日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ベトナム戦争

ニクソン回顧録 第1部 栄光の日々

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アメリカ大統領選挙・・・世界が注目する大統領選挙・・・
その熾烈な戦いに3度挑み、挫折と栄光を味わったのは、第37代アメリカ大統領、リチャード・ニクソン。

1960年のアメリカ合衆国大統領選挙・・・勝ったのは、ジョン・F・ケネディ。
世論調査では圧倒的に不利でしたが、僅かの差で逆転勝利したのです。
このケネディに、屈辱的な敗北をしたのが、リチャード・ニクソンです。
一時政界から姿を消すほど追いつめられていましたが、1968年大統領選挙へ・・・!!
今度は僅差で勝利、次の選挙では、歴史的大勝利で再選を果たします。
が、スキャンダルによって辞任・・・任期中に辞任した唯一の大統領という汚名を残しました。

大統領となったニクソンは、衝撃的な外交を行います。
日本への沖縄返還、ソビエトとは核兵器制限交渉、中国との関係改善・・・
一方、人間性には厳しい目が向けられます。
マスコミに対する暴言、大統領執務室の通話を秘密裏に録音、権力を乱用、捜査を妨害・・・

1971年7月15日、ニクソンが行ったテレビ演説が、世界に衝撃を与えました。
「周恩来総理は、中国政府を代表してニクソン大統領が1972年の5月までの適当な時期に中国を訪れるよう招待しました。
 私ニクソンは、この招請を喜んで受け入れました。」byニクソン
当時、激しく対立していたアメリカと中国・・・
その両国が手を取るのは、考えられない・・・世界を揺るがした事件でした。
知らずに慌てた日本は、日中国交回復に乗り出します。

世界の度肝を抜いたニクソンは、元々陰気野郎と言われるほどの内気な少年でした。
そんな彼が、どうして大統領となったのでしょうか?
1913年1月9日、ニクソンは、5人兄弟の次男として、カリフォルニア州に生まれました。
学校から帰ると、両親の営む雑貨店の手伝いに負われ、友達と遊ぶ暇もありませんでした。
そんな関係に拍車をかけたのが、父・フランクです。
絶対に自分の意見を譲らず、息子のニクソンであってもやり込めました。
時には手を挙げることも・・・
いつしかニクソンは、無口な少年となっていました。
そして・・・つかられたあだ名が陰気野郎!!

日ごろ物静かなニクソンが多弁となるとき・・・それは、討論の授業でした。
周到な準備をし、当日の授業では完膚なきまでに相手を論破!!
もう一つ、若い頃のニクソンに影響を与えたのは・・・
弟が結核性の脳炎で死去・・・さらに兄も結核に侵され、長い闘病生活の末に亡くなりました。
母親は・・・
「その時からリチャードは一人で三人分の人生を生き、両親の失った分を補おうと前にもまして努力しようとしているように思えた。」と言っています。
ひたすら勉強し、大学を優秀な成績で卒業!!
1934年・・・21歳の時に、弁護士を目指し、デューク大学法科大学院へ進学!!
そして、同級生たちとの議論のうちに、政治に興味を持つようになります。

卒業後ニクソンは、地元の弁護士事務所に・・・瞬く間に看板弁護士となります。
結婚をし、順風満帆に見えましたが・・・
1941年、28歳の時に太平洋戦争勃発!!
ニクソンは自ら軍に志願!!
最前線である東南アジアの激戦地へと赴きます。
太平洋戦争が始まった時、若い男性は志願するのが当然だと思われていました。
政治的野心があるならなおさらです。
従軍しなければ、自分には愛国心があると選挙で訴えることができません。

