日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ホーチミン

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ベトナム・ハロン湾、1994年に世界遺産登録された約3000の奇岩や小島があり、屈指の観光地となっています。
今、ベトナムに、日本人旅行者がたくさん来ています。
2012年に過去最高の57万人が訪れました。

ベトナムでは、去年から「反中デモ」が多発しています。
背景にあるのは領土問題です。
ベトナム政府は、容認してきた反中デモを禁止、しかし、南シナ海で中国船がベトナム船に発砲するという事件が勃発。
中国との領土問題となっているのは、ベトナム中部にあるリーソン島。
中国とベトナムは紀元前から対立があると言われています。
が、最近では1979年の中越戦争。
その後も、周辺の海を巡って衝突が続いています。

ベトナム人は、日本人に対して親近感が強く、日本の事が大好きです。

首都ハノイでは・・・
ベトナム戦争の最中、アメリカ軍が持ち込んで広まったと言われているのが”サロンシップ”。
久光製薬は、1995年からベトナム工場で生産を開始しました。

他にも・・・家庭には・・・テレビは”ソニー”、レコーダーは”パナソニック”、電子レンジは”シャープ”、エアコンは”ダイキン工業”。日本の物は、信用できるそうです。
子供たちは・・・日本の漫画を読んでいます。
そしてcampusノートがお気に入り。
デザインだけでなく、その品質がお気に入り。
ハノイ郊外にはコクヨの工場が!!!
2006年に日本向けの製造で進出、ベトナムでの需要もあり、2000年にはベトナムでも販売開始。
年間1500万冊を出荷しています。

アジアでのブランド力は・・・
トップ10に日本の製品が入っているのは、マレーシア・タイ・ベトナムです。
2007年度には日本の進出は600社でしたが、中国の人民元があがったり、人件費があがったり・・・
移ってきて2012年には1785社・・・。工業団地は日本企業で満杯です。

ホーチミンでは・・・
フォーを超える国民食として・・・インスタントラーメンが浸透しています。
ベトナムではお湯をかけるだけのものが一般的です。
ベトナムは、年間50億食の即席麺を食べる世界第4位の麺大国です。
値段は20円前後。
その中にNISSINのマークが
ベトナム向けに新商品を開発しました。
麺に歯ごたえがあって、人気は上々です。
2012年に工場を作り。生産体制を整えています。

1993年に進出したエースコックは・・・現在10工場あり、100種類以上を販売しています。
ラーメンをベトナムの国民食へと定着させました。
シェアは50~60%にもなります。

ホーチミンでは一大プロジェクトが・・・!!
それは!!!
日本の鉄道会社・東急電鉄が街づくりを推進しています。12万人の新都市計画を手掛けるのです。
その新都市の広さは東京ドーム200個分です。
戸建とマンションを建設・・・パッケージ型インフラを提供しています。
①アジアマーケティング
②対中国戦略としてのパートナーとして・・・。
③TPPで連携出来たら・・・。

ベトナムが、アジア展開のキーストーンになる日が来るかもしれません。

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ああ、本当に、ベルリンの壁崩壊も、ベトナム戦争もビデオに撮り忘れてしまいました。。。(TmT)本当にショックです。

ということで、今回は第八弾、「カンボジアの悲劇です。

では、カンボジアの悲劇とは?

ベトナム戦争が関係しています。ああ、だからこそ見たかったのに・・・。
1960年~75年にかけて、ベトナム戦争がありました。北ベトナムと南ベトナムで内戦をしていたのです。その戦争は、共産化しようとするベトナム(北ベトナム)に対して、アメリカが南ベトナム政府を樹立し戦いが始まったものです。

が、南ベトナムを支援するアメリカに対し、ベトコンが対立していました。北ベトナムからベトコンに対してホーチミンルートを使って救援物資が運ばれていました。このホーチミンルート、なんとカンボジアの中を通っていました。
アメリカとベトコンは対立しているのだから、当たり前ですがアメリカはこのルートを破壊します。当時はシアヌーク殿下が治めていましたが、カンボジアはベトナムとタイに囲まれた小さな国・・・。カンボジアがベトナム戦争に巻き込まれないように中立、どちらも見てみぬふりをしたのです。

このことがアメリカの怒りを買います。「ホーチミンルートを使っての支援物資の援助はカンボジアの中を通っている!これはカンボジアが何とかしてとめるべきだ!!シアヌーク殿下には任せておけない!!」として、1970年シアヌーク殿下がモスクワを訪問中にロン・ノル首相によるクーデターが起きます。これは、CIAの支援を受けて行ったものでした。

この政権は、アメリカにとって都合の良い政策をとります。これが20年間戦火に見舞われる結果となるのです。

シアヌーク殿下はカンボジアに帰れなくなり、中国・北京からロン・ノル政権と戦うことになってしまうのです。中立だったのに、中国・ソ連などの共産主義と手を組むようになってしまったのです。

