日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:マシュー・ペリー

大型船が頻繁に行きかう東京湾の玄関口・浦賀水道・・・
幕末、ここで日本を揺るがす大事件が起こります。
1853年6月3日、突然4隻の大きな船が現れたのです。
黒船来航です。
当時、和船の総トン数が100tだったのに対し、黒船(蒸気船)の総トン数は2500t・・・25倍の大きさです。
この黒船の来航をきっかけに、およそ260年続いた江戸幕府が崩壊へと進むこととなります。
日本の歴史を大きく変えた出来事でした。
どうしてアメリカは極東の小さな島にやってきたのでしょうか?
幕末の日本はどう映ったのでしょうか?

太平の 眠りをさます 上喜撰
       たった四杯で 夜も眠れず

”上喜撰”という緑茶と、蒸気船をかけています。
そしてたった四隻で幕府は不安で眠れない様子を揶揄した歌です。

アメリカ側でもそんな記録が残されています。
マシュー・ペリーは、アメリカから4隻の船で浦賀にやってきました。
蒸気船のサスケハナ号とミシシッピー号、そして2隻の帆船です。
艦隊は全部で63門の大砲を装備、臨戦態勢を布きながらを進め、午後5時ごろ浦賀沖に錨を下ろしました。
初めてみる日本・・・ペリーの第一印象は・・・

「投錨の直前に天候は晴れ上がり、富士山の高い頂がますますくっきりと見え、内陸部に広がる群峰よりはるかに高くそびえていた」

ペリーにとっても霊峰富士は強烈な印象だったのです。
ペリーが遠路はるばるやってきた目的は二つありました。
①アジア諸国と貿易をする拠点を作る
②捕鯨船の補給基地を作る
この時ペリーにはもう一つ重要な任務がありました。
アメリカ大統領の親書(国書)を日本に渡す任務です。
鎖国を続けてきた日本に、どうやってアメリカの要求をのませるのか?
ペリーは事前の日本の情報から日本人の特性を掴み、幕府との交渉方針を決めていました。

「排他的に振る舞い、気難しい人物を演じれば演じるほど、形式と礼儀を重んじる日本の人々は、こちらの目的を尊重するようになるだろう」

ペリーが浦賀に停泊すると、すぐに浦賀奉行所の船が近づいてきました。
そして役人のひとりがいきなり横断幕を広げたのです。
そこには当時ヨーロッパの公用語だったフランス語で「艦隊は撤退すべし!」と書かれていました。
もちろんアメリカ側も意味は理解していましたが、毅然とした態度をとっていたいペリーはこれを無視!!
しかし、幕府役人はなかなか引き下がりません。
ひとまず役人を乗船させ、部下のコンティ大尉を通してこう告げます。

「われわれはアメリカ合衆国大統領から、幕府将軍に宛てた親書をしかるべき役職の人物に受け取ってもらいたい」

ペリーは幕府の役職にある人物と会うことが交渉の近道だと考えたのです。
しかし幕府役人は・・・

「異国との交渉は、長崎でしか行えない
 親書は長崎で渡してもらいたい」

別の異国船が来航した際、この言葉で体よく追い返した例がありました。
今回も、帰ってもらおうとしたのですが・・・それを聞いたペリーは激怒!!
幕府役人を追い払ってしまったのです。
そしてここから全く開国する気のない幕府と、何としても国交を結びたいアメリカとの長い戦いが始まるのです。

黒船を見ようとたくさんの人々が浦賀に詰めかけます。
中には見物人相手に商売をする人も・・・
望遠鏡の貸し出し、船での黒船見学ツアーなどです。
ペリーの似顔絵も販売されました。

この時繁盛したのが武具師・・・
江戸幕府始まって以来、武具を使うことがなかったので、多くの旗本、御家人たちは持っていなかったのです。一斉に武具を買いに走りました。

ペリーはいきなりやってきたのではなく・・・幕府は事前にペリーが来航することを知っていました。
諸外国との交易・交流を制限する鎖国政策をとっていた幕府は、取引場所を長崎の出島に限定し、相手はオランダと清国とのみ交易をおこなっていました。
そして、その見返りとして彼等から欧米列強に関する情報を得ていたのです。
当初は開国を求めてやってくる他の欧米列強に対し武力での排除を行っていましたが・・・
1842年清国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、不平等条約の締結を強要されたという情報を得ると、大きく方針を変換・・・
1842年薪水給与令を出し、外国船に燃料や水を与え、穏便に帰ってもらうように指示を出していました。
アヘン戦争のころから、欧米列強の武力に脅威を感じ始めています。
”ペリー来航”の情報も、お蘭だから事前に知らされていました。

