その現場に自ら駆けつけ、苦しむ民を救った男がいました。
世直し江川大明神・・・人々から僧称賛された男・江川太郎左衛門英龍。
伊豆国韮山の代官でした。
静岡県東部・・・山々に囲まれた伊豆の国市韮山・・・
町の一角にあるのが江川邸です。
この屋敷にあった韮山代官所が、主人公ゆかりの場所です。
江川太郎左衛門英龍・・・35歳で江川家の当主となった秀龍は、代々受け継がれた太郎左衛門を名乗りました。
江川氏は、幕府直轄領である韮山で、世襲の代官として、警察や司法、徴税・・・様々な職務を担っていました。
伊豆国韮山を拠点に、各地を納めていた江川氏・・・
内陸にある甲斐や武蔵、そして海に面する駿河や相模にまたがる広大な地域を管轄していました。
天保の時代・・・冷害や洪水の影響で、全国的な大飢饉に見舞われ、人々は苦しい生活を強いられました。
江川家の残されている一枚の着物・・・それは、秀龍が代官として働いていた時のものえす。
傷んだ個所を自ら繕いながら、領地内をくまなくかけ廻る・・・
質素倹約を旨としていました。
長引く凶作の中、秀龍が管轄する甲斐国で一揆が起こります。
秀龍はすぐさま現地に向かいました。
実状を把握しようと、秀龍は代官の身分を隠し、行商人にその姿を変えました。
領地内の農民に話を聞くと、役人や名主の収賄の悪事が判明・・・
秀龍は即刻彼らを罷免します。
さらに、困窮した村には、ひくい金利で金を貸し付け、貧民の救済に尽くしました。
当時、甲斐国では幟が立てられました。
”世直し江川大明神”
瀬戸際の状態を救ってくれた秀龍を慕い、農民たちが感謝の気持ちを込めて奉納したものです。
代官の仕事に奔走する一方、秀龍には長年思い描いていることがありました。
伊豆の隣国である駿河や相模、秀龍が管轄した地域には、海に面した地域も多く含まれていました。
鎖国にもかかわらず、外国船が次々と来る時代・・・
伊豆をはじめとする沿岸部を抱えた英龍は、外国の脅威を肌で感じ始めていました。
1837年1月・・・幕府に宛てた初めての建議書
”伊豆は江戸ののど元に位置している
異国の多数の軍艦に対し、入り口である伊豆を防御しなければ、江戸にも上陸されてしまう”と訴えました。
伊豆半島は、江戸に向かう外国船の目標となる防御の要・・・
日本を震撼させるペリー来航の16年も前、秀龍はすでに海外の脅威に対し、沿岸を防備する海防の必要性を唱えていました。
江川家には、秀龍に海防を意識させたとみられるしようが残されています。
江戸時代後期・・・海防の最先端の書物と呼ばれた林子平の「海国兵談」です。
”江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境無しの水路なり”
と日本は海洋国に相応しい防備を整えるべきだと説いていました。
さらに、江川家には、当時の世界地図が存在しています。
そこには、海外諸国の位置や名前が克明に記されていました。
世界地図で日本の位置をわかっていた秀龍・・・
海外と水路で繋がっているので、「海防」という言葉が出てくるのです。
幕府に最初の建議書を出してから2年後・・・英龍は、驚くべき提案をします。
「農兵を早急に取り入れたい」
秀龍が幕府に訴えたのは、農民が武器を持って戦う農兵の採用でした。
武士と農民の階級が分かれた兵農分離の時代・・・どうして前代未聞の建議をしたのでしょうか?
この頃、沿岸での防備は地元の武士に任されていました。
しかし、外国の軍艦が来航した場合、現場の武士だけではとても対応できない・・・
そこで、秀龍は、現地の農民にも武士の役割を与え、迎え討とうと考えたのです。
農民に武士を持たせることは、幕藩体制がひっくり返されるということでした。
関ケ原以来の権益が無くなる・・・と、幕府は恐れました。
幕府は農兵の採用を求める秀龍の提案を却下しました。
しかし、その後も諦めずに海防の建議書を幕府に出し続けた秀龍・・・
その数は、33通にのぼり、沿岸防備の重要性を訴えたのです。
1840年、中国・清とアメリカの間で勃発したアヘン戦争・・・
イギリスの軍事力を前に、アジアの大国・清は圧倒されました。
欧米の軍事力に恐怖を覚えた幕府は、江戸で急遽、ある訓練を実施しました。
西洋砲術の演習が後悔で行われました。
指揮を執ったのは高島秋帆・・・長崎で、西洋砲術を研究し、オランダから銃や大砲を輸入していました。
演習には、全国から100人が参加、当時としては大規模なものでした。
幕府高官、藩主から下級役人まで、多くの慣習が見守りました。
その中には、銃や大砲の効果を確かめる為に韮山から上京した秀龍もいました。
密集して銃を撃てる・・・!!
集団で撃つことが必要で、いかに多くの人数を集めるのかがポイントでした。
武士階級以外にも、砲兵や銃兵がたくさん必要でした。
それが、農兵の開発に繋がりました。
演習の一部始終を見届けた秀龍は、早速、高島秋帆の門下生となりました。
免許皆伝を受け、指導する許可も幕府から受け取ります。
秀龍は、韮山で自らの屋敷を開放し、塾を立ち上げました。
秀龍は、西洋砲術の師範として、技術を伝授・・・
後に、”韮山塾”と称されました。
塾生の中には、佐久間象山や大鳥圭介らがいました。
さらに、江川邸の一角では、農民たちを集め、隊列の訓練も行われていました。
秀龍は、韮山で自前の軍隊を結成しようと考えていたのです。
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1849年閏4月・・・イギリス軍艦「マリナー号」が来航
浦賀、下田にやってきました。
幕府に見談で測量を始めたマリナー号・・・
それに対し、奉行は退去勧告を出したものの相手にされませんでした。
ここで、幕府から交渉の命を受けたのは、長年海防の建議書を出し続けた英龍でした。
秀龍は、国際法の知識や、船舶技術を巧みに織り込みながら、マリナー号を退去させました。
マリナー号の事件から4年後・・・
1853年6月3日、大事件が発生!!
