日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ペリー

江戸時代末期、相次ぐ飢饉の中で、起こった一揆・・・
その現場に自ら駆けつけ、苦しむ民を救った男がいました。
世直し江川大明神・・・人々から僧称賛された男・江川太郎左衛門英龍。
伊豆国韮山の代官でした。

静岡県東部・・・山々に囲まれた伊豆の国市韮山・・・
町の一角にあるのが江川邸です。
この屋敷にあった韮山代官所が、主人公ゆかりの場所です。
江川太郎左衛門英龍・・・35歳で江川家の当主となった秀龍は、代々受け継がれた太郎左衛門を名乗りました。
江川氏は、幕府直轄領である韮山で、世襲の代官として、警察や司法、徴税・・・様々な職務を担っていました。
伊豆国韮山を拠点に、各地を納めていた江川氏・・・
内陸にある甲斐や武蔵、そして海に面する駿河や相模にまたがる広大な地域を管轄していました。

天保の時代・・・冷害や洪水の影響で、全国的な大飢饉に見舞われ、人々は苦しい生活を強いられました。

江川家の残されている一枚の着物・・・それは、秀龍が代官として働いていた時のものえす。
傷んだ個所を自ら繕いながら、領地内をくまなくかけ廻る・・・
質素倹約を旨としていました。

長引く凶作の中、秀龍が管轄する甲斐国で一揆が起こります。
秀龍はすぐさま現地に向かいました。
実状を把握しようと、秀龍は代官の身分を隠し、行商人にその姿を変えました。
領地内の農民に話を聞くと、役人や名主の収賄の悪事が判明・・・
秀龍は即刻彼らを罷免します。
さらに、困窮した村には、ひくい金利で金を貸し付け、貧民の救済に尽くしました。
当時、甲斐国では幟が立てられました。

”世直し江川大明神”

瀬戸際の状態を救ってくれた秀龍を慕い、農民たちが感謝の気持ちを込めて奉納したものです。

代官の仕事に奔走する一方、秀龍には長年思い描いていることがありました。
伊豆の隣国である駿河や相模、秀龍が管轄した地域には、海に面した地域も多く含まれていました。
鎖国にもかかわらず、外国船が次々と来る時代・・・
伊豆をはじめとする沿岸部を抱えた英龍は、外国の脅威を肌で感じ始めていました。

1837年1月・・・幕府に宛てた初めての建議書

”伊豆は江戸ののど元に位置している
 異国の多数の軍艦に対し、入り口である伊豆を防御しなければ、江戸にも上陸されてしまう”と訴えました。

伊豆半島は、江戸に向かう外国船の目標となる防御の要・・・
日本を震撼させるペリー来航の16年も前、秀龍はすでに海外の脅威に対し、沿岸を防備する海防の必要性を唱えていました。

江川家には、秀龍に海防を意識させたとみられるしようが残されています。
江戸時代後期・・・海防の最先端の書物と呼ばれた林子平の「海国兵談」です。

”江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境無しの水路なり”

と日本は海洋国に相応しい防備を整えるべきだと説いていました。
さらに、江川家には、当時の世界地図が存在しています。
そこには、海外諸国の位置や名前が克明に記されていました。

世界地図で日本の位置をわかっていた秀龍・・・
海外と水路で繋がっているので、「海防」という言葉が出てくるのです。

幕府に最初の建議書を出してから2年後・・・英龍は、驚くべき提案をします。

「農兵を早急に取り入れたい」

秀龍が幕府に訴えたのは、農民が武器を持って戦う農兵の採用でした。
武士と農民の階級が分かれた兵農分離の時代・・・どうして前代未聞の建議をしたのでしょうか?
この頃、沿岸での防備は地元の武士に任されていました。
しかし、外国の軍艦が来航した場合、現場の武士だけではとても対応できない・・・
そこで、秀龍は、現地の農民にも武士の役割を与え、迎え討とうと考えたのです。
農民に武士を持たせることは、幕藩体制がひっくり返されるということでした。
関ケ原以来の権益が無くなる・・・と、幕府は恐れました。
幕府は農兵の採用を求める秀龍の提案を却下しました。
しかし、その後も諦めずに海防の建議書を幕府に出し続けた秀龍・・・
その数は、33通にのぼり、沿岸防備の重要性を訴えたのです。

1840年、中国・清とアメリカの間で勃発したアヘン戦争・・・
イギリスの軍事力を前に、アジアの大国・清は圧倒されました。
欧米の軍事力に恐怖を覚えた幕府は、江戸で急遽、ある訓練を実施しました。

西洋砲術の演習が後悔で行われました。
指揮を執ったのは高島秋帆・・・長崎で、西洋砲術を研究し、オランダから銃や大砲を輸入していました。
演習には、全国から100人が参加、当時としては大規模なものでした。
幕府高官、藩主から下級役人まで、多くの慣習が見守りました。
その中には、銃や大砲の効果を確かめる為に韮山から上京した秀龍もいました。
密集して銃を撃てる・・・!!
集団で撃つことが必要で、いかに多くの人数を集めるのかがポイントでした。
武士階級以外にも、砲兵や銃兵がたくさん必要でした。
それが、農兵の開発に繋がりました。
演習の一部始終を見届けた秀龍は、早速、高島秋帆の門下生となりました。
免許皆伝を受け、指導する許可も幕府から受け取ります。
秀龍は、韮山で自らの屋敷を開放し、塾を立ち上げました。
秀龍は、西洋砲術の師範として、技術を伝授・・・
後に、”韮山塾”と称されました。
塾生の中には、佐久間象山や大鳥圭介らがいました。
さらに、江川邸の一角では、農民たちを集め、隊列の訓練も行われていました。
秀龍は、韮山で自前の軍隊を結成しようと考えていたのです。

