日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:フルシチョフ

ケネディ大統領暗殺!!
容疑者の死!!
陰謀、黒幕、第二の狙撃手!!??
誰が・・・なぜ・・・??
事件発生から50年以上・・・多くのファイルが、今もなお隠されたまま・・・
なぜ隠すのか??知られたくない真実がそこにはあるのか??
逮捕された容疑者は暗殺!!
陰謀論誕生のその原点とは・・・??

ケネディ暗殺の犯人とされているのはリー・ハーベイ・オズワルド、24歳です。
しかし、24歳の若者が大統領を暗殺して得をするのか・・・??

陰謀論とは、ある出来事について、一般的に理解されている事実や背景とは別に、何らかの謀略が存在することを主張する意見のことです。
”陰謀論”という言葉が広く使われるようになったきっかけが、ケネディ大統領暗殺事件です。

アメリカは当時、ソビエトとの宇宙開発競争において敗北続きでした。
世界初の人工衛星、世界初の有人宇宙飛行・・・相次いでソビエトに先を越されていました。
そんな逆境の中、若きケネディは途方もない夢を抱いていました。
ケネディは黒人にも人気があり、当時のアメリカ社会での大きな壁・・・黒人差別について・・・公民権運動の指導者キング牧師を支援するなど、黒人からも愛される大統領でした。
その反面、若さゆえに、外交などの力量には不安視されていました。

共産主義陣営との東西冷戦の中で、大きな危機が1962年のキューバ危機でした。
ソビエトがキューバに、核ミサイル基地を建設開始。
アメリカに核戦争の危機が迫りました。
ケネディは追いつめられながらも、ソビエトの23歳も年上のフルシチョフ首相に粘り強い交渉を行って、見事戦争を回避しました。
夢、誠実さ、実力を期待させる若き指導者・・・ケネディは、まさにアメリカの希望の光でした。
しかし、社会を急速に変えようとするケネディには、反発する勢力も多くありました。

保守層の多い南部の州
1963年11月22日、テキサス州ダラス。
午前11時40分、ケネディ大統領、ダラス到着。
翌年の大統領選挙に向けての遊説でした。
待ち受けるは、かつての南軍の旗・・・黒人奴隷の開放に反発し、南北戦争を戦った南部の誇りを示す旗です。
新聞には、ケネディ大統領の政策を批判する全面広告も出されていました。
「ケネディさん、我々ダラスの自由な思想市民は、あなたによって憲法が無視されていると感じ、我々の苦情、あなたへの反論、批判をする権利がある」
町に貼られたビラには・・・
「この男、アメリカ合衆国に対する反逆罪で指名手配
 共産主義者登録法の執行に手ぬるい」

午前11時50分・・・ケネディ大統領パレード出発
ダレスの中心街全長16キロのコースで待ち構えていたのが・・・以外にも多くの人でした。
12時30分・・・運命の瞬間が・・・!!
何ものかの狙撃!!
玉は2発が当たり、うち1発は頭を直撃!!
午後1時37分。。。
ケネディ大統領死亡・・・。
その衝撃は大きすぎました。
どうしてケネディは殺されなければならなかったのでしょうか??

事件発生から1時間20分後・・・
1時50分、容疑者逮捕!!
ダラスに住む24歳の青年、リー・ハーベイ・オズワルドでした。
オズワルドの勤務先は、テキサス州教科書倉庫ビル。
その6階でライフル銃1丁と空薬きょうが3個見つかりました。
彼はそのビルを抜け出し、映画館に居たところを取り押さえられました。
24歳・・・無名の若者が、本当にケネディを・・・??
翌日の報道・・・共産主義者を逮捕!!とありました。
ところが・・・1963年11月23日深夜0時5分・・・
リー・ハーベイ・オズワルドは記者に向かって・・・
「何が起きているのか本当にわからない
 警察官殺害の罪に問われているということしか話してくれないのです
 誰か法律で私を守ってください
 私がソビエトに住んでいたから連行されているんだ
 身代わりなんだよ!!」と言いました。
さらに・・・事件から2日後、最悪の事態が・・・ダラス市警察の地下で、オズワルドの拘置所移送をテレビが生中継しているさ中・・・オズワルドが暗殺されたのです。
撃ったのは、ダラスでナイトクラブを経営する男ジャック・ルビーでした。
しかも、ルビーの背景について驚きの報道が・・・
かつて、シカゴ裏社会とのつながりがあり、衝撃的に行動する男。

ジャック・ルビーによるオズワルドの暗殺をきっかけに、相当多くの陰謀疑惑が語られるようになりました。
ダラス市警の留置所にいる男が、侵入してきた何者かに殺されるなんてありえない!!

口封じならば黒幕がいるのか??
それは共産主義者??マフィア??
「私の息子は政府の秘密工作員でした。」byオズワルド母
疑惑は拡大の一途を・・・!!

