1945年・・・なぜ日本は焼け野原になったのか?
アメリカ軍の特別資料室でその真相が語られた貴重なテープが見つかりました。
太平洋戦争で、日本への空爆を実行したアメリカ空軍幹部の聞き取り調査の記録でした。

「我々は日本人が根絶やしになるまで爆撃し続けることが出来た
 どれだけ耐えられるものか」byエメット・オドンネル将軍

東京大空襲を実行した責任者カーチス・ルメイ将軍の肉声も見つかりました。

「過激なことをやろうとした
 日本人を皆殺しにしなければならない」

答えた空軍の幹部は216人・・・戦勝国の軍幹部が大規模に調査された極めて珍しい記録でした。

1945年、敗色濃厚な日本への無差別爆撃・・・わずかな期間で、40万人もの犠牲者を出しました。
そこに突き進んでいった彼らの思惑や野望、本音が赤裸々に語られていました。

「空軍に素晴らしいチャンスが来た」byローリス・ノースタッド将軍

「航空戦力のみで戦争に勝利できる」byエメット・オドンネル将軍

空軍は、ある航空兵器に命運を託していました。
原爆を凌ぐ開発費をかけたB-29!!
しかし、思い描いた戦略はことごとく失敗・・・
アメリカ軍内部で突き上げられ、追い込まれていきます。

「空軍大将は恥ずかしいと全員に怒っていた」byローリス・ノースタッド将軍

「B29を持つ空軍は、深刻な非難にさらされた」byヘイウッド・ハンセル将軍

「自分のクビがかかっていた」byカーチス・ルメイ将軍

アメリカ軍の中では、空軍と陸海軍との激しい対立が起きていました。
「しかも、空軍は陸軍の下部組織で、極めて弱い立場でした。
 陸海軍に空軍力を認めさせるために、戦争で成果を残さなければならなかった」
アメリカ軍に残されている機密資料を調べていると、空軍内部で恐ろしい計画が進められていたことが分かりました。
ガス攻撃の計画書です。
空から毒ガスを撒き、1400万人を無差別に攻撃することまで計画されていました。

「一番の目的は、人口の中心部を破壊することだった
 しかし、それについては決して公表しなかった」byバーニー・ガイルス将軍

どうして日本は焼き尽くされることとなったのか・・・??
日本への無差別爆撃の真相とは・・・??

アメリカ・コロラド州・・・ロッキー山脈の麓に広がる町・・・コロラドスプリングス・・・
ここに、アメリカが誇るエアパワー・・・空軍の士官学校があります。
5月・・・卒業式が行われていました。
全米から成績優秀者が集まるこの学校・・・卒業生1000人が、毎年幹部候補生として空軍に入隊していきます。
現在32万人で構成されている巨大組織・アメリカ空軍・・・
世界最強のこの空軍が設立されたのは、戦後の1947年・・・第二次世界大戦中、アメリカに独立した空軍は存在していませんでした。

この士官学校の入り口に、アメリカ空軍の独立を成し遂げ、空軍の父と呼ばれている男の銅像があります。
ヘンリー・ハップ・アーノルド・・・第二次世界大戦中、陸軍の下部組織だった陸軍航空軍司令官です。
アーノルドが命じたのは、東京大空襲・・・10万人もの人々が犠牲となりました。
さらに、戦争末期、日本の60以上の都市を焼夷弾で徹底的に爆撃し続けました。
終戦までのわずかな期間で、40万もの人々が犠牲となりました。
陸軍航空軍は、この空爆の戦果を足掛かりに独立したのです。

「この国を守るため、空軍は陸海軍の下に甘んじてはいけない
 偉大なる空軍組織が欠かせないのだ」byヘンリー・アーノルド将軍

アーノルドは、したたかな軍人だったといいます。
いつも笑顔で、政治的な駆け引きがうまく、上へ上へと昇進していきました。
若き日のアーノルド・・・1907年に陸軍の中に初めて航空部が作られたころからのパイロットです。
飛行機に憧れ、自ら航空部を志願・・・ライト兄弟から直接操縦方法を教わりました。
しかし、所属した航空部は、長い間敵の偵察や、兵器の輸送など、陸軍の支援が中心の弱小組織でした。

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アーノルドは、1938年、航空組織のTOPに・・・!!
その当時の世界各国の空軍力を航空機の数で比較すると・・・
ドイツ・・・・・・・・8000
日本・・・・・・・・・4000
イギリス・・・・・・3900
イタリア・・・・・・3000
フランス・・・・・・2000
アメリカ・・・・・・1200
と、アメリカは6位にとどまっていました。

当時、世界最強はドイツ空軍!!
メッサーシュミットなどの戦闘機をヒトラーのもとで次々と開発し、量産していました。
一方、アーノルド率いる航空隊は予算が少なく、多くは旧式の航空機のままでした。
戦争が始まる前は、郵便配達までさせられていました。
1939年、航空軍は、最新の爆撃機をどのくらい保有していたか??
たったの14機でした。
最終的には、第二次世界大戦中にアメリカは何千機も生産しますが、その時点では14機だけだったのです。
1941年12月8日、アメリカ・ハワイの真珠湾に、日本の戦闘機が突如襲来しました。

「アメリカは戦争を日本と開始する」byルーズベルト大統領

当時、アーノルドは開戦をどう受け止めていたのでしょうか?
空軍内に残された史料を探すために、コロラド州のアメリカ空軍士官学校に・・・!!
ここには、歴代の空軍幹部が残した内部文書や遺品などが保管されています。
中でも特別資料室は、歴史的な価値が高いものが集められています。
空軍幹部が何を考えていたのか??
その中に、肉声テープが残っていました。
録音された1960年代から1度も再生されていません。
テープの数は、207本・・・時間にして300時間を超えていました。
1960年代から軍内部で行われた聞き取り調査の記録・・・
協力したのは、空軍将校206人・・・アーノルドは既に死去していましたが、彼を支えた古参の空軍参謀や、日本への空爆を指揮した将軍たちが答えていました。
空軍史を作るために行われましたが、担当者が途中で死亡・・・以来、半世紀埋もれたままになっていました。
しかし、テープは著しく劣化が進み、当初聞くことが困難でした。
一本、一本修復していくことで、およそ50年ぶりに肉声を再現することが出来ました。

