日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:フランシスコ・ザビエル

先ごろ、ローマ教皇が38年ぶりに日本を訪問・・・広島や長崎を訪れました。
人々が平和に暮らせる世界を願い、祈りを捧げました。
日本に初めてキリスト教が伝わったのは、今から遡ることおよそ470年前。。。
この国は戦乱に明け暮れる戦国時代の真っただ中でした。
キリスト教は救いを求める人々に瞬く間に広がり、大名の中には自ら洗礼を受けるものまで現れました。
その中でも、戦国最大のキリシタン大名であったのが、九州6か国をおさめた大大名・大友宗麟です。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと出会って、その布教活動を手厚く保護・・・宗麟の領国・豊後では、最盛期にはキリシタン3万人を超えたといわれています。
当時、ヨーロッパで作られた日本地図には、九州をBVNGOとし、JAPANと並ぶ一つの国とみられていました。
ルイス・フロイスは、宗麟のことを「日本にある王侯中、もっとも思慮あり、聡明叡智の人」と称えています。
近年の発掘では、南蛮貿易で手にした莫大な富と力を示した品々が伺えます。
ところが、その繁栄を揺るがしかねない選択が宗麟を待ち受けていました。

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フランドル絵画の巨匠Anthony van Dyckの描いた絵・・・
左側がフランシスコ・ザビエルで、右側がなんと大友宗麟です。
ヨーロッパではこんな風にイメージされていました。

実際の肖像画はこちら!!

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大友宗麟は、キリスト教をヨーロッパの文化や文明と一緒に丸ごと受け入れました。

大分県大分市・・・大伴家の最盛を築いた大友宗麟の拠点です。
市の中心部では、大規模な発掘調査が行われています。
それは、全国でも類を見ないほどの館でした。
歴代当主が暮らした大友館・・・広大な敷地に行けや庭園まである全国でも屈指の規模の館だったと思われます。
館を中心に、道が整然と格子状に敷かれ、45もの町が形成されていたといい、およそ5000軒の町屋が並んでいたといいます。
当時の国際貿易都市の堺、博多と匹敵する規模の町があったのです。
発掘調査では当時の繁栄を物語る品がたくさん出土しています。
当時、この館の当主である大友宗麟が、南蛮貿易を積極的に推し進め、たくさんの東南アジアと西洋に関する文物が輸入されていました。
ベトナムやタイの陶磁器、ヨーロッパのベネチアングラスも見つかっています。
南蛮貿易で莫大な財を得ていた証です。
大伴義鎮・・・後の宗麟は、1530年に大友家の長男として生れました。
鎌倉以来、400年にわたって豊後国を治める名家だった大友家・・・宗麟はその嫡男として誕生したものの、当主の座につくまでの道は順風満帆ではありませんでした。
弟・塩市丸を当主にという派閥に、父の義鑑が結託・・・宗麟派の粛正を画策するものの、弟は殺害され、父も巻き込まれて死亡する事件が勃発しました。
そんな肉親同士の骨肉の争いを経て、1550年大友家21代当主になります。
時に21歳・・・不安定な領国統治のために目をつけたのが南蛮貿易でした。
1543年、種子島の鉄砲伝来以来、日本とポルトガルとの交易が始まりました。
豊後・府内はポルトガル船に港を開放し、一大貿易拠点として発展していきます。
ポルトガルから商人が行き交い、町は大いににぎわったといいます。
カンボジアから宗麟に象が贈られたとの記録もあります。

世界史的にみると、大航海時代が日本にやって来ていました。
それに対応する九州の大名は、陸上だけでなく海上勢力とも立ち会わなければならない・・・
そこに活路を見出した・・・一番最先端をいった大名が大友宗麟でした。
宗麟の領国経営を支えた南蛮貿易・・・その成功の裏には、ある人物がいました。
1551年、宗麟はそのイエズス会宣教師を自らの屋敷に招きます。
イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルです。
日本にキリスト教を最初に伝えた人物です。
その時の宗麟の様子がイエズス会側の記録に残っています。