2週間後の1963年12月7日、アメリカ北東部のペンシルバニア州の一般紙に、巷で語られる根拠のない噂に釘をさす一本の記事が出ました。

タイトルは「陰謀論」。

「理性的な人々にとって、異常な心理状態の人の行動は、簡単には理解できないものだ。
だからこそ、確かな証拠はないにも関わらず、ケネディ大統領が殺された理由には、陰謀があるはずだと思い込んでしまう。
 理性的な人は、おかしな考えに取り憑かれた人間が、たった一人でこれほど大きな罪を犯しうるという現実を、受け入れることができないのだ。」

アメリカ国民の感情をドラマチックに揺さぶり続けた希望の光・・・ケネディ・・・
ケネディ暗殺とその後の衝撃の数々で人々が感じた理不尽な思い・・・
それを納得させるために、人は陰謀論を語るようになったのです。

ケネディ・・・謎の暗殺から1週間後・・・
黒幕は、ソビエト?キューバ?マフィア?アメリカ政府??
24歳の若者がたった一人で暗殺するはずがない・・・と、陰謀論がささやかれる中、真相究明のため「ケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会(ウォーレン委員会)が設置されました。
メンバーには、連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンを筆頭に、上院議員2名、下院議員2名、弁護士、前CIA長官という顔ぶれでした。
ダラス市警、FBI、CIA・・・関係各所から資料をすべて提出させ、証人尋問を行い、10か月の調査を行いました。
1964年9月24日、ウォーレン委員会は全26巻にも及ぶ報告書を提出!!
果たして、全世界が注目した最終結論は・・・??

「本委員会は、オズワルドがケネディ大統領の暗殺者だったと結論する
 
 本委員会は、オズワルドが単独で行動したものと結論する
 
 オズワルドが、ケネディ大統領暗殺の陰謀に加わっていたという信頼すべき証拠はなかった」

何という期待外れ・・・世間は騒然としました。
根強い疑惑・・・白昼堂々行われたケネディ暗殺は、たくさんの映像、写真によって前後の状況がわかっています。
パレードのリムジンで、ケネディの前に座っているのはテキサス州知事コナリー・・・
コースも明確・・・
オズワルドがいたとされるテキサス州教科書倉庫ビル・・・
ウォーレン委員会の報告によると、ビルからケネディの乗る車までは約80m・・・ライフル銃三発を発射!!
その一つが背後からケネディの喉を貫き、その同一の弾丸がコナリー知事をも負傷させました。
もう一発が、ケネディの頭部の右後方から入り、致命的な重傷を負わせました。
しかし、ウォーレン委員会の報告に疑問を抱く人々が指摘するのは、この狙撃についてです。
1975年、肝心の狙撃の瞬間をとらえた動画がテレビで公開されました。
偶然撮られたフィルム・・・「ザプルーダー・フィルム」です。
撮影したのは、ダラスの会社経営者、エイブラハム・ザプルーダーです。
26秒余りを撮影しています。
映像は事実を映している!!
そして人々は、この映像からウォーレン委員会とは異なる結論を導き出します。

1991年公開のアメリカ映画「JFK」口論を再燃させるきっかけになった映画です。
223フレームから232フレームの部分に・・・
弾が喉を撃ち抜いた直後が映っていますが、コナリー知事には当たっていません。
ウォーレン委員会の報告では、ケネディの喉を貫通したのち、コナリー知事を負傷させたとしています。
しかし、二人の合計7発の弾を一つの弾で貫通させようとすると・・・不自然な弾道になるのです。
もう一つの疑惑が、ケネディの頭部に当たった銃弾について・・・
ウォーレン委員会の報告によると、頭部の右後方から入り、致命的な重傷を負わせたとありますが・・・
313フレームから321フレームには・・・??
ケネディの頭部に銃弾が命中した場面・・・後ろにのけぞっています。
もしかして、前から撃たれたのか・・・??
前方に別の狙撃手が・・・??

しかし、その陰謀論を否定する説もあります。
313フレームから321フレームから・・・
二人を同時に傷つけた弾は、道路標識から出てくるときに撃たれています。
コナリーの背広の襟が捲れる瞬間が映っているのです。
その時に一緒に撃たれたのでは??
リムジンには、ケネディの座席よりもコナリーの座席の方が低く作られていました。
つまり、一つの銃弾で真っすぐ打ち抜くことは可能なのでは・・・??
フィルムを見ると、頭を撃たれた瞬間、”血の霧”が右前方に飛んでいます。
前から撃たれたのでは後ろに飛ぶのでは・・・??

同じ映像でも、見る角度やポイント、解釈が違えば正反対の分析になります。

事件から半世紀以上・・・ネットでは怪しい人の情報が溢れています。
様々な陰謀・・・しかし、決定打はありません。
人間は、あらかじめ見たいものが決まっていて、それを探すように物事を認識します。
見たいものを見て、信じたいものを探して、「やっぱりこれがあったんだ」と、納得したいのです。

陰謀説が「JFK」という映画を作り、その映画が話題を呼んだので、そのままでは今ほど陰謀説が大きくならなかったのではないのか?
「JFK」を見ると、黒幕は絶対にいると思えます。
もし、ケネディが生きていたら、ベトナム戦争に突き進むことはなく、アメリカはよりよい世界になっていたのでは??
ケネディを殺したのは、俺たちの夢を奪ったんだ!!最大の陰謀なんだ!!
と、なったのです。

単独犯説で描かれた映画もあり、それを見ると単独犯説と思えます。

2018年4月、トランプ大統領は、「ケネディ大統領暗殺事件に関する機密文書」について全面公開を見送りました。
トランプ大統領が全面公開したかったにもかかわらず、CIAやFBIが反対したのです。
現役の大統領でさえ手が出せない闇がそこにはある・・・

巨大な力を持った黒幕が・・・??