「アメリカ合衆国が艦隊を派遣し、交易をおこなうために日本へ渡来するとの事、司令官は当初オーリックというものであったが、ペリーなる人物に交代したようだ」

この風説書がオランダより幕府の手に渡ったのが1852年7月でした。
ペリーがアメリカを出発したのが10月でした。
ペリーがアメリカを発つ3か月も前に、オランダを通じてアメリカが通商を求めてやってくることを掴んでいたのです。
しかし、幕府は何ら手を打つことができませんでした。
当時の将軍は12代将軍徳川家慶・・・病気がちだったために老中首座・阿部正弘が政務を行っていました。
当然阿部は、オランダからの報告を聞いていましたが、この年・・・1852年5月22日江戸城西ノ丸御殿が焼失・・・。
再建工事に莫大な費用が掛かるために、軍費にお金を割くことが難しかったのです。
この頃、外国の情勢に詳しい薩摩の島津斉彬と会談した阿部は、こんな事を漏らしています。

「もしアメリカが来ても、なるだけ穏便に済ませ、長崎へ行ってもらうしかない」

そしてペリーが実際にやってきました。
阿部の指示通り、長崎へ行ってもらうようにしますが・・・拒否されてしまいます。
さらにコンティ大尉はこう脅してきました。

「浦賀でしかるべき役人が大統領の親書を受け取らなければ、我々は武装して江戸城へ向かう」

対応した浦賀奉行所・香山栄左衛門は・・・
「船の中は、緊迫した状況であり、アメリカ側は皆殺気立っていた」

幕府はようやくアメリカが本気だということに気付いたのかもしれません。
戦争は避けなければ・・・ようやく幕府は親書を受け取ることに・・・。

1853年6月8日・久里浜・・・6日目・・・アメリカ大統領の親書の受け渡しが行われました。
幕府は江戸湾の警備を行っていた彦根藩・川越藩などの藩兵を5000人配置!!
対してアメリカ側は武装した水兵300人!!
幕府の代表としてペリーを出迎えたのは、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道・・・
この時の様子をペリーは・・・
「戸田、井戸の両候は、初めから最後まで銅像のように動かず、一切言葉を発しなかった」
この日はあくまで親書を受け取るだけ・・・
余計なことを言わないように釘を刺されていたのかもしれません。
双方無言の中、13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書が日本側に渡されました。
そこには・・・
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給
それを渡したペリーは・・・
「来年の4月か5月にふたたび来日するので、その時に親書に対する返答を聞かせてもらいたい」
そう言い残し、アメリカがアジアの拠点としていた清国の広東へと向かったのです。
どうしてペリーはその場で交渉しなかったのでしょうか?

幕府はなるべく時間稼ぎをし、はぐらかし、アメリカを諦めさせようと考えていました。
幕府のペースに巻き込まれることを避け、効率よく時間をおいての交渉で決着しようとしたのです。

あっけなくペリーは去りましたが、阿部正弘は再びやってくるペリーにどう対応するのか?頭を悩ませていました。
すると阿部は、驚きの行動に出ます。
親書を一般に公開し、大名から庶民に至るまで広く意見を募ったのです。
時代が大きく動いていました。
全国から約800通の建白書が寄せられました。
一番多かった意見は、「アメリカの要求を拒絶し打ち払う」という案でした。
200年以上守ってきた伝統を崩したくない・・・
しかし、積極的に開国し、アメリカとの貿易で得た利益で軍備を強化するという意見もありました。

1635年、3代将軍家光の時に、「大船建造の禁」によって幕府も軍艦を所有できていませんでした。
阿部は、諸大名に対し大型船の建造を許可し、オランダへ軍艦を発注しています。
しかし、ペリーがやってくるまで9か月!!
ペリーが再来航するまでに強化できた軍備は、品川沖に台場を建設するぐらいでした。

