日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ポツダム宣言

1945年8月12日・・・太平洋戦争が苦境になる中、国民はまだ日本が勝つと信じていました。
ところが、首相官邸の一室では、ある文書の草案が秘密裏に作られていました。
3日間、ほぼ徹夜・・・!!
終戦の詔書です。
日本政府は、アメリカなど連合国から降伏を迫られたポツダム宣言を受諾し、3年8カ月に及んだ戦争を終わらせる決断をしていました。
しかし、これに全ての者が納得したわけではありませんでした。
玉音放送を阻止しようとクーデターを起こした将校たちがいました。
一体何があったのか・・・緊迫の24時間!!

御前会議 昭和天皇十五回の聖断 (中公新書)

新品価格
¥836から
(2022/12/16 14:21時点)



1945年8月14日、午前11時55分
玉音放送のおよそ24時間前・・・アメリカ軍の爆撃機B-29が、山口県岩国市に焼夷弾の雨を降らせました。
さらに、光市にあった海軍工廠も爆撃。
岩国市と光市で死者1200人以上!!

皇居では、御前会議が終わろうとしていました。
日本の運命を決めるご聖断が下されました。
皇居の防空施設・御文庫付属庫・・・御前会議はこの中にあった会議室で行われていました。
その中で天皇はこう述べられました。

「私は世界の現状と国内の実情を十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える
 自分は如何になろうとも万民の生命を救いたい
 この際、耐え難きを耐え 忍び難きを忍び 一致協力 将来の回復に立ち直りたいと思う
 私として為すべきことがあれば 何でもいとわない 
 国民に呼びかけることが良ければ 私はいつでもマイクの前に立つ」

天皇の涙ながらのお言葉に、会議の列席者も皆涙していたといいます。
時の総理大臣・鈴木貫太郎は、ご聖断を煩わせたことを天皇に詫び、日本の再建を誓いました。
こうして、日本のポツダム宣言の受諾・・・連合国に対する無条件降伏が決まったのです。

8月14日、午後0時30分(玉音放送まで23時間30分)
御前会議の終了からおよそ30分・・・会議に列席していた陸軍大臣の阿南惟幾が陸軍省に戻ると、すぐに青年将校たちが駆け寄ってきました。

「即時終戦のご聖断が下った
 力及ばず諸君の信頼に添えなかったことを詫びる」by阿南

これに将校たちが激怒、大臣に激しく詰め寄りました。
阿南は、青年将校たちに対してポツダム宣言は受諾しない・・・日本はこのまま戦争を継続すると、言っていました。
青年将校たちは、阿南陸軍大臣が戦争を続行させてくれると思ってたのです。
しかし、阿南陸軍大臣もポツダム宣言受諾を容認したのです。

阿南陸軍大臣が、当初、ポツダム宣言の受諾に反対していたのには理由がありました。
それが国体護持です。
国体護持とは国の在り方を変えずに護るということで、すなわち天皇制の存続を意味していました。
天皇を現人神と考えていた当時の人々にとっては絶対に譲れない条件でしたが・・・
日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言にはそれが明記されていなかったため、阿南は強硬に受諾を反対、徹底抗戦を主張していたのです。
しかし・・・
「陛下は”苦しかろうが我慢してくれ”と涙を流して申された
 自分としては、もはやこれ以上、反対を申し上げることはできぬ
 それでも納得がいかぬなら、まこの阿南を斬れ!阿南を斬ってからやれ!」by阿南

天皇のお言葉に心を打たれた阿南は、ポツダム宣言の受諾を容認するしかありませんでした。
そして、天皇の思いに応えるために、戦争継続を望む青年将校たちを命がけで止めようとしました。
すると・・・一人の将校が絶叫にもにた大声をあげ、泣き始めました。
畑中健二少佐・33歳・・・その泣きわめくさまは、周りの者が怯えるほどでした。
普段温厚な男でも、平静を保てないほど無条件降伏は受け入れがたいものでした。

日本のいちばん長い日

新品価格
¥2,000から
(2022/12/16 14:22時点)



8月14日午後1時(玉音放送まで23時間)
首相官邸において、全大臣出席の元閣議が始まりました。
3日間、ほぼ徹夜で書き上げた終戦の詔書の審議・・・つまり、どのような言葉で終戦を国民に告げるべきか?についてと、その終戦の詔書を天皇が読み上げてラジオで流すという玉音放送についてでした。
日本の敗戦を知れば、国民が激しく動揺し混乱するのは明らかでした。
それを少しでも抑えるべく、天皇の声・・・玉音で伝えることにしました。
閣議では生放送という案も出ましたが、天皇に日本放送協会・東京放送会館まで足を運ばせたうえ、放送時間に合わせてマイクの前に立っていただくのはあまりにも恐れ多いということで、玉音放送に決定しました。
そして、天皇が朗読する終戦の詔書の録音は、14日のうちに宮内省の2階で録音されることになりました。
日本放送協会の会長に録音班を連れて宮内省に出頭せよという命令が下されました。

8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
閣議を中座して陸軍省に戻った阿南大臣は、庁舎にいたもの全員を会議室に集め、ご聖断に従って陸軍も無条件降伏を受け入れたことを報告します。
これは決定事項であり、いかなる背反も許さないと、強く言い聞かせ、最後にこう告げました。

「諸君においてはもはや、玉砕は任務を解決する道ではない
 泥を食い、野に臥しても、最後まで皇国護持のため奮闘せられたい」by阿南

しかし、そこに先ほど大臣室で号泣していた畑中少佐の姿はありませんでした。
畑中は、無条件降伏をどうしても受け入れることが出来ず、同志である椎崎中佐と共に戦争を継続するためのクーデターを模索していました。
それは・・・皇居を占拠し、玉音放送を阻止することでした。

日本政府は日本が劣勢という情報を、一切流していませんでした。
畑中たちにしてみれば、この段階で玉音放送を阻止すれば国民が敗戦を知ることはないため、戦争を継続できると考えたのです。
畑中たちはエリート軍人でした。
最前線で戦った経験もなく、現状もしらず、神国日本が負けるはずがないという考えに凝り固まっていました。
東京周辺の軍の施設には、戦闘機や戦車が、まだ多く残っていました。
絶対に負けない!!と思っていたのです。

東京国立近代美術館・工芸館・・・
現在、重要文化財に指定されているこの地は、かつては近衛師団司令部の庁舎でした。
近衛師団とは、天皇と皇居を警護する陸軍精鋭部隊のことです。
師団とは、一つの作戦を単独で遂行できる最小単位の部隊のことで、トップは師団長でした。
その師団が2つ以上合わさると軍になるなど、複合していくことで大きな組織となり、その軍医上のTOPが司令官と呼ばれました。
クーデターを画策する畑中少佐は、陸軍の中間幹部で司令官や師団長を作戦面で補佐する参謀に起用されることが多い階級でしたが、陸軍省勤務でどの部隊にも属していなかったため、戦況をあまり把握していなかったようです。

1945年8月14日午後2時(玉音放送まで22時間)
畑中少佐は椎崎中佐と共に近衛師団の司令部を訪れ、旧知の中だった古賀秀正参謀らと面会。
戦争継続の正当性を訴え、クーデター実行のための下工作を依頼します。

昭和史12「太平洋戦争開戦前夜~運命の御前会議」

新品価格
¥2,200から
(2022/12/16 14:22時点)



8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
近衛師団の司令部を後にした畑中は椎崎と別れ、日比谷にある東部軍管区司令部へと向かいます。
東日本を統括する東部郡にもクーデターに協力してもらおうと、司令官を説得しにやってきました。
しかし、司令官室に入るなり田中静壱司令官は割れんばかりの声で一括!!

「俺のところへ何しに来た!!
 貴様の考えていることはわかっておる!!
 帰れ!!」

畑中は顔面蒼白となり、しばらくたち尽くしたのち、一礼して逃げる用に帰りました。
東部軍は、関東一円を統括している実働部隊で、各地の戦況をよく把握していました。
日本の悲惨な戦況をよく知る田中司令官は、やみくもに戦争を叫ぶ畑中に腹を立てたのだと思われます。
終戦を決めた日本・・・それを強硬に反対する青年将校たち。
しかし、そんな軍部の状況など国民は知る由もありませんでした。
みな、必死に耐えて生きていました。
日本が必ず勝つと信じて・・・!!

8月14日午後9時(玉音放送まで15時間)
突然、ラジオのニュース番組が告げます。
「明日15日正午に重大なラジオ放送があります
 国民はみな謹んで聞くように」

8月14日午後10時30分(玉音放送まで13時間30分)
ラジオから玉音放送の予告が流れたおよそ1時間30分後・・・
クーデターを目論む畑中と椎崎は、陸軍の先輩将校である井田正孝中佐の元を訪ねていました。
寝ている井田中佐を起こし、クーデターの下工作が進んでいることを説明しました。
近衛師団全体を動かすために、森第一師団長の同意が欲しいと訴えます。
畑中の真剣なまなざしに心を動かされた井田は、「ダメなときは本当に諦めるのだな」と、念を押し、畑中が頷くと覚悟を決めました。

日本のいちばん長い日 Blu-ray

新品価格
¥3,540から
(2022/12/16 14:23時点)



8月14日午後11時(玉音放送まで13時間)
首相官邸で続けられていた閣議がようやく終わり、終戦の詔書の文案が完成しました。
鈴木内閣の閣僚たちが署名し、天皇の裁可を受けました。
続けて、アメリカなどの連合国に、中立国であるスイスを通じてポツダム宣言を受諾した旨を通告しました。
対外的な日本の敗戦はこの時決まりました。
そして、日付も間もなく変わろうとする午後11時30分・・・
宮内省の2階にある御政務室で宮内大臣や天皇の側近である侍従長の立ち会いのもと、終戦の詔書の録音が始まりました。
マイクの前に立った天皇は・・・

「声はどの程度でよろしいか」

と、お聞きになり、「普通で結構です」と、立会人が答えると、静かに朗読を始めました。
天皇の肉声・・・玉音が公式に録音されたのは、この時が初めてです。
朗読は、1回およそ5分、天皇の希望もあって、2回行われ、2組のレコード盤に別々に収録されました。
そして、出来上がった玉音盤は、日本放送協会の担当者によって丸い管の中に納められ、さらにふたが開いてしまわないように木綿の袋に入れられました。
天皇が皇居の防空施設に帰られたのは、丁度日付が変わった頃でした。
玉音放送まであと12時間・・・!!