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1849年閏4月・・・イギリス軍艦「マリナー号」が来航
浦賀、下田にやってきました。
幕府に見談で測量を始めたマリナー号・・・
それに対し、奉行は退去勧告を出したものの相手にされませんでした。
ここで、幕府から交渉の命を受けたのは、長年海防の建議書を出し続けた英龍でした。
秀龍は、国際法の知識や、船舶技術を巧みに織り込みながら、マリナー号を退去させました。

マリナー号の事件から4年後・・・
1853年6月3日、大事件が発生!!
大砲を備えたアメリカの蒸気船・黒船が浦賀沖に現れたのです。
司令長官のマシュー・ペリーは、開国と通商を強く望んでいました。
江戸の町が大混乱に陥る中、ペリーは幕府に対し一年後返答を聞くためにもう一度訪れると告げ、日本を後にしました。
突然の出来事に焦った幕府は、秀龍を江戸に呼び寄せます。
そこで、秀龍は、幕府の役職「勘定吟味役」に任命されます。
秀龍、53歳。
ついに、幕府の政策決定に参画できる立場に抜擢されたのです。
秀龍は、ペリーの再来航に向け、沿岸の防備に関する意見を幕府の面々と交わします。

秀龍は、具体的な防御策を練っていました。
何を訴えるべきか・・・??
幕府の一員となった今、自らの意見が大きく左右する・・・

砲台を築いて迎え撃つのか??
今後を見越して海軍を創設するのか・・・??

1953年7月16日、秀龍は、自らの意見”防衛策に関する意見書”を幕府に提出しました。
その冒頭には、軍船の文字が・・・
その購入、製造が必要と切実に書き記されていました。
軍の創設を早急に・・・と、訴えたのです。
さらに秀龍は、意見書の中で三浦半島と房総半島を最短で結ぶ浦賀水道に砲台を設置することを提案しています。
江戸湾の入り口・浦賀水道へ砲台を置き、軍艦で迎え撃てば、黒船の侵入を未然に防ぐことができると考えたのです。
ところが、秀龍が苦心の末に考えた防御策を、幕府は受け入れませんでした。
幕府の決定は、江戸城の近場・品川沖に砲台を置く”台場”を早急に築造するというものでした。

ペリー再来航までの時間と経費を考えると、秀龍の考えた浦賀水道案は現実的に厳しいと判断した幕府・・・
その代わりに、品川沖に砲台を置くことに決めたのです。
自らの提案は採用されなかったものの、秀龍は台場築造の指揮を執る”海防掛”に任命されました。
幕府は、11基の台場を一定の間隔に築くことを計画。
それぞれの台場に複数の砲台を置き、防御力を高めようとしました。
秀龍は、直ちに台場の築造に着手します。
来るべき黒船の来航に向け、迅速に作業を進めました。

江戸での任務を遂行する一方で、秀龍は韮山にも戻ります。
台場に備える大砲の製造に取り掛かります。
外国船を迎撃するには、大砲を大量に作る必要がありました。
そこで秀龍は、ヨーロッパの技術を参考にしながら、純度が高く強い鉄を作る反射炉の建設を始めます。
そのさ中、予想外の出来事が起きます。
1854年1月16日、ペリーが予定よりも半年早くやってきたのです。

秀龍は江戸で、交渉のお膳立てを整えます。
3月3日、日米和親条約締結
その後も、秀龍の陣頭指揮のもと、台場の築造が行われました。
翌月、まず3基を完成させます。
残り8基・・・全ての台場を完成させようと意気込む英龍・・・
しかし、財政難の続いていた幕府は、アメリカとの条約を結んだ今、秀龍に築造計画の縮小を持ち掛けます。
この幕府の要請に対し、秀龍は怒りをあらわにします。

「これでは竹の先へ紙をつけて、それを立てて置いて、そうして敵を防ごうとするようなものと同じことだ」

不満を押し殺す秀龍・・・
しかし、今後、外国船の来航が増えることを考え、江戸の台場の築造と韮山の反射炉建設・・・双方に全力を注ぎます。

その年の11月・・・関東から近畿にかけて、安政東海地震が起きます。
秀龍の管轄する下田では、家屋のほとんどが流されました。
折しも日本と条約交渉に来ていたロシア船は、地震による津波で大破・・・
この時、江戸の近くにいた秀龍は、幕府の命を受け、船員たちが帰国できるように下田に急行しました。
秀龍は、下田にほど近い戸田村で、新たに洋式船の建造に取り掛かります。
江戸、韮山、戸田・・・この三カ所を行き来する多忙な日々・・・
秀龍を支えたのは、将来の海防に繋がる洋式船の建造技術を手に入れることでした。

ペリーが来航してから1年半・・・休みなく働く秀龍の体に限界が近づいていました。
そしてついに・・・江戸で病に倒れます。
1855年1月16日、秀龍は、台場と反射炉の完成を見ることなく江戸の屋敷でその生涯を閉じました。
55歳の生涯でした。

外国船の襲来から国を守る・・・!!
志半ばで倒れた秀龍の遺志は、その後どう受け継がれたのでしょうか??
ふるさと韮山に完成した反射炉は、秀龍の息子が中心となり、建設開始から4年後、1857年に完成。
2015年には世界遺産に登録されます。