幕府はアメリカン関する情報収集にも乗り出します。
土佐藩士の中浜万次郎を江戸に呼び、旗本格として登用しました。
ジョン万次郎で知られる中浜は、漁船で漂流後、アメリカで10年間暮らし、ようやく帰国したばかりでした。
万次郎は・・・
「アメリカはかなり前から日本と親睦を持ちたがっていました。
 メキシコとの海上戦でわずか4時間ほどでアメリカ側が勝利をおさめた」
などと、開国を進言!!
更に幕府は長崎奉行を通じてオランダ商館の館長クルティウスにも助言を求めます。
「アメリカの要望を一切無視したならば、戦争に発展しかねない
 試しに一港だけ開いてみたらどうか」
多方面から様々な意見を聴取した幕府老中・阿部正弘でしたが、いかにアメリカの要求をはねのけることが難しいか・・・痛感するばかりでした。

1854年1月16日・・・ペリーが再び来航!!
幕府は焦ります。
ペリーの予告では、4月か5月との事だったからです。
そこにはペリーの思惑がありました。
前回の来航直後、12代将軍徳川家慶が亡くなっていました。
そこで、その混乱に乗じれば、用意に条約締結に持ち込めるのでは?と考えたからです。
前回の来航後、ロシアも日本に開国を迫っていたので、他の列強国を出し抜いて、有利な条約を締結したいとも考えていました。
アメリカが要求したのは三つ・・・。
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給

日米両国の国益をかけた戦いの前に、水面下で駆け引きが始まりました。
この時ペリーは、長い航海で持病のリウマチが悪化・・・体調を崩していました。
それを聞き付けた幕府は、お見舞い品として大根800本、人参1500本、鶏卵1000個などを届けています。
対してアメリカ側も、幕府役人らを船に招待・・・
西欧料理や酒を出してもてなしました。
アメリカは船に生きた鶏、羊、イタリア人シェフまで乗せていました。
万端の準備をしていたペリー・・・。
食事でもてなすことで、友好的なムードを作り出そうとしたのです。

こうして当日を迎えましたが・・・両者が激突します!!
アメリカ代表のペリーに対峙したのは江戸幕府応接掛筆頭・林大学頭!!
冒頭、林は3つの条件のうち、難破した船員の救助と保護は承諾します。
そして石炭、水、食料の補給も承諾!!
しかし、両国間で通商を結ぶのは、国の決まりで出来ないと断固拒否!!
この時幕府側は、全てを拒否するのは難しいと考え、受け入れを最小限に止めるという方針に転換していたのです。
しかし、それを聞いたペリーは態度を豹変!!

「貴国は難破船の救助を行わないうえ、海岸に近づこうとしただけで発砲してくる
 さらに、漂着した外国人を罪人同様に投獄している
 貴国が国政を改めないならば、我々は戦争も辞さない覚悟である」

林を揺さぶろうと過去の非人道的な行為をあげて責めます。
しかし、林は動じません。

「外国船に発砲していたのは一昔前の話であり、漂着民に対してもオランダを通して長崎の出島から返還している」と、理路整然と反論!!
さらに通商に関しては・・・
「自国の産物で十分に事足りている」
と、きっぱり拒否したのです。
すると驚いたことに、ペリーは通商の要求をあっさりと取り下げてしまいました。
どうして・・・??
自分達の要求をすべて飲ませようとしたものの林大学頭らが手ごわいのを見て、方針を転換したのです。
全部を処理しなくても、国交樹立を最優先して段階的に通商を認めさせようとしたのです。
こうして日米の間で、ひとまず合意に至りました。
大筋では合意したものの、交渉はまだ終わりません。

日本にやってきたペリー・・・
日本のはじめて目にする日本の風俗や文化に驚きます。
ある時町の銭湯へ・・・驚愕!!
男女とも入り乱れて混浴!!
「日本人は道徳心に優れているのに、その道徳心に疑いを感じざるを得ない」

さらに既婚女性のお歯黒にびっくり仰天!!
「妻がこんな歯をしていたら、夫はものも言わず逃げ出してしまうだろう」

一方で日本人に器用さに感心します。
町で売られていた浮世絵のち密さとユーモアに感嘆!!
焼き物の磁器や漆器の優美な形と洗練されたデザインに魅せられます。

日本人がひとたび欧米諸国の技能を知ったならば、近い将来強力なライバルとなるだろう

日米の交渉は大詰めを迎えていました。
アメリカの蒸気船の燃料である石炭と水、食料の補給などをどの港で行うのか??
幕府は、当面は長崎で行い5年後に別の港を追加することを提案します。
それに対しペリーは・・・

