日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ホワイトハウス

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命を懸けて決断をしたエイブラハム・リンカーンは・・・アメリカ第16代大統領です。

貧しい農民の子から大統領にまで上り詰めた男、建国以来続いていた奴隷制度に反対し、その凶弾に倒れた男です。
歴代大統領の中で、未だに絶大な人気を誇っています。
しかし・・・リンカーン自身は・・・自分に多くのコンプレックスを持っていました。
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リンカーンが大統領をしていた当時は、まだ34州でした。
リンカーン記念館には・・・
「この神殿の中には、人民の為に合衆国の統一を守った
 エイブラハムリンカーンが永遠に祀られている
 あなたの心の中と同じように。」
神殿に祀られて・・・神のようです。

リンカーンの名演説・・・ゲティスバーグの演説では。。。
ペンシルベニア州ゲティスバーグ・・・
南北戦争の激戦地で、62万人という合衆国史上最大の犠牲者を出しました。
ここで、戦死者を悼み、演説をするリンカーン。

敵味方、全ての国民に向けて、お互いに1歩を踏み出そうと演説します。
締めくくりは有名な・・・
”人民の人民による人民のための政治を
 決してこの地上から消滅させない様に・・・”
でした。

そこにはペンと言葉の力を信じるリンカーンがそこにはいました。
誰もが知っている文章の引用・ユーモアと風刺・簡潔な言葉・・・これを身に付けたのは、貧しい少年時代でした。
ケンタッキーに生まれたリンカーン・・・粗末な小屋に住む、貧しい開拓農民の息子で、小学校にもろくに通っていません。
しかし、愛読書は、聖書・ワシントンの伝記・イソップ物語・ロビンソンクルーソー・・・言葉の力に惹かれていきます。
成長するにつれてリンカーンは、開拓民たちの力になりたいと思うようになります。

少年時代のノートには、
「エイブラハム・リンカーン 
 その言葉とペン
 きっと大成するだろう
 いつの事かは神のみぞ知る」
と書かれています。

22歳で家を出て・・・食べていくのに精一杯で、職を転々とします。
郵便局員に測量士、雑貨店で住み込み、帳簿をつけ・・・バーテンダーまで。。。
真面目な仕事ぶりで、”正直者エイブ”と呼ばれるようになります。
法律や政治の世界に興味を持ち、独学で弁護士の勉強をします。
辺境の村を回って、巡回弁護士になりました。
そして政治家の道へ・・・
1846年37歳で下院議員に当選・・・
言葉の力を持って、大統領になっていきます。
その真骨頂が、ゲティスバーグの演説だったのです。

リンカーンといえば”あごひげ”。
でも大統領になるまではありませんでした。
そして、歴代大統領にもなかった髭・・・
しかし、リンカーンは今までの大統領とは違う!!
もう若造ではない!!と、過去の自分と決別したかったのかもしれません。
51歳の時に共和党から大統領に立候補したリンカーン。
当時アメリカは、奴隷制を存続しようとする農業地帯の南部と、奴隷制廃止を勧めようとする経済先進地帯の北部に分かれていました。
南部では、黒人奴隷は欠かせない労働力だったのです。
奴隷制廃止を求める共和党VS存続を求める民主党の戦いです。

リンカーンは幼いころから奴隷制に疑問を感じていました。
奴隷市場で物のように売り買いされる黒人たちに・・・
国を二分した大統領選挙。。。
リンカーンに届いた1通の手紙。。。それは、共和党の支持者の娘からのものでした。
「あなたのほっそりとしたお顔は
 お髭があれば ずっと立派に見えるでしょう
 女の人は髭を生やした男の人が大好きです
 だから髭を生やせばきっと 大統領になれますよ」
見知らぬ少女からのリクエストでした。

リンカーンはわずかな得票差で大統領となるも、南北の分裂は必至・・・
そんな、ホワイトハウスに旅立つリンカーンの顔にはあごひげがありました。
リンカーンは、時代が戦争に向かっていることを察知していました。
だから、髭を生やし髪を伸ばし、野性的な猛々しいイメージを・・・恰好したのです。
決意の表明だったのかもしれません。
首都ワシントンで小さな村に立ち寄ります。
その村には、あの少女の家がありました。

大統領となったリンカーン・・・しかし、妻には頭があがりませんでした。メアリ・アン・トッド・・・リンカーン夫人です。
裕福な銀行家の家に育ち、家には奴隷もいました。
当時の女性には珍しく、高等教育を受け、フランス語も堪能でした。
リンカーンは、恋に落ちます。
ライバルは、新進気鋭の政治家、スティーブン・ダグラスです。
家柄・学歴・経歴・・・全てにおいて及びませんでした。
勝ち目はない???
しかし、メアリが選んだのはリンカーンでした。
メアリは、まだ何も手に入れていない男の才能を見抜いていたのです。