「彼は司祭に対して敬意を表し、愛情をこめて歓迎した」

はるばる日本まで布教に来たイエズス会の活動の背景には、この頃のヨーロッパでの歴史のうねりがありました。
15世紀末・・・大航海時代を切り開いた大国スペインとぽrとがると出の海外領土分割条約・・・それは、独自に引いた線から東はポルトガル、西はスペインが植民地として支配する、世界を二分するというものでした。
アジアへの進出を目論むポルトガルの援助を受け、一体となって進出したのがカトリック教団のイエズス会でした。

大航海時代、ポルトガルとスペインは、海外に植民地を獲得するため進出しました。
カトリック教会が、この枠組みに乗って、海外布教を実現させました。
国家は植民地獲得のために、教会は不況のために・・・
相互に癒着しながら、海外に進出していました。
日本に進出したイエズス会は、キリスト教の布教・保護を領主に求めます。
その見返りとして領主にはポルトガルとの貿易の便宜を図りました。
宗麟はザビエルの求めに応じて、豊後での布教を許可し、多くの土地を提供します。
府内には、教会や育児院などの施設が・・・病院では治療が無料で行われたといいます。
さらに音楽や演劇など西洋の文化が積極的に取り入れられ、府内は異国情緒あふれる町となっていきました。
府内で集中して出土するメダイ・・・この素材は南蛮貿易で輸入したタイの鉛でした。
これと同じ鉛を使って作っていたのは火縄銃の鉄砲玉です。
キリスト教を保護することによって南蛮貿易の恩恵・・・それは富だけではなく、軍事的なメリットもありました。
大友宗麟がキリスト教を受け入れたのも、信仰的な理由も大きいが、戦国時代の中でヨーロッパの進んだ武器を手に入れるということは当然でした。
さらに、重要な貿易品が火薬の原料となる硝石でした。
南蛮の良質な硝石を確保することは、戦国大名の大きな課題でした。
宗麟は九州への進出を企てる毛利氏との戦いの中、ポルトガル側に書状を送っています。

「山口の王(毛利氏)への硝石の輸出を取りやめて、私だけに良質の硝石を輸出してほしい
 そうすれば、山口の暴君は領国を失い、キリスト教は今後も私の国で一緒にいられるだろう」

宗麟は、さらにポルトガルから大砲(国崩)まで入手していました。
領国の強化を図る宗麟と、アジアでの布教拡大を目指すイエズス会・・・両方の思いが合致して、大友家は繁栄を迎えていきます。

豊後から九州全土へと勢力を広げていく大友宗麟・・・
1559年には九州6か国を領有し、室町幕府から九州探題に任じられます。
その間も宗麟の領国では、キリスト教の布教を一貫して保護し続けました。
日本全国でも布教は実を結び、信徒はおよそ10万人に・・・!!

肥前のキリシタン大名・大村純忠の領国に残る記録には、キリシタンが数多くの神社仏閣を破壊し、僧侶を殺害したと書かれています。
キリスト教徒と既存宗教との確執は・・・??
イエズス会では神社仏閣の破壊は日本人のキリシタンが勝手に行ったものであると主張しています。
実際にはイエズス会の宣教師が、日本人のキリシタンに神社仏閣への放火などをそそのかしたのでは・・・??
ヨーロッパ人の宣教師にとって見れば、日本の宗教や信仰というものは偶像崇拝に当たります。
本来容認できるものではありませんでした。
一方仏教徒も・・・キリシタンの住む町に放火、教会は焼け落ち、宣教師は国外に避難する事態となりました。
こうした宗教間の軋轢に、宗麟も悩んでいたといいます。
イエズス会の記録によれば、キリシタンになることを勧めた宣教師に対して、宗麟はこう答えたといいます。

「私がキリシタンになろうとすれば、家臣たちは私を国守と認めなくなるだけでなく、それ以前に殺されてしまう」

大友家は代々禅宗とのかかわりが深く、豊後は仏教信仰に厚い土地柄でした。
1562年、33歳の時、キリスト教の保護をしながら、宗麟は出家し法名を名乗ります。
この時より宗麟の法名を名乗ります。
キリスト教に偏っていたわけではなく、仏教・禅宗への信仰心を維持していました。
宗教受容の多様性・・・その姿勢は、西国大名の場合は根本的に持っていました。