ウォーレン委員会は、黒幕説について・・・
「オズワルドがケネディ大統領暗殺の陰謀に加わっていたという信頼すべき証拠はなかった」

人びとの思うその黒幕とは・・・??
敵対する国外精力・・・
オズワルドが共産主義者と伝えられたことから、冷戦時代ということもあってソビエトやキューバが黒幕では??
敵対する国内勢力・・・
マフィア・・・ケネディ家は、父親の代からマフィアと協力関係にあったものの、ケネディ政権がマフィアの取り締まりを強化したために裏切者とみられていました。
アメリカ中央情報局CIA・・・CIAは、ケネディが大統領に就任した当初は、対キューバ政策をめぐって対立していました。
そこでCIAが邪魔なケネディを消したのでは・・・??

陰謀論は深読みしすぎ・・・??
オズワルドのことを研究しないまま「彼は単なる囮で、一人で暗殺など不可能だ」と、いうイメージを受け付けられている??
オズワルドをシンプルに見てみると・・・
オズワルドの生い立ちを見てみると、アメリカとソビエト、二つの国家に失望しています。
高校時代から共産主義に興味を持っていたオズワルド。
19歳でソビエトに亡命、ソビエトに馴染めず23歳で帰国。
それでも、アメリカ社会へのいら立ちを抱き続けていました。
オズワルドは、ケネディと政治的に正反対の軍人を暗殺しようとしたことがありました。

ケネディでなくても良かった??
アメリカか、ソビエトに一発かましてやりたかったのか??

そんなオズワルドにまさかの運命が・・・??
ケネディ暗殺の5週間前、オズワルドは、テキサス州教科書倉庫ビルに就職しました。
そして事件の2日前、パレードが自分の勤務先の前を通ることを知るのです。
オズワルドにとって、これはお膳立てされた贈り物でした。
オズワルド単独犯行説が最も素直・・・??
黒幕が存在しないと筋が通らない・・・??

CIAが情報を・・・その事実を隠し続けている!!??
ケネディ暗殺に関する文書は、まだ15,000点が非公開です。
これらが明らかになれば、CIAの関与が見えてくる・・・??
1963年10月、暗殺の6週間前にCIAがやり取りした電報には、オズワルドの経歴、特徴が3ページにわたって書かれています。
そして、6人のCIA高官がそれに目を通しています。
つまり、ケネディ暗殺事件の前から、オズワルドを監視していたのです。
この電報の初公開は、1992年。
1964年・・・ウォーレン委員会はCIA「資料はすべて提出した」とされています。
1964年、ウォーレン委員会の証人尋問で、CIA副長官だったR・ヘルムズが、宣誓の下、CIAにあるオズワルドをめぐるすべての証拠書類を委員会に提出しかと聞かれ、「はい」と回答しています。
それが嘘だったんです。
CIAが所持していた文書の大部分を、彼らは隠していたのです。
CIAは、宣誓証言で嘘をついて罪を犯し、司法妨害を行ったのは事実です。
公的な機関のこのような行為は、犯罪をかくしている可能性があると考えられます。
CIAが隠している情報をすべて出させることで真相が解明される・・・??

陰謀があったとして・・・CIA、FBI、フーバー長官・・・彼らが陰謀につながる資料を、国民が利用できる公文書館に提出などするのか・・・??
CIAには隠された情報が残っている・・・??

あの日以来、半世紀を超えてなおされる議論・・・この先、決定的な証拠は出るのか・・・??
決着はつくのか・・・??
しかし、証拠が提出されたからといって、それが真相究明につながるかどうかはわかりません。
全ての複雑な事件には、多くの証拠上がり、他の証拠と相反する証拠もあります。
それは、多くの証拠が、完全に信頼に足るものではないからです。
目撃者は間違いもするし、映像も写真も異なる解釈ができる・・・
公式文書が事実をしっかりと理解していない官僚によって書かれることも和えいます。
情報が公開されたとしても、信頼性のない情報がたくさん出てきてしまえば、それは陰謀論を正当化するだけなのです。

ケネディ暗殺陰謀論は、たとえ情報が公開されたとしても、事件の真相につながるとは限らないのです。

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感想(2件)



”アメリカの女王”と言われたジャクリーン・ケネディ・・・。
第35代大統領ジョン・F・ケネディの妻として知られています。
最も華麗なファーストレディ、悲劇の主人公、裏切者・・・様々な言葉と共に、どうして女王と言われたのでしょうか?

