日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:プロイセン

ジャイアントキリング・・・19世紀のヨーロッパでそれを成し遂げた男がいました。
その男の名は鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクです。
明治の日本でヨーロッパを訪れた新政府の指導者たち・・・西洋文化の視察と江戸幕府が結んだ不平等条約の改正のために・・・!!
一行は、法整備や機械文明の進んだヨーロッパを貪欲に学びました。
しかしその反面、不平等条約の改正は一向に進んでいませんでした。
彼等は対応には丁寧だが、交渉には取りつく島もありませんでした。
そんな中、有益な助言をくれた政治家が一人だけいました。

「諸君らは、各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前にすぎず、現実は弱肉強食である」

ドイツの首相オットー・フォン・ビスマルクです。
19世紀、小さな国の集まりだったドイツを統一し、弱小国からヨーロッパ屈指の強国へと押し上げた・・・目的のためには、慣習や法律を破ることもいとわない風雲児でした。

ビスマルクが首相になったのは47歳の時でした。
しかし、若い頃のビスマルクは札付きのワルでした。
仕事そっちのけで酒と女遊びに・・・借金まみれ、おまけに誰彼構わずケンカを吹っ掛けました。
そんな男がどうして首相になったのでしょうか?

ベルリンから西へ100キロほどのシェーンハウゼン・・・
1815年、ビスマルクはこの片田舎で生まれました。
当時は現在のようなドイツ国家はなく、ビスマルクのいたプロイセン王国やオーストリアなど、大小の国が集ってドイツ連邦(約35の国と4つの自由都市からなる連邦組織)を形成し、それぞれの国を治めていました。
父フェルディナントは、プロイセン王国に仕えて地方の領地経営をする田舎貴族・ユンカーで、農業経営をしながらプロイセン国王の下で地域を治めていて、おおらかで朴訥だったといいます。

「私は父を心から愛していました」

母・ヴィルヘルミーネとは、ソリが合いません。
母は大都会ベルリンから嫁いできた政府高官の娘でした。

「母は美しく頭脳明晰でしたが、情けをほとんど持ち合わせず、厳しく冷たい人に見えました
 小さい頃は、心底母が嫌いでした」

1822年、6歳でベルリンの寄宿学校に入学し、エリート教育を施されます。
英語・フランス語を習得、成績は優秀でした。
しかし・・・1832年17歳でゲッティンゲン大学に入学すると・・・ろくに授業に出なくなります。
奇抜な服を着て、大きな犬を従え、毎日あてもなく町をうろつきます。
仲間と会えば酒を煽り、喧嘩に明け暮れます。
そんなビスマルクが唯一熱中したのが歴史学でした。
歴史の裏に、ヨーロッパの利害や思惑がいかに絡み合っているのかを読み解く授業・・・
ビスマルクは夢中になりました。

「僕はプロイセンで最大のゴロツキになるか、最も偉くなるかだ」

1935年、20歳で母の望み通り官僚として働き始めます。
しかし、単調なデスクワークにすぐに飽きてしまいます。
代わりに夢中になったのが恋愛でした。
仕事をさぼって、恋人と各地で豪遊・・・金が尽きるとギャンブルに手を出しました。
しかし、恋人と別れるころには借金と無断欠勤とでビスマルクは職場を逃げ出します。

1839年、24歳の時、ビスマルクが次に手掛けたのが農場経営でした。
父の跡継ぎとして故郷でユンカーとして働き始めます。
数年もたつと・・・一人の時は退屈だ・・・何をやっても本気にならないビスマルク・・・
しかし、1842年、27歳の時、大きな転機が訪れます。
幼なじみに連れられてキリスト教のサークルに入ります。
ここからビスマルクの人生に二つの道が切り開かれていきます。

ひとつは政治家への道・・・
このサークルには、プロイセン国王の側近たちも参加していました。
彼等の推薦でビスマルクは州議会議員になることができました。
もう一つは結婚への道・・・
サークルの中に、マリー・フォン・ダッテンという7歳下の知的な美女がいました。
ビスマルクはマリーと交際し、愛を育んでいきます。
しかし、幸せは束の間でした。
1846年、31歳の時、突然病でマリーがこの世を去ってしまいます。

「こんな親しい人を死によって失ったのは初めてだ
 かけがえのない彼女の姿を見ることも、声を聞くことも二度と出来ない
 この出来事が、まだ現実だとは思えない」

ところがその翌月、ビスマルクは驚くべき行動に出ます。
マリーの親友ヨハナ・フォン・プトカマーにプロポーズしたのです。
ヨハナは内向きで、社交的というよりは家庭の人でした。
信仰と伝統を重んじて非常に地味な女性でした。
マリーの死をきっかけに、二人の関係は急に密になったのです。
ビスマルクからすれば、自分が落ち着ける場所を見出したのです。

1847年、32歳でヨハナと結婚。
議員として政治に没頭していきます。

1851年、36歳で外交官に抜擢されます。
1852年3月、外交官になったばかりのビスマルクが意気揚々と向かったのがドイツ連邦議会でした。
しかし、そこで目にしたのはプロイセンの二倍ほどもある大国オーストリアの強大な権威でした。
オーストリアのシェーンブルン宮殿・・・当時、宮殿の主はハプスブルク家でした。
ヨーロッパの国々と婚姻を結んで影響力を持ち、さらに長い歴史を誇る神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねたという名門中の名門です。
プロイセンはドイツ連邦の中ではナンバー2の国で、つねに格下扱いされ屈辱を受けてきました。
ビスマルクはそこで大胆な行動に出ます。

議会で葉巻を吸うことができるのは、連邦議会会長のオーストリア代表だけ・・・という慣例がありました。
ところが、ビスマルクは葉巻を取り出しおもむろに議長の前で吸い出したのです。
議長は呆気にとられたといいます。
オーストリアの秘密文書には、ビスマルクについてこう書かれています。