宗麟が目指したものは何だったのか・・・??
この頃、宗麟は本拠地を府内から臼杵に移しています。
出家をしながらも、キリスト教色の濃い町づくりをしています。
町づくりで特徴的なのが、城から教会へとのびる大通り・・・
イエズス会師の教育施設も建てられ、臼杵はキリスト教布教の一大拠点となりました。
近年の発掘調査では、国内最大規模のキリシタン墓地・・・棺桶を埋める穴や、墓標となる石材が66個も発見されています。
さらにこの墓地からは、十字架が建てられた広場や、礼拝堂と思われる建物の跡も発見されています。
臼杵では、キリシタンたちが平和に暮らしていた時代があったのです。
臼杵での宗麟は・・・??
自分は平和のうちにどうやったら領国が統治できるか苦慮していました。
そのために、キリスト教が最もふさわしい教えではないか??
自分の領国を平和のうちに統一して運営できるために、キリスト教を導入したいと思っていました。
キリスト教と既存の宗教が共存できる領国統治を目指した大友宗麟・・・
しかし、その繁栄を大きく揺るがしかねない選択が迫っていました。

日向国を巡って、宗麟は大友家の命運を左右する選択を迫られます。
当時、日向の大半を治めていたのは伊東氏でした。
南の薩摩・大隅を治めていたのは武門の名門・島津氏でした。
1576年、島津氏が日向の伊東領内に侵攻。
領地を奪われた伊東は、姻戚関係のある宗麟に援軍を求めてきました。

この当時、大友と島津の間に大問題が発生していました。
発端は、南蛮貿易を行う大友の船が、島津領で行方不明になったのです。
大友側は、船と積荷が島津に横領されたと疑っていたのです。
さらに日向は、大友家の南蛮貿易にとって重要な寄港地でした。
大友、島津にとって、南蛮貿易の利権をかけた戦いの側面を持っていました。
日向に出兵し、島津と戦うか??否か・・・??

①出兵を回避する??
島津と戦えば、毛利、龍造寺に攻め込まれるかもしれない・・・。
家督は嫡男に譲ったばかり、領国の安定を図るべきではないか??
当時、大友家の重臣たちは、出兵に反対するものが多かったといいます。
相手は勇猛果敢な島津軍・・・戦いは激戦が予想されました。
さらに、家督を譲った中利の義統はまだ21歳。

”義統は国主にそぐわない無能な人間であるとして罷免すべきか家臣の間で協議された”

ともいわれています。
義統は、家臣からの信頼が薄く、当主の資格さえ疑われていたといいます。

②日向に出兵する??
宗麟は、日向を手に入れたのちの構想を、イエズス会の宣教師に語ったと記録しています。

「日向に築く町は、従来の日本のものとは違う新しい法律と制度によって統治されねばならない
 日向の土地に住む者たちは、みながキリシタンとなって愛と兄弟的な一致をもって生きねばならない」

宗麟は、大友家が持つ領地とは別に、日向の地に争いのないキリシタンだけが住む理想郷を作ろうとしていたのです。
領国の統治は義統に任せ、自分は新しい国を造るのだ・・・。
ポルトガルや、東南アジアの協力を得ながら、キリスト教のもとで民と心を合わせ国を統治するのだ・・・!!

日向に出兵する??それとも出兵を回避する・・・??

宗麟の取った選択は・・・??日向へ出陣・・・!!
宗麟は日向に出兵する道を選びました。
この時宗麟は、これまでの自分を振り切る重大な選択をしていました。
洗礼をしてキリシタンとなったのです。
洗礼名は、ドン・フランシスコ。
キリスト教との出会いをもたらしたフランシスコ・ザビエルの名をもらったものです。
日向に向け、4万もの大友軍が進撃を開始。
宗麟の船には、十字軍さながらに深紅の十字の旗が掲げられたといいます。
宮崎県延岡市無鹿町・・・宗麟が本陣を置いた場所です。
この時つけられた無鹿という名前は、ポルトガル語で音楽・・・MUSICAのことです。
宗麟はここに宣教師たちの宿舎や教会を建設します。
その一方で、周辺の神社仏閣を破壊したといいます。
宗麟の挙兵に対し、迎え撃つ島津軍が日向に進出!!
1578年11月、戦いの火ぶたが切られます。
しかし、大友軍はもともと出兵に反対するものも多く、武将の意見がまとまらず一枚岩ではありませんでした。
島津軍は、陽動や待ち伏せを行い大友軍を翻弄します。
結果、戦いは島津軍の圧勝に終わりました。
敗戦の報を受けた宗麟は、急いで臼杵に撤退・・・命からがらの逃避行でした。
この戦いの後、勢いに乗った島津軍は九州北部に侵攻し、大友領にも殺到します。
苦境に立たされる宗麟・・・
領国や命を預かるキリシタンを守るにはどうすればいいのか・・・??