海防のために真っ先に取り掛かった台場は、2カ所が現存するのみです。
およそ170年前、その検地君奔走した江川英龍の記憶は、次第に遠いものとなっていきます。


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東京・目白にある学習院大学・・・
敷地内には、大学の他にも幼稚園、中等科、高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
その起源は、江戸時代の京都にありました。
1847年、御所の日御門前に、学問所を新設・・・その2年後に、時の天皇が学習院と名付けたのです。
その名付け親こそ、孝明天皇・・・激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。
孝明天皇が在位していた20年の間に、①安政②万延③文久④元治⑤慶應・・・と、5回も変わっています。
国家を揺るがす色々なことが起きた時代でした。
この未曽有の国難にどのように対処したのでしょうか?

①前代未聞
弘化3年2月、もう姪天皇は16歳で天皇の位を承け継ぎます。
その5月、事件が勃発します。
日本近海に度々外国船がやってくる中、浦賀にアメリカ艦隊が来航します。
通商条約の締結を要求してきたのです。
さらに、6月には長崎にフランス艦隊が来航・・・
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし、その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動を起こします。
時の関白を通じ、幕府へ勅書を下したのです。

「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
 幕府は異国を侮らず畏れず、海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ」by孝明天皇

その孝明天皇の勅書に、時の将軍・第12代家慶をはじめ幕府の役人たちは驚きます。
何故なら、幕府の政策に天皇が口出しするなど前代未聞のことだったからです。

当時の天皇と幕府の関係は・・・??
形の上では、天皇が将軍に国政を委任するというものでした。
実際、圧倒的に幕府が力を持っており、朝廷は抑えられているという感じでした。
天皇・朝廷が幕府に口を出すことはなかったのです。

その理由の一つが、天皇・公家は、幕府から経済的な支援を受けていました。
天皇の所領は禁裏御料と呼ばれ、3万石。
さらに、朝廷に仕える公家たちには合わせて7万石ほど・・・
つまり、幕府は朝廷に年間10万石を献上していました。

幕府からの支援を受け、孝明天皇は豪勢な生活をしていました。
幕府の支援を受けながら、実に優雅な暮らしを送る孝明天皇・・・
ひどく怖れていたのは、開国を迫る欧米諸国の存在です。
嘉永6年、アメリカからペリーが来航し、開港を要求します。
日本は激動の時を迎えます。
安政元年、アメリカの強硬な開国要求に、日米和親条約を締結・・・
箱館と下田の二港を開港しました。
さらに、イギリス、ロシアとも条約を結びます。
この時、孝明天皇は、朝廷がある関西地方の警備体制の強化を要望しながらも、条約締結に関しては承認します。
なぜなら、和親条約は友好をうたったもので貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
箱館、下田は、京都から遠く離れていたので、恐れるほどではなかったのです。

しかし、事態は急転・・・

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安政3年、アメリカから在日総領事ハリスが下田に着任します。
正式な交易・・・通商条約の締結を要求してきました。
さらに、アメリカ大統領からの親書を、直接江戸城で将軍と謁見し渡したいというのです。
幕府は、ハリスの要求を受け入れます。
将軍との謁見を許可し、通商条約締結へ向けての交渉に入ったのです。
この時、幕府ははなからアメリカと戦う気などありませんでした。
隣国である中国・清がイギリスとのアヘン戦争にやぶれ、不平等な通商条約を結ばされたうえ、香港の割譲を強いられるという惨状を知っていたからです。

欧米諸国と戦えば、清と同じ運命をたどる・・・
開国賛成派と、鎖国維持派・・・諸大名の意見は真っ二つに分かれ、合議を得るどころではありませんでした。
そこで、天皇からの勅許を得られれば、みな、アメリカとの条約締結を納得すると考え朝廷に老中を派遣します。
この時、京都御所に向かったのは、堀田正睦・・・孝明天皇を簡単に説得できるだろうと考えていたようですが・・・孝明天皇は幕府を驚かせます。
幕府が条約締結へと動いていると事前に聞いていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。

「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは後々まで恥となる」

だから、条約締結は承認できないと・・・!!
幕府の提案を承認しないなど、前代未聞・・・!!
幕府とうまくやっていきたい公家たちは、困惑しました。
天皇の御威光をそのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・なんと返答すべきか・・・??
迷った挙句、公家たちは参内した老中・堀田正睦にこう告げました。

「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで改めて帝が判断を下される・・・!!」

開国に反対する大名を納得させるためにわざわざ京にまでやってきたのに、その大名の意見をもう一度聞いて来いと・・・??
堀田はこれを拒みます。

「アメリカと戦っても、勝ち目などありません
 世界の情勢を見ても、通商条約締結はもはや避けられないことなのです」by堀田

理路整然と説明し、涙ながらに訴えました。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は、朝廷にこう迫ったといいます。

「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田

これに対し孝明天皇は、

「アメリカが武力に訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇

あくまでも孝明天皇が望んでいたのは、今までの体制・・・鎖国体制の維持継続でした。
折り合いをつけるという方法を知らないアメリカの強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”に繋がったのです。
それが、攘夷につながった可能性があります。
頑なな天皇を前に、なすすべを失くした堀田は、勅許を得ぬまま江戸へと戻っていきました。

幕府は強硬手段に出ます。
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼・・・
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の許可を得ることもなく、日米修好通商条約に調印(安政5年)。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れました。

「絶体絶命の今、うかうか致してはおられぬ!!」by孝明天皇

天皇は、すぐに幕府に御趣意書を送り、猛烈に抗議!!