終戦後・・・地元・カリフォルニアの共和党本部からお呼びがかかります。
弁護士としての実績、軍に志願した経歴が評価されたのです。
1946年33歳の時に、下院議員選挙に出馬。
しかし、相手は当選五回の民主党・ボアヒース。
無名の新人が勝てるはずがありませんでした。
ニクソンは、相手のことを完璧なまでに調べ上げます。
勝つためのキーワード・・・それは、反共・・・反共産主義でした。
米ソ冷戦真っただ中のこの時代、共産主義に対しての反発、風当たりが強かったのです。
ニクソンは、相手候補がかつて共産主義に傾倒していたことを見つけ、攻撃します。
国民の反共感情を巧みに煽ります。
ニクソンは、敵を明確にするのに長けていて、自分の敵をみんなの敵だと納得させました。
共産主義を文字かな恐怖として利用したのです。
結果は、ニクソンの圧勝!!
下院議員となったニクソンは、反共を武器に、その地位を高めていきます。
政界の重鎮の一人がソビエトのスパイであることを突き止めて自白に追い込みます。
反共の闘士として全米にその名を知られるようになっていきます。

そして、上院議員選挙に当選!!
大統領選に臨むアイゼンハワー大統領から副大統領候補に指名されます。
しかし、思わぬ危機が・・・支持者からの不正献金疑惑が浮上!!
副大統領になるどころか、政治生命が危ぶまれる事態に・・・!!
そこで、思い切った行動に出ます。
当時、新しいメディアだったテレビを利用します。
「国民の皆さんに、副大統領候補としてお話があります。
 私たちのワシントンの家は、4万1千ドルですが、2万ドルの借金があります。」
家族や親族を含めた家計の実態を公表し、不正献金を受けたことがないと・・・
そして、一つだけ例外があるといいます。
「テキサスの支援者から1匹のコッカースパニエルを贈られました。
 黒と白のまだら模様の犬なので、娘がチェッカーズと名付けました。
 子供は犬が大好きです。
 チェッカーズだけは、誰が何と言おうと、手放すつもりはありません。」と。

後に、「チェッカーズスピーチ」と言われるこの演説は、人々の心を揺さぶりました。
そしてニクソンは、大統領選挙に勝ったアイゼンハワーの元、副大統領となります。
その後、アジア太平洋地域を外遊し、多くの国々の指導者と意見を交わしました。
その中でニクソンが実感したのが、中国の脅威でした。
「アジア・太平洋に於いて、重要な新しい底知れぬ要素は、共産主義中国であった。
 人々は、中共は後進国で、未開発だからアジアでは脅威になり得ないと言っていた時期に、私はその影響力はすでに、この地域全体に広がっていると直接得た情報を報告できた。」

中国にどう対処するか??
ニクソンにとって生涯にわたる重要なテーマとなりました。
1960年47歳で副大統領としての実績を掲げ、大統領選に立候補。
相手は、民主党のジョン・F・ケネディ。
事前の世論調査では、ニクソンがリードしていましたが・・・
この時初めて行われた大統領によるテレビ討論で情勢が覆ります。
ニクソンは、遊説中に膝を痛め、2週間の入院をしたばかり・・・
テレビでは弱々しく映ってしまいます。
反して若々しくて精悍なケネディ・・・。
新聞は、ケネディ上院議員が討論を制した!!
複数の州知事がケネディ指示にまわると報じました。
結局・・・勝ったのはケネディ・・・大統領選まれにみる接戦でした。

テレビ討論会で重要なのは・・・「7-38-55」のルールです。
人間は、人の好き嫌いを一瞬で判断します。
そのうち55%は視覚情報・・・見た目です。
聴覚情報・・・話しぶりは38%、言語情報・・・話の内容は7%ということです。
視覚情報・・・ここで、圧倒的にケネディが勝ったのです。
髭を剃らずにメイクをし、汗でドーランが落ち、醜く映ってしまったニクソン。。。
そして、ケネディの黒のスーツとニクソンのグレーのスーツ・・・。
白黒テレビの当時、黒はコントラストがはっきりしていて、力強い印象。
グレーは背景と同化してしまい、弱々しく映ってしまったのです。