アメリカのファーストレディと言えば、華麗なファッションと言動の一つ一つに世界の注目が集まります。
そんな歴代の夫人の中で、別格としてスーパー・ファーストレディと呼ばれるのが、ジャクリーン・ケネディです。
ファッションリーダーとして絶大な人気を誇り、アメリカ国民を魅了しました。
外交でも、笑顔と流暢な語学で各国の首脳を虜にしました。
更に、自ら企画したホワイトハウスの修復や、文化活動も幅広く手がけました。
夫をサポートするだけではなく、自ら行動する最初の大統領夫人でした。

しかし、悲劇は突然起こりました。
夫のケネディが、ジャックリーンの目の前で暗殺されたのです。
ジャクリーンの孤独な戦いはここから始まりました。

1953年6月2日、エリザベス2世戴冠式・・・
世界で注目されたこのビッグイベント・・・取材のためにアメリカから派遣されたのが24歳のジャクリーンブービエでした。
この時、滞在先に一通の電報が届きました。
後にジャクリーンの運命を変える人物からでした。

「新聞記事は最高。
 君がいなくてさみしい。」

ジョン・F・ケネディ・・・アメリカで新進気鋭の政治家として注目を集めていた青年でした。

1929年7月28日、ジャクリーンはアメリカのニューヨーク、サウサンプトン・・・マンハッタンを望む高級住宅地に生まれました。
父、ジョン・ブービエ3世は、株の仲買人・・・プレイボーイとして有名でした。
母、ジャネットは、資産家の娘・・・父は、幼い娘をかわいがり・・・
「特別な存在になれ
 ユニークな人間になれ
 お前は女王になるんだ」と言いました。
しかし、11歳の時、父はジャクリーンの元を離れていきました。
遊び人の父と母が離婚したのです。

その2年後、母は、大富豪と再婚します。
待っていたのは、ニューヨークでも指折りの金持ちしか味わえない豪華で夢のような暮らしでした。
高校に通う頃には、ジャクリーンはわがまま放題のお嬢様に育っていました。
頭がいいが、先生には反抗的・・・制服が嫌いで、学校でタバコも吸っていました。
異性に興味はなく、言い寄ってくる男は多いものの・・・
「男の子って不器用で退屈、私は一生恋もせず、結婚もしない気がするの」
高校の卒業アルバムには・・・”将来の夢=主婦にならないこと”と書いていました。

1949年20歳・・・フランスのソルボンヌ大学に留学します。
パリでフランス文学や美術を学び、ボードレールの詩を暗唱するほど熱心でした。
勉強の合間には、オペラやバレエを見ます。
美術館を巡り、カフェで読書に熱中します。

「パリでの1年間は、生涯で最も幸せな時期でした」

アメリカに戻ったジャクリーン・・・キャリア・ウーマンとして活躍しようとしていた時に千載一遇のチャンスが・・・。
世界的ファッション雑誌VOGUEの未来の編集者を発掘するコンテストです。
優勝者には、パリとニューヨークで半年間ずつ見習い編集者として働くという特典がついていました。

ジャクリーンの論文やエッセイは高く評価され、1280人の応募者の中から1位に選ばれます。
ところが、ジャクリーンが雑誌社で働くことはありませんでした。
大富豪の義父と母に大反対されたのです。
良家の子女は、優秀な伴侶をアメリカで見つけることが第一・・・

「欲求不満の塊でした
 将来は、敷かれたレールを進むだけ
 そして有利な結婚をするだけですから」

雑誌社で働くことを辞退させた義父は、知り合いのコネを使って地方紙の記者に採用させました。
受け入れ炊きの新聞社では、誰もがジャクリーンを結婚までの腰掛仕事だと思っていました。
ところがジャクリーンにはそんなことはなく・・・
最初は雑用係だったものの、街頭インタビューに志願。

1951年22歳のジャクリーンは、あるパーティーで運命の人と出会います。
ジョン・F・ケネディです。

「この人は、自分の一生に深い影響を与え、心を悩ませる存在になる」

12歳上のケネディは大富豪ケネディ家の次男で、青年政治家として将来を期待されていました。
ケネディの魅力は、莫大な財産、人間的な魅力、ハンサムなルックス・・・でも、それ以外に、それまでジャクリーンが出会ったどんな男性も持っていない何かを持っていたのです。

ケネディに興味を抱いたジャクリーンは、手作りのランチをもって事務所を訪ねるようになりました。
時には、議会で使うフランス語の資料を翻訳したり・・・親密になっていきます。
知り合ってから1年後・・・ケネディは、遂に彼女を父・ジョセフに紹介します。
ケネディ家の長・ジョセフは、一代で莫大な財を築いた大富豪でした。
手段を選ばず、金と権力でのし上がったジョセフ・・・息子を大統領にする野望に燃えていました。
ジョセフはジャクリーンを気に入ります。
聡明さ、美貌、学歴、家柄・・・彼女は、大統領夫人の条件すべてを満たしていました。
ジョセフ・ケネディは、ジャクリーンの女性としての魅力より、政治的な才能に目をつけたのです。

1952年5月、ケネディはジャクリーンにプロポーズ。

「結婚の相手は、君の他にいないことがわかった
 結婚してほしい」

ジャクリーンは、この申し出を受けました。
ケネディとだったら、冒険心に富んだドラマチックな人生が歩める・・・!!
1953年9月、ジャクリーンはケネディと結婚。
ニューポートのセントメアリー教会には、700人の招待客と、3000人の見物客が・・・!!
ウエディングドレスは、新郎の希望で伝統的なスタイルのものを着ました。
青年政治家と良家の娘の結婚を、マスコミはこぞって取り上げます。
この時、24歳!!