ベトナム戦争からアメリカが撤退していく中、カンボジアでは内戦が始まります。シアヌークがカンプチア民族統一戦線=クメール・ルージュ(実態はカンボジア共産党)を指揮、内戦がはじまるのです。

1975年4月17日クメール・ルージュが中心となってカンボジアを統一、その代表が悪名高いポル・ポトなのです。

ポル・ポトの下プノンペンに入り、カンボジアを支配します。ロン・ノル政権の崩壊です。
が、翌日から世界を震撼させます。ポル・ポトが実権を握ったカンボジアに平和は訪れなかったのです。

まず、政府マスコミ関係者は殺害、プノンペン市民200万人を追放し、農村に強制移住させます。勿論抵抗した人は全て殺されます。このポル・ポトの政策は原始共産制と言われます。生産性の低い原始時代には、自給自足の極めて平等な社会が存在したという考えです。
この理想を実現しようとしたのです。

人々を
旧住民・・・クメール・ルージュ
新住民・・・都市から来た人

にわけ、クメール・ルージュさえよければいいと考えます。
また、紙幣の廃止・・・お金で物を買う必要は無い
   宗教の禁止・・・共産主義の考え方で、アンコールワットなど仏寺を破壊、僧を殺害しました。

肉体労働こそすばらしく、共同農場で働かせました。
学校や病院も廃止し、子供は国家が育てるとして、5歳で親から引き離され、ポル・ポトの言いなりの人間を大量生産していきました。
知識人は敵である、必要なしとし、抹殺計画を立て70~80年代にかけて殺害していきます。その中には眼鏡をかけていたからという理由もありました。
その結果、カンボジアでは40代、50代、60代の人材がすっぽりと抜けているのです。

それは解放された後のインテリ層でもカンボジアを地図で示せないほどでした。読み書きの出来ない人達ばかりになってしまったのです。

何人死んだのかはデータが無いのでわかりませんが、当時の人口は600万、少なくとも100万人~300万人の人が殺害されたと言われています。

クメール・ルージュはシアヌークが始めたものでしたが、シアヌーク殿下は帰国と同時に王宮に幽閉されてしまいます。

今はトゥール・スレン虐殺博物館として公開されている当時の強制収容所では、生存者は10人にも満たなかったそうです。

都市の人たちは強制労働をさせられます。が、農業をしたことの無い都市の人々が、満足のいく道具も無く作るので、ダムは決壊、農地は水浸し・・・。と、飢饉になり、悲惨な食糧不足に陥るのです。これは、中国の毛沢東に習った政策ですね。同じことが世界各地で起こっています。

国民の不満は高まりますが、そのたびに無表情で無慈悲な、親の愛情を知らない軍人として育てられた人たちが殺していくのでした。

が、国民の不満が出た時の常套手段は国外に敵を作ること。カンボジアでは、伝統的にベトナムを敵対視していました。

そこで、ベトナムを攻撃します。ベトナムでは、やっとアメリカ軍が撤退し、戦争が終わり、これから政府を作っていこうという時でした。そんなときにカンボジアから軍事攻撃されたのです。

これにベトナムが切れます。ベトナムにはカンボジアから逃げてきた難民がたくさんいました。その人たちを助けるという大義名分の下、1987年12月10万のベトナム軍がカンボジアに侵攻します。

そうして侵攻してきて見つけたのが虐殺されたなきがらだったのです。街には死臭が漂っていました。カンボジア人はベトナムが侵攻してきてくれて嬉しかったかも知れません。ポル・ポト政権は、2週間で崩壊し、ポル・ポトは北へ逃げます。

1979年1月ヘン・サムリンは、ベトナムの支援の下、政権を樹立。
しかしポル・ポトはジャングルで勢力を温存、タイ国境には難民キャンプが出来るほどでした。
いずれは政権の座に返り咲こう!!と、ゲリラ活動をし、VSベトナムの新しい内戦が始まることになるのです。

ベトナム軍は、この3年前までアメリカと戦っていました。自分達の国に侵攻してきたアメリカ軍と戦っていました。そうして今、自分達が侵攻している・・・。皮肉な現実がありました。

国際的には、ポル・ポトの大虐殺から「人道的介入はあっても良いのか?」という問題が指摘されるようになります。ベトナムの軍事的な侵略には間違いないが・・・。国民はポル・ポトの大虐殺から解放されるのです・・・。

後に旧ユーゴでもセルビア人がボスニア・ヘルツェコビナの人を殺していた時・・・。NATO軍がセルビアを攻撃したことがありました。ボスニアの人たちは解放されましたが・・・。