2年後再起を図るニクソンは、1962年、49歳でカリフォルニア州知事選に立候補!!
しかし・・・惨敗!!
記者会見の席で、マスコミへの不満をぶちまけます。
ニクソンは、政界から姿を消しました。。。


ケネディに負けた8年後・・・奇跡の復活を遂げて大統領となります。
そして中国訪問を発表、世界に衝撃を与えます。
かつて反共の闘士と言われたニクソンが、どうして中国との関係改善を試みたのでしょうか??
政界を去ったニクソンは、一介の弁護士に戻っていました。
ケネディ大統領が暗殺され・・・副大統領のジョンソンが第36代大統領に・・・!!
ベトナム戦争への本格的な軍事介入が・・・
中国やソビエトが支援する北ベトナムとアメリカが支援する南ベトナムが争ったベトナム戦争。。。
アメリカは、当初は戦争への介入を評価していました。
しかし、戦争が長期化するにつれ、アメリカの犠牲者が増大、莫大な費用がかさんで国内経済も疲弊していきます。
さらにアメリカの爆撃に国際社会から批判が・・・!!
こうしてアメリカ国内でも反戦ムードが高まっていきます。
ニクソンはこれを機に立ち上がります。
1968年55歳で大統領選に出馬。
公約に掲げたのはベトナムからの「名誉ある撤退」です。
ニクソンは、接戦を制します。
1969年、56歳で第37代アメリカ大統領に就任しました。

大統領となったニクソンが力を入れたのは、中国との関係改善でした。
副大統領時代から共産主義・中国の影響が東アジアに広がることを危惧していたニクソンは、友好関係を築こうとします。
「この世界は、中国が変化しない限り安全で張り得ない。
 長期的観点から、中国を孤立させることは許されない。」
中国を、アメリカが引っ張る国際社会に連れて来て、その中でうまくやり取りをし、中国を抑えながら、東アジアの国際情勢の安定を図っていたのです。

そこには再選の思惑もありました。
当時、アメリカ国民にとって、中国は不気味な国でした。
その中国の脅威を取り去れば、絶大な支持を得ることができる・・・!!

扱いにくいソビエトより・・・中国が政治家としての腕の見せ所だったのです。
国民にアピールできるチャンスでした。
しかし、国交もなく、対立してきた中国との関係改善は容易ではありません。
ニクソンは、あらゆる手を繰り出していきます。

沖縄を日本に変換したとき、核兵器なしで変換したのもそのためと言われています。
日本だけでなく、中国との関係を意識していたのです。
沖縄に核兵器を配備しないことで、中国に安心感を与えようとしました。
安全保障上の利益を尊重するというシグナルを、中国に対し送ったのです。

また、ソビエトとの核兵器制限交渉に乗り出し、緊張緩和をしたのも、中国との関係改善を見越したものと思われます。
当時、ソビエトと中国は、共産主義をめぐる路線の違いから激しく対立。
もしアメリカとソビエトが手を組めば、中国は孤立してしまう・・・という不安感に付け込もうとしたのです。
この中国とソビエト・・・どちらも上手くやっていくことを狙ったのです。

カンザスシティでニクソンが演説しています。
五極・・・アメリカ、欧州、ソ連、日本、中国、五極の競争の時代になると・・・!!

そして、世界を揺るがしたテレビ放送・・・
「周恩来総理は、中国政府を代表してニクソン大統領が1972年の5月までの適当な時期に中国を訪れるよう招待しました。
 私ニクソンは、この招請を喜んで受け入れました。」
1972年世界中が注目する中、中国を訪問。
米中両国は、敵対関係に終止符を打ち、国交正常化を目指すこととなりました。