「この度の幕府の措置は、厳重に申せば勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである」by孝明天皇

それでもまだ収まらない孝明天皇は、水戸藩に勅書を下します。
さらに、その内容を他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は、独断で日米修好通商条約を締結した幕府に、経緯の説明を求めること
さらに、外国人を打ち払う”攘夷”を推進すべく幕府を改革していくこと
を、強く求めました。
ただし、これは天皇の越権行為でした。
幕府は天皇と諸大名が直接やり取りすることを禁じていました。
それだけ、孝明天皇は幕府に対して怒っていたのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇をまるで逆なでするかのように更なる強硬手段に出ます。
天皇や朝廷側につく尊王攘夷派を大量に処罰!!
吉田松陰や橋本佐内は死罪となりました。
世に言う安政の大獄です。
これを聞いた天皇は、再び激怒!!
扇子で関白の頭を執拗にたたいたと言われています。

どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか??
200年以上鎖国体制が続いていました。
急に開国しようとも気持ちがついていきませんでした。
当時は変化を嫌い、如何にして今を保つかが大事なことでした。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代で変えることに抵抗があったのです。

将軍の職務は、外国人を制圧することにありました。
征夷大将軍の職務を果たしていないのでは・・・??

孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を勝手に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派の者たちを大量に処罰した江戸幕府の大老・井伊直弼・・・当然、その強引なやり方は多くの敵を生みました。
安政7年3月3日・・・江戸城桜田門の前で、井伊は暗殺されます。
襲撃の主犯は、尊王攘夷派の水戸藩士たちでdした。
これをきっかけに、諸大名の幕府の強引なやり方に反発・・・幕府の権威は急激に失墜していきます。
そして、こののち、孝明天皇は、図らずも維新という大きな渦に巻き込まれていくのです。


②妹・和宮
失墜した権威を取り戻すべく、幕府は朝廷と融和し、一体となる体制・・・公武合体を画策します。
その象徴として進められたのが、14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の結婚でした。
皇族が武家である将軍家へ嫁ぐなど、前代未聞のことでした。

この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、迷っていました。
なぜなら、妹には婚約者・有栖川宮熾仁親王がいたからです。
そして、何より和宮が江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人たちが多く暮らす江戸は恐ろしい場所に映っていました。
妹の幸せを願った孝明天皇は、この縁談を却下・・・
しかし、幕府は食い下がります。
困った天皇は、信頼を置く公家・岩倉具視に助言を求めました。
すると岩倉は・・・
「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは・・・」
そこで、その条件を幕府に突き付けると、
「10年以内に鎖国体制に戻す」
つまり、孝明天皇の望み通り、攘夷を決行すると約束してきたのです。

問題は頑なにこの結婚を拒む和宮でした。
幕府から攘夷の約束まで取り付けた孝明天皇は、いまさら破談にはできません。
そこで、和宮の代わりに生れたばかりの娘・寿万宮を嫁がせようと考えます。
すると・・・それを知った和宮は、自分が江戸へ行かなければ誰かが犠牲になると、兄のため、朝廷のため、将軍家に嫁ぐ決意を固めたのです。
その代わりに和宮は、
・大奥に入っても御所の流儀を通すこと
・御所の女官を御側付きにすること
などの条件を出しました。
孝明天皇は、苦渋の決断を下した妹のため、幕府に和宮の要求を順守することを厳しく命じたうえで、江戸へと送り出しました。

これによって、孝明天皇は幕府に大きな貸しを作りました。
降嫁の交換条件として出した”攘夷”を幕府はいつ決行するのか??
幕府に対し、有利に立った孝明天皇は、人事にまで介入します。
”老中を決める際、事前に天皇に伺いをたてること”を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。

さらに孝明天皇は、悲願だった攘夷実現に動き出し、それが、”尊王攘夷”という大きなうねりを生み出すことになります。
ところが、この後、天皇は意外な行動に出ます。

和宮は、家茂のやさしさに、二人の仲も睦まじく・・・公武合体もうまくいくと思われました。

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そんな中、新しいうねりが巻き起こります。
孝明天皇のもとで政治を行い、開国を迫る外国勢を打ち払おうという尊王攘夷運動です。
理想に燃える尊王攘夷派の志士たちの存在を、孝明天皇も当初は容認していました。

③尊王攘夷派
天皇がいる京都に続々と集まる尊王攘夷派の志士たち・・・
その中心となったのが、桂小五郎久坂玄瑞らを中心とする長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけて行ったのです。
そんな中、文久3年3月、将軍・徳川家茂が上洛・・・
将軍の上洛は、3代将軍徳川家光以来およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつけた形になります。
幕府は、「文久3年5月10日に攘夷を決行する」ことを約束させられます。
孝明天皇が、将軍・家茂に約束させた攘夷決行日である5月10日・・・尊王攘夷を掲げる長州藩が動き出します。
下関沖を航行中のアメリカ商船を砲撃!!
ついに、攘夷を実行に移したのです。
さらに、長州藩は、当時めったに行われなかった天皇の行幸を勝手に計画。
①神武天皇陵・春日大社を参拝
②孝明天皇の指揮で譲位を行うべく軍議を開く
長州藩と尊王攘夷派の志士たちの行動は、日に日に過激さを増していきます。

ところが・・・文久3年8月18日、京都・御所・・・クーデターが勃発します。
長州藩とそれに味方する”尊王攘夷派”の公家が京都から追放されます。
八月十八日の政変・・・クーデターを実行したのは、公武合体派の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは、孝明天皇だったのです。
どうして味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか??