「本来の趣旨を理解されていないようだ」

アメリカが日本に目をつけた主な理由は、太平洋航路の中継地点としたいからです。
太平洋に面していない長崎は、その狙いから外れているので、納得できるものではありませんでした。
ペリーはここでこんな申し出をします。
「大統領の命により運んできた土産の品々を贈呈したい」
献上品は、全部で140種類に及びました。
なかでも幕府の一港が目を見張ったのが、1/4モデルの蒸気機関車と、モールス電信機でした。
アメリカ側はそれらを実演してみせ、日本側を大いに驚かせます。

「日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるのに、画集国からもたらされた発明品の数々は恰好の機会を得た」

幕府も負けじと贈り物をします。
米と酒・・・ここで50人もの力士を導入し、1俵60キロもある米俵を片手に二俵づつ、計4俵担いで運ばせて・・・力士の怪力ぶりを見せつけます。
力士たちの巨体と怪力に、ペリーたちは圧倒されます。

「偉大な筋肉は、ヘラクレスのよう彫像のごとく、隆々と盛り上がっていた」

すると予期せぬ事態が・・・傍らでこのパフォーマンスを見ていた水兵が、力士に勝負を挑んだのです。
この思わぬ日米対決に、周囲は大興奮!!
しかし、勝負は一瞬でつきました。
そして力士は水兵に向かってこう言い放ったのです。

「強さの秘密は、日本の美味い米と美味い酒じゃ」

日本が大いに面目を施した瞬間でした。

北太平洋で操業を行う捕鯨船の補給基地に数カ所、清国と結ぶ太平洋航路の補給地として会談を行っていた横浜周辺を含め他に数カ所開港することを要求します。
幕府は、当面は長崎で、5年後にもう一つ追加することで押し切りたいと考えていました。
アメリカの要求を飲めば、長崎で取引をしているオランダも同じ要求をしてくるに違いない・・・!!

しかし、ペリーは執拗に林に食い下がります。
音を上げた林は、「もはや自分の裁量では決められない」と江戸へ戻り、幕閣たちに伝えたのです。
すでにペリーが再来して1か月がたっていました。
長期にわたる交渉に疲れたのか、これ以上拒むことは不可能と感じたのか、結局幕府が折れ、「箱館・下田」を開港すると通知。
ペリーもそれを承諾し、ようやく合意に達したのです。

「この湾にきてわずか5週間・・・
 この国と、この国の人々から大きな信頼を勝ちうることができた」

そしてペリーは日本側に感謝の意を示すためにおよそ70人の幕府役人を招待し、豪華な料理、バンドの演奏にダンス・・・役人の中には酔っぱらってペリーと肩を組む者もいたほど和やかでした。
こうして締結された日米和親条約(1854年3月3日)でしたが、その中には今後日本が他国とこれ以上好条件で条約を締結した場合、その内容が自動的にもアメリカにも適用されるという・・・アメリカに最恵国待遇を与えたのです。

そして黒船の来航は、およそ260年続いた太平の世を揺り起こします。
尊王上運動を誘発し、明治維新へと繋がりました。
ペリー来航から14年後、江戸幕府はついに大政を奉還します。
もしペリーがやって来なかったら・・・??
明治になるのはもっと時間がかかったかもしれません。

日米交流の扉を開いたマシュー・ペリー・・・日米和親条約締結からわずか4年後、アメリカで63歳で死去・・・。
ペリーが日本から持ち帰ったものが、今もアメリカに残されています。
初代大統領ジョージ・ワシントンの功績をたたえるために建てられたワシントン記念塔・・・この一部に幕府からアメリカに送られた伊豆下田の石が使われています。
日本とアメリカの友好の証として・・・!!

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)

新品価格
¥1,469から
(2019/6/24 20:49時点)

開国の使者 ペリー遠征記 (角川文庫)

新品価格
¥734から
(2019/6/24 20:50時点)

逆説の日本史〈19〉幕末年代史編2―井伊直弼と尊王攘夷の謎

新品価格
¥1,728から
(2015/4/17 15:06時点)




1860年3月3日・・・江戸城桜田門外・・・
200年続いた鎖国政策を捨て、開国への道を開いた政治家が暗殺されました。
江戸幕府大老・井伊直弼です。

世界に覇権を広げていた西欧列強の時代・・・
日本の舵取りが井伊大老にゆだねられました。

異国船打ち払いを訴える大名達、異国人を忌み嫌う朝廷・・・
意見のまとまらない中・・・反対派に厳しい弾圧を加えていく井伊直弼。
赤鬼と恐れられた直弼、その知られざる姿とは・・・??