”時には紳士らしくするものの本性は傲慢で卑怯、過剰なうぬぼれに大ぼら吹き
 オーストリアへの嫉妬と憎しみでいっぱいで、常に戦いを挑んでくる”

外交官となって11年経った1862年47歳・・・
ビスマルクはついに首相に就任しました。
プロイセン国王・ヴィルヘルム1世の意向だったといいます。
その背景には、国王と議会の対立がありました。
当時のプロイセン議会は、個人の自由を尊重し、国王に否定的な自由主義議員が多数を占めていました。
そのため、国王と議会が対立し、政治が麻痺していたのです。
そこでヴィルヘルム1世は、常々国王に忠誠を誓っていたビスマルクに目をつけたのです。

議員になりたての1847年、32歳の時・・・ビスマルクは既にこんな演説をしています。

「プロイセン君主は、神からの恵によって、絶対的な王権を所有しているのです」

君主主義に対する忠誠、保守的なところがあります。
そこが一番大きかったのです。
しかし、何をしでかすかわからない・・・!!

プロイセン王国の首相となったビスマルク・・・ある野望に燃えていました。
プロイセンをドイツ連邦を代表する大国として周りの国々に認めさせることです。
しかし、そのためには同じドイツ連邦でナンバー1のオーストリアが邪魔になる・・・

首相の座について1週間後、ビスマルクは後世に残る演説をします。

「時代の大問題を決着させるのは、演説や多数決によってではない
 鉄と血によってだ!!」

武器を示す鉄と兵士を意味する血・・・
プロイセンを発展させ、強国に導く手段は軍備拡張であると明確に打ち出したのです。
ところが、大きな問題がありました。
それは議会・・・当時の議会は、君主制を嫌う自由主義の議員が多数を占めており、国王に忠実なビスマルクに猛反発します。
ビスマルクの出した政府予算案は、議会で否決されてしまいます。
しかし、ビスマルクはそんなことでは諦めない・・・
議会の了承を得ないまま軍備を拡張します。
これは、当時の憲法の不備に付け込んだ裏技でした。
プロイセン憲法には、”政府予算の成立には国王と議会の合意が必要”とあります。
合意せず予算が成立しなかった場合のルールがなかったのです。
予算不成立の後、ビスマルクが国王の承認を得て、予算を使っても憲法違反として罰することができないのです。
さらにビスマルクは邪魔をする自由主義委員の力を削ぐために、普通選挙を導入します。
それまで貴族が大多数を占めていた議会に労働者や農民など様々な階級の人間が入ってくることで、彼らの影響力を奪おうという狙いでした。
彼が大衆民主主義を考えて、その制度を取り入れたかというとそうではなく・・・
まだ選挙権を持っていない農民層などの保守的な大衆は、おのずと君主の政府を支持するだろうと・・・その計算があって、普通選挙制度を導入したのです。

首相に就任してから、ビスマルクはそれまで以上に猛烈に働き、部下にもそれを求めました。
早起きが苦手なビスマルクは、夜になるにつれて調子が上がったといわれています。
そのため、眠りにつくのが朝の7時になることもありました。
直属の部下は、その無茶苦茶な生活に振り回されていましたが、それでもビスマルクを慕っていたといいます。

そんなビスマルクにとって、唯一ホッとできる場所は、妻ヨハナのいる家庭でした。
公務で家を空けることの多かったビスマルクは、ヨハナは三人の子供を育てながら夫を支えました。
ビスマルクは、ヨハナにこんな手紙を送っています。

「僕があなたと結婚したのは、あなたを愛するためさ
 あなたと故郷の暖炉以上に大切で愛しいものはないよ」

ビスマルクは、工業化による国力増大にも力を入れました。
豊富な石炭のとれたライン川流域には、製鉄会社や軍需産業のクルップ社などが誕生しました。
そして、各地を結ぶ鉄道網に着々と整備されていきました。
首相に就任してから4年後の1866年、50歳の時、国力の増強に手ごたえを感じたビスマルクは、いよいよ他国に目を向けました。
ビスマルクは、国王ヴィルヘルム1世の御前会議でこう進言します。

「プロイセンこそ、ドイツの頂点に立つ正当な権利を持っています
 それに対してオーストリアは、その嫉妬心ゆえ指導する能力もないのにプロイセンにドイツの指導権を許すまいとしてきたのです」byビスマルク

その後、フランクフルトで開かれたドイツ連邦議会・・・ビスマルクは人々の度肝を抜く改革案を提出させます。
ドイツ連邦から議長国のオーストリアを除外するという案でした。
当然オーストリアは戦争も辞さない構えで猛反発!!
両国の対立は避けられなくなりました。
こうして1866年、51歳の時に普墺戦争勃発!!
オーストリア側の兵は40万、それに対しプロイセンの勢力は32万でした。
しかし、ビスマルクには勝算がありました。
それは、プロイセン軍にその人ありと謳われた参謀長モルトケの存在です。
ビスマルクより15歳年上のモルトケは、参謀長として長年プロイセン軍を指揮してきました。
めったに人を褒めないビスマルクですら、モルトケをこう表しています。