はじめのうちは、尊王攘夷派は、孝明天皇の意見を代替えする存在でした。
しかし、いつしか孝明天皇の意向を無視して、ことを進めていくようになったのです。
孝明天皇が望んだのは、幕府による緩やかな攘夷だったのです。
尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇はあくまでも幕府と共にやっていきたい・・・幕府と共に国を治める公武合体だったのです。
しかし、尊王攘夷派を追放し誰がために、孝明天皇自身の運命が大きく変わっていきます。

過激な尊皇攘夷派を追放したのち、孝明天皇は再び参内した徳川家茂に対し、こう表明します。

「無謀な征夷は実に朕が好むところに非ず」

なんと、急進的な攘夷は望まないというのです。
幕府に対し、あれだけ攘夷を主張してきた孝明天皇が、その態度を軟化させたことに世間は驚きました。
天皇の真意は何処にあるのか??
”攘夷”の態度を軟化させたことで、世間は孝明天皇に対し、不信感を抱くようになります。
天皇の絶対的な権威に対する疑い・・・

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フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相

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時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

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1882年イギリスにて・・・ひとりの日本人の伝記が発表されました。
タイトルは”吉田寅次郎”・・・幕末の志士・吉田松陰。。。
作者は、”ジギル博士とハイド氏”のロバート・スティーブンソンです。

「ほかの人間なら意気消沈してしまいそうなどんなことがおこっても、
 吉田はかえって自分の使命を果たす意欲をかきたてた。」

syouin松陰は、どんな困難が起こっても、常に自分の信じる方向へ向かっていきました。
あの時代・・・押し寄せる西欧列強!!開国を迫ってきました。
対等に見てくれない西欧列強に対して、断固と立ち向かう松陰!!
日本の独立を守るためにはどうすればいいのか??

松陰は、長州藩・下級武士杉家の次男として生まれます。
苦しい家計を支えるために、家族で畑を耕す毎日でした。
5歳の時・・・親戚の吉田家に仮養子として迎え入れられます。


吉田家は、長州藩で山鹿流兵法師範を務める家柄でした。
山鹿流兵学は、江戸時代に生まれた兵学で、戦術だけでなく、武士道・精神論を重視した兵学です。

松陰を指導したのは、叔父の玉木文之進。
その教育はまさにスパルタでした。
そこで教えられたのは「公」と「私」。
自分の人生は長州藩のためにある!!と、松陰は作り上げられていきます。
そして・・・わずか11歳で藩主・毛利敬親に兵学講義を行えるまでになりました。
長州藩は、松陰に一目置かれるようになり・・・明倫館で兵学講義を行うようになります。

その頃・・・アジアを震撼させたのはアヘン戦争!!
1840年イギリスが清でアヘンを密輸出したことが原因で起こった戦争です。
そして・・・あの清がイギリスに敗れた!!と、周辺諸国を恐怖に陥れます。
三方を海に囲まれた長州藩!!危機感を募らせていきます。

そして・・・松陰の関心は世界へ・・・!!
その中でも、もっとも関心があったのは、アメリカ合衆国のようです。

「不羈独立を目指す!!」ようになるのです。

長崎で・・・自分の浅はかさに気付き、アヘン戦争の実態を調べます。
”イギリスは百発百中だったのに対し、清の大砲は、十発のうち九発は当たらなかった”という現実に・・・西欧とアジアの力の違いは歴然としていました。

山鹿流兵学・伝統兵学・和流砲術で十分ヨーロッパと戦えると思っていた松陰・・・
アヘン戦争の厳しさ、中国の軍備が通用しない現実を知ることとなるのです。

自分が学んできたこれまでの兵学、軍備は役に立たない・・・!!
長州を守るためにどうすればいい??

1851年、松陰は自分の知識を高めるために、江戸へ遊学します。
そして・・・さらに東北への旅を計画します。
当時、津軽海峡にはロシア船の恐怖に晒されていたからです。
しかし・・・出発の期日までに藩の正式な許可証が発行されませんでした。
なので、脱藩して友人と東北の旅に出ます。
つまり、”私”よりも”公”を大切にするということです。
個人的に、脱藩の罪に処せられてもそれは個人の問題で、公の長州藩の名誉を守ったのです。

脱藩を冒してまで旅に出た松陰は・・・水戸でその後の人生を左右する人物に出会います。
会沢正志斎です。
当時・・・日本人は、自分たちの国は藩だと思っていました。
その中でも会沢は・・・”国とは天皇を中心とした日本全体”という考え方をしていたのです。
そう、どこまで守ればいいの?という答えは、水戸にあったのです。
そして、”日本”を意識するようになります。

旅から帰ってきた翌年の1853年・・・ペリー艦隊が浦賀に来航!!
幕府に開国を迫ります。
「これらの船は、艦隊のごく一部にすぎない!!今度は、全艦連れて帰ってくる!!」byペリー

不羈独立への道を進むために攘夷を・・・!?

翌年ペリーが来航した時にどういう対応をすべきか??
主君に進言し、長州藩を通して幕府に訴えようとします。
ペリーに対して攘夷を決行することを薦めます。
しかし、単なる追い払いではなく・・・大砲・小銃は西洋のモノに・・・海軍も西洋に習うべしとしています。
そのためには、国を開くこともありうると・・・!!