追いつめられた宗麟は、起死回生の一手に打って出ます。
全国統一を目指す秀吉のもとに自ら出向いて援軍を求めたのです。
1586年、宗麟の直訴により秀吉軍が20万軍で九州へ侵攻、翌年島津を降伏させます。
結果、九州全域は秀吉のもとに落ち、大友家は秀吉配下の一大名となりました。
しかし、島津攻略の直後、宗麟は病に倒れその生涯に幕を閉じます。

1587年、大友宗麟死去・・・享年58歳でした。
宣教師やキリシタンの身内に看取られた静かな最期でした。

九州を制圧した秀吉は、宗麟の死から1か月後、突如宣教師たちの国外追放を命じました。
世にいう伴天連追放令です。
この後、秀吉、家康と続く天下の中で、キリスト教徒たちは厳しい迫害の時代を迎えます。
かつてヨーロッパまで轟いた大友宗麟の名も、その輝きを失っていくのです。


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群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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嵐に弄ばれた少年たち 「天正遣欧使節」の実像

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カトリック総本山のバチカン・・・
ローマ教皇をいただく聖地として多くのキリスト教信者からの信仰を集めています。
今から400年ほど前、この地を訪れた日本人がいます。
それが、天正遣欧少年使節・・・伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンです。
4人の少年たちは、戦国時代にローマ教皇に会った日本人としてその名を刻むこととなります。
少年たちのその後は、戦いの連続でした。
当時の日本は戦国の乱世・・・人々は死と向き合いながら生きなければなりませんでした。
苦しみの中、人々が救いを求めたのがキリスト教でした。
信者の数は爆発的に増加、40万近くに達します。
戦国の世=キリシタンの世紀だったのです。
日本の信者を導くために帰国した遣欧使・・・その4人を待っていたのは、変わり果てた祖国でした。
激しさを増していく切支丹弾圧!!
戦乱を終わらせた天下人は、キリスト教に魂の救済ではなく。。。
キリスト教は有害である!!
切支丹への迫害が進む中、遣欧使節はそれぞれの道を進むことに・・・。

1582年、一隻の南蛮船が長崎からローマに向けて出港しました。
そこに乗っていたのが、天正遣欧少年使節でした。
伊東マンショ・千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンです。
4人は武士の子供たちで、この時13歳前後。
熱心な切支丹でした。
彼らはどうしてローマに送られたのでしょうか?

1549年遣欧使節が送られる30年ほど前、キリスト教伝来。
イエズス会・フランシスコザビエル達です。
ローマ教皇を頂点とするカトリックの一派で、この頃、布教のために宣教師を世界に派遣していました。
この中で、信者の獲得に成功したのが日本でした。
遣欧使節が送られる直前の1581年には切支丹の数は15万に達していました。
大名から農民まで爆発的に広がり、戦国時代は切支丹の世紀と呼ばれることになりました。
これほどまでに、キリスト教が広まった背景には、戦国の世相が関わっています。
絶え間なく続く戦、疫病、飢餓が蔓延・・・人々は生きる幸せを見いだせなくなっていました。
絶望の中、キリスト教のある教えが人々の心を掴むのです。

ドチリナ・キリシタンには・・・
”後生(来世)に扶(助)かる道”と書かれています。
この教えを信じれば、あの世ですくわれると説いたのです。
日本人にとって死というものが身近な時代、明日死ぬかもしれない、来年かも知れない・・・
次の世界で素晴らしいことが待っている・・・
神様は耳鼻深いと説く宣教師はついて行きたい存在でした。