「彼は非常に珍しい人物だ
 常に準備ができていて、絶対的に信頼できる
 その上、心の底まで冷静だ」

開戦から1か月後、勝敗を左右する重要な戦いが起きます。
1866年7月3日、ケーニヒグレーツの戦いです。
この時、モルトケは誰も思いつかなかった斬新な作戦でオーストリアの数をひっくり返します。
カギとなるのがドイツの鉄道網でした。
モルトケは、開戦前に鉄道部を新設、ドイツ各地から戦場となりそうな各地に5本の線路をひかせていたのです。
モルトケの作戦は・・・
部隊を3つに分けて、鉄道を使って送り込み、オーストリアの守りの要ケーニヒグレーツ要塞を三方向から攻撃する・・・25万もの兵士や、ひとつ数トンにもなる大砲を、あっという間に敵陣に送り込むという当時の常識からは考えられない戦法でした。
戦いが始まるとプロイセン軍は三方向からオーストリア軍に襲い掛かり撃破、さらに、旧式の銃で重点突撃してくる敵には最新鋭の銃で返り討ち!!
戦いは、わずか半日で決着しました。
オーストリア軍の戦死者は10000以上、プロイセン軍はおよそ2000・・・
プロイセンの圧勝でした。
勝利の報告に歓喜した国王ヴィルヘルム1世は、この勢いに乗って戦争を続けようとします。
しかし、ビスマルクは国王を説得し、勝利から間もなくオーストリアと講和を結びました。
他のヨーロッパ諸国が介入してくることを警戒したのです。
大戦前、ビスマルクはイタリア、フランスに密かに交渉を行っています。
戦争に介入しないように根回ししていたのですが・・・戦いが長引けば、どうなるかはわからない・・・。
ビスマルクは、他の国がどう動くのかを常に警戒していました。
もし、他国からの調停や介入を認めると、せっかく獲得したものを、成し遂げようとしたものを、制限されてしまう恐れもあったのです。
なるべく早く戦争を終わらせて、講和を結びたかったのです。

1867年、52歳の時にオーストリアを排除し、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が誕生しました。
この実績を前にして、これまで反発していた議会もビスマルクを支持、一枚岩となったプロイセンは、更なる野望に突き進んでいきます。
ビスマルク52歳の時でした。

オーストリアに勝利したのち、ビスマルクは次なる野望に燃えていました。
ドイツ統一です。

「もしドイツが今世紀中に、その国民的目標を達成するとすれば、それだけで偉大なことだと思う
 それが5年、いや10年のうちに達成できたとすれば、神の恵みとしか言いようがない」

しかし、この野望は、5年も待たずに達成されることとなります。

オーストリアに勝利した1866年、ビスマルクはバルト海のリューゲン島で3か月の休養を取りました。
この時、激務とストレスが原因で、神経痛を患っていたのです。
そんな状態でも、ビスマルクは暴飲暴食を繰り返し、医者の警告を無視します。
医者に止められていた大好きなコニャック入りソーダをコッソリ妻のヨハナに持ってこさせたといいます。
休養十分で、公務に復帰したビスマルクは、悲願のドイツ統一には乗り越えなければならない二つの壁がありました。
一つ目の壁は、南ドイツ諸国(4か国)の抵抗。
元々この地域はプロテスタントが主流の北ドイツと違ってカトリックが主流でした。
特に最も多いバイエルン王国が統一に反対していました。
もう一つの壁が、隣国フランスのナポレオン3世です。
南ドイツ諸国ともめれば、付け入るスキを与えかねない・・・。
フランスを何らかの方法で黙らせておくことが必要です。
1870年、ビスマルクにこの問題を一気に解決する絶好の機会が訪れました。
それは、ドイツでもフランスでもなくスペインの次期国王をめぐる争いでした。
その候補の一人がレオポルト!!
プロイセンの分家に当たる家柄でした。
ビスマルクはレオポルトを応援します。
これに危機感を持ったのが、ナポレオン3世です。
レオポルトがスペインの王になった場合、フランスの東と南をプロイセン王家が固めることになってしまう・・・
戦争が起きれば、挟み撃ちにあう危険な状況です。
そこでナポレオン3世は、プロイセン国王ヴィルヘルム1世に対し、戦争も辞さない態度で猛抗議!!
フランスの圧力の前に、プロイセンは動揺・・・ということは全くなく、それはビスマルクの想定内でした。
彼のシナリオ通りに事は進行していました。
フランスに揺さぶりをかける何らかのけん制をしようとしたときに、「スペイン王位継承問題」は”使える”と、判断したのです。
しかし、ナポレオン3世の要求は、レオポルトの候補辞退だけにとどまりませんでした。
「今後一切、プロイセンと関係する家柄からのスペイン国王候補を承認するな」と迫ったのです。
これに対しビスマルクはナポレオンを挑発し、フランスの方から戦争を仕掛けるべく手を打ちました。

ビスマルクは、フランスからの要求の電報を、新聞に発表します。
しかしそれは、嘘にならない範囲で巧妙に書き換えられていました。
フランスがプロイセンに不当な要求をしているという印象が際立つように、短くまとめられていました。
さらにその要求を、国王は毅然とはねのけ、今後の面会を拒否したことも強調されました。
生地が出るや否やプロイセンの国民はフランスに猛反発、南ドイツの人々でさえプロイセン国王を支持しました。
開戦が秒読みになった時、ビスマルクはモルトケに言いました。

「準備はよろしいかな?」
「もちろん!!」

1870年7月19日普仏戦争勃発
モルトケはまたも鉄道を活用し、軍を変幻自在に移動させます。
そのスピードも、輸送できる兵力も、オーストリアとの戦争のわずか4年で3倍となっていました。
さらにモルトケは、最新鋭のクルップ砲を戦場に投入!!
フランス軍の大砲が青銅で作られていたのに対し、クルップ砲は鋼鉄製、火力も飛距離も圧倒的でした。
プロイセン軍は、ナポレオン3世を捕虜にするという大戦果を挙げるのです。
こうして戦局を有利に進めながらも、ビスマルクはドイツ統一のため南ドイツ諸国との交渉を続けていました。
ビスマルクがこだわったのが、南ドイツ4か国の要請を受ける形でドイツ統一するという形でした。
併合を力任せにやってしまうと北ドイツ連邦の君主国はどうなるかという問題が発生します。
あくまでも彼が目指していたのは、君主国の連合による形のドイツだったのです。
そうすれば、プロイセン国王を温存する形でドイツ統一が実現できる!!