アーノルドの参謀だったローリス・ノースタッド将軍・・・大戦当時のアーノルドの言葉を語っています。

「アーノルドは、仲間を集めていった
 ”空軍に素晴らしいチャンスが来た”
 我々はこれまでずっと、誰か声を聞いてくれと求めてきた
 独立した空軍を夢見てきた
 君たちとその基礎を築くのだ
 この戦争で空軍には無限の可能性がある」

日本への空爆を指揮したエメット・オドンネル将軍・・・空軍の力を示すための戦争だったと明かしました。

「我々は、航空戦力だけで戦争に勝利できると考えていた
 アーノルドは、空軍独立を貪欲なまでに追い求めていた」

アーノルドは、空軍独立という野望を掲げて、戦争に臨んでいました。

第二次世界大戦に参戦すると、アメリカは軍事作戦を決定する統合参謀本部を設置します。
集められたのは、陸海軍のTOP・・・そこに、アーノルドも加えられました。
しかし、アーノルドは、年齢も階級も一番下でした。
当時55歳だったにもかかわらず、空軍の坊やと呼ばれ、海軍トップからは陸軍の下部組織と相手にされませんでした。

「アーノルドは、列席を許されたが、そこは陸海軍の物で気に入らなかった
 彼らは、空軍をハナタレの新興部門と考え、何も理解しようとしなかった
 彼らは、空軍を軽視しただけでなく、至る所でおとしめようとした」byエメット・オドンネル将軍
 
戦前、陸軍の下部組織だった航空軍の兵力は、陸軍の地上軍17万、海軍14万に対し、わずか2万・・・ 
太平洋を越えて、日本を直接爆撃できる飛行機を持っていなかった航空軍・・・
アーノルドは、直接ルーズベルト大統領に窮状を訴えることで、航空軍の状況を劇的に変えていこうとします。

ルーズベルトは、貧弱な空軍しかないことにただただ驚きます。
実際に、航空軍は世界の空軍の中で6位と伝えられ、ぞっとしました。
航空軍に、かつての100倍の予算を与えたルーズベルトは、日本への報復を強く求めました。

「一刻も早く、日本本土を爆撃せよ!!」

アーノルドは、戦力の整わない中で、賭けに打って出ます。
1942年4月・・・開戦から5か月後、空母に乗っているのは、通常陸上から発進する爆撃機・・・日本に近いところまで運び、空爆を行う奇襲作戦でした。
空母の短い滑走路からの離陸は危険がありました。
さらに、出撃後は空母には戻って来られないため、中国大陸への不時着を想定していました。

この作戦の指揮を命じられたのはジェームズ・ドゥーリトル将軍です。

「私はアーノルドから、クルー選定と訓練を命じられた
 日本を爆撃するチャンスだった
 だが、海に突っ込むかもしれなかった」byジェームズ・ドゥーリトル

しかし、アーノルドは作戦実行に踏み切ります。
16機の爆撃機は、日本本土への初めての空爆を実行!!
目標としたのは、東京の兵器工場でしたが、無関係の場所を爆撃!!
市民50人が亡くなりました。
全ての爆撃機は、中国大陸や海に不時着・・・日本の捕虜になる者や、死者も出ました。
この作戦は、アメリカの歴史に残る無謀な作戦でした。
驚くほどリスクの高い作戦だったのです。
どの飛行機も、大きく壊れ、多くの航空隊員も失いました。
しかし、アーノルドは、アメリカの国民に対して、空軍の力を示すいい機会だと考えたのです。

後に東京大空襲を決行する将軍カーチス・ルメイは、当時の想いを語っていました。

「航空軍の力は、一度も適切に使われず、空軍力を全く知らない陸海軍は航空機を道具として使おうとした
 どの飛行士も、空軍力は国家に貢献する力を持つと気づいていた
 陸海軍に空軍力を認めさせるため、戦争で頑張らなければならなかった」byカーチス・ルメイ

アーノルドは、第二次世界大戦中、猛烈なスピードで航空機の開発を進めていきます。
アーノルドは、獲得した莫大な予算で、年間10万機の航空機を製造。
世界6位から最強のエアパワーへと一気に駆け上がろうとしました。

超大型爆撃機・・・B-29!!
長距離かつ大量に爆撃できるB-29は、空軍の特別な攻撃力となるだけでなく、陸海軍の補佐するだけの立場から、我々を同じ立場へと押し上げてくれる
B-29は、それを可能にする唯一の道だ・・・アーノルド指令書より

目指したのは、太平洋を越え、日本を直接爆撃すること・・・その為、航続距離は、それまでの2倍近くに増やそうとしました。
さらに、当時の軍用機が飛ぶコード・・・5000~7000mの上・・・超高高度1万mを飛行し、敵の反撃を受けずに爆撃できることを目指しました。
どの国も不可能だと諦めた高さ1万mを飛ぶ夢の飛行機の開発・・・
アーノルドは、30億ドル・・・現在の4兆円を超える莫大な予算を投入し、完成を急がせました。

「B-29は、新しく強力な武器だった
 アーノルドは、B-29がアメリカと空軍を救うと本当に信じていた
 もし、我々が日本を叩き続ければどうか、陸軍の力はいらないと言いたいのだ」byエメット・オドンネル将軍

「アーノルドの決断の中で、最も勇気があったのはB-29の採用だ
 彼はB-29の工場を作り、まだ計画が未完成の時点で最重要だと決めた
 非常に大きな賭けだった」byヘイウッド・ハンセル将軍

アーノルドは、どのようにB-29の構想を練り、切り札になると考えていったのか・・・??

