、厳格な行動、知性、誠実さです
 FBIは、犯人が有罪となるまで捜査を止めることはありません」byフーバー

フーバーは、29歳の時に地方省捜査局の長官に就任・・・その組織は、州警察の垣根を越えた全国的な犯罪に対処するFBIへと成長させました。
当初、弱小組織だったFBIは、その存在感を国民に示すことに力を注ぎました。
フーバーは、全国の犯罪者の指紋をファイル化して管理、指紋鑑定による犯罪捜査を確立しました。
今日の科学捜査の基礎を築いたと言われています。
フーバーは、人材登用に力を入れ、職員の採用に厳しい基準を設けました。
条件は、法律や会計の専門知識、さらに知性的で身だしなみがきっちりしている人物を好んで採用しました。

「クラスメートをよく見ているうちに、私は全員の感じがなんとなく同じであることに気付いた
 出身地こそばらばらだし、育ってきた環境も違う
 だが、我々の中にはなぜ一人のユダヤ人も黒人もスペイン系アメリカ人もいないのだろうか
 後になって、それがフーバーの方針であることを知った」byFBI捜査官の回想

1932年3月・・・FBIが躍進します。
空の英雄リンドバーグの子供の誘拐事件です。
捜査を担った州警察は、身代金を犯人に奪われた挙句、子供は遺体で発見されました。
この州警察の失態が、絶好の機会となります。
通称リンドバーグ法が作られ、それまで州警察以下だったFBIの権限が、大幅に強化されることとなったのです。
誘拐事件の捜査にFBIが加わります。
徹底した科学捜査の結果、事件発生から2年後、犯人が逮捕されました。

Gメンは国民の英雄となり、フーバーは小学性の人気アンケートで全米2位を獲得します。

フーバーは、ギャンブルを非難していたにもかかわらず、競馬が趣味でした。
2ドルの馬券売り場に並んだ写真を撮らせ、部下の高額の馬券売り場に並ばせました。

「フーバーは、自分自身やFBIに対する批判に対し、想像を絶するほど敏感だ
 どんなに何気ない発言でも、あるいは極度のこじつけや当てこすりでも、いったん彼の耳にはいったら、司法長官あてに抗議文が書かれ、発言者の人間性に嫌疑が呈された」

第2次世界大戦が近づいた1939年・・・ルーズベルト大統領は、危険分子を取り締まるための諜報活動をフーバーに認めました。

「星条旗は自由と正義の象徴です
 アメリカ国民は、この国を誇りとし、危険分子を支持する裏切り者から国を守るために、戦わなくてはなりません」byフーバー

FBIは、盗聴、郵便開封、家宅侵入、脅迫など、捜査において違法行為を厭わなかったのです。
フーバーは、集めた情報の公開を拒否、何をどうやって調べているのかさえ秘密にしました。

「FBIファイルの内容を公開すれば、部外秘の操作手順やテクニックがさらされることになる
 もしそれが広まれば、犯罪者や国外諜報員などに捜査逃れに利用されてしまう
 そうなると、FBIが設立された根本的な意義が失われてしまう」byフーバー
 
フーバーは、諜報活動の特権を利用して、政治家たちの秘密までも握り始めました。
ルーズベルト大統領は、妻と若い男との不倫関係が捜査されていました。
ファーストレディの捜査ファイルは450ページにも及びました。
その後もフーバーは、歴代大統領の秘密を集め続けました。

アイゼンハワーは、運転手を務めていた女性との不適切な関係を疑われ、ホテルの滞在記録などを事細かに調べられています。

ケネディは、若い頃の弱みをフーバーに握られていました。
海軍時代、ヒトラーと関係のあった女性とホテルで過ごす様子が頻繁に盗聴されていたと記録されています。

フーバーは、大統領が変わるたびに、前の大統領のゴシップを新しい大統領に耳打ちしました。

「フーバーは、歴代の大統領の耳にゴシップを入れていたが、このことが大統領たちを怯えさせていた可能性がある
 自分についてはフーバーは、どんなことを知っているのだろう・・・という恐怖だ
 フーバーは言うならば、”ベールをかぶった脅迫者”という存在だった」by元国務長官