プロイセンによるドイツ統一に最後まで抵抗したのはバイエルン国王・ルードヴィヒ2世でした。
芸術に造詣が深く、多くの名建築を残した国王は、激しい浪費癖でも有名な君主でした。
その性格に目をつけたビスマルクは、ルードヴィヒ2世に多額の援助を約束します。
資金繰りに困っていたルードヴィヒ2世は遂に折れ、統一に同意します。
ビスマルクの援助によって、ルードヴィヒ2世が建築したのが、ドイツを代表する城・ノイシュヴァンシュタイン城です。
その美しい景観、内装を見ようと、今も年間150万人以上の観光客が訪れ、南ドイツを代表する名所となりました。

1871年1月18日、ドイツ皇帝即位式を決行。
場所はなんとベルサイユ宮殿!!
ここにプロイセン軍の大本営が置かれていました。
南ドイツとの合意を取り付けて2か月・・・情勢が変わらないうちに、ドイツ統一の既成事実を作ろうと急いでこの日に決めました。
しかし、即位式の直前、またもビスマルクを悩ませる問題が・・・

「私はドイツ皇帝になどなりたくない!!」byヴィルヘルム1世

ドイツ統一を望んだ張本人が、「プロイセン国王」の称号にこだわり、「ドイツ皇帝」を渋ったのです。
ビスマルクは何とか説得し、式場へ連れていきます。
こうしてドイツを統一する皇帝が即位。
ヨーロッパの大国に引けを取らない国が誕生しました。

「この皇帝出産は難産だった
 国王というものは、気まぐれな欲望を抱くものだ
 私は爆弾になって建物全体を粉々にしてやろうと何度思ったことか」byビスマルク

皇帝の即位から4か月後、ビスマルクはフランスと講和を結び、戦争を終えます。
首相に就任してから9年・・・56歳の時でした。

オーストリアとフランスに勝利し、ドイツ統一を果たした2年後の1873年に戦勝記念塔が完成、除幕式はビスマルクによって行われました。
ビスマルクは、生まれたばかりのドイツを近代国家にさせようと次々と政策を行います。
ドイツの最高裁判所や、中央銀行を設立、貨幣をマルクに統一し、経済や法律の基盤を整備していきます。
戦争に負けたフランスから莫大な賠償金を得たこともあり景気は絶好調、工業もますます発展します。
統一から20年後には、鉱工業の生産高がほぼ倍増します。
ドイツは世界有数の工業大国へとなっていきます。

そしてビスマルクは外交でも手腕を発揮します。
オーストリア=ハンガリー、ロシアなどの国々と複雑に同盟を結びました。
後にビスマルク体制と呼ばれる同盟で、各国の勢力がバランスを保つ仕組みを作り上げました。
1873年、そんなドイツを訪れた日本人がいます。
明治新政府の岩倉使節団です。
彼等を歓迎したビスマルクはこう語りかけます。

「諸君らは、各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前にすぎず、現実は弱肉強食である」

この時、明治政府のリーダー大久保利通が西郷隆盛に送った手紙が残されています。

「ビスマルク モルトケ大先生を生んだドイツこそ、我が理想とする国である」by大久保利通

この頃には、ビスマルクの息子も政界に入り、父を支えるようになっていました。
しかし、ドイツ統一から17年後、1888年、72歳の時ビスマルクの政治生命に暗い影が・・・
皇帝ヴィルヘルム1世が90歳で亡くなりました。
3か月後に即位したのは孫のヴィルヘルム2世・・・
73歳のビスマルクと若き29歳のヴィルヘルム2世では、考えが合いません・・・
2人の関係は日に日に悪くなっていきます。

「10年間にわたり実直かつおそれることなく仕事を続けたら、敵はたくさん増えるのに古い友人を失ってばかりで新たな友人もできません」byビスマルク

1890年3月、74歳の時、遂にビスマルクは皇帝に辞表を提出・・・27年務めた首相から引退しました。
それから4年後の1894年、ビスマルクを生涯支えていた妻ヨハナ死去・・・70歳でした。

「私に残っていたもの それはヨハナであり48年間を振り返れば心に満ちてくるのは感謝だけだった」

4年後、1898年7月30日、ビスマルクは83歳でその生涯を終えます。

2012年、そのビスマルクの肉声が見つかりました。
アメリカの発明家エジソンが、ビスマルクが74歳の時に声を録音させたものです。
唯一残るビスマルクの声は、息子への助言でした。

「仕事しろ 食事しろ 何事もほどほどにしなさい
 特に酒には気を付けるように
 父親より息子への助言だ」

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ヨーロッパの名門・・・ハプスブルク家のマリア・テレジア・・・。

オーストリアの首都にある世界遺産・シェーンブルン宮殿。
フランスのベルサイユ、ロシアの冬宮と並んで、世界の三大宮殿の一つとされています。
ハプスブルク家の栄華を現代に伝えるこの宮殿を建てた人物こそ、マリア・テレジアです。


16人の子供の母親であり、宮殿には末娘マリー・アントワネットが7歳だった時、当時6歳だったモーツァルトが演奏に来た部屋が残っています。
子供たちを愛するとともに、テレジアには大きな使命がありました。
君主として国民の幸せと国の発展を・・・!!
国の近代化に成功し、オーストリアでは今でも国母として称えられています。

ハプスブルク家の領土を狙う急先鋒は・・・
プロイセンのフリードリヒ2世、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していました。
マリア・テレジアは、人生の多くをこの男との戦いに費やします。
戦いに勝利するために、さっそうと馬にまたがります。
そして・・・300年以上も敵対していたフランスと手を組む・・・外交革命をやってのけます。