この時、近衛師団司令部を訪れていた陸軍将校・畑中・椎崎・井田の三人は苛立っていました。
クーデター実行のために、近衛兵を動かしてもらおうと森師団長を訪ねたものの、先客がいたため1時間以上待たされていました。
ようやく室内に通されたのは、午前0時30分ごろでした。
畑中は、別件があってその場を離れていたため、説得役は井田が務めることになりました。
すでに軍服を脱ぎ、くつろいでいた森師団長は、最初こそ
「陛下のご意思に反する行動は許さぬ」
と、反対したものの・・・
汗をびっしりとかきながら懸命に戦争継続の正当性を訴える井田の姿に心を動かされたのか・・・

「諸君の意図は十分理解した
 率直に言って感服した
 今、直ちに明治神宮の神前に額づき、最後の決断を授かろうと思う」

井田は戦後この時のことを手記にこう綴っています。

”この言葉を聞いた時ほど嬉しかったことはなかった”by井田の手記

さらに井田は、森師団長から自分の右腕である参謀長にも意見を聞くようにと言われ、師団長室を退出。
するとそこへ畑中が戻ってきました。
この時、午前1時30分・・・
”ところが、それから10分もたったであろうか
 突如として師団長室が騒がしくなったような気がした”by井田の手記

そして・・・何事かと井田が慌てて師団長室に戻ると・・・拳銃を握りしめた畑中が、顔面蒼白で出てきました。

「時間がなくてやりました
 仕方がなかったんです」

井田が師団長室に飛び込むと、既にこと切れた森師団長が無残な姿で横たわっていました。

師団長の行動はウソではないか??
殺さなければ・・・!!
と畑中は思ったのでした。
時間がない・・・畑中は、近衛師団の協力が遅ければ、クーデターは失敗すると考えていました。

しかし、森師団長の命令がなければ、近衛兵は動かせない・・・!!
そこで畑中たちは、大胆な手を考え付きます。
森師団長の机から印鑑を取り出すと、あらかじめ用意していた偽の命令書に押印!!
この偽の師団長命令を、近衛師団の各連隊に発令したのです。
そこにはこう書かれていました。

”皇居と放送局を占拠せよ”

読む年表 太平洋戦争 開戦から終戦まで1396日の記録

新品価格
¥2,970から
(2022/12/16 14:24時点)



8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
師団長命令が偽物とは知る由もない近衛兵たちは、すぐに動き始めました。
皇居のすべての門を封鎖して、人の出入りを禁じ、東京放送会館を占拠。
さらに、玉音版の作成を終えて帰宅しようとしていた職員たちを捕らえて監禁。
そして、職員たちの尋問によって、玉音盤が宮内省に保管されていることが分かると・・・
近衛兵たちに宮内省を占拠せよという新たな命令が下されました。
近衛兵たちは、瞬く間に宮内省を占拠し、外部と連絡が取れないように電話線を切断。
そのうえで玉音盤を探し始めました。
しかし、そんなに探しても見つかりません!!

8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
近衛兵たちは、玉音盤が保管されているという宮内省を占拠。
各部屋を回り隅々まで探すも、玉音盤はどこにもありません。
宮内省の職員や侍従を脅してみても、みな知らないと答えるばかり・・・
結局見つけられませんでした。
玉音盤はどうして見つからなかったのでしょうか?

玉音盤が完成したのち、それを放送まで保管し、守るべきか検討されました。
宮内省側は「放送局が預かるべき」
日本放送協会は「持ち帰るのは畏れ多い」
結局、常に天皇のそばにいる侍従がいいだろうということになって中堅侍従だった徳川義寛がその大役を任されました。
そして、徳川侍従は、大胆にもその金庫をいつも仕事をしている事務室の戸棚の上に無造作に置いておいたのです。
徳川侍従は、玉音盤の保管場所を秘密にし、近衛兵に摑まった際も、決して口を割りませんでした。
また、宮内大臣ら要人を人質に取られないよういち早く宮内省の地下にある隠し部屋に匿ったことも功を奏しました。
自分の事務室の入り口に、”女官寝室”と書きました。
玉音盤を託された徳川侍従が保管場所を誰にも話さず、しかも機転を利かせたことが玉音盤を守ることとなりました。
玉音盤が見つからなければ、放送を阻止することはできません・・・
クーデターは失敗!!
井田は畑中を説得します。

「畑中・・・もういかんよ
 世が明ける前に兵を引け
 そして、我々だけで責任をとろう
 世の人々は真夏の世の夢を見たと笑って済ませてくれるだろう」by井田

しかし、井田の言葉は、畑中の心を変えることはできませんでした。
諦めきれない畑中は、なんと近衛兵たちに占拠されている放送会館へと向かったのです。

8月15日午前4時30分(玉音放送まで7時間30分)
日本放送協会東京放送会館に乗り込んだ畑中は、報道部室に押し入ると、そこにいた副部長に拳銃を突き付け、
「5時からのニュースに自分を出せ」
と、迫りました。
しかし、副部長はこれを拒否。

「全国同時放送なので、各局と連絡を取ってから出ないとできない」

すると畑中は、隣のニューススタジオに入り込み、現行の下読みをしていたアナウンサーに銃口を向けました。
自分に放送させろと迫る畑中の左手には、クーデターの趣旨を綴った分厚い原稿がありました。
放送させてなるものか!!と思ったアナウンサーは、咄嗟に嘘をつきます。

「現在、警戒警報が発令中です
 会報発令中に放送するには、東部軍の許可が必要です」

東部軍の田中司令官には、昨日、一喝されたばかり・・・畑中は銃口を下ろすしかありませんでした。

同じ頃、近衛兵たちに占拠されていた皇居に、一人の男が駆けつけていました。
まさにその人・・・東部軍管区司令官・田中静壱大将!!
田中は、近衛師団の連隊長たちに、命令が偽物であったことを告げ、即時解散するように命じました。

いまこそ読みとく 太平洋戦争史

新品価格
¥1,870から
(2022/12/16 14:24時点)



8月15日午前5時30分(玉音放送まで6時間30分)
国民に敗戦を告げる運命の日の朝・・・
玉音放送を前に一人の男が自らの手で命を絶ちました。
陸軍大臣・阿南惟幾大将です。
その遺書には・・・
”一死を以て 大罪を謝し奉る”
その命を以て敗戦の責任をとったのです。

8月15日午前7時21分(玉音放送まで4時間39分)
突然ラジオから・・・
”かしこくも天皇陛下におかせられましては本日正午、御自ら放送あそばされます
 誠に畏れ多き極みでございます
 送電のない地方にも、放送の時間には特別に送電しますので国民はひとり残らず謹んで玉音を拝しますように”
この玉音放送の予告アナウンスは、もともと午前5時に放送される予定でした。
しかし、畑中少佐の襲撃の影響で、放送が遅れたのです。

8月15日午前10府(玉音放送まで2時間)
宮内省から、2組の玉音盤が運び出されました。
1組は警視庁の車で東京放送会館の会長室へ、もう1組は宮内省の車で日比谷の第一生命館の地下にあった予備スタジオへ!!
不測の事態を想定し、万全の態勢がとられました。

8月15日午前11時(玉音放送まで1時間)
当日は、アメリカの戦闘機がたくさん飛んでいました。
それが、11時過ぎになると姿を消して音がピタッとやみました。
その頃、玉音放送が行われる東京放送会館のスタジオには、すでに多くの人が集まっていました。
まもなく訪れる終戦の時を前に、えもいわれぬ緊張感が漂う中・・・
畑中たちとは関係のない、ひとりの憲兵が突如乱入しようとしました。
すぐに取り押さえられ、事なきを得たものの、スタジオ内は騒然!!

8月15日午前11時30分(玉音放送まで30分)
皇居前の芝生広場にはクーデターに失敗した畑中と椎崎がいました。
玉音放送を止められなかった・・・日本が負けた・・・その悔しさと共に自ら命を絶ちました。

8月15日午前11時59分(玉音放送まで1分)
この時の東京の天気は晴れ・・・気温はすでに27度を超えていました。
最新の戦況を伝えていたラジオから正午の時報が・・・!!
ラジオが起立を促し、”君が代”が流れた後、天皇の声が聞こえてきました。

”朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ
 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ
 慈ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク”

人々の心の中は、戦争が終わった安堵感と、焼け野原となった日本でこれからどう生きていくのかという不安で入り乱れていました。

3年8カ月に及んだ太平洋戦争が終わりました。
この戦争で300万人以上の日本人が亡くなったと推定されています。
戦争孤児は12万人以上。
戦争は終わっても、人々の生きるための戦いが終わったわけではありませんでした。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

聯合艦隊司令長官 山本五十六 ?太平洋戦争70年目の真実?

新品価格
¥440から
(2022/12/16 14:25時点)

1945年9月29日、日本国民を驚愕させた一枚の写真が新聞に掲載されました。

tennnou昭和天皇と、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとのツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館をたずね、マッカーサーと初めて会見した際に撮られたものでした。

この写真を見た作家・高見順は「古今未曽有」と、敗戦日記に記し、歌人・斎藤茂吉は「ウヌ!マックアーサーの野郎」と、憤りました。
現人神として崇められてきた天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのカジュアルな服装で、両手を後ろに回し傲慢にさえ見える・・・
国民は、大きなショックと怒りを抱いたのです。
ところが、この後行われた二人の会談が、敗戦国となり、連合国の占領下に置かれた日本の行く末を握っていました。

その世紀の会見の中身とは・・・??