アーノルドと構想を考えていた人がいました。
1932年雑誌に寄稿された記事です。
日本との戦争の準備は出来ているか・・・
ここに、B-29の原案といえる航空兵器が書かれていました。
日本を破壊するためには、3万5000フィートの高さを飛び、5000マイルの行動範囲を持つ航空機が必要だ。
日本はそれを恐れている!!
提唱していたのは、軍の最も早い時期からのパイロット、ウィリアム・ビリー・ミッチェル・・・航空軍きっての天才将校でした。
ミッチェルは、第1次世界大戦で実験的で使われていた飛行機を見て、戦争のやり方を変え得る画期的なものと確信しました。
第1次大戦は、数百万の兵士が徹底して殺し合う戦争となりましたが、それを変えられるはずだと考えたのです。
ミッチェルの唱えた航空戦略・・・軍隊同士が衝突する前線を航空機で越える・・・兵器工場など軍を支える敵の中枢を攻撃し、戦争を早く終わらせるというものでした。
それには、陸軍の補佐ではなく、自ら指揮権を持つ空軍として独立すべきだと主張・・・

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当時の若手パイロットたちは、彼を崇拝し、ミッチェルスクールと呼ばれました。

その中で、もっともミッチェルを信奉した愛弟子が、アーノルドでした。

「アーノルドは、ミッチェルから多くの航空戦略を教えられた
 空軍が自らの使命をもっているか、攻撃の指揮をどう執れるかだ」byジェームズ・ドゥーリトル将軍

ミッチェルは、空軍力を競う時代になると、日本が敵として台頭すると予測・・・
太平洋戦争が始まる17年前には、ある予測をしていました。

1924年・・・ミッチェルの予言
ある晴れた日曜の朝7時半
日本の航空機が真珠湾の基地を攻撃する
海軍の戦艦、弾薬集積場を爆撃し、太平洋で戦争が始まる

17年後、ミッチェルの予言はそのまま現実のものとなりました。
しかし、ミッチェルは、軍で不遇の人生を送ります。
空軍独立を掲げたミッチェルの主張は、陸海軍との激しい摩擦を生んで、軍を除隊処分となりました。
そして、第2次世界大戦がはじまる3年前・・・1936年に56歳で死去・・・。

ミッチェルは、亡くなる1か月前・・・自らの想いを語った映像を残しています。

「今日の戦争で勝敗を決めるものは、敵の中枢を攻撃することだ
 空軍力が無ければ、アメリカは負ける
 陸海軍の下にある空軍など、ロウソク工場に伝統を頼むようなものだ」

空軍は独立すべきだ・・・その言葉を残したミッチェルとアーノルドは、死ぬまで深い交流を続けていました。

開戦当初、苦しい戦いが続いたアメリカ軍・・・
陸軍のダグラス・マッカーサー、海軍のチェスター・ミニッツ・・・エリアを分けて別々に戦線を展開し反撃していました。
1944年には、どちらが早く日本に迫れるか、競い合っていました。

一方、航空軍は、アーノルドが対日戦線のために開発してきたB-29が、遂に完成し、実戦配備できるようになりました。
完成まで3年以上・・・それでも、通常の開発期間の半分に急がせていました。
アーノルドは、B-29の拠点として海軍が制圧していたマリアナ諸島に目をつけていました。
マリアナ諸島のサイパンやグアムなどから、日本までは往復で4800の距離・・・
日本全土のほとんどを射程距離に入れることが出来ました。
しかし、アーノルドに大きな問題が降りかかります。
B-29は、特別プロジェクトで作られ、アメリカ軍のどの軍が指揮権を握れるのか?決まっていませんでした。

「どの司令官もB-29を欲しがったが、我々航空軍は苦々しく思っていた
 太平洋線域でのB-29の導入は、極めてデリケートな問題だった」byヘイウッド・ハンセル将軍

日本に迫っていた陸軍のマッカーサーと海軍のニミッツ・・・B-29の指揮権をどちらも強く要求しました。

「B-29をマッカーサーに渡せば、海軍の目標を先に爆撃して手柄を横取りしようとするし、ニミッツに渡せば同様の使い方をするだろう
 B-29は、日本全土の攻撃に用いるつもりで、そのためには私が指揮するしかない」byアーノルド

ワシントンにいたアーノルドは、航空軍が陸海軍の攻撃のサポートをすることを条件に、指揮権を自分に委ねるように政府や軍の要人の元を走り回りました。

「結果を出すので任せてください
 B-29が必要なときは、協力します!!」byアーノルド

統合参謀部と大統領を納得させました。

「それはアーノルドが成し遂げた素晴らしい成果だった
 だれもがB-29を欲しがっていた
 手に入れた後、どう扱っていいのか全く分かっていなかったのに、統合参謀本部でやり合い、B-29の指揮権を手に入れたのは、アーノルド最大の成果だ」byカーチス・ルメイ将軍

1944年11月・・・
陸軍航空軍は、B-29の出撃の準備を進めていました。
アーノルドは、ワシントンで統合参謀本部にとどまったまま指揮を執りました。
現地の司令官に任命したのは、ヘイウッド・ハンセル将軍・・・長くアーノルドの参謀を務めていました。

「ハンセルは、とても優秀な指揮官で、空軍一のパイロットだった
 アーノルド将軍はハンセルの事がお気に入りだった」byバーニー・ガイルス将軍

ハンセンは、精密爆撃という航空戦略を練り上げた将軍で、それは当時の航空軍でもっとも重要なことでした。
精密爆撃とは、軍需産業や発電施設など敵の中枢をピンポイントで爆撃し、戦争遂行能力を失わせる作戦でした。
カギを握っていたのは、当時軍の最高機密とされていた装置・・・ノルデン照準機・・・
風の流れや、飛行高度などをセットすると自動計算で正確な爆撃が行われる・・・最先端の技術が詰め込まれていました。
精密爆撃のテスト飛行が、繰返し行われました。
軍事目標を正確に爆撃できれば、一般市民の犠牲を最小限に避けることが出来る・・・!!