フーバーは、8人の大統領に仕え、亡くなるまで半世紀にわたってFBI長官の座に君臨にし続けました。
フーバーの死後、FBIの秘密ファイルが公開されました。
フーバーは、危険分子だけでなく、キング牧師、フランク・シナトラ、マリリン・モンローなど、著名人に対しても違法捜査を行っていたことが明らかになり・・・ファイルは1万7000ページにまで及んでいました。

「犯罪者でなくても、フーバーが市民として容認できないとしたアメリカ人に対してFBIが行ったことは、自由の国アメリカの汚点である」by元FBI捜査官

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結婚式にクリスマス、イースター・・・キリスト教から来たものがたくさんあります。
世界一の発行部数を誇り、世界で一番読まれている本・・・それは聖書です。
日本人にとってはあまりなじみはないですが、有名な物語もたくさんあります。
”アダムとイブ””ノアの箱舟””バベルの塔”・・・教会での結婚式、クリスマス・・・私たちの生活には聖書から来たものが溢れています。
しかし、中には勘違いも・・・ヒューマンドラマもたくさんあります。

クリスマスはイエス様が生れた日ではありません。
聖書にはイエスの誕生日は書かれていないのです。
正確にはイエスの誕生日は不明!!
ではどうして12月25日??
もともとこの日は、ローマで最大の祭りの日でした。
そして、キリスト教がローマの国教となった時・・・

「どうせイエス様の誕生日がいつかわかってないんだから、この日にお祝いすることにしないか?」
「それいいね!!イエス様、おめでとう!!」

ローマ最大の祭りのついでに誕生日が決まったのです。
なので、教会は12月25日を「イエス様の降誕を記念する日」としています。

さらに・・・キリストとは苗字ではなく、キリスト=救世主という意味です。
イエスの時代苗字はなく、イエスは”太郎”のようによくある名前でした。
人びとは頭に出身地などをつけて区別していました。
ナザレで生まれたので、ナザレのイエスと呼ばれていました。

アダムとイブの食べた禁断の果実はリンゴではありません。
アダムとイブは、禁断の果実を食べたことで、楽園を追放され、羞恥心などの苦しみを与えられます。
この時、イブが果実を2個食べたので乳房ができ、アダムが1個食べたので喉仏ができたとされています。
ちなみに英語で喉仏の事をAdam's appleと言いますが・・・聖書には禁断の果実がリンゴとは書かれていないのです。
ではどうしてリンゴと言われるようになったのでしょうか?
当時使われていたラテン語で、リンゴ=malus(マリュス)=邪悪という意味がありました。
この二つのキーワードから禁断の果実がリンゴという説が定着したのです。
ちなみに、リンゴ以外にはザクロ、ブドウ、イチジク、ナシが考えられています。

イエスの絵画は多く、そのほとんどが端正な顔立ちです。
しかし・・・聖書にはこう書かれています。
「私たちが看取れるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」と書かれています。
そして、イエスは周りから”大飯喰らいの大酒飲みだ”と悪口を言われていました。

聖書に書かれているイエスの奇跡・・・
・知人の結婚式で水をワインに変えた
・嵐の中、船の上から「沈まれ」と命じ、嵐を止めた
・5つのパンと2匹の魚を増やし、5千人に振る舞う
・18年間病気で腰が曲がった人を治療した

そして・・・イエスは弟子のひとりに裏切られ、翌日処刑されることをも予言します。
最後の晩餐・・・
「この中に私を裏切るものがいる」と予言します。
誰も信じませんでしたが、実は弟子のユダが裏切ります。

最後の晩餐の後、3人の弟子を連れて近くの森に・・・
そして・・・
「私は明日、処刑される
 これから最後の祈りを捧げて来る
 その間、ここで起きて待っていなさい」
そう言い残し、イエスは茂みの奥へ祈りに・・・

