日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ペリー

時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

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1882年イギリスにて・・・ひとりの日本人の伝記が発表されました。
タイトルは”吉田寅次郎”・・・幕末の志士・吉田松陰。。。
作者は、”ジギル博士とハイド氏”のロバート・スティーブンソンです。

「ほかの人間なら意気消沈してしまいそうなどんなことがおこっても、
 吉田はかえって自分の使命を果たす意欲をかきたてた。」

syouin松陰は、どんな困難が起こっても、常に自分の信じる方向へ向かっていきました。
あの時代・・・押し寄せる西欧列強!!開国を迫ってきました。
対等に見てくれない西欧列強に対して、断固と立ち向かう松陰!!
日本の独立を守るためにはどうすればいいのか??

松陰は、長州藩・下級武士杉家の次男として生まれます。
苦しい家計を支えるために、家族で畑を耕す毎日でした。
5歳の時・・・親戚の吉田家に仮養子として迎え入れられます。


吉田家は、長州藩で山鹿流兵法師範を務める家柄でした。
山鹿流兵学は、江戸時代に生まれた兵学で、戦術だけでなく、武士道・精神論を重視した兵学です。

松陰を指導したのは、叔父の玉木文之進。
その教育はまさにスパルタでした。
そこで教えられたのは「公」と「私」。
自分の人生は長州藩のためにある!!と、松陰は作り上げられていきます。
そして・・・わずか11歳で藩主・毛利敬親に兵学講義を行えるまでになりました。
長州藩は、松陰に一目置かれるようになり・・・明倫館で兵学講義を行うようになります。

その頃・・・アジアを震撼させたのはアヘン戦争!!
1840年イギリスが清でアヘンを密輸出したことが原因で起こった戦争です。
そして・・・あの清がイギリスに敗れた!!と、周辺諸国を恐怖に陥れます。
三方を海に囲まれた長州藩!!危機感を募らせていきます。

そして・・・松陰の関心は世界へ・・・!!
その中でも、もっとも関心があったのは、アメリカ合衆国のようです。

「不羈独立を目指す!!」ようになるのです。

長崎で・・・自分の浅はかさに気付き、アヘン戦争の実態を調べます。
”イギリスは百発百中だったのに対し、清の大砲は、十発のうち九発は当たらなかった”という現実に・・・西欧とアジアの力の違いは歴然としていました。

山鹿流兵学・伝統兵学・和流砲術で十分ヨーロッパと戦えると思っていた松陰・・・
アヘン戦争の厳しさ、中国の軍備が通用しない現実を知ることとなるのです。

自分が学んできたこれまでの兵学、軍備は役に立たない・・・!!
長州を守るためにどうすればいい??

1851年、松陰は自分の知識を高めるために、江戸へ遊学します。
そして・・・さらに東北への旅を計画します。
当時、津軽海峡にはロシア船の恐怖に晒されていたからです。
しかし・・・出発の期日までに藩の正式な許可証が発行されませんでした。
なので、脱藩して友人と東北の旅に出ます。
つまり、”私”よりも”公”を大切にするということです。
個人的に、脱藩の罪に処せられてもそれは個人の問題で、公の長州藩の名誉を守ったのです。

脱藩を冒してまで旅に出た松陰は・・・水戸でその後の人生を左右する人物に出会います。
会沢正志斎です。
当時・・・日本人は、自分たちの国は藩だと思っていました。
その中でも会沢は・・・”国とは天皇を中心とした日本全体”という考え方をしていたのです。
そう、どこまで守ればいいの?という答えは、水戸にあったのです。
そして、”日本”を意識するようになります。

旅から帰ってきた翌年の1853年・・・ペリー艦隊が浦賀に来航!!
幕府に開国を迫ります。
「これらの船は、艦隊のごく一部にすぎない!!今度は、全艦連れて帰ってくる!!」byペリー

不羈独立への道を進むために攘夷を・・・!?

翌年ペリーが来航した時にどういう対応をすべきか??
主君に進言し、長州藩を通して幕府に訴えようとします。
ペリーに対して攘夷を決行することを薦めます。
しかし、単なる追い払いではなく・・・大砲・小銃は西洋のモノに・・・海軍も西洋に習うべしとしています。
そのためには、国を開くこともありうると・・・!!