中世の13世紀から20世紀にいたるまで、ヨーロッパで権勢をふるったハプスブルク家。
双頭の鷲の紋章で知られています。
マリア・テレジアが生れた頃には、オーストリア、ハンガリーなど中欧ヨーロッパを支配するハプスブルク帝国を築いていました。
その帝国を引き継いだマリア・テレジア・・・
敵が突然襲い掛かってきました。
周囲がためらう中、戦いに乗り出すのです。

1717年、マリア・テレジアは、ハプスブルク家の長女として生まれました。
王女としての教養を身に着けるために、ピアノ、ダンス、外国語、宗教を学びました。
6歳の時に、小国・ロートリンゲン王子、フランツ・シュテファンと出会います。
9歳年上のこの少年に恋心を抱き・・・テレジア1736年、19歳の時・・・初恋のフランツと結婚しました。
この結婚に期待していたのが、父・カール6世でした。
早く後継ぎとなる男の子が欲しい!!
ハプスブルク家の君主は代々男性・・・しかし、カール6世には男子がいませんでした。
そこで、テレジアの子に期待したのです。
すぐに二人の間に子供が・・・しかし、娘・・・2人目、3人目も娘でした。
カール6世は失望してしまいます。
そして4人目を身ごもっていた時・・・カール6世急死。

1740年、23歳の時、突然の父の死によって・・・長女だったテレジアは、ハプスブルク家の君主に・・・!!
しかし、周辺諸国は女性の君主を認めようとはしませんでした。

「鷲が死んだので羽根をいただこう・・・」

王女としての教養しか身に着けていなかったテレジア・・・
国を統治する経験も知識もありません。
しかし、突然財政や軍隊に向き合わなければならなくなりました。
突然、プロイセンがハプスブルク家北部のシュレージェン地方に侵攻!!
帝国内で、最も資源の豊富な工業地帯でした。
プロイセン軍を率いていたのは、国王・フリードリヒ2世!!
強大な軍事力を背景に、シュレージェンを占領してしまいました。
テレジアは、父の時代からの側近たちと緊急会議を開きます。
しかし・・・誰も口を開こうとはしない・・・。
沈黙が続きます。

皆、戦争をしても勝ち目がないと思っていたのです。
しかし、テレジアは・・・
「父から譲り受けた領地を割譲することはなりません!!
 シュレージェンを失うくらいなら、ペチコートを脱いだ方がましだわ!!」
当時、身分の高い女性がスカートの下に履いていたペチコートを脱ぐということは、並々ならぬ覚悟でした。
シュレージェン奪還の決意!!
しかし、事態はさらに緊迫!!
周辺諸国が攻め寄せてきます。
そんな中・・・テレジアは、乗馬の練習を始めました。
側近たちはわけもわからずオロオロ・・・
しかし、ほどなくして、テレジアは、颯爽と馬にまたがってハンガリーに現れました。
長い対立の末に、支配下に置かれていたハンガリーでは、いまだにハプスブルク家に対する反発が強かったのですが・・・それでも事態を切り抜けるには、ハンガリーの軍事力に頼るしかない!!
そこで、馬を愛するハンガリー人の信頼を得ようと乗馬を特訓したのです。
テレジアを見たハンガリー人たちは・・・
「女王万歳!!我らが国王万歳!!」
ハンガリーには、「国王の騎行」という騎馬民族国家ならではの儀式がありました。
ハンガリー各地から持ち寄った土で作った丘を国王が剣をもって駆け上がり、「どこから敵が雇用とも国を守る!!」と、宣誓するのです。
この儀式に望むために訓練をしたのです。

ハンガリーを味方につけたテレジアは、攻め寄せる周辺国に立ち向かいます。
このオーストリア継承戦争は、8年にわたって続きました。
結局、プロイセンにとられたシュレージェン地方を取り返せなかったものの、テレジアはハプスブルクの後継者として周辺国に認められたのでした。

シェーンブルン宮殿を拠点に、テレジアは国の改革を進めていきます。
8年に及ぶ戦争の経験を踏まえて、いかにハプスブルク家が時代に後れた国であるのかを痛感したのです。
テレジアは、徹底した近代化に乗り出します。
最初に手を付けたのが、人材の登用でした。
従来のように身分を気にすることなく優秀な人材を抜擢!!
こうして抜擢した人材と共に、あらゆる改革に挑んでいきます。

軍隊・・・
それまで戦いがあるときには、農民や傭兵を使っての寄せ集めの軍隊でしたが・・・
正式な軍を作ることに資、士官学校を設立!!
貴族も農民の平等に扱います。
兵たちの食堂も作り、栄養価の高い食事を提供、傷病兵の病院も作ります。
しかし、軍を辞していくためには多額の費用が・・・

税制改革にも取り組みます。
多民族国家のハプスブルク帝国では、各地域が勝手に税率を決め、国に納める額も自分達で決めていたので、
財政が不安定でした。
そこで、税率を一本化し、中央から役人を派遣し、税の徴収に当たらせます。
これによって国の財政が安定し、地域差による不公平感も無くなります。

生産性の向上にも・・・。
当時労働者は、寝ているとき以外働いているというほど長時間仕事場にいました。
しかし、実際は仕事を中断し、遊んだりお酒を飲んだり・・・
そこで、休憩時間を設けます。
人々の集中力が高まっていきます。

一方、家族との時間を大切にするテレジア。
シェーンブルン宮殿は、もともとウィーン郊外の別荘でしたが、政務をとりながら家族と暮らせるように整理したものです。
子供は、息子5人、娘11人の合わせて16人。
宮殿内に劇場を設け、子供たちが披露する声楽やバレエを見るのが、一番の楽しみでした。