1853年6月3日・・・日本は激動の時代を迎えます。
江戸湾に4隻の黒船が来航・・・アメリカ東インド艦隊総司令長官マシュー・ペリーが日本に開国と通商を迫ってきました。
江戸は大混乱に陥ります。

幕府は諸大名を招集し、意見を求めました。
攘夷派130人に対し、開国派8人・・・攘夷派が圧倒的な中、”開国が日本を救う!!”と主張したのは、彦根藩主・井伊直弼でした。

その2か月後・・・直弼が幕府に出した意見書は斬新なものでした。
「別段存寄書下書」には・・・斬新な外交論が・・・
これからはジャカルタに船を送って交易すべきだ!!
軍備を整えて、海外に日本の力を海外に示せば、内外ともに充実し、皇国安躰となるでしょう。

直弼が目指していたのは、交易による軍備増強・・・富国強兵だったのです。
直弼の外交論の裏には、諸外国に対する豊富な知識がありました。
最新情報を手に入れていたのです。

彦根藩は、代々徳川に仕えてきた譜代大名の筆頭です。
幕府が危機に陥った時は、先陣を切って戦うことを誉としてきました。
直弼はその井伊家の14男に生まれ・・・一生日の当たることのない生活を覚悟していましたが・・・
嫡子が急死・・・ほかの者はみな養子に出されていたので、彦根35万石の藩主となったのでした。
直弼は、先代の遺産15万両をすべての家臣、領民に分け与え・・・凶作の年には救い米を1万俵を配るなど、領民を思いやる政治を行っていました。

遊学中の吉田松陰は井伊直弼のことを・・・
実に人君に相応しく、その徳の高さに感涙にむせんだと書き残しています。

直弼は・・・幕府の中枢へ・・・!!
そこに立ちはだかったのは、水戸藩前藩主・海防参与の徳川斉昭でした。
異国船を打ち払うために、大砲を74門鋳造し、幕府に献上しました。
斉昭は絶えず、西欧の書物を取り寄せて研究していました。
異国船を打ち払い、鎖国を貫く・・・それが斉昭の基本姿勢でした。
尊王攘夷・・・天皇を尊び、異国の穢れを打ち払い、鎖国を貫く・・・この考え方は斉昭のもとから日本中へと広がっていきました。

開国か鎖国か?直弼と斉昭が対立します。

1854年1月16日・・・日本を離れていたペリーが軍艦7隻でやって来ました。
軍事的に優位なアメリカを排除することは、もはや不可能でした。

幕府は・・・日米和親条約を締結。
そのことで、斉昭は海防参与を辞任し・・・直弼と真っ向から対立することになるのです。

その頃・・・自らの戒名を定めた直弼・・・
直弼は菩提寺に戒名を納めて江戸に・・・攘夷派との戦いに命を懸けた出発でした。
1856年7月・・・アメリカ総領事ハリスが下田に来航します。
臨時の領事館を開き、通商条約の交渉に着手します。
おまけに・・・西欧列強の嵐がアジアに迫っていました。

1857年10月・・・ハリスが江戸城に乗り込んできました。通商条約の調印を求めて・・・!!
直弼たちは、通商条約締結は避けられないと判断しました。
しかし・・・条約締結を妨げているのは・・・攘夷の声が静まっていなかったのです。
外国掛の岩瀬忠震は・・・天皇の権威を借りて条約反対の勢力を削ごうとします。
天皇にはいつも事後報告でしたが、この時ばかりは先に許可を得ようと考えたのです。

1858年2月9日・・・幕府は孝明天皇に勅許を願い出ます。
半月後の2月23日・・・幕府にとっては思いがけない結果に・・・
もう一度諸大名と考え直してから願い出る様にとのことで・・・勅許が下りなかったのは初めてのことでした。

ここに来て・・・4月23日直弼大老に就任。。。
大老は将軍の補佐役で、幕府の最高位でした。
代々譜代大名の筆頭としての井伊家を汚すことはできない!!
再び斉昭と対峙することになります。

6月17日・・・ハリスは突然会談を求めてきました。
直弼は、岩瀬忠震を派遣します。
ハリスは東アジアの状況が急変し、日本に危機が迫っていると言いました。

英仏連合軍が清国との戦いに勝利、次の標的は日本と定めて動き出したというのです。
英仏は武力で屈辱的な条約を結ばせるに違いない!!
アメリカといい条件で条約を結んでおけば、同じ条件で結ばざるを得なくなる・・・というのです。
直弼に残された時間はありませんでした。

英仏に蹂躙されないためにも・・・!!