「神よ、私は死にたくありません
 どうかわたしを助けてください」

イエスでさえ、死という現実を前に、恐れ震え、本気で嫌がっていました。
祈りを終え弟子たちのもとへ・・・すると、弟子たちは居眠りをしていました。

「あなた方は、わずか1時間も私と共に目を覚ましていられなかったのか?
 よいのだ・・・心は燃えていても、肉体は弱いものだ
 次は目を覚ましていなさい」

そしてイエスは再び祈りへ・・・

「神よ・・・私をお助け下さい」

そして2度目の祈りを終えて弟子たちの元へ戻ると・・・
またもや居眠りをしていました。
これを計3回繰り返し、最後の夜は更けていきました。

クリスマスはイエスの誕生日ではありません。
が・・・キリスト教徒にとってクリスマスより大事な日があります。
それは、イースター!!
イースターは「イエス最大の奇跡を祝う祭」です。
その奇跡とは、イエスの復活です。
死んだはずのイエス・・・しかし、その3日後、嘆き悲しむ弟子たちの前に現れました。
そしてイエスはこう言います。
「おはよう」
信者数20億人を誇るキリスト教・・・この最大の奇跡・・・「イエスの復活」が起きなければ、今のキリスト教はない・・・
その復活を祝うイースターこそが、最も重要な日なのです。 

鳩を飛ばす・・・
平和の象徴と呼ばれる鳩・・・その由来は、聖書の有名な「ノアの箱舟」です。
堕落した人間に神が激怒し、大洪水を起こすことを決意します。
真面目な人間のノアにだけ大洪水を伝え、ノアは巨大な箱舟を作るとそこにつがいの動物を乗せ、船の中でひたすら洪水がおさまるのを待ちました。
そして40日間の嵐の後、ノアは鳩を飛ばしました。
暫くして鳩が戻ってくると、口にオリーブの葉を加えていました。
ノアは、そのオリーブの葉で洪水が収まったことを知るのでした。
このエピソードから、鳩とオリーブの葉が平和の象徴となったのです。
国際平和を目的とする国際連合の旗にもオリーブの葉と鳩が使われています。
なので、オリンピックの開会式や結婚式などのお祝いの式典にも、鳩が使われるようになったのです。

アイドル・・・
アイドルという言葉も、聖書の中の言葉です。
アイドルの言葉の歴史は、旧約聖書に始まります。
アイドルとは神をかたどった偶像のことで、旧約聖書では偶像崇拝が禁止されています。
教会などでイエスの像などに拝んでいますが、イエスはあくまでも神の子です。
そのために、神を象った像は存在しません。
そして1950年代、アメリカでプレスリーやフランク・シナトラが登場すると、「熱狂的な人気を集めるポッと出の若者」という意味でアイドルという言葉が使われるようになりました。
日本では、和解人気者という意味だけが残り、次第に初々しい未完成のアイサ示唆を持つ存在を表す日本独特の「アイドル」を指すようになったのです。

日曜日のお休み・・・
旧約聖書には、神は6日間かけてて音痴を想像し、7日目に休んだと書かれています。
当時7日目は土曜日で、ユダヤ教は現在でも土曜日が休日です。
日曜日が休日となったのは、イエスが復活した日が日曜日だったからです。
日本では、江戸時代「1」と「6」のつく日がお休みでした。
4日働いて1日休んでいましたが、欧米との交易で不便が出てきたために、明治時代に日曜日が休日となったのです。

目からウロコという言葉・・・
その昔、キリスト教徒を迫害していたサウロという男がいました。
その男、神の怒りに触れて突然失明しました。
同じころ、神に忠実だったアナニヤという男に神のお告げが・・・。

「アナニヤよ・・・サウロというもののところに行き、目を治してやりなさい。」

そこでアナニヤはサウロのもとに行き、神の言う通りにすると・・・
なんとサウロの目からウロコのようなものが落ち、再び目が見えるようになったのです。

「見える!!神よ!!ありがとう!!」

そしてサウロは改心し、忠実な使途となったのです。

天使・・・聖書には、天使がたくさん登場しますが、どこにも羽が生えているとは書かれていません。
古い絵には、天使には羽が生えていません。


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”アメリカの女王”と言われたジャクリーン・ケネディ・・・。
第35代大統領ジョン・F・ケネディの妻として知られています。
最も華麗なファーストレディ、悲劇の主人公、裏切者・・・様々な言葉と共に、どうして女王と言われたのでしょうか?