テレジアは、子供たちの家庭教師を自ら選びます。
息子には帝王学を、娘には様々な教養を・・・
しかし、結婚に関しては、恋愛結婚は認めませんでした。
政略結婚によって、周辺国との関係を強化する必要があると考えていたからです。
ハプスブルク家には、古くから娘たちを政略結婚させる伝統がありました。
子供は資本で、それを政治に投資するという感覚です。
結局、テレジアの娘たちも犠牲にならざるを得ませんでした。

テレジアには忘れることのできない屈辱がありました。
プロイセンのフリードリヒ2世にシュレージェンを奪われたことです。
テレジアは、再び宿敵・フリードリヒと戦います。
シュレージェン奪還の秘策は・・・フランスやロシアとのプロイセン包囲網でした。
そしてロシアの女帝エリザベータ、フランスのポンパドゥール夫人を味方につけることに・・・ペチコート同盟を作り上げたのです。
しかし、この同盟成立への道程は容易なものではありませんでした。
というのも・・・フランスとハプスブルク家は300年以上の敵対関係にありました。
しかも、フランスはプロイセンと協調関係にあったのです。
フランス国王・ルイ15世が、やすやすと同盟を結んでくれるはずはない・・・
そこで、フランスにスパイとして送り込まれたのが、側近・カウニッツ伯爵!!
テレジアは、カウニッツと二人で秘密裏に動き始めます。
フランスのベルサイユに赴いたカウニッツは、頻繁に舞踏会を催します。
諜報活動に励むカウニッツ。
そして逐一テレジアに報告!!
6年後・・・ルイ15世の公妾で、国政を取仕切っていたポンパドゥール夫人を味方につけることに成功します。
彼女は女性を蔑視するフリードリヒ2世に反感を持っていたのです。
ポンパドゥール夫人は、ルイ15世を説得!!
遂に、ハプスブルク帝国とフランスとの同盟が成立しました。
この大転換は、歴史上外交革命と言われています。

家庭を大切にし、モラルを重んじるテレジアにとって、ルイ15世の愛人の存在を認め、力を借りるのは耐え難い事でした。
しかし、シュレージェンを取り戻すには、こうするしかないと判断し、行動したのです。

テレジアはその一方で、ロシアの女帝エリザベートに手紙を送ります。
エリザベータは快諾。
彼女も女性を蔑むフリードリヒを苦々しく思っていたのです。

こうして三人の女性によるペチコート同盟が成立し、プロイセン包囲網が完成したのです。
そして・・・1756年、39歳の時に、七年戦争が始まります。
ハプスブルク帝国を率いたのはダウン将軍。
テレジアが抜擢した人材のひとりでした。
ダウン将軍は次々とプロイセン軍を撃破!!
テレジアは・・・
「私は心の奥底から、本当に嬉しい気持ちをあなたに伝えないではいられません。」
そして、ロシアとハプスブルク帝国との連合軍を前に、フリードリヒ2世惨敗!!
彼自身、胸部に弾丸を受け、タバコ缶のおかげで九死に一生を得ていました。

テレジアは勝利を確信!!
その矢先、信じられないことが・・・
ロシアの女帝・エリザベート死去。
代わって即位したピョートル3世は、フリードリヒ2世の崇拝者でした。
そして・・・テレジアとの同盟を破棄し、プロイセン側についたのです。
プロイセンは、崩壊寸前で踏みとどまったのです。
一方、ハプスブルク帝国も、戦争継続の余力は残っていませんでした。
長引く戦いで、国力は衰退し、国民の暮らしはひっ迫し、食料不足に陥っていました。 
テレジアはついに、シュレージェンの奪還を断念。
多くの人が犠牲となった七年戦争は、1763年、46歳の時に集結。
戦後、テレジアは・・・
「私は戦争の打撃を嫌というほど体験しましたから、もう戦争などしたくはありません。」

結局、シュレージェンを取り戻せなかったばかりか、多くの犠牲者を出し、国力も衰退してしまった・・・
しかしテレジアは今もなお”国母”として慕われています。

七年戦争終結から2年後・・・最愛の夫・フランツが亡くなってしまいました。
「わたくしの幸せな結婚生活は、29年6か月6日。
 335か月、1540週・・・
 突然彼は、私の手から奪い取られてしまった。」
テレジアはその後死ぬまで、喪服を脱ぐことはありませんでした。
伴侶がいなくなったテレジアは、一人で子供たちと向き合います。

24歳になった長男・ヨーゼフ2世にある程度の国政を任せることにしました。
幼いころから帝王学を学んできたので、戦争で悪化した国家財政を直すために歳出削減を始めます。
休廷の馬を1200頭から400頭。
「馬の世話をしていた飼育係たちはどうなったの?
 まさか、彼らを路頭に迷わせるつもりではないでしょうね?」
しかし、ヨーゼフは聞く耳を持ちません。
それどころか、儀式や祝祭など、自分が必要でないと思ったものは廃止してしまいます。
歳出削減を推し進めていきます。

テレジアとヨーゼフの対立を決定的にしたのがポーランドの分割でした。
ヨーゼフは、テレジアの宿敵・フリードリヒ2世を崇拝していたのです。
そのフリードリヒの呼びかけに応じて・・・プロイセン、ロシアと共に3か国でポーランドを領土を略奪してしまったのです。
”国力を回復するためには、新しい領土が必要!!”というヨーゼフの考えがありました。
勢いに乗ったヨーゼフは、隣国・バイエルンの王が亡くなったのを機会にバイエルンへ侵攻。
テレジアは必死に息子を諭します。
「バイエルンに要求を突きつける正当な理由など、何もないではないですか??」