しかし・・・幕府も長州藩も・・・勝ち目のない戦には賛同してくれません。
当時の長州藩としては、幕府を重視していました。幕府を批判して軍備をやるというのは、長州藩の方針ではなかったのです。
松陰の危機感をよそに時間は過ぎていきました。

1854年1月ペリーが再び来航。
しかも、4隻ではなく・・・7隻で・・・!!

3月3日・・・遂に日本は日米和親条約を結びます。
武力を背景としたペリーに屈したのです。
アメリカとの国交ができたということは、松陰の攘夷も無くなり・・・しかし、大国に屈しないためにどうすればいいか?考えます。

条約調印後、ペリーは下田に移っていました。
ペリーの後を追って松陰は、3月18日弟子の金子重之助と一緒に下田に入ります。
厳戒体制の下田で・・・匿われながらあの計画を練っていました。
海外密航の・・・!!
優れた文明を学ぶために!!

当時、海外留学は幕府によって固く禁じられていました。
発覚すれば死罪かも・・・??
日本の独立をかけてそんな計画を練っていた松陰。
3月27日金子と共に港の中の小島に身を隠します。
寝静まるのを待って深夜2時・・・遂に決行します。
荒波の中、漁船でペリー艦隊へと向かいます。

「世界を見たい・・・!!」

懸命に、海外への思いを訴える松陰・・・しかし、それがペリーに届くことはありませんでした。
結局・・・送り返されることとなった松陰と金子。。。
人生をかけた松陰の計画は失敗と終ったのです。

この事件は死の危険を冒すことも厭わなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして非常に興味深かった。
この日本人を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか。
失敗に終わった松陰の海外密航・・・それは、ペリーに日本人の力強さを見せつけたのでした。

ペリーの助言もあって、命を助けられた松陰は、萩にある実家の杉家で謹慎生活を送ります。
そこに集まってきたのは将来の日本を憂う若者たちでした。
松下村塾を開き、語り合うようになります。
久坂玄瑞・高杉晋作・・・明治維新の原動力となった人々に、大きな刺激を与えるのです。

松陰は罪人だから、松下村塾に行くのは立身出世にはマイナスです。
あえて行こうと思ったのは、松陰の人間性にだったのです。
集まった門下生にあった教育を施す松陰・・・
しかし・・・それも長くは続きませんでした。

幕府の実権を握っていたのは大老・井伊直弼。。。幕府の強化を進めるために、安政の大獄を行います。
松陰はこの取締りの対象となります。
江戸で幕府の取り調べを受ける松陰・・・。
取り締まりの結果・・・死罪・・・。

1859年10月27日吉田松陰・斬首。。。

syouin1















故郷の萩・・・生誕地のすぐそばに、松陰の墓があります。
この墓が建てられたのは、松陰の死からわずか4か月・・・。
罪人だった松陰の墓を造ることははばかられていました。
にもかかわらず・・・それを実行したのは、高杉晋作をはじめとする門下生たちでした。
松陰の意志を受け継ぎたいと、自らの名も彫り込んでいます。

松陰の死後8年・・・門下生たちは、徳川幕府を倒し、新しい時代を築いていきます。
新政府のメンバーとなった木戸孝允・伊藤博文は、明治4年に新政府主要メンバーと共に欧米視察に出ます。
松陰の意志を受け継いだのは他にも・・・
鉄道建設に尽力した飯田俊徳・東京工業大学初代校長の正木退蔵・近代造船の発展に尽力した渡辺蒿蔵・・・彼ら門下生も、海外留学し、日本をリードしていきます。

西欧に負けない国を目指す!!
不羈独立・・・門下生たちは、独立した確固たる日本を作るために走り続けたのです。


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BS歴史館、「幕末・日本外交は弱腰にあらず」~黒船来航に立ち向かった男たち~です。

本当に?って、感じですが・・・。
とかく日本は弱腰外交と言われていますが・・・本当なのでしょうか?

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1853年6月3日
浦賀沖に黒船が来航します。圧倒的な軍事力を持って。

翌1854年日米和親条約締結、1858年日米修好通商条約締結、これらは日本にとっては恩恵だったというのです。

ペリーは開国に持っていくことは出来ず、日本も要求するところは要求し、話し合うところは話し合い、弱腰外交とは言えなかったのです。

当時の日本は、唯一出島で、オランダと中国のみと外交していました。そこへ、黒船が浦賀に出現、関東が大砲の射程圏内に入るのです。

ペリーは大統領の親書を持っていました。それには・・・

①漂流民の保護
②外国船への燃料や食料の供給
③貿易の開始

が書かれていました。

翌年5月に返答すると定めます。

が、ペリーは1月11日に、しかも船を9隻に増やしてやってきました。
「条約の締結が受け入れられない場合は、戦争になるかもしれない!!当方は、近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意している。これら100隻は20日間で到着する。」ペリーの恫喝外交の始まりでした。

これに応対したのは、昌平坂学問所の塾頭、林大学頭でした。では、何故学者が?これは、禍根を残さないため「学者のしたことだから・・・。」にしたかったようです。

が、この大学頭、死闘を繰り広げます。

2月10日第一回交渉

ペリーは①も②も守っていないので、戦争によって雌雄を決することになる!!と、砲艦外交を始めます。

林は、まず、③貿易の開始については硬く禁じられていると跳ね返します。そして、①②については、伝聞の誤りではないか?と、指摘します。

まず、②外国船への燃料や食料の供給は・・・。「異国船打払令」は11年前に廃止しています。代わって「薪水給与令」を出し、外国船に燃料や水の給与を認め、穏便に出国させる法令をつくっています。と、説明しました。この、異国船打払令、廃止した要因は、中国がアヘン戦争でボロボロになったのを見て、二の舞になることは避けるため、廃止していたものでした。