しかし・・・幕府も長州藩も・・・勝ち目のない戦には賛同してくれません。
当時の長州藩としては、幕府を重視していました。幕府を批判して軍備をやるというのは、長州藩の方針ではなかったのです。
松陰の危機感をよそに時間は過ぎていきました。

1854年1月ペリーが再び来航。
しかも、4隻ではなく・・・7隻で・・・!!

3月3日・・・遂に日本は日米和親条約を結びます。
武力を背景としたペリーに屈したのです。
アメリカとの国交ができたということは、松陰の攘夷も無くなり・・・しかし、大国に屈しないためにどうすればいいか?考えます。

条約調印後、ペリーは下田に移っていました。
ペリーの後を追って松陰は、3月18日弟子の金子重之助と一緒に下田に入ります。
厳戒体制の下田で・・・匿われながらあの計画を練っていました。
海外密航の・・・!!
優れた文明を学ぶために!!

当時、海外留学は幕府によって固く禁じられていました。
発覚すれば死罪かも・・・??
日本の独立をかけてそんな計画を練っていた松陰。
3月27日金子と共に港の中の小島に身を隠します。
寝静まるのを待って深夜2時・・・遂に決行します。
荒波の中、漁船でペリー艦隊へと向かいます。

「世界を見たい・・・!!」

懸命に、海外への思いを訴える松陰・・・しかし、それがペリーに届くことはありませんでした。
結局・・・送り返されることとなった松陰と金子。。。
人生をかけた松陰の計画は失敗と終ったのです。

この事件は死の危険を冒すことも厭わなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして非常に興味深かった。
この日本人を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか。
失敗に終わった松陰の海外密航・・・それは、ペリーに日本人の力強さを見せつけたのでした。

ペリーの助言もあって、命を助けられた松陰は、萩にある実家の杉家で謹慎生活を送ります。
そこに集まってきたのは将来の日本を憂う若者たちでした。
松下村塾を開き、語り合うようになります。
久坂玄瑞・高杉晋作・・・明治維新の原動力となった人々に、大きな刺激を与えるのです。

松陰は罪人だから、松下村塾に行くのは立身出世にはマイナスです。
あえて行こうと思ったのは、松陰の人間性にだったのです。
集まった門下生にあった教育を施す松陰・・・
しかし・・・それも長くは続きませんでした。

幕府の実権を握っていたのは大老・井伊直弼。。。幕府の強化を進めるために、安政の大獄を行います。
松陰はこの取締りの対象となります。
江戸で幕府の取り調べを受ける松陰・・・。
取り締まりの結果・・・死罪・・・。

1859年10月27日吉田松陰・斬首。。。

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故郷の萩・・・生誕地のすぐそばに、松陰の墓があります。
この墓が建てられたのは、松陰の死からわずか4か月・・・。
罪人だった松陰の墓を造ることははばかられていました。
にもかかわらず・・・それを実行したのは、高杉晋作をはじめとする門下生たちでした。
松陰の意志を受け継ぎたいと、自らの名も彫り込んでいます。

松陰の死後8年・・・門下生たちは、徳川幕府を倒し、新しい時代を築いていきます。
新政府のメンバーとなった木戸孝允・伊藤博文は、明治4年に新政府主要メンバーと共に欧米視察に出ます。
松陰の意志を受け継いだのは他にも・・・
鉄道建設に尽力した飯田俊徳・東京工業大学初代校長の正木退蔵・近代造船の発展に尽力した渡辺蒿蔵・・・彼ら門下生も、海外留学し、日本をリードしていきます。

西欧に負けない国を目指す!!
不羈独立・・・門下生たちは、独立した確固たる日本を作るために走り続けたのです。


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あなたの常識大逆転!
BS歴史館、「幕末・日本外交は弱腰にあらず」~黒船来航に立ち向かった男たち~です。

本当に?って、感じですが・・・。
とかく日本は弱腰外交と言われていますが・・・本当なのでしょうか?