アメリカのファーストレディと言えば、華麗なファッションと言動の一つ一つに世界の注目が集まります。
そんな歴代の夫人の中で、別格としてスーパー・ファーストレディと呼ばれるのが、ジャクリーン・ケネディです。
ファッションリーダーとして絶大な人気を誇り、アメリカ国民を魅了しました。
外交でも、笑顔と流暢な語学で各国の首脳を虜にしました。
更に、自ら企画したホワイトハウスの修復や、文化活動も幅広く手がけました。
夫をサポートするだけではなく、自ら行動する最初の大統領夫人でした。

しかし、悲劇は突然起こりました。
夫のケネディが、ジャックリーンの目の前で暗殺されたのです。
ジャクリーンの孤独な戦いはここから始まりました。

1953年6月2日、エリザベス2世戴冠式・・・
世界で注目されたこのビッグイベント・・・取材のためにアメリカから派遣されたのが24歳のジャクリーンブービエでした。
この時、滞在先に一通の電報が届きました。
後にジャクリーンの運命を変える人物からでした。

「新聞記事は最高。
 君がいなくてさみしい。」

ジョン・F・ケネディ・・・アメリカで新進気鋭の政治家として注目を集めていた青年でした。

1929年7月28日、ジャクリーンはアメリカのニューヨーク、サウサンプトン・・・マンハッタンを望む高級住宅地に生まれました。
父、ジョン・ブービエ3世は、株の仲買人・・・プレイボーイとして有名でした。
母、ジャネットは、資産家の娘・・・父は、幼い娘をかわいがり・・・
「特別な存在になれ
 ユニークな人間になれ
 お前は女王になるんだ」と言いました。
しかし、11歳の時、父はジャクリーンの元を離れていきました。
遊び人の父と母が離婚したのです。

その2年後、母は、大富豪と再婚します。
待っていたのは、ニューヨークでも指折りの金持ちしか味わえない豪華で夢のような暮らしでした。
高校に通う頃には、ジャクリーンはわがまま放題のお嬢様に育っていました。
頭がいいが、先生には反抗的・・・制服が嫌いで、学校でタバコも吸っていました。
異性に興味はなく、言い寄ってくる男は多いものの・・・
「男の子って不器用で退屈、私は一生恋もせず、結婚もしない気がするの」
高校の卒業アルバムには・・・”将来の夢=主婦にならないこと”と書いていました。

1949年20歳・・・フランスのソルボンヌ大学に留学します。
パリでフランス文学や美術を学び、ボードレールの詩を暗唱するほど熱心でした。
勉強の合間には、オペラやバレエを見ます。
美術館を巡り、カフェで読書に熱中します。

「パリでの1年間は、生涯で最も幸せな時期でした」

アメリカに戻ったジャクリーン・・・キャリア・ウーマンとして活躍しようとしていた時に千載一遇のチャンスが・・・。
世界的ファッション雑誌VOGUEの未来の編集者を発掘するコンテストです。
優勝者には、パリとニューヨークで半年間ずつ見習い編集者として働くという特典がついていました。

ジャクリーンの論文やエッセイは高く評価され、1280人の応募者の中から1位に選ばれます。
ところが、ジャクリーンが雑誌社で働くことはありませんでした。
大富豪の義父と母に大反対されたのです。
良家の子女は、優秀な伴侶をアメリカで見つけることが第一・・・

「欲求不満の塊でした
 将来は、敷かれたレールを進むだけ
 そして有利な結婚をするだけですから」

雑誌社で働くことを辞退させた義父は、知り合いのコネを使って地方紙の記者に採用させました。
受け入れ炊きの新聞社では、誰もがジャクリーンを結婚までの腰掛仕事だと思っていました。
ところがジャクリーンにはそんなことはなく・・・
最初は雑用係だったものの、街頭インタビューに志願。

1951年22歳のジャクリーンは、あるパーティーで運命の人と出会います。
ジョン・F・ケネディです。

「この人は、自分の一生に深い影響を与え、心を悩ませる存在になる」

12歳上のケネディは大富豪ケネディ家の次男で、青年政治家として将来を期待されていました。
ケネディの魅力は、莫大な財産、人間的な魅力、ハンサムなルックス・・・でも、それ以外に、それまでジャクリーンが出会ったどんな男性も持っていない何かを持っていたのです。

ケネディに興味を抱いたジャクリーンは、手作りのランチをもって事務所を訪ねるようになりました。
時には、議会で使うフランス語の資料を翻訳したり・・・親密になっていきます。
知り合ってから1年後・・・ケネディは、遂に彼女を父・ジョセフに紹介します。
ケネディ家の長・ジョセフは、一代で莫大な財を築いた大富豪でした。
手段を選ばず、金と権力でのし上がったジョセフ・・・息子を大統領にする野望に燃えていました。
ジョセフはジャクリーンを気に入ります。
聡明さ、美貌、学歴、家柄・・・彼女は、大統領夫人の条件すべてを満たしていました。
ジョセフ・ケネディは、ジャクリーンの女性としての魅力より、政治的な才能に目をつけたのです。