1958年、ジョン・F・ケネディは、大統領選挙に出馬表明をします。
結婚して5年間、子育てを優先してきたジャクリーンでしたが、ケネディ家の家族会議で協力を求められ・・・
「ジョンが大統領になるためなら何でもするわ」と言いました。
ケネディ家の命運をかけた大勝負、父ジョセフは、この選挙戦に莫大な資金を投じました。
フランク・シナトラをはじめ、多くのハリウッド俳優たちがケネディを応援・・・空前絶後のキャンペーンでした。

ジャクリーンは、夫の良き相談相手でした。
ジョンの服装、演説の原稿、身振り手振りにもアドバイスを与えます。
これまでいまいちだったケネディの演説は、大いにイメージアップします。
さらにジャクリーン自らも演説をします。
フランス語、スペイン語、イタリア語など、移民たちの言葉で語りかけます。
この言葉は、英語を話さず、貧しい生活を送るマイノリティの心を掴んだのです。
聴衆はその語学力に驚き、しかし、それ以上に庶民のために努力をしてくれる彼女に心打たれたのです。

ジャクリーンの人気は沸騰!!
ジャクリーンが来ると知らされると演説会場は2倍に膨れ上がりました。
1960年11月8日、大統領選挙投票日・・・
「今までの人生で最も長い夜」
夫を大統領にする・・・その目標のために、全てを犠牲にしてきました。
そして、ケネディが大統領に当選!!
ジャクリーンは31歳の若さでファーストレディとなったのです。

ジャクリーンの服装は、それまでの大統領夫人とは全く違い、華やかなものでした。
しかし、先輩の元大統領夫人からは批判を受けます。
「質素にしなさい」
「高価な服や派手なスタイルはやめなさい」
大統領夫人は、アメリカの母・・・常に質素で夫を立てる・・・控えめなイメージに合わないというのです。

そのジャクリーン・ルックは華やかで、全米に大ブームを巻き起こします。
自分専属のデザイナーをおいていました。

「私が着るものは常にオリジナルで、他の人が同じものを絶対に着ないように配慮してください
 太った背の低いご婦人に同じドレスで歩き回られるのは嫌なのです」

しかし、人々はそのファッションに夢中になります。
華やかで行動的な大統領夫人は、アメリカの女性たちに大きな影響を与えます。
”結婚しても、こういうファッションをしていいんだ”と思い、ジャクリーンの存在感自体が女性の在り方、生き方を大きく変えていきました。

ファッションだけでなく、ホワイトハウスを変えていきます。

「こんなところには住めない!!」

当時、ホワイトハウスは大統領の住まいとは思えないくらいひどい状態でした。
歴代の大統領がそれぞれ改築した結果、水の流れないトイレや、壊れたシャワーが放置されていました。
そしてジャクリーンは、ホワイトハウスの改修を行います。
修復の会議を作り、メンバーには全米有数の富豪たちを入れます。
莫大な予算を税金で賄えば、批判を受けるので、金持ちから寄付金や調度品の寄付をしてもらい節約しながら・・・
さらに、斬新なアイデア・・・ホワイトハウスのガイドブックを作り、見学に訪れた人に売ります。
発売から10か月で50万部売れ、改修費用を大きく助けました。
そしてテレビ番組も。。。「ジャクリーン・ケネディが案内するホワイトハウスへの誘い」自ら出演し、フランス語版、スペイン語版も作り、世界108か国に発信します。

ジャクリーンは、大統領夫人として、政治的にも使らを発揮します。
ケネディ大統領の外交の切り札ともいわれました。
フランスでシャルル・ド・ゴール大統領と会談した時、ケネディは険悪だったアメリカとフランスとの関係修復にジャクリーンの力を借りようとしました。

「私はジャクリーン・ケネディをパリまでエスコートしてきた男です」

夫の通訳を務めたジャクリーンは、フランス語を巧みに操り、文学や美術の話をし、ド・ゴールの心を掴んでしまいました。

「素晴らしい髪と目をしたほれぼれするほど魅力的な女性だ」

冷戦で緊張関係が続いていたソ連との会談にも同行。
ジャクリーンは、フルシチョフ書記長をたちまち魅了します。
カメラマンがフルシチョフに、ケネディと並んでポーズをとってくれというと・・・
「できればケネディ夫人との方がいいんだけどなー」と言ったと言います。
ジャクリーンを待ち受ける各国のマスコミは過熱し、まるで王族のようでした。
アメリカの女王と世慣れていたジャクリーン・・・立ち居振る舞いや歩き方など、何とも言えない魅力がありました。