戦国の人々のニーズを満たし、急激に広まったキリスト教・・・
イエズス会の宣教師・ヴァリニャーノは、日本での布教の効果をローマ教皇に宣伝するために、遣欧使節を派遣することを思いつきます。

ヴァリニャーノは、キリシタン大名の親類や、ゆかりの者を選び出します。
伊東マンショ=大友宗麟
千々石ミゲル=有馬晴信
原マルチノ・中浦ジュリアン=大村純忠
キリシタン大名たちの代理のようでした。

一国の支配者である大名たちまでキリシタンに・・・
イエズス会での評価もあがるだろう・・・うってつけの人選でした。
一行は2年半の歳月をかけてヨーロッパへ。。。
1583年3月23日、ローマ教皇・グレゴリウス13世に謁見。
教皇は心を打たれて、滝のように涙を流した・・・。
感激するローマ教皇・・・この涙の裏には、当時のカトリックが置かれていた厳しい現実がありました。
当時ヨーロッパではプロテスタントが台頭し、カトリックと争っていました。
イギリス、ドイツ北部がプロテスタントの支配下となり、信者を失ってきていました。
こうした中、遣欧使節ははるかユーラシア大陸の東の王様がカトリックに改宗したことを知らせる存在だったのです。

「かつて我々が努力によって得たイギリスは失われました。
 しかし、ご覧ください。
 地球を一回りしなければならないほど離れた国が改宗しました。
 我々が失ったものを補って余りあることです。」

遣欧使節は、スペインの国王やフィレンツェのメディチ家などでも大歓迎を受けます。
更に、イタリア、ドイツでも彼らを称える出版物が・・・!!
その数は確認できるもので70以上・・・ヨーロッパで一大ブームを起こしました。
遣欧使節の派遣は見事に成功し、ローマ教皇はイエズス会に巨額の援助を約束します。
はるか東の島国から来た少年たちは、キリスト教世界のヒーローとなったのです。

1590年、天正遣欧少年使節、日本に帰国。
少年たちは20代の青年に成長し、キリスト教会のために尽くそうという熱い信念が・・・
しかし、彼らが見たのは、出発の頃とは全く違っていた日本でした。

1587年天下統一を目前にした豊臣家康は・・・伴天連追放令を出していました。
宣教師(バテレン)たちに日本から出て行くように迫ったのです。
キリスト教への取締が始まりました。
この頃、キリシタン大名の数は増え、九州だけではなく全国に広がっていました。
彼らが宣教師を通じ、スペインやポルトガルと結びつくようなことがあれば、秀吉には大きな脅威となります。
宣教師・フロイスは秀吉の言葉を書き記していました。
「キリスト教は、領主や貴族にまで信者を獲得しようと活動し、決断力は一向宗よりも強固である。
 全国を征服しようとしていることは、疑いの余地はない。」
1597年秀吉の命により、キリシタン26名の処刑が行われる事件が起こり、処刑場となった長崎には記念碑があります。
宣教師だけでなく、子供までもが殺されたのです。
しかし、この弾圧は・・・秀吉の思いとは正反対の方向へ・・・!!
事件の知らせがヨーロッパに届くと、26人を称える運動が発生!!
犠牲者を英雄のように・・・絵画や印刷物が・・・!!
これには殉教という特別な概念が関わっています。
殉教とは、迫害に対し信仰を守り命を落とすこと・・・
キリスト教が誕生して以来、1500年以上にわたって称えられてきた行為でした。

日本では26人もの人が殉教の道を選んだ・・・宣教師たちの日本での布教熱を燃え上がらせます。
秀吉の伴天連追放令をよそに、信者の数は増え続けます。
一方、帰国した遣欧使節は、増加する信者を導くために、聖職者の道を目指し勉学に励んでいました。
彼らが目指したのが司祭。
司祭はキリシタンにとって重要な儀式を行います。
”ゆるしの秘跡”と呼ばれる儀式です。
イエス・キリストに代わって、ゆるしの言葉を与える権限を持つのが司祭です。
1608年・・・伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンが司祭に・・・。
この時、彼らは40歳前後・・・日本のキリシタンのリーダーとしてその未来を担うこととなりました。
その中で一人加わらなかったのは・・・千々石ミゲル・・・
彼は、イエズス会を脱会・・・記録によると、病気によってイエズス会を去ったとされています。
しかし、ミゲルの脱会にはもっと根深いものが・・・??
ミゲルが後に仕えた大村家の書物によると・・・
「キリスト教は来世での救済を説いてはいるが、本当は国を奪う謀をしている・・・」
ミゲルの脱会の裏には何があったのでしょうか?