1952年5月、ケネディはジャクリーンにプロポーズ。

「結婚の相手は、君の他にいないことがわかった
 結婚してほしい」

ジャクリーンは、この申し出を受けました。
ケネディとだったら、冒険心に富んだドラマチックな人生が歩める・・・!!
1953年9月、ジャクリーンはケネディと結婚。
ニューポートのセントメアリー教会には、700人の招待客と、3000人の見物客が・・・!!
ウエディングドレスは、新郎の希望で伝統的なスタイルのものを着ました。
青年政治家と良家の娘の結婚を、マスコミはこぞって取り上げます。
この時、24歳!!

1958年、ジョン・F・ケネディは、大統領選挙に出馬表明をします。
結婚して5年間、子育てを優先してきたジャクリーンでしたが、ケネディ家の家族会議で協力を求められ・・・
「ジョンが大統領になるためなら何でもするわ」と言いました。
ケネディ家の命運をかけた大勝負、父ジョセフは、この選挙戦に莫大な資金を投じました。
フランク・シナトラをはじめ、多くのハリウッド俳優たちがケネディを応援・・・空前絶後のキャンペーンでした。

ジャクリーンは、夫の良き相談相手でした。
ジョンの服装、演説の原稿、身振り手振りにもアドバイスを与えます。
これまでいまいちだったケネディの演説は、大いにイメージアップします。
さらにジャクリーン自らも演説をします。
フランス語、スペイン語、イタリア語など、移民たちの言葉で語りかけます。
この言葉は、英語を話さず、貧しい生活を送るマイノリティの心を掴んだのです。
聴衆はその語学力に驚き、しかし、それ以上に庶民のために努力をしてくれる彼女に心打たれたのです。

ジャクリーンの人気は沸騰!!
ジャクリーンが来ると知らされると演説会場は2倍に膨れ上がりました。
1960年11月8日、大統領選挙投票日・・・
「今までの人生で最も長い夜」
夫を大統領にする・・・その目標のために、全てを犠牲にしてきました。
そして、ケネディが大統領に当選!!
ジャクリーンは31歳の若さでファーストレディとなったのです。

ジャクリーンの服装は、それまでの大統領夫人とは全く違い、華やかなものでした。
しかし、先輩の元大統領夫人からは批判を受けます。
「質素にしなさい」
「高価な服や派手なスタイルはやめなさい」
大統領夫人は、アメリカの母・・・常に質素で夫を立てる・・・控えめなイメージに合わないというのです。

そのジャクリーン・ルックは華やかで、全米に大ブームを巻き起こします。
自分専属のデザイナーをおいていました。

「私が着るものは常にオリジナルで、他の人が同じものを絶対に着ないように配慮してください
 太った背の低いご婦人に同じドレスで歩き回られるのは嫌なのです」

しかし、人々はそのファッションに夢中になります。
華やかで行動的な大統領夫人は、アメリカの女性たちに大きな影響を与えます。
”結婚しても、こういうファッションをしていいんだ”と思い、ジャクリーンの存在感自体が女性の在り方、生き方を大きく変えていきました。

ファッションだけでなく、ホワイトハウスを変えていきます。

「こんなところには住めない!!」

当時、ホワイトハウスは大統領の住まいとは思えないくらいひどい状態でした。
歴代の大統領がそれぞれ改築した結果、水の流れないトイレや、壊れたシャワーが放置されていました。
そしてジャクリーンは、ホワイトハウスの改修を行います。
修復の会議を作り、メンバーには全米有数の富豪たちを入れます。
莫大な予算を税金で賄えば、批判を受けるので、金持ちから寄付金や調度品の寄付をしてもらい節約しながら・・・
さらに、斬新なアイデア・・・ホワイトハウスのガイドブックを作り、見学に訪れた人に売ります。
発売から10か月で50万部売れ、改修費用を大きく助けました。
そしてテレビ番組も。。。「ジャクリーン・ケネディが案内するホワイトハウスへの誘い」自ら出演し、フランス語版、スペイン語版も作り、世界108か国に発信します。