1972年ニクソンは、3度目となる大統領選に挑みます。
圧倒的な大差で再選!!
しかし、任期の途中で辞任した唯一の大統領という汚名を残すこととなります。
どうして辞任に・・・??
大統領選のさなか、ニクソンと対立する民主党本部に何者かが侵入!!
ウォーターゲート事件と呼ばれるこの事件・・・
はじめはコソ泥の仕業と思われていましたが・・・犯人の一人が「ホワイトハウスもこのことを知っている」と自供。
ニクソンの関与を疑ったワシントンポストの記者が執拗に真相を追います。
その結果、盗聴容疑者が選挙資金を得ていたことが明らかに・・・
この首謀者は、ニクソンの側近で、ニクソンはかかわっていなかったとされています。
しかし・・・疑惑の目が向けられます。
ニクソンは記者会見に臨みます。
「今日、私は困難な決断を下しました。
 政府内の近しい仲間の辞職を受理したのです。
 またFBIや検察官、大陪審に全面的に協力するよう、政府と再選委員会の全員に命じました。」
ニクソンへの疑いは、晴れたかに見えました。
しかし、関係者への追求が続く中・・・ニクソンが捜査を妨害しようとしていたことが発覚!!
さらに事件とは直接問題ではない事が、クローズアップされていきます。
大統領執務室での会話記録がすべてテープに録音されていたことが判りました。
この録音は、将来自分の功績を誇る図書館を作るためにとってあったという。
ニクソンはテープの提出を拒否!!
「テープ提出の腱で、大統領の会話の機密性が脅かされています。
 機密保持の原則を犯す決議には断固反対です。」
さらに権力を乱用!!
検察官の解任を命じ、司法長官を辞任に追い込みます。
こうした一連の報道に人々の怒りが爆発!!

任期半ばの1974年・・・
「物事を途中で投げ出すのは嫌いです。
 任期を終えずに去るのは、耐え難い苦痛です。
 しかし、大統領として国益を最優先すべきです。
 
 よって私は、明日の正午に大統領を辞任します。」

翌朝・・・
「別れの挨拶の準備に心を集中しようとしたが、その間、何度も心をよぎったのは、あんなに高い所にいたのにどうしてこんな低い所に落ちることになるのかという思いだった。」

そして、別れの挨拶・・・

「私の人生から永遠に光が消えてしまった。
 みなさん、一人一人に言いたい。
 諸君の事は忘れない。」

ホワイトハウスを後にして、大統領専用機に乗り込むニクソン・・・
最後にお決まりのポーズを見せました。

辞任から3年・・・ニクソンはウォーターゲート事件に対して重い口を開きました。
「私は友人を失望させました。
 私は国を失望させました。
 政治のシステムをダメにし、政府で仕事を夢見る若者に、全て腐敗していると思わせ失望させました。
 私はこの重荷を、一生背負っていかなければなりません。」

1979年米中間に、正式に国交が樹立しました。
当時のカーター大統領は、鄧小平を招き、晩餐会を開くことに・・・
その晩餐会に、ニクソンが現れました。
中国側の強い希望でした。
1980年レーガン大統領に親書を送りました。
「私個人に関して、どんな公職に就くことも求めてはいません。
 しかしながら、あなたが必要と思われるなら、私が特に詳しい領域について、喜んでアドバイスいたします。」
外交政策の指南役を申し出たのでした。

1989年中国で天安門事件・・・
民主化を求める学生を、中国政府が武力で排除!!
これに対し、アメリカ国内で中国を批判する声が高まります。
この時、ニクソンはこう指摘したと言われています。
「中国を国際社会から孤立させることになれば、改革開放の動きは頓挫し、古い体制が力を取り戻すことになるだろう。」

1991年ソビエト連邦崩壊。
民主化への支援が不十分だ歳、同じ共和党のジョージ・ブッシュ大統領を批判!!
その後、民主党のクリントン政権が誕生した際には、唐の壁を越えてアドバイスを送りました。
最後までアメリカの外交を気にかかけていたニクソン・・・
1994年ニクソンは心臓発作で倒れ、そのまま亡くなります。81歳でした。