もう・・・ヨーロッパの平安を乱さないでほしい・・・

テレジアが危惧した通り、ヨーロッパに再び戦火が・・・!!
フリードリヒがハプスブルクを攻撃してきたのです。
フリードリヒは、好戦的なヨーゼフは、いずれプロイセンに悪影響を及ぼすと思ったのです。
戦いが始まりましたが・・・双方決め手にかけ膠着状態・・・
兵士たちは疲弊するばかりでした。
そんな中・・・フリードリヒ2世のもとへ一通の手紙が・・・
送り主はテレジア。
「自分の子供を無理矢理戦場に連れて行かれた女性たちのことを、私はいつも考えてきました。
 戦争とはなんと醜い営みなのでしょう。
 人間性に対しても、幸せに対しても・・・」
宿敵に対し、和平を申し出ました。

フリードリヒ2世はこれを受け入れました。
テレジアは、人命が失われ、経済が崩壊していく戦争を、なんとしても避けたかったのです。
その思いから、息子に内緒で手紙を送り、ヨーロッパに平和をもたらしたのです。

テレジアを悩ませたのは、ヨーゼフだけではありませんでした。
中でも手を焼いたのが・・・フランス国王・ルイ16世に嫁いだ末娘、マリー・アントワネット。
テレジアは浪費を重ねる噂しか聞こえてこない娘に対し、苦言を呈していました。

「わたくしは、多くの新聞が何度も書き立てていることについて、言わざるを得ません。 
 それはあなたの華美な装飾品についてです。
 髪が90センチもあり、羽根やリボンで飾り立てているそうではないですか。
 もしあなたが改めなければ、待っているのはただならぬ不幸だけ。」

一人の母親としては、ジレンマを抱え続けていましたが、国民のためには様々な改革を・・・!!
当時、人々を死に追いやる天然痘が流行しました。
そこでテレジアは、予防接種のために自ら現場に赴きます。
他国に先駆け義務教育を導入し、帝国の全域に小学校を設立します。
教育が生活の改善、国力のにつながるとしたのです。
当時の考え方では革新的でした。

「やがてこの子たちが成長して、教養を身に着けた成人となって、国家を支えてくれるのだわ。」

母であり、君主であり続けたテレジア。
「過ぎ去った幸せを思い浮かべているの。
 その幸せをあまりにも大切にしなかったと今更ながら後悔したりもしているけれど、今、私が早く来ないかと待ち望んでいるのは、棺と死に装束だけ。」

ハプスブルク帝国の君主となって40年・・・
1780年11月29日、マリア・テレジア死去・・・63年の生涯でした。


テレジアの死から3か月後・・・
一枚の版画が作られました。
「テレジア最期の日」
子供たちに囲まれ、息を引き取る様子が描かてれいます。
テレジアの死を悼み、多くの人が手に入れられるように版画にしたと言います。
23歳という若さで大国を背負ったテレジア。
生涯をかけて国を守り抜き、近代化へと導きました。
その人生は、国民を想い、国を育てるという愛に満ち溢れたものでした。
テレジアは、即位したとき、君主としての決意をこう述べていました。

「私は、最期の日に至るまで、誰よりも慈悲深い女王であり、必ず正義を守る国母でありたい。」




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感想(2件)


前にやっていた番組の再放送ですね。

大河ドラマが”八重の桜”だからアンコールでやってくれたのでしょうか?
とってもびっくりな内容です。

1868年~69年にかけて、戊辰戦争がありました。
新政府軍(薩摩・長州など)VS旧幕府軍(会津藩など)の壮絶な戦いです。
1年半に及ぶ日本近代史最大の内戦でした。

松平容保を含む東北諸藩は無念の降伏をしたのでした。
しかし・・・ひょっとしたら旧幕府軍が勝って・・・明治維新が簡単になされなかったかもしれない可能性が出てきました。

ドイツで・・・
ビスマルク時代の東アジア政策に関する外交文書が発見されたのです。
その外交文書は、戊辰戦争の最中、中日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントからプロイセン宰相・ビスマルクに宛てられたものでした。

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その内容は・・・会津藩・庄内藩が、蝦夷地をプロイセンに売却しようとしている文書だったのです。
会津・庄内藩は、軍事支援の見返りに、北海道を売り渡す計画していたのでしょうか???
秘密交渉があったことは伝えられていましたが、実際に証拠が出てきて。。。
そこには、プロイセンの北海道植民地化計画がありました。
知られざる密約とは???

会津藩の研究は、お城も落城しているので大変難しく・・・
資料は落城当時燃やしていたり、第2次世界大戦の東京大空襲で多くが焼失してしまいました。
情報はほとんどありません。

ドイツ・フライブルクで・・・
軍事に関する公文書館があります。
ここに・・・戊辰戦争の最中、駐日プロイセン公使・ブラントから宰相ビスマルクに送られた手紙が保管されています。
日本の会津・庄内藩の領主が、蝦夷地を売却したい・・・と。。。内密に交渉したというものです。
この2藩の状況を考えると、間違いなく有利な条件で得ることができる・・・と、書かれていました。

当時・・・蝦夷地警備は、東国諸藩が行っていました。
会津藩は網走・紋別周辺を、庄内藩は、天塩・留萌周辺が領地でした。
自分達の領地を譲渡しよう・・・というそして・・・プロイセンとの外交ルートを作ろうとしていたのです。
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そんな日独関係は・・・幕末の横浜に資料が残っていました。
漫画雑誌「ジャパン・パンチ」によると・・・。
混乱に乗じて日本を取り巻く列強が書かれています。
薩長についたイギリス。
旧幕府軍にはプロイセン。。。
薩長土肥VS奥羽越列藩同盟の後ろに諸外国がついていたのです。
そして・・・東北は一つになって南からやってくる新政府軍に向かっていました。