ジャクリーンは、大統領夫人として、政治的にも使らを発揮します。
ケネディ大統領の外交の切り札ともいわれました。
フランスでシャルル・ド・ゴール大統領と会談した時、ケネディは険悪だったアメリカとフランスとの関係修復にジャクリーンの力を借りようとしました。

「私はジャクリーン・ケネディをパリまでエスコートしてきた男です」

夫の通訳を務めたジャクリーンは、フランス語を巧みに操り、文学や美術の話をし、ド・ゴールの心を掴んでしまいました。

「素晴らしい髪と目をしたほれぼれするほど魅力的な女性だ」

冷戦で緊張関係が続いていたソ連との会談にも同行。
ジャクリーンは、フルシチョフ書記長をたちまち魅了します。
カメラマンがフルシチョフに、ケネディと並んでポーズをとってくれというと・・・
「できればケネディ夫人との方がいいんだけどなー」と言ったと言います。
ジャクリーンを待ち受ける各国のマスコミは過熱し、まるで王族のようでした。
アメリカの女王と世慣れていたジャクリーン・・・立ち居振る舞いや歩き方など、何とも言えない魅力がありました。

大統領夫人として絶大な人気を誇ったジャクリーン・・・
ところが数年後には裏切り者のレッテルを貼られることに・・・。
1963年、ジャクリーンが34歳の時、大統領再選を目指すケネディは、テキサス州で遊説することにしました。
1963年11月22日、ダラス・・・
ジャクリーンは、ストロベリーピンクのスーツにピルボックスハットを被り、颯爽とタラップから降り立ちました。
ケネディは、オープンカーでのパレードを予定していました。
前回の選挙では、この地方では票がとれなかったので、てこ入れのためにジャクリーンと共に、しっかりと姿を見せようとしたのです。
そして、みんなが見やすいようにパレードのルートも発表!!
12時55分パレード開始。
ジャクリーンは夫の隣に座りました。
13時30分・・・車がテキサス教科書ビルに差し掛かった時・・・銃弾を頭に受けてのけぞる大統領。。。
ジャクリーンは、座席を這い上ってトランクにのぼろうとしました。

「私は彼の頭を抱えて、これ以上脳がこぼれ出ないようにしたの」

ジャクリーンは、夫について病院へ・・・。
しかし・・・1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ死去。
ショックと悲しみに包まれたものの、大統領の不在は許されない・・・。
すぐに大統領専用機の中で、ジョンソン副大統領が宣誓式を行い、ジャクリーンも立ち会います。
この日、ジャクリーンは、ケネディの血を浴びたスーツのままでした。
着替えるように勧められたものの・・・

「犯人に自分がしたことを見せるの
 世界中の人たちに見せるの」

夫の死を人々の心に深く刻みたい・・・
ジャクリーンは、葬儀のすべてを自ら取り仕切ることにしました。

1963年11月25日、ジョン・F・ケネディの国葬が行われました。
葬列は、ジャクリーンとケネディの家族が先頭に、ワシントンの議事堂からセントマシューズ大聖堂まで徒歩で移動。
埋葬は、南北戦争の兵士も眠るアーリントン国立墓地・・・。
ジャクリーンが特にこだわったのは墓を照らす”永遠の炎”。
消えることのない炎のようにアメリカ国民がケネディを忘れないように・・・。
ケネディの死後、ジャクリーンは親しい人に手紙で・・・
「私の人生は終わった」と書きました。

しかし、失意のジャクリーンを、世間は放っておいてくれませんでした。
ワシントンの新居の前には常に報道陣が・・・観光バスまでも・・・。
夫の死から5年・・・さらにケネディ家の悲劇は続きます。
弟・ロバート・ケネディが大統領に立候補するも・・・1968年6月5日暗殺・・・。選挙中のことでした。

ジャクリーンは、子供達にも身の危険が迫っていると感じていました。
しかし、ケネディ家は、ロバートの選挙に財産の殆どをつぎ込んでしまっていました。
ジャクリーンが警備のために使える資金は殆どありませんでした。
ロバートの葬儀の翌日・・・