ニクソンの葬儀には、5人の大統領経験者が参列。
クリントン大統領が弔辞を述べました。

「彼は間違いも犯しました。
 成し遂げたことと同じくそれも彼の人生の一部です。
 彼は何度もこう言いました。
 ”人はゴールを見失ったり、登るべき新しい山がないと魂が死んでしまう”と。
 彼の人生は終わりました。
 今後、ニクソン大統領は、その業績によって判断されますように。」

現在、ニクソンの生家は、アメリカ政府の運営するニクソン大統領図書館となっています。 
今・・・ニクソンへの関心が集まる中、年間10万人がここを訪れると言います。

「人は負けても終わったわけではない。
 人はやめたときに終わるのだ。」byリチャード・ニクソン

 

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久しぶりに池上彰さんのテレビ見ました。
日本はこれからどうなっていくのでしょうか??

<中国が作った島はどうなる?>
誰のモノでもない海を公海と言います。
国の境界線については、国際的な機関は決めていません。
お互いの話し合いで決めることになっているのです。

sita













今現在、中国が主張しているのはこの赤い線。
”中国の赤い舌”と呼ばれています。
どうしてここが自分の領域だというのでしょうか?
それは明の時代・・・
明時代の武将・鄭和が7回にわたり大船団を率いて航海し、開発したのです。
それを理由としています。

しかし・・・当時でも実際に占領していたのはそこに近い国。
そこで、いろいろな手口を使って占領し始めました。

今まで中国が島を占領したタイミングは・・・??

占領計画
①アメリカ軍の撤退のどさくさに紛れて占領。
支配を考え出したのは1879年代でした。
アメリカとソ連に分かれての東西の冷戦時代・・・ベトナム戦争がありました。
当時南シナ海の一部は南ベトナム・アメリカ軍が占領していました。
しかし、1973年反戦運動が広まったことによってアメリカがベトナムから撤退。
そこに中国がやってきたのです。
1974年中国が南シナ海の一部を占領!!

②ソ連経済危機のどさくさで占領。
ベトナム戦争後、社会主義国となったベトナムをソ連が支援していました。
が、1980年代に入ると、ソ連に経済危機が!!
支援もできなくなったので、ベトナム軍が弱体化していきます。
1988年南沙諸島を占領!!

③台風のどさくさで占領。
台風の接近によってフィリピン軍が退いたとき・・・やぐらを建て・・・建物を建て・・・軍隊を置き・・・フィリピン軍が近づけないようになってしまいました。

中国が基地を作っている目的は、軍事基地にするためです。

海を制圧するために欠かせない軍事兵器・・・それは、空母です。
空母を作る技術がなかった中国は・・・
マカオの会社が、カジノに使うからと言って購入します。
ウクライナは、空母としての設備を取り外して売りました。
中国についてみると・・・マカオの会社はなくなっていて・・・中国軍の空母に改造されたのです。
念願の空母を手に入れたものの・・・欠陥があるといわれています。
空母が使えない・・・となると、飛行場が必要になるので・・・不沈空母としての島が必要なのです。

中国は、最終的に何をしたいのでしょうか?
”台湾”を自分のモノにする・・・中国を統一するということです。
しかし、アメリカが”待った”をかけるかも知れません。
中国とアメリカが戦争することは中国側も望んでいないので、台湾に独立させない方法として・・・
アメリカが助けられない状況を作る・・・体制をとろうとしているのです。

南シナ海の7つの島に不沈空母を作る・・・

日本も・・・沖縄も巻き込まれる??
アメリカは、南シナ海の警備に、日本の自衛隊も参加するように要請して、フィリピン・日本・アメリカと合同練習もされています。
つまり・・・南シナ海での紛争に自衛隊が関わる可能性があるのです。

日本が輸入する石油の80%が、南シナ海ルートを通っています。
そこを中国が支配すると・・・??
”シーレーンを封鎖する”という脅しに出る可能性もあり、封鎖された場合、年間1兆円の輸送費の増加が予想できます。