1945年8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー、GHQ最高司令官です。
GHQとは、連合国最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。
午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機・バターン号で予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと辺りを見回しながら、タラップを悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出だったといいます。
戦争に勝利をおさめて、最高指揮官として一歩踏み出す・・・
サングラスにコーンパイプを片手に降りてきたのは、如何に自分を印象付けるかを考えた結果でした。
厚木飛行場を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎となるホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが宿泊した部屋が残っています。
どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地を横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからです。
ホテルニューグランドが、外国人向けに作られたホテルであった事、アメリカの攻撃対象から外されていたので、焼けずに残っていたのが大きな理由です。
マッカーサーは、横浜港に面したこの部屋を、とても気に入っていました。
しかし、その対応には苦労もあったようで・・・
マッカーサーは、朝食に卵を二つ注文しましたが、当時の日本は食糧難・・・その卵を一日中探し回って手に入れたのが1個だけでした。
それをきっかけに、マッカーサーは日本の食糧難を知り、進駐軍から日本に大量の食糧が届けられました。

1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン大統領の訪米にお供し、日本に立ち寄っていました。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚でした。
新婚旅行をしていなかったので、このニューグランドに泊まったことがありました。

1945年9月2日、日本の降伏調印が、東京湾上ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を述べるマッカーサー・・・

「私は連合国最高司令官として、
 私の代表する諸国の伝統に従って、
 正義と寛容を持って私の責任を果たし、
 降伏条件が、完全、迅速かつ誠実に遵守せられるよう、
 ありとあらゆる必要な措置をとる決意である」

日本側からは、外務大臣・重光葵が代表として調印・・・
ここに大日本国帝国は終焉します。

9月8日・・・
マッカーサーは東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館へ・・・。
そして、皇居の迎えに立つ第一生命ビルを接収しGHQ本部としました。
最大で40万人となった米軍部隊も日本各地に上陸。
占領体制は着々と整備されていきました。

マッカーサーは土日も休まず、判で押したような生活をしました。
毎朝10時にアメリカ大使館を出て、GHQ本部に向かいます。
仕事をするのは、マッカーサールームと呼ばれた執務室。

敗戦からおよそ1月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・おのずとGHQのトップにいたマッカーサーの命令は、絶対でした。

「私は日本国民に対して、事実上無期限の権力を持っていた
 歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
 私の権力は至上のものであった」

それでもマッカーサーは、調印式、第一生命ビルの接収では、支配者マッカーサーとして日本人に焼き付けるには不十分だと思っていました。

「早急に天皇と会見をする必要があるのだが・・・」

マッカーサーはGHQの幕僚たちから強く勧められていました。
「私たちの権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうだ??」
敗戦の惨めさを思い知らせろとの声もあったのです。
しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして考えた末・・・天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしました。
どうして天皇を呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係していました。

1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれます。
陸軍士官学校を首席で卒業。
アメリカ軍に入隊し、フィリピン赴任を経て、陸軍参謀総長に史上最年少の50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして長年でフィリピンで過ごしていたマッカーサーは、アジア通を自負していました。
アジア人の心理をよくわかっていたと言われています。

「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招き寄せたらと、強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」

マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。

「私は待とう 
 そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
 西洋のようにせっかちにするより、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かなっている」

後に、副官であるバンカー大佐は・・・
「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と言っています。

GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー・・・
この時、日本側もマッカーサーと早急に会いたいと思っていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体が護持(=天皇制存続)されると思っていました。
しかし、同時にぽつ談宣言の中では、戦争責任を追及する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。

実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという機運が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は日本統治の最高権力を有するマッカーサーの考えを探ろうと情報集めに奔走・・・。
しかし、何もつかめずにいました。
そのために、天皇とマッカーサーとの会見に踏み切れずにいたのです。

そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとへ電話が・・・時の外務大臣吉田茂でした。
マッカーサーとあってきた吉田・・・

「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった。」

吉田から電話がかかってくる直前に、藤田もマッカーサーと会っていました。
藤田が伝えた内容は・・・

「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
 炎熱の南方諸島で健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
 また、日本の夏は、残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」

すると、マッカーサーは・・・

「私のことをいろいろご心配下さって感謝に堪えない
 どうか天皇によろしくお伝え願いたい」

マッカーサーの丁寧な対応に、藤田侍従長は安堵したといいます。
吉田茂大臣からの連絡は、大変うれしいものでした。
マッカーサーの意向がわかったので、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーをの訪問することが決まります。

その運命の日は、9月27日でした。
昭和天皇は、数人のお付きのものと共に、赤坂にあるアメリカ大使館へ。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと、遂に対面します。
握手と簡単な挨拶を交わした後、天皇はなかに入ります。
この時、お付きとして許されたのは、通訳只一人・・・。
マッカーサーは天皇に、こちらにお立ち下さい・・・そう言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがシャッターを切ったのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず・・・姿勢を正すことができませんでした。
三枚目でようやく体制を整えることができました。
宮内省発表の記事と共に翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、内務大臣山崎巌がこれを不敬だとして掲載禁止とするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と言われた陸海軍大元帥の礼装服か、白馬にまたがった陸軍改定式などの勇姿でした。
それが、平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が直立不動の体勢をとっているのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装・・・こうした理由から不敬とし、差し止めたのです。

しかし、新聞に写真が載っていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として獣体制の考え方を持っている者がいると、言論に対する一切の制限令を撤廃したのです。

國破れてマッカーサー (中公文庫) [ 西鋭夫 ]

価格:1,414円
(2019/10/3 09:14時点)
感想(4件)


こうして会見から2日後の29日、二人の写真が新聞に掲載されました。
これを見た国民の多くは、改めて日本が敗戦したことを思い知らされたといいます。

昭和天皇・マッカーサー 第1回会見
この写真を撮ったのち、第1回会見が始まりました。
会見の主な内容は、天皇が開戦を遺憾している事、ポツダム宣言の履行に対する確認でした。
マッカーサーは天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、10分にわたり話し続けたといいます。

後に、マッカーサーはこのことを振り返りこう言っています。

「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないかという不安を感じた」

天皇は命乞いをしに来たのでは??と考えていました。

「私がアメリカ製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
 そのタバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」

普段は吸わないタバコを手にした天皇・・・
その緊張がほぐれたのは、マッカーサーの思い出話でした。

「私は日本とは40年来の縁があるのです
 最初の日本訪問は、日露戦争の時
 父が従軍武官としてきた際に、その副官としてきたのです
 戦争後には、私は一度天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」

そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らぎ、その場の空気も和らいできました。
すると天皇は・・・

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身、あなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

戦争責任のすべてを追うというのです。

「死を伴うほどの責任・・・
 明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」

気付けば会見の予定より大幅にオーバーしていました。
昭和天皇とマッカーサーは、35分の会見で心を通わせたのです。
会見が終わると、天皇を大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。

天皇との信頼関係が築けたことは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのでしょう。
この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなります。

1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で極東国際軍事裁判・・・東京裁判が行われました。
ポツダム宣言に基づく戦争責任を追及するというものです。
注目されたのは、最大の責任アリとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、裁判にかけ、処刑追放するべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収集せよと、アメリカ本国から命じられていました。

1946年1月25日、これに対しマッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長に回答しています。
「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
 天皇告発は、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」
マッカーサーはこう考えていました。
日本は降伏しても、天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
そのため、これを裏切り天皇を裁けば、ゲリラ戦が各地で勃発するだろう。
それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要する・・・
占領を容易に遂行するためにも天皇を裁判にかけるべきではない・・・!!

マッカーサーは様々なてを打ちます。
1946年1月1日、昭和天皇の発意として「新日本建設ニ関スル詔書」を出します。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。
①「人間宣言により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとしました。
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判の為に来日したキーナン首席検事にその意向を伝えます。
これによってアメリカ政府も天皇に”戦争責任を問わない”となりました。
しかし、他にも問題が・・・
東京裁判で審判をする連合国の内ソ連とオーストラリア・・・未だ天皇の戦争責任を追及する構えでした。
②天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し、同意させます。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾が生じてきます。

東京裁判を行う上で大きな課題となった昭和天皇の戦争責任・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見をしたGHQ最高司令官マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、天皇を糾弾しないという方向で進んでいきます。
ところが・・・
開戦当時の総理だった第40代内閣総理大臣東条英機への検察尋問で状況が一変します。

「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争を選択した。
 このことについてどう思うか?」と聞かれ・・・
「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!」

これは即ち天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなる・・・!!
そこで、アメリカのキーナン主席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に東条が親しい軍人や官僚を使い説得させたのです。
東条は渋りながらも、天皇を訴追させないためにこう証言します。

「陛下には責任なし
 全責任は自分にある」と。

こうしてなんとか天皇を出廷させずに済みました。

マッカーサーは日本の占領において、民主化にも力を入れます。
それは、日本を二度と戦争国家にしないためです。
民主化の名のもとに、日本の軍事主義を徹底的には甲斐、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。

憲法改正・・・
マッカーサーは、占領当初から時代遅れの古い憲法を改正すべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだ・・・!!
これを受けて日本政府は新たな憲法草案を作りますが・・・明治憲法に変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導の下で新憲法の製作に・・・!!
別名「マッカーサー憲法」と呼ばれた日本国憲法の草案・・・
その最初に掲げられたのが、天皇の地位についてでした。

天皇は国家元首の地位にある
皇位は世襲される
天皇の職務および機能は憲法に基づく

憲法草案に関わったホイットニー局長は、「草案が守られれば天皇は安泰になるだろう」といったといいます。
マッカーサー・ノートに基づく三原則
①天皇の地位は国民主権に基づくものとする
②戦争の放棄
③封建制度の廃止
でした。
この草案に、当時の幣原内閣は驚きます。
自分達には考えも及ばない形で、日本や日本国民の権利か書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法だったのです。

新憲法についても、マッカーサーと天皇は話し合いました。
1946年10月16日、第3回会見
2時間にわたった会見で天皇は・・・
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指してその理想に忠実でありたいと思う」by昭和天皇
「戦争放棄を決意する日本国憲法は歴史的な意味を持つだけでなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになりうる」byマッカーサー
日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌5月3日に施行されました。

こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・その内容は、回を追うごとに深みを帯びていきます。
第4回会見以降、マッカーサーは天皇を陛下と呼んだのです。
二人の関係は信頼そのものとなり、マッカーサーは、天皇を当惑させたり、屈辱したりしないよう気を遣ったといいます。

マッカーサーはGHQ最高司令官を突如解任されます。
それは、朝鮮戦争の進め方について当時のトルーマン大統領と意見が対立したからです。
この突然の報せに、日本は驚きます。
1951年4月15日、昭和天皇はなっかーさーに別れのあいさつに向かいます。
11回目・・・これが最後の会見でした。
そして・・・翌日、マッカーサーはあわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万もの人々が星条旗と日の丸を手に一行を見送ったといいます。
しかし、どうして日本を占領しに来た司令官がこんなに人気があったのでしょうか?