「女性や子供を含む大勢の市民が警告なしに空からの爆撃で殺された」byルーズベルト

ルーズベルトは、ドイツや日本を批判し、人道的な戦い方を訴えていました。
精密爆撃を実現することは、アーノルドにとって重要なポイントでした。

「我々航空軍の任務は、軍事目標への精密爆撃である
 優れた制度で、爆弾を投下できる装置を開発し、望ましい結果を出す能力を得た」byアーノルド

アーノルドからハンセルへの最初の指令は、日本の「航空機生産施設を叩け」でした。

「第一の仕事は設定された目標を破壊することだった
 それはまさに、精密爆撃のために、設定された目標だった
 我々はこの作戦と運命を共にしていた
 もしうまくやらなければ恥になる」byヘイウッド・ハンセル将軍
 
B-29による日本への精密爆撃・・・
それは、陸軍航空軍にとって、もう、後がないものでした。

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1943年・・・航空軍は、ヨーロッパでドイツに精密爆撃を行っていました。
B-29ではなく、高度6000メートルを飛ぶB-17にノルデン照準機を乗せた攻撃でした。
43年1月から9月までの爆撃で、目標への命中率はわずか2割・・・
理由は、爆撃の際、テストとは違いB-17は敵機から激しい攻撃を受けていたのです。

「敵機から攻撃を受けそれを交わし反撃しながら爆撃を行うのだが、それではうまくいかなかった
 まぬけな報告が多く出された」byエメット・オドンネル将軍

「アーノルドは非常に不満で、とても懸念していた
 陸軍だけでなく、誰もがアーノルドを突き上げた
 彼は言った
 ”君たちは、間違った庭にホースを向けている
  私はどうする事も出来ない
  もはや後には引けないんだ” 」byチャールズ・キャベル将軍

B-17は、ドイツの反撃で被害が大きく、出撃したうち3割近くが撃墜されることもありました。

アーノルドはドイツの爆撃で、面目を失った結果、軍の中で惨めな敗者となった」byアイラ・エーカー将軍

アーノルドは、ヨーロッパで空軍力での勝利を目指しましたが、戦果をあげることが出来ずとてもかなしみました。
日本に空軍力だけで単独勝利を勝ち取ろうと・・・我々だけで確実に降伏させると決心したのです。

1944年11月24日、アーノルドの指令を受けたハンセルが日本への精密爆撃を遂行します。
サイパン島から111機のB-29が出撃しました。
搭乗を狙った大規模な空爆作戦が、初めて実行に移されたのです。
最重要の目標は、東京武蔵野市にあった中島飛行機の巨大な工場でした。
零銭のエンジンなどを作る日本の航空産業の要でした。

「最初の攻撃の直前、アーノルドは私に手紙を送りこう書いてあった
 ”B-29は日本にたどり着けないかもしれない
  日本で撃墜されるかもしれない
  あなたに幸運があらんことを”
 この手紙は私を不安にさせた
 私も同じ不安を持っていたからだ」byヘイウッド・ハンセル将軍

出撃から7時間後・・・敵の反撃を受けにくい超高高度1万mから初めて東京を爆撃しました。
爆弾は、大きく外れました・・・この空爆で、目標を捕らえた爆弾はほとんどありませんでした。

「作戦は期待通りにはいかなかった
 しかし、何かができる可能性は示した」byヘイウッド・ハンセル将軍

3日後・・・再びB-29・81機が出撃・・・しかし、今度は雲に蔽われ、飛行機工場を発見することが出来ませんでした。
3回目の出撃は12月3日・・・発進した86機のうち60機が中島飛行機の工場上空につき爆撃しました。
しかし、爆弾の命中率はわずか2.5%・・・!!
目標を破壊するには程遠い結果でした。

ドイツで成果をあげられなかったアーノルドにとって、日本への空爆は失敗の許されな最後の機会でした。
B-29の1万mの超高高度であれば、敵の反撃を受けず、精密爆撃が実現するはずでした。
日本への空爆は、なぜうまくいかなかったのか・・・??ハンセルの部下で日本上空を飛んでいたエメット・オドンネル将軍は・・・B-29の最大の特徴である超高高度が問題だったと打ち明けています。

「日本の上空では、非常に激しい風にぶつかった
 だれも知らなかった”ジェット気流”で我々が世界で初めて確認したのだ
 しかも、1年で最も激しい時期で、我々は真っすぐ飛ぶことが出来なかった」byエメット・オドンネル将軍

B-29が飛行する日本上空の高度1万mには時速200キロを超えるジェット気流が流れています。
人類で初めて1万mを飛行した航空軍は、これを発見することとなります。
ノルデン照準機は、自動で水平を保つ画期的な機能がついていましたが、想定を超える風の影響で誤差が生じ、爆撃の精度を維持することが困難になっていました。
さらに、超高高度を実現したエンジンにも大きな問題を抱えていました。

「B-29のエンジンが発火するという問題だ
 エンジンの配線構造の問題で、高温になる場所が数カ所あった
 火災が多発し、多くの乗組員がパラシュートで飛び降りることとなった」byエメット・オドンネル将軍