いつの時代も小国の内戦には大国の干渉がつきもので・・・
そして・・・今の日本と違って、攘夷!攘夷!と言っていても国=藩だったので・・・
日本国一丸ではありませんでした。

日本の一部割譲???・・・それは、明治になってからは封印された過去だったのです。

欧米列強の思惑は???
イギリス⇒日本の植民地化は無理だ。
       生糸を貿易による利益を出せる国を作りたかったのです。
       幕府は駄目・・・薩摩は外国と貿易をしたがっている!!
フランス⇒イギリスと仲が悪く、面白くないので旧幕府側につきます。
そこで迷っていたのが・・・プロイセンでした。

出遅れたプロイセンが選んだ相手・・・それが会津・庄内だったのです。
プロイセンの狙いは、海運業保護の基盤をつくることでした。

この両者を結びつけたのが、ヘンリー・シュネル・・・プロイセンの将軍(ジェネラル)で、会津に鉄砲の使い方などを教えていました。
そして・・・ビスマルクに手紙を書いたブラントの元で働いていたのです。

1868年戊辰戦争が始まると本国に帰ると帰国願いを出しています。
しかし・・・本国には帰らずに。。。会津若松に。
日本の妻を与え、”平松武兵衛”という名も与えました。
シュネルが頻繁に通っていたのが新潟。
ここには、東北で戦う旧幕府軍に武器弾薬が陸揚げされていたからです。
シュネルは・・・港に近い勝楽寺で武器の販売を行っていました。

この頃・・・アメリカでは南北戦争が終結したばかりで、世界で武器弾薬が余っていました。
それが日本へ流れてきていました。
その数、小銃だけで70万丁とも言われています。
この時代、新しい武器が次々と登場しています。
連射式銃・ミトラィユーズ、ガトリング砲・・・それらを会津に結びつけたのでした。
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ブラントからビスマルクに送られた手紙・・・
その背景には全く違う事情もあったようです。
プロイセンが北海道を先に狙っていたような・・・そんな節もあります。
日本での権益拡大を思っているブラント・・・
「プロイセンは蝦夷地に基地の獲得を考えるべきであり、今すぐ交渉を始めるべきです。」
駐日公使ブラントによる北海道植民地化計画とは・・・
ブラントは、戊辰戦争が始まる前・・・2度にわたって北海道を調査しています。
1回目は1865年9月・・・2度目は1867年8月。
ゲルトナーなる人物と共に、伊能忠敬の地図でまわっています。

ブラントによると、北海道の魅力は???
「蝦夷地は気候が北ヨーロッパと酷似しており、土地は広大で水は豊か、農業牧畜に適している。
 蝦夷地は、5000人の海兵隊により、簡単に手に入れることができる。」

しかし、海軍省は、ブラントの提案を却下します。
そこで・・・土地を開拓し、実質的に支配し始めました。
それを行ったのがゲルトナー・・・農業専門家でした。
寒冷で稲作には向かない蝦夷地・・・
ここを農業に適していると、西洋農法を初めて持ち込みました。
北海道の農業の原点となります。
「蝦夷地は肥沃な平地で、開墾するには容易で、農地として高い価値を持っている。」

そこに大きなチャンスが!!
1869年1月、榎本武揚による蝦夷地共和国が成立。
ゲルトナーは条約を結びます。
凾館近郊の土地七重町、広さ300万坪・1000haの土地を99年間借りるという内容でした。

ゲルトナーは私財で本国から色々な種を手に入れ・・・ワインも栽培。
ゲルトナーが特に大切にしていたのがブナ林。
故郷のドイツを思ってのことだったのでしょうか???
しかし、1869年函館戦争終結に伴い、榎本武揚の北海道共和国は5か月で消滅。
新政府は、ゲルトナーに契約解除を申し入れます。
日本の一部を99年間貸し付けるのは、受け入れがたいものだったのです。
新政府から賠償金(ヨーロッパから農業関係のものを輸入したお金も足して)として6万2500ドル(約18億円)を引換にして・・・
そして・・・それを調べたアメリカが・・・クラークをよこしたのです。

bisumarukuこの北海道を手に入れることに対して、宰相ビスマルクは???
「外国人にはきわめて危険な日本の政治状況下で、領地取得は小規模とはいえどちらの藩のものでもこの交渉を推し進めることは推薦いたしかねる。
 領地獲得は、他国の公使達にねたみ、不信感を持たれる恐れがある。
 同時に内戦に関わっている各藩に中立的立場を犯しうると考えられる。」
と・・・否定的でした。

初めてドイツ統一を成し遂げた熱血宰相ビスマルク。
統一の陰には、各国との協調関係を最も重視していたことがあります。

当時ヨーロッパでは・・・ドイツはフランスとの戦いが避けられない状況にありました。
普仏戦争です。
ヨーロッパが緊張状態にあったので余裕がなかったと言えます。
また、ビスマルクは、アジアの植民地獲得に消極的でした。
それよりも、ヨーロッパの政治的安定を望んでいました。
ビスマルクがこの断りの手紙を書いたのは・・・1868年10月8日・・・。
奇しくも新政府軍が会津城下に・・・この日・・・飯盛山で悲劇が。。。
ドイツが蝦夷地獲得に躊躇している間に、会津・庄内は、屈服してしまったのです。

シュネルは、会津落城の半年後、アメリカのカリフォルニアへ・・・。
ここに140年前、敗れた会津の人が移り住んでいました。
当時の新聞には・・・
「内戦で、ミカドの軍と戦って敗れた3家族が、日本から移民としてやってきた。」
引率してきたのは、プロイセン人のシュネル。。。
その家が今も残っています。
wakamatu


この地・若松コロニーで、お家再興を目指して働いたのです。
しかし、持ち込んだ種は気候の違い、水不足で枯れ・・・
ただ今も、彼らが植えた桑の木が一本残っています。



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