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1853年6月3日
浦賀沖に黒船が来航します。圧倒的な軍事力を持って。

翌1854年日米和親条約締結、1858年日米修好通商条約締結、これらは日本にとっては恩恵だったというのです。

ペリーは開国に持っていくことは出来ず、日本も要求するところは要求し、話し合うところは話し合い、弱腰外交とは言えなかったのです。

当時の日本は、唯一出島で、オランダと中国のみと外交していました。そこへ、黒船が浦賀に出現、関東が大砲の射程圏内に入るのです。

ペリーは大統領の親書を持っていました。それには・・・

①漂流民の保護
②外国船への燃料や食料の供給
③貿易の開始

が書かれていました。

翌年5月に返答すると定めます。

が、ペリーは1月11日に、しかも船を9隻に増やしてやってきました。
「条約の締結が受け入れられない場合は、戦争になるかもしれない!!当方は、近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意している。これら100隻は20日間で到着する。」ペリーの恫喝外交の始まりでした。

これに応対したのは、昌平坂学問所の塾頭、林大学頭でした。では、何故学者が?これは、禍根を残さないため「学者のしたことだから・・・。」にしたかったようです。

が、この大学頭、死闘を繰り広げます。

2月10日第一回交渉

ペリーは①も②も守っていないので、戦争によって雌雄を決することになる!!と、砲艦外交を始めます。

林は、まず、③貿易の開始については硬く禁じられていると跳ね返します。そして、①②については、伝聞の誤りではないか?と、指摘します。

まず、②外国船への燃料や食料の供給は・・・。「異国船打払令」は11年前に廃止しています。代わって「薪水給与令」を出し、外国船に燃料や水の給与を認め、穏便に出国させる法令をつくっています。と、説明しました。この、異国船打払令、廃止した要因は、中国がアヘン戦争でボロボロになったのを見て、二の舞になることは避けるため、廃止していたものでした。

そして③、漂流船の人を罪人同様に扱っているというのは・・・。
1848年、ラゴダ事件がありました。これは、漂流していたアメリカ人が、アメリカ人同士で殺人に及んだ結果、保護のためやむなく投獄したというものでした。

これを取り出し、やむなく投獄したことはありますが、非道な政治ではなく、貴国と戦争に及ぶ理由はひとつもない!!と、事実に基づいた確かな反論をするのです。

そして、これ以上言うことはないと、ペリーの脅し、恫喝に屈せず論破しました。今でもアメリカは、世界で恫喝外交をしていますが・・・これに対抗したのです。

ちなみにこの林家、江戸時代に外交文書を司っている家でした。バタビアから幕府に提供された世界情勢の報告書であるオランダ別段風説書を持っており、ペリーのことは何もかも調べ上げていたようです。

つまり、私達が思っているほど、世界情勢に対して疎くはなく・・・それは、日本としてはロシアの恐怖を感じていたからです。

ペリーまでの50年間は、日本に外国船がやってくることはしばしばで、突然のことではないのです。

で、第二ラウンド、交易については・・・。
日本にメリットがある!!外貨を稼げる!!と、アメリカは説得しますが、これも「自国の産物で十分に足りている!国法を直ちに廃することは出来ない」と、跳ね返します。

これには切実な問題がありました。。。
1840年~42年アヘン戦争がありました。このきっかけは交易でした。交易からアヘンが入ってきたのです。中国、当時の清は、イギリスの圧倒的勢力に負け、南京条約を結び、香港を割譲することになるのです。

このようなことは、最も避けなければなりません。

これは、アメリカが①で使った、人命の尊重を逆手に取り、「第一に人命の尊重と申された。開港は人命尊重とは関係ない」と、またもや論破するのです。

2月19日第二回交渉

ここでアメリカは、長崎だけでは不便だと、開港地を要求します。これは、交易に繋がる作戦でした。これに対し日本は、だというなら、何故、親書に記さなかったのか?当方は長崎だけで、何の異論もないと思っていた。と、反論します。これ以降、交渉は林のペースになっていくのです。