中国に対して日本は何ができるのでしょうか??
問われています。



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メコン川流域・・・ラオスはアジア最後の秘境と言われています。

首都はビエンチャン。
フランス領だったので、その影響がたくさん残っています。
社会主義国家なので、北朝鮮のレストランもあります。
タイのテレビ番組も見ることができ・・・日本のアニメも放送されています。

人件費が安いので、日本企業も続々と進出しています。
しかし社会主義ということもあり、競争意識が薄いので、仕事とやる気の問題があります。

ラオスはASEAN10か国のうち、唯一海に面していない国です。
国土は日本の2/3、650万人が住んでいます。
国土の約80%が山岳地帯です。
経済成長率も良く、これから発展していくと思われます。

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内陸部にあるということが、期待できる交通の要となりそうですが・・・

それを阻むのが・・・爆弾。
爆弾村と言われる村があります。

この原因は、1960年~1975年のベトナム戦争。

北ベトナム軍がラオスに逃げ込んだので、アメリカが大量に爆弾を投下し・・・ラオスは世界で一番爆弾を落とされた国となったのです。

その為ラオスにはたくさんの不発弾が残っています。

その悲劇・・・不発弾の事故も・・・今もなお続いています。

この爆弾、クラスター爆弾と言われ、空中で分裂し、辺り一面を根こそぎ破壊する悪魔の爆弾でした。
2億発以上落とされ、今でも毎日不発弾処理を行っています。

そこに日本が大きくかかわっています。
日本が車や機材などを無償援助、爆弾処理専門のNGO・JMASラオス事務局もあります。
JMASは、アフリカ・アジア各国で、地雷・不発弾を撤去し、ラオスでは7万5000発以上を処理しています。

ラオスの土地は、メコン川が流れる肥沃な土地・・・。
その大地を上手く使えば、無農薬大農場になる可能性があります。

金・銀・銅・ボーキサイトなどがたくさんあります。
鉱物開発も有望です。

ラオスの一番大きな湖・・・ナムグム湖には、大きなナムグムダムがあります。
1971年に完成したラオス初の大型水力発電所です。
ラオスは東南アジア一のバッテリーと言われ、周りの国々の供給源となっています。

このダムは、日本・・・日本工営が作りました。
当時・・・1953年~1975年は、ラオスは内戦状態にありました。
建設現場は、反政府ゲリラの拠点の傍でした。

大砲の飛び交う中、命がけの作業をしました。
内戦の影響で暗礁に乗り上げたことも・・・

「ナムグムダムなしに、ラオスの未来はない!!」

国連をも動かし。。。
国連は、ダム周辺での戦闘停止を呼びかけます。

1971年12月2日ナムグムダム第1期工事完了。
ダムはラオスの宝となったのです。

あれから43年・・・ラオスには21基のダムが出来、東南アジアのバッテリーとなりました。
電気の自給ができるということは、自国の経済成長を軌道に乗せることが可能です。
ダム21基で総発電量300万ワット。。。
ラオスの国内電力需要は70万キロワットなので、その残りをタイとベトナムに輸出しています。

ASEAN全体の一番大きな悩みは電力不足です。
ラオスがバッテリーとなり、クリーンエネルギーでASEAN成長の屋台骨となる日が来るでしょう。

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第2次世界大戦後、世界各地で紛争が起き・・・アメリカは多額のお金を使うことになります。
お金を世界中にばらまいてしまったのです。

朝鮮戦争・ベトナム戦争の勃発・・・最盛期には、50万の兵士が南ベトナムに送られました。
そして、毎日大量の爆弾を北ベトナムへ・・・!!
とてつもないお金を使ってしまいました。

おまけに南米の反政府ゲリラが・・・腐敗した独裁政権を支援します。
アフリカでもソ連側に入らないように・・・アメリカ側につくならたとえ独裁政権であろうと援助をする・・・
アメリカの仲間であれば・・・と、お金を世界中にばらまいたのです。