激動の時代を生き抜く・・・風と共に去りぬのスカーレット・・・情熱と知性の女性・・・とてもよく似ています。
温厚な性かっくのリンカーンと気の強いメアリ。
一家は典型的なかかあ殿下でした。
大統領に就任すると、一家はホワイトハウスに引っ越します。
メアリの夢も実現します。
派手好き、社交的なメアリ・・・社交界でのトップを目指します。
豪華な衣装を買いあさり・・・リンカーン家の借金が、大統領の年収と同じになったこともありました。

南北戦争が終結し・・・久しぶりに劇場に足を運んだその日・・・
1865年4月14日リンカーン暗殺。。。凶弾に倒れました。


リンカーンが大統領になって1か月・・・南北戦争が始まります。
南北戦争は、アメリカを真っ二つに分かれた戦いでした。
奴隷制に反対する共和党に対し南部の11の州が反旗を翻したのです。
戦争は、両軍一進一退・・・長引きます。。。
経済力に勝る北軍が一気に勝利する・・・そう読んでいたリンカーンの思惑が外れます。
戦いが1年半を過ぎたころ・・・
奴隷解放予備宣言を書き上げました。
内容は・・・
南軍が降伏すれば、奴隷制の存続を認めるとあります。
奴隷制廃止を棚上げし、戦争終結を求める妥協案でしたが・・・
南軍はこれを受け入れず・・・
翌年にリンカーンは、奴隷解放宣言を発表します。

内容は。。。
「指定された州内で奴隷の身であるものは、すべて自由になり
 今後も永久に自由であることを私は宣言する」
と、全く違う物になっていました。
300万とも言われていた奴隷をすべて、永久に自由になる・・・
この宣言により、黒人兵は20万人へと膨れ上がります。

リンカーンは、さらに大きな一歩を!!
憲法修正を議会に求めます。
1863年憲法改正条項採択
その後南北戦争終結・・・

終戦からわずか5日後・・・
奴隷解放に反対する人の凶弾に倒れたのでした。

戦争指揮官リンカーン~その知られざる素顔~はこちら

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アメリカ大統領と言えばこの人、というくらいに人気は高く、世界的にも知られています。
テレビ時代の申し子と言われていました。
その在任期間はわずか、1036日。3年足らずです。
悲劇的な暗殺・・・その死もテレビが伝えました。

どうして今もなお、カリスマ大統領とされているのでしょうか?

ケネディがホワイトハウスで愛用していた机・・・
カーター、レーガン、クリントン、オバマ・・・歴代大統領が使ってきました。

ケネディが好きだった言葉

「神よ あなたの海は
 あまりにも広大で
 私の船はあまりにも小さい」

どうして今も昔もケネディは人を惹きつけるのでしょう?

①ホワイトハウス・・・大統領の生活は???

大統領一家が過ごします。地下三階、地上三階、132もの部屋があります。
1回には大広間が、2階は居住スペース
この場所で、生活し、仕事をします。
かっこいいイメージですが、小食でちょっとひ弱。
分刻みのスケジュールをこなしながら、お昼寝をしたり、自分の時間も大切にする・・・そんなジャックがそこにはありました。

②VOTE(投票)

43歳にして大統領となった男。
選挙によって史上最年少大統領となったジャック。
生まれ故郷ボストンで1917年5月29日に生まれました。
先祖はアイルランドからの移民、プロテスタントが政財界のボストンにあって、敬虔なカトリック信者でした。
父・ジョセフは、実業家として大成功。
でも、差別や偏見を受けた父は・・・勝負には絶対に勝て!!なんでも一番になれ!!と、育てます。

やがて、兄を追って名門高校へ進むものの・・・
あまり賢くはなかったようです。
ちなみに兄は、スポーツ万能・成績優秀で、将来は政治の世界で活躍することを期待されていました。
しかし、やんちゃなジャックは先生に怒られてばかり・・・
生徒同士の人気投票で・・・最も成功しそうな生徒に選ばれています。
勉強も、スポーツも得意ではないのに、魅力にあふれていました。

第2次世界大戦中海軍にはいったジャックに悲劇が・・・
1944年に兄・ジョーが戦死したのです。
ジョーを大統領に!!と、夢を描いていた父は、その思いを次男のジャックに!!

ケネディは、父の全面的な支援を受けて、29歳の若さで下院議員に・・・
それ以後も負け知らずでした。

議員としての成績はあまりでしたが・・・人気はぴか一でした。

そして、大統領選挙へ・・・
実力者を抑えて・・・43歳という若さで、民主党の大統領候補に選ばれます。
共和党の候補は、副大統領を2期も務めたニクソン。
下馬評ではニクソンが圧勝する予定でした。。。

ジャックは、若さと新鮮さを全面的に押し出します。
みんなとともに・・・気さくに話しかけ、人々の心を掴んでいきます。
そして、史上初の生放送の大統領候補のテレビ討論で・・・