アメリカの援助物資はじめ、マッカーサーの政策が、自分たちの為になっている有難さを、日本国民は身をもって知っていたからです。
こうしてマッカーサーは、日本の統治を大成功におさめたのでした。

「私はいつも、占領政策の背後にある色々な理由を、注意深く説明したが、天皇は倭代謝話し合ったほとんど、どの日本人よりも、民主的な考え方をしっかり身に着けていた
 天皇は日本の精神的復活に、大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」

天皇は・・・
「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことは、日本の国のためにも良かった
 一度約束したことは必ず守る信義の厚い人だ
 元帥との会見はいまなお思い出深い」

昭和天皇とダグラス・マッカーサー・・・この会見がなければ、日本はいまとは違った形になっていたかもしれません。
まさに、日本の運命を決めた世紀の会見でした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫) [ 豊下楢彦 ]

価格:1,144円
(2019/10/3 09:14時点)
感想(4件)

アメリカはいかに日本を占領したか マッカーサーと日本人 (PHP文庫) [ 半藤 一利 ]

価格:924円
(2019/10/3 09:14時点)
感想(0件)

昭和20年8月12日・・・太平洋戦争が苦境になる中、国民はまだ日本が勝つと信じていました。
ところが、首相官邸の一室では、ある文書の草案が秘密裏に作られていたのです。
3日間・・・ほぼ徹夜で・・・!!
”終戦の詔書”です。
アメリカなど連合国から降伏を迫られポツダム宣言を受諾し、3年8か月に及んだ戦争を終わらせる決断をしていたのです。
しかし・・・すべての者が納得していたわけではありませんでした。

「神国日本に敗戦などない!!」

徹底抗戦を叫び、終戦を国民に知らせる玉音放送を阻止しようと、クーデターを起こした将校たちがいたのです。
その最後の24時間とは・・・??

昭和20年8月14日午前11時55分・・・
玉音放送のおよそ24時間前、アメリカ軍の爆撃機B29が山口県岩国市に焼夷弾の雨を降らせました。
さらに、光市にあった海軍工場も爆撃!!
併せて死者1200人以上!!の尊い命が奪われました。
その時皇居では、天皇が列席する御前会議が行われていました。
日本の運命を決める御聖断がなされたのです。
皇居の防空施設・御文庫付属庫・・・御前会議はこの中にあった会議室で行われていました。

「私は世界の現状と国内の事情を十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える
 自分は如何になろうとも、万民の生命を救いたい
 この際、耐えがたきを絶え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う
 私として為すべきことがあれば、何でもいとわない
 国民に呼びかけることが良ければ、私はいつでもマイクの前に立つ」

天皇の涙ながらのお言葉に、みな、涙していたといいます。
時の総理大臣・・・第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎は、御聖断を煩わせたことを天皇に詫び、日本の再建を誓いました。
こうして日本のポツダム宣言の受諾、日本の無条件降伏が決まったのです。

8月14日午後0時30分
御前会議の終了からおよそ30分、陸軍大臣・阿南惟幾陸軍大将が陸軍省に戻ると、すぐに青年将校たちが駆け寄ってきました。

「即時終戦の御聖断が下った
 力及ばず 諸君の信頼に添えなかったことを詫びる」

これに将校たちは激怒、大臣に激しく詰め寄ります。
激怒したその理由は・・・
阿南はポツダム宣言は受諾しない、日本はそのまま戦争を継続すると言っていたのです。
青年将校たちは阿南陸軍大臣が戦争を続行させてくれると思っていました。
しかし、阿南陸軍大臣もポツダム宣言を容認したからです。
裏切られた・・・騙されたという思いがあったのです。

阿南陸軍大臣が、当初ポツダム宣言の受諾に反対していたのには理由がありました。
それは”国体護持”です。
国の在り方を変えずに護る・・・つまり、天皇制の存続が理由です。
天皇を現人神と考えていた当時の人々にとっては、絶対にゆすれない条件でしたが、日本に無条件降伏を迫ったポツダム宣言には明記されていなかったので、阿南は受諾を反対していたのです。
しかし・・・

「陛下は『苦しいだろうが我慢してくれ』と涙を流して申された
 自分としては、もはやこれ以上反対を申し上げることは出来ぬ
 それでも納得できぬのなら、まずはこの阿南を斬れ!!阿南を斬ってからやれ!!」

天皇のお言葉に打たれた阿南は、ポツダム宣言受諾をしないわけにはいかないと思ったのです。
そして、天皇の想いに応えるために戦争を継続しようと望む青年将校たちを命がけで止めようとしました。
すると・・・一人の将校が絶叫にも似た声で泣き始めました。
畑中健二少佐・・・33歳です。
その泣きわめくさまは、周りの者が怯えるほどだったといいます。
普段温厚な男でも絶叫するほど、無条件降伏は受け入れがたいものだったのです。

8月14日午後1時・・・
首相官邸において前大臣出席のもと閣議が行われました。
議題は3日間徹夜で作られた終戦の詔書の審議です。
どのような言葉で国民に終戦を継げるべきか・・・そしてその玉王放送についてです。
日本の敗戦を知れば、国民は激しく混乱する・・・
それを少しでも抑えるために、天皇の声で伝えることにしたのです。
生放送という案も出ましたが、天皇に東京・内幸町にある日本放送協会・東京放送会館まで足を運ばせたうえ、放送時間にマイクの前に立ってもらうのは余りにも恐れ多い・・・と、録音放送になりました。
そして終戦の詔書は、14日中に宮内省で録音されることになりました。
日本放送協会の会長に「録音班を連れて宮内省に出頭せよ」という命が下りました。

8月14日午後3時・・・
閣議を中座して陸軍省に戻った阿南大臣は、庁舎にいた全員を会議室に集め、御聖断に従って陸軍が無条件降伏を受け入れたことを報告しました。

「これは決定事項である
 如何なる背反も許さない」

と、強く言い聞かせこう告げます。

「諸官においては、もはや玉砕は任務を解決する道ではない
 泥を食い野に臥しても、最後まで皇国護持のため、奮闘せられたい」

しかし、そこに大臣室で号泣していた畑中健二少佐の姿はありませんでした。
畑中は、無条件降伏をどうしても受け入れられず、同志である椎崎二郎中佐と共に、戦争を継続するためのクーデターを計画していたのです。

それは・・・
皇居を占拠せよ!!玉音放送の阻止!!でした。

日本政府は、日本が劣勢という情報を一切流していませんでした。
畑中たちにすれば、この段階で玉音放送を阻止すれば、国民が敗戦を知ることはないため、戦争を継続できると考えたのです。
彼等エリート軍人は最前線で戦った経験もないし、負け戦の現状も知りませんでした。
神国日本が負けるはずがないと考えていました。
敗戦間際の東京周辺の軍事施設には、戦闘機や戦車などがまだ多く残されていました。
絶対に負けないと思っていたのです。

現在の東京国立近代美術館工芸館・・・現在重要文化財に指定されているこの場所は、現在の近衛師団司令部の庁舎でした。
近衛師団とは、天皇と皇居を護る陸軍の精鋭部隊です。
畑中健二少佐は陸軍省勤務でどの隊にも配属されていなかったので、戦況をあまり把握できていませんでした。

8月14日午後2時・・・
畑中少佐は椎崎中佐と共に近衛第一師団参謀の古賀秀正少佐と面会・・・戦争継続の正当性を訴え、クーデターの下工作を依頼します。

8月14日午後3時・・・
近衛師団の司令部を後にした畑中はしい開かれ、日比谷にある東部軍管区司令部に向かいます。
東日本を統括する東部軍にもクーデター協力の依頼にやってきたのです。
しかし、司令官室に入るなり、田中静壱大将は畑中を一喝します。

「帰れ!!」

畑中は顔面蒼白となり・・・一礼して逃げるように帰ります。
東部軍は、関東一帯を統括している実働部隊でした。
各地の戦況をよく理解していたのです。
日本の悲惨な戦況をよく知る田中司令官は、やみくもに戦争を継続を叫ぶ畑中に腹を立てたのだと思われます。
終戦を決めた日本・・・それに強硬に反対する青年将校たち・・・
しかし、そんな軍部の状況を一般家庭は知る由もなく・・・。

配給が乏しい・・・いつまで続くのか・・・??
みな、必死に耐えて生きていました。
必ず日本が勝つと信じて・・・!!