大統領夫人として絶大な人気を誇ったジャクリーン・・・
ところが数年後には裏切り者のレッテルを貼られることに・・・。
1963年、ジャクリーンが34歳の時、大統領再選を目指すケネディは、テキサス州で遊説することにしました。
1963年11月22日、ダラス・・・
ジャクリーンは、ストロベリーピンクのスーツにピルボックスハットを被り、颯爽とタラップから降り立ちました。
ケネディは、オープンカーでのパレードを予定していました。
前回の選挙では、この地方では票がとれなかったので、てこ入れのためにジャクリーンと共に、しっかりと姿を見せようとしたのです。
そして、みんなが見やすいようにパレードのルートも発表!!
12時55分パレード開始。
ジャクリーンは夫の隣に座りました。
13時30分・・・車がテキサス教科書ビルに差し掛かった時・・・銃弾を頭に受けてのけぞる大統領。。。
ジャクリーンは、座席を這い上ってトランクにのぼろうとしました。

「私は彼の頭を抱えて、これ以上脳がこぼれ出ないようにしたの」

ジャクリーンは、夫について病院へ・・・。
しかし・・・1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ死去。
ショックと悲しみに包まれたものの、大統領の不在は許されない・・・。
すぐに大統領専用機の中で、ジョンソン副大統領が宣誓式を行い、ジャクリーンも立ち会います。
この日、ジャクリーンは、ケネディの血を浴びたスーツのままでした。
着替えるように勧められたものの・・・

「犯人に自分がしたことを見せるの
 世界中の人たちに見せるの」

夫の死を人々の心に深く刻みたい・・・
ジャクリーンは、葬儀のすべてを自ら取り仕切ることにしました。

1963年11月25日、ジョン・F・ケネディの国葬が行われました。
葬列は、ジャクリーンとケネディの家族が先頭に、ワシントンの議事堂からセントマシューズ大聖堂まで徒歩で移動。
埋葬は、南北戦争の兵士も眠るアーリントン国立墓地・・・。
ジャクリーンが特にこだわったのは墓を照らす”永遠の炎”。
消えることのない炎のようにアメリカ国民がケネディを忘れないように・・・。
ケネディの死後、ジャクリーンは親しい人に手紙で・・・
「私の人生は終わった」と書きました。

しかし、失意のジャクリーンを、世間は放っておいてくれませんでした。
ワシントンの新居の前には常に報道陣が・・・観光バスまでも・・・。
夫の死から5年・・・さらにケネディ家の悲劇は続きます。
弟・ロバート・ケネディが大統領に立候補するも・・・1968年6月5日暗殺・・・。選挙中のことでした。

ジャクリーンは、子供達にも身の危険が迫っていると感じていました。
しかし、ケネディ家は、ロバートの選挙に財産の殆どをつぎ込んでしまっていました。
ジャクリーンが警備のために使える資金は殆どありませんでした。
ロバートの葬儀の翌日・・・

「アメリカという国が憎い、アメリカという国を軽蔑するわ
 ケネディだから殺されるなら、子供たちは一番の標的じゃない!!
 こんな国、私出ていく!!」

ジャクリーンが逃避先に選んだのは、ギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスの元でした。

「とんでもない悪党だけど、同時にとても理解があるの」

オナシスとは、5年前、ケネディの存命中に一度会っていました。
この頃、ジャクリーンは3人目の子を身籠ったものの、生後わずか3日で死亡・・・。
その傷を癒すために妹の知り合いだったオナシスと船旅を共にしたことがあったのです。
23歳年上のオナシスはプレイボーイではあったものの、女性に対する気遣いがありました。
莫大な財力を使って、宝石は言うを及ばず、船や飛行機をジャクリーンにプレゼント。
何より魅力的だったのは、地中海に島を持っていたことでした。
ジャクリーンのために、島に万全のセキュリティシステムを作ってくれたのです。

1968年10月、39歳の時、オナシスと再婚。

この結婚は、アメリカをはじめ、世界中か裏切り行為だとバッシング!!

その一方で、少数ながら再婚を支持した人も・・・。
友人の女優エリザベス・テーラーでした。

「オナシスは魅力たっぷりで、新説で思いやりがある人だと思うわ
 ジャクリーンは、最善の選択をしたと思う」

11歳の娘と7歳の息子のために、平穏な生活を求めてギリシャに来たジャクリーン・・・。
しかし、浮気者のオナシスとは喧嘩が絶えませんでした。
ジャクリーンは、寂しさを紛らわすためにショッピングにのめり込みます。
気に入った靴はダース単位で、気に入ったブラウスは全色揃えました。
さらに、数々のファッションショーの常連で、コレクションを丸ごと買い上げます。
さすがの大富豪オナシスも制限を設けたほど、その買い物はすさまじいものでした。

1975年、結婚から7年でオナシス死去。
晩年、ジャクリーンに愛想をつかしていたオナシスは、遺言で財産の殆どを娘クリスティナに譲るとしていました。
ところがジャクリーンは、クリスティナを相手に、遺産相続の訴訟を起こします。 
その結果、2600万ドル・・・当時の金額で79億円という莫大な遺産を手にすることになりました。
もう、誰に頼る必要もない・・・ジャクリーンはアメリカに戻り、子供たちとニューヨークで生活を始めます。
莫大な遺産のお金で、子供の頃に味わった豪華な暮らしを再び手に入れたのです。