エンジントラブルが相次ぎ、目的地にたどり着けないばかりか、命を落とすパイロットも出ていました。
しだいに出撃できる機体も減り、作戦の遂行に影を落とすようになりました。

「もしエンジンが頼りなければ、それでやり切るしかない
 これは非常に大きな問題だった
 すべての問題は、新兵器を慌てて実践投入した結果、生まれたものだ」byヘイウッド・ハンセル将軍

ワシントンでは、アーノルドが厳しい立場に追い込まれていました。
統合参謀本部では、指揮権を与えたにもかかわらず、B-29で結果を出せないアーノルドに厳しい批判が相次ぎました。

「B-29をもつ空軍は、深刻な非難にさらされていた
 アーノルドは、非常に大きなプレッシャーの中にあった
 陸軍参謀総長からの批判に加え、大統領もよくない結果に不満だった」byヘイウッド・ハンセル将軍

「アーノルドは、恥ずかしいと言って全員に対して怒っていた
 私やハンセル、作戦の関係者全員に激怒していた」byローリス・ノースタッド将軍

B-29で成果を残せなければ、空軍独立というアーノルドの野望は完全に断たれる・・・
しかし、状況は更に厳しくなっていきます。

「アーノルドは言った
 ”ちくしょう 私は未来を予測できない”」byバーニー・ガイルス将軍

陸海軍からの厳しい批判・・・さらに、大統領やアメリカ国民のいら立ちが航空軍にのしかかっていきます。
アーノルドは、4度の心臓発作を起こすほど、大変なプレッシャーを感じていました。
そのプレッシャーは、部下である司令官へと下っていきます。

「結果を出さないといけない
 私の首がかかっていた」byカーチス・ルメイ将軍

そして、精密爆撃とはかけ離れた、日本への非人道的な戦略に手を染めていきます。
なぜ、日本は焼き尽くされたのか・・・航空軍の戦略が倒錯していく真相とは・・・??

1943年、第2次世界大戦のさ中に、アメリカで公開された映画「空軍力の勝利」。
製作したのは、あのウォルト・ディズニーです。
ディズニーは、アメリカ陸軍航空部が推し進める空爆戦略に共鳴し、映画を作りました。
描かれていたのは、日本への徹底した空爆・・・
この日本への爆撃は、映画の公開から2年後、現実のものとなります。

日本への空爆に、空軍独立をかけていたアーノルド・・・空爆の計画の全貌とは・・・??
恐ろしい計画が・・・ガス攻撃の計画書です。
1944年4月、日本への報復のガス空爆計画!!
日本軍が、もし毒ガスを使用した場合、最大の効果を達成するため日本全国の人口密集地域に毒ガス攻撃をする・・・攻撃対象は、東京、横浜、川崎、大阪、神戸、名古屋、八幡の7都市・・・そのエリアの人口1400万人すべてに毒ガス攻撃を行う想定でした。

日本に対して毒ガス攻撃まで用意していたアーノルド・・・当時、アメリカ国民に向けて日本に空爆することを強くアピールしていました。

「我々はフィリピンへ戻り、そしてその次は東京だ
 我々の東京訪問は仕事だ
 つまり、爆撃に行くのだ
 任務は困難だが、不可能ではない
 神に誓ってやってやる」byアーノルド

アーノルドが、爆撃のために作り上げた切り札B-29。
航続距離は5000km、飛行高度1万m・・・どちらも当時最高で、未来から来た飛行機と呼ばれました。
しかし、B-29による日本への空爆は、当初成功しませんでした。
アメリカ軍の予算の中で当時最大現在の4兆円をかけたB-29・・・アーノルドは、B-29を無駄遣いしていると厳しい批判にさらされていました。

マッカーサーは、「我々ならB-29を使っていい仕事ができる、我々によこせ、航空軍の無駄な攻撃より大きな影響を与える」といいました。

B-29を奪われることは、空軍独立の野望が完全に途絶えることを意味していました。
アーノルドは、ハンセルに対して結果を出すことを強く求めていました。
日本から2400キロ離れたグアム島にあるアメリカ空軍で最大級のアンダーセン空軍基地・・・
現在の大型爆撃機B-1・・・航続距離は1万キロを超え、太平洋全域をカバーしています。
ここに、最大で2000機のB-29が配備され、日本への爆撃へと飛びたちました。
1944年12月・・・日本への空爆が始まってから、1月余り・・・爆撃の失敗が続いていたヘイウッド・ハンセル将軍は、どうすれば結果が出せるか悩み続けていました。
精密爆撃失敗の理由はわかっていました。
日本の上空は時速200キロのジェット気流に加え、冬場は分厚い雲に覆われていました。

「正確な目標を日中に目視で狙わなければならないが、何度も雲が視界を遮り、目標を目視できず当たらなかった」byリチャード・モンゴメリー中尉

目視できない標的は、開発を進めてきたレーダーで捕らえようとしました。

「爆撃用のレーダーはあったが、最適な高度は5000mだった
 だが、1万mから爆撃したので、どうしようもない結果になった」byエメット・オドンネル将軍

12月27日、追いつめられたハンセルは、B-29・72機で、再び中島飛行機の工場へ爆撃を行います。
しかし、目標に命中した爆弾は、わずか6個・・・またしても失敗に終わりました。
その1週間後・・・ハンセルは解任されました。
突然の通告でした。

「地面が崩れたのかと思うほど驚いた
 私は完全に挫折してしまった
 確かに結果は悪かったが、ドイツへの爆撃とおなじようなものだった
 そして、実際に多くの障害を克服していた
 私なら部下に責任転嫁はしない
 アーノルドは、自分で責任を負わなかった」byヘイウッド・ハンセル将軍

「私はアーノルドに(ハンセルを)解任しないよう頼んだ
 アーノルドは言った
”ちくしょう、私は未来を予測できない
 ハンセルは任務をこなさない
 司令官に留まるべきではない”」byバーニー・ガイルス将軍

アーノルドがハンセルの後任に指名したのは、カーチス・ルメイ将軍。
当時38歳、難しい戦場でも常に結果を出し、史上最年少で将軍に昇進していました。
ルメイは自ら爆撃機に乗り込み、部隊の先頭を飛ぶなど、陣頭指揮を執るリーダーでした。
部下たちの絶大な信頼を集めていました。

アーノルドは、そのルメイに最後の望みを託したのです。

「B-29は、これまでどんな軍用機もできなかった偉大な結果をもたらす
 その結果をもたらしてくれるのは、君だと信じている」byアーノルド

航空軍の運命を背負うこととなったルメイ・・・何を考え、どのような心情で日本に空爆を実行していったのか・・・??