8月14日午後9時・・・
ラジオのニュース番組がこう告げます。

「明日15日正午に、重大なラジオ放送があります。
 国民は皆、謹んで聞くように・・・」

この時、国民のだれもがこの放送が何なのか・・・知る由もありませんでした。

8月14日午後10時30分・・・
ラジオから玉音放送の予告が出た1時間半後・・・。

クーデターを目論む畑中、椎崎は陸軍の先輩将校である井田中佐のもとを訪ねています。
畑中は就寝中の井田を無理やり起こし、クーデターの下工作が進んでいることを説明!!
近衛師団全体を動かすために、近衛第一師団長の森師団長の同意が欲しいと訴えました。
畑中の真剣なまなざしに心打たれた井田は、
「ダメなときは本当に諦めるのだな」
と、念を押し、畑中が頷くと覚悟を決めます。
「やれるだけやってみよう」

8月14日午後11時・・・
首相官邸で続けられていた閣議がようやく終わり、終戦の詔書の文案が完成。
鈴木内閣の閣僚が署名し、天皇の裁可を受けました。
続けてアメリカなどの連合国に、中立国であるスイスを通じてポツダム宣言の受諾を通告。
対外的な日本の敗戦が、この時決まりました。

そして・・・11時30分・・・
宮内省の2階にある御政務室で、宮内大臣や天皇の側近である侍従長の立会いのもと、終戦の詔書の録音が始まりました。
マイクの前に立った天皇は
「声はどの程度でよろしいか」
と、お聞きになり、「普通で結構です」と答えると、静かに朗読をはじめました。

昭和天皇の肉声・玉音が公式に録音されたのは、この時が初めてでした。
朗読は一回およそ5分、天皇の希望もあって、二回行われました。
二組の録音盤に別々に録音されました。
出来上がった玉音版は、日本放送協会の担当者によって、丸い缶の中に納められ蓋が空かないように木綿の袋に入れられました。
天皇が皇居の防空施設に帰られたのは、日付の変わった頃だったといいます。
玉音放送まで12時間・・・

同じころ、国民たちも眠れぬ夜を送っていました。
マリアナ基地を飛び立った250機のB29が、爆音を響かせ、上空を飛んでいたからです。
すでに、無条件降伏を伝えているはずでしたが・・・最前線の戦場にはまだ届いていなかったのでしょうか?
秋田県秋田市・・・死者250人以上
群馬県伊勢崎市・・・死者40人
神奈川県小田原市・・・死者12人・・・
埼玉県熊谷市では1万8000発もの爆弾が投下され、市街地の殆どが焦土と化し、およそ250人の尊い命が失われました。
あと半日・・・あと半日で戦争が終わったというのに・・・!!

8月15日午前0時・・・
この時、近衛師団司令部を訪れていた陸軍将校・畑中、椎崎、井田の三人は、いら立ちを募らせていました。
クーデター実行のために近衛兵を動かしてもらおうと森師団長を訪れていたものの、先客がいたために1時間以上待たされていたのです。
ようやく部屋に通されたのは、午前0時30分頃でした。
畑中は、別件があってその場を離れていたので、説得は井田が行うことに・・・。
既に軍服を脱ぎくつろいでいた森師団長は、
「陛下のご意思に反する行動は許さぬ」と、反対したものの・・・汗をびっしょりかきながら戦争継続の正当性を訴える井田に心打たれたのか、
「諸君の意図は十分理解した
 率直に言って感服した
 今、直ちに明治神宮の神前に額づき 最後の決断を授かろうと思う」
井田は戦後この時のことを手記に残しています。
「この言葉を聞いたときほど、嬉しかったことはなかった」

更に井田は、森師団長から自分の右腕である参謀長にも意見を聞くようにといわれ退出・・・
そこへ畑中が戻ってきました。
この時、午前1時30分・・・師団長室へ・・・
「ところが、それから10分も経ったであろうか
 突如として師団長室が騒がしくなったような気がした」
そして・・・何事かと井田が師団長室に戻ると、拳銃を握りしめた畑中が、顔面蒼白で出てきました。
「時間がなくてやりました
 仕方なかったんです」
井田が師団長室に飛び込むと・・・すでにこと切れた師団長が無残にも横たわっていました。

畑中少佐はどうして森師団長を殺害してしまったのでしょうか??
畑中は、森師団長が嘘をついていると感じたようです。
森師団長が逃げるのではないか・・・??と、判断したようです。
近衛師団の協力が遅ければ、クーデターは失敗すると考えていました。
一刻でも早く近衛師団を動かすため、協力する気のない森師団長を見限ったのです。

しかし、森師団長の命令がなければ近衛兵たちは動きません。
そこで、畑中たちは大胆な手に出ます。
森師団長の机から印鑑を取り出すと、予め作っていた偽の命令書に押印!!
この偽の師団長命令を各連隊に発令したのです。
そこにはこう書かれていました。

”皇居と放送局を占拠せよ”

8月15日午前2時・・・
師団長命令が偽物と知る由もない近衛兵は、すぐに動き始めました。
皇居のすべての門を封鎖、日本放送協会東京放送会館に一中隊を送って占拠。

近衛兵たちは、玉音版が保管されている宮内省を占拠、玉音版を探し始めます。
しかし、玉音盤はどこにもありません。
宮内省の職員や侍従を脅してみても、みな、知らないと答えるばかり・・・結局見つけられませんでした。
玉音盤は、どうして見つからなかったのでしょうか?
天皇による終戦の詔書が録音され、玉音盤が完成したのち、包装までどこで保管するべきか検討されました。宮内省側は「放送局が預かるべき」、日本放送協会は「持ち帰るのが畏れ多い」と・・・結局、天皇の常に傍にいる侍従が・・・となり、中堅侍従の徳川義寛侍従が預かることに・・・。
気軽に預かった徳川侍従は、小さな金庫にしまい・・・大胆にもその金庫をいつも仕事をしている事務室の戸棚の上に、無造作に置いておいたというのです。
徳川侍従は、玉音盤のありかを誰にも話さず、近衛兵に捕まった際にも決して口を割りませんでした。
また、宮内大臣たち要人を宮内省の地下にある隠し部屋に匿ったことも功を奏しました。
さらに・・・自分の事務室の入り口に「女官寝室」という張り紙をしました。
玉音盤を託された徳川侍従が保管場所を誰にも話さず、機転を利かせたために兵隊たちから守ることができたのです。

玉音盤を見つけられなければ放送を阻止することができない・・・!!
クーデターは失敗です。
井田は畑中を説得します。
「畑中・・・もういかんよ・・・。
 夜が明ける前に兵を引け・・・
 そして、我々だけで責任を取ろう。
 世の人々は、真夏の夜の夢を見たと笑って済ませてくれるだろう」
しかし、井田の言葉は畑中の心を変えることはできませんでした。
畑中は近衛兵たちに占拠されている放送会館に向かったのです。

8月15日午前4時30分・・・
東京放送会館に乗り込んだ畑中は、報道部室に押し入ると、そこにいた副部長に拳銃を押しつけて・・・
「5時からのニュースに自分を出せ!!」と、迫ります。
しかし、副部長はこれを拒否!!
「全国同時放送なので、各局と連絡を取ってからでないと出来ない」
すると畑中は、ニューススタジオに入り、現行の下読みをしていた館野守男アナウンサーに銃口を向けます。
自分に放送させろという畑中の左手には、クーデターの主旨を綴った原稿がありました。

そんなもの・・・放送させてなるものか・・・

そう思った館野アナウンサーは、とっさにこんな嘘をつきます。

「現在、警戒警報が発令中です。
 警報発令中に放送するには、東部軍の許可が必要です。」

東部軍の田中司令官には昨日、一喝されたばかり・・・
畑中は、銃口を降ろすしかありませんでした。
ちょうど同じころ、近衛兵に占拠されていた皇居に、一人の男が駆けつけていました。
田中静壱司令官その人です。
田中は近衛師団の連隊長たちに、命令が偽物であったことを告げ、即時解散するように命令します。

失敗に終わったクーデター・・・畑中たちの選んだ終戦とは・・・??

8月15日午前5時30分・・・
国民に敗戦を告げる運命の日の朝・・・玉音法を撃を前に一人の男が自ら命を絶ちました。
陸軍大臣・阿南惟幾大将です。
その遺書には・・・
「一死を以て 大罪を謝し奉る」
とありました。

その命を以て、敗戦の責任を取ったのです。

8月15日午前7時21分・・・
突然ラジオから玉音放送の予告アナウンスが・・・このアナウンスは、午前5時に行うはずでした。
しかし、畑中少佐の襲撃の影響で、大幅に遅れたのです。

8月15日午前10時・・・
宮内省から二組の玉音盤が運び出されました。
一組は、警視庁の車で東京放送会館の会長室へ、もう一つは宮内省の車で第一生命館の地下にある予備スタジオへ。
不測の事態を想定し、万全の体制が取られていました。

8月15日午前11時・・・
当日は戦闘機がバンバン飛んで・・・しかし、11時になるとパタッと音がやみました。
玉音放送が行われる東京放送会館は、すでに多くの人が集まっていました。
まもなく訪れる終戦の時を前に得も言われぬ緊張感の中・・・

「終戦の放送などさせてたまるか!!
 全員、たたっ切ってやる!!」

と、憲兵が乱入!!
畑中とは関係のない憲兵が、スタジオに乱入しようとします。
すぐに取り押さえられ事なきを得ましたが、スタジオ内は騒然となりました。

8月15日午前11時・・・あと30分!!
皇居前に広がる芝生広場では、クーデターに失敗した畑中と椎崎がいました。
玉音放送を止められなかった・・・日本が負けた・・・その悔しさと共に、自ら命を絶ちました。

8月15日午前11時59分・・・
この時の東京の天気は晴れ・・・気温はすでに29度を超えていました。
最新の戦況を伝えていたラジオから正午の時報が・・・

ただ今より、重大なる放送があります
全国の聴視者の皆様、ご起立願います。

君が代が流れた後、天皇の声が聞こえてきました。

朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト
帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 
非常ノ措置ヲ以テ
時局ヲ収拾セムト欲シ
茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告ク(ぐ)

人々の心の中は、戦争が終わった安堵感と、焼け野原になったこの日本で、これからどう生きていくのか?という不安が入り乱れていました。

3年8か月に及ん太平洋戦争が終わりました。
300万人以上の日本人が亡くなったと推定されています。
戦争孤児は12万人・・・戦争が終わっても、国民の生きるための戦いは終わったわけではありませんでした。
人間を凶器に変える戦争・・・一度始まってしまうと簡単には止めることができません。
そして戦後70年を過ぎ、戦争を体験した人々の高齢化が進み、体験談を聞く機会も減ってきています。
だからこそ、もっと耳を傾け、私たちが後世に伝えて行かなければなりません。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