2月26日第三回交渉

南は下田、北は箱館の2箇所にしてください。と、日本が申し出ます。
これは、もともと長崎一港主義でしたが、ペリーに花を持たせたのです。

2月30日

アメリカが、「港から四方へ10里は自由に行動したい」と、言ってきます。これに対し、「薪や水の供給だけならそんなに遠方まで行く理由が見当たらない。」と反論し、遊歩地は、7里の内となります。これは、林の計算でもありました。天城峠より北へは上がれないからです。なるべく日本人との接触を防ぎ、日本を守ろうとしたのです。

1854年3月3日日米和親条約締結。厳しく交易を制限するものでした。この時点では、まだ日本は開国しておらず、通商を押し返して和親の状態に止めたということで、外交上は成功。孝明天皇もお慶びになったのです。

ペリーは後に言っています。日本人がひとたび文明開化の技能を手に入れれば、強力なライバルになるだろう。と。

ペリーは日本を甘く見て、条約の専門家を連れてきていませんでした。アヘン戦争後、清と米が結んだ不平等条約であるワンシア条約をそのまま持ってきてしまっていたのです。これに、反抗できたのは、日本の目が世界に向いていたことと、日本の教育・文化が高かったことが上げられます。

では、何故和親条約が不平等条約として扱われているのか・・・。それは、和親条約と通商条約がごちゃごちゃになっているからです。

幕末の歴史は、薩長が書いたもの・・・。本当のエリートは幕臣であったなどとは書かないのです。


1856年7月21日ハリスがアメリカの領事として下田に到着します。
これは、和親条約第11条に「合衆国官吏のもの、下田に差置候儀も可有之。」という条文があり、アメリカがこれに目をつけたのです。
日本は「両国が必要とするならば・・・」と解釈していましたが、アメリカはこれを、「どちらか一方が必要とするならば・・・」と、自分達に都合のいい解釈をしたのです。そして日本が今、いかに危ないかを説くのです。

1856年清でアロー戦争勃発、次は日本が狙われていました。
ハリスはアメリカとの貿易を望みます。
「私のように和平の使者としてやってきた人間の公正な希望を聞き入れるか、イギリスの武力による不当な圧力に屈するか!!今や問題は、いかなる形で貿易を始めるかだ!」と迫るのです。

対応したのは目付岩瀬忠震。外国奉行のエリートでした。この人は、ハリスと並ぶ開国の仕掛け人です。海防掛という幕府が設置した海外問題を処理する職務についていました。ちなみに林大学頭は叔父に当たります。

この時、幕府でも危機感は感じてはいましたが、意見は分かれていました。
攘夷派VS開明派(中心が岩瀬)
岩瀬は、今の日本の軍事力では、とても欧米列強にはかなわない、一刻も早く開国して、アヘンを自由に売らせないためにも居留地を作り、将来に備えなければならない。と、思っていました。

彼のビジョンは、年貢よりも地方特産物の輸出、蝦夷地の開墾、横浜を開港しての貿易でした。

当時政府は江戸でしたが、経済的富の7~8割を大坂に持っていかれていたというのが現状でした。岩瀬は貿易の利益を江戸に集中させようとしたのです。

では、何故横浜?紛争を防ぐため、西洋人を一定の区画に閉じ込めておこうとし、横浜を巨大な出島にしようとしていました。

1857年10月14日ハリス江戸に到着、条約草案を提示します。

しかし、日米の思惑は全くかけ離れていました。
アメリカは、大坂など8箇所の開港と京都などでの自由貿易を要求してきました。

交渉が開始されました。
「日本は国が小さいので、3港以上は開かないことに決めました。その代わり大きな港を提供しよう。その港に満足がいったなら、また開港したい。」と、日本が申し入れますが、ハリスの狙いは大坂でした。商業の中心地で大きな自由貿易がしたかったのです。

当時攘夷運動が盛んに行われていました。京都が拠点となり、流血事件も日常茶飯事でした。だから、外国人は京都・大坂には入れられない!!京都の市場開放と大坂の開港は、謀反へと繋がりかねませんでした。
御所と伊勢神宮は守らなければなりませんでした。