1970年3月14日、カリフォルニア・・・
「アーノルドは、私が何とかすると期待していた
 結果を求められていた
 航空軍は、何も成果がなかった
 すぐ何かしなければならなかった
 統合参謀本部の考えはわかっていた
 B-29を奪おうとアーノルドの圧力をかけた」

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1945年1月20日・・・
マリアナ諸島の基地に着任したルメイ・・・就任してから1月ほど精密爆撃を行いました。
しかし、ハンセル同様、成果が上がらない・・・超高高度へも突撃してくる日本軍から、激しい反撃を被ることもありました。 

「ハンセルは、ほとんど成果を残せなかったため解任された
 結果を残さなければならなかったが、その方法は何なのか・・・??」byルメイ

ルメイには、一つだけ恐れているものがありました。それは失敗でした。
それは、彼の父親が、仕事の続かない出来損ないだったからです。
彼はとても貧しい家庭で少年時代から懸命に働き、いつも大変な責任を負って生きてきました。
家族や軍隊、国に対して、非情に責任感があったのです。

1945年2月・・・ルメイが結果を出せない中、アーノルドのもとに驚くべき情報が入ります。
ペリリュー島を制圧し、硫黄島の攻略に向かっていた海軍が、日本への空爆に成功したのです。
しかも、海軍が爆撃したのは、B-29が最大目標として失敗した東京の中島飛行機武蔵野工場だったのです。
爆撃を行ったのは、飛行速度の遅い海軍の小型機でした。
低空で敵の反撃をかいくぐりながら、爆撃を成功させたのです。
新聞は、東京への決定的な空爆だと海軍大将のニミッツを称賛しました。

海軍の戦果を見せつけられ、アーノルドはいよいよ後がなくなっていました。

「海軍のニミッツは、
 ”B-29の指揮権をよこせ
  1度に300機を送り込んでやろう”
 そう言って、指揮権を要求してくるだろう」byアーノルド

統合参謀本部では、結果を残せない航空軍への風当たりが一層強くなっていました。
中でも厳しかったのが、ルーズベルト大統領でした。
軍の最高司令官の大統領が、アーノルドに圧力をかける・・・

「B-29に費やされたお金は最終的にその価値があったと示せ
 ”アメリカ国民のため戦争を終わらせるのに役立った”と」byルーズベルト

アーノルドは、4回の心臓発作を次々と起こしたほど、大変なプレッシャーを感じていました。

この頃、日本軍の徹底抗戦で、アメリカ兵の犠牲が多く出ていました。
戦地の兵士を早く帰国させてほしいというアメリカ国内での声が、日増しに高まっていました。

”戦争を可能な限り早く終わらせろ”というアメリカ国民からの圧力が生まれ、それが大統領から下へ指揮系統をずっと下っていく・・・
海軍の空爆が成功した2日後・・・アーノルドは、ルメイにある指令を出していたことが分かりました。
都市への焼夷弾攻撃を試せ
ルメイは肉声テープでこの時の思いを語っています。

「この件は、誰も責任を取ろうとしなかった
 こんな状況ならそうだろう
 とても孤独な仕事だった
 自分一人で決めるしかなかった
 戦争とは破壊することである
 B-29で結果を出し、陸海軍に見せつけなければ、私は過激なことをするつもりだった」byカーチス・ルメイ将軍

アーノルドは、焼夷弾を使った空爆を、いつからアラバマ州にあるマックスウェル空軍基地・・・軍事作戦に関する機密資料が保管されています。
その中に、焼夷弾の計画書がありました。

1943年10月「日本焼夷弾攻撃データ」

狙ったのは、日本の20都市・・・それぞれの都市の人口や建物の密集度合いに応じて、必要な焼夷弾の量を分析していました。
どこに攻撃を行うのか??地図に示されていました。
東京で最も効果が高い地域とされたのは、下町の人口密集地でした。
当時、アメリカではその下町の住宅街を実際に再現して、焼夷弾攻撃の実権を繰り返していました。
実験結果をもとに立てた計画では、1200万人の住宅を消失できると記されていました。

「一番の目的は、人口の中心の破壊
 決して公表しなかった
 抵抗する者に対する爆撃だ
 人口密集地を破壊する」byバーニー・ガイルス将軍

航空軍は、関東大震災を調べていて日本が焼夷弾攻撃にぜい弱だと知っていました。
アーノルドは、戦争に勝つためならどんな方法でも追及する人間でした。
精密爆撃を掲げる裏で、焼夷弾による無差別爆撃を準備していたアーノルド・・・
当時、どう考えていたのでしょうか?