君は玉音放送を聞いたか ラジオと戦争 [ 秋山久 ]

価格:1,728円
(2019/8/17 09:54時点)
感想(0件)

昭和天皇玉音放送 CDブック [ 昭和天皇 ]

価格:2,160円
(2019/8/17 09:54時点)
感想(0件)

聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎 (PHP文庫) [ 半藤一利 ]

価格:884円
(2018/8/24 12:22時点)
感想(2件)



昭和20年8月15日正午・・・
国民に太平洋戦争が終わったことが告げられました。

戦後、昭和天皇は、戦争終結についてこう述べています。
「朕と肝胆相照照らした鈴木であったからこそ、このことができたのだ。」
鈴木とは・・・齢78にして、内閣総理大臣となり終戦へと導いた鈴木貫太郎です。
しかし、戦争終結に至る日々は、まさに命がけでした。

昭和20年、太平洋戦争は最終局面を迎えていました。
3月10日には東京大空襲、大阪、名古屋でも、大規模な空襲が続き、主要都市が次々と焼き尽くされていきました。
4月1日には、アメリカ軍が沖縄本島上陸。
およそ3か月にわたる沖縄戦では、民間人10万人を含む約20万人が命を落としました。
4月5日、戦局を打開できないまま、小磯内閣が総辞職、鈴木貫太郎に組閣の大命が下ります。
天皇の諮問機関である枢密院の議長を務めていた鈴木は、この時78歳。
どうして老齢な鈴木に大命が下ったのでしょうか?

現在の大阪府堺市で生まれた鈴木は、海軍兵学校を卒業後、軍人としての人生を送って行きます。
海軍の要職を歴任し、大将13年には連合艦隊司令長官に・・・!!
この頃、昭和天皇と出会ったことが重要でした。
鈴木が指揮する海軍の大演習を昭和天皇が視察され、見事な統率力を持った鈴木を信頼していました。
その後、昭和4年、62歳の時に天皇の側近中の側近・侍従長になります。
この時、昭和天皇は27歳。
鈴木は侍従長として7年・・・天皇の傍で篤い信頼が得ていきます。
また、鈴木の妻であるたかは、昭和天皇が4歳の頃から宮中で10年もの間、宮中で養育係を務めており、天皇は・・・
「たかは、本当に朕の母親と同じように親しくした」としています。
鈴木夫妻は、昭和天皇にとって信頼のおける特別な存在でした。
この経歴こそが、老齢にもかかわらず、総理大臣への要請の理由の一つでした。
しかし、鈴木は・・・
「鈴木は、一介の武人です。
 鈴木は軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日まで自分のモットーにしてまいりました」
さらに、高齢や、耳が遠い事を理由に断ります。
すると天皇は笑みを浮かべこう言いました。
「鈴木の心境もよくわかる
 しかし この国家危急の重大時期に際して もう他に人はいない
 頼むからどうか気持ちを曲げて承知してもらいたい」

この言葉に、鈴木は覚悟を決めました。
そして、1945年4月7日鈴木内閣発足
組閣後、大宮御所に伺った鈴木に皇太后は涙ながらにこう言いました。
「若い陛下が国運荒廃の帰路に立って日夜御苦悩遊ばされている
 鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである
 どうか陛下の親代わりとなって 陛下の御軫念を払拭してほしい」

天皇の心のうちとは・・・??
それは、本土決戦を前に何とかして戦争を収拾したいということでした。
ところが、鈴木は親任式の談話でこう語ります。
「今は国民一億のすべてが国体防衛の御楯たるべき時であります
 私はもとより老躯を国民諸君の最前列に埋める覚悟で国政の処理に当たります
 諸君もまた 私の屍を踏み越えて 起つの勇猛心をもって 新たなる戦力を発揚し 共に宸襟を安んじ奉られることを 希求してやみません」

なんと、国民に戦争継続、徹底抗戦の発言をしたのです。
これには理由がありました。
後に自伝で述べています。
「国民よ私の屍を越えて行け」の真意は・・・
第一は、今の戦争は勝ち目がないと予測していたので、大命が下った以上、機を見て終戦に導くそうなれば殺されるということ。
第二は自分の命を国に捧げるという忠誠の意味です。

この時、鈴木貫太郎が目指していたのは、終戦に他なりませんでした。
しかし、どうして戦争継続、本土決戦を言ったのか??
それは、陸軍によるクーデターを恐れていたからです。
鈴木貫太郎と陸軍というと、2.26事件があります。
当時、侍従長だった鈴木は、陸軍青年将校たちのターゲットとされ、4発の銃弾を浴びせられ、瀕死の重傷を負います。
「止めだけは、どうか待ってください・・・!!」
夫人の嘆願によって、鈴木は一命をとりとめていました。
あの時のようなクーデターを起こさせてはならない・・・!!

鈴木は、戦争を終わらせるために、組閣にも慎重になります。
終戦を望んでいた鈴木は、和平派の東郷茂徳外務大臣、海軍での信頼の厚い米内光政海軍大臣らを入閣させます。
そして・・・本土決戦を叫ぶ陸軍の暴発を危惧していた鈴木は、陸軍大臣に阿南惟幾を希望、陸軍に打診します。
すると、陸軍側から3つの条件が出されます。
①戦争の遂行
②陸海軍の一体化
③本土決戦必勝のため陸軍の策を実行すること
でした。

これを飲まなければ、阿南を入閣することができない・・・。
とりあえず、鈴木は「まことに結構なり」と、戦争継続を前提とする条件を飲んでしまいました。
なぜなら、阿南惟幾を陸軍大臣にしたかったのです。
鈴木が侍従長だったころ、阿南も侍従武官として天皇の傍にいたことにあり、その働きぶりや人となりを身近で見ていました。
この人なら、決して裏切らない・・・!!
鈴木の信頼で来る男でした。
阿南なら、戦争終結を受け入れてくれるのでは・・・??
陸軍のクーデターを抑え込んでくれるのでは・・・??
と思っていたのかもしれません。

こうして動き出した鈴木内閣でしたが、日本の戦況は厳しいものでした。
ヨーロッパ戦線では、日本と三国同盟関係にあったイタリア・ドイツが連合国軍に降伏します。
日本は、ただ一国で、世界を相手に戦うこととなったのです。
そんな中、B29爆撃機が東京に襲来、火の手は折からの強風にあおられて皇居である宮城内にまで及び、宮殿の一部など、多くが焼失しました。

「この時の総理は、当時進行していた和平への道を一日も早く達成しなければならないと 胸底深く誓ったに違いありません。」by書記官長・迫水久常

1945年6月22日、戦争に関する決定機関である最高戦争指導会議を開くべく、鈴木貫太郎総理を始め東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長・・・6人のメンバーが集められました。
そして、昭和天皇の言葉が伝えられます。
「戦争の終結についても この際 従来の観念にとらわれることなく 速やかに具体的研究を遂げ これの実現に努力するよう望む」

戦争終結を望む意思を天皇が明確に表明したことを受け、鈴木は中立条約を結んでいたソ連の仲介によるアメリカ、イギリスとの和平交渉に動き出します。
しかし、ソ連に仲介を打診するも、話しは一向に進みません。
そんな中、7月26日・・・
アメリカを中心とする連合国側が日本に降伏を求めてきました。
ポツダム宣言です。
連合国側は、降伏に伴い・・・日本の占領、日本軍の武装解除、戦犯犯罪人の処罰を求めてきました。
そして、これ以外の日本国の選択は、迅速かつ完全な壊滅しかないと・・・!!

7月27日朝、政府は会議を開き、これを検討します。
その結果、ソ連からの回答を待つことに・・・。
暫くは、ポツダム宣言に対する意思表示を明確にはしないという方針をとります。
そんな政府の動きを新聞はこう表現します。
7月28日朝「政府は黙殺!!」
これが日本の運命を大きく変えます。

この黙殺という言葉が、「無視する」「拒絶する」と解釈され、世界に伝わってしまいました。
連合国側は、日本は降伏する意思はないと判断!!
8月6日、広島に原爆投下!!
およそ14万人の命が失われました。
更に8日、日ソ中立条約を結んでいたソ連が無視し、宣戦布告。
翌日、日本が支配していた満州国に侵入してきました。
突然のソ連参戦に首脳たちは愕然とします。
ソ連を仲介役とする和平の道が完全に絶たれてしまいました。

この危機に、9日10時30分に最高戦争指導会議を開きます。
議題はただ一つ・・・ポツダム宣言を受諾するか否か!!でした。
受諾に前向きな会議ではありましたが、日本側の条件を付けるかどうかで終戦派と戦争継続派で意見が分かれます。

終戦派の東郷外務大臣の条件は”国体護持”一つ!!
天皇制の維持のみを提示しようとするものです。
これに反対したのは阿南惟幾。
受諾するのは国体護持は当然で、他の条件も付けるというものでした。
阿南の条件は・・・
①占領は出来るだけ小範囲に、しかも短期間であること。
②日本人自らで武装解除
③戦犯処理は日本人の手に任せること
でした。

この時、鈴木は一言も発しませんでした。
戦争の始末をつけるために・・・!!
会議は紛糾する中、長崎に原爆投下!!
それでも意見はまとまらず、決定は臨時閣議に持ち込まれることとなりました。
しかし、そこでも結論は出ず・・・。
鈴木は最後の手段を使わざるを得なくなります。
鈴木は夜の9時まで続いた閣議を休憩にすると、天皇の下へ向かいました。
そして、天皇隣席の下、御前会議を願い出るのです。
天皇はこれを承諾。
こうして、8月10日午前0時3分、御前における最高戦争指導会議が始まりました。
議論は相変らず紛糾し、平行線をたどります。
すると午前2時ごろ・・・それまで黙っていた鈴木が立ち上がり口を開きます。
「議論を尽くしましたが、決定に至らず
 しかも事態は一刻の猶予も許しません
 誠に異例で恐れ多いことながら、聖断を拝して会議の結論と致したく存じます。」
なんと鈴木は、天皇に決めてもらうという聖断という異例の決断をしたのです。