アメリカの持っていた金の量が急激に減ってきました。
1949年には245億ドルあった金塊が、1970年には111億ドルとなってしまいました。

はじめ、アメリカ本土にある金の価値の方が、世界中にあるドルより高かったのですが、アメリカがドルをばらまいた結果、世界中に出回っているドルのお金の量が、アメリカ本国が持っている菌よりはるかに多くなってしまったのです。

アメリカに金が無くなってしまう・・・

アメリカは居直って・・・「交換できない!!」
1971年ニクソン大統領がホワイトハウスから交換しないと宣言したのです。

「アメリカはドルを守らなければならない!!
 世界中の通貨を安定させるため、ドルと金との交換を禁止することにした!!」

これをニクソン・ショックと言います。
ドルをいつでも金に変えることができるから、ドルには信用がありました。
ただの紙切れになってしまう可能性のあるドル・・・しかし、これに変わるものがなかったので、世界のお金として使われることになったのですが・・・ドルの価値がどんどん下がっていってしまいました。
金1オンス=35ドルで交換だったものが、38ドルとなったのです。

どうする??

改めて「1ドルいくら」ということを、決めなおそうということになりました。

「固定相場制を決めなおそう!!」ということで、ワシントンのスミソニアン博物館に世界の代表が集まりました。
これをスミソニアン体制と言います。

結果、1ドル=308円になりました。
これも長続きせず・・・固定しておくわけにはいかなくなって・・・変動相場制となり・・・外国為替市場が誕生するのです。

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ケネディの暗殺を受け、大統領となったジョンソン。。。
ケネディの時代の閣僚を再任させ、ケネディの悲願だった公民権法を成立させたケネディの後を引き継いだ男です。

jyon

Great Society=偉大な社会を目標に、社会的弱者を救済することを目標にしていました。
ベトナム戦争も始まった時代のことです。

1963年11月22日、アメリカ副大統領ジョンソンは、ケネディについて故郷のテキサスにいました。
ケネディは南部ではあまり人気がなく、ジョンソンの役目はケネディの選挙に先立ち、南部でケネディを売り込むことでした。



人々の反発も見られず、遊説は大成功!!
そこに銃声が響き渡ったのです。
ダラスの暑い日です。
ケネディ大統領は即死。

jyon2
メディアは、悲報一色・・・次の大統領のことなど触れもしなかったのです。
ジョンソンは、あまり存在感もなく今まで来ていましたが、突然、国の最高司令官になってしまったのです。
もともとリーダーシップもあり、わずか数日で、ケネディの推し進める改革に着手します。

数年後、ベトナム戦争への対応から彼の評価は地に落ちます。
しかし、ケネディが打ち出した社会政策は、ジョンソンなしには成しえなかったかもしれません。
そして・・・バラク・オバマが大統領となれたのも、リンドン・ジョンソンのおかげかもしれません。

第36代アメリカ合衆国大統領リンドン・ベインズ・ジョンソン。
粗野で傲慢、人を操ることに長けていました。
一方で志が・・・リンカーンが唱えた人々は平等であるということの法制化でした。
しかし、ケネディの悲劇があるまでは、自分には出番はないと思っていたのです。

1960年の大統領選挙の民主党代表候補となったのは、ガサツなテキサス人の男・ジョンソンではなく、東部出身の見栄えのいいインテリ・ケネディでした。
ケネディを大統領に、ジョンソンは副大統領となります。
ケネディがジョンソンを副大統領としたのは、保守的な南部の党員を取り込むことだったのです。

しかし、副大統領にはほとんど権限はなく・・・

ダラスで銃声が鳴り響いたその日から、変わり始めました。

ケネディが亡くなり、長年望んでいた地位につきます。
混乱を拡大させないために!!
ジャクリーン・ケネディのとなりで宣誓をします。
宣誓が終わり・・・新大統領となったのです。