「これは野蛮な戦争であり、敵国人に自らの政府に戦争中止を要求させるべく、甚大な被害と死をもたらすことである
 市民の一部が死ぬかもしれないという理由だけで、手心を加えるわけにはいかない」byアーノルド

統合参謀本部で突き上げられ、一刻も早く成果をあげたかったアーノルド・・・
日本を爆撃するB-29の拠点のサイパン島を訪れ、鼓舞する映像が残っています。

「今、君たちは日本に最も近い基地にいる
 世界一の爆撃機B-29がある
 よりたくさんの爆弾を運べるのだ
 北海道から九州に至る軍事拠点をすべて爆撃できる
 爆撃の時に日本人にメッセージがある
 伝えてくれるか

 日本の兵士たちめ、パールハーバーは忘れない
 B-29は、お前たちに思い知らせてくれる
 何度も、何度もな」byアーノルド

アーノルドから焼夷弾攻撃の指示が下ってから1週間余り・・・ルメイは日本上空からの偵察写真を眺めながら、あることに気付きました。
ドイツには数多くあった低空の航空機に向けた対空火器が少なかったのです。

「低空の対空火器がないことに気付いたとき、自分の中で”これだ”と確信した
 レーダーは、使い物にならないから、気圧を調整してB-29を限りなく低く飛ばせるようにした」byルメイ

低空を飛べば、B-29を苦しめていたジェット気流や雲の影響を避けられる・・・
B-29の大部隊を編制し、作戦を決行することになりました。
狙うは・・・東京!!

アーノルドが43年から計画してきた焼夷弾計画が、遂に実行される・・・精密に目標を狙うのではなく、ターゲットの区域に焼夷弾をくまなくばらまく作戦でした。

「アーノルドに話をせずに実行するつもりだった
 先に話をして失敗したら、彼の失敗になってしまう
 一人で失敗すれば、”バカな部下が暴挙に出たから首にした”と、誰か代わりの部下をつけてB-29の作戦は続
けられる
 かかっていたのは、アーノルドの首でなく、私の首だったので実行を決めた」byカーチス・ルメイ将軍

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1945年3月10日、B-29が出撃準備をしていました。
その数325機・・・焼夷弾を多く積むため、機関銃などは取り外していました。
B-29は、あわせて1600トンを超える焼夷弾を積んで、東京に向かいました。
空軍独立の野望と、戦果を求める声・・・そして、現場への圧力・・・無差別爆撃が遂に実行されました。
大量の焼夷弾が投下されました。
燃え広がる地域に、爆撃は2時間半にわたって続けられました。
焼夷弾の数25万発・・・東京の下町に暮らす130万人が逃げ場のない日の海に包まれました。

「大量の爆弾を投下し、不幸にも少しでも想像力があれば崩れ落ちそうになる瓦礫の下で、ママ、ママ、と泣いている3歳の女の子の恐ろしいイメージが脳裏に浮かぶものである
 だが、正気でいたいと思うなら、また、祖国の期待する任務を遂行していこうと思うならば、そうした想像から意識を飛ばさねばならない」byルメイ

一夜にして住民のほとんどが被災・・・死者は、10万人を超えるとみられています。
爆撃の報告を受けたアーノルドは、ルメイにこう伝えました。

「おめでとう、この作戦で、あなたたちはあらゆるものに立ち向かう勇気があると示した」byアーノルド

アメリカ国内にも、東京を火の海にしたことが大々的に伝えられました。
東京は、焼夷弾で荒廃しました。
ルメイは、東京の被害を記録した写真を見た時の思いを書き残しています。

「東京は跡形もなかった
 かつてない激しい攻撃だったらしい
 私は居心地の悪さを感じていたが、アーノルドは非常に満足していた。」byカーチス・ルメイ

その後もルメイは、B-29による焼夷弾攻撃で次々と大都市を焼き払っていきます。
3月12日から19日、名古屋、大阪、神戸・・・43年から攻撃が計画されていた都市でした。
この焼夷弾攻撃で、さらに1万人以上が犠牲となりました。

「とにかく可能な限り早く爆撃した
 日本軍が対策を考えて反撃してくる前に、徹底的にやりたかったのだ
 だが、中止した
 なぜかわかるか?
 焼夷弾が切れたからだ」byカーチス・ルメイ

ルメイは、わずか10日間で焼夷弾を1万トン・・・150万発使い切りました。
焼夷弾が補充されたのは、およそ1か月後・・・ルメイは再び大都市への爆撃を繰り返します。
焼夷弾での空爆をやめられない理由がありました。

アーノルドからルメイに届いた「おめでとう」という言葉は、実は、言葉そのものを意味する祝福ではありませんでした。
”他の都市を攻撃し続けろ”という青信号で、”そのまま続けろ大丈夫だ”という意味だったのです。
一般市民を狙った非人道的な無差別爆撃に突き進んだ陸軍航空軍・・・その原点ともいえる思想がありました。
第2次世界大戦がはじまる20年前の資料の中に、将来の無差別爆撃を引き起こす思想がありました。

市民に恐怖を与えることで、戦争をやめさせることが出来る
ガスを使ってその土地で生きられなくし、焼夷弾で炎上させる!!

このレポートを書いていたのは、ウィリアム・ビリー・ミッチェルです。
アーノルドが師を仰いでいた航空軍の戦略の原点を築いた男でした。
ミッチェルは、敵の中枢で戦争を支える一般市民を攻撃対象とし、戦争への意思を失わせることが勝利への近道だと考えていました。
ミッチェルは、一般市民の戦意はもろく、それを打ち砕くのに多くの爆弾は必要ない、すぐに市民は平和を求め、政府は要求に応じると考えていました。
そこから、市民を攻撃目標とする戦略が生まれたのです。

1945年6月17日、これまで軍事施設の多い大都市を狙ってきたB-29が、突如鹿児島の上空に現れました。
鹿児島への空爆でも、大量の焼夷弾が落とされました。
2000人以上が亡くなりました。
なぜ、大都市だけでなく、地方都市までもが攻撃対象になったのでしょうか?
鹿児島空襲の5日前、グアムのルメイのもとを、ワシントンにいたアーノルドが訪ねてきたことが肉声テープで明かされています。