そして③、漂流船の人を罪人同様に扱っているというのは・・・。
1848年、ラゴダ事件がありました。これは、漂流していたアメリカ人が、アメリカ人同士で殺人に及んだ結果、保護のためやむなく投獄したというものでした。

これを取り出し、やむなく投獄したことはありますが、非道な政治ではなく、貴国と戦争に及ぶ理由はひとつもない!!と、事実に基づいた確かな反論をするのです。

そして、これ以上言うことはないと、ペリーの脅し、恫喝に屈せず論破しました。今でもアメリカは、世界で恫喝外交をしていますが・・・これに対抗したのです。

ちなみにこの林家、江戸時代に外交文書を司っている家でした。バタビアから幕府に提供された世界情勢の報告書であるオランダ別段風説書を持っており、ペリーのことは何もかも調べ上げていたようです。

つまり、私達が思っているほど、世界情勢に対して疎くはなく・・・それは、日本としてはロシアの恐怖を感じていたからです。

ペリーまでの50年間は、日本に外国船がやってくることはしばしばで、突然のことではないのです。

で、第二ラウンド、交易については・・・。
日本にメリットがある!!外貨を稼げる!!と、アメリカは説得しますが、これも「自国の産物で十分に足りている!国法を直ちに廃することは出来ない」と、跳ね返します。

これには切実な問題がありました。。。
1840年~42年アヘン戦争がありました。このきっかけは交易でした。交易からアヘンが入ってきたのです。中国、当時の清は、イギリスの圧倒的勢力に負け、南京条約を結び、香港を割譲することになるのです。

このようなことは、最も避けなければなりません。

これは、アメリカが①で使った、人命の尊重を逆手に取り、「第一に人命の尊重と申された。開港は人命尊重とは関係ない」と、またもや論破するのです。

2月19日第二回交渉

ここでアメリカは、長崎だけでは不便だと、開港地を要求します。これは、交易に繋がる作戦でした。これに対し日本は、だというなら、何故、親書に記さなかったのか?当方は長崎だけで、何の異論もないと思っていた。と、反論します。これ以降、交渉は林のペースになっていくのです。

2月26日第三回交渉

南は下田、北は箱館の2箇所にしてください。と、日本が申し出ます。
これは、もともと長崎一港主義でしたが、ペリーに花を持たせたのです。

2月30日

アメリカが、「港から四方へ10里は自由に行動したい」と、言ってきます。これに対し、「薪や水の供給だけならそんなに遠方まで行く理由が見当たらない。」と反論し、遊歩地は、7里の内となります。これは、林の計算でもありました。天城峠より北へは上がれないからです。なるべく日本人との接触を防ぎ、日本を守ろうとしたのです。

1854年3月3日日米和親条約締結。厳しく交易を制限するものでした。この時点では、まだ日本は開国しておらず、通商を押し返して和親の状態に止めたということで、外交上は成功。孝明天皇もお慶びになったのです。

ペリーは後に言っています。日本人がひとたび文明開化の技能を手に入れれば、強力なライバルになるだろう。と。

ペリーは日本を甘く見て、条約の専門家を連れてきていませんでした。アヘン戦争後、清と米が結んだ不平等条約であるワンシア条約をそのまま持ってきてしまっていたのです。これに、反抗できたのは、日本の目が世界に向いていたことと、日本の教育・文化が高かったことが上げられます。

では、何故和親条約が不平等条約として扱われているのか・・・。それは、和親条約と通商条約がごちゃごちゃになっているからです。

幕末の歴史は、薩長が書いたもの・・・。本当のエリートは幕臣であったなどとは書かないのです。


1856年7月21日ハリスがアメリカの領事として下田に到着します。
これは、和親条約第11条に「合衆国官吏のもの、下田に差置候儀も可有之。」という条文があり、アメリカがこれに目をつけたのです。
日本は「両国が必要とするならば・・・」と解釈していましたが、アメリカはこれを、「どちらか一方が必要とするならば・・・」と、自分達に都合のいい解釈をしたのです。そして日本が今、いかに危ないかを説くのです。

1856年清でアロー戦争勃発、次は日本が狙われていました。
ハリスはアメリカとの貿易を望みます。
「私のように和平の使者としてやってきた人間の公正な希望を聞き入れるか、イギリスの武力による不当な圧力に屈するか!!今や問題は、いかなる形で貿易を始めるかだ!」と迫るのです。

対応したのは目付岩瀬忠震。外国奉行のエリートでした。この人は、ハリスと並ぶ開国の仕掛け人です。海防掛という幕府が設置した海外問題を処理する職務についていました。ちなみに林大学頭は叔父に当たります。

この時、幕府でも危機感は感じてはいましたが、意見は分かれていました。
攘夷派VS開明派(中心が岩瀬)
岩瀬は、今の日本の軍事力では、とても欧米列強にはかなわない、一刻も早く開国して、アヘンを自由に売らせないためにも居留地を作り、将来に備えなければならない。と、思っていました。