長崎県南島原市は、ミゲルが少年時代に過ごした地です。
戦国時代、この地方はほとんどの人がキリスト教徒となっていました。
多数派となったキリシタンが寺院や神社を襲い始めました。
攻撃を逃れるために、仏教徒たちは近くの洞穴に仏像を隠すものの、キリシタンたちに見つかってしまいました。

”キリシタンの少年たちが仏像を引きずり出し唾を吐きかけた
 これらの仏像は、直ちに割られ、薪になり、我々の炊事に役立った”

その後もミゲルは、長い年月、異文化、異民族を軽視するヨーロッパ人宣教師を見続けたのではないか?と思われます。
キリスト教が持つ世界こそが最高だという、それが布教先の伝統文化などを壊し、衝突を繰り返していたのです。
千々石ミゲルは当時のキリスト教布教の中の問題から脱却するために、イエズス会を離れたのです。

しかし、多くの摩擦を繰り返しながらキリシタンは増え、1600年ごろには30万人に達していました。
1612年伊東マンショ病で死去。
日本人司祭として人々を導く重責は、原マルチノ、中浦ジュリアンの二人にかかっていました。

1603年、徳川家康が江戸幕府を開きます。
家康はカトリックであるスペイン、ポルトガルと貿易をするため、キリスト教への大規模な取り締まりはしませんでした。
その間に、信者の数は増加・・・1614年には37万人となっていました。
もしかすると、キリスト教が日本で全面的に認められる日が来るかもしれない・・・。
原マルチノ、中浦ジュリアンは期待を持ち始めていたのです。
しかし、1614年最悪の事態が・・・!!
家康が、日本にいる宣教師たちに突如、国外追放を命じたのです。
慶長の禁教令です。
日本のキリスト教布教の拠点だった長崎では、これまでにない迫害が繰り広げられます。

”異教徒たちは、小躍りして喜び、教会を破壊し始めた。
 見るに堪えがたい光景だった。”

どうして家康は厳しい弾圧と、宣教師たちの追放を始めたのでしょうか?
その理由の一つが豊臣家の存在です。
幕府の体制強化を望む家康にとって、秀頼は最後の生涯でした。
当時秀頼は、家康に対抗するために大坂に人を集めていました。
そこには、キリシタンの武将や宣教師がいました。
家康は、37万人もいるキリシタンが結束して秀頼に味方し、自分に敵対することを恐れたのです。
そしてもう一つ・・・イギリスやオランダなどのプロテスタント勢力との貿易です。これらの勢力は、宗教を持ち込まず貿易だけを行ってくれていました。
家康は新しい選択肢を手にいてたのです。
追放令を受け、原マルチノと中浦ジュリアンらイエズス会は次のような対抗策を出します。
①宣教師8割を海外へ退去
幕府に従っているかのように見せます。
②宣教師2割を日本に潜伏
布教活動を継続させる。
海外に退去する者と、日本に潜伏する者・・・2つに分けて、乗り切ろうとします。
イエズス会の決定は、マルチノとジュリアンの二人の未来を引き裂くことに・・・
ジュリアンは日本にとどまり布教、マルチノは海外に退去することになりました。
しかし、この命令は、日本を去らなくてはならないマルチノにとっては大きな矛盾をはらんでいました。
司祭を含む宣教師たちのほとんどが海外に退去した後には、37万人ものキリシタンたちが日本に残されることとなります。
僅かに残った司祭では、膨大な信者に許しの秘跡を行うのことはできない。。。
罪が許されなければ、天国への道が閉ざされてしまう。。。
その結果、救済すべき信者に大きな苦しみが残ることに・・・!!
しかし、マルチノにはイエズス会に従い、日本からの退去以外に道はありませんでした。
マルチノは、語学が堪能で、”日本支社のカリスマ支店長”のような存在でした。
当然、日本側はマルチノが残るだろうと思っていたのですが、イエズス会は・・・
日本人に人気があるので、マルチノを日本に置いておくと「独立して起業してしまう」・・・ヨーロッパ人の手を離れた独自の日本人教団になってしまう・・・と恐れたようです。
ジュリアンは”現場のモーレツ営業マン”で、いつも現場で身を粉にして働いていました。