「アメリカという国が憎い、アメリカという国を軽蔑するわ
 ケネディだから殺されるなら、子供たちは一番の標的じゃない!!
 こんな国、私出ていく!!」

ジャクリーンが逃避先に選んだのは、ギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスの元でした。

「とんでもない悪党だけど、同時にとても理解があるの」

オナシスとは、5年前、ケネディの存命中に一度会っていました。
この頃、ジャクリーンは3人目の子を身籠ったものの、生後わずか3日で死亡・・・。
その傷を癒すために妹の知り合いだったオナシスと船旅を共にしたことがあったのです。
23歳年上のオナシスはプレイボーイではあったものの、女性に対する気遣いがありました。
莫大な財力を使って、宝石は言うを及ばず、船や飛行機をジャクリーンにプレゼント。
何より魅力的だったのは、地中海に島を持っていたことでした。
ジャクリーンのために、島に万全のセキュリティシステムを作ってくれたのです。

1968年10月、39歳の時、オナシスと再婚。

この結婚は、アメリカをはじめ、世界中か裏切り行為だとバッシング!!

その一方で、少数ながら再婚を支持した人も・・・。
友人の女優エリザベス・テーラーでした。

「オナシスは魅力たっぷりで、新説で思いやりがある人だと思うわ
 ジャクリーンは、最善の選択をしたと思う」

11歳の娘と7歳の息子のために、平穏な生活を求めてギリシャに来たジャクリーン・・・。
しかし、浮気者のオナシスとは喧嘩が絶えませんでした。
ジャクリーンは、寂しさを紛らわすためにショッピングにのめり込みます。
気に入った靴はダース単位で、気に入ったブラウスは全色揃えました。
さらに、数々のファッションショーの常連で、コレクションを丸ごと買い上げます。
さすがの大富豪オナシスも制限を設けたほど、その買い物はすさまじいものでした。

1975年、結婚から7年でオナシス死去。
晩年、ジャクリーンに愛想をつかしていたオナシスは、遺言で財産の殆どを娘クリスティナに譲るとしていました。
ところがジャクリーンは、クリスティナを相手に、遺産相続の訴訟を起こします。 
その結果、2600万ドル・・・当時の金額で79億円という莫大な遺産を手にすることになりました。
もう、誰に頼る必要もない・・・ジャクリーンはアメリカに戻り、子供たちとニューヨークで生活を始めます。
莫大な遺産のお金で、子供の頃に味わった豪華な暮らしを再び手に入れたのです。

「今の生活は退屈で仕方がないの」

1975年、46歳で突然出版社に就職。
学生時代から好きだった美術や文学の本を作り始めます。
それを見た社員たちは驚いてこう言いました。
「雑誌の表紙が歩いている!!」
しかし、ジャクリーンは、コーヒーを自分で入れるなど、部下の手をわずかわせることはありませんでした。

「もう、自分のために生きる時が来たの」

仕事ではアーティストの書物を得意としました。
「ジョンとヨーコの愛の詩」、マイケル・ジャクソンの自伝の出版・・・
マイケルの自伝には、少年時代の体験や、思春期のコンプレックス、家族の問題など、それまでにない内容が書かれていました。
ジャクリーンは、序文にこんな文章を寄せました。

”多くの人にとってマイケル・ジャクソンは理解しにくい人物に見えるかもしれません
 けれど、彼と一緒に仕事をした人は違います
 この才能あふれるアーティストは、感じやすく、心温かく、面白く、また洞察力にも富んでいるのです”

そして、生涯最後の恋をしました。
50歳となったジャクリーンの相手は、有名な政治家でも大富豪でもなく・・・同い年のベルギー人・・・モーリス・テンペルズマンでした。
ジャクリーンはモーリスとは趣味が合い、文学を愛し、フランス語で会話をし、二人でオペラを見たり、美術品を買ったりしました。
二人は一緒に暮らすようになったものの、結婚することはありませんでした。
モーリスの妻が離婚に応じなかったからです。
それでもジャクリーンは満足でした。

「私が有名であることで、私の人生から彼が遠ざかることがないよう、心から願っているわ」

1994年5月19日、ジャクリーンはリンパ腺がんによりニューヨークで死去・・・64歳でした。
子供達とモーリスに見守られての最期でした。

墓は、本人の希望でアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの隣に造られました。
ジャクリーンが夫の葬儀の際に灯した永遠の炎は今も燃え続けている・・・

「人生にあまり多くを期待してはいけない
 普遍的なものは何もない
 だから、誰も頼ることはできない
 頼れるのは自分だけ
 これが辛い思いをして私が学んだことです」

 
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