現在でもNATOがリビア政府を攻撃しています。これは許されるのでしょうか?国家に対する干渉、国際政治の難問が、このカンボジアを機に考えられるようになりました。

現在の人道的介入は、ヨーロッパ側から見れば許されるもので、国際常識になりつつあります。国際世論はどう考えるのでしょうか?問題提起されたのです。

北朝鮮でも貧困に喘ぎ、虐げられた人たちがいます。これに人道的に介入していいのか?非常に難しい問題です。

シアヌーク殿下は、王宮からの幽閉が説かれ、中国はへと戻ります。ポル・ポトはもともと毛沢東主義派だったので、中国はあんなポル・ポトを全面的に支援していました。

ところで、タイにはカンボジアからポル・ポト派が難民としてたくさん来ていました。タイとしてはベトナムの勢力が強くなるのは困ります。カンボジアがベトナム化するのは困るのです。=ポル・ポトの方がましだ!!と、ポル・ポト軍が、カンボジアに戻って戦うことを黙認しました。

このポル・ポト派、質のよい木材、ルビーを密輸してタイで捌いたのです。これは、タイにとっては大歓迎!と言うことで、支援され、長く存続することになるのです。

中国は、北京に助けを求めたシアヌーク殿下を利用して、ベトナムを懲罰する!と・・・。

1979年中越戦争勃発。中国軍20万人がベトナムを攻撃します。ベトナム軍が、カンボジアから引き上げることを期待したのです。そうすれば、ポル・ポトが盛り返すことが出来る!しかし、ベトナム軍は、カンボジアに10万の軍を置いたまま迎え撃ちます。

当時のベトナムは、アメリカが戦車など全ての武器を残していっていました。南ベトナム崩壊後はその武器は自分達のものになっていました。その武器は最新式でした。それに対し、中国は人海戦術で戦います。

この人海戦術、日中戦争の時日本軍もやられました。人数で閉じ込める作戦です。

20万で攻撃するも、最新兵器なのでベトナムは少しの兵隊で戦えるのです。殺されても殺されても進んでくる中国軍。これによって2万人の中国軍が死亡、ベトナム軍は7000人でした。そうして、殆どベトナムに入ることが出来ずに撤退するのです。これによって、中国は人海戦術では戦えないことを知り、軍の近代化へと向かうのです。

ベトナムでは今も中国に対する反感は強く、現在も南シナ海は誰のもの?と、反中国感情が高まっています。

そんなこんなでベトナムはカンボジア駐留が難しくなり、1989年撤退を始めます。この時点でベトナム兵の死者5万人、ベトナム戦争で死んだアメリカ兵の数も5万でした。皮肉なものです。

国際政治において誰が正義で誰が悪なのか?複雑な関係になってしまいました。撤退をきっかけにカンボジアでも・・・

1991年パリ共和協定が結ばれます。国連監視の下、平和に選挙を実施し、代表を決めることになります。

1992年3月新政府が出来るまで国連カンボジア暫定統治機構を作ります。UNTACです。44カ国、2万人を超える組織で、代表は日本人、明石康特別代表でした。

この時自衛隊が始めて海外に派遣されました。PKOの平和維持活動です。主に道路を作ったりしました。この自衛隊の派遣にも日本国内では問題になりました。憲法で戦争を放棄しているのに、もし襲われたら攻撃できないのか?という問題ですね。私も覚えています。
でも、その後色々なところで参加し、活動することになりました。

ANTACの下、1993年カンボジアで総選挙が行われます。ポル・ポト派は選挙をボイコット、投票率90%の中、1993年9月ノロドム・シアヌークが再即位するのです。新憲法が発布されます。
この頃からポル・ポトから取り巻きが離れていき、力が弱まり始めます。

1998年4月ポル・ポトは一人寂しく死亡。ジャングルの中で病死したとされていますが、毒殺されたとも言われています。

2004年、シアヌークが退位、息子のノロドム・シハモニが即位します。

2006年7月からポル・ポトがカンボジアでしたことを国際法廷で裁こうではないか!ということになり、クメール・ルージュ「特別法廷」が開かれます。これによってポル・ポト及び、幹部の責任が問われたのです。が、未だに続いています。

こんなに長引いている原因は、そもそも今の政府ももともとポル・ポト派。大量虐殺の責任が無いわけではないのです。だから、法廷で決着するのを体制側の人間も止めようとしているからなのです。

何故、こんな悲劇が起こったのか?それは理想のためならば手段を選ばない・・。閉ざされた場所で、極端な理想を追求した結果、些細なことから過激な意見へ、過激な意見へ導かれたことが、国家レベルで起きたということなのでしょう。


本当に悲惨な戦争でしたね。自衛隊の派遣でもめていた頃は大学生だったのでよく覚えています。で、いつも思っていたのは、国際法って、結局意味が無いの?ってことでした。

平和な日本が、時代が続きますように・・・。


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