「今の生活は退屈で仕方がないの」

1975年、46歳で突然出版社に就職。
学生時代から好きだった美術や文学の本を作り始めます。
それを見た社員たちは驚いてこう言いました。
「雑誌の表紙が歩いている!!」
しかし、ジャクリーンは、コーヒーを自分で入れるなど、部下の手をわずかわせることはありませんでした。

「もう、自分のために生きる時が来たの」

仕事ではアーティストの書物を得意としました。
「ジョンとヨーコの愛の詩」、マイケル・ジャクソンの自伝の出版・・・
マイケルの自伝には、少年時代の体験や、思春期のコンプレックス、家族の問題など、それまでにない内容が書かれていました。
ジャクリーンは、序文にこんな文章を寄せました。

”多くの人にとってマイケル・ジャクソンは理解しにくい人物に見えるかもしれません
 けれど、彼と一緒に仕事をした人は違います
 この才能あふれるアーティストは、感じやすく、心温かく、面白く、また洞察力にも富んでいるのです”

そして、生涯最後の恋をしました。
50歳となったジャクリーンの相手は、有名な政治家でも大富豪でもなく・・・同い年のベルギー人・・・モーリス・テンペルズマンでした。
ジャクリーンはモーリスとは趣味が合い、文学を愛し、フランス語で会話をし、二人でオペラを見たり、美術品を買ったりしました。
二人は一緒に暮らすようになったものの、結婚することはありませんでした。
モーリスの妻が離婚に応じなかったからです。
それでもジャクリーンは満足でした。

「私が有名であることで、私の人生から彼が遠ざかることがないよう、心から願っているわ」

1994年5月19日、ジャクリーンはリンパ腺がんによりニューヨークで死去・・・64歳でした。
子供達とモーリスに見守られての最期でした。

墓は、本人の希望でアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの隣に造られました。
ジャクリーンが夫の葬儀の際に灯した永遠の炎は今も燃え続けている・・・

「人生にあまり多くを期待してはいけない
 普遍的なものは何もない
 だから、誰も頼ることはできない
 頼れるのは自分だけ
 これが辛い思いをして私が学んだことです」

 
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アメリカ大統領と言えばこの人、というくらいに人気は高く、世界的にも知られています。
テレビ時代の申し子と言われていました。
その在任期間はわずか、1036日。3年足らずです。
悲劇的な暗殺・・・その死もテレビが伝えました。

どうして今もなお、カリスマ大統領とされているのでしょうか?

ケネディがホワイトハウスで愛用していた机・・・
カーター、レーガン、クリントン、オバマ・・・歴代大統領が使ってきました。

ケネディが好きだった言葉

「神よ あなたの海は
 あまりにも広大で
 私の船はあまりにも小さい」

どうして今も昔もケネディは人を惹きつけるのでしょう?

①ホワイトハウス・・・大統領の生活は???

大統領一家が過ごします。地下三階、地上三階、132もの部屋があります。
1回には大広間が、2階は居住スペース
この場所で、生活し、仕事をします。
かっこいいイメージですが、小食でちょっとひ弱。
分刻みのスケジュールをこなしながら、お昼寝をしたり、自分の時間も大切にする・・・そんなジャックがそこにはありました。

②VOTE(投票)

43歳にして大統領となった男。
選挙によって史上最年少大統領となったジャック。
生まれ故郷ボストンで1917年5月29日に生まれました。
先祖はアイルランドからの移民、プロテスタントが政財界のボストンにあって、敬虔なカトリック信者でした。
父・ジョセフは、実業家として大成功。
でも、差別や偏見を受けた父は・・・勝負には絶対に勝て!!なんでも一番になれ!!と、育てます。

やがて、兄を追って名門高校へ進むものの・・・
あまり賢くはなかったようです。
ちなみに兄は、スポーツ万能・成績優秀で、将来は政治の世界で活躍することを期待されていました。
しかし、やんちゃなジャックは先生に怒られてばかり・・・
生徒同士の人気投票で・・・最も成功しそうな生徒に選ばれています。
勉強も、スポーツも得意ではないのに、魅力にあふれていました。

第2次世界大戦中海軍にはいったジャックに悲劇が・・・
1944年に兄・ジョーが戦死したのです。
ジョーを大統領に!!と、夢を描いていた父は、その思いを次男のジャックに!!

ケネディは、父の全面的な支援を受けて、29歳の若さで下院議員に・・・
それ以後も負け知らずでした。

議員としての成績はあまりでしたが・・・人気はぴか一でした。

そして、大統領選挙へ・・・
実力者を抑えて・・・43歳という若さで、民主党の大統領候補に選ばれます。
共和党の候補は、副大統領を2期も務めたニクソン。
下馬評ではニクソンが圧勝する予定でした。。。

ジャックは、若さと新鮮さを全面的に押し出します。
みんなとともに・・・気さくに話しかけ、人々の心を掴んでいきます。
そして、史上初の生放送の大統領候補のテレビ討論で・・・