大日本帝国憲法において、天皇は政府の決定事項に対して裁可を与える存在・・・
天皇に政治的責任を負わせないために、天皇自身が政治的意思決定をすることはありませんでした。
それにもかかわらず、ポツダム宣言を受諾するか否かの重要な決断を、天皇に仰いだのです。

沈黙を守り、議論を聞いていた天皇は、鈴木に促される形で話し出しました。
「本土決戦、本土決戦というけれど・・・
 いつも計画と実行とは伴わない
 之でどうして戦争に勝つことができるか
 もちろん 忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など 其等の者は忠誠を尽くした人々で それを思ふと実に忍び難いものがある
 しかし 今日は忍び難きを忍ばねばならに時と思ふ
 自分は涙をのんで原案(外務大臣案)に賛成する」

この聖断により、国体護持という条件だけを付けてポツダム宣言を受諾することが決定しました。

連合国側にその旨を伝えます。
回答が来たのは8月12日のことでした。
しかし、連合国側の文面に、政府内が再び紛糾します。
かかれていた内容は・・・??
”天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官のsubject toに置かるるものとする”
このsubject to の解釈で意見が分かれました。
外務省は、「制限の下に置かれる」・・・終戦へ導こうとしましたが・・・。
陸軍は「隷属する」という意味で、天皇の尊厳を冒涜すると主張し、国体の維持は貫けないとして本土決戦を主張します。
「これでは外と戦争をしながら、内戦状態にもなりかねない・・・!!」by鈴木貫太郎
そこで、8月14日、再び御前会議を開きます。
全員一致の形での閣議決定を取りたかった鈴木・・・どうすればいい・・・??
内閣閣僚全員に向かって天皇の御聖断をうかがっていただく形に・・・。
しかし、ここでも、阿南は終戦に強く反対します。
本土決戦を主張!!
鈴木は再び天皇に聖断を仰ぎます。
すると・・・

「朕の考えはこの前申したことに変わりはない
 これ以上 戦争を続けることは無理だと考える
 この際 先方の申し入れを受諾してよろしいと考える」
 自分は如何になろうとも 万民の命を助けたい 
 国民に呼びかけるのが良ければ、朕はいつでもマイクの前も立つ」

涙をぬぐいながらのお言葉でした。

そして鈴木は言います。

「我々の力が足りないばかりに
 陛下には何度も御聖断をわずらわし 大変申し訳ございません
 臣下としてこれ以上の罪はありません 
 只今陛下のお言葉をうけたまわり 日本の進むべき道がはっきりしました
 この上は 陛下の御心を体にして 日本の再建に励みたいと決意しております」

会議の出席者たちは涙をこらえきれませんでした。
そして同じく8月14日午後11時に「終戦の詔書」が発せられることとなりました。
祖の御前会議で聖断によりポツダム宣言受諾が決まった後、徹底抗戦を訴え続けてきた阿南陸軍大臣に陛下は慰みの言葉をかけます。
「阿南 お前の気持ちはよくわかっている 
 しかし 朕には国体を護れる自信がある」
阿南は陸軍省へ戻りました。
若い将校たちは、「どうして徹底抗戦を訴えていたのに戦争終結を受け入れたのか?}と怒りの表情で訴えてきました。
これに対し、「聖断が下ったのである!!不服の者は自分の屍を越えて行け!!」
聖断と聞き、将校たちも引き下がらずを得ませんでした。

この日の夜遅く、阿南は鈴木総理の下を訪れます。
「終戦の義が起こりまして以来、総理には大変ご迷惑をおかけしたと思います。
 私の真意はただ一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、この点、どうぞご了解くださいますように。」
そこには、阿南なりの考えがありました。
もし、戦いを続けるのなら辞職して、内閣を瓦解させればよかったのです。
阿南を鈴木のことをよく理解していて、戦争終結を考えていました。
ただ、陸軍に背かれないように・・・中心となる将校を誤魔化して、欺いてでも戦争を完結する気持ちだったのです。
阿南は、終戦の妨げとなる陸軍の暴発を阻止する為に、徹底抗戦を主張する態度をとり続けていました。
阿南を陸軍大臣に任じた鈴木の想いが伝わっていたのです。
鈴木はこの時、阿南に言葉をかけています。
「あなたの想いはよくわかっております。
 しかし、阿南さん、皇室は必ず御安泰ですよ。
 私は、日本の前途に対しては決して悲観しておりません。」
一礼して静かに去っていく阿南を見送った鈴木は、
「阿南君はお別れを言いに来たのだな・・・。」

午後11時過ぎ、玉音放送の録音が行われていました。
そんな中、陸軍で不穏な動きが・・・。
戦争継続を掲げる一部将校がクーデターを計画。
終戦を告げる玉音放送を阻止すべく宮城を占拠。
玉音版を奪うために、宮内省内を探し回るのです。
襲撃は深夜零時すぎ・・・録音を終え、昭和天皇が帰った後でした。
臨時侍従室の金庫に入れてあり、小さな金庫の前には、雑多な書類が積んであるだけでした。
彼等は、玉音版を見つけることができず、結局クーデターに失敗。
このクーデターは、鈴木総理に身にも起こります。
8月15日午前4時過ぎ・・・陸軍大尉に率いられた兵士たちが鈴木貫太郎邸を襲撃、放火します。
鈴木は襲撃の恐れがあるとの情報を得ていたので、間一髪、逃げることができました。
丁度その頃・・・陛下の放送を拝聴するに忍びないと、陸軍大臣阿南惟幾が自決!!

遺書にはこうありました。
”一死を以て大罪を謝し奉る”と。
陸軍の責任者として、その罪は我が死をもってして償う・・・!!

終戦を告げる玉音放送は、8月15日正午からラジオで全国に放送されることとなりました。
前日の14日の午後9時、15日の午前7時21分に放送を聞くようにアナウンス、新聞も号外で告知しました。
8月15日正午、朝から太陽が照り付ける中・・・
終戦の詔書が流れます。
日本の敗戦を伝えた昭和天皇の5分間の肉声・・・。
しかし、この時、玉音放送を理解できた人は少なかったのです。
ラジオの雑音が多くて聞こえず、文語体なので格調が高すぎて理解できなかったようです。
それにもかかわらず、首を垂れ涙しました。
それまで昭和天皇は現人神で、肉声を聞いた人はいませんでした。
ラジオで直接聞けた高揚感・・・直接国民に語り掛けてくれている・・・というだけで感極まったといいます。

内容は・・・
①国体の護持
②国民への慰労と慰霊
③軍部に対する牽制
④天皇は国民と共にあるという決意
でした。

玉音放送・・・堪え難きを耐え 忍び難きを偲び・・・の堪え難きをの後に一瞬の沈黙があります。
その沈黙に、国民と一緒にやっていくという・・・堪え難きを耐えて遺書にやっていこうという昭和天皇の想いがこもっています。
昭和天皇の二度の聖断、そして、終戦へと導いた男たちの命がけの行動が戦争を終わらせたのです。
玉音放送が無事済んだ8月15日午後2時・・・最後の閣議が開かれ、全閣僚の辞表が取りまとめられ、鈴木はそれを天皇に奉呈します。
天皇は・・・「苦労をかけた」と労いました。
僅か4か月の鈴木内閣・・・苦難と激動の日々でした。

鈴木貫太郎は死の間際こんな言葉を残しています。
”永遠の平和 永遠の平和”と。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾/角田房子【1000円以上送料無料】

価格:1,188円
(2018/8/24 12:23時点)
感想(0件)

日本のいちばん長い日【Blu-ray】 [ 役所広司 ]

価格:4,212円
(2018/8/24 12:24時点)
感想(0件)

東郷茂徳 日本を危機から救った外相 (人物文庫) [ 阿部牧郎 ]

価格:842円
(2017/8/21 01:00時点)
感想(0件)


あ~、”暑い夏”ですね・・・今回は、昭和の選択です。

平成27年に一般公開紗沙汰「皇居地下防空壕」。
平成20年8月10日、日本はここで大きな決断をしました。
「ポツダム宣言受諾の決断」です。
それは、あまりにも十十五犠牲の上の決断でした。
軍民合わせて20万人を越える死者を出した沖縄戦・・・広島、長崎に落とされた原子爆弾、9月まで続いたソ連軍の対日参戦・・・
どうして日本はもっと早く終戦を決められなかったのでしょうか?

早期降伏を阻んだのは、アメリカの条件だった無条件降伏。
敗戦後の国の形を完全に勝者にゆだねると受け取られたのです。
無条件降伏にあらざる和平・・・という懸命の努力をしていました。
起草者は東郷茂徳・・・終戦外交の中心となった外務大臣でした。
東郷の下した決断の裏には・・・??