ダークなスーツに身を包み、身だしなみに気を付けてカメラ目線で話しかけます。
一方、ニクソンは・・・落ち着きがなく、汗をかき・・・視線が泳ぎます。

この討論をラジオで聞いた人々の判定は五分五分・・・
しかし、テレビで見た人たちの印象は・・・二人の差は明らかでした。
7000万人が見たといわれるこの討論、最初の15分で決まったといいます。
ケネディは国民に向けて討論し、ニクソンはケネディに対して討論していました。
討論前はケネディ47%・ニクソン53%が、討論後はケネディ51%・ニクソン45%となったのです。

その後ニクソンも必死に頑張りますが、わずか10万票の差で大統領の座についたのはジャックでした。
大統領就任式での国民への呼びかけは、後に有名な演説となりました。

そんなジャックの人気は???
人の心を掴むのが上手だったようです。
気取らない性格で、ハンディ、痛みのわかる人物だったようです。

そして、ジャクリーンと二人でホワイトハウスを変えていきます。
聡明なジャッキー、親友のチャールズ・バートレットが引き合わせました。

ケネディがホワイトハウスの主となると・・・
ジャッキーは知性的な女性で、芸術作品をそろえ、華やかな部屋へと変えていきます。
ホワイトハウスが人々の間に開かれた存在となるように・・・努力を惜しまなかったのです。
機知にとんだ受け答えをする二人の改革は、大統領を人々の身近な存在にさせていきました。

③フルシチョフ・・・若き大統領だったジャックを本当の政治家へと導いたのが、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフ。
1960年代、それは、資本主義と共産主義が真っ向から対立した冷戦の時代でした。

大統領に就任してから半年で・・・冷戦構造の打開を図るためにフルシチョフと会談へ・・・
フルシチョフは、話せば全て味方につけてしまうような人でした。誰であれ、説得できる人だったのです。

会談で、共産主義を高らかに主張するフルシチョフ・・・
ケネディは、話し合いの糸口も掴むことが出来ません。
普段は葉巻しか飲まないケネディが、通訳の煙草に手を伸ばしたと言います。
腰の痛みと極度の緊張。。。2日間の会談で具体的成果はほとんどゼロでした。

壁のようにそびえ立つフルシチョフに阻まれたケネディ・・・
肩を落としたと言います。

しかし、フルシチョフはケネディのリーダーとしての素質を見抜いていました。
フルシチョフの息子は・・・
「父・フルシチョフは、ケネディをひ弱な青二才だと見くびっていたというのは、アメリカ人の神話です。ケネディは、しっかりしたビジョンを持っていたと・・・アイゼンハワーよりも実力があると認めていたようです。」

1962年10月のキューバ危機・・・
アメリカのわずか南100キロにある共産主義国・キューバ・・・
ここにソ連が核ミサイルを配備しようとしていました。
のど元に突き付けられた核ミサイルの恐怖、人々は混乱し、マスコミは第三次世界大戦を煽ります。

ホワイトハウスでは・・・
軍の幹部がキューバへの軍事侵攻を求めます。
しかし、ケネディは・・・フルシチョフとの外交交渉で決着をつけようとしました。
キューバ近海を封鎖、ソ連の武器を積んだ軍艦の阻止を宣言しました。

「キューバからのミサイル攻撃は、どの西側諸国に対してであれソ連からアメリカに対する攻撃とみなす」

13日間にわたる交渉が始まりました。
その結果、アメリカはキューバを侵略しないと約束、あとはソ連側が決断すべきだ、とフルシチョフに委ねます。
これに対しフルシチョフは・・・
キューバからのミサイル撤去を約束しました。

1963年ケネディは西ベルリンを訪れます。
冷戦によって東西に分断された町・・・ここでケネディは、有名な演説をします。

「どこに暮らしていても、あらゆる自由な人はベルリンの市民です。
 ですから自由な人間として私は誇りを持って言うのです。
 イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー
 (私はベルリン市民である)」

外交での実績を積み上げていたケネディは・・・リンカーン以来国内を揺るがしていた問題・・・黒人差別問題に取り組みます。
公民権を確立するためです。
「これまで長年、放置されてきた問題の解決を会議に求めます。
 アメリカの暮らしと法律から人種差別をなくすことです。」

黒人の公民権確立への道筋をたてたケネディ。
海を愛し、家族を愛し、自由の国を愛したケネディ。

1963年11月22日ダラスで・・・
人種差別が色濃く残るこの街で、自由で開かれたアメリカを訴えようとしていました。
しかし、12時30分、一発の銃声が鳴り響きました。
何者かによって銃撃されたのです。

若き大統領の死・・・

フルシチョフは、ジャッキーに、心のこもったお悔やみを・・・
これに対してジャッキーは、
「ケネディは、あなたと一緒に世界平和を実現したいと考えていました。
 しかし、夫はもういません。
 これからはあなた一人で実現していかねばなりません。」

もしケネディが生きていたら・・・
底辺の人々に手を差し伸べたケネディ。。。

ダラスにある博物館には、毎年30万人の人が訪れます。

どんな人の心の中にもある弱さ・・・
その弱さとうまく付き合ったからこそ相手を知り、自分を知り、国を知る・・・
それが、ケネディの強さでした。


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