ダークなスーツに身を包み、身だしなみに気を付けてカメラ目線で話しかけます。
一方、ニクソンは・・・落ち着きがなく、汗をかき・・・視線が泳ぎます。

この討論をラジオで聞いた人々の判定は五分五分・・・
しかし、テレビで見た人たちの印象は・・・二人の差は明らかでした。
7000万人が見たといわれるこの討論、最初の15分で決まったといいます。
ケネディは国民に向けて討論し、ニクソンはケネディに対して討論していました。
討論前はケネディ47%・ニクソン53%が、討論後はケネディ51%・ニクソン45%となったのです。

その後ニクソンも必死に頑張りますが、わずか10万票の差で大統領の座についたのはジャックでした。
大統領就任式での国民への呼びかけは、後に有名な演説となりました。

そんなジャックの人気は???
人の心を掴むのが上手だったようです。
気取らない性格で、ハンディ、痛みのわかる人物だったようです。

そして、ジャクリーンと二人でホワイトハウスを変えていきます。
聡明なジャッキー、親友のチャールズ・バートレットが引き合わせました。

ケネディがホワイトハウスの主となると・・・
ジャッキーは知性的な女性で、芸術作品をそろえ、華やかな部屋へと変えていきます。
ホワイトハウスが人々の間に開かれた存在となるように・・・努力を惜しまなかったのです。
機知にとんだ受け答えをする二人の改革は、大統領を人々の身近な存在にさせていきました。

③フルシチョフ・・・若き大統領だったジャックを本当の政治家へと導いたのが、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフ。
1960年代、それは、資本主義と共産主義が真っ向から対立した冷戦の時代でした。

大統領に就任してから半年で・・・冷戦構造の打開を図るためにフルシチョフと会談へ・・・
フルシチョフは、話せば全て味方につけてしまうような人でした。誰であれ、説得できる人だったのです。

会談で、共産主義を高らかに主張するフルシチョフ・・・
ケネディは、話し合いの糸口も掴むことが出来ません。
普段は葉巻しか飲まないケネディが、通訳の煙草に手を伸ばしたと言います。
腰の痛みと極度の緊張。。。2日間の会談で具体的成果はほとんどゼロでした。

壁のようにそびえ立つフルシチョフに阻まれたケネディ・・・
肩を落としたと言います。

しかし、フルシチョフはケネディのリーダーとしての素質を見抜いていました。
フルシチョフの息子は・・・
「父・フルシチョフは、ケネディをひ弱な青二才だと見くびっていたというのは、アメリカ人の神話です。ケネディは、しっかりしたビジョンを持っていたと・・・アイゼンハワーよりも実力があると認めていたようです。」

1962年10月のキューバ危機・・・
アメリカのわずか南100キロにある共産主義国・キューバ・・・
ここにソ連が核ミサイルを配備しようとしていました。
のど元に突き付けられた核ミサイルの恐怖、人々は混乱し、マスコミは第三次世界大戦を煽ります。

ホワイトハウスでは・・・
軍の幹部がキューバへの軍事侵攻を求めます。
しかし、ケネディは・・・フルシチョフとの外交交渉で決着をつけようとしました。
キューバ近海を封鎖、ソ連の武器を積んだ軍艦の阻止を宣言しました。

「キューバからのミサイル攻撃は、どの西側諸国に対してであれソ連からアメリカに対する攻撃とみなす」

13日間にわたる交渉が始まりました。
その結果、アメリカはキューバを侵略しないと約束、あとはソ連側が決断すべきだ、とフルシチョフに委ねます。
これに対しフルシチョフは・・・
キューバからのミサイル撤去を約束しました。

1963年ケネディは西ベルリンを訪れます。
冷戦によって東西に分断された町・・・ここでケネディは、有名な演説をします。

「どこに暮らしていても、あらゆる自由な人はベルリンの市民です。
 ですから自由な人間として私は誇りを持って言うのです。
 イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー
 (私はベルリン市民である)」

外交での実績を積み上げていたケネディは・・・リンカーン以来国内を揺るがしていた問題・・・黒人差別問題に取り組みます。
公民権を確立するためです。
「これまで長年、放置されてきた問題の解決を会議に求めます。
 アメリカの暮らしと法律から人種差別をなくすことです。」

黒人の公民権確立への道筋をたてたケネディ。
海を愛し、家族を愛し、自由の国を愛したケネディ。

1963年11月22日ダラスで・・・
人種差別が色濃く残るこの街で、自由で開かれたアメリカを訴えようとしていました。
しかし、12時30分、一発の銃声が鳴り響きました。
何者かによって銃撃されたのです。

若き大統領の死・・・

フルシチョフは、ジャッキーに、心のこもったお悔やみを・・・
これに対してジャッキーは、
「ケネディは、あなたと一緒に世界平和を実現したいと考えていました。
 しかし、夫はもういません。
 これからはあなた一人で実現していかねばなりません。」

もしケネディが生きていたら・・・
底辺の人々に手を差し伸べたケネディ。。。

ダラスにある博物館には、毎年30万人の人が訪れます。

どんな人の心の中にもある弱さ・・・
その弱さとうまく付き合ったからこそ相手を知り、自分を知り、国を知る・・・
それが、ケネディの強さでした。


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