大砲を備えたアメリカの蒸気船・黒船が浦賀沖に現れたのです。
司令長官のマシュー・ペリーは、開国と通商を強く望んでいました。
江戸の町が大混乱に陥る中、ペリーは幕府に対し一年後返答を聞くためにもう一度訪れると告げ、日本を後にしました。
突然の出来事に焦った幕府は、秀龍を江戸に呼び寄せます。
そこで、秀龍は、幕府の役職「勘定吟味役」に任命されます。
秀龍、53歳。
ついに、幕府の政策決定に参画できる立場に抜擢されたのです。
秀龍は、ペリーの再来航に向け、沿岸の防備に関する意見を幕府の面々と交わします。
秀龍は、具体的な防御策を練っていました。
何を訴えるべきか・・・??
幕府の一員となった今、自らの意見が大きく左右する・・・
砲台を築いて迎え撃つのか??
今後を見越して海軍を創設するのか・・・??
1953年7月16日、秀龍は、自らの意見”防衛策に関する意見書”を幕府に提出しました。
その冒頭には、軍船の文字が・・・
その購入、製造が必要と切実に書き記されていました。
軍の創設を早急に・・・と、訴えたのです。
さらに秀龍は、意見書の中で三浦半島と房総半島を最短で結ぶ浦賀水道に砲台を設置することを提案しています。
江戸湾の入り口・浦賀水道へ砲台を置き、軍艦で迎え撃てば、黒船の侵入を未然に防ぐことができると考えたのです。
ところが、秀龍が苦心の末に考えた防御策を、幕府は受け入れませんでした。
幕府の決定は、江戸城の近場・品川沖に砲台を置く”台場”を早急に築造するというものでした。
ペリー再来航までの時間と経費を考えると、秀龍の考えた浦賀水道案は現実的に厳しいと判断した幕府・・・
その代わりに、品川沖に砲台を置くことに決めたのです。
自らの提案は採用されなかったものの、秀龍は台場築造の指揮を執る”海防掛”に任命されました。
幕府は、11基の台場を一定の間隔に築くことを計画。
それぞれの台場に複数の砲台を置き、防御力を高めようとしました。
秀龍は、直ちに台場の築造に着手します。
来るべき黒船の来航に向け、迅速に作業を進めました。
江戸での任務を遂行する一方で、秀龍は韮山にも戻ります。
台場に備える大砲の製造に取り掛かります。
外国船を迎撃するには、大砲を大量に作る必要がありました。
そこで秀龍は、ヨーロッパの技術を参考にしながら、純度が高く強い鉄を作る反射炉の建設を始めます。
そのさ中、予想外の出来事が起きます。
1854年1月16日、ペリーが予定よりも半年早くやってきたのです。
秀龍は江戸で、交渉のお膳立てを整えます。
3月3日、日米和親条約締結
その後も、秀龍の陣頭指揮のもと、台場の築造が行われました。
翌月、まず3基を完成させます。
残り8基・・・全ての台場を完成させようと意気込む英龍・・・
しかし、財政難の続いていた幕府は、アメリカとの条約を結んだ今、秀龍に築造計画の縮小を持ち掛けます。
この幕府の要請に対し、秀龍は怒りをあらわにします。
「これでは竹の先へ紙をつけて、それを立てて置いて、そうして敵を防ごうとするようなものと同じことだ」
不満を押し殺す秀龍・・・
しかし、今後、外国船の来航が増えることを考え、江戸の台場の築造と韮山の反射炉建設・・・双方に全力を注ぎます。
その年の11月・・・関東から近畿にかけて、安政東海地震が起きます。
秀龍の管轄する下田では、家屋のほとんどが流されました。
折しも日本と条約交渉に来ていたロシア船は、地震による津波で大破・・・
この時、江戸の近くにいた秀龍は、幕府の命を受け、船員たちが帰国できるように下田に急行しました。
秀龍は、下田にほど近い戸田村で、新たに洋式船の建造に取り掛かります。
江戸、韮山、戸田・・・この三カ所を行き来する多忙な日々・・・
秀龍を支えたのは、将来の海防に繋がる洋式船の建造技術を手に入れることでした。
ペリーが来航してから1年半・・・休みなく働く秀龍の体に限界が近づいていました。
そしてついに・・・江戸で病に倒れます。
1855年1月16日、秀龍は、台場と反射炉の完成を見ることなく江戸の屋敷でその生涯を閉じました。
55歳の生涯でした。
外国船の襲来から国を守る・・・!!
志半ばで倒れた秀龍の遺志は、その後どう受け継がれたのでしょうか??
ふるさと韮山に完成した反射炉は、秀龍の息子が中心となり、建設開始から4年後、1857年に完成。
2015年には世界遺産に登録されます。
海防のために真っ先に取り掛かった台場は、2カ所が現存するのみです。
およそ170年前、その検地君奔走した江川英龍の記憶は、次第に遠いものとなっていきます。
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