彼のビジョンは、年貢よりも地方特産物の輸出、蝦夷地の開墾、横浜を開港しての貿易でした。

当時政府は江戸でしたが、経済的富の7~8割を大坂に持っていかれていたというのが現状でした。岩瀬は貿易の利益を江戸に集中させようとしたのです。

では、何故横浜?紛争を防ぐため、西洋人を一定の区画に閉じ込めておこうとし、横浜を巨大な出島にしようとしていました。

1857年10月14日ハリス江戸に到着、条約草案を提示します。

しかし、日米の思惑は全くかけ離れていました。
アメリカは、大坂など8箇所の開港と京都などでの自由貿易を要求してきました。

交渉が開始されました。
「日本は国が小さいので、3港以上は開かないことに決めました。その代わり大きな港を提供しよう。その港に満足がいったなら、また開港したい。」と、日本が申し入れますが、ハリスの狙いは大坂でした。商業の中心地で大きな自由貿易がしたかったのです。

当時攘夷運動が盛んに行われていました。京都が拠点となり、流血事件も日常茶飯事でした。だから、外国人は京都・大坂には入れられない!!京都の市場開放と大坂の開港は、謀反へと繋がりかねませんでした。
御所と伊勢神宮は守らなければなりませんでした。

岩瀬は「もし、貴下の大統領が日本の親切な友人であるなら、無秩序と流血をもたらすようなことを主張できるはずが無い」と、譲りませんでした。

ハリスは京都を断念。しかし、大坂は商いに最も適しているから譲れない!日本の国益にもなると、主張します。

ここで岩瀬は攘夷運動を逆手に取り「内乱が起こるのは外国との戦争より恐ろしい。内乱をするなら外国と戦争するほうがましだ!」と、突っぱねるのです。

そして、日米修好通商条約全14条が出来ました。
岩瀬とハリスは条約の内容を現実的なところに落とし、ほぼ岩瀬のプラン通りになりました。しかし、これは日本の制度全体を変える大きな出来事でした。

開港地は横浜・長崎・新潟・兵庫(大坂が駄目だから・・・。)箱館になりました。後に不平等条約といわれるこの条約、理由は

領事裁判権の容認と、関税自主権の喪失が大きな理由ですが、岩瀬は十分対処できると思っていました。

領事裁判権は居留地だけの話だし、関税自主権の喪失は、当時は20%もあったので、不利ではなかったのです。

ハリスは後に「岩瀬は機敏で反論が上手でした。私は答弁に苦しんだばかりでなく、岩瀬に論破されてしまい修正せざるを得なかった条項が多かった。」と言っています。

あとは調印のみ!しかし、徳川斉昭ら攘夷派が反発、岩瀬は調印の勅許を受けるため京都へ赴きます。

1858年1月25日上洛、孝明天皇に謁見するも、貿易に反対する公家が天皇に進言しており、勅許が下りなかったのです。岩瀬の目論見が外れた瞬間でした。

井伊直弼は、勅許が無ければ開国しないと決定します。が、激しく調印を迫るハリス。

そこにアロー戦争の最新情報が入ります。英仏艦隊来航情報がもたらされるのです。このままでは、通商条約は不利な条約になってしまう!!今までの苦労が水の泡になってしまう!!岩瀬はハリスに「調印したら英仏の間に入ってほしい」と、誓約書を書かせ、井伊直弼の「止む終えない場合は調印してもいい」という言葉にすがるように

1858年6月19日勅許なしに調印。
しかし、9月5日井伊直弼によって左遷後永蟄居処分となるのです。

この後、安政の大獄→開国の一途をたどるのですが・・・。
1861年7月11日岩瀬忠震失意のうちに死去、享年44歳。
1862年生麦事件
1863年薩英戦争 と、攘夷に拍車がかかっていきます。
1863~64年下関戦争
1866年関税誓約書調印
     関税20%から5%に引き下げ
この結果、日米修好通商条約は不平等な条約になってしまったのです。

岩瀬は無断調印をし、その後混乱したが、アジアで植民地化されなかったのは日本だけでした。日本の将来を考えた上での調印で、評価に値します。

では、何故勅許が下りなかったのか?当時はかなりの情報格差があり、天皇も薩長もこの情報を持っておらず、世界の情報は幕府のエリートたちが持っていたからでした。

岩瀬の甘かったところは、外国のことは解っていたが、日本のことは天皇が何を考えているかがわかっていなかったということでした。

岩瀬は左遷、幽閉され、名前もあまり知られていませんが、彼の作った
講部所は陸軍に、海軍伝習所は海軍に、アメリカに勝海舟ら人材を派遣したその人でした。

この通り、幕末外交は弱腰ではありませんでした。
彼らは(決)断と(見)識のあったのです。

幕末はお金も国力も軍事力もありませんでしたが、人材がいました。そして、この人たちが明治維新へと繋がっていくのです。

やはり、勝てば官軍ですね・・・。岩瀬が蟄居した理由も攘夷だし、苦労した条約も、不平等にしたのは薩長だったのかしら?と、思うとやはり歴史は後世の人間の作ったものだから、今は明治政府の良いように書かれているのでしょうね。

あのままの条約でいたら、日本はどうなっていたのかな・・・。
そしていつも思うのです。誰が一番ずるいかって、どう考えても公家でしょう!!と。色々画策するのに自分では手は汚さないなんて・・・。(天皇ではないのよ)


ああ、頭が痛いですね。
100年経たないと、そのときの政治がどうであったか判断は難しい。と、言いますが、今日の政治は100年後の人たちにはどう評価されるのかな・・・。<(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ...

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