勅許をもらって調印するか?
でなければ内乱が起こる・・・!!
そうなれば、斉昭の説得はどうする??


勅許を待たない??
清国のように支配下に置かれてしまう・・・!!
天皇の意に背けば、幕府の威信はなくなってしまう・・・??

どちらからも圧力をかけられる直弼・・・どうする??

6月19日・・・日米修好通商条約は締結されました。
天皇の勅許をえないままの条約調印でした。

この事で・・・”開国の英傑”と呼ばれるようになった直弼。
しかし、「公用方秘録 木俣本」が発見されました。
最近見つかったこの本は、あまり知らされることはありませんでした。
そう、直弼を傷つけないためにも・・・。

従来の公用方秘録では、全て自分が責任をとる言っていますが・・・。
そんなことは言っていない・・・激しく動揺していたようです。
彦根では神さま扱いだった直弼・・・
この本は、表に出せないものだったのです。

岩瀬たちは、昌平坂学問所の出身で・・・この中では、ペリー来航以来、日本がどのような立場をとっていったらいいか?をたくさん議論していました。
つまり・・・岩瀬たちは、条約締結しかありえない!!と、腹をくくっていたのです。

その結果として・・・直弼は、条約締結しかありえない!!と思っていた官僚を、抑えることができなかったということなのです。

条約調印を知った斉昭ら攘夷派の大名たちは・・・6月24日、無断で江戸城に押しかけます。
大名たりとも、無断の登城は御法度です。
水戸の斉昭、尾張の慶勝、越前・松平慶永・・・激しく糾弾されます。

無視されてしまったことに、孝明天皇も激怒!!
怒りにかられた孝明天皇は、幕府の改革を求めました。
孝明天皇は、この無断調印に対して、公武合体し、国内を治めるよう・・・
幕府より先に、水戸藩に命を下したのです。
立場の無くなった幕府・・・

直弼は、反撃に出ます。
水戸藩による朝廷工作の証拠を探し始めました。
情け容赦ない探索と捕縛が繰り返されます。
これが、安政の大獄です。
直接斉昭が関与した証拠を掴みたい・・・!!
直弼の追及は、とどまることを知らず・・・
1年間で100人余りが刑を受け、8人が重罪の死罪となりました。
その半数が水戸藩士でした。
斉昭が朝廷と接触したという証拠は遂には見つからず・・・
幕府を批判したことを咎められ、永蟄居、これは終生にわたる謹慎だったのです。

直弼を名君と賞賛していた吉田松陰も・・・
斉昭との関わりは明らかにされないまま・・・しかし、幕府を強烈に批判し、老中暗殺を企てということで・・・刑に処せられたのです。
直弼に対する恨みは募るばかり・・・
水戸藩士たちが脱藩し・・・直弼暗殺計画が始まるのでした。
1860年3月3日・・・江戸城桜田門・・・季節外れの雪のなか・・・直弼は江戸城に向かっていました。
警備の侍・26人を伴っての登城でしたが・・・水戸浪士・薩摩藩士18人の襲撃・・・
わずか十数分の攻防で・・・直弼は凶刃に斃れたのでした。

その1年以上も前に・・・孝明天皇からは”叡慮氷解”がなされていました。
そう、孝明天皇は、無断調印を許してくれようとしていたのですが・・・そこには、”鎖国に戻しておく”という条件が付けられていたのです。
かえって混乱を招いてしまう・・・。

その事実は、直弼暗殺から2年・・・表に出ることはありませんでした。

しかし、将軍に仇名す者は自分が死のうが引き受ける・・・
たとえ殺されようとも・・・!!
それが、譜代大名・井伊家の務めだったのです。

通商条約調印の翌年、横浜に港が開き外国との交易が始まりました。
江戸の近くに港を置いて、利益を独占し、幕府の立て直しを図るのですが・・・
直弼の死から7年後・・・過熱した尊王上運動によって幕府は斃れるのです。

その後の日本は、直弼の描いたような交易による近代化を図っていくことになります。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

幕末・明治時代(日本史) ブログランキングへ

国難を背負って―幕末宰相 阿部正弘・堀田正睦・井伊直弼の軌跡

新品価格
¥2,160から
(2015/4/17 15:07時点)



埋木舎と井伊直弼 (淡海文庫)

新品価格
¥1,296から
(2015/4/17 15:07時点)





このページのトップヘ