岩瀬は「もし、貴下の大統領が日本の親切な友人であるなら、無秩序と流血をもたらすようなことを主張できるはずが無い」と、譲りませんでした。

ハリスは京都を断念。しかし、大坂は商いに最も適しているから譲れない!日本の国益にもなると、主張します。

ここで岩瀬は攘夷運動を逆手に取り「内乱が起こるのは外国との戦争より恐ろしい。内乱をするなら外国と戦争するほうがましだ!」と、突っぱねるのです。

そして、日米修好通商条約全14条が出来ました。
岩瀬とハリスは条約の内容を現実的なところに落とし、ほぼ岩瀬のプラン通りになりました。しかし、これは日本の制度全体を変える大きな出来事でした。

開港地は横浜・長崎・新潟・兵庫(大坂が駄目だから・・・。)箱館になりました。後に不平等条約といわれるこの条約、理由は

領事裁判権の容認と、関税自主権の喪失が大きな理由ですが、岩瀬は十分対処できると思っていました。

領事裁判権は居留地だけの話だし、関税自主権の喪失は、当時は20%もあったので、不利ではなかったのです。

ハリスは後に「岩瀬は機敏で反論が上手でした。私は答弁に苦しんだばかりでなく、岩瀬に論破されてしまい修正せざるを得なかった条項が多かった。」と言っています。

あとは調印のみ!しかし、徳川斉昭ら攘夷派が反発、岩瀬は調印の勅許を受けるため京都へ赴きます。

1858年1月25日上洛、孝明天皇に謁見するも、貿易に反対する公家が天皇に進言しており、勅許が下りなかったのです。岩瀬の目論見が外れた瞬間でした。

井伊直弼は、勅許が無ければ開国しないと決定します。が、激しく調印を迫るハリス。

そこにアロー戦争の最新情報が入ります。英仏艦隊来航情報がもたらされるのです。このままでは、通商条約は不利な条約になってしまう!!今までの苦労が水の泡になってしまう!!岩瀬はハリスに「調印したら英仏の間に入ってほしい」と、誓約書を書かせ、井伊直弼の「止む終えない場合は調印してもいい」という言葉にすがるように

1858年6月19日勅許なしに調印。
しかし、9月5日井伊直弼によって左遷後永蟄居処分となるのです。

この後、安政の大獄→開国の一途をたどるのですが・・・。
1861年7月11日岩瀬忠震失意のうちに死去、享年44歳。
1862年生麦事件
1863年薩英戦争 と、攘夷に拍車がかかっていきます。
1863~64年下関戦争
1866年関税誓約書調印
     関税20%から5%に引き下げ
この結果、日米修好通商条約は不平等な条約になってしまったのです。

岩瀬は無断調印をし、その後混乱したが、アジアで植民地化されなかったのは日本だけでした。日本の将来を考えた上での調印で、評価に値します。

では、何故勅許が下りなかったのか?当時はかなりの情報格差があり、天皇も薩長もこの情報を持っておらず、世界の情報は幕府のエリートたちが持っていたからでした。

岩瀬の甘かったところは、外国のことは解っていたが、日本のことは天皇が何を考えているかがわかっていなかったということでした。

岩瀬は左遷、幽閉され、名前もあまり知られていませんが、彼の作った
講部所は陸軍に、海軍伝習所は海軍に、アメリカに勝海舟ら人材を派遣したその人でした。

この通り、幕末外交は弱腰ではありませんでした。
彼らは(決)断と(見)識のあったのです。

幕末はお金も国力も軍事力もありませんでしたが、人材がいました。そして、この人たちが明治維新へと繋がっていくのです。

やはり、勝てば官軍ですね・・・。岩瀬が蟄居した理由も攘夷だし、苦労した条約も、不平等にしたのは薩長だったのかしら?と、思うとやはり歴史は後世の人間の作ったものだから、今は明治政府の良いように書かれているのでしょうね。

あのままの条約でいたら、日本はどうなっていたのかな・・・。
そしていつも思うのです。誰が一番ずるいかって、どう考えても公家でしょう!!と。色々画策するのに自分では手は汚さないなんて・・・。(天皇ではないのよ)


ああ、頭が痛いですね。
100年経たないと、そのときの政治がどうであったか判断は難しい。と、言いますが、今日の政治は100年後の人たちにはどう評価されるのかな・・・。<(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ...

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