別々の道を歩むことになった二人・・・
1614年11月、原マルチノたちイエズス会士は日本を去りました。
転居先に選んだのがマカオ。
マカオは中国大陸の沿岸にあり、イエズス会が拠点にしていた港町です。
長崎とは貿易船で結ばれていて、日本の情報も入ってくる絶好の場所でした。

イエズス会が建てた世界遺産・聖ポール天主堂・・・
この天主堂は、アジアで最も壮麗な教会とされていました。
この教会の建築に関わったのが、日本を追放された日本人キリシタンたちでした。
教会の建設に参加した日本人たちは、大きなプロジェクトに加わる喜びを感じる一方で、徳川幕府のキリシタン弾圧が終わり、祖国に帰れる日を待ちわびていました。

原マルチノも、マカオで日本の帰国準備をしていました。
マルチノは語学に才能長けていたので、多くのキリスト教に通じる書物を翻訳。
それらは活版印刷で刷られ、日本での布教を担う宣教師の養成に使われました。
マカオで仲間を増やすマルチノ・・・あとは、日本で禁教令が解かれるのを待つだけでした。
しかし・・・思い通りにはなりませんでした。
家康の後を継いだ二代将軍・秀忠は、キリスト教への弾圧をさらに強めていきます。
1622年元和の大殉教・・・長崎でキリシタン55人が処刑されました。
火あぶりにされる宣教師、首を斬られる信者・・・当時幕府は鎖国へと踏み出しつつあり・・・キリスト教容認の必要性が無くなっていました。
日本にとどまった中浦ジュリアンは、追手から逃げながら布教を続けていました。
この頃、激しい弾圧に屈し、キリスト教を捨てるものが出て来ていました。
ジュリアンは農民に変装し、村々をまわり、信者たちを励まし続けます。
ジュリアンがイエズス会に出した手紙が残っています。
1621・・・元和の大殉教の前に書かれたものです。
”決して終わらない迫害の中、私には4000人もの信者の世話が任されています。
 キリスト教会のために働く力は、まだ十分に残っています。
 ローマからお送りくださった「信仰心を呼び起こす品々」も、信者たちに分け与えました。
 この品々によって記された愛情を深く感謝します。”
信仰心を呼び起こす品々・・・最近発見されたそれは、”メダイ”でした。
中浦ジュリアンが布教活動をしていく中で、地域の人にも配られたもののようです。
ジュリアンの活躍によって、一度は信仰をやめた人々が再び信仰を取り戻していきます。
メダイが発見されたのが、原城跡。。。島原の乱の舞台でした。
天草四郎の元に、3万を越えるキリシタンが集結・・・幕府に反旗を翻したのです。
ジュリアンが布教を行った人々も、この乱に参加。
信仰のために、壮絶な戦いに・・・。
そしてこの地域の住民のほぼ全員が命を落としたのです。
潜伏してから18年後・・・ジュリアンはついに捕らえられ、5日間に及ぶ拷問に耐えたのち殉教・・・
60代半ばだったと言われています。
最期の言葉は・・・
”私はローマを見た中浦ジュリアン司祭だ”
マカオに追われたキリシタンたちが建てた聖ポール天主堂。。。
日本で命を落とした殉教者の遺骨は、家族や仲間の手によってこの地にもたらされました。
そして、信仰を最後まで貫いた証として、今も崇められています。
原マルチノは日本での殉教の話を聞いてどう思ったのでしょうか?彼の言葉は残っていません。
徳川幕府のキリシタンへの弾圧は、さらに激しさを増し・・・日本に戻る道は完全に閉ざされてしまいます。
祖国の仲間や信者を思い続けて15年・・・マルチノは異国の地でその生涯を閉じたのでした。
1629年原マルチノ死去・・・
日本でキリスト教が許されるのは、200年以上後の、明治の代を待たなければなりませんでした。




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