「我々は、アーノルドのために、どう作戦が遂行され、どんな目標が達成できるか説明した
 するとアーノルドが聞いたんだ
(その作戦だと)いつ戦争が終わる?
 われわれは、正確な日時について考えたこともなかった」byカーチス・ルメイ将軍

この頃、日本本土への上陸を目指していた陸軍と海軍が、共に沖縄での戦闘を終えようとしていました。
これを受け統合郷参謀本部では、終戦に向けた動きが加速!!
日本本土への上陸作戦が、11月1日に決行予定となっていました。
この決定を受け、アーノルドは航空軍の力をどのように示すことが出来るか、ルメイと話に来ていたのです。

「陸軍が上陸する前に、空軍だけで戦争を終わらせる
 そう決意したのは、アーノルドと話した時だった
 9月中旬までに、空爆の標的とすべき都市はなくなるから、10月1日までに確実に戦争は終わらせられる」byカーチス・ルメイ将軍

会議の後、アーノルドに提出させた焼夷弾攻撃の計画が残されていました。
そこにあげられた都市は180!!
人口の多い順に並べられ、標的はほとんど軍事工場のない地方の小さな都市にまで拡大していました。
ルメイは10月までに、日本の戦争能力をすべて破壊し終えるといいました。
アーノルドは、この大規模な破壊によって、ルメイ一人で勝利できると確信しました。

ルメイは、激しい爆撃を地方へと広げていきます。
一晩で、3都市、4都市と焼夷弾で焼き払い続けました。
日本が降伏するまで爆撃は続きました。

航空軍の日本に対して行っていた無差別爆撃・・・その被害の実態が、アメリカ国内に次第に伝わり次第に物議をかもしていきます。
5月30日、東京の惨状を伝えたニューヨーク・タイムス・・・
ルメイは、東京は消えたといった
12キロ四方にわたって焼き尽くされ、100万人が火の海で死んだ
この記事を見て、衝撃を受けた人物がいます。
陸軍長官のヘンリー・スティムソンです。
アーノルドの上司で、文民出身のTOPでした。
スティムソンは、アーノルドの部下から日本に対しては精密爆撃のみを行うと約束されていたといいます。
「私は精密爆撃は可能であるし、適切であると聞いた
 ヒトラーがしたような、残虐行為をアメリカにしてほしくない」
6月・・・スティムソンは、アーノルドを呼び出し詰め寄ります。

「アーノルドは、
 ”分散する日本の工業都市を市民を殺傷せずに攻撃するのは不可能だ
  できる限り市民の殺傷の抑制を試みている”
 と語った」byスティムソン

焼夷弾で悲惨な被害を出し続け、人道的な精密爆撃ができないなら、原爆を使う選択肢もあるのではないか??
スティムソンは、原爆投下によって、焼夷弾爆撃は止められたと書き残しています。
彼が原爆の使用に賛成した理由の一つは、焼夷弾を止めるためだったといいます。
焼夷弾空爆の乗組員は、燃えた人肉の匂いが染みつくため、飛行機を丁寧に洗ったし、ガスマスクをつけるほどでした。
当時、日本への空爆で、越えてはいけない道徳上の一線は、焼夷弾の使用であり、原爆ではなかったのです。

1945年8月・・・戦争は終わりました。
航空軍は、その圧倒的な力を見せつけました。
終戦から2年後、日本を焼き尽くしたアメリカ陸軍航空軍は、太平洋戦争での戦果が認められ、悲願だった空軍独立を果たします。
第2次世界大戦中、航空軍を率いたヘンリー・アーノルドは、唯一の空軍元帥に昇進、終戦から5年後、63歳で死にました。

アーノルドは、戦後何を思っていたのでしょうか?
アーノルドは、週戦後まもなく退役し、戦争を振り返ることはあまりありませんでした。
空軍力で戦争を終わらせることは、ミッチェルのアイデアで、空軍全員が描いた夢でした。
しかし、その結果は想像を超えていました。
あの戦争で、想定以上の兵器を手にして、産んだ結果は恐ろしいものだったのです。
アーノルドのもとで日本を焼き尽くしたカーチス・ルメイ・・・終戦から15年後に空軍TOP参謀総長の座につきました。
ルメイが空軍TOPだった時に起きていたベトナム戦争・・・ナパーム弾などを使った爆撃を行いました。
空軍力は、再び多くの民間人の犠牲者を出すことになりました。

アーノルドからルメイへと受け継がれた航空戦略の提唱者ウィリアム・ビリー・ミッチェル・・・
戦後、再評価がなされ、故郷ミルウォーキーに名前を冠した空港が作られました。
終戦から1年後、位階勲等を受賞し、失っていた軍籍も取り戻しました。
航空戦略の創始者と呼ばれています。

100年余り前に、小さな組織からなったアメリカ空軍・・・
いまや並ぶべき存在のないスーパーパワーとなりました。
第2次世界大戦では達成できなかった精密爆撃を、技術が進化する中で今も追い求めています。
しかし、技術がどんなに進歩しようと、もたらす結果に代わりはありません。

現代の空軍力は頼正確で、洗練されているという話があります。
しかし、それは第2次世界大戦前に空軍が
「我々なら第1次世界大戦で起きた虐殺を回避し、より早く人道的に戦争を終えられる」
と言ってだましたのと同じことです。
私たちはそれを信じて第2次世界大戦のような虐殺が2度と怒らないと考えてはいけません。

日本は、徹底的な無差別爆撃で焼き尽くされました。
もたらされた凄惨な被害は、アメリカ空軍の想定をも超えていました。
しかし、戦争に勝利した後、検証し、反省をすることはありませんでした。
悲劇を引き起こした戦略は、連綿と受け継がれているのです。

戦争は何をもたらすのか・・・?今も突き付けられています。

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