メディアが亡き大統領に向いている間に、物事を進めていきます。
閣僚とホワイトハウスの支持を取り付ける事。
演説では・・・ケネディの志を継ぐこと・・・忠誠を誓うことを強調します。
ジョンソンは南部出身でしたが、保守派でも公民権反対派でもなく・・・行き詰っていた公民権法を成立させます。
弱者への思いやりが深く憤りを感じていたジョンソンは、南部の人種隔離に対しても立ちあがります。

ジョンソンは上院議員を動かします。
ひとりひとりと連絡を取り・・・味方にしていきます。
減税法案と連邦予算の両方を可決する方向に持って行きました。
1964年2月26日減税法成立!!
2か月と少しで、ケネディが成しえなかったことをし。。。
いよいよ公民権法案を通す道を作ったのでした。

ジョンソン大統領は絶好調!!
支持率79%、ケネディの56%を大きく上回っていました。

ケネディの政策を受け継ぎながら・・・
公民権の確立と失業問題の解決を掲げます。
”貧困との無条件の戦い”の為に、10億ドル拠出します。
リベラルで進歩的、即行動の人でした。
そのキャッチフレーズは・・・”偉大な社会”・・・そのためには、公民権法の制定が必要でした。

ジョンソンは世論を導きながら・・・公民権運動確立に向けて。。。
ケネディの願いだ!!と、説得に回ります。
反対派の保守派との対決もありました。
正義は自分の側にある!!
下院も上院も通過し・・・1964年7月2日公民権法がサインされます。

そして・・・次こそは、選挙で選ばれた大統領となるための戦いが始まるのです。
彼が恐れていたのは、ロバート・ケネディが出馬すること。。。
そのことは、阻止しなければなりません。

選挙を控えて頭を悩ませていたのがベトナム。。。
ケネディ政権の下、介入を始めたアメリカ。。。
ベトコンを掃討するために、軍事援助を強化していたのです。
1964年8月事件が起こりました。
”トンキン湾事件”が起こりました。
アメリカの駆逐艦が、先制攻撃を受け・・・反撃したのです。
更なる軍事行動に???
アメリカ議会はジョンソン大統領を支持し、南ベトナムを全面的に支援する方向に。。。
圧倒的な信任がジョンソンに託され、圧勝!!
晴れて、選挙で選ばれた大統領となったのです。

医療保険・都市開発・・・80もの法案が可決されます。
公民権法と共に重要だったのが、投票権法・・・
納税の有無や、識字テストを理由に人々に投票権がなかったのです。
1965年アラバマ州はデモの聖地となっていました。
投票権法成立に向けて・・・変革を加速させていきます。
議会の抵抗は続き・・・しかし、説き伏せて成立させます。
南部を合衆国の一員とするために!!

1965年、ベトナムが表面化していきます。
軍事攻撃を強めていきます。。。北爆は3年間も続きました。
しかし、諸外国に支持されていないベトナムへの介入・・・。

国内でも黒人の自由に対する暴動が起きます。
全米38の都市に広がります。
偉大な社会は見る影もなくなっていきます。

ベトナムの戦費はアメリカを圧迫。。。
1965年  1億300万ドル
1966年  60億ドル
1967年 200億ドル。。。

泥沼の戦争で、支持率は36%にまで織り込みます。 
ジョンソンは・・・次の大統領選に出馬しない意向を示し。。。
大統領がホワイトハウスを離れ・・・時を同じくしてベトナムも和平への道へと進んでいくのでした。
ベトナムは、ジョンソンの汚点となったのです。

しかし、ジョンソンはアメリカを変えました。
法を整備し、平等と機会の均等を与えたのです。
20世紀で一番大切な時期を大統領として過ごし、ケネディが到底成しえなかったであろう公民権法・投票権法の成立させたのは、あか抜けない田舎の大統領ジョンソンだったのです。

そう、オバマ大統領は有り得なかったのです。

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