昭和20年4月1日、アメリカ軍はついに沖縄本島への上陸を開始しました。
戦局が日増しに悪化する中、4月7日に発足した鈴木貫太郎内閣・・・
外務大臣は東郷茂徳・・・開戦時の外相として、戦争を止められなかったことを悔いての入閣でした。
組閣から2週間後の4月22日、新外相東郷に陸軍からある相談が持ち掛けられました。

「ソ連が対日参戦しないように外交を強化していただきたい。」

その頃、満州からは、ソ連軍増強の知らせが続々と入っていました。
本土決戦を想定し、兵力を日本国内に移動させつつあった陸軍にとって、中立国・ソ連の参戦は、断じて避けなければなりませんでした。
この申し出に東郷は・・・「軍部の希望を利用して、急速和平に導くことに決意した。」とあります。
すでに敗色濃厚なものの、和平には多くの困難が・・・
最大のハードルが、アメリカの無条件降伏です。

昭和18年1月、カサブランカ会談でルーズベルト大統領が提唱したもので、日本にとっては軍の解体や政治経済、天皇制という国体にまで連合国の意志を強要される可能性がありました。
米英との交渉をほのめかすだけで、軍の反発が・・・
2.26事件のようなクーデターにもつながりかねない・・・??
そんな状況下での対ソ交渉要請を、東郷は突破口ととらえていたのです。
5月11日、統合により時局収拾への新しい枠組みが・・・
最高戦争指導会議構成員会議・・・軍の圧力を防ぐために、参加メンバーは・・・
首相・鈴木貫太郎、外相・東郷茂徳、海軍大臣・米内光正、陸軍大臣・阿南惟幾、参謀総長・梅津美治郎、軍令部総長・及川古志郎でした。
極秘のうちに討議が開かれました。
戦争終結が、初めて国のTOPの間で共有されました。

6月3日、駐日ソ連大使マリクへの接触を開始した東郷・・・
しかし、ソ連の返事は一向に煮え切りません。
マリクはクレムリンから訓令を受け取っていました。
「この会談の内容を、モスクワに報告するだけに止めること。
 ただし、電報ではなく、船便を使うように。」

すでにこの年の2月、ヤルタ会談にて米ソの間にソ連対日参戦の密約がなされていました。
その準備が整うまでの時間稼ぎをしようとしていたのです。
東郷も、事態を楽観していたわけではなく、
「ソ連からは、七、八分色よい返事はあるまい・・・
 ソ連以外のルートも考えねばならぬ。」と思っていたようです。

海軍少将・高木惣吉・・・米内光正海軍大臣の元、独自に終戦に関する研究に着手していました。
昭和20年3月には・・・アメリカに降伏することは、我国の資本社会主義機構の維持には有利だが、敵の軍門に下る形となり、国民的感情に忍び難い・・・と書いています。
ソ連とは、米英に対する利害は多いため接近はたやすいが、共産主義に晒され社会が不安定化する・・・
終戦から5か月も前に、高木は、米英に降伏した場合と、ソ連に仲介を頼んだ場合を緻密に考えていたのです。

第二次ぜ回大戦が終わった後の世界は、アメリカとソ連の二大勢力になる・・・それを予測し、アメリカのみへの降伏ではなく、ソ連もあっての東アジアの将来を考えていたようです。
二つの国が東アジアでせめぎあう状況で、日本は上手く戦後の復活が出来るのか・・・??
と、考えていたようです。
東郷は、高木の研究内容を高く評価し、その後の終戦外交に反映させていったようです。

ところが・・・ヨーロッパの戦況は、東郷たちの思いよりも大きく動いていました。
5月8日、ドイツ無条件降伏・・・6月には米英ソ仏による分割占領が行われていました。
ソ連大使マリクを介した日本の交渉は、遅々として進まず・・・
そんな中、東郷をさらに追いつめる状況が・・・
ベルリン近郊のポツダムで、米英ソの首脳会談が行われる・・・??
ソ連の参戦など、日本に対する決断がなされる公算が高い・・・その前に、和平の意志を伝えることが急務でした。
7月10日、東郷は高木と会見・・・
近衛特使派遣計画・・・近衛文麿を特使としてソ連に派遣する・・・??
そこには東郷の別の思惑もありました。
形の上ではソ連との交渉であるものの、一転対米交渉にも代えられるようにしていたようです。
しかし・・・すでに7月7日、アメリカ代表団はポツダムに向けて出発。。。
7月12日、東郷は最後のカードを切ります。
モスクワ大使館に緊急電報を・・・!!
「ソ側に対し、戦争終結に関する大御心を伝えておくことが適当。。。」
当時の日本では、天皇陛下の意志を持ち出すことは最後・・・それ以上のことはない。。。
天皇陛下の意志を明確に書いて、その意思を体現する為に近衛が行く。。。
東郷和平工作の最高峰でした。
しかし、モスクワ対財ソ連大使・佐藤尚武によると・・・ソ連の対応は冷ややかなものでした。
ソ連代表団は、既にポツダムに出発しようとしている・・・
出発前に回答することは、事実上不可能・・・。
最早、会談前の交渉は不可能なのか・・・??東郷、絶対絶命・・・!!

昭和20年7月17日ドイツ・ポツダムで米英ソの首脳による会談・・・。
病死したルーズベルトに代わり、アメリカ代表となったトルーマンは、ルーズベルトを引き継ぎ「対日無条件降伏案」をチャーチル、スターリンに示しました。
7月20日、モスクワ発緊急電報が、東郷に重要な決断を迫ります。
「このままではアメリカの本土決戦という最悪の事態が待っている・・・
 国民すべてが戦死を遂げても、国家を救うことはできない・・・7000万の民草が枯れてしまえば、陛下おひとりの御安泰があり得るだろうか・・・??」
佐藤は、もはや対米交渉を打ち切り、米英に無条件降伏し、皇室の存続を図るのみと主張しました。
しかし、東郷はまだあきらめず・・・翌21日の電報では・・・

「対ソ交渉の目的は、無条件降伏にあらざる和平を得るためのものなのだ。
 我々は、その大御心が米英側に徹底するよう極力努力する必要がある。」by東郷

これら日本の電文を逐一傍受していたアメリカは、対日交渉の判断材料としていました。
”天皇の心からの戦争終結の意志・・・”
これらがアメリカにどう映ったのか・・・??

7月27日午前5時・・・アメリカの短波放送が、日本に対して重大な放送を流し始めました。
ポツダム宣言・・・13条からなる日本への降伏勧告です。
報告を受けた東郷は、すぐさま外務省へと向かい、幹部と共に宣言の検討に入ります。
宣言は、日本国に対し戦争終結の機会を与えることを謳い、拒否すれば、日本の国土は完全に破壊されると通告していました。
対ソ交渉に進展が見られない中これを受けるのか??東郷・・・??

第5条以降には・・・
軍国主義の駆逐、指定地域の占領、戦後の日本の領土などが連ねられており、無条件降伏の条件が書かれていました。
どうしてトルーマンは、無条件降伏から後退したのでしょう・・・??
最大の要因は、5万人近くの死傷者を出した沖縄戦にありました。
これ以上損害を出さず、戦争を終結させることはトルーマンにとって至上命題となっていました。
ヤルタ密約通りソ連が対日参戦すれば、早期に集結可能だが、それは戦後東アジアにソ連の勢力拡大というデメリットもはらんでいました。
ポツダム宣言はトルーマンにとっての妥協の産物だったのです。


しかし、武装解除、戦争犯罪人の処分を連合国が行うというのは一方的で問題がある・・・??
これでは軍は、あくまで本土決戦に固執するのは火を見るより明らか・・・
それに、どうして宣言にソ連が名を連ねていないのか・・・??
米国主導での降伏を強いられるのか・・・??
ソ連との交渉の余地は・・・??

ポツダム宣言の即時受諾か、ソ連との交渉継続か・・・??

7月27日午前11時・・・東郷、ポツダム宣言について昭和天皇に説明。

「これを拒否するような意思表示をすれば、重大な結果が起きるでしょう。
 慎重に扱ったうえで、ソ連の返答を待つことにしたいと存じます。」

東郷は、対ソ交渉継続を選んだのです。
直後に開かれた厚生委員会議では、東郷の予想通り、軍部はポツダム宣言に強く反発、拒否を示します。
しかし、鈴木と東郷の必死の説得によって宣言を保留し、対ソ交渉で事態の打開を図ることにしました。

しかし・・・28日の新聞には・・・
”政府はこの宣言を黙殺、聖戦をあくまで完遂する!!”と書かれています。
この新聞発表によって、局面が大きく動きます。
8月6日午前8時15分・・・アメリカは広島に原爆投下!!
そして、8月9日未明・・・150万を越えるソ連軍が国境を越えて満州になだれ込みました。
報告を受けた日本政府は、その日・・・8月9日の午後11時50分、御前会議を招集します。
そして・・・8月20日午前2時30分・・・昭和天皇の聖断が下りました。

日本政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するその要求を含包し居らざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾すると回答したのです。

日本の運命を決めたポツダム宣言受諾。
東郷にはソ連参戦によって、アメリカの譲歩を引き出そうとしていたようで・・・
8月12日、日本の降伏受諾を受けたアメリカからの回答「バーンズ回答」には、東郷か渇望していた一文が・・・
「最終的な日本国の政府の形態は、日本国民の自由に表明する遺志により、決定せらるべきものとす。」
日本への譲歩を嫌ったトルーマンによって、ポツダム宣言に記載されなかった条項・・・
ここに東郷は、天皇制を認めるアメリカの意志を受け取ったのです。
降伏受諾を、天皇、軍部にも、説得できる一文でした。

8月14日、ポツダム宣言の最終的な受諾を通告しました。
戦後、アメリカ主導の資本主義体制の下で、国家を再建するという基礎は固まり、国体も守られました。
ところが・・・統合の予想もしなかった事態が・・・
ソ連は、日本の降伏通告後も戦争を継続したのです。
戦争の終結は9月5日。。。満州、朝鮮半島北部、北方四島を占領したのちです。
この間、日本の戦死者は、軍・民間人を合わせて22万人と言われています。

戦後の極東軍事裁判・・・東京裁判において東郷は、20年の有罪判決を受けます。
戦争犯罪人として収監されていた巣鴨プリズン・・・後に、「時代の一面」としてまとめられた手記は、過酷な獄中生活の中で執筆されたものです。
ソ連のしたたかさを見抜けなかったことについて東郷は・・・「迂闊」という言葉で表現しています。

敗戦から5年が経過した昭和25年7月23日、東郷は病で死去・・・享年67歳でした。

↓ランキング参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

「ポツダム宣言」を読んだことがありますか? [ 山田侑平 ]

価格:972円
(2017/8/21 01:01時点)
感想(0件)

敗者の日本史(20) ポツダム宣言と軍国日本 [ 関幸彦 ]

価格:2,808円
(2017/8/21 01:01時点)
感想(